A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

ゴルフには寒さは堪える、やはり半袖、短パンだと気持ちよくプレーできるのだが・・

2017-01-30 | GOLF LIFE
年明けとともに、寒い日が続いていた。
ゴルフには寒さだけでなく、カチンカチンに凍ったグリーンはプレーしていても面白くない。ちょうどこの冬一番の冷え込みと言われた日、朝一番のスタートだったが、その前に支配人が一足先にスタートしていった。終わって風呂場で顔を合わせると、「グリーンのシートをもう少し大きくしないといけないな」と。元々プロだったその支配人、最近は集客と売上が優先される時代だけに、何事も自ら現場体験してお客の立場で改善していくというのはいいことだ。

という訳で、寒い日本を離れて先日グアムに遠征した。昔は、毎年ハワイ合宿をしたこともあったが、久々の海外ゴルフ。というよりは海外に出掛けること自体久しぶりだった。
今回は、日数も短く、ゴルフバッグを持参しなければならないので、空港まで車で行って預けることにした。最近、羽田空港は駐車場が満杯で、時間によっては駐車するのも大変と聞くので、成田の駐車場事情はどうかと調べたら、こちらは外部の駐車場も多く問題はなさそう。競争が激しくなっているのか、以前よりも安くなったような気もした。その中で一泊300円と激安のB-timesが目についた。

調べてみるとコインパーキングのTimesが最近力を入れている時間貸しではなく、日貸の駐車場。成田の場合、場所は系列のタイムスレンタカーの敷地の中。要はレンタカーを置いてあるパーキングスペースの有効利用ということだ。
当然利用者は空港利用者がほとんどだと思うが、空港までの送り迎えはレンタカーの送迎バスがあるので、これを利用すれば新たな投資は必要なし。在り物利用のサービスとしては良くできた仕組みだ。
もちろん、利用者にとっても同じサービスであれば安いのが一番。タイムスクラブのメンバー限定のサービスだが、たまたま自分は会員になっていたので、使う側も何も面倒な手続きいらずであった。実際に使ってみたが、利用できる台数も多くないので、個人サービスに近く、待ち時間もなく便利に使わせてもらった。次回もここを使うだろう

グアムでのゴルフは、スターツゴルフリゾートとマンギラオゴルフクラブ、どちらも日本の会社がオーナーでお客も大部分が日本人。グアムは今がトップシーズン、プレー料金もしっかりリゾート料金であった。特にマンギラオは全日$250、円安の昨今3万円に近い。今回の幹事役が色々伝手を探したが、ディスカウントは一切無いらしい。国内ではプレー代は安くなる一方だが、やはり価格は需給関係で決まるのだろう。

何を買っても、高く割に中身が期待外れだとがっかりするものだが、今回のコースは価格相応に満足。天気が良かったのも幸いだった。リゾートコースにしてはどちらも手入れが良く、特にグリーンが良い状態だった。マンギラオは、米国ゴルフダイジェスト誌の世界の100コースに選ばれているというだけあって、有名な海越えの12番ショート以外も全体のレイアウトが変化に富んでいて楽しめるコースだ。池が絡むホールが多いアウトと、崖を下って海沿いのインの対比も素晴らしい。





初めて廻るコースはどこに行ってもプレー以前に、OBはどこかとか、池やバンカーの在りかが気になる。更に、ここのようにリゾートコースで綺麗な景色が楽しめ、おまけに風が強いとなると、気になる事が多く、肝心のスコアはどうしても二の次になる。もう一度プレーに集中してチャレンジしてみたいコースだ。

暖かい南国でゴルフをすると、寒い日本ではしばらくゴルフはお休みかと思っていたが、ここ2,3日の暖かさにつられて昨日はホームコースへ。研修生がキャディーにつき、組み合わせで2サムだったので、こちらは見慣れた景色に見とれることもなく、プレーに集中できた。
前半はダボなしの41。後半もその調子と思ったら、出だしのロングホールで林に打ち込み大トラブル。最終のロングホールも同じミス。どちらも大叩きの9。他はなんとかまとめてまずまず90を切るスコア。
昨年末からパットの不調が続いていたが、グリップを変えたせいとばかり思っていた。先日忘れていたポイントを一つ思い出したらパットがしっくりきたのが大きい。周りの状況を気にしないだけでなく、体の動きも無意識に自然体で打てるとスイング全体がしっくりくるのだが、ゴルフというのはどうもその域に達するのは難しいようだ。プロが毎日のように練習しても体に覚え込ますのは大変なようだが、素人は身に付いたつもりでも一晩寝るとすぐに忘れてしまう。

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絶好調のトランペット3人の実力者に混じって、ピアノの新人が・・

2017-01-21 | MY FAVORITE ALBUM
Three Trumpets / Donald Byrd, Art Farmer.Idrees Sulieman

老舗のライブハウス東京TUC
は色々嗜好を凝らした企画をやるが、昨年から続いているのがドラムの大坂昌彦が企画する同じ楽器を3人揃えたサミットシリーズ。臨時編成のグループとはいえ、単にジャムセッションを繰り広げるのではなく、ソロあり、2人の組み合わせあり、多彩な構成で個性ある3人のプレーを存分に楽しめる。

昨年は、たまたま来日中のアルトのエリックマリエンサルを加えたバトルは圧巻だったし、クラリネット3本というなかなか聴くことのできない楽器、それもスタイルが全く違う3人の組み合わせも楽しめた。今年もすでにピアノ3人の組み合わせが終了し、来月は若手トランペット3人が予定されている。

ブルーノートの初期のシリーズが1500番台ならば、ライバルともいえるプレスティッジは7000番台となる、こちらは、次に7100番へと順番に60年代に入っても延々と続き、最後は70年の7862番でシリーズは終わる。

この7000番台初期のプレスティッジオールスターズの中に、同じ楽器を2本、3本、4本を組み合わせたバトル物が多かった。コルトレーンが加わったTenor Conclaveや、後にコンビを組むウッズとクイルが入ったFour Altos、そしてトランペットとアルトが2本づつといったPairing Offというアルバムもあった。
そのような企画の一環としてトランペット3本の、その名もスリートランペットというアルバムがある。

1957年の録音なので、ニューヨークにドナルドバードが出てきてまだ2年目。まだ25歳の頃だが、ジャズメッセンジャーズにも加わり、すでに大活躍していた。この年に録音されたドナルドバードが参加したアルバムの枚数は改めて数えてみたら30枚を超える、要は毎週のようにレコーディングに参加していたことになる。バードに限らず、この頃プレスティッジの専属であったアートファーマーも同様であった。

ジャズ界が一番元気であった時代とはいえ、この頃の各社のレコーディングの数は膨大だ。だからこそ、今でも当時の彼らの演奏を聴けるということになるのだが。
それに反して、より技術的にも進歩し、文化的にも多様になった今日、日々活動しているミュージシャンの演奏が、きちんと後世に残せていないというのも何か矛盾を感じる。使い捨て文化が理由なのか、デジタル化の弊害なのか。デジタルデータは取り扱うのは便利だが、何かがあったら何も残らない。ハードディスクをクラッシュさせた経験があれば、誰もが体験している事なのだが。今から50年後に今の時代の情報を求めるとネット上に無数のごみ情報はあっても、アルバムのようにきちんとした形では何も残っていないのかもしれない。

さて、このアルバムはバードと、ファーマー、それにアイドリーススリーマンの3人のトランペット奏者が主役だが、もう一人重要なメンバーがいる、ピアノのホッドオブライエンだ。
21歳のオブライエンが初めて録音の機会を得たアルバムだ。
このブログを再開した時のアルバムが、ホッドオブライエンだったが、このオブライエンはこの時期の録音がほとんど残っていない。タルファーローが伝説のギタリストであれば、このオブライエンの引退前の演奏も貴重な演奏だ。パウエルの影響を受けた、バップスタイルの演奏が3人のフロントラインを支えている。

3人の演奏も、歳をとるに従ってそれぞれのスタイルに進化していったが、この頃の演奏は誰もがガレスピー、ナバロの影響を受け、クリフォードブラウンに刺激を受けていた発展途上。

スタンダード曲を素材としたジャムセッション物ではなく、すべて参加メンバーのオリジナル。ブルースに始まり、バラード、そして最後はアップテンポに盛り上がってソロ交換で終わる構成は、それぞれの演奏だけでなく、アルバム作りにも参加したメンバーのコラボレーションの成果が窺われる。

ピアノのホッドオブライエンは、その後60年代の初めまでは、ニューヨーク郊外のステイトンアイランドのクラブでハウスバンドのピアノを務めていたが、ピアノ弾きをやめてコンピューター関連の仕事に就く。しかし音楽に対する興味は失せることなく、70年代の後半に再びジャズ界に復帰し、ペッパーアダムスなどとセッションを再開した

1. Palm Court Alley          Idrees Sulieman 7:48
2. Who's Who?               Art Farmer 6:29
3. Diffusion of Beauty           Hod O'Brien 7:01
4. Forty Quarters           Idrees Sulieman 4:34
5. You Gotta Dig It to Dig It        Donald Byrd 13:30

Donald Byrd (tp)
Art Farmer (tp)
Idrees Sulieman (tp)
Hod O'Brien (p)
Addison Farmer (b)
Ed Thigpen (ds)

Supervised by Teddy Charles
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, NJ, January 26, 1957

Three Trumpets
クリエーター情報なし
ユニバーサル ミュージック
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フレッドハーシュの初のトリオでのアルバムが提供されたのは何とコンコルドからであった・・・

2017-01-20 | CONCORD
Horisons / Fred Hersch Trio

ネットビジネスが世に出始めた頃、成功の秘訣は「プラットフォームビジネスに徹する事」という考え方があった。その昔はビジネスの組み立て方は垂直統合、多くの下請け企業群を傘下に持ち、製販一体が大企業の象徴のような時代もあった。今では分業化、良いものを外部から調達、それもグローバルレベルが当たり前の世の中になった。

プラットフォームビジネスというと、ビジネスレイヤー毎に輪切りにして、輪切りの部分を横展開していく戦略。ネット上ではポータルビジネスから始まったが、コマースが主流になり流通や決済まですべての領域に広がった。もちろん各レイヤーで成功するには、ITの利活用が不可欠であり、その巧拙がビジネスで成功するか失敗するかの重要な要素にもなった。

各レイヤーで勝ち組が出揃ってきたと思ったら、今度はレイヤー間の組み合わせ、連携が競争となり、新たな戦いが始まった。今や、車の自動運転が実現される時代、もはやITの利活用は利用者から直接見える所ではない、社会構造の奥深い所まで及んでいる。

さらに、最近のキーワードはビッグデータからAIに。我々生活者としては、ますます便利な世の中になっているが、反対に個人情報はすべてどこかに集まって、それらを元に勝手に判断を押し付けられる時代に。自分の意思を貫くには、そろそろ自分にとって必要なプラットフォームを利用者側が必要に応じで選別する時かもしれない。

さて、物でもサービスでも、それを実際に生活者に認知してもらい、買ってもらうために必要なものはブランドとそのネーミング。広告会社の一番の腕の見せ所である。そのブランド自体の役割も最近では大きく変化しつつある。果たして今後はブランドにどんな意味を持たせる世の中になることやら。

ジャズの世界では、昔はレーベルがブランドのようなものだった。レーベルの名前を聞いただけで、中身の演奏を想像できるようになれば、ジャズファンとしては一人前だった。自然と、好きなミュージシャンと共に、自分の好みのレーベルが決まってきたものだ。自分は、色々試行錯誤の結果、Concordレーベルファンに辿り着いたことになる。

Concordとは、オーナーのカールジェファーソンが、地元の町の名前Concordをそのままつけたもの。Concordの町自体が有名だったとは思えないので、実に安直に決められたネーミングだ。
地元で車のディーラーとして成功したジャズ好きのジェファーソンが、町のイベントとして公園の片隅でジャズフェスティバルを開催し、そのライブの録音をレコードにして通信販売で提供し始めたのがレーベルの始まり。特に積極的にビジネス展開するつもりも無かったようで、フェスティバルの名前もConcord、レーベルもそのままConcordでスタートした。

ギター好きのジェファーソンが最初に集めたのは、バニーケッセル、ハーブエリス、ジョーパス、ケニーバレル、チャーリーバードといったそれまで第一線で活躍していたベテランのギタリスト達。レイブラウンやジェイクハナといった彼らの仲間達も集まって、ジェファーソンに協力した。彼らも、昔のように大勢の人の前で演奏する場を求めていたのかもしれない。

地方に行くと、昔テレビの歌謡番組の常連だった懐かしい歌手がコンサートやホテルのショーに出ている。知名度は高いのでお客はそれなりに集まるからだろう。という点は、このコンコルドのジャズフェスティバルも同じ。客層は限られても、集客には十分な知名度と実力がある面々だった。

フェスティバルという年に一度のお祭りでは収まらず、出演したメンバーがLA4やグレートギターズのように新たにレギュラーグループを作ったり、他の仲間を呼んで一緒にアルバム作りを始めた。さらに、彼らが自らA&Rマンとして、日々の自分達の活動がてら、新人を発掘してはジェファーソンに推薦した。最初は、話が決まれば自分達が一緒に共演する、といった手作り感溢れるアルバムが多かった。その結果、ベテラン達に混じって、コンコルドでデビューした新人は、スコットハミルトンを筆頭に数多い。

当初、レーベルの活動拠点は西海岸であったが、東海岸でも同様な活動を始めた。それらも最初はすべてジェファーソン自らがプロデュースしていたが、数が増えるとプロデューサーも現地で起用し、アートブレイキーやジョージシアリング、ジムホールといった東海岸を拠点にしていたベテラン達も新たに加わった。

アートブレイキーのように、現役でグループを率いている場合は、そのグループの演奏はもちろん、ジェイムスウィリアムスのような若手メンバーにも別にレコーディングの機会を与えた。このような、現役レギュラーグループや、若手が加わると演奏自体、昔懐かしいスタイルだけでなく、新しいサウンドを聴かせるアルバムも増えていった。

カタログの枚数が250枚を超えると、ジャズの世界ではすでにメジャーレーベル、コンコルドサウンドは広く世間知られることになった。ちょうど同じ時期に展開していたPabloレーベルと並んで、ベテラン達の元気なメインストリームなプレーを聴けるレーベルとして定着していった。意図したものか、偶然かは別にして、どちらも似たようなブランドイメージが決まったということになる。

ところが、コンコルドのアルバムの中には時々プレーヤーの自主制作アルバムが混じっている。このような自主制作物は、初期の段階から、ルイベルソンバドシャンクのアルバムにもあった。自分で録音したものの、アルバムとして発売する機会を逃していたものが多い。
これらのアルバムは、ジェファーソンが特にプロデュースに関与した訳でもなく、いわゆるレーベル貸のような位置付けである。

インターネットが普及していなかった時の自主制作盤となると、その流通はメールオーダーの通信販売だけが頼りだった。告知だけでもなかなか大変な時に、定期的に新譜を出していたレーベルのカタログにラインナップされるということは、それだけでも世に認知してもらうには大きな告知効果があった。もちろんレーベルの持つ信頼感も合わせて。

新人達が参加し始めると、彼らにリーダーアルバム作りの機会も作るようになった。プロデュースをジェファーソンがすることもあったが、ミュージシャンに任せることも次第に多くなった。ドントンプソンのアルバムなどはその一枚。

アートファーマーのグループに加わり、コンコルドにアルバムを残したのがピアノのフレッドハーシュ。スタンゲッツのグループに加わったこともあり、他の有名プレーヤーとの共演も多かった。日本でも長期間ツアーをするなど活動実績は重ね、決して無名ではなかったが、何故かその時まで自分のトリオでの演奏の録音機会には恵まれないでいた。今の、フレッドハーシュの活躍ぶりからは信じられない事だが。

ジェファーソンは、このハーシュにトリオでのアルバムの機会を提供した。そのころハーシュは、ニューヨークに自分の録音スタジオを持ち、活動の範囲は一演奏家には留まらず広範囲だった。それ故、アルバム制作にあたっては、プロデュースのみならず、録音スタッフ、アルバムデザインに至るまで、すべてをハーシュに任せた。

結果は、完全自主制作アルバムで、いわゆるコンコルド色を全く感じず、突然ECMのアルバムが入り込んだような内容となった。このように、コンコルドの新人紹介アルバムは、制作過程に色々な経緯があるので、結果的に興味深いものが多い。

こおハーシュのアルバムも前回紹介したジーンハリスのアルバムとは色々な意味で好対照だ。ピアノのスタイル自体も、ハリスはピーターソンライクであるのに対して、ハーシュは当時からビルエバンスの影響が大きい。共演メンバーにはエバンスとコンビを組んだベースのマークジョンソンも加わっている。ドラムのジョーイバロンも、トニーベネットやカーメンマクレーのバックもしていたが、ニューヨークに移ったこの頃から、ハーシュなどと一緒に新しい世界に飛び込んでいった。このバロンにとっても今のドラミングに通じる出発点となるプレーを披露する場となっている。
演奏だけでなく、クラシックの録音もしていたというハーシュのスタジオ録音と、コンコルドの拠点でフィルエドワーズの手掛けた録音では、音の作り方も大きく違うのも興味深い。



コンコルドレーベルのファンにとっては、このハーシュのアルバムで、コンコルドのブランドイメージがさらに広がっていくことを実感できるが、ハーシュのファンにとってはコンコルドというレーベルイメージが、ハーシュの初アルバムにかえってマイナスイメージを与えてしまうかもしれない。ブランドイメージの難しい所だ。中身は正真正銘、今のハーシュの演奏に繋がるトリオの初アルバムとして聴き応えがあるものだが。

レーベルというのもある種のプラットフォームだが、今の日本のジャズ界は多くが自主制作盤。今の時代こそこのような自主制作盤を選別してカタログに載せるようなレーベルがあってもいいかもしれない。自分もライブに行った時に買い求める以外、なかなか新人達のアルバムを知る機会がない。今のネット時代だと、リコメンドアルバムがマイレーベルなのかもしれないが。

確かに今では色々なサイトでリコメンドアルバムが表示されるが、それは自分自身や同じようなファンの購買、視聴履歴を参考にしたものが大部分。ジェファーソンの試みたような意外性がリコメンドの選定基準に加わってくると、AI技術も本物になるだろう。

1. My Heart Stood Still           Lorenz Hart / Richard Rodgers 6:24
2. Moon and Sand       William Engvick / Morty Palitz / Alec Wilder 7:43
3. The Star-Crossed Lovers        Duke Ellington / Billy Strayhorn 5:00
4. One Finger Snap                     Herbie Hancock 3:22
5. The Surrey With the Fringe on Top  Oscar Hammerstein II / Richard Rodgers 5:00
6. Miyako                           Wayne Shorter 7:43
7. Cloudless Sky                        Fred Hersch 8:04

Fred Hersch (p)
Marc Johnson (b)
Joey Baron (ds)

Produced by Fred Hersch
Enginner : A.T.Michael, Mark Donald
Recorded at Classic Sound Studio, New York City in October 1984
Originally released on Concord CJ-267

Horizons
クリエーター情報なし
Concord Records
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コンコルドで復活したジーンハリスのピアノの原点は・・・・

2017-01-16 | MY FAVORITE ALBUM
Introdusing The Three Sounds

自分が社会人になってすぐ、会社の上司にジャズ好きの大先輩がいた。中でも大のブルーノートファンで1500番台はすべて持っていると豪語していた。その時、日本盤がすでに出回っていたが、自分より一回り上のその先輩が社会人になったのは1961年。そこからコツコツと集めたと言っていたので、多分オリジナル盤が大半だったろう。亡くなって久しいが、今でもそれが揃って残っていれば宝物だ。

1500シリーズは1501番のマイルスから始まるが、最後はというと1599番ではなく、1600番のこのアルバムとなる。コンコルドで復活したジーンハリスが在籍したスリーサウンズのデビュー盤である。
1958年といえばハードバップ全盛期。ブルーノートもこの後4000番台に入り、ジャズのスタイル自体もフリーからファンキーまで大きく変化をしていった。ちょうど、その節目となったアルバムである。

スイングジャーナルのレコード評は、評論家各氏がそれぞれ評点をしていたが、話題盤になると複数のレビューがあったが、切り口は違っても総じて良い評価をしたものが大半であったが、中には大きく評価が分かれるものがあった。
ひとつは余りに大胆な試みをしたもの、そして反対にジャズの楽しさだけが前面に出た感じのもの。当時のジャズは評価を得るには、同じことをやっても、常に進化しなければならないといった強迫観念に駆られていたように思う。

本家のダウンビート誌も同様の採点をしていたが、所詮ジャズのアルバムの評価といったものには何も基準がある訳でなく、レビュワーの独断と偏見の結果に過ぎない。結局、自分の好きな評論家と嫌いな評論家に分かれ、我々聴き手にとっては、レビュー内容より評論家の好き嫌いが評価になっていた。

さて、このスリーサウンズ、評論家の評価は日米共に今一つであったようだ。特に辛口のファンが多かった日本では、このグループを評価していたのはイソノテルオ氏だけだったように記憶する。

ところが、評価と人気は別なようで、4000番台になってからもこのスリーサウンズは人気グループとして数多くのアルバムを残した。トリオの演奏だけでなく、ソリストのバックとしても。ソニーステットなどとは、一緒にツアーもしていたようだ。当然、人気が出るとより売れるアルバム作りに、R&B、ポップス、ロックなどの要素も取り入れジャズアルバムとはさらに一線を画すものとなり、変わらなかったのはハリスのピアノだけだった。
’67年、創立メンバーの一人でありグループを率いていたドラムのビル・ダウディーがグループを去り、メンバーが変っても人気グループとしては存続した。
その後、ハリスが地方に引き籠り、ホテルのラウンジのピアノ弾きになったのも、このようなグループ活動に疑問を持ったかもしれない。

最近、昔から第一線で馴らしたベテラン達のライブを良く聴きに行く。過去には多くのスタジオワークをこなし、ビッグバンドからフュージョンまで何でもこなした面々だが、今のライブではスタンダード中心のストレイトアヘッドな演奏が中心だ。色々やっても最後は自分達のジャズの原点に戻ってくるのかもしれない。

コンコルドに復帰したジーンハリスは、再び水を得た魚のように活躍をするが、この活動の原点は、やはりこのスリーサウンズのアルバムの演奏にあるのだろう。

1. Tenderly 4:36
2. Willow Weep For Me 4:42
3. Both Sides 4:41
4. Blue Bells 4:27
5. It's Nice 4:40
6. Goin' Home 3:55
7. Would'n You 7:14
8. O Sole Mio 3:59

Gene Harris (p,celeste)
Andrew Simpkins (b)
Bill Dowdy (ds)

Produced by Alfred Lion
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, NJ, September 16 & 28, 1958

INTRODUCING THE THE THREE SOUNDS イントロデューシング・ザ・スリー・サウンズ+6
クリエーター情報なし
東芝EMI
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伝説のギタリストが、再び伝説の人に戻る時・・・・

2017-01-14 | CONCORD
The Legendary Tal Farlow

それなりに活躍していたミュージシャンンが第一線を退くと、それぞれ別の人生を歩む。
ジーンハリスはピアノを弾くことは止めなかったが、活動の場所は田舎町のホテルのラウンジであった。ピアノのホッドオブライエンは、コンピューター関係の仕事に就いた。

そして、ギターのタルファーローはニュジャージー州の海沿いの小さな町、Sea Brightでサインペインターとして日々を暮らしていた。ギターを弾くのも地元でセッションに出る位であった。
20歳を過ぎてから初めてギターを手にしたという。最近はスポーツであっても音楽であっても、10代の頃から世界的レベルのプレーヤーとして活躍する者が多い。遅咲きのファーローにとっては、この時代であってもプロとしてギターを生活の糧にすることは最初から念頭に無かったのかもしれない。

このように半ば引退状態であったタルファーローを再び第一線に呼び戻したのは、1976年のコンコルドジャズフェスティバルであった。コンコルドのハウスリズムセクションともいえる、レイブラウンやジェイクハナに加え、昔一緒にコンビを組んだレッドノーボをゲストに迎えてファーローの復帰を祝った

これをきっかけとして、伝説のギタリストは再び現役復帰し、コンコルドでアルバムを何枚か残した。
現役復帰するとレコーディングだけでなく、ライブやツアーも増える。80年代に入ると国内だけでなくヨーロッパツアーにも出向くようになる。しかし、そこでは自分の好きなように演奏するだけでなく、色々なセッションにゲスト参加する機会も増える。フランスに行くと、ホットクラブのグループにも招かれた。あのジャンゴラインハルトの演奏スタイルを伝承するグループだ。その演奏を聴いたファンは、必ずしもファーローの演奏している姿が楽しげには見えなかったという。

1984年も、自分のグループでヨーロッパツアーを行った。それを終えてすぐに今度は日本ツアーがあった。メインストリームからフュージョンまで毎日のように大きなコンサートが開かれていた当時の状況では、ファーローの来日と言っても大きな話題にならなかった。
実際に演奏する場も、アコースティックジャズフェスティバルとネーミングされ、ファーロー以外にローリンドアルメイダとデニーザイトリンと舞台をシェアした。しかし、メインはザイトリン。ファーローのステージは前座のような扱いであった。

コンコルドのオーナー、カールジェファーソンは、ツアーから戻ったファーローのグループに、ピアノのフランクストラゼリを加えてレコーディングを行った。
タルファーローのアルバムにはホーンが加わったアルバムは少ない。しかし、ツアーからこのレコーディングに至るグループには、サムモストが加わっていた。サムモストはフルートで有名だが、テナーはクールトーン、ウォーンマーシュのようなタイプだ。
他のメンバーとの調和を重んじていたファーローは、このようなタイプのホーンであれば、一緒にやってもいいと思ったのかもしれない。このアルバムでも、全曲に参加している訳でなく、実際の演奏もファーロー中心の演奏に表に出ることなく上手く溶け込んでいる感じだ。

このアルバムで参加したピアノのストラゼリも西海岸を拠点に活動していたベテラン。こちらも全曲に参加している訳でなく、そつない演奏を聴かせてくれる。

このアルバムを最後に、ファーローは再び表舞台から消えてしまう。やはりジャズ界の表舞台の活況の中で、「伝説のギタリスト」として加わることは、ある種の重荷になったのかもしれない。
ファーローにとってのジャズでありギターは、気の合った仲間と、それを聴いてくれるファンに囲まれ、気分よく演奏ができれば良く、無理にその世界を広げる必要が無かったのかもしれない。

結局、このアルバムが最後のアルバムとなり、タイトル通り再び伝説の人となってしまったが。
コンコルドではそれまでジェイムスウィリアムスと組ませたり、色々セッション毎に企画を凝らしたが、カールジェファーソンはその状況を察してか、最後は自分のグループで好きなように演奏させるように指示したように思える。

1. You Stepped Out Of A Dream        4:41
2. When Your Lover Has Gone         4:58
3. I Got It Bad And That Ain’t Good   5:14
4. When Light Are Low          6:45
5. Who Cares              4:16
6. Prelude To A Kiss           5:15
7. Everything Happenaas To Me        4:49

Tal Farlow (g)
Sam Most (ts,fl)
Frank Strazzeri (p)
Bob Maize (b)
Al “Tootie” Heath (ds)

Produced by Frank Dorritie
Engineer : Jim Mooney
Recorded at Sage and Sound, Hollywood, September 1984
Originally released on Concord CJ-266


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偶然一緒に演奏したのかきっかけで、2人のソウルエネルギーが全開へ・・・

2017-01-10 | CONCORD
Soular Energy / The Ray Brown Trio featuring Gene Harris

毎年8月になるとサンフランシスコに程近いコンコルドの街にはジャズミュージシャンが集まる。街の郊外にあるパビリオンで開かれるコンコルドジャズフェスティバルに参加するためだ。
規模が大きくなるにつれて、西海岸だけでなく東海岸や遠く海外から、日本からも北村英治が参加するようになった。ここでのステージの模様はライブアルバムとして毎年のようにコンコルドレーベルでリリースされ、会場に出向いたファンだけでなく、世界中のファンが楽しむことができた。また、その機会を利用してスタジオでの顔合わせセッションも開かれ、これも数多くアルバムとなって世に登場した。

自分のレーベルの所属ミュージシャンを中心にフェスティバルの毎年の出し物を考えるのはオーナーであるカールジェファーソンの楽しみであり、特権でもあった。1984年のフェスティバルのプログラム構成を企画していたジェファーソンが、何においても彼の片腕であったレイブラウンに、「今回はアネスティンアンダーソンにすべてブルースを歌ってもらおうと思う、メンバーを考えてくれないか」と、相談を持ち掛けた。

レイブラウンはすぐに、ピアノのジーンハリスを思い浮かべた。
というのも、少し前にレイブラウンはハリスに頼まれて2日間ハリスのセッションに付き合って、その縁で一緒にアルバムも作ったからであった。

お互い50年代からジャズ界で活躍してきた2人だが、共演したのはそれが初めてだった。というのも、ハリスは70年代には第一線を退きアイダホ州のボイセという地方都市に引き籠り、地元のホテルでピアノを弾いていた。ボイセはアイダホ州の州都とはいえ人口は20万人ほど。黒人が極端に少ない田舎町。ジャズ界との接点はほとんど無い場所だった。その地ででハリスはジャズだけでなくブルースからカントリーまで日替わりで何でも演奏している毎日だった。

レイブラウンと初めてプレーしたハリスは、久々にジャズのエネルギーが体内に蘇った。一方のレイブラウンはハリスのソウルフルなピアノの躍動感を一緒にプレーすることで体感した。ブラウンは数え切れない程のミュージシャンとの共演経験があるが、この感覚はあのミルトジャクションと一緒にプレーする時と同じだと感じ、早速ハリスを連れてニューヨークに行った。そのミルトジャクションと一緒にアルバムを作るために。
1983年12月のことであった。

その印象が強く残っていたブラウンは、ジェファーソンからの依頼を受けると、早速ボイセにいるハリスに参加を求め、一緒にフェスティバルのステージに立つことになった。

このアネスティンアンダーソンのブルース特集はステージでの演奏だけでなく、別にスタジオでアルバムを作ることになった。サンフランシスコのCoast Recordersスタジオにメンバー達は三々五々集合した。その時のアルバムが、先に紹介したアネスティンのアルバム”When the Sun Goes Down“である。

このアネスティンのレコーディングの準備を行っている最中、トリオの面々はせっかくだから自分達のアルバムも作ろうということになった。特にレコーディングの準備をしている訳でもなかったが、そこは臨機応変に対応できるジャズの良さ。リハーサルもなくスタンダード曲を次々と演奏し始めた。ライブでも初顔合わせの面々が簡単な打ち合わせでセッションを繰り広げるが、そのノリでこのレイブラウントリオのアルバムが誕生した。

過去にブラウンはオスカーピーターソンのトリオで、そして一方のハリスはスリーサウンズでピアノトリオでの演奏には手慣れた2人、レギュラートリオのように次々と曲をこなす。
ドラムはジョーウィリアムスのバックをしていた新人のゲーリックキングを起用したが、2人が引っ張るトリオに複雑なリズムやバックはいらない、ステディなドラムングがかえって効果的だ。
普段もう少し早いテンポで演奏されることが多いTake The A Trainをゆったりとしたテンポでスイングさせるところなどは、即席のトリオとは思えないコンビネーションだ。



ライブでのセッションも、演奏が興に乗じてくると飛び入りの参加で盛り上がる。ここでもアネスティンアンダーソンの録音にスタンバイしていたテナーのレッドホロウェイが加わる。そして、何と自分のアルバム(先日紹介したCatwalk)作りに来ていたギターのエミリーレムラーも加わって一緒に大ブローを披露している。
この曲だけはレイブラウンがヘッドアレンジで曲を提供。思いっきりアーシーな演奏に、レムラーのギターもデビュー当時のモンゴメリーライクなブルージーな演奏となる。自分のアルバムでの演奏と比較すると同じプレーヤーとは思えない。

コンコルドの常連であり重鎮のレイブラウンはこれまでトリオの時はモンティーアレキサンダーなどと組むことが多かった。今回、ハリスとは余程相性が良かったのだろう、これを機に2人のコンビのレイブラウントリオがスタートする。
ハリスにとっても、ちょっと歌伴のお手伝いという感じの参加のはずだった。だが、これがきっかけでコンコルドの看板スターに返り咲き、ジャズ界でのセカンドステージが始まった。何がきっかけで人生の大きな転機を迎えるか分からないものだ。

コンコルドのアルバムは総じて録音が良いが、このアルバムのハリスのピアノのタッチと、レイブラウンの重低音のベースが絡み合う迫力は、演奏だけでなく録音も格別だ。

1. Exactly Like You    Joe Burke / Dorothy Fields / Jimmy McHugh 5:47
2. Cry Me a River                 Arthur Hamilton 5:46
3. Teach Me Tonight            Sammy Cahn / Gene DePaul 4:51
4. Take the "A" Train                Billy Strayhor 6:20
5. Mistreated But Undefeated Blues            Ray Brown 4:16
6. That's All               Alan Brandt / Bob Haymes 5:48
7. Easy Does It         Count Basie / Sidney Keith Russell 4:03
8. Sweet Georgia Brown  Ben Bernie / Kenneth Casey / Maceo Pinkard8:45

Gene Harris (p)
Ray Brown (b)
Gerryck King (ds)
Red Holloway (ts) #5
Emily Remler (g)  #5

Produced by Carl Jefferson
Engineer : Pill Edwars
Recorded at Coast Recorders, San Francisco, August 1984
Originally released on Concord CJ-268

Soular Energy
クリエーター情報なし
Concord Records
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レギュラー活動での成果をオーナーの前でお披露目に・・・・

2017-01-07 | CONCORD
Catwalk / Emily Remler


世間では正月休みも終わり日常のペースに戻りつつあるが、どうも仕事を辞めるとなかなか日々のペースが作れない。このまま毎日が日曜日の生活を過ごすわけにはいかないなと思っていたら、昨日、高齢者の定義を75歳からに変えるというニュースが流れていた。

高齢者かどうかの自覚は個人差が大きいとは思うが、まずは健康であることが何にも増して大事な事であろう。自分はこれまで大きな病気知らず、怪我知らずで、幸い医者とはあまり付き合わずに過ごせてきた。今後は、少しは健康に留意しなければと思うのだが、それにはまずは規則正しい生活(食生活を含めて)のリズムを作ることが先決だろう。一年の計は元旦にありと言われるように、ちょうど1月は一年の節目、今月中に何とかしたいものだ。

初詣に続いて、初打ち、初ライブはとりあえずどちらも済ませたが、初打ちは散々な結果に。新年早々、間違いなく今年のワーストを記録した。この悪いイメージを払拭するためにも、仕切り直しが必要だ。

初ライブはトロンボーンの向井滋春、久々にライブを聴いた。昔はフュージョン系が多かった記憶があるが、今回はメインストリーム。同じ世代だが、プレーぶりも元気だし、チェロを弾いたりチャレンジ慾も衰えていないようだ。
奥様のボーカルありの楽しいライブであったが、この日の大収穫は初めて聴いたアルトの加納奈美。若手の女性サックスは次から次へと登場しているが、彼女の堂々としたプレーはベテラン揃いの他のメンバーに囲まれた中では貫禄さえ感じた。若手だけの演奏はなかなか聴く機会が無いが、このようにベテランの中に混じってくれると出会う機会も増える。今後が楽しみ。

さて、アルバムの方はコンコルドの続きを・・・。
今回の主役はギターのエミリーレムラー。コンコルドはギターのアルバムが多いが、ベテラン勢に混じって新人も多い。その中ではこのレムラーが一歩抜きに出た活躍を残した。

最初は、クレイトンブラザースのアルバムに参加し、すぐにハンクジョーンと初のリーダーアルバム”Firefly”を作る。モンゴメリーの影響を受けたというメインストリームのプレーを。
続いて今度はジェイムスウィリアムスのピアノをバックに若々しさを前面に出した”Take Two”

3作目”Transitions”は自分のグループ
で、コンテンポラリーなサウンドをアピール、といった感じで一作ごとに進化を感じさせるものだった。

そして、この4作目。
今度はどのように変容したかが楽しみだが、前作の録音から9カ月後。メンバーは前作と同じとなると、これまでのように大きな変化があるとは思えなかったが・・・。
彼女の活動の拠点はニューヨーク。ニューヨークではこのメンバーでレコーディングだけなく、日頃のライブ活動も続けてきたレギュラーグループになっていた。

レギュラー活動を続けると4人のコンビネーションは一段と良くなる。トランペットのJohn D'earth。決して有名ではないが、バディーリッチやサドメルといったビッグバンド育ち。ミュートプレーやモジュレーターを使用した多彩なサウンドを屈指した多彩なプレーを聴かせてくれる。
ベースのエディーゴメスはビルエバンスとの共演で鍛えられたコラボ上手。
そしてドラムのボブモーゼズも普通のドラムセット以外のパーカッションも駆使して多様なリズムを刻む。
この4人のコラボレーションが一段と進化したコンテンポラリーなグループサウンドなったということになる。
このアルバムはその成果の発表となった。

そして、この録音はこれまでのようにニューヨークではなく、4人をわざわざ西海岸に呼び寄せカールジェファーソン自ら陣頭指揮での制作となった。
とはいっても中身は、彼女自身がプロデュースした前作同様彼女に全面的に任せたので、期待の新人のオーナーの前でのお披露目の場となった。



1. Mocha Spice      Emily Remler 4:26
2. Catwalk        Emily Remler 7:19
3. Gwendolyn       Emily Remler 4:35
4. Antonio        Emily Remler 4:25
5. Pedals         Emily Remler 6:54
6. Five Years       Emily Remler 5:48
7. Mozambique      Emily Remler 7:44

Emily Remler (g)
John D'earth (tp)
Eddie Gomez (b)
Bob Moses (ds,per)

Produced By Carl Jefferson
Engineer : Phil Edwards
Recorded at Coast Recorders, San Francisco, California. August 1984
Originally released on Concord CJ-265

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ミンガスの死が、有名プロデューサーの人生を変えたのかも・・・

2017-01-06 | PEPPER ADAMS
Impressions Of Charles Mingus / Teo Maselo

チャールスミンガスが亡くなったのは1979年1月5日であった。それからもう40年近くが経ってしまったが、ミンガスの世界はまだ引き継がれているように思う。

ミンガスの死因は今でも不治の病と言われているゲーリック病、要は筋肉が委縮して最後は呼吸も難しくなるという難病であった。それ故、晩年は車椅子での生活になったが、それでも音楽に対しての創作意欲は衰えず、亡くなる一年前に最後のアルバムを残している。自らプレーはできなくなっていたが、車椅子でスタジオに駆けつけ、陣頭指揮をとっていたといわれている。
そのアルバムが、以前紹介した”Something Like A Bird””Me Myself An Eye”の2枚のアルバムになる。ミンガスとは長年交友があったペッパーアダムスも何を差し置いても、この録音には駆けつけた。

有名なミュージシャンが亡くなると必ずと言ってもいいほど、故人を偲び、またその功績を称えたメモリアルコンサートが開かれる。このミンガスのメモリアルコンサートも、数多くあったと思われるが、その中に亡くなってすぐにセントピータース教会で開かれたコンサートがあった。

ミンガスがやり残した事は多い。ミンガスの良き理解者であったスーミンガス夫人は、それまでの夫君の功績と意志を引き継ぐために新たにレーベルまで作ってミンガスの遺作を世に出すことに努めた。それは今でもミンガスビッグバンドに引き継がれているミンガスDNAの継承の一環だと思う。

このアルバムも、ミンガストリビュート物の一枚だ。
アルバムを作ったのはあのテオマセロ。

テオマセロというと、コロンビア時代のマイルスのプロデューサーとして有名だ。メジャーレーベルのA&Rマンとして、マイルスだけでなく、エリントン、ブルーベック、チャーリーバードなどの大物ミュージシャンを集め彼等のアルバムを次々に作っていた。どれをとっても、いわゆるメジャーレーベル特有のコマーシャリズムに染まったアルバムではなく、ミュージシャン主体の名アルバムを数多く残している。

このテオマセロの経歴を辿れば自らサックスプレーヤーであり、アレンジャーであった。クインシージョーンズのような、プレーヤー、アレンジャー出身のプロデューサーということになる。プロデュース業が忙しくなると、必然的に演奏家としての活動は無くなっていった。

プロデュース業の中で、不遇な生活をおくっていたミンガスを再び表舞台に引き戻したのも実はこのマセロであった。若い頃はプレーヤーとしてミンガスのワークショップに参加していたマセロは、ミンガスに対しては他のミュージシャンのプロデュース以上に様々な想いがあったと思われる。

実は、亡くなった直後に行われた教会で行われたコンサートをセットし、自作の曲を提供したのもこのテオマセロであった。せっかくの曲、アレンジ、そして演奏を録音で残しておきたいと思うのは、多くのアルバムを手掛けたテオマセロにとっては当然の願いであったろう。しかし、アルバム作りに手を上げるレーベルは無かったが、録音はその年の12月にマセロ自身で行われた。

それから4年近く経ってから、このアルバムとなって世に出ることになる。すでにマセロはコロンビアレーベルのプロデューサー職は辞していた。時代は、フュージョン時代の真っ只中。スイングジャーナルでもフュージョンはジャズの正当かといった議論がよく行われていた時代だ。アルバムも売れるアルバムとマニアックなアルバムに二分されていた。そんな時代だったので、マセロのミンガスに対する想い込めたこの演奏をアルバムとして世に出すレーベルがあった。それがHerb Wongが作ったPalo Altoだった。

ここでマセロが選んだ道は、プロデューサーとしてアルバム企画への参画ではなく、あくまでもプレーヤー、そしてアレンジャーとしての自らのミンガスに対する印象の表現としての参加であった。もちろん、それを一緒に演奏するプレーヤーも何の制約も無く選べたのであろう。自分やペッパーアダムス、リーコニッツ、アルコーンのように何10年も前からミンガスと共演したメンバーに加え、当時の新進気鋭のニューヨークの若手のメンバーも集められた。ジャンルもメインストリーム、フュージョンの隔てなく。スタジオワークに長けた者もいれば、ソリストとして活動してるものも。中にはギターの川崎燎もいた。

曲はすべてマセロのオリジナル。スタイルはコンベンショナルなスタイルからフュージョンまで、編成もトリオからビッグバンド編成まで多種多様。ミンガス自身もトラディショナルからフリーまで、その演奏スタイルには壁が無くすべてをミンガスワールドに料理していたが、マセロもその意思を引き継いだのかもしれない。

ペッパーアダムスは主要メンバーとしてセクションワークだけでなくソロも2曲で披露している。
丁度ソリストとして活躍していた時期だが、それから数年してアダムスもこれからという時に病に倒れる。アダムスが最後に録音したアルバムも、奇しくも”Suite Mingus”というミンガスに因んだアルバムであった。

このアルバムを作った後、マセロは再びプレーヤー、アレンジャーとして演奏現場に復帰した。ミンガスの死、そしてこのアルバム作りがマセロの人生においても大きな転機になったようだ。

1. Oops! Mr. Mingus Teo Macero 5:04
2. lory Be! Let the Sund Shine In Teo Macero 9:34
3. Blues for Duke Teo Macero / Mike Moran 4:30
4. Goodbye "MR. Good Bass" Teo Macero 5:09
5. Monk's Funk Teo Macero 7:01
6. Open C Teo Macero 4:33
7. Two Bits and a Piece Teo Macero 6:40
8. Chill Teo Macero 6:04

#1,3
David Liebman (ss)
Pepper Adams (bs)
Bill Evans (ts)
Alex Foster (ts)
Teo Maselo (ts,p)
John Stubblefield (as)
Dick Oatts (as)
Biff Hannon (keyboards)
Ron Davis (b)
Bob DeVos (g)
Jamie Glaser (g)
Kitt Moran (vocals)
Tom Brechtlein (ds)

#5
Mike Nock (Keyboards)
Jorge Dalto (keyboards)
David Liebman (ss)
Dave Valentin (fl)
Marcus Miller (elb)
Buddy Williams (ds)
Ryo Kawasaki (g)
Carole Steele (percussion)

#6
Biff Hannon (keyboards)
Teo Macero (as)
Ryo Kawasaki (g)

#2,4,7,8
David Liebman (ss)
Pepper Adams (bs)
John Stubblefield (as)
Al Cohn (ts)
Lee Konitz (as)
Teo Macero (as)
Britt Woodman (tb)
Eddie Bert (tb)
Don Butterfield (tuba)
Jon Faddis (tp)
Lew Soloff (tp)
Mel Davis (tp)
Ted Curson (tp)
Larry Coryell (g)
Will Lee (elb)
Mike Nock (Keyboards)
Biff Hannon (keyboards)
Rubens Basini (Per)
Alan Swartberger (ds)

Produced by Teo Maselo
Composed & Arranged by Teo Maselo

Engineer : Don Puluse
Recorded at 30 th Street Studio , New York on December 27,1979


Impressions of Charles Mingus
クリエーター情報なし
Teo Records
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ワイルドなのは顔つきだけでなく・・・演奏も。

2017-01-04 | CONCORD
The Real Tania Maria : Wild

年末は忘年会の合間を縫って、ゴルフの打ち収め、ライブ通いと慌ただしく過ごした。
年明けは遠出もせず、初詣も近くの神社へ。暖かい日が続いたので初打ちには絶好の日が続いたが、一転のんびり家で過ごした寝正月であった。

こんな時こそジャズ三昧とも思ったが、正月早々大音量というのも近所迷惑で気が引ける、久々にテレビ三昧となった。テレビといっても地上波の正月番組は見るものもないので、もっぱらAXNの海外ドラマ漬けとなった。

録画で録り貯めたものもあったが、この正月は長年続いたCSIシリーズの最終をまとめてオンエアーということもあってこれ中心に。一時はニューヨーク、マイアミと展開していたCSIだが、結局本家ラスベガスだけが残り、これもシーズン15が本国でも最終となってしまった。

科学捜査という切り口が最初は斬新さのあったテーマであったが、マンネリになってしまったのだろう。科学的な操作技法も劇中では多少眉唾を感じさせる事もあったが、反対に未来を感じさせる意味では面白かった。世の中の進化は早い、実際に実用化されている捜査、鑑識手法も多いのだろう。監視カメラの画像の顔認識などは現実にも間違いなく進化している。時代を反映したとも思えた続編のCSIサイバーはAXNではこれからオンエアーされるが、アメリカではシーズン2ですでに打ち切りとのこと。CSIのドラマ作りが飽きられたのかもしれない。

さて新年最初のアルバム紹介はコンコルドレーベルの続きから。
コンコルドは、ベテラン達が最後の花を咲かせ、アンダーレイテッドなミュージシャンの紹介が多いが、新人達の発掘も積極的に行っていた。それらの新人達の中には、コンコルドでの成功を踏み台にして、更に次なるステージを目指す機会に恵まれた者もいた。

ブラジル生まれの、タニアマリアもプロミュージシャンとしての活動は地元ブラジルから始まった。そして70年代にすでにヨーロッパを中心に世界を渡り歩く活躍を行っていた。そんな彼女がインド、オーストラリアを公演中の姿を目にしたのがギターのチャーリーバード。コンコルドレーベルの創世記は、このチャーリーバードだけでなく、レイブラウンやジェイクハナといったそこに集ったベテラン達が自ら一緒に演奏すだけでなく、それぞれがA&Rマンとして新人発掘を行って、オーナーのジェファーソンに紹介するといった手作り感に満ち溢れた雰囲気があった。

タニアマリアを紹介された時期は、ジェファーソンはちょうどサブレーベルのPicanteを立ち上げたところ。タイミングがピッタリだったのか、これも協力者の一人カルジェイダーに早速プロデュースを任せ、彼女の初アルバム”Piquant”が生まれたのは’80年12月だった。

それから4年、その間ヒット作の”Come With Me”も出して一躍スターダムに上った彼女は、レコーディングだけでなくレギュラーメンバーで有名クラブでのライブ活動も続けていた。ちょうど世はフュージョン時代。ベースのジョンペナのスラップベースがグループのサウンドを今風に仕上げていた。
今回のライブの場所は、サンフランシスコのGreat American Music Hall。1907年に創立された歴史あるホールだ。カーメンマクレーのここでの有名なライブ盤があるが、このタニアマリアのステージは、最初の聴衆の拍手と歓声から彼女の熱いノリノリの演奏と熱唱を予感させる。

このアルバムのタイトルは”The Real Tania Maria : Wild”。
まさにこの演奏が彼女の普段の姿そのままだ。

ライナーノーツでも、オーナーのカールジェファーソンが彼女に贈る言葉は、会場の名前を捩った訳ではないと思うがこの3つだけだ。

A Great Lady
Great Music
A Great Performance
要は、何の説明もいらない、「素晴らしい」ということだろう。

彼女も自分と同じ世代60代後半だが、一昨年も来日してエネルギッシュなステージを楽しませてくれた。このアルバムのステージ同様まだまだ若い。

この、ライブでの演奏が一つの区切りとなったのか、彼女はコンコルドを離れる。
よりPOPSな世界にもチャレンジしたようだが、この時代のコンコルドで作り上げたスタイルが彼女の基本であり、ワンアンドオンリーの彼女のスタイルのような気がする。

1. Yatra-Ta                 Tania Maria 5:24
2. Fiz a Cama Na Varanda         Ovido Chaves 5:52
3. Vem P'ra Roda              Tania Maria 5:36
4. Come With Me       Tania Maria / Regina Werneck 5:26
5. Funky Tamborim              Tania Maria 6:16
6. Two A.M.                 Tania Maria 10:04
7. Sangria                  Tania Maria 5:10

Tania Maria (p,elp,vol)
John Pena (eb)
John Purcell (as,ss)
Dan Carillo (g)
Don Carillo (g)
Frank Colon (per)
John Pena (eb)
Walfredo Reyes (ds, timbales, timpani)

Produced by Carl Jefferson
Engineer : Phil Edwards
Recorded at The Great American Music Hall, San Francisco in September 1984
Originally released on Concord Picante CJ-264

Real Tania Maria: Wild
クリエーター情報なし
Concord Records
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