よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く「尾道~今津宿(松永)」

2013-11-28 11:04:59 | 山陽道(西国街道)を歩く

11/22鞆の浦からバスで福山まで戻り福山から電車で尾道へ。尾道には12時前に到着。

街道の商店街を歩いていたら「カキフライランチ」の看板が・・・・ 広島と言えば牡蠣ですね。ここでお昼をすることにしました。

お腹もいっぱいになりまた歩き出します。

商店街の一角に「尾道バッチャ祭り」のポスターがありました。この祭りは11月3日に行われるのですが

この祭りの御神興が展示されていました。

   

商店街を過ぎると「防地口」の交差点に差し掛かります。街道はここから尾道商業高校の方に行くのですが防地口の先に

浄土寺」がありますのでそちらに向かいます。

浄土寺の入り口に「西郷四郎」の石碑が建っています。

  

西郷四郎は富田常雄の小説「姿三四郎」のモデルとして知られています。生まれは会津で会津藩家老「西郷頼母」の養子になりました。

嘉納治五郎が講道館を創設したころそれを助けて日本柔道を大成させました。小柄な体格でしたが特技「山嵐」の大業は天下無敵の

稱がありました。大正9年病気療養のため尾道に来てこの上の吉祥坊の方に仮寓し養生につとめていましたが大正11年12月

57歳で死去しました。

浄土寺は616年、聖徳太子の創建と伝えられるています。
足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。(尾道観光協会HPより)

       

       

再び防地口の交差点の街道に戻ります。しばらく歩くと左側に「正念寺」の看板が見えます。中に入っていくと、ここには延命水があります。

手ですくって一口口の中に入れてみます。これで10年ぐらい寿命が延びたかな?

    

 寺の横には「亀山八幡宮」があります。ここには行司軍配を刻んだ石碑が建っています。

正念寺の隣には巨大な鬼瓦がある「浄泉寺」があります。行ってみようと思いましたが、ずっと廻っていかねばならなかったので断念しました。

写真でもわかりますか?

          

 尾道は本当にお寺が多い町です。正念寺の反対側の久保小学校の所には、「西郷寺」があります。

他に今回行きませんでしたが「千光寺」もあります。

    

尾道東高の前の道を歩いているとだんだん上り坂になってきます。ここが「防地峠」。尾道バイパスのガードを潜ると法華経のお題目があります。

     

更にくねくねした道を登っていくと前方が工事中。仕方なく池の方から迂回していきます。

ここには「番所」というバス停があります。というと境界?

今来た道の方には「芸州藩」。道路を挟んで反対側には「福山藩」の境界の石碑が建っています。

    

案内板を読んでみますと

江戸時代ここ防地峠は芸州藩と福山藩の国境でした。当時の山陽道。東の方へは尾道からこの峠を越えて今津、神辺、井原、矢掛と続いていました。

国境ですから人と物の動きをここでチェックするための番所が峠を挟んで芸州藩と福山藩の両方にありました。

明治維新で国境はなくなり番所もどんどん姿を消してしまって今や全国で3棟だけしか残っていません。しかも現地にあって街道を見下ろせるそのままの条件で

残されているのはこの防地峠だけです。明治の廃藩置県で芸州藩と福山藩が併合され広島県が出来上がりました。

防地池を通り高速のガードを通ると「高須」に入ります。

       

 一里塚の先の高台に細い道を行くと「関の地蔵尊」があります。下りて行ったら「ちかみち」の石碑が・・・・・

この地蔵尊に行くための近道なんでしょうか?

街道脇の公園には今や盛りとばかりに「ピカサンサス」の実が真っ赤に実っています。「讃大松の碑」昔大きな松があったのでしょうか?漢文で書かれています。

更に先に進むと「高須八幡神社」があります。鳥居の横には「常夜灯」が建てられています。お宮に常夜灯?何かあまり釣り合いませんね。

調べてみますとこの八幡神社の下まで海だったそうです。   納得!

            

藤井川の真田橋を渡ると「福山市」に入ってきます。ここは「今津」 旧松永市(1966年に福山市と合併)です。

今津というと新しい港というイメージですが、周りをみても海らしいものがありません。1600年代には宿場町として栄えていましたからその以前が港町だったのでしょうか?

陰陽石神社を通ると「蓮華寺」があります。蓮華寺は、

 白鳳年間(七世紀)、今津地方の庄司である田盛庄司安邦の菩提寺として建立されたと伝えられる。

また、明治時代に入るまで、剣明神(つるぎみょうじん)の別当寺を務めていた。

寺伝によると、平安時代延暦二十三年(八〇四)弘法大師空海上人が遣唐使の一員として唐へ向かわれる途路、朝霧の中今津浦から見える山々が紀州の熊野三山に似ているところから、入唐留学の無魔成満を祈願され、今津の地に熊野三山を開山されたという。その一山が当山であり、熊野本宮の御本地仏、阿弥陀如来を本尊とする。
その六百年後、室町時代の応永十年(一四〇三)、当山中興の祖である尊慶阿闍梨は、大師開山六百年を記念して熊野三山を巡礼し、

熊野三所大権現を再勧請(さいかんじょう)している。

時代は下り、江戸時代には参勤交代の制定に伴い、山陽道今津宿の本陣は河本家、脇本陣は蓮華寺と定められ、その史跡「上段の間」が現存している。

宝暦三年(一七五三)に堂塔が焼失し、宝暦十三年には今津東坂旧墓地付近の丘より現在の地に移転。造営に際し、福山城主より多額の浄財の寄進を受ける。尚、本堂は類焼を免れ寛政六年(一七九四)に現在地に移転、再興された。

   

蓮華寺の先には「高諸神社」があります。

『福山史科』によると、白鳳5年、沼隈郡今津村の海岸に難破船が漂着した。乗人は3人で、言葉が通じない。村長の田盛が筆談すると、新羅国王だという。

田盛は彼を厚く遇し、朝廷にこれを報じた。
しかし、朝廷から返答のないまま、翌年に王が没し、前の山に葬った。
翌年、田盛の夢に王が現れ、自分は須佐之男命だと言った。そこで田盛は王を祀った。これが剣大明神(高諸神社)となった。

 

       

今津宿本陣」が設けられたのは慶長7年(1602)。尾道、神辺間の宿場町として戸数300戸、商家軒を連ねて賑わっていた。

本陣は代々庄屋の河本家によって世襲されてきた。

薬師寺は蓮華寺と共に弘法大師によって創建されました。蓮華寺が西方院に対し、この薬師寺は東方院と呼ばれました。

     

街道は本郷川を渡りすぐ左折します。このあたりに「今津一里塚」があるはずなんですが・・・・・・・わからず地図を眺めていると犬を連れて散歩されている方が教えてくれました。

この方は60代の頃、東海道を歩いて踏破されたということです。

松永は畳表に使うイ草の産地。街道沿いにはイ草組合がありました。九州では熊本・八代が有名ですね。

     

先に進みます。時間はもう4時近くなっています。今日は赤坂まで歩く予定でしたが時間的に見て無理ですので手前の「松永駅」までにします。

初冬の夕暮れは早いので少し急ぎ足になります。

松永駅の近くに「神村八幡神社」があります。先ほどの高須も八幡神社、何か八幡神社が多いですね。

駅に向かって歩いていると歩道に「下駄」のマークがついたブロックがあります。松永は履物の町でもあるのですね。

16:30JR松永駅に到着。

                  

16:53発の電車で今夜の宿福山に戻りました。

今日のGPSです。

 

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