なんとかなるもんだよZUYAさん! ( Hey, ZUYA. You Can Do It! ) 

『なんてこったいZUYAさん!!』をVersion Up.“崖っぷちブルーズマン”ZUYA(ずうや)の悲喜交々を綴る。

『板東俘虜収容所』...帰郷編その4

2020年03月03日 | 

ドイツ館横の山から降りてくる猿

 

こんばんはZUYAさんです

 

みなさん、『セレンディピティ』と言う言葉をご存じですか?

何かを探し求めている途中の過程で、別の何か素晴らしいものと出逢うことです。ZUYAさんは先日の大阪・徳島への旅の道中で、久々にそれを感じる体験をいたしました。大鳴門橋を堪能した後、道の駅に行こうと検索したら『第九の里』なる変わった名の道の駅を見つけて行ってみることに。そして出会ったのです~

 

『板東俘虜収容所』

ZUYAさん、ピーンと来まして、帰京後近くの図書館で板東俘虜収容所に関する本を借りて色々調べてみました。なかなかの良本でした

 

 

第一次世界大戦中、そして戦後に捕虜になったドイツ人約1,000人が、徳島県板東町(今の鳴門市)に収容された施設の名前です。会津藩主の血筋である松江収容所所長は捕虜らの自主活動を奨励し、とても友好的な状況で捕虜とは思えない国際交流をしたそうです。収容所内には商店街から畑、パン工房に至るまで“ドイツ村”と言っても過言ではないくらいのコミュニティーが形成されていたそうです

 

いくら所長が良い方だったとは言え、何故こんなことが可能だったのか。その最大の要因はいわゆる職業軍人は10%にも満たない数で、多くは民間からの志願兵だったのですね。彼らの職業は様々で機械職人、楽器職人、仕立職人等々様々な分野に及んでいたそうです。彼らは収容所周辺の住民ともパン作りや楽器指導と言った具合に交流を深め、とても捕虜とは思えないような生活を送っていたのですね

映画『大脱走』の中で収容所で過ごす連合軍の捕虜達の生活を思い出しました。彼らはドイツ軍の収容所にいましたが、ノビノビと見えたのはあながち(映画における)演出ではなかったのかもしれませんね~

中でも最も重要な板東俘虜収容所内での文化活動は、楽器好きの捕虜たちが結成した音楽隊。評判が著しく良く、ベートーベンの交響曲第九番が日本で初めて全曲演奏されたのも、この板東俘虜収容所だったそうです。凄くないですか、このエピソード~

写真は撮らなかったのだが、道の駅で買ったドイツ風のパン。あれは“風”ではなく、完全なる“ドイツ式”だったのでしょう(とても美味でした~)。今更ながら貴重な資料が数多く展示されているドイツ館の見学をしなかったのがとても悔やまれます。他にも当時の捕虜達が作ったドイツ橋など周辺にも魅力的な場所がたっぷり。当時の兵舎(バラッケ。英語ではバラックかな)は第二次世界大戦(太平洋戦争)後の引揚者たちに提供されたそうな。その中に地名でも分かるように元プロ野球選手のタレント・板東英二がいたそうな。その後兵舎は撤去されたが、一部が道の駅に使われていました

 

今回の旅は思い付きでの四国上陸でしたが、とても意義のあるものだった思います

 

Have A Good NIght,Folks!

 

 

 



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