A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

レスターケーニッヒが復帰を支えたもう一人の大物は・・・

2015-04-29 | MY FAVORITE ALBUM
Please Send Me Someone To Love / Phineas Newborn Jr.

誰でも一生の間、一度や二度は何らかの苦境に立つことがある。その時、頼りになる友がいるといないではその後の人生が大きく変る。

1968年アートペッパーが、長い療養の後、やっとバディーリッチのオーケストラに加わって復帰の第一歩を踏み出した矢先、胸の痛みで病院に担ぎ込まれた。その時、ペッパーがすぐに呼んだ名前はその後結婚するローリーと、コンテンポラリーレコードのオーナー、レスターケーニッヒであったという。

その時、直ちに手術が必要という状況であったが、保険に加入できず、手持ちのお金も無くすぐに手術を受けられなかったペッパーを救ったのはバディーリッチであった。
これで一命をとりとめたペッパーはその後無事心身ともに回復し、ケーニッヒの元で復帰アルバムを作ることになる。もしこの時に、誰か一人が欠けてもその後のペッパーの人生は大きく変ったかもしれない。

今の時代、すべてがお金優先になってしまった。物でも人でも使い物にならなくなるとすぐに捨てられる運命にある。昨今の業界事情には詳しくないが、金儲けを度外視してミュージシャンと信頼関係を築けているプロデューサーが果たして何人いるであろうか?特に、落ちぶれたミュージシャンをもう一度再起させる面倒を見続けられる人間が。ケーニッヒを始めとして、この時代のプロデューサーは、ジャズが好きで、ミュージシャンに惚れ込んでアルバム作りをしたプロデューサーが何人もいたように思う。

アートペッパーの復帰を支えたレスターケーニッヒは、もう一人大事なミュージシャンの復帰に手を貸している。自らのレーベルでもアルバムを出したピアノのフィニアスニューボーンJr.である。

ニューボーンは良く知られているように精神的な障害でプレーができなくなったという。天才肌で、テクニックも、表現力も、どれをとっても同時代のピアノの名手達と較べてもけっして引けを取らない。
他の多くのピアニストがバドパウエルの影響を受け右手中心のプレーをしたなかで、一人左手も重視するスタイルを引き継いでいた。だからといって、オールドスタイルをそのままという訳ではない。
本来であれば、ワンアンドオンリーのスタイルでもっと人気が出ても良かったはずだが、あまり脚光を浴びることはなかった。天才肌の人間というのは、どんな分野でもその時代には評価されず、後になって再評価されることが多いが、ニューボーンもそんな一人であったのだろう。

ダイナミックなプレーを聴くと、オスカーピーターソンのような堂々とした体格、そして風格を持ち合わせている印象を受けるが、実際には小柄な目立たたない風貌だったようだ。きっと性格的にも気が小さいタイプであったのだろう。そして、極端に潔癖症であったという。才能があるが故に評価されないということを、些細な事を気にして精神的に大きなプレッシャーを受けていたのかもしれない。

60年代に入って精神障害で療養を強いられる。地元に戻り半ば引退状態であったニューボーンに再びアルバム作りの場を用意したのがレスターケーニッヒであった。
1969年2月、久々にスタジオにメンバーの面々が集まった。ベースにはレイブラウン。そして、ドラムにはエルビンジョーンズ。
いつものエンジニア、ロイデュナンは都合がつかず、録音はケーニッヒ自身がやったそうだ。

特段何の打ち合わせも無く、ニューボーンのペースで録音は進んだという。大部分の曲は録り直しも無くtake1で終了、自然発生的な演奏であった。それができたのも、レイブラウンとエルビンを選んだケーニッヒの眼力と、それに応えた2人の力量のお蔭だ。2日間に渡った録音はアルバム2枚分になった。その中からとりあえずこのアルバムPlease Send Me Someone to Loveが発売され、残りの曲は後にHarlem Bluesで世に出た。

この録音の殆どがtake1で終えたという事は、あまり細かい事にはとらわれず、ニューボーンのピアノを中心に皆で思いの丈を出し合った演奏ということになる。どちらのアルバムがいいとか、どの曲がいいかは、あくまでも聴き手の主観でいいだろう。それよりこの2枚は2日間にわたるニューボーン復活のドキュメンタリーと考えるべきアルバムだと思う。何といっても、このアルバムの前後10年近くの間には他の演奏を聴く事はできないのだから。

その後もニューボーンの体調は一進一退を繰り返す。最後まで、ニューボーンを見守り、機会があるごとに演奏を再開することを促し、アドバイスしたのは、このセッションに参加したレイブラウンであった。そして5年近く経ってからのレコーディングにも付き合っている。ニューボーンが病気に苦しみながらも何度か復帰を試みられたのはレイブラウンのお蔭ということになる。

レイブラウンはピーターソンの元を離れてからは西海岸を拠点として、数多くのセッションやレコーディングに参加し、誰とでもオールマイティーな活躍をしてきた。引手数多で楽しくプレーをすることには何の不自由もなかった自分と、いつもきっかけを掴めず、せっかく掴んだきっかけをものにできずにいたニューボーンを比較すると、彼の事がいつも気に掛かっていたのだろう。

同じ天才でも2人の辿った道は大きく異なった。

1. Please Send Me Someone to Love         Percy Mayfield 5:05
2. Rough Ridin'   Ella Fitzgerald / Elvin Jones / William Tennyson 4:09
3. Come Sunday                Duke Ellington 4:52
4. Brentwood Blues            Phineas Newborn, Jr. 8:01
5. He's a Real Gone Guy             Nellie Lutcher 4:39
6. Black Coffee        Sonny Burke / Paul Francis Webster 7:03
7. Little Niles                  Randy Weston 4:20
8. Stay on It           Tadd Dameron / Dizzy Gillespie 5:05

Phineas Newborn, Jr. (p)
Ray Brown (b)
Elvin Jones (ds)

Produced & Recorded by Lester Koenig
Recorded at Contemporary Studio in Los Angeles on February 12, 13 1969

Please Send Me Someone to Love
クリエーター情報なし
Ojc
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ペッパーアダムスには珍しいジャズフェスティバルのステージでの演奏は・・・

2015-04-26 | PEPPER ADAMS
California Cooking / Pepper Adams

ローリンドアルメイダのアルバムで相方を務めたベースのボブ・マグナソン。コンコルドのアルバムには良く登場するが、図太いサウンドで自分の好きなタイプだ。
このマグナソンの経歴を辿ると、バディーリッチのオーケストラへの参加が本格的なデビューのようだ。1969年のアルバムBody & Soulにその名前があるサラボーンとミシェルルグランとのアルバムに参加したのがきっかけか、サラボーンのバックをしばらくの間務める。
その後はスタジオワークが多いが、その合間にgigもこなし、コンコルドのアルバムにも参加したことになる。ローリンドアルメイダのアルバム作りに参加したのが1983年4月であったが、その直前にニューヨークからの遠来の客の相手を務めることになった。

ペッパーアダムスのアルバムはとりあえずアダムスの研究家Gary Carnerが定めたリーダーアルバムは未発表を除く18枚はすべて紹介したが、他にもアダムスのリーダーアルバムといえるアルバムは何枚かある。このアルバムもその一枚だと思うのだが・・・。
このアルバムは、ロス在住のプロデューサー、妙中俊哉が設立したレーベルInterplayからリリースされたアルバム。地元コスタ・メサで開かれたオレンジカントリージャズフェスティバルでのライブ録音だ。

実は、このオレンジカントリージャズフェスティバルは、イギリス出身のプロデューサーフレッドノースワージーが手掛けたジャズティバル。ノースワージーといえば、幻のレーベルだったJazzline、Jazztimeの設立に関わった人物。その中にペッパーアダムスが参加したトロンボーンのウイリーウィルソンのアルバムがあった。このノースワージーはアダムスに惚れ込んだのか、後にフリーのプロデューサーとしてアダムスのリーダーアルバムEncounterの制作にも携わる。そのノースワージーがジャズフェスティバルをやるとなると、ペッパーアダムスにも協力依頼をするのは不思議ではないが・・・。

ニューヨークを拠点としていたアダムスにとっては遠いカリフォルニアでのイベントであったが、ノースワージーには恩義があるのか全面的な協力をすることになった。
その頃アダムスは、普段のクラブでの演奏以外に学生バンドへのゲスト出演や、それに合わせてクリニックをやることも多くなっていた。
この時もプレー以外にフェスティバルの一環として行われたハイスクールバンドのコンテストの審査委員を務めるなど、フェスティバルの開催中が大忙しであった。

メインイベントの日には、自分のグル―プの演奏に先立ち、地元のカレッジバンドにゲスト出演し、終わってからはビルベイリーのビッグバンドにもゲスト出演し、アダムスはステージ上でも出ずっぱりであった。

メインのアダムスのグループの演奏は、レギュラーグループを持っていなかったので、このフェスティバルに合わせて臨時編成グループで臨んだ。フェスティバルのステージ上での単なるジャムセッションというのをアダムスはあまり好まなかった。忙しい中ではあったが、選ばれたメンバーで一応リハーサルをして本番に臨んだ。

選ばれたメンバーは、まずトランペットにはテッドカーソン。アダムスとカーソンはニューヨークでも良く演奏する中であり、直前の一月にも一緒にプレーをしたばかりであった。たまたまこのカーソンもこのフェスティバルに参加していたのでアダムスのグループへも参加となった。

リズムセクションはノースワージーが手配をした。まず、同じイギリス出身ということもあったのか、ピアノには地元で活動していたビクターフェルドマンを選んだ。フェルドマンといえば50年代にはピアノとヴァイブで活躍し、一時はマイルスのバンドへの誘いもあったという。しかし、この誘いを断りロスに留まりスタジオワークが多くなると、ピアノよりパーカッションとして活動することが多くなっていた。フェルドマンにとっても久々のピアノプレー、それもストレートアヘッドなジャズのステージであった。アダムスとは初めてではないと思うが、少なくとも直近は一緒にプレーをする機会はなかったはずだ。

そしてベースにはボブ・マグナソンが加わった。
遠来の客の相手というのはこのペッパーアダムスであった。
ドラムのカールバーネットとのコンビとは、アダムスは、以前一緒にレコーディングをしたこともあるので、これも初顔合わせではなかった。

演奏した曲は、フェルドマンのピアノをフィーチャーしたLast Resort,テッドカーソンをフィーチャーしたサーマータイム、そしてアダムスのオリジナルを3曲、そしてジャムセッションの曲としてはカーソンと相談してオレオが選ばれ、ここではメンバー達の大ブローという構成になった。メンバー全員でちょうど一時間のステージの持ち時間に上手く収まるようなプログラム構成とはなった。

しかし、リハーサルを重ねる時間が無かったのか、フェスティバルという会場に合わせた選曲・構成に敢えてしたのかは定かでではないが、結局ペッパーアダムスクインテットいうには少しルーズなグループであった。全体のコンビネーションも今一つしっくり感が少ない。
いつものリーダーアルバムのレコーディングとは異なり、アダムスの自己主張は弱く、皆が勝手に演奏している雰囲気だ。
しかし、仕掛け人のノースワージーとしては、この演奏はぜひ残して置きたかったのだろう。ノースワージーが自ら録音を行い、妙中氏との連係プレーで晴れてアルバムとしてリリースされた。

時間がない中で、アダムスのカリフォルニアでの即席料理は素材が良かったのだが、残念ながら味わいのあるものに仕上がってはいない。それがアダムスのリーダーアルバムの一枚に加えられない理由かもしれない。

もう一つ注文を付ければ、ノースワージー自ら手掛けたライブの録音のレベルが今一つ。マグナソンのベースも大音量で響き渡るだけで良さもが出ていない。いつものコンコルドのフィルエドワーズが録音を手掛けていたら、もっと良い印象を受けるかもしれない。アルメイダのアルバムでの録音に好印象を持った直後だけに余計に落差を感じる。

1. Valse Celtique                 Pepper Adams 13:31
2. Summertime  George Gershwin / Ira Gershwin / DuBose Heyward 9:57
3. Last Resor                   Victor Feldman 7:01
4. Now in Our Lives                Pepper Adams 10:27
5. Oleo                      Sonny Rollins 9:33
6. Doctor Deep                 Pepper Adamms 11:29

Pepper Adams (bs)
Ted Curson (tp)
Victor Feldman (p)
Bob Magnusson (b)
Carl Burnette (ds)

Produced by Toshiya Taenaka
Engineer : Fred Norsworthy

Recorded live at Orange Country Jazz Festival. Costa Mesa, California on March 26, 1983




カリフォルニア・クッキン
クリエーター情報なし
アブソードミュージックジャパン
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誰とでも共演上手なアルメイダだが、自分が主役になると・・

2015-04-25 | CONCORD
Artistry In Rhythm / The Laurindo Almeida Trio

ローリンドアルメイダ、昔からからよく名前を聞いた。自分が主役になることは少なくても、有名ミュージシャンとの共演作は多い。そして何故か大事な所で必ず登場するような気がする。
サミーデイビスJr.とのアルバムも良かったしMJQとの共演アルバムも。そして、コンコルドレーベルではバドジャンクとのL.A.4で良く登場した。このバドシャンクとのコンビは1950年代に遡る。世の中でボサノバというと60年代になってからのスタンゲッツでブレークしたが、この2人のコンビの方が遥かに早くから早くから手掛けていた。

アルメイダというとアコースティックギターで、クラシックギターを基本とし、ブラジル出身故のリズム感が素晴らしくジャズフィーリングもある。この特徴があるので、誰とでも何でもできるのでここまで有名になったのか?他にも似たようなキャリアのミュージシャンはいそうだが、結果的にワンアンドオンリーのような気がする。

実は、アルメイダの経歴をあまり詳しくは知らなかった。自分の知識としてはアメリカに来てスタンケントンオーケストラに加わり・・・というのが出発点であったのだが、この時アルメイダは30歳を過ぎていた。ティーンネイジャーの頃からプロとして活動していたので、それまでのキャリアがアルメイダのスタイルを作ってきたようだ。

幼少の頃は母親から音楽教育を受けクラシックを身に付ける、ギターでプロになる事を決めると、海外との定期船で演奏する仕事を得てヨーロッパへ。そこで、ヨーロッパの文化と音楽、そしてジャンゴラインハルトをはじめとするヨーロッパのミュージシャンを知る。
地元に戻ってギターのDuoグループを作ったかと思えば、ラジオ局の仕事で作編曲の仕事も。

1947年に歌手のバックの演奏でアメリカに渡る。そこでまた新しい世界を知ることに。映画のサウンドトラックの仕事も手掛けハリウッドに定住する決心をし、そしてスタンケントンオーケストラにも参加する。その後はテレビや映画のスコアを800本以上手掛けたという。このキャリアがアルメイダの本質なのだ。

どうもジャズの世界から彼のギターとの接点だけを見ていたのでは、アルメイダの本来の才能と活動のほんの一部を見ていたに過ぎないということだ。才能がありすぎる人というのは、その人を知れば知るほど本当は何が一番得意なのかが分からなくなる。このようなキャリアの持ち主のギターなので結局何でもできるということになってしまうのだが。

コンコルドレーベルでは、L.A.4での演奏が中心、そしてチャーリーバードとの共演アルバムもある。そしてアルメイダ自身のアルバムというと、”Chamber Jazz”というリーダーアルバムがあった
コンコルドの方針としては、リーダーアルバムというのは「その本人が一番得意にしているスタイルで、好きなようにやらせるのが基本」なので、ここでの演奏がアルメイダ自身の本来のスタイルということになる。
このアルバムではクラシックの曲が中心。そして、ブラジルの曲も。編成はベースをバックに、ドラムも控えめな演奏であった。まさに、この「室内楽風」の演奏がアルメイダの本来のスタイルといっていいのだろう。

このアルバムは、アルメイダのリーダーアルバムの2作目、つまり前作チェンバージャズの続編となる。編成も同じトリオ、ベースのボブマグヌソンは同じ。ドラムは前作のジェフハミルトンからミルトホランドに替わっている。そして、クレジットをみるとホランドはドラムスではなくパーカッションになっている。たしかに通常のドラムセットを使っている部分もあるが、演奏はあくまでも脇役に徹して控えめだ。

曲は、前作のようなクラッシクではなく、スタンダード曲なども。そしてタイトル曲になっているのは、アルメイダが最初に加わったジャズバンド、スタンケントンの曲。前作がブラジル時代のレパートリーとすれば、今度はアメリカに来てからの曲も加わる。

しかし、クラシックに根差し、ブラジルのリズム感を持ったアルメイダのスタイルが変る訳ではない。アルメイダスタイルが一層際立って聴こえる。さらに加えると、コンコルドはアコースティックの楽器のナチュラルサウンドを実に綺麗にかつ迫力ある音で録音しているが、このアルバムも例外ではない。ギターとベースの迫力ある「生音」が楽しめる。

1. Chariots of Fire                     Vangelis 3:12
2. Astronauta (Samba da Pergunta)   Carlos Pingarilho / Marcos Vasconcellos 3:12
3. Andante (From Sonatina)                Pinganiho Marcos 3:26
4. The Amo                        Laurindo Almeida 2:43
5. Artistry in Rhythm                      Stan Kenton 5:37
6. Always on My Mind   Johnny Christopher / Mark James / Wayne Carson Thompson 2:42
7. Slaughter on Tenth Avenue                Richard Rodgers 3:26
8. Up Where We Belong   Will Jennings / Jack Nitzsche / Buffy Sainte-Marie 2:37
9. Almost a Farewell (Quase Um Adeus)             Luíz Eça 3:02
10. Liza (All the Clouds'll Roll Away)  George Gershwin / Ira Gershwin / Gus Kahn 2:50
11. Puka Shells in a Whirl                  Laurindo Almeida 4:58

Laurindo Almeida (g)
Bob Magnusson (b)
Milt Holland (per)

Produced by Carl Jefferson
Recording Engineer : Phil Edwards
Recorded at Coast Recorders, San Francisco, California, April 1983
Originally released on Concord CJ-238



Artistry in Rhythm
クリエーター情報なし
Concord Records
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熱心なファンのお蔭で、2人の出会いから時間が経たないうちに初アルバムが

2015-04-23 | MY FAVORITE ALBUM
Jazz Is Universal / Kenny Clarke & Francy Boland Big Band

リーダーアルバムBig Brassをアメリカに戻って録音したベニーベイリー、翌年再びクインシージョーンズのオーケストラに加わってヨーロッパに渡ると、そのまま西ドイツに留まり活動の拠点をヨーロッパに置いた。

当時、ヨーロッパで活動していたアメリカのジャズミュージシャンは多く、ドラムのケニークラークもその一人であった。MJQを辞めたのが1955年、その年と翌56年はフリータンスとして、特にSavoyレーベルではハウスドラマーとして数多くのアルバムを残している。
ところが、その56年にクラークはアメリカでの仕事を精算してフランスに渡る。まさにハードバップ全盛期を迎え、さあこれからというタイミングに何故?と思うのだが・・。

どうやらこれは、1946年に結婚したカーメンマクレーとの関係を清算したのが理由らしい。そこ頃まではマクレーはまだピアニストとしての仕事が多く、歌手としてはまだ第一人者にはなっていなかった。夫婦関係も、クラークの浮気で必ずしも上手くいっていなかったようだ。
55年になってやっとアルバム”By Special Request”が作られる。これを機に、彼女が歌手として独り立ちできる確信を得たのも、2人がそれぞれの道を行く決心をしたひとつのきっかけだったのだろう。

ヨーロッパに活動拠点を移したクラークはスタジオの仕事をする一方、ヨーロッパに来るアメリカのミュージシャンともよく共演していた。しかし、アメリカのジャズ界が活況を呈していた中、本来であればその中心的な役割を果たしていたはずだが、何となく主流から外れてしまっていた感じもする。

そのような活動をしていた1959年にベルギーのピアニストフランシーボランと共演する機会があった。意気投合した2人は、ボランが作編曲も得意としていたこともあり、2人のビッグバンドを持ちたいという夢を持つようになった。ちょうど時代も同じ、サドメルのサドジョーンズとメルルイスの出会いのようなものであった。
しかし、経済的な面でレギュラーバンドをすぐには持てないのはヨーロッパでもアメリカでも同じであった。そこで、まずはオクテットから活動を始めた。

サドメルと較べると素早い対応であったが、実は、この2人の活動をサポートした西ドイツのケルン出身のジジ・カンピという人物がいた。熱狂的なジャズマニアで、自らプロデュース、メンバー集めレコード制作、クラブ出演の段取りまでつけていたようだ。彼のお蔭でまずはオクテットの録音が完成する。

次はビッグバンドという事になったが、これはケルンに新しくできたジャズクラブ「ストーリー・クラブ」のこけら落としのために編成するという段取りをつけた。メンバーはアメリカそしてヨーロッパ中から集めたオールスターズ編成。しかし、いざ本番という時に、クラブ側の不手際で公演がキャンセルとなってしまった。
サドメルでの初の日本公演で同じようなトラブルがあったが、このカンピの偉い所は、せっかくミュージシャンがスケジュールを空けて集まってくれるのであれば、ライブは駄目でもレコーディングをしようということで、急遽予定を変更した。

公演の方はゲスト歌手も呼ぶプログラムになっていたが、アルバムの方はビッグバンドオンリー。作編曲を担当したボランも、であればということで急遽、曲やアレンジを書き直してレコーディングに臨むことになった。

そして、目出度くこのアルバムが誕生した訳だが、結果的にこのアルバムがクラーク・ボランビッグバンドの初アルバムという事になった。メンバーはアメリカを含む7か国から集まったオールスターメンバー。
トランペットセクションには、すでにヨーロッパではお馴染みのベニーベイリーも加わった。

このクラーク・ボランのビッグバンドはその後MPSレーベルで作られたアルバムが多い。重厚なオーケストラサウンドはMPSの録音のせいかと思っていた。それで、この初アルバムは少し厚みが足りないのかと思ったら、編成が標準編成よりメンバーが少ない。しかし、あの重戦車のような迫力に通じる音はしている。やかり、ボランのアレンジ、そしてクラークのドラミングに因る所も大きいのだろう。

サドメルよりも一足先にスタートしたこの2人のビッグバンドも、これから10年近く活動する。60年代を代表するビッグバンドの一つであり、自分の好きなビッグバンドでもある。このカンピはバラバラに活動してメンバー達を年に2カ月は、このクラーク・ボランのビッグバンドに参加させるべく飛び廻っていたらしい。国をまたがったオールスターバンドだが、熱心なジャズファンジジカンピがいたので、無事に立ち上がることが出来、継続して活動できたのであろう。

1. Box 703, Washington, D. C.           Francy Boland 5:02
2. The Styx                   Francy Boland 3:50
3. Gloria                     Bronislaw Kaper 4:35
4. Los Bravos                    Francy Boland 5:00
5. Charon's Ferry                  Francy Boland 6:06
6. Volutes                       Francy Boland 5:56
7. Last Train From Overbrook             James Moody 6:37

Ahmed Muvaffak Falay, Benny Bailey, Jimmy Deuchar, Roger Guerin (tp)
Pat Peck, Ake Persson(tb)
Derek Humble (as)
Carl Drevo, Zoot Sims (ts)
Sahib Shihab (bs,fl)
Francy Boland (p.arr)
Jimmy Woode (b)
Kenny Clarke (ds)

Supervised By Gigi Campi
Enginee : Wolfgang Hirschmann
Recorded in Cologne, West Germany, December 13, 1961

ジャズ・イズ・ユニヴァーサル
クリエーター情報なし
ワーナーミュージック・ジャパン
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サックスとコーラスグループのアンサンブルの心地良さは格別・・

2015-04-21 | MY FAVORITE ALBUM
Supersax & L.A. Voices

パーカーのアドリブをサックスのアンサンブルで演奏するグループ「スーパーサックス」を企画し、実際に立ち上げたのがメッドフローリー。彼が最初にこのアイディアを思いついたのは、アートペッパーやジョーマイーニと一緒にプレーをしていた時だった。しかし、ペッパーがプレーを止め、マイーニが亡くなったこともあり、そのアイディアを数曲譜面に起こしリハーサルを数回やったところでせっかくの企画もお蔵入となってしまった。

レパートリーを増やし、実際にクラブに出演してファンの前でお披露目をし、そしてレコーディングをしたのは10年後の1973年になってからであった。その時、譜面作りに協力したのがベースのバディークラーク。当の本人メッドフローリーがその作業に時間がとれなかった最大の理由は、演奏が忙しかったのではなく、60年代になってから始めた俳優業との2足の草鞋を履く生活で多忙を極めたからという。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」といわれるが、このフローリーも音楽の方も演奏だけでなく作編曲もこなし、映画も俳優業に加えて映画のシナリオ書きにも手を染めたという多芸ぶりであった。それらをこなすためには、自分で作ったバンドもお守りができずテリーギブスに譲ったそうだ。

スーパーサックスはアイディアも演奏も素晴らしく、いきなり初アルバムがグラミー賞を受賞した。このような尖がった企画は、最初は話題になってもすぐに飽きられることが多い。一回限りで解散かと思ったら、結果的にかなり長期間続いた。日本でのライブでもそうであったが、ライブでは各人のソロパートを増やし、パーカー以外の作品も手掛けるようになった。しかし、アルバムも何枚か出すと、どうしても何か新たな切り口が欲しくなるものだが・・・・

アイディアマンであり、才能豊かなフローリーは、今度はコーラスグループとのジョイント企画を考えた。アイディアが決まれば自ら率先垂範、あとは実行あるのみ。自らが音頭をとってボーカルグループL.A. Voicesを編成し、スーパーサックスとの共演アルバムを作った。
コーラスグループのリーダーは女性のスーレイニー。フローリーを加えた5人組だった。他のメンバーもロスで、多様なスタジオワークをこなす面々だったので、見事なアンサンブルをこなすコーラスグループがすぐに誕生した。



この最初のアルバムを作ったのは1982年の暮れから翌年明けにかけて。ス-パーサックスを立ち上げてから10年近くが経ってから。ちょうど時代はマンハッタントランスファーも有名になり、モダンコーラスグループがもてはやされていた時でもあった。
コンセプトは同じでパーカーソロをアンサンブルにしているが、このアルバムではLAというフローリーのオリジナル曲も加わっている。
サックスのアンサンブルにコーラスグループの組み合わせは、聴いていて実に心地よい。
激しいソロプレーを堪能した後には、このようなアンサンブルでリラックスするのもいいものだ。アンサンブル好きにはたまらないサウンドだ。

このフローリーも昨年亡くなっていた。演奏だけでなく色々楽しませてくれた多芸な持ち主のフローリーであったのだが・・・



1. Embraceable You
2.Dancing In The Dark
3. The Song Is You
4. Star Dust
5. LA
6. In the Still Of The Night
7. Don't Blame Me
8. Stella By Starlight
9. Star Eyes
10. Old Folks

The L.A. Voices
Sue Raney (Lead)
Melissa Mackay (Alto)
John Bahler (Tenor)
Gene Merlino (Baritone <Vocal Conductor>)
Med Flory (Bass)

Supersax
Med Flory (as)
Lanny Morgan (as)
Ray Reed (ts)
Jay Migliori (ts)
Jack Nimitz (bs)
Conte Candoli (tp)
Lou Levy (p)
Monty Budwig (b)
John Dentz (ds)

Produced by Edward Yelin & Med Flory
Engineer : Hugh Davis
Recorded at Capital Records, Studio A in End of December 1982、January & February 1983
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アートペッパーの復帰は、ペッパーを支えた夫人と昔の仲間に囲まれて・・・

2015-04-20 | MY FAVORITE ALBUM
Living Legends / Art Pepper

人生何をやっていても挫折を味わう事がある。捲土重来を期して再チャレンジを目指すものの、それを実現するには並々ならない努力と、それを支える人がいないと難しいものだ。
アートペッパーが麻薬の治療のために入院しなければならなかったのは一度ならず何度も繰り返された。その度ごとに復活を願うファンの前から消え去ることになった。

68年にバディーリッチのオーケストラに復帰できたのは、バンドのメンバーであったドンメンザの誘いであったそうだ。しかし、その時ペッパーはテナーしか持っていなかった。リッチのバンドではリードアルトを務めたが、アルトはドンメンザからの借り物。マウスピースだけは愛用物を持っていたので何とか急場を凌げたという。
最初の仕事は、ラスベガスのシザースパレス。一緒に加わったトランペットのアルポシーノと2人のお蔭でバンドの音は見る見るうちに変っていった。そこで、すでにスタジオで録音済みのマーシーマーシーマーシーのアルバムは、急遽このシザースパレスでのライブ録音で作り直しとなった。

ペッパーにとって毎日プレーできる楽しさを味わえたのは余程嬉しかったかのかもしれない。久々に譜面を前にした時は、一瞬譜面が読めなかったという。しかし、すぐに感を取り戻すと久々に存分に吹きまくったという。
しかし、ハードワークは弱った体を徹底的に痛めつけてしまった。肝臓を悪化させ体内で出血をおこし、最後は脾臓破裂で大手術を受けることになる。せっかく掴んだ仕事の場であるリッチのバンドも離れざるを得なかった。再び復帰を試みたがツアーの多いリッチのバンドの激務には耐えられず再び療養生活に入ってしまう。

今度は肉体的にだけでなく、社会復帰することによって生じる色々なストレスにも耐えられずに、長期の療養所(シナノン)生活になった。反対にそこでの生活にすっかり慣れてしまって、一時は音楽を諦めようと思った時期もあった。
しかし、再び音楽をやる夢は捨てきれず「シナノン」を出ることに。とはいってもすぐに仕事も無く、復帰の決心もつかなかったので、パン屋の会計事務の仕事を手伝いながら本気で会計士の勉強も始めたという。そのようなアダムスを支えたのは同じ療養所に居た、後にペッパーと結婚することになるローリーであった。音楽への復帰を決意したのは、デンバーの大学からクラリネットのクリニックの依頼を受けた時、自分のファンであったKen Yoheが楽器を借りて、色々段取りをしてくれたからだ。ロスに帰って来て自分の楽器を揃える決心がついたそうだ。このファンのお蔭で復帰への足掛かりは掴めた。彼に感謝の意味を含めて、このアルバムでMr.Yoheという曲も作った。

徐々に地元のクラブ出演も始め、学校を廻って学生バンドのクリニックも積極的に行うようになった。前回紹介したマイクバックスとの出会いはその時だった。そのような状況のペッパーを支え、本格的な復帰にまで繋げたのは妻のローリーに加え、コンテンポラリーレコードのオーナー、レスター・ケーニッヒであった。そして、1975年8月、待ちに待った久々のリーダーアルバムの録音になる。



プロデューサーはレーニッヒ自身、場所は懐かしいコンテンポラリーのスタジオ。10年以上経ってもスタジオの風景、録音機器は昔のままだったという。
そして、メンバーも昔の仲間が集まった。ピアノのハンプトンホースは一足先に第一線への復帰を遂げていた。ドラムもウェストコーストの大御所であるシェリーマン。そしてベースは昔からのペッパーの友人であった。ヘイドンというとどうしてもオーネットコールマンとの一緒のイメージが強いが、50年代はペッパーやホースのプレー仲間であった。

昔の仲間達と、そして昔と同じスタジオで再起第一作を録音した訳だがナツメロセッションにはならなかった。というのもブランクの期間にペッパーは変身していた。ペッパーが一線を退いていた時代ジャズ界はコルトレーンの世界となっていた。ペッパーはコルトレーンを徹底的に聴き、コルトレーンの演奏をコピーもした。長いミュージシャン生活でコピーをしてまで研究したのはコルトレーンだけであったそうだ。
しして、演奏した曲はスタンダード曲のHere's That Rainy Dayを除いてすべてペッパーのオリジナル。意気込みを感じる。

そして演奏の結果はというと?
ペッパーのアルトはコルトレーンの味付けがされたとはいえ基本的に変るものではない。曲によって多少荒々しくフリーキーなフレーズも聴けるがペッパー節は健在であった。他のメンバーも、皆がモダンなアプローチもできるとはいえ、彼等も本質は変わらない。昔のペッパーを知る面々だが、完全にナツメロをやるのではなく、今のペッパーを引き出すための最善のバックを務めている。自分としても、久々にペッパーを聴けたというだけでなく、「今の時代に戻ってきてくれたペッパー」の復帰を嬉しく思ったものだ。
まさに伝説のアルトが生きていた証明であり復帰であった。
その苦難の復帰を支えたのは、やはり昔からの仲間達と家族、そして名プロデューサーのレスター・ケーニッヒであった。



1. Ophelia                      Art Pepper 7:53
2. Here's That Rainy Day    Johnny Burke / James Van Heusen 5:39
3. What Laurie Likes                Art Pepper 6:43
4. Mr. Yohe                    Art Pepper 7:10
5. Lost Life                    Art Pepper 5:52
6. Samba Mom Mom                  Art Pepper 8:19

Art Pepper (as)
Hampton Hawes (p)
Charlie Haden (b)
Shelly Manne (ds)

Produced by Lester Koenig
Sound by Roy DuNann
Recorded at Contemporary Studio's Studio in Los Angels on August 9,1975


リヴィング・レジェンド+1
クリエーター情報なし
ユニバーサル ミュージック クラシック
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オルガンの演奏の雰囲気をそのまま歌声で・・・

2015-04-19 | PEPPER ADAMS
Stay Loose / Jimmy Smith Sings Again

最近は時間の感覚が鈍くなっている。ついこの前の出来事と思っても、実は5年前の事だったりするのは日常茶飯事。それに比べて学生時代の事は一年一年を明確に覚えている。
1968年自分は浪人時代で、ジャズ喫茶通いをしていた頃。学生運動の一番激しかった時で、新宿駅の騒乱があり、東大紛争のあおりで翌年の東大の入試がなくなった年だ。

ペッパーアダムスが参加したアルバムの紹介もこの1968年に入る。この年のペッパーアダムスは、サドメルとデュークピアソンのビッグバンドの両方にレギュラー参加し、毎週のライブだけでなくリハーサルが続く毎日でスタートした。
1968年といえば、この年の夏にはサドメルに加わって来日もした年だ。
レコーディングはコンボでの演奏より、相変わらずバックのオーケストラやアンサンブルに加わる事が多かった。この頃はそれだけビッグバンドやラージアンサンブルをハックにしたアルバムが多かったということになる。

MGMに売却されメジャーレーベルとなったVerveは、他のレーベルと較べてもお金の掛け方が違っていた。リリースされたアルバムの数も膨大であったが、ジャケットはダブルジャケットとなり、アレンジャーにもバックのオーケストラのメンバーにも一流メンバーを起用していた。当然のように出来上がったサウンドはゴージャスな物が多い。結果的にそれが好き嫌いに分かれるが、コンボ好きの硬派のジャズファンからは見向きもされないことが多い。

ペッパーアダムスもデュークピアソンとの付き合いが長かったせいもあり、ピアソンがプロデュースしていたブルーノートのセッションへの参加が多かった。しかし、サドメルに加わるとオーケストラの他のメンバーに誘われたのか、彼らと一緒に他のレーベルの録音への参加も増えてきた。そして、Verveのセッションへの参加も。
この年のアダムスの最初のレコーディングもそのようなものであった。

当時のVerveはピータソン、ゲッツ、エバンス、モンゴメリーなど大物ミュージシャンが集まっていたが、オルガンのジミースミスもその一人であった。ブルーノートで何枚もアルバムを出し、ジャズオルガンでは断トツの一人者であった。そんなジミースミスがブルーノートからVerveに正式に移籍したのが1963年、Verveに移籍してからも立て続けにヒットアルバムを出していた。
代表的なアルバムのThe catを始めとして、スミスのアルバムもオーケストラをバックにしたアルバムが多くなった。オルガンというとギターとテナーとの相性がいいように感じるが、このオーケストラのダイナミックなアンサンブルとオルガンの親和性もいいと思う。
今回のアダムスのレコーディングは、このジミースミスのバックであった。

このアルバムの特徴はというと、まずはジミースミスの歌が聴けるということ。タイトル曲Stay Looseを含むオーケストラをバックにした4曲がスミスの歌とオルガンをフィーチャーしたものだ。スミスの歌というのはオルガン同様、ソウルフルなファンキーな歌だ。鍵盤のノリがそのまま歌声になったようなもの。普段歌を歌わないミュージシャンが歌を披露するとイメージとは違ったり、楽器と較べるとノリが悪い事がある。しかし、スミスの歌はイメージ通り、オルガンの演奏でも唸り声が響き渡る。



残りの3曲が、ブルーノートでアルバムを立て続けに出していたスタンレータレンタインをゲストに加えたコンボでの演奏になる。
オルガンとの相性がいいビッグバンドのバックと、テナーとのコンビの両方の編成を用意し、スミスの歌までつけた欲張り企画だ。
この頃のVerveは、このアルバムのジャケットデザインにも驚かされるが、メンバーも演奏も色々なアルバムが入り乱れ何でも有だった。

1. I'm Gonna Move To The Outskirts Of Town *
2. Stay Loose *
3. If You Ain't Got It *
4. One For Members
5. Is You Is Or Is You Ain't My Baby *
6. Chain Of Fools
7. Grabbin' Hold

(*) 1,2,3,5
Joe Newman, Ernie Royal, Snooky Young (tp)
Garnett Brown, Jimmy Cleveland, Alan Raph (tb)
Pepper Adams (bs)
Joe Farrell (ts)
Hubert Laws (fl)
Jerome Richardson (as)
Jimmy Smith (organ, vocals)
Carl Lynch (g)
Jimmy Tyrell (b)
Grady Tate (ds)
Johnny Pacheco (per)
Eileen Gilbert, Melba Moorman, Carline Ray (vocals -1)
Tom McIntosh (arranger, conductor)

4,6,7
Jimmy Smith (organ)
Stanley Turrentine (ts)
Phil Upchurch (g)
Jimmy Merritt (b)
Grady Tate (ds)
Eileen Gilbert, Melba Moorman, Carline Ray (vocals -2,4,5)

Produced by Esmond Edwards
Recorded at A&R Studio in NYC, on January 29, 1968

Stay Loose (Dig)
クリエーター情報なし
Verve
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アートペッパーの復活はビッグバンドから?・・・・・

2015-04-17 | MY FAVORITE ALBUM
Evil-Eyes / Mike Vax Big Band featuring Art Pepper

先日、岸義和ビッグバンドのライブへ行った。毎回このライブは「ハリージェイムス&レイアンソニー」とタイトルされているが、ベイシーやハーマンのナンバーなども加えてスインギーな演奏を聴かせてくれる。メンバーはベテラン中心だが、他のバンド同様最近では若手の姿もちらほら。その中でセクションの要、リードアルトは近藤淳であった。木幡光邦 & 923 BIG BANDでもリードアルトで登場することが多いが、宝塚の仕事をメインにしているようであまりライブで聴く機会は多くは無い。

ビッグバンドの楽しみは色々あるが、ひとつはリードアルトをフィーチャーしたショーケース。バラード物をどう料理するかが聴き所だ。セクションの要としてのアンサンブルワークだけでなく、ここはそのバンドの看板リードアルトとして、ソリストの腕の見せ所である。こればかりは、若手の巧者といえどもなかなかベテランの貫禄には及ばないものだ。

この日は1部2部で一曲ずつ。どちらもクインシーナンバーでThe GypsyThe Quintessenceを披露。オリジナルではどちらもフィルウッズをフィーチャーした曲。近藤さんにとってはどちらかがその日が初見であったそうだが。さすがにどちらもファンを魅了する素晴らしい演奏であった。

アルトの名手であるアートペッパーも経歴を辿るとスタンケントンオーケストラの出身。若い頃からビッグバンドの中で将来の活躍を予見させるプレーを聴かせてくれた。そして、有名になってからもマティーペイチなどのアレンジの中でも際立ったプレーが聴ける。有名な「踊り子」とか「プラスイレブン」などは自分の愛聴盤である。

アートペッパーの活動歴は長く感じるが、実は麻薬の療養期間が長く実際に活動した期間は短い。特に本来であれば一番の働き盛りである40代の65年から最後の本格的な復帰の75年までは10年近くのブランクがある。実はその間何回か現役復帰を試みていた。その間アルバムとして残されている68年のバディーリッチオーケストラへの復帰が話題となった。

このリッチが新たに編成したビッグバンドは若者にもアピールし、人気が出てきた時のリードアルトとしての参加であった。若手中心のメンバーであったが、その中で重鎮としての復帰であった。従来のスインギーな4ビートだけでなく、8ビートのドライブのかかったアンサンブルも引っ張っていた。このペッパーの加わったバディリッチのアルバムが、「マーシーマーシーマーシー」であるが、その中もアートペッパーを大きくフィーチャーした曲が一曲ある。当時ヒットした「アルフィー」であった。

しかし、このペッパーの復帰は一時のもので、再び長い療養所生活に戻ることになる。そこでは一時ミュージシャンとしての生活を諦め、楽器も手放したという。そして、足かけ7年の歳月を経て75年の本格的なリーダーアルバムでの復帰になる訳だが、その長い療養生活から復帰に向けては前哨戦があった。その一つのステップがこのアルバムへの参加となる。

昔から本格的なジャズミュージシャンになるための一つのステップがビッグバンドへの参加であった。特に、スタンケントン、ウディーハーマンの両バンドは若手の憧れの的であった。そして、そこへの参加が一つの勲章となって、次のステップへのパスポートのようなものであった。それは時代が代わって70年代においても変るものではなかった。

このアルバムのリーダー、Mike Vaxもその一人であった。
1970年に目出度くスタンケントンオーケストラの一員となった。レコーディングにも参加できた。すると次なる夢は自分のビッグバンドを持つことになる。更には、そのバンドのアルバムを作ることに・・・夢はどんどん広がっていく。
そして、このアルバムが誕生することで、短期間でその夢も実現することになる。世の中勝ち運に恵まれている人間というのは、動き出すとすべてが上手く転がり出すものだ。

そして、この初アルバムには更なるプレゼントが加わる。療養中で復帰を願っていたアートペッパーのゲスト参加だ。バックスとペッパーは1973年のアメリカンカレッジジャズフェスティバルでたまたま一緒にプレーしたのが出会いという。ケントンオーケストラを辞めた後、楽器メーカーコーンのクリニックとして学生バンドの面倒をみていたVaxであったが、この出会いも偶然だったと思う。
その出会いがきっかけで、バックスのバンドにペッパーがゲスト参加することになり、このアルバムもさらに価値あるものになった。

バンド全体のサウンドは、この時代の流行であったジャズロック風の色合い強い曲もあるが、ケントンオーケストラに根差した伝統的なサウンドである。
そして、ゲストのペッパーをフィーチャーしたショーケースがこのアルバムにも含まれている。バックスとのソロの掛け合いもあるが、スタンダードのShadow of your smileでのペッパーのバラードプレーだ。ここで復帰途上のペッパーのプレーがじっくり聴ける。この時すでに以前と較べてスローであっても荒々しさを感じるのが印象的だ。

このVaxだが、その後自らのビッグバンドを率いる他、ケントンオーケストラの卒業生コンサートを開催したり、ケントンのレガシーオーケストラを編成しツアーをやったり、さらにはFriends of Big Band JazzというNPOを設立しビッグバンドジャズの伝承と教育に力を注いでいるようだ。
その後の活躍も、このファーストアルバムが出発点とすると、アートペッパーとの出会いと共演も大きな意味があったように思う。結果的にペッパーも2年後の本格的な復帰の可能性を試す試金石でもあった。




1. Evil Eyes
2. If Is Anything Still There
3. Passage West
4. Joe's Inn
5. The Shadow Of Your Smile
6. Beginnings
7. West Side Story Medley

Art Pepper (as)
Mike Vax (tp,flh)

Jim Schrich (tp,flh)
Fred Berry (tp,flh)
Bill Main (tp,flh)
Dave Candia (tp,flh)
Warren Gale (tp,flh)
Bill Robinson (tb)
Dean Hubbard (tb)
Phil Zahorsky (tb)
Jed Rodriguey (btb)
Nick TenBroek (btb)
Jim Rothermei (as,fl)
KIm Frizell (as,fl)
Lioyd Rice (ts,fl)
Gerry Gilmore (ts,fl)
Dave Luell (bs)
Si Perkoff (p)
Mario Suraci (eb)
John Rae (ds,per)
Gary Nash (ds,er)

Produced by Bob Ciunow, Gabby Garcia, Mike Vax
Engineer : Pete Romano
Recorded at CBS Recording Studio, San Francisco, California on July 6 & 7,1973
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またもやギタリストの若手が続くが、今回の新人は両刀使いで・・・

2015-04-16 | CONCORD
Musica Del Mar / Peter Sprague

ジャズの世界で両刀使いといっても色々ある。楽器とボーカルとか、違う楽器をこなすとか、メインストリームとフュージョンとか・・・・。今回は、ギターのエレキとアコースティック、そしてジャズとクラシックの両刀使いの新人。コンコルドのアルバムを順番に紹介してきて、今は丁度1983年の録音の辺り。この頃の新人といっても、今では30年の月日が経ち皆大ベテランになっている。最近の映像を見るとすっかり貫禄がついて、両刀使いの方もエレキとアコースティックのダブルネックのギターを使っているようだが。



演奏ぶりはこちらで、



その新人とは、ピータースプレイグ。
コンコルドにはエミリーレムラーの3枚目のアルバムに続いての登場だ。見掛けはラテン系の感じだが、生まれはアメリカオハイオ州の生まれのカリフォルニア育ち。ボストンに行っている時に、サージチャロフの母親にクラシックを学んだとある。このチャロフの母親というのは時々登場するが、ボストンでは名の通った教育者であったのだろう。この時一緒にクラシックギターを学んだので、両刀使いになったようだ。

コンコルドでは新人だが、調べてみるとそれ以前にサナドゥーでアルバムを作った事があるようなので、これが初アルバムという訳でもなさそうだ。
という訳でもないと思うが、一曲目を聴いてもなかなか貫禄のあるストレートアヘッドなプレーぶり。この曲のギター演奏というと、エバンスとジムホールの演奏を思い出すが、ここでのバックはピアノのジョージケイブルを始めとする若手の実力者。エバンスの演奏よりアップテンポでグイグイ行く。このトリオのバックも新鮮だ。ケイブルといえばアートペッパーの復帰後に一緒にプレーをしていたピアニストだった。ペッパーが亡くなったのが1982年、その翌年の録音という事になる。

当時の新しいギタリストというとフュージョン系も多く、また新しい感覚のギターを弾く新人が多い中で、正統派のど真ん中という感じだ。ところが、タイトル曲の自作のMusica Del Marになると、カリプソのリズムに乗ったラテンタッチの演奏を聴かせてくれる。そして両刀使いの本領発揮は、メドレーの最初で奏でるクラシックギター、最後の曲ではバッハのインベンションから始まる。結局は、両道使いどころか、若くしてオールラウンドプレーヤーだったようだ。

コンコルドではその後もアルバムを出したが、その後はフォローすることも無かった。地元サンディエゴを中心に西海岸で活動し、ギタリストだけでなくプロデューサー、レコーディングエンジニアなどで関わったアルバムは200枚近くとか。
両刀使いどころか、オールマイティーの実力者であった。
カールジェファーソンは、またもや才能ある若手を発掘していたことになる。アルバムに駄作が無いのと同様、新人発掘にも外れが無かったように思う。

デビュー当時の演奏はこちらで、



I. Hear a Rhapsody     Jack Baker / George Fragos / Dick Gasparre 4:55
2. My Folks' Song                   Peter Sprague 6:08
3. Just One of Those Things              Cole Porter 4:50
4. Medley:
  You Stepped Out of a Dream    Nacio Herb Brown / Gus Kahn 1:31
  Chick's Tune                    Chick Corea 4:05
5. Musica del Mar                  Peter Sprague 6:25
6. I Thought About Y       James Van Heusen / Johnny Mercer 6:36
7. Medley :
   Invention in D                 J.S.Bach 1:08
   Chanting With Charles            Peter Sprague 5:18
 
Peter Sprague (g)
Gerge Cables (p)
Bob Magnusson (b)
Eddie Moore (ds)

Produced by Carl Jefferson & Chris Long
Recorded at Coast Recorders, San Francosco, November, 1983
Recording Engineer : Phil Edwards

Originally released on Concord CJ-237 (所有盤はユピテルの国内盤)
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ビッグサウンドやハイノートばかりがトランペットの良さとは限らない・・・

2015-04-14 | MY FAVORITE ALBUM
Big Brass / Benny Bailey

独居老人が増えるに従い、一人暮らしの老人の孤独死が増えているという。日本では核家族化がもたらした社会問題、そうそう簡単に解決はできないだろう。自分自身の事を考えてみても明日は我が身。今までは毎日のように出歩けているが、だんだん外にも出歩かなくなり人付き合いも減ってくると最後は家族だけ。女房だけには先立たれることのないようにしたいものだ。

トランペットのベニーベイリーが母国アメリカを離れ、異国の地アムステルダムで亡くなったのは今から10年近く前になる。何故か、孤独死で死後何日かしてから発見されたという記事が記憶に残っている。
60年代ヨーロッパに渡って活動したアメリカのジャズミュージシャンは多いが、多くはまたアメリカに戻った。しかし、このベニーベイリーは活動の大半をヨーロッパで過ごし、最後もヨーロッパに骨を埋めることになった。そこまで気に入ったヨーロッパであったが、そこでは彼の死を看取る人が居なかったということになる。

このベイリーがライオネルハンプトンのグループに参加したのは1947年から1953年まで。オーケストラがヨーロッパをツアーしていたが、そこでバンドを辞めると一時イタリアで活動する。しかしその地は肌に合わなかったのか、結局スウェーデンに留まることになる。
この当時のハンプトンのオーケストラには、綺羅星のような若手が参加していた。特にトランペットセクションにはベイリー以外に、クリフォードブラウン、アートファーマー、そしてクインジージョーンズなど次の世代を背負う実力者が席を同じくしていた。

彼等はハンプトンの目を盗んでは地元のミュージシャンともセッションを繰り広げていた。それはハンプトンのバンドとは趣が異なる洗練されたサウンドであった。その中の一人クインージョーンズも作曲を学ぶために一時ヨーロッパに滞在した。その時ハリーアーノルドのオーケストラからもアレンジを頼まれ、アレンジャーとして着実に経験を積んでいた。このアーノルドのビッグバンドにはベニーベイリーが加わっており、このバンドのコンサートで2人は再会を果たしていた

それらの経験を経て、アメリカに戻ったクインシーは自分のビッグバンドを立ち上げた。あの有名なアルバム”The birth of a band”が生まれたが、それはヨーロッパ仕込みの洗練されたサウンドを引き継ぐものであった。
そして、その後クインシーのオーケストラは悪夢のヨーロッパツアーに旅立つ。このヨーロッパツアーのメンバーにはアルバム録音にも参加したフィルウッズやクラークテリーに加えて、ヨーロッパに居たベニーベイリーも加わった。クインシーにとっては、昔からの知己であった以上にクインシーのアレンジの良き理解者であり、ベイリーはお気に入りのトランペットであった。

バンドが演奏の場として予定していたミュージカルが公演途中で中止となり興業的には大失敗に終わった。しかし、メンバー達はそのまま現地に残りクインシーのアレンジによるビッグバンドの演奏活動を続け、ヨーロッパ中を彷徨うこととなった
メンバー全員が肉体的にも、精神的にもそして経済的にも行き詰って帰国することになったが、ここでへこたれなかったのがクインシーを始めとするメンバーの面々であった。リーダーとしてすべての責任を負ったクインシーは、この出来事を糧にアレンジャー&バンドリーダーからプロデューサー業、そしてマーキュリーレーベルの役員に大きく飛躍することにもなった。

バンドと一緒に一時アメリカに戻ったベニーベイリーも、帰国してすぐにリーダーアルバムを作る機会を得る。クインシーのバンドで一緒に苦労を共にしたメンバーから、フィルウッズ、ジュリアスワトキンス、レススパン、バディカレットの4人が参加した。ある意味、彼らにとっては過去を忘れて再出発のための仕切り直しの場であり、景気付けのアルバムでもあった。

ちょうど、クインシーのオーケストラも帰国後の録音をした直後であり、今度はバンドメンバーであるベニーベイリーのアルバムに皆が集まった形だ。そして翌年の2月にはフィルウッズのアルバム”Rights of Swing”が作られたが、これにも、ベイリーをはじめとしたクインシーのバンド仲間達が駆けつけている。

このベイリーはその後ヨーロッパに戻り、ケニークラーク&フランシーボランのビッグバンドに参加した。どちらかというとあまり目立つ存在ではなかったが、どこでもキーマンとして活躍している。いわゆる玄人受けするタイプの実力者になるのだろう。
元々トランペットを始めた時からあまり大きな音を出すのは苦手だったらしい。ハンプトンのオーケストラではトランペットセクションのどのパートでもこなしたというが、決してハイノートヒッターではない、フレーズ作りの上手い部類だ。クインシーがビッグバンドを立ち上げる時、このベニーベイリーに真っ先に声を掛けたというが、クインシーのビッグバンドのアレンジとは確かに相性がいいスタイルだ。

このアルバムでのフロントラインはクインシーのバンドメンバー達なのでバンドのサウンドには共通する物がある。アレンジは、クインシーが提供した曲以外に、オリバーネルソンやトムマッキントッシュのアレンジなどもある。どの曲も普通の3管編成と違ったサウンドがするのはアレンジ以前に楽器の構成が特異なこともあるだろう。ジュリアスワトキンスのホルンはクインシーのオーケストラにも加わっていたが、トロンボーンより丸みを帯びた音色だ。それにレススパンがフルートで加わり、フィルウッズも時にバスクラリネットに持ち替える。いわゆるハードバップ、ファンキー路線とは一線を画す、木管主体の上品なサウンドがするが、これがベニーベイリーのトランペットとは実に相性がいい。逆に言えば、ベニーベイリーのトランペットにはこのような編成、アレンジが似合うということになる。

このベイリーは、ヨーロッパに残った理由の一つがお金のためにプレーはしたくないという事だったらしい。晩年まで好きなヨーロッパで、自分の好きなスタイルで演奏を続けることができた反面、最後を看取る人がいなかったというのは寂しい限りだ。



1, Hard Sock Dance                  Quincy Jones 5:47
2. Alison                         Sean Smith 6:46
3. Tipsy                        Oliver Nelson 6:54
4. Please Say Yes                   Tom Mcintosh 5:58
5. A Kiss to Build a Dream On  Oscar Hammerstein II / Bert Kalmar / Harry Ruby 8:03
6. Maud's Mood                      Benny Bailey 6:25

Benny Bailey (tp)
Phil Woods (as,bcl)
Julius Watkins (fhr)
Les Span (fl,g)
Tommy Flanagan (p)
Buddy Catlett (b)
Art Taylor (ds)

Produced by Nat Hentoff
Engneer : Bob d’Oeleans
Recorded at Nola Penthouse Sound Studios, New York, November 25, 1960


Big Brass
クリエーター情報なし
Candid Records
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期待の新人であったが、3枚目のアルバムで早くも大きくステップアップして新境地に・・・

2015-04-12 | CONCORD
Transitions / Emily Remler

4月は学校でも会社でも新人が目立つ季節。右も左も分からない新人が先輩の後について新しい環境で生活を始める。何の世界でもそうだとは思うが、見よう見まねで始めてしばらくして慣れた所で次のステップに引っ張り上げるのは先輩達の役目。結果的に新人が育つかどうかは最初についた先輩の良し悪しに因るところが大きいものだ。

コンコルドにデビューした女性ギタリスト、エミリーレムラーは2枚のアルバムを出して着実に成長していた。最初のアルバム"Firefly"では大ベテランハンクジョーンズのピアノトリオをバックに、ウェスモンゴメリーが大好きだという彼女のオーソドックスな男勝りのプレーが聴けた。未知数である新人のまずは実力の一端を披露といったところだ。

そして、2枚目の"Take Two"ではピアノが当時売り出し中のジェイムスウイリアムスに替わる。よりメンバー全員の若々しさを前面に出した演奏になった。ここでは、新人達の明日に向けてのやる気を感じる事が出来た。
そして3枚目のこのアルバムは、まさにホップ・ステップ・ジャンプ。新人を卒業して独り立ちできるかどうかの見極めとなった。結果は彼女が熟考を重ね、自らメンバーを選び、そして編成したグループでの演奏となり期待通り大きく飛躍することができた。

この頃のコンコルドではアルバム作りにミュージシャンの意向を大きく取り入れ、場合によってはミュージシャン自身にプロデュースを任せるアルバムも多くなっていた。ここでもジェファーソン自らのプロデュースであったが、中身に関しては全面的にレムラーに任せた。ジェファーソンの大英断が、レムラーの飛躍を手助けする事になった。

ギター好きのジェファーソンは、ベテラン達には自由に演奏させていたが、これはミュージシャンの個性あふれるプレーの良さを引き出すため。しかし、若手となると、レムラーはコンコルドの秘蔵っ子でもありあれこれ注文を出したい所であったと思う。しかし、自由にさせたということは、これを機に一気に彼女のやりたい方向に進むことを後押しし、独り立ちさせようとした親心が勝ったのであろう。

このアルバム作りのすべてを任されたレムラーはまずは6か月間ニューオリンズやニューヨークでの仕事がある時以外はバージニアに引き籠ってこのアルバムの構想をあれこれ練り直した。そして、今までのスタイルやメンバーもすべてリセットして再スタートすることにした。

まず始めにやったことはグループの編成からピアノを外したこと。というのも、自分のギターでコード進行を考える時にピアノはかえって邪魔になったという。当然コードワークは自分のソロのためというよりも他のソロのバックのためだが、ソロのバッキングも彼女は好きだったそうだ。そして、グループのソロ楽器として選んだのがトランペット。結果的に、このワンホーンとギタートリオが彼女の望む編成であった。

トランペットには、バディーリッチやライオネルハンプトンのオーケストラのメンバーにも加わり、サドメルにも参加した事のある若手のジョンディアースを選んだ。そしてベースにはビルエバンストリオで活躍したエディーゴメツ。ドラムのボブモーセズもゲイリーバートンやラリーコリエルと演奏をしていた新感覚のドラマーだ。

丁度このアルバムが録音された80年代の初めは、メインストリームからフュージョン、そして新主流派といわれたモダンなサウンドが入り乱れていた時代。どんなスタイルでも受け入れられた時代であったが、彼女は自分の演奏の軸足をモダンなサウンドにリニューアルしたことになる。この頃、レコーディン以外では、彼女はアストラッドジルベルトのグループに加わる事が多かった。そしてプライベートでは、ピアノのモンティーアレキサンダーと此の頃結婚していた時期である。



アルバムの一曲目のこの”Nunca Maisd”でいきなり聴けるように、演奏スタイルや曲作りにはその影響が大いに感じられる。オリジナル曲以外にはキースジャレットの曲をやったかと思えば、サムジョーンズがキャノンボールアダレイのグループで演奏したファンキーな曲も取り上げている。
彼女はどちらもオリジナルを聴いた事が無かったという、どちらも素材としての良さから選曲しただけで、演奏はオリジナルに影響されることなく、自分のスタイルに自信を持っていたということに他ならない。

モダンスイング系のイメージが強かったコンコルドだが、新人達がこんな新しい感覚のアルバムを作ることができたのは、オーナー&プロデューサーであるジェファーソンの度量の広さだろう。
コンコルドのアルバムに名盤といわれるものは少ないが、駄作が少ないのも頷ける。

1. Nunca Mais                 Emily Remler 4:56
2. Searchin' Steve            Allen / Duke Ellington 6:08
3. Transitions                  Emily Remler 7:56
4. Del Sasser             Sam Jones / Donald Wolf 6:44
5. Coral                     Keith Jarrett 6:07
6. Ode to Mali                  Emily Remler 4:41

Emily Remler (g)
John D'earth (tp)
Eddie Gomez (b9
Bob Moses (ds)

Produced by Carl Jefferson
Recording Engineer : Ed Trabanco
Recorded at Mastermind Studio, New York, October 1983
Originally released on Concord CJ-236

Transitions
クリエーター情報なし
Concord Jazz
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映像でのこされた一シーンのステージをそのままの流れで再現して聴いてみると新たな発見が・・・

2015-04-11 | MY FAVORITE ALBUM
Newport ’58 / Dinah Washington, Terry Gibbs, Max Roach, Don Elliott

マスターズが始まるとゴルフもいよいよ本格的なシーズンイン。ところが日本は寒い日が続く。先日はまさかの季節外れの雪の中のゴルフ。気持ちのいいゴルフはしばらくお預けだが、こんな日が続くと反対にジャズを聴く時間は増える。

最近はYou Tubeのお蔭で昔の演奏をレコードやCDだけでなく映像でも楽しめる。前回紹介したロソリーノの演奏も、アルバムで聴く以上に表情が硬く感じたのが印象的だった。やはり何事も聞くと実際に見るのとでは大違いだ。

ジャズの映像物といえば、やはり1958年のNewportを舞台にした「真夏の夜のジャズ」が有名だ。ステージ上でのミュージシャンの演奏する姿だけでなく、街の風景や聴衆の表情までを含めドキュメンタリー仕立てした構成が実にいい。

この映画の制作された経緯は、ニューポートジャズフェスティバルの発案者、イレーンロリラードのインタビュー本に詳しいが、それを知るとこの映画もいくつかの偶然が重なって生まれた産物であった。入念に企画されたというより、制作スタッフのバタバタの中で生まれたまさにドキュメントである。

まず、最初にこのドキュメントをプロデュースしたのは、映像のプロデューサーではなく、彼女の友人から紹介されたスチール写真家のバート・スターンであった。彼は、映像の経験が無いどころかジャズにも弱かったので、流石に心配になったのかコロンビアレコードのプロデューサージョージアヴァキャンの弟であるアラム・アヴァキャンをサポートに頼んだ。ライバルが何社か手を上げる中で権利を獲得した彼らが初日の撮影に臨んだのだが・・・。

案じていたとおり初日の撮影は大失敗に終わった。ムービーの経験の無いスターンは、ドキュメンタリー専門のカメラマンを集めたものの何をどのように撮るのかの指示を与えることができずに大混乱になる。撮影したフィルムを急いで現像してラッシュを見たが、画面がひどく暗かったりピンボケであったり、全く使い物にならず、ここでスターンはギブアップ。
ここで、全権をアラムにバトンタッチする。アラムも映像の専門家とはいえ得意なのは編集作業。止むを得ずカメラのセットはオーソドックスに行い、編集作業をイメージしながらカメラマンに指示を出すという芸当を使ったようだ。というのも、当時は今のようにすべてのカメラを回しっぱなしにして後で編集すればいいという手法もフィルムが高価であったために使えず、自ら会場の真ん中に陣取り、彼の頭の中のリアルタイムバーチャル編集のイメージで指示するカメラを切り替えるという技で切り抜ける。その努力の結果、録り直しの効かないライブ物の全部で10万フィートに上る映像から、あの映画が生まれたそうだ。

この58年のニューポートといえば、56年に話題を呼んだデュークエリントンも登場しているし、マイルスデイビス、そしてデイブブルーベックなどの大物も出演していたが、映画の中に登場しなかった。その理由は契約の問題ではなく、初日の撮影をミスったのが原因であったというのが真相のようだ。事実、出演者との交渉はすべて撮り終えてから始まったという。
そして、この映画にはニューポートには欠かせないジョージウェインのクレジットがないというのも七不思議のひとつ。外されたウェインは色々思う所はあったようだが大人の対応をしたそうだ。もっとも最初からウェインが噛んでいたら映画の内容も別物になったと思うので、この映画はこのスタッフ達の大混乱という状況が無ければ生まれなかったともいえる。

さて、この映画の中には名場面はいくつかあるが、演奏に関していえばライブアルバムが出ているものも多い。このダイナワシントンのアルバムもその一枚だ。映画の中ではテリーギブスをバックにしたAll of Meのシーンが収められている。

そのシーンはこちらで↓


最初にクローズアップされる彼女の衣装が印象的だが、この演奏はギブスのバンドに最後に彼女が飛び入りで加わった物。全体のステージの流れは、ウィントンケリーのピアノにホーンセクションが加わって彼女の歌が続き、ギブスのバンドに替わって演奏が続く。最後にそこに彼女が加わりこの曲を歌いフィナーレという流れだったようだ。CD盤では未収録であった彼女の歌の2曲が追加され、このような流れに変っている。



ギブスのバンド演奏では、Julie And Jakeもステージでのハイライトのひとつだ。ドンエリオットのメロフォーンのソロに続きマレットに持ち替えギブスとバトルを繰り広げる。歌伴では控えめであったマックスローチのドラムも大ブレークしている。ライブならではのノリノリのセッションだ。

このアルバムのプロデューサーJack Tracyがライナーノーツの最後で締めくくっている。
So enjoy yourself,have a slice of Newport ’58,the biggest jazz parade of all time.

このような大フェスティバルのライブ物では、多くのステージから自分の好みの部分を見つけるのも楽しみのひとつだ。それも映像が伴うとその場の雰囲気がダイレクトに伝わってくる。

1. Lover Come Back to Me
2, Back Water Blues
3. Crazy Love
4. All of Me
5. Backstage Blues
6. Julie and Jake

Dinah Washinton (vol) 1-4
Blue Mitchell (tp) 1-3
Melba Liston (tb) 1-3
Sahib Shihab (bs) 1-3
Terry Gibbs (vib) 4-6
Don Elliott (mellophone,vib) 4-6
Urbie Green (tb) 4-6
Wynton Kelly (p)
Paul West (b)
Max Roach (ds)

Produced by Jack Tracy
Recorded live at Newport Jazz Festival, July 7,1958

アット・ニューポート’58[+2](完全版)~真夏の夜のジャズ
クリエーター情報なし
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント

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たまには檻を出て雰囲気を変えて鼻歌交じりにのびのびと・・・

2015-04-10 | MY FAVORITE ALBUM
Turn Me Loose ! / Frank Rosolino

歌が上手いジャズミュージシャンは多い。ナットキングコールやジョージベンソンのように、いつのまにか歌が本業になってしまう本格派もいるが、多くは機会を見つけてはその喉を披露してくれる。その中でもボーカルアルバムを作るまでになると、それは余興というより、一歩踏み出してすでに歌手の仲間入りをしたともいえる。
最近で自分が紹介したアルバムでも、ジョージウェインがピアノ同様小粋な歌を披露してくれた。他にも、オスカーピーターソンバディーリッチグラディーテイトなど、「のど自慢」のミュージシャンも結構いるものだが、皆本業の方の腕前も人並み以上の強者ばかりだ。

トロンボーンでは、古くは歌も得意といえばジャックティーガーデン。そしてモダントロンボーンでは、テクニックだけでなく実に歌心のあるプレーを聴かせてくれるのがフランクロソリーノ。自分も好きなプレーヤーの一人だが、そのロソリーノにもボーカルアルバムがある。
60年代に入ってスタジオワークが多くなったロソリーノにとっては、このボーカルアルバムは唯一のリーダーアルバムである。このアルバムを作ったのはシナトラのレーベルであるリプリーズ。シナトラ一家の面々のアルバムとは別に、POPSのアルバムもリリースされたが、その中の一枚だ。後に、リプリーズからはエリントンのアルバムなどもリリースされたが、最初の頃は他にジャズアルバムと思えるのは見当たらない。

このアルバムの制作に一役買ったのは、実はアレンジャーとしてはすでに有名であったニールヘフティーであった。ちょうど1960年にロスに戻っていたが、リプリーズレーベルの立上げと同時にA&Rとして就任した。そして、アレンジだけでなく、タレントの発掘、アルバム制作にも関与することになる。
そこにロソリーノのボーカルがニフティ―の眼鏡にかなったようだ。トロンボーンでは真剣な、生真面目なプレーが売りであったが、クラブのライブなどで時折見せるひょうきんな一面を打ち出すにはボーカルが最適と考えたのだろう。

ロソリーノのボーカルにハイライトを当てたとはいえ、決して並のボーカルアルバムではない。もちろんいつものトロンボーンのプレーも織り交ぜ、バックはドンフリードマンのピアノトリオをバックに、ワンホーンで存分に歌に演奏に大暴れするジャズアルバムといっていいだろう。

トロンボーン同様ボーカルでも滑らかな節回しはスローな曲よりアップテンポが良く似合う。興が乗るとスキャットを交え、時にヨーデルのような裏声も出しながらのスインギーなボーカルが楽しめる。このロソリーノのユーモアを交えた一面は普段のスタジオワークでのトロンボーンプレーでは味わえないのだろう。

ジャケットのトロンボーンの檻に閉じ込められている姿はそれを象徴しているようにも思う。「カルテットに餌を与えないで下さい」と書かれているが、特段餌が無くてもトロンボーンの檻から出ただけで存分に大暴れしている。



このアルバムを作った直後、テレビ出演もしていたようで映像も残っている。しかし、ボーカリストとしての活躍はこのアルバムだけだったようで、再びトロンボーンの檻の中でその後も活動を続けることになる。スタジオワークを離れ今度はソリストとして活動するようになるのは70年代に入ってからだ。

1. Too Marvelous for Words       Johnny Mercer / Richard A. Whiting  2:16
2. Come Rain or Come Shine         Harold Arlen / Johnny Mercer  2:57
3. Whatcha Gonna Do on Monday       Ned Doheny, Hamish Stuart  2:21           
4. Sometimes I'm Happy   Irving Caesar / Clifford Grey / Vincent Youmans  2:37
5. Sweet Georgia Brown     Ben Bernie / Kenneth Casey / Maceo Pinkard   2:22
6. Pennies From Heaven          Johnny Burke / Arthur Johnston  2:53
7. I Cover the Waterfront           Johnny Green / Edward Heyman  3:12
8. You're a Sweetheart           Harold Adamson / Jimmy McHugh  2:40
9. Please Don't Bug Me                   Frank Rosolino  2:20
10. It Had to Be You                Isham Jones / Gus Kahn  2:32
11. That Old Black Magic            Harold Arlen / Johnny Mercer  2:46
12. How Many Hearts Have You Broken             Marty Symes  2:56

Frank Rosolino (tb,vol)
Irving Cottler (ds)
Victor Feldman (p)
Chuck Berghofer (b)

Produced by Neal Hefti
Recorded in Los Angels, on November 26, 1961



Turn Me Loose
Frank Rosolino
Collectables Records
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大編成になるとアルバムの出来・不出来はアレンジャーの腕比べになりがちだが・・・

2015-04-07 | PEPPER ADAMS
Heads Up! / Blue Mitchell

有名ミュージシャンのグループに加わってアルバムに参加すると、リーダーでなくとも自然とその名前は知られるようになる。そしてある時、自分のリーダーアルバムを出す段になっても、その実績があるが故に初リーダーアルバムとは思えないような堂々とした演奏のアルバムが誕生する。

ブルーノートに残したホレスシルバークインテットのアルバムの数々にグループの一員として参加していたのがトランペットのブルーミッチェルだ。あまり目立つ存在ではなかったが、ホレスシルバーのバンドを辞めてからも、ブルーノートの録音の多くに参加した。
サイドメンとしての参加も多かったが、リーダーアルバムとして新人チックコリア、アルフォスターを従え”Things To Do”も誕生した。しかし、さあこれからといったタイミングでブルーノートのアルバム制作方針に路線変更が起こってしまった。

この頃、ブルーノートではジャズロック風のアルバムや大編成のアンサンブルをバックにしたアルバムが増えてきた。このミッチェルも例外ではなく次の”Boss Horn”ではオクテット編成でのアルバムとなった
ミッチェル自身のトランペットはハードバッパーだと思うが、大きな編成になってアンサンブルワークの中に加わり、8ビートやコリアの多少モーダルな感じの曲もやるようになると、トランペット自体は反対に優等生的な演奏に収まってきてしまった。なかなか強烈な個性が無いと大編成を従えたアルバムでは荷が重くなる。

そして、翌年、このアルバム”Head Up!”を作ることになる。引き続き同じ路線で、編成はさらに大掛かりになり、もう一本トランペットも加わり総勢で9人編成となった。しかし、ソロをとるのは、あくまでもミッチェルとシルバークインテット時代からの相方であるジュニアクックが中心となる。

アレンジが益々大事になるが、このアルバムでは4人のアレンジャーの腕比べとなった。前のアルバムでもアレンジを担当していたデュークピアソン。他にはジミーヒース、メルバリストン。さらに自分は知らなかったがドンピケットというアレンジャーが勢揃いした。それぞれ、メインストリームからブーガルーまで多彩なアレンジが提供されたのだが。

このブルーミッチェルはこの頃ブルーノートでは他のアルバムにもサイドメンとしての参加することが多かった。このようなオクテット、ノネット編成というのはソリストに余程個性がないとリーダーアルバムとはいってもソロがアンサンブルに埋没してしまう。そして、アレンジャーにとってはソロを引き立たせるアレンジができるかどうかがカギとなるのだが。残念ながらこのアルバムは、ミッチェルをフィーチャーしているというよりは、どうもアレンジの違いを聴き較べるアルバムになってしまったようだ。中では、デュークピアソンのアレンジによるジェリーダジオンのフルートのリードで始まるカリプソ風のThe People in Nassauに新しい風を感じる。ちょうど日本ではナベサダのボサノバが流行っていた頃だ。

というアルバムなので、余程のミッチェルファンか、あるいはアレンジ物が好きな人でないと手にすることはないアルバムだろう。

そしてこのアルバムには、自分の目当てのペッパーアダムスも参加している。ちょうどサドメルができて一年半近く経った時。サドメルに加えてデュークピアソンのビッグバンドでも定期的なライブが始まった頃で忙しくなった真っ只中、積極的にスタジオワークもこなしていた時期の録音だ。
1967年10月、ちょうどドナルドバードとの再会レコーディングを終えた後のセッション参加であったが、ここではアンサンブルワークだけで、特にソロの出番は無かった。アダムスに限らず他のメンバーではピアノのマッコイタイナーと、ジェリーダジオンのフルートだけがソロでも登場する。

その後のミッチェルは西海岸でスタジオワークが多くなる。初期のコンコルドのアルバムにも良く参加していた。ビッグバンドにも良く加わっていたし、ハロルドランドとコンビを組んだこともあった。が、ソリストとして名を馳せるにはプレーが上手だけでは駄目で、何か聴き手の感性に訴えるサムシングが必要なのかもしれない。

1. Heads Up! Feet Down!                 Jimmy Heath
2. Togetherness                      Jimmy Heath
3. The Folks Who Live on the Hill     Oscar Hammerstein II / Jerome Kern
4. Good Humour Man                    Blue Mitchell
5. Len Sirrah                       Melba Liston
6. The People in Nassau                  Blue Mitchell

Blue Mitchell (tp)
Burt Collins (tp)
Julian Priester (tb)
Jerry Dodgion (as fl)
Junior Cook (ts)
Pepper Adams (bs)
McCoy Tyner (p)
Gene Taylor (b)
Al Foster (ds)

Jimmy Heath (arr)
Duke Pearson (arr)
Don Pickett (arr)
Melba Liston (arr)
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliff, New Jersey on November 17, 1967


ヘッズ・アップ+2
ブルー・ミッチェル
ユニバーサルミュージック
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スイングするのは何もベイシーナンバーばかりではない・・・・

2015-04-05 | MY FAVORITE ALBUM
The Swingers / Lambert Hendricks & Ross

先日紹介したズートシムスのアルバムで珍しくシムスは歌を披露していたが、この曲の作詞はジョンヘンドリックス。最初のお披露目はというと、ジョンヘンドリックスが加わっていたランバート・ヘンドリックス&ロス(LHR)のアルバムであった。
このアルバムは、ベイシーナンバーのボーカリーズでデビューし、本家ベイシーとも共演して、さて次はといったタイミングで録音したアルバムである。

このアルバムでは、ランディーウェストンの曲が多いが、ジャズのスタンダードでもあるロリンズのエアジンやパーカーのナウズザタイムにもチャレンジしている。そして、その中にズートシムスのダーククラウドも含まれている。ところが、この曲はコーラスではなく、ジョンヘンドリックスのソロで歌われている。元ネタが無かったので、ボーカリーズという訳にはいかなかったのかもしれない。

ズートシムスは、50年代から60年代にかけてはペッパーアダムスなどと一緒にロフトでプライベートなジャムセッションをやっていたが、そこでもこの曲の演奏が残されている。シムスとしてはお気に入りの自作曲だったのかもしれない。
いずれにしても、アルバム自体はLHRのタイトル通り、モダンなスインギーなコーラスが楽しめる好アルバムだ。このアルバムを聴き直したついでに紹介しておく。

このランバート・ヘンドリックス&ロスはモダンジャズコーラスの元祖のような存在だ。デビューした時は当然話題にはなったが、ベイシーナンバーだけではブレークしなかったようだ。此の後CBSに移籍してから人気が上昇したようだが、人気が出た所で、アニーロスが病気で抜けてしまう。その後メンバーがヨランダベバンに替わって活動は続けたが、今一つブレークできずに1964年に解散する。そして、解散してしばらくして、リーダー格であったデイブランバートが交通事故で亡くなってしまう。マントラと違ってツキには恵まれなかったグループのようだが、ジョンヘンドリックスが一人グループの意志を継いで活躍しているのが何よりだ。

短い活動期間ではあったが、このアルバムはベイシーナンバーから他の曲へのチャレンジでレパートリーの幅を広げ、グループとしてステップアップしたアルバムであることには間違いない。そして、このアルバムではバックを務めるズートシムスがピアノのラスフリーマンと共に大事な役割を果たしている。スインギーなコーラスにはスインギーなバックが不可欠だ。

世の中、人によって話し上手もいれば話下手もいる。そして話し上手といわれる人の中にも、一人でも人を惹きつける話術で自分の話の独演会を得意にするタイプと、相手の話の聞き上手でもあり、相手の話に合わせて会話を弾ませることができるタイプの2パターンがいる。
シムスは、シムスは流暢なフレーズ作りが得意で、ソロだけでなく大編成に加わってアンサンブルワークも得意なオルラウンダーだ。ソロが主体の時はどうも一人で主役になるよりは、アルコーンとのコンビのように相手がいたり、あるいは誰かのサポート役に廻った時の方がよりプレーに流暢さが増すように思う。話し上手以上に聞き上手なのだろう。

このLHRのバックでも、実にタイミングよくそして歯切れよくコーラスに絡むシムス節が聴ける。そして、このセッション自体が、ズートシムスとラスフリーマンがセッションリーダーとなって、LHRのバックだけでなく、アニーロスのバックや、歌無しのクインテットの演奏が連日続いたようだ。日に日にメンバー間のコンビ―ネーションが良くなって、和んだ雰囲気の中での演奏も幸いしているようだ。やはり話し上手といえども初対面よりは、打ち解けてからの方が話は弾む。

一曲だけ、別セッションからトミーフラナガンとエルビンジョーンズをバックにした曲Jackieが収められている。このバックも魅力的だがどうやら他の録音はないようだ。

1. Four               Miles Davis / Jon Hendricks 4:12
2. Little Niles           Jon Hendricks / Randy Weston 3:28
3. Where               Jon Hendricks / Randy Weston 2:55
4. Now's the Time          Jon Hendricks/Charlie Parker 2:56
5. Love Makes the World Go 'Round           Jon Hendricks 3:44
6. Airegin                 Jon Hendricks/Sonny Rollins 3:31
7. Babe's Blues               Jon Hendricks/Randy Weston 3;15
8. Dark Cloud                 Jon Hendricks / Zoot Sims 3:31
9. Jackie                   Wardell Gray / Annie Ross 2:02
10.  Swingin' Till the Girls Come Home  Jon Hendricks/Oscar Pettiford 5;06

Dave Lambert, Jon Hendricks, Annie Ross (vol)

Only #9
Tommy Franagan (p)
Joe Benjamin (b)
Elvin Jones (ds)

Recorded at RCA Studio, New York, October 1, 1958

Others
Zoot Sims (ts)
Russ Freeman (p)
Jim Hall (g)
Freddy Green (g)
Ed Jones (b)
Sonny Payne (ds)

Recorded at "The Crescendo", Hollywood, CA, March 21, 24 1959

Produced by Richard Bock


The Swingers
クリエーター情報なし
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