A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

バラードプレーの極めはWith Stringsで・・・

2014-12-31 | PEPPER ADAMS

Gary Smulyan with Strings


先日紹介した長部正太のアルバムでもう一つ紹介し忘れたことがある。
印象的な火消し法被姿の錦絵をデザインしたジャケットだ。タイトルのHappy Coatと絡めたのも洒落っ気があるが、そのデザインの秀逸さが光る。怪しげな日本風のデザインというのは沢山あるが、本物らしさを感じさせるのは数少ない。というのも、このジャケットデザインは火消し錦絵を書く岡田親氏の作品。このデザインの良さもアルバムの価値を高めている。いい演奏には、良いジャケットデザインが似合う。ジャズのアルバムの鉄則だ。

この岡田氏の展覧会も時々行われているようだが、気に掛けていないと見逃してしまう。

このような伝統に根差した職人技というものは、何の世界でも是非根絶やしにせず伝承していきたいものだ。そして、伝統を引き継いだ弟子が親方を超えた時に新たな世界がまた広がる。

さて、ペッパーアダムスの後継者というとゲイリースマリヤン。直接手ほどきしたことは無かったようだが、アダムスの良い所を確実に引き継いで多方面で活躍してきた。そのスマリヤンももうすぐ還暦を迎える。次の後継者が気になる年回りになった。

スマリヤンは、サドメルの後継オーケストラであるメルルイスオーケストラ,そしてVJOでアダムスの後釜として長年その任を果たし、さらにミンガスビッグバンドにも加わり、着実にアダムスの軌跡を辿ってきた。そして、アダムスのなし得なかった事をクリアすることで、師を超えることになるにだが・・・。

アダムスの、アルバムを聴き返してみると、アップテンポの切れ味の良いバリトンがどうしても印象に残るが、実はアダムスのバラードプレーというのも捨てたものではない。Museに残した2枚のアルバムでも、ソフィスティケイテッドレディーやチェルシーブリッジのバラードプレーは秀逸だ。

アダムスは、デトロイトからニューヨークに来てすぐにスタンケントンオーケストラに加わった。この駆け出しの頃、ケントンオーケストラですぐに「マイファニーヴァレンタイン」でアダムスのソロがフィーチャーされていた。この時のスコアはケントンがパーカーのバックを務めた時のビルホルマンのアレンジを使用したそうだ。
この時(26歳)すでに、アダムスはバラードプレーでも実に枯れた味わい深いプレーをしていた。
ライブでの録音が残されているが、ケントンに紹介されプレーを始めるが実に堂々としたプレーだ。此の頃からマリガンには負けていなかったと思う。



そして、アダムスのバラード物のアルバムはというと、これは残念ながら作られることは無かった。一方で、ライバルのマリガンはナイトライツというアルバムを残している。今でも人気のあるアルバムだ。

バラードというとウィズストリングス物だが、ジャズの世界ではパーカーのwith stringsが何といっても有名である
60年代になると、メジャーレーベルでは有名プレーヤーによるこの手のアルバムは結構数多く作られた。しかし、お金のかかるこのようなアルバムはアダムスには尚更無縁だった。

しかし、スマリヤンは、彼のバリトンを大フィーチャーしたWith Sringsアルバムを作ることができた。バリトンのストリングス物はハーリーカーネイのアルバムがあるようだ。しかし、それ以降は作られたことは無いという。スマリヤンは先輩達がなし得なかった、このバリトンの音の美しさを伝えるアルバムを作りたかったそうだ。念願かなってこのアルバムができたが、弟子が、師匠の壁を乗り越えて夢を実現したという事になる。

ストリングスを含むアレンジを担当したのは、ボブベルデン。スマリヤンがウディーハーマンの所に居た時に一緒にプレーをしたメンバーでテナーとアレンジを担当していた。その後は、めきめきとアレンジで頭角を現し、ジョーヘンダーソンやマッコイタイナーのビッグバンドでもアレンジを担当していた。

オーケストラをバックにすると、そうしてもプレーもバックに負けないようにソロにも力が入ってくる。曲によってはオーケストラが張り切りすぎるとマイナスになることもある。特にバラード物では。ウェスモンゴメリーのアルバムなどでは、カルテットの演奏を引き立たせるために、後でオーケストラのバックをオーバーダビングする手法もとられた。

特にストリングス物は、ソロを引き立たせる役に徹した方が、いい結果がでる。という点では、このベルデンのアレンジは、時に存在感を感じさせなくなるようなこともあり、なかなか勘所をついていい感じだ。このストリングスをバックにアダムスのバラードアルバムがあったらと思うのは、自分だけか?

1. The Bad and the Beautiful      David Raksin 2:49
2. Lush Life             Billy Strayhorn 3:43
3. Thanks for You   B. Hanighen / Marvin Wright 4:20
4. It Happens Quietly     Kaye / Dankwarth 6:25
5. Don't Follow the Crowd          B.Lee 5:25
6. (We've Got A) Sure Thing J. Burke / J. Van Heusen 6:02
7. Beware My Hear            Sam Coslow 4:58
8. The Moment of Truth     T.Satterwhite / Frank Scott 6:12
9. Yesterday's Gardenias N. Cogane / S. Mysels / D. Robertson 6:36
10. Two for the Seesa           André Previn 5:56

Gary Smulyan (bs)
Mike Kedonne (p)
Peter Washington (b)
Kenny Washington (ds)
Mark Feldman, Laura Seaton, Jon Kass, Regna Carter, Genovia Cummins (violin)
Ron Lawrence (viola)
Erik Friedlander, Tomas Ulrich, Clay Ruede (cello)

Arranged & Conducted by Bob Belden
Produced by Gerry Teekens
Engineer : Max Bolleman

Recorded at RPM Studio, New York on December 23, 1996


GARY SMULYAN WITH STRINGS
Gary Smulyan
CRISS CROSS
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ペッパーアダムスを相手に単なるガーシュインソングブックにならないところがヘレンメリルの凄い所・・・

2014-12-31 | PEPPER ADAMS


Chasin’ The Bird sings Gershwin / Helen Merrill

日本で一番人気があるジャズボーカリストは?というと、ひょっとするとヘレンメリルかもしれない。いわゆる本格派御三家(エラ、サラ、マクレー)と比較すると、あのハスキーでたよりない歌い方だが、それがかえって良いのかもしれない。
彼女は有名なクリフォードプラウンとのアルバムがそうであるように、有名ジャズプレーヤーとの共演アルバムも多い。いずれも、彼女の歌のバックを務めているというよりも、歌と一緒にプレーをしているといった感じだ。彼女の歌が楽器的なのかも。

今年も来日して、トランペットプレーヤーを日替わりで替えるという面白い企画のライブ予定があったが、残念ながら病気でキャンセルとなってしまった。ベニーゴルソン同様、クリフォードブラウンとの共演を私事として語れるミュジシャンも数少なくなったが、彼女もその一人だ。1930年生まれ(ペッパーアダムスと同い年であった)なので、今年で84歳。まだまだ、元気に活躍してもらいたいものだ。

彼女は、1960年代に結婚して日本に長く住んでいた時期がある。それもあって大の日本贔屓である。その後、ニューヨークで復帰をしたが、日本のトリオレーベルがアルバム制作を行っていた。その頃、60年代から70年代にかけての彼女のアルバムは、ピアニストのディックカッツと組んだものが多い。単なるボーカルアルバムというより、彼女も演奏者の一人としてのジャズアルバムを作るのには、このカッツが良き相談者であったのだろう。
このアルバムもその中の一枚となる。

このアルバムのテーマは、「メリルsingsガーシュイン」であるが、単なるガーシュインソングブックとはなっていない点がこのアルバムを特徴だ。それは、このアルバムタイトルの’Chasin’ The Bird”の意味するところでもある。

パーカーやガレスピーなどがビバップの全盛期にバップの名曲を多く生み出したが、それらはスタンダード曲といわれるミュージカルなどのヒット曲のコード進行に新たな曲を作ったものが多い。

このアルバムでは、メリルが歌うガーシュインの原曲に、バックがそれを元曲にしたジャズの有名曲をバックで演奏するというチャレンジをしている。この大役を務めたのがペッパーアダムスであった。パーカーの好んだ曲というとアルトサックスが良さそうだが、ハスキーなメリルの歌にはアダムスのバリトンの低音が良く似合う。それに、加えてバップスタイルでゴリゴリ吹くとなるというとアダムスはこの企画には適任あった。この試みの2曲以外でもアダムスの出番は多く、ソロで他の曲のメロディーを引用することも多い。

このアルバムの制作にあたっては録音の前に、録音当日以外にもリハーサルが一か月前から何日も行われてた。かなり曲の構成にも配慮すべき点が多かったということだろう。
肝心のアダムスは、実は1月の始めからにヨーロッパに出掛けていた。2月6日この録音の為にニューヨークに戻り、3月9日の最後の録音が終わると、またヨーロッパに旅立った。

実は、このアルバムが先日紹介したアダムスのアルバム”Reflectory”がグラミー賞にノミネートされた翌年ノミネートされたヘレンメリルのアルバムだった。
アダムスのこのアルバムへの関わり方も、単なるバックのバンドに加わったというのではなく、完全にメリルの共演者であった。アダムスはこのアルバムがノミネートされた時、メリルのボーカルと共に自分のプレーも選ばれた二重の喜びを感じていただろう。

残念ながらこのアルバムも、最終選考ではエラのアルバムに敗れ、アダムスのプレーも Bill Evans - I Will Say Goodbyeに敗れたが、メリルのファンが多い日本であったら、多分このアルバムが選ばれていただろう。メリルの特徴が生かされ、バックとのコラボレーションも上手く計算され、それが上手く噛み合ったジャズボーカルアルバムだと思う。



1. It Ain’t Necessarily So
2. Embraceable You (Cuasimodo)
3. I Can’t Be Bothered Now
4. Summertime
5. I Got Rhythm (Casin’ The Bird)
6. I Love You, Porgy
7. My One And Only Love
8. Someone To Watch Over Me

Helen Merrill (vol)
Pepper Adams (bs)
Dick Katz (p)
Joe Puma (g)
Rufus Reid (b)
Mel Lewis (ds)

Produced by Spicewood Enterprises
Musical Direction by Helen Merrill & Dick Katz
Recording Engineer : Paul Goodman
Recorded at RCA Studio, NYC, March 6 & 9 1979

チェイジン・ザ・バード(HQCD)
Helen Merrill
SOLID
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レイブラウンのラストレコーディングが日本人ピアニストの宝物に・・・

2014-12-29 | MY FAVORITE ALBUM

Happy Coat / Shota Osabe Piano Trio


クリスマスが終わり、毎年この時期になると年末の慌ただしさが一気に押し寄せる。最近では仕事に追われることも少なくなったが、今年は何故か積み残しが多く毎日が気忙しい。それを理由に、今年こそは家の大掃除と思っていたが、また積み残しになりそうだ。

合間を縫って「打ちお納め」、「聴き納め」はしっかり行った。
打ち納めは、雲一つない晴天に恵まれ富士の麓で気持ちよく終了。前半は絶好調、後半は大叩き、終わってみればいつものスコア。
体が元気な間は、来年も週一ゴルフは楽しみにしていきたい。高齢者の仲間入りをすると楽しいゴルフが第一だが、たまには昔の集中力でプレーしてみたいものだ。



今年はライブもかなり行ったが、期待外れだったのは少なかった。結構皆充実したライブをやっているということにもなる。来年もライブにも週に一回は行ってみたいものだが、どうしても好きなものになってしまう。場所も、ミュージシャンも少し新規開拓を心掛けてみようと思っている。

聴き収めは、前田憲男さんのライブに先日行ってきた。今話題の神田のTN Swing Jazzのビッグバンドへのゲスト出演であったが、自らのアレンジをバックにピアノのプレーも健在であった。80歳になられたそうだが、猪俣さん同様演奏を始めると元気そのもの。軽妙な語りも健在で、音楽をやる方は皆さん何をやっても生涯現役のようだ。



自分のレコード、CDの棚卸はちっとも捗らないが、これも好きなアルバムを聴き直すと、関連してまた他を聴きたくなってしまうから。結果的に特定ミュージシャンやジャンルに嵌ってしまっているが、これも流れでいつ違うテーマに変るかも?
ペッパーアダムスも色々聴き出すと奥が深い、これはまだまだ続きそうだが、来年も成り行きで続けたいと思っている。

もちろん好みのミュージシャンは他にもいる。フィルウッズレイブラウンなども好きなプレーヤーだが、彼らの場合はあまりにも参加したアルバムが多すぎて、全部聴いてみようなどと言う気にはなれない。反対に、彼らの場合はいいアルバムだなと思って、気が付くと参加していたという事が多い。

このアルバムも、その一枚。
そもそも、このアルバムのリーダーの長部正太なるプレーヤーを知らなかった。というのも、今活動の拠点としているのはアメリカ西海岸。昔は日本で尾崎紀世彦のバックなどもやっていたそうだが。
日本には今でも年に数回訪れて演奏しているようだが、残念ながら今まで聴きに行ったことがない。演奏場所もホテルなどが多いようで、どうも自分が良く行く場所とは違うようだ。次回は是非。

演奏スタイルは、ホテルのラウンジでのプレーが似合う。それに、バックがレイブラウンとハロルドジョーンズということで、よりスイングするプレーになっているのがこのアルバム。
録音も良いので真剣に向き合って聴くのも良し、ハードな演奏に聴き疲れた時、気楽にバックで聴くのも良し。車で聴くのも良し。結果的には自分にとっても、わざわざ棚卸をしなくとも、良く聴くアルバムである。

このアルバムはレイブラウンのラストレコーディングと言われている。録音の機会が多かったレイブラウンなので、その後の作品がでてきたかもしれないが、いずれにしても元気に過ごしていた晩年の亡くなる直前の録音であることは間違いない。

レイブラウンのベースというのは安心感がある。他のミュージシャンは分からなくともレイブラウンが入っているというだけで買い求めたアルバムもある。

このアルバムも、2人の参加が長部の良さを引き出したともいえよう。
アメリカでの2人のどこかでの出会いが、このアルバムを制作することになったが、長部にとっては夢のような録音だったと思う。録音場所も、キャピタルスタジオ、昔の有名ミュージシャンが名盤を多く残した場所だった。
レイブラウンにとっては数ある録音の中の一枚だが、長部にとっては一生の宝物となったアルバムであろう。




1. This Is All I Ask            Gordon Jenkins 4:54
2. Too Marvelous for Words       Richard A. Whiting 3:45
3. Happy Coat                Shota Osabe 5:05
4. I Saw Her Standing There  John Lennon / Paul McCartney 4:10
5. East of the Sun             Brooks Bowman 5:38
6. Young and Foolish             Albert Hague 5:33
7. Cotton Fields                Huddie Ledbetter 3:25
8. Can't Leave Her Again            Ray Brown 4:02
9. In the Still of the Night           Cole Porter 4:05
10. Pretend/Somewhere Along the Way 
             Douglas L./Parmen , Kurt Adams 4:15
11. Moonglow              Hudson ? Delange 4:53
12. Willow Weep for Me            Ann Ronell 5:22
13. Anema E Core               Salve D’esposito 3:28
14. My Foolish Heart              Victor Young 3:23

Shota Osabe (p)
Ray Brown (b)
Harold Jones (ds)

Produced by Jerry Stucker ( Ray Brown Co. Producer)
Engineer : Eric Zobler
Recording at Capital Studio StudioA , Hollywood, Feb 27,28, 2002



Happy Coat
Shota Osabe
CD Baby
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ペッパーアダムスがマリガンを抜いた日・・・

2014-12-27 | PEPPER ADAMS
The Master …. / Pepper Adams

バリトンサックスをソロ楽器として有名にし、最も偉大なソリストといえばやはりジェリーマリガンであろう。ペッパーアダムスよりは3歳年上なので、同年代といえる。

アダムスは地元のデトロイトで長年バリトンのプレーに磨きをかけ、ニューヨークに出てきたのは26歳の時であった。すぐにケントンオーケストラにオスカーペティフォードに推薦され加入し、全国区のプレーヤーとしての活動がスタートした。

一方のマリガンのデビューは早かった。それはプレーヤーとしてではなくアレンジャーとしてであった。17歳の時、ラジオ局のバンドにアレンジを書きアレンジャーとしてデビューを飾る。ニューヨークで本格的に仕事を始めたのは20歳の時、ジーンクルーパーオーケストラのアレンジを担当し、自らはそこではアルトを吹いていた。そして、同じ役割をクロードソーンヒルオーケストラでも務めていた。

そもそも演奏はピアノからスタートしたが、管楽器はクラリネットから始め様々なサックスを何でも演奏したという。

マリガンのバリトンが聴けるアルバムは、あのマイルスデイビスの「クールの誕生」であった。しかし、ここでもマリガンはバリトンを吹いているものの、アレンジャーとしての役割がより大きかった。

バリトン奏者として本格的なデビューは、これも有名なチェットベイカーとのピアノレスカルテット。以降、バンドの編成、コンビの相手は代わっても、バリトンのソリストのナンバーワンとして不動の地位を守り続けていた。

相方、裏方が多かったペッパーアダムスと、若くして実力、人気共に王座の地位を得て、それを守り続けたマリガンの位置付けは、アダムスがやっと納得がいくアルバムを作れた1978年になっても変っていなかった。

アダムスが、アルバム“Reflectory”を録音してから1年半経った1980年1月、アダムスの元に嬉しい連絡があった。このアルバムでのアダムスの演奏が、グラミー賞のBest Jazz Instrumental Performance as a Soloistにノミネートされたという知らせであった。翌年'79年に録音された、アダムスがバックを務めたヘレンメリルのアルバムChasin' the Bird / GershwinがBest Jazz Vocal Performanceにノミネートされる。さらに、ここでバックを務めたアダムスのプレーも受賞対象に選ばれる。サドメル在籍時代オーケストラがグラミー候補になったことはあったが、それはあくまでもメンバーの一員として。ベストソリストというのは、まさにアダムスのプレーそのものに対しての評価であった。

しかし、2月27日の最終選考で選ばれたのは、
Oscar Peterson - Jousts
惜しくも受賞を逃した。

その結果を聴いた直後の3月11日、アダムスは再びリーダーアルバムの録音に臨んだ。

それが、このアルバム”The Master”であった。

アダムスの大写しになった顔写真がジャケットを飾っているが、アダムスの何となく柔和で嬉しそうな表情が良く撮れている。エフェメラのジャケットも大写しのアダムスであったが、こちらは何かひょうきんなイメージを受けてしまう。

このアルバムも、アダムスのワンホーン。自身によって「前作を上回るベスト」と太鼓判が押されたアルバムだ。

メンバーは、ベースのジョージムラツは前作と同じ。彼らは本当に仲がいい。ミュンヘンのライブにしても。一足先にヨーロッパ入りしていたムラツが声を掛けてくれたから実現したセッションだった。

ピアノはローランドハナからトミーフラナガンに替わる。ハナも親友であったが、フラナガンとの付き合いは更に古い。お互いがティーンネイジャーであった頃から、地元デトロイトで一緒にやっていた仲だ。
いわゆるガキの頃からの付き合いだが、此の頃のフラナガンは、バップピアニストとしての昔からのテクニックに、エラの伴奏を務めたことによるバッキングの上手さが加わっていた。このようなワンホーン編成で、主役の引き立て役としては適役であった。

そして、ドラムも前のアルバムで一緒だった気心の知れたビリーハートに声を掛けた。前作が良かっただけに当然の選択であった。しかし、生憎ハートに先約があり、代わりにリロイウィリアムが加わった。
彼とは、一緒にプレーをした事もあったが、それほど深い付き合いではなかった。派手さは無いがツボを得たドラミングはこのセッションでアダムスの描いたイメージにはピッタリであった。

しかし、レコーディンの最中にいつも一緒にやっていない故のアクシデントが生じた。

バラードプレーのチェルシーブリッジで、アダムスのカウントでスタートしたがアダムスの指示よりはるかに遅いテンポで始まってしまった。そのままプレーは続き、アダムスは終わるや否や、開口一番「時間が掛かりすぎていないか?」と。

すべて事前の段取りをきちんとやるアダムスにとって、このプレーは納得がいかず、すぐに次のテイクの準備に入る。すると、プレーバックを聴いていたプロデューサーから、「ちょっと聴いてみないか?」と。2人でプレーを聴き返すと、アダムスも黙って納得、則OKとなった。これがジャズの意外性の良い所だろう。

他の曲も順調に進む。ナイフのように切れ味の良いプレーはアダムスの売りだが、ここでは、問題のチェルシーブリッジ、ラバーズオブゼアタイムのバラードプレーも絶品だ。此の頃良く演奏した、ボサノバのリズムのボサレグロも軽快に飛ばす。
最後のマイシャイニングアワーがアップテンポだが、フラナガンがソロで先行し、ドラムとのバースでアダムスがソロを引き継ぐが、ここでは本来の切れ味の良さを存分に聴かせてくれる。
けっしてラウドではなく、悪乗りしている訳でもない。ダーティーなトーンもない。それは、ブルースやファンキーな曲を選ばなかった選曲にも因ったのだろう。

やはり、ビッグバンドや大きな編成でのソロとなると、出番が来るとここぞとばかり吹きまくることもあったが、ワンホーンだと曲の中でも、そしてアルバムの中でも、演奏の起承転結が実に上手い。テクニックだけでなく、アダムスの本来の歌心が存分に表現されている。アダムスが絶賛しているように、演奏に加えて良くなるバリトンの音が上手に録られていることもプラスに働いているように思う。

サドメルを辞めた理由をインタビューに答えて、「いつの間にか自分はビッグバンドのアダムスと思われてしまったが、自分はあくまでもソリストだと思っている。プレーをする上でも、Artの部分とSkillの部分があるが、ビッグバンドではどうしてもSkillが重視されてくる。ソリストとしてArtの部分を出したいからだ。」と言っていた。

やっと、前作とこのアルバムで望みが一歩前進したように思う。その結果が、グラミー賞のノミネートにも表れたのであった。

雑誌ダウンビートでは批評家の投票が毎年行われている。アダムスは本格デビューした1956年に新人賞をとっている。以降バリトンサックスの部門では首位ジェリーマリガンをいつも目標にプレーを続けてきた。1978年の投票では、マリガンに一票差まで迫っていた。

そして、1979年、1980年とついに連続してマリガンを押さえて首位となった。やっと実力が評価された。そしてその首位の座は亡くなるまで他に譲る事は無かった。
一方で、人気投票でもある読者投票の方も、一歩遅れて1982年にはマリガンを押さえて首位となる。地道な努力を続けたアダムスがマリガンを超えた時であった。その時、アダムスは名実ともにThe Masterとなった。

その原動力となったのは、Museに残した、”Reflectory”と、この“The Master"の2枚のアルバムだと思う。



1. Enchilada Baby             Pepper Adams 5:41
2. Chelsea Bridge             Billy Strayhorn 8:58
3. Bossallegro                Pepper Adams 6:03
4. Rue Serpente               Pepper Adams 8:10
5. Lovers of Their Time           Pepper Adams 6:07
6. My Shining Hour      Harold Arlen / Johnny Mercer 7:32

Pepper Adams (bs)
Tommy Flanagan (p)
George Mraz (b)
Leroy Williams (ds)

Produced by Mitch Farbar
Engineer : James Mason
Recorded at Downtown Sound Studio NYC, March 11, 1980
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ゼロからの出発であったが、4年でニューポートの舞台にも立てたのもレコード会社の支えがあってこそ・・・

2014-12-26 | MY FAVORITE ALBUM
Toshiko Akiyoshi - Lew Tabackin Big Band / Live at Newport ‘77

デュークエリントンが亡くなったのは1974年5月24日であった。その年の暮れ、猪俣猛のビッグバンドはエリントンの追悼コンサートを行ったが、エリントンを追悼する催しは各地で開かれた。そして、エリントンが亡くなる直前に海の向こうでは、エリントンに替わる新たなビッグバンドが立ち上がった。秋吉敏子とルータバキンのビッグバンドだった。

ルータバキンがレギュラー出演していたテレビの仕事(Tonight Show)が‘72年5月にニューヨークから西海岸での制作に移った。そのため、タバキンも活動の拠点を西海岸に変えざるをえなかった。

最初の渡米以来ニューヨークを拠点としていた秋吉敏子も色々悩んだ末、一緒にロスに移ることを決意し、遅れてタバキンの元へ引越しをした。旦那の急な転勤だったが、単身赴任ではなく奥さんも遅れて一緒に同居というパターンだ。共働きで奥さんも仕事を持っていると、なかなか亭主の転勤に合わせて一緒に行くという訳にはいかないのが世の常だが、ジャズミュージシャンというのは個人事業の様なもの。西海岸に行っても仕事はある、かえって新天地で新たな試みをしようと決意し、敏子の西海岸での生活が始まった。

ところが、彼女の場合「音楽はあくまでもArt」。技術だけを生かしたスタジオワークやコマーシャルの仕事はやらない主義であった。夫君のタバキンとカルテットを組んで地元のクラブ出演は始めたが、今一つ本格的な活動には至らなかった。

そこで、彼女が一念発起で始めたのが長年構想を温めていたビッグバンドであった。彼女の場合は、ビジネスとしてのビッグバンドではなく、彼女の書下ろし作品だけをやるリハーサルバンドであった。

自分の音楽の世界をビッグバンドと自分のピアノで表現する、まさにデュークエリントンがオーケストラで続けてきたのと同じコンセプトである。違いは、エリントンの片腕がビリーストレイホーンであったのに対して、秋吉敏子の場合は、サックス&フルートのルータバキンであった。
このタバキンのテナーとフルートがオーケストラ全体のアレンジの中でも、常に重要な位置を占めていった。エリントンは誰がどのようにプレーするかを思い浮かべて曲作りをしたという、秋吉敏子も同じアプローチであったように思う。

ロスは幸いにも若手の腕達者は集まりやすい環境であった。しかしお金にならないリハーサルバンドに人を集めるのは決して容易ではなかった。そこで一肌脱いだのが夫君のタバキン。ミュージシャン仲間に顔が広いタバキンが声を掛けて、早速リハーサルがスタートしたのが一年後の1973年。地元のクラブへの出演を経て、さらに一年後の1974年に初アルバム孤軍が制作された

制作したのは日本のレコード会社ビクター。プロデュースも日本の井坂氏が務めた。秋吉敏子という一応世に名の通ったミュージシャンであったが、そのビッグバンドが果たして世に受入れられるか、そしてアルバムにして商売になるかは分からなかった。
確かに、サドメルを始めとして、バディーリッチやメイナードファーガソンのビッグバンドは当時脚光を浴びていたが、内容は時流にのったブラスロック的な演奏でヒット曲が並ぶ。秋吉敏子のアプローチが受け入れられるかどうかはある種の賭けであった。しかし、当時はまだレコード会社が優れたミュージシャンの優れたアルバムを、リスクを負って世に出す使命を持っていた時代であった。

それから3年。毎年定期的にリリースされるアルバムは好評のうちに話題となり、この間の日本への凱旋ライブを含め短期間で5枚となっていた。最初は日本でリリースされただけであったが、アメリカでもリリースされ、ヨーロッパにも伝わり、徐々に秋吉敏子のビッグバンドはグローバルで、まずは評論家の間で話題となっていった。

すると、コンサートやジャズフェスティバルからもお呼びがかかる。そしてついにニューポートジャズフェスティバルからも出演要請がきた。主催者のジョージウェインは秋吉敏子が初めてアメリカの地を踏み、ボストンで留学生活を始めた時からの知己。ニューポートへの出演も特別に1時間半の枠を与えられての依頼であった。

ただし、ロスからニューヨークまでの旅費は自前ということであった。そもそもリハーサルオーケストラとして運営してきたオーケストラに蓄えがある訳でもなく、ビッグバンドゆえ人数も多く、さて困ったという時に助け舟を出したのは、またもや日本のレコード会社であった。
ライブアルバムを作る費用の一部として旅費を負担することになり、目出度く檜舞台に出演できることに。当時のレコード会社は多くのファンに支えられ、売上が伴うこともあり制作費も多く掛けられたということだろう。

このような経緯を経て、秋吉敏子のビッグバンドは無事ニューポートの舞台にも立ち、その模様はまたアルバムとして残すことができた。

こうなると、流れは順風満帆、その後も着実に秋吉敏子のビッグバンドは歩みを続ける。ダウンビートのクリティックポール、そして読者投票両方で第一位となったのは翌年1978年であった。アルバムInsightはJazz Album of The Yearにも選ばれ、サドジョーンズの去ったサドメルに替わって名実ともにNo,1のビッグバンドとなった。晴れてデュークエリントンオーケストラの後継バンドが生まれたと言っても過言ではないだろう。たまたま、ニューヨークでのニューポートジャズフェスティバルもこの年が最後。まさに時代の変わり目であった。

晩年は、レコーディングには必ずしも恵まれたとは言えなかったサドメル、一方で着実にレコーディングを続けられたToshiko-Tabackin Big Band。レコード会社の支えの違いが大きかったように思う。

昨今、CDの売上が益々減少しているという。音楽ビジネスで、デジタル化とネットの普及によってレコード・CDを販売するというモデルが崩れているというのは世界的な潮流である。それに代わってダウンロードのモデルが果たしてお金になっているのか?最近格差社会という言葉が合言葉のようになっている。あまり業界事情には詳しくないが、音楽の世界もごく一部のヒット曲と、その他大勢のインディーズ、自費制作に分かれてしまっているように思う。

最近、素晴らしいライブを聴く事が多いが、ミュージシャンがこの演奏を続けることを誰が保証し、後世においても残された演奏を聴けるように誰がするのか気になる。金儲けだけを目的とするビジネスモデルは早晩終わりを告げるとは思うのだが・・・。。

Toshiko Akiyoshi (p)
Lew Tabackin (ts,fl)
Steve Huffsteter (tp)
Bobby Shew (tp)
Richard Cooper (tp)
Mike Price (tp)
Bill Reichenbach (tb)
Charlie Loper (tb)
Rick Culver (tb)
Phil Teele (btb)
Tom Peterson (ts)
Gary Foster (as)
Dick Spencer (as)
Bevery Darke (bs)
Don Baldwin (b)
Peter Donald (ds)

All Songs Arranged by Toshiko Akiyoshi
Produced by Hiroshi Isaka
Recording Engineer : Dick Baxter
Recorded live at Avery Fisher Hall, Newport Jazz Festival on June 29, 1977




ライヴ・アット・ニューポート'77 (紙ジャケット仕様)
クリエーター情報なし
BMG JAPAN
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人生転換期を迎え原点回帰することもあれば更なる進化もある、人によって人生色々・・・・

2014-12-25 | MY FAVORITE ALBUM
California Shower / Sadao Watanabe


人生80年の時代、40代はまだ折り返し点。何の仕事をしていても一番脂がのった時期だ。
しかし、40代も終盤を迎えると次第に今後のことを考えるようになる。今の仕事をこのまま続けるか、心機一転新たなチャレンジをするか、あるいは本当に自分のやりたいことをやるのか・・・。
自分自身を振り返っても、40代の最後はそんなことを悩んだ時期があった。

ペッパーアダムスは、ソリストとしての自分にもう一度チャレンジする道を選んで、サドメルのオーケストラを辞めた。
辞めてから半年経った1978年3月、ミンガスとのレコーディングセッションを終えたペッパーアダムスは久々に楽器を新調し、旅行を楽しみ、時には仲間とのギグをしながらゆっくりした日々を過ごしていた。そして4月になると久々に西海岸を訪れ、古い友人と旧交を温めていた。

一方で、同じ時期の3月西海岸のロスアンジェルスのスタジオでは渡辺貞夫が新アルバムの録音のために、色々策を詰めていた。

そして、6月に満を持してアダムスが彼としては自分でも会心の出来と評価するアルバム”Reflectory”を録音することに。やっと自分が思うようにプレーできたアルバムだった。
その時、渡辺貞夫も録音を終えて日本に戻り、新アルバムの発売を記念した国内ツアーの準備に追われていた。

その時の渡辺貞夫のアルバムが、この「カリフォルニアシャワー」である。

ナベサダが、フュージョン路線に踏み出したのは、前年に作られた「マイディアライフ」。同じ名前のFM番組を1972年からその時すでに5年続けていた。そのタイトル曲がアルバムタイトルにもなったが、その前のテレビ番組「ミュージックブレーク」のテーマ曲もあり、他の曲はナベサダが自ら旅したアフリカを素材にした曲が多かった。
自身の色々な曲を、アメリカの新進気鋭のフュージョン系のメンバーを起用して料理したが、せっかくの料理人の腕前を生かせず今一つ中途半端だった出来ともいる。

しかし、これで新路線に手応えを感じたのか、翌年さらに一歩進めて取り組んだのがこのアルバムだった。前作との違いは、デイブグルーシンとがっぷり組んだ事だろう。キーボードだけでなく、作編曲にもグルーシンを多用し、自ら手掛けたのは2曲だけである。
グルーシンのフュージョンの音作りは、ラリーローゼンと立ち上げたGRP(Grusin Rosen Production)でスタートし、すでに6年が経っていた。このナベサダのアルバムは、リーリトナーをはじめとしたGRPに関係するメンバーが全面的に協力し、音作りはデイブグルーシンがプロデュースしたものであった。ナベサダとグルーシンが、双方の技を出し切った本格的なコラボの成果である。

グルーシンのサウンドは、電子楽器や多様なリズムを組み合わせたいわゆるフュージョンサウンドではあるが、何か人間味を感じる心地よさがあった。ジャズが持つファジーな演奏の良さの伝統を引き継いでいたのだろう。
一方のナベサダは、生真面目にグルーシンの新たな料理法に自分のプレーを合わせていった。グルーシンが、録音をしている時、これはOKと思ったテイクもナベサダはダメ出しをして何度もチャレンジをしたそうだ。
このアルバムは、2人の人間性が上手く噛み合った成果だろう。聴き慣れてしまったせいもあるが、一曲目から一段と温かみを感じるメロディアスでリズミカルなこなれたサウンドが続く。

ジャズのアルバムというと普通は数千枚単位、一万枚も売れればヒット作だろう。このカリフォルニアシャワーは、初日で数千枚、すぐに20万枚を超え、最終的には100万枚を超えてミリオンセラーになったという。あのサイドワインダーのリーモーガンやテイクファイブのブルーベックも真っ青だ。

テーマ曲は、男性化粧品のCMソングにもなり、町中でこのサウンドが溢れた。マス商品とヒット曲の相乗効果で両方が売れるという良き時代でもあった。

若い頃はバリバリのバップを吹いていたナベサダが、アメリカ留学から帰国後、ボサノバに取り組んだ。きっかけは渡米中ゲイリーマクファーランドとの交流で彼の音楽観の影響があったからという。このグルーシンとの出会いも多分大きな影響を受けたと思う。もっとも、ナベサダの場合は、一緒にプレーをしたミュージシャンは数知れず、それらのすべてが明日への糧になっているのだとは思う。だが、100万枚の成果を生み出す出会いはそうそうあるものではない。

片や、ペッパーアダムスは、それまでファンキーなプレーから、グッドマンやハンプトンと一緒のスイングまで、さらにウェストコーストからハードバップのど真ん中まで幅広くプレーしてきた。サドメル時代が長くビッグバンドの人と思われることも。さらに、レコーディングでは、フュージョンのバックもやった。
しかし、きっかけは何回かあったが、それらの中に自分のやりたい演奏を満足の行くまでできる機会は無かった。そして、今回の新アルバムで、やっと自分のイメージどおりのプレーを残せた。それは、けっして新たらしいものではなく、原点回帰をして20年前のストレートアヘッドな演奏に戻っていた。

一方のナベサダは、このアルバムでフュージョンという新しい世界に踏み出し、日本のフュージョンブームを引っ張る存在になった。
そして、もう一人の主役デイブグルーシンも、同じ6月にGRPが晴れて一プロダクションから新レーベルとして育って独立し、新たな展開がスタートした。

丁度、ジャズ界全体が、フュージョンブームとメインストリームの復活が交錯した時期でもあった。どの道を選ぶか迷ったプレーヤーやプロデューサーも多かったと思う。

ペッパーアダムスは1930年生まれ。3人はほぼ同じ世代で、この年アダムスは48歳、ナベサダは45歳、グルーシン44歳の時であった。3人3様で、新たなスタートを迎えた1978年6月であった。

アダムスは早くに逝ってしまったが、ナベサダの方は元気に今でもライブ活動を続けている。この12月はビッグバンドを編成して各地を回っていたようだが、残念ながら聴きには行けなかった。

人生終盤に近づいた81歳でまた新たな世界を見出しているのかもしれない。
デイブグルーシンがナベサダに関してコメントを残している。ナベサダのプレーを聴くと何をやっても誰かの影響を受けているような気がする。しかし、ナベサダのようなプレーをするミュージシャンは他に聴いた事がないと。この時に、すでにOne and onlyな存在になっていたのかも。



1. California Shower
2. Duo-Creatics
3. Desert Ride
4. Seventh High
5. Turning Pages of Wind
6. Ngoma Party
7. My Country

Sadao Watanabe (as, fl, sopranino, arr.)
Dave Grusin (Fender Rhodes, p,arr)
George Bohannon (tb)
Oscar Brashear (tp)
Ernie Watts (ts)
Paulinho Da Costa(congas, percussion)
Chuck Rainey (eb)
Lee Ritenour (g)
Harvey Mason (ds)

Produced by Kiyoski Itoh,Toshinari Koinuma,Yukio Morisaki
Recording Engineer Phil Schier
Arranged by Dave Grusin & Sadao Watanabe
Recorded at Record Plant and Westlake Audio, Los Angels, California、March 1978

カリフォルニア・シャワー
クリエーター情報なし
ビクターエンタテインメント
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腰の重い人を動かすには、こちらが出向かなければならないことも・・・・

2014-12-23 | CONCORD
Indian Summer / The Fraser Macpherson Quartet

ジャズファンというものは、日頃ジャズを楽しんでいる中で、ファンである故の熱い想いが生じることがある。此のミュージシャンのアルバムは全部揃えてみようとか、あのアルバムを何とか手に入れたいとか。あるいは、アルバムだけでは満足できずに、なんとかライブを聴いてみたいものだとか・・・。

普通のジャズファンだとここまでだが、プロデューサー業をしていると想いはさらに広がる。この2人の共演をさせたいとか、この曲をやってもらいたいとか。そして、まだ知られていないミュージシャンを世に出すのに一役買うのも夢の一つだろう。

コンコルドのオーナーであったカールジェファーソンはベテランジャズプレーヤーの復活を多く手がけたと同時に新人の発掘も行った。レーベルを設立して10年近く、多くの夢を実現してきたが、まだ「この人」をと、密かにアルバム制作に想いを馳せていたミュージシャンは多くいたであろう。

その一人が、このアルバムの主役Fraser Macphersonであった。

カナダ出身のジャズミュージシャンは何人もいる。有名どころではオスカーピーターソンであり、メイナードファーガソンであるが、2人とも若い頃からすでにアメリカで活躍していた。改めてカナダといわれても、ピンとこないものがある。

ところがカナダ国内で活動しているミュージシャンは、なかなか聴く機会もないので名前すら知らない。このマクファーソンは、カナダといっても東海岸バンクーバーを拠点としていたモダンスイング系のサックス奏者。カナダの中でもローカルで活動していた一人だ。クラリネットやフルートも吹くマルチプレーヤーだが、レスター系のサックスのプレースタイルは、まさにジェファーソンの好みにピッタリであった。

早速、マクファーソンは地元のマイナーレーベルで出したことのあるアルバムを、Concordのカタログに載せた。それが、前作”Fraser Macpherson Live at The Planetarium”であった。ドラムレスのギターとベースのトリオ。実にいい雰囲気の演奏だ。当然、新たな録音のラブコールを送り続けていたようだが、なかなか実現には至らなかった。

そのアルバムの録音から5年経って、北村英治のアルバムにひょっこり登場した。ちょうどコンコルドジャズフェスティバルが行われた直後のセッション、プレーザーもフェスティバルに出演するためにシスコへ来ていたのかもしれない。しかし、ここでもフレーザーのアルバムは作られなかった。

それから3年、ジェファーソンもなかなか実現しないセッションに痺れを切らせたのかもしれない。なかなか来れないのであれば、こちらから乗り込むと腹を決めたのか、フレーザーの地元バンクーバーに自ら乗り込むこととなった。ただし、メンバーの人選や曲の選定はフレーザーにお任せという前提で。

メンバーには、プレーザーとは長年コンビを組んでいるギターのオリバーギャノンがまずは参加した。前作のアルバムでも一緒にやっているが、バックにソロにフレーザーのテナーにはピッタリ呼吸が合う。ギター好きのジェファーソンにとっても、この2人が一緒にプレーするには願ったり叶ったりであった。

そして、ドラムは地元のメンバーではなく、ジェファーソンの片腕でもあるジェイクハナが参加する。ハナも是非一緒にプレーしたかったテナー奏者だったということで、遠くシカゴから一夜のセッションのために駆けつけた。もう一人、ベースはフレーザーが東海岸に行く時はいつも一緒にプレーしていたスティーブウォーレスが参加することに。このウォーレスは、Concordで同じくカナダのエドビケットのアルバムを作った時に参加している。

ハナを除けばフレーザーは勝手知ったメンバーということもあったのだろう、録音は9曲中5曲をファーストテイクで、4時間ほどですべての録音を終えた。アルバムはリカードボサノバで軽快に始まるが、まるでレギュラーグループのような一体感と気楽な感じが漂う好演が続く。ジェファーソンが思い描いていたイメージとまさにピッタリであったと思う。

翌年のコンコルドジャズフェスティバルにはこのフレーザーもエドピケット共々参加し、コンコルドにもアルバムをさらに残すことに。

自分の好みのプレーヤーというのは、アルバムが作られていなくても世の中には沢山いるのだ。自分もいつかどこかで出会うことを願って探索を続けることにしよう。

1. Recado Bossa Nova 
2, As Long as I Live 
3. Sophisticated Lady 
4. 'S Wonderful
5. 'Deed I Do 
6. Indian Summer
7. All My Life 
8. Just My Luck 
9. Long Ago (And Far Away) 

Fraser Macpherson (ts)
Oliver Gannon (g)
Steve Wallace (b)
Jake Hanna (ds)

Produced by Carl Jefferson
Engineer : Roger Monk
Recorded at The Little Mountain Sound Studios, Vancouver, British Columbia, Canada June 1983
Originally released on Concord CJ-224
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ソリストとして再出発したアダムス、ワンホーンでの初のスタジオ録音は?・・・

2014-12-22 | PEPPER ADAMS
Reflectory / Pepper Adams

1978年1月、ペッパーアダムスにとっては久々のミンガスのグループへの参加で活動を開始した。23日にレコーディングを終えると、一日休んだ後、シカゴに飛んでチェットベイカーとのギグ、そしてガレスピーと一緒にデビットアラムのギグと続く。

チェットベイカーとのコンビは不自然に感じるかもしれないが、50年代の後半レコーディングに参加した以外でもよく一緒にライブでのプレーをしていた。20年以上も続く長い付き合いであった。

2月はオフで旅行に行ったり、他のギグを楽しんだりしていたが、3月に新しいシルバーのバリトンを購入した。楽器を替えるのは久々だが、当座は長年使用した愛機のバックアップとなったようだ。

4月になると、サンフランシスコにいる古くからの友人Murabuto兄弟の元を訪れ、そのまましばらく西海岸で活動する。サドメル時代は、長期間のツアー、レギュラーのビレッジバンガードへの出演と、自分の自由な時間がとれなかった反動か、自由な時間を満喫していた。

6月になると、精力的にレコーディングを再開する。
まずは手始めに、14日自らのリーダーアルバムの制作をMuseレーベルで行う。
アメリカで自分のリーダーアルバムを制作するのは、”Encounter”以来実に7年ぶり。アダムスにとって16枚目のリーダーアルバムとなるのが、この“Reflectory”である。

ピアノトリオを従えたアダムスのワンホーンアルバム。
実は、アダムスのワンホーンアルバムというのは珍しい。多分最初のワンホーンアルバムは'73年にロンドンで録音された”EPHEMERA"。サドメルでのヨーロッパツアー中に録音されたものだ。サドメルのリズムセクションのメンバーが加わっている。

このセッションはせっかく設けられたレコーディングの機会であったが、録音環境はスタジオ、機器、スタッフともに非常にプアーなものであったらしい。ピアノは調律されていないチープな物で、録音を担当したエンジニアはウッドべースをそれまで見た事も無いという有様であったそうだ。

その後、サドメルを辞める前に、これもヨーロッパ、ミュンヘンでライブの模様を収めた録音がある。これもサドメルのヨーロッパツアー開始前に急遽決まったライブであった。いずれも、腰を据えて作られたアルバムというものではなかった。

‘77年にサドメルを辞めた直後の2枚のライブアルバム、”Pepper Adams Live”, ”In Europe”はワンホーンである。人生の後半を本格的なソリストになりたくてサドメルを辞めたアダムスであったが、本心はあまり他人のことを気にせず自らの想いをストレートに表現できるワンホーンでの演奏に憧れていたのかもしれない。それまで、コンビを組んだドナルドバードとの双頭コンボでは辛酸を舐めさせられたので。

そして、このアルバムの制作となる。アダムスのとっては自分がリーダーとなる初のワンホーンのスタジオ録音であった。という点では、やっと夢が実現、アダムス自身の期待も高まっていたと思う。

メンバーは、サドメル時代の仲間であった、ローランドハナとジョージムラツ、7年前の「エフェメラ」と同じである。それにこの3人とは良くプレーをしたビリーハートが加わる。
メンバーもお互い気心の知れた同士、すべては快調にスタートする。

スタジオでのアダムスの仕切りは完璧であったそうだ。単に譜面を書くというだけではなく、各人の演奏に細かな指示があったが、実際にプレーをすると不思議と皆のクリエイティビティー損なうことなくその通りに収まっていったと、ドラムで参加したビリーハートがそのような主旨のコメントを残している。

サックスの音を綺麗に録音するというのは簡単なようで難しい。アダムスはレコーディングの結果に対して演奏の良し悪しだけでなく、録音に関しても色々コメントを残している。アルバム的にはいいアルバムという評価を得ていても、録音に関してアダムスにボロクソに言われたアルバムも多くある。アダムスは自分の想いを実現できる録音の機会の願っていたのに加えて、自分の豪快であるが、ある意味繊細でもあるバリトンの音を綺麗に録ってくれるエンジニアも求めていたようだ。

そして、この録音ではそのエンジニアにも出会えたようだ。
アダムスは自分のコメントとして、「このアルバムのエンジニアElvin Cambellを最も自分の音を上手く録ってくれた」と評価している。彼の録り方は、一本を楽器に非常に近く、そして一本はかなり頭上高く離れて設置し、2つの音を上手くミックスする方法だという。

このアルバムで、アダムスのソリストとしての活動を祝うアルバムがやっと作られたように思う。




1. Reflectory           Pepper Adams 7:00
2. Sophisticated Lady       Duke Ellington 5:37
3. Etude Diabolique        Pepper Adams 7:16
4. Claudette's Way         Pepper Adams 6:11
5. I Cary Your Heart        Pepper Adams 6:53
6. That's All      Alan Brandt / Bob Haymes 6:32

Pepper Adams (bs)
Roland Hanna (p)
George Mraz (b)
Billy Hart (ds)

Produced by Mitch Farber
Recording Engineer : Elvin Campbell
Recorded at CI Recording, NYC, June 14, 1978

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強烈なサンバのリズムのクリスマスソングかと思ったら・・・

2014-12-21 | CHRISTMAS
Brazilian Christmas / Lori Mechem


CDやレコードを買う場合も今ではネットで買う事が多く、今ではショップで買う事は少なくなってしまった。ジャケットを見ながら知らないアルバムを買う(いわゆるジャケ買い)楽しみはなくなってしまった。もっとも棚に並んだCDだとLPと違って見にくいという事もあるが。
ところが、クリスマスアルバムだけは、演奏者も確認せずにタイトルとジャケットだけで買ってしまう事も、これもその一枚だ。タイトルのBrazilian Christmasだけで購入した一枚だ。ジャケットに記されているLori Mechemが誰かは何も知らずに。

購入後、ジャケットをじっくり見ると演奏スタイルに関してのコメントが載っていた。インストで、ピアノ、サックス、フルート、フリュゲルホーン、ギター、ベース、それにドラム。それにストリングスも。ジョビンやスタンゲッツに似ているとある。それで、強烈なサンバのリズムにのったアルバムではないのは察しがついた。

聴いてみると、確かに軽くボサノバのリズムにのった、イージーリスニング風の演奏。最近、ジャズは若者に人気が無いというが、良く飲食店の店内ではジャズがBGM流れていることが多い。和食の店でのハードバップも意表をついていいが、この手の演奏はどこで流れても無難だろう。

せっかくなので、このLori Mechemがどんなミュージシャンかを調べてみることに。



テネシー州ナッシュビルで活躍する女性ピアニスト。ナッシュビルはジャズというよりはカントリーミュージックの本場。あまりジャズの活動拠点としては聴いた事がない。
地元ではプレーだけでなく、教育なども積極的に行っているジャズ界の有力者のようだ。ガレスピーや、ジミースミス、カルコリンズなどとも共演経験があるという。カルコリンズは隣のシンシナティーが地元だった。

スタイルはこのアルバムだけでは分からないが綺麗なピアノを弾く。そういえば、似た感じがする人気の女性ピアニストBeegie Adairはすぐ隣のケンタッキー出身。中西部出身のピアニストに何か共通点があるのかも?

彼女の最初のアルバムがカウントベイシーオーケストラのアレンジをスインギーにカルテットで演奏したアルバムだという。またテナーのピート・クリストリーブと共演したストレートはヘッドな演奏もあるようで、これらの方に興味が湧く。

クリスマスアルバムをきっかけにこれまで知らなかったミュージシャンを聴くのもまた楽し。

1. I'll Be Home for Christmas         3:59
2. Have Yourself a Merry Little Christmas   4:14
3. The Christmas Song            4:29
4. Christmas Day with You          3:52
5. Christmas Time Is Here          4:33
6. We Three Kings Lori Mechem        4:32
7. The Christmas Waltz            4:17
8. O Little Town of BethlehemLori Mechem   4:35
9. Snowfall                  4:21
10. Christmas Is Coming            4:31
11. Seems Like Christmas in July       4:33
12. What Child Is This            4:04

Lori Mechem (p)
Denis Solee (sax&fl)
George Tidwell (flh)
Pete Huttinger (g)
Roger Speneer (b)
Chris Brown (ds)
Dann Sherrill (per)

Produced & Orchestrated by Jeff Steinberg
Arranged by Lori Mechem & Jeff Steinberg
Recorded at Brentwood, TN by Brendan Harkin



Brazilian Christmas: a Brazilian Jazz Holiday Expe
Lori Mechem
Green Hill
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久々に猪俣さんのドラムを聴いた。猪俣さんといえばザ・サードを思い出す・・・

2014-12-20 | MY FAVORITE ALBUM
猪俣 猛&The Third Concert / Original Composition by Norio Maeda


連日楽しいスイングするビッグバンドを聴かせてくれるライブハウス「TN Swing Jazz」。最近はボーカルのゲストを加えた日も増えてきたようで益々楽しみだ。ゲストが加わるとレギュラープログラムとは違った演奏も楽しめるが、先日ドラムの猪俣猛氏をゲストに迎えた日があった。

猪俣猛はジャズを聴き始めた頃、ファンで良く聴きにいったが、最近はなかなかライブで接する機会が無かった。時代と共に色々な編成のバンドを組んでいたが、中でも自分のお気に入りはビッグバンド編成のザ・サード。今でもこの編成で年に数回演奏をしているようだが、日程が合わなかったり、遠隔地であったりで聴く機会には恵まれていない。
そんな猪俣氏が、ゲストとはいえビッグバンドでの演奏が聴けるという事で、楽しみにして出掛けてみた。ここのハウスオーケストラのリーダーは稲垣貴庸。猪俣氏の弟子ということで、この師弟対決も楽しみであった。

ステージは稲垣さんがプレーするレギュラーバンドの演奏と、ドラムが猪俣さんに替わった演奏と各ステージが2部構成になっていたが、猪俣氏の演奏する曲はいつもの譜面ではなく、猪俣氏とは盟友の前田憲男のアレンジによるものを使用。その意味でもいつものステージとは違った雰囲気を楽しめた。

スマートな風貌であった猪俣氏も、久々に見る姿は確かに歳をとられた感じがしたが、いざドラムセットの前に座るとそれも杞憂、以前にも増してダイナミックなドラミングを聴かせてくれた。歯切れの良いドラムは健在であった。



今からちょうど40年前の12月、渋谷公会堂でこの猪俣猛とザ・サードのコンサートが行われた。この観客席には自分も座っていた。40年前の1974年はデュークエリントンの亡くなった年。その偉大な作曲家の死を悼んで、このコンサートの第一部はデュークエリントンの曲を特集したプログラムであった。以前この模様を収めたアルバムは紹介した。

先日のTN Swing Jazzのステージで演奏した曲もエリントン、ベイシーの十八番の曲が多かったが、このコンサートで演奏された曲(アレンジ)は無かったように思う。

そして、このアルバムはその続き。第2部は、このオーケストラのオリジナル曲でプログラムが組まれた。曲の途中のMCでも語られているが、結成されてから3年目。この間何度も演奏してきた曲が並んでいる。その点ではやり慣れた曲で、演奏の完成度は高いと思う。

このザ・サードのアレンジはすべて前田憲男のアレンジを使用していたので、実質的に猪俣・前田の双頭ビッグバンドといってもよかった。この1974年というと、あのサドメルが2回目の来日を果たした年。このザ・サードもレギュラーバンドとはいえ日常的に活動をおこなっている訳では無く、自分達の曲を繰り返し演奏し切磋琢磨するリハーサルバンド。その意味ではサドメルオーケストラの日本版ともいえるビッグバンドであった。

このバンドの特徴は、基本はビッグバンドの標準編成と同じだが、サックスだけはアルト3本、テナーは1本の編成となっている。それにソプラノやフルートなどを多用するので、サドメルのオーケストラのサウンドと似ている点もある。サックスセクションだけでなく、ホーンセクションもテューバやメロフォニウム、フリューゲルホーン、ピッコロトランペットなどとの持ち替えがあり、それだけで雄^ケストラ全体が多彩なサウンドを生み出している。

前田憲男のアレンジがオールマイティということもあるのだろう、当時のクインシージョーンズオーケストラに似た部分があったかと思うと、2世代くらい前のクインシーの雰囲気を感じさせるアレンジもある。また4ビートだけでなく、8ビートもあるが、曲の途中でのリズムやテンポの変化も多いのが特徴だ。前田自体のプレーもエレキピアノの加えてオルガンも良く使っていた。ロストワールドではテナーの西条孝之助が加わり西条節のクールトーンがアレンジとピッタリだ。

猪俣氏のライブを聴いて久々にこのアルバムを聴いたが、今聴いても完成度の高かったビッグバンドだと思う。今はどのような曲を演奏しているか知らないが、もう一度生で聴いてみたいビッグバンドだ。先日の三木敏悟のインナーギャラクシーといい、ベテランのオーケストラの復活も楽しみだ。

TN Swing Jazzには今度は前田憲男さんがゲストで出るという。これも何か違った雰囲気の前田マジックを聴かせてもらえそうな気がする。時間が取れれば出掛けてみようと思う。

1. 朝顔 (The Chant of Morning Glory)
2. In Quiet
3. 6/8 + 3/4 = 11/2
4. Lost World
5. ゆりかごの歌 (Cradle Song)
6. Resignation



猪俣 猛 (ds)
前田 憲男 (p,org)
荒川 康夫 (b)
中牟礼 貞則 (g)
水谷 公正 (g)
中島 御 (per)
Jake Concepcion (as,ss
鈴木 重男 (as,ss)
清水 万紀夫 (as,cl)
三森 一郎 (ts,ss)
原田 忠幸 (bs,bcl)
鈴木 武久 (tp,ptp.flh)
伏見 哲夫 (tp,flh)
福島 照之 (tp,flh)
吉田 憲二 (tp,mellopho)
キジ 西村 (tb)
中沢 忠孝 (tb)
山下 晴生 (tb)
堂本 重道 (btb,tuba)

Recorded live at 渋谷公会堂、Dec. 4 1974
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ミンガスのラストレコーディングであり、アダムスが参加した最後のミンガスグループ・・・

2014-12-19 | PEPPER ADAMS
Me Myself An Eye / Charle Mingus

古いビデオを整理していたら中村誠一が率いるサックスバトルのテレビ番組の録画が残っていた。今ではベテランとなった面々の若い頃のクラブでのライブ演奏をたっぷりと聴ける。メンバーの一人に大森明の姿が。バークリーに留学後アメリカで10年近く武者修行の後帰国してまもなくの演奏だと思う。当時は地上波でもスポンサーがついてこんな番組ができた時代だった。
その映像はこちらで↓



その大森明の初レコーディングは、1978年アメリカ滞在時でチャーリーミンガスのラストレコーディングだった。先日紹介したその時の演奏Something Like A Birdではソロもとっていた。大森明のバイオグラフィーを見るとその時の様子が記されている。

この録音のコーディネートをしたPaul Jeffreyのワークショップに大森明は参加していた。ミンガスのワークショップというのは有名だが、ニューヨークではワークショップとかリハーサルオーケストラというのは昔から数多く行われ、新人、中堅を問わず研鑽の場になっているようだが、このPaul Jeffersonmoワークショップには、ゲストには大物プレーヤーが多く参加していたそうだ。

このジェフリーがミンガスのレコーディングに向けての譜面が仕上がってくると、その音合わせに譜面の読める大森に声を掛けたのがそもそものきっかけだった。ミンガスがそのリハーサルの模様を収めたテープを聴いて、「この東洋人にもソロをとらせろ」と言ってくれたので晴れてソロを残せたそうだ。リハーサルを重ね本番が近付くとペッパーアダムスなどのレギュラーメンバーも集まり、いよいよ録音の日を迎えた。

進行表が配られ、マクファーソンがまだ来ていない中、初めて全員揃ってのリハが始まり曲の全貌が明らかになったそうだ。本番テイクでは、アンサンブルにミスがあろうと、ソロの良し悪しもお構いなくどんどん前に進んでいく、これがミンガス流のレコーディングのようだ。あの自然発生的なアンサンブルは、そうしてできるのだろう。

初日は先日紹介したアルバムに収められた”Something Like A Bird”であった
翌日はこのアルバムに収められているもう一つの大曲、”Three Worlds Of Drums”。チェンバース、ガッド、リッチモンドの3人のドラムの揃い踏み、曲調もこちらはミンガス調で、サックスもテナー陣だけがソロを割り当てられて、大森もアダムスもソロでの出番はない。

録音のもう一日の予定日20日は雪で流れたため、23日に延期。すでに予定の入っていたメンバーは参加できず、急遽ピンチヒッターが多く集められた。マルタもその一人であった。
この日の録音では、デビルウーマンはラリーコリエルのギターとブレッカー兄弟のソロがフィーチャーされる。Wednesday Night Prayer Meetingでは手拍子とコーラスで始まるミンガスらしい曲。後のCarolyn "Keki" Mingusではリーコニッツがフィーチャーされるが、ここではミンガスから注文が出て、ジョニーホッジス張りのベンド奏法を求められたが、コニッツは一切無視という事件もあったようだ。

いずれにしても、この時すでに体調がすぐれなかったミンガスにとってはこれが最後の録音となった。それを感じてか、これまでの集大成のような感じがするし、昔からの仲間に加えて新しいメンバーを加えたのみも何か意味があったのかも。アダムスにとっても夏のニューポートのステージにはライオネルハンプトンのバンドに加わっていて参加できず、ミンガスグループでの演奏はこれが最後となった。

大森明にとっては、忘れられない初レコーディングであり、アダムスにとっては長年付き合ったミンガスとの最後の共演であり、2人にとっては忘れられないセッションであったと思う。




1. Three Worlds Of Drums

Randy Brecker, Mike Davis (tp)
Jack Walrath (tp, arranger)
Slide Hampton, Jimmy Knepper (tb)
Akira Ohmori (as) Ken Hitchcock (as)
Daniel Block, Michael Brecker, George Coleman, Ricky Ford (ts)
Pepper Adams, Ronnie Cuber, Craig Purpura (bs)
Bob Neloms (p)
Larry Coryell, Ted Dunbar, Jack Wilkins (g)
Eddie Gomez, George Mraz (b)
Joe Chambers, Steve Gadd, Dannie Richmond (ds)
Sammy Figueroa, Ray Mantilla (percussion)
Paul Jeffrey (conductor)
Charles Mingus (composer, arranger)

Recoeded at Atlamtic Studio,NYC, January 19, 1978

2. Devil Woman
3. Wednesday Night Prayer Meeting -
4. Carolyn "Keki" Mingus

Mike Davis (tp) Randy Brecker (tp)
Jack Walrath (tp, arranger)
Jimmy Knepper, Keith O'Quinn (tb)
Lee Konitz, Yoshiaki Malta, Akira Ohmori (as)
Ken Hitchcock (as,ss)
Daniel Block, Ricky Ford, John Tank (ts)
Michael Brecker (ts)
Pepper Adams, Ronnie Cuber, Craig Purpura (bs)
Bob Neloms (p)
Larry Coryell, Ted Dunbar, Jack Wilkins (g)
Danny Toan (g -4)
Eddie Gomez (b)
Joe Chambers, Dannie Richmond (ds)
Charles Mingus (composer, arranger)
Paul Jeffrey (arranger, conductor)

Recoeded at Atlamtic Studio,NYC, January 23, 1978



Me Myself & Eye
Charles Mingus
Warner Spec. Mkt. UK
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クリスマスシーズンになるとラジオでも特集番組が・・・

2014-12-15 | CHRISTMAS
Christmas Jubilee

学生時代は少ない小遣いではレコードは何枚も買えず、ジャズを聴くのはジャズ喫茶ともっぱらラジオ。毎週のジャズ番組は漏らさず聴いていた。FM番組はエアチェックをするので、FMの番組表の雑誌を毎週チェックして予定を組んでいた。
一本のテープに収めるために、コマーシャルや途中のナレーションをカットして収めるのにも苦労したものだ。
ラジオ局の中に米軍向けのFENという英語放送があった。(もしかしたら今でもあるのかも?)ジャズも時々かかるし、DJを聴いても、中身が分からないなりにこれがアメリカだなと雰囲気を感じながら良く聴いたものだ。クリスマスシーズンが近づくと、クリスマスソングが良くかかったが、これも雰囲気があっていい感じであった。

戦争中でも物量の豊かなアメリカは、前線の兵士向けのラジオ放送を行い、レコードを送り続けた。前線の兵士を慰問するためのコンサートさえ行われていた。その中で空軍向けの放送AFRS(Air Force Radio Service)があったが、この局でも毎年クリスマスの特集番組を作っていた。その番組向けのスタジオライブを事前に行ってそれをレコードにしたり、ハリウッドでDJを交えてレコードをかけて番組を作ったり。

この番組コンテンツをそのまま収めたのがこのアルバムである。最初手にした時可愛いイラストのジャケットデザインなのでそんな雰囲気のアルバムかと思って裏を見たら、昔のスイング時代の有名バンドや歌手の名前が盛りだくさん。それらを集めたオムニバスアルバムと思って、中を開けたら中身は実はラジオ放送のクリスマス番組そのものであったという次第。

最初の1945年の番組はカウントベイシーオーケストラがNBCのスタジオに陣取り様々なゲストを招く豪華版。その収録日を見てびっくり、クリスマス番組だというのに、録音されたのは真夏の8月8日。8日というと時差があるので日本では9日、何と長崎に原爆が投下された日であった。ベイシーをバックにしたリナホーンやビングクロスビーを聴けて楽しめる。クロージングはワンオクロックジャンプで。

次の1947年はデュークエリントンをゲストに招き、こちらはレコードをかけながら途中で拍手を入れながらライブ風に仕立てたDJスタイル。こちらはエリントンオーケストラの演奏は一部で、ルイアームストロングやキングコールなどの新録音(当時の)が並ぶ。クロージングは、こちらも何故かエリントンによるワンオクロックジャンプ。
ボーナストラックでは、シナトラの若い歌声も聴ける。

どちらも、ただ曲が並んでいるより当時の番組をそのまま聴いている雰囲気でいい感じだ。
自分が録ったエアチェックを最近聴く事もめったにないが、今思うとCMやDJ、解説を含めた当時の番組をそのまま録っておいた方が、個性豊かな評論家の喋りも楽し今聴いても価値があったように感じる。


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盟友ショーティーロジャースと一緒にバドシャンクの熱いアルトの復活のきっかけは・・・

2014-12-14 | CONCORD
Yesterday, Today and Forever / Shorty Rogers・Bud Shank

フィルウッズは白人のパーカー派のアルトの代表格。ウッズが東の横綱とすると、このシャンクは西の横綱。ウッズ同様活動フィールドも広く、活動歴も長く2009年に亡くなる直前まで活動を続けていた。ウェストコーストを拠点としたバドシャンクであるが、彼も「熱いアルト」の代表格であろう、特に晩年のプレーは。

ウェストコーストで活躍したミュージシャンはケントンオーケストラ出身が多いが、このシャンクも例外ではなくその一人。比較的早い時期1950~51年頃ケントンオーケストラに在籍した。その時一緒にメンバーにいたのが、トランペットのショーティーロジャースだが、ケントンに入る以前からの知り合いというので、2人の付き合いも長い。

2人はケントンオーケストラを辞めるとロス(ハリウッド)を拠点として活動を始めた。一緒にプレーをしたのは、ボブクーパー、ハワードラムゼイ、シェリーマンなどウェストコーストジャズを作った面々で、ライトハウスオールスターズに加わり彼等もその一翼を担った。彼らと一緒に多くのジャズアルバムも残した。ペッパーアダムスも1956年ロスで活動していた時、彼らのレコーディングには良く参加していた

その後、ジャズの人気が下火になったこともあり、60年代は仕事の中心をバドシャンクはスタジオワークに、そしてショーティーロジャースは作編曲に変えていったが、ロジャースはトランペットを吹く事も無くなった。
一方のシャンクは、スタジオワークをしながらジャズのプレーも続けた。アルトだけでなくフルートも良く演奏した、日本では渡辺貞夫がそうであったように。

コンコルドレコードが立ち上がった時、このバドシャンクのアルバムもカタログに加わったが、そこでの活動の中心はローリンドアルメイダと作ったLA4であった。シャンクのバリバリのメインストリームのプレーは、必ずしもオーナーであるジェファーソンの好みであるモダンスイングとは合わなかったのかもしれない。

その中で、バドシャンク自らプロデュースしたアルバム”Heritage”があった。70年代に入って世はフュージョンブーム、このメインストリームの演奏は貴重だ。レコーディングの機会は少なくなっていたが、時々は地元のクラブへは出演していたようで、シャンクのジャズに対する熱い想いは冷めることが無かったようだ。

80年代に入り、メインストリームジャズが復活の兆しを見せ、一線を退いていたベテラン達も次々と復帰をしていた。スタジオでは良く顔を合わせる旧友のショーティーロジャースにも声を掛けた。その誘いもありロジャースも20年振りに楽器を手にクラブ出演をするようになった。昔のような鋭いプレーができなくなったせいか、トランペットではなくフリューゲルホーンを多用するようにはなったが。
盟友と一緒にプレーしシャンクもやる気が出たのか、その後フルートのプレーを一時止めてアルト一本にかけている。本物の熱いアルトの復活である。復活というと歳が気になるが、この時シャンクは57歳、まだ還暦前だ。これから20年以上一線で活躍することになる。

此の頃、日本ではジャズは新しいフュージョン物だけではなく、古き良き時代のジャズの見直しも本格化し、ある種のフィーバー状態であった。我々世代もレコードでしか聴く事の出来なかった大物の演奏を生で聴きたくて(見たくて)良く出掛けた。ビッグスポンサーがついたジャズフェスティバルも数多く行われ、普通のホールでは収容できず、武道館や大きな野外スタジアムなので、遠くのステージで豆粒ほどにしか見えなかったが・・・。最近のかぶりつきで聴けるライブとは大違いであった。

その中の一つにオーレックスジャズフェスティバル(AJF)があった。東芝のオーディオ機器のブランドがオーレックス。ジャズだけではなく、オーディオ機器もこの頃が全盛期であった。皆それなりにいい装置で聴いていたものだ。
大手メーカーの販促効果を兼ねたイベントには大きな予算が付き、大物プレーヤーも数多く登場した。日本で企画されたアルバムも多く作られ、当時のベテランジャズマンの復活に日本のマーケット&ファンが影響力を持っていたのは間違いない。

‘82年のAJFがこの年も盛況に終え、翌年の企画会議が開かれた。その時決まった企画のひとつがウェストコーストジャズの当時のメンバーによる再現であった。AJFの全体プロデュースを指揮っていたのは、あのニューポートのプロデュースをしていたジョージウェイン。「この企画は面白い。他のコンサートでも使わせてもらうよ」ということで即決定となった。

このメンバーには当然、シャンクとロジャースも選ばれ、他のメンバーもパーキンス、クーパー、バドウィック、シェリーマンといった50年代に一緒にプレーをした往年の名プレーヤーが集まった。懐メロ曲の再現だけでなく、ロジャースも新たなアレンジも提供し、演奏も各地で回数を重ねると次第に熟していった。

その時の演奏はこちらで↓ ステージ上での彼らの熱演が聴ける。


しかし、バドシャンクとロジャースはこの企画だけでは満足しなかったのだろう。丁度2人で行っていた演奏をそのままの形で残したいという想いがこのレコーディングを生んだ。
オーレックスの舞台に出る2か月前だった。

リズム隊には昔の仲間ではなく若手を起用している。彼らが一線で活躍して時、彼らはまだ小学生や生まれたばかり、一世代近く若いメンバー達であった。クラブにはこのようなメンバーで出ていたのだろう。
プロデュースも自ら行っている。過去に出したアルバムと同様、コンコルドの看板は借りたものの、ジェファーソンの束縛も無く自分達のやりたいことを十二分にアピールしている。

このアルバムではシャンクはまだフルートを吹いている。ルータバキン同様、スタジオミュージシャンの持ち替え楽器以上のフルートの名手だと思う。ロジャースもソロはフリューゲルホーン主体だが往年を思い起こさせるようなプレーを聴かせてくれる。リズム隊が新しい若々しい勢いを吹き込んでくれている効果は大きい。ウェストコーストジャズというよりハードバップの再現だ。

50年代にもアレンジを重視したウェストコーストジャズとはいえない西海岸で録音されたハードバップスタイルのいいアルバムはあった。まさにその世界の再現がこのアルバムという事になる。
一曲目のBudoはマイルスのクールの誕生でも演奏されているが、そのクールサウンドの当てつけと思えるホットな演奏だ。オーレックスでの演奏も悪くはないが、その演奏よりはるかに素晴らしい。

1. Budo            Miles Davis / Bud Powell 5:09
2. Blood Count             Billy Strayhorn 6:27
3. Yesturday, Today and Forever      Shorty Rogers 7:29
4. TNT                   Tiny Kahn 4:14
5, Wagon Wheels        Peter DeRose / Billy Hill 8:08
6. Lotus Bud                Shorty Rogers 5:21
7. Have You Hugged Your Martian Today   Shorty Rogers 6:47

Shorty Rogers (tp,flh)
Bud Shank (as,fl)
George Cables (p)
Bob Magnuson (b)
Roy McCurdy (ds)

Produced by Bud shank & Shorty Rogers
Recording Engineer ; Phil Edwards
Recorded at Sage and Sound Recordings, Hollywood California, July 1983
Originally released on Concord CJ-223



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テナーがあればアルトのサミットも、フィルウッズが音頭をとると・・・

2014-12-13 | MY FAVORITE ALBUM
Alto Legacy / Alto Summit featuring Phil Wood, Vincent Herring, Antonio Hart

「情報」という言葉がある。元々中国から漢字と共に渡来した言葉では無く日本で作られた言葉だという。明治時代森鴎外が作ったという説が有力であったが、最近ではそれ以前に使われていたという事実も見つかったようだ。
いずれにしても、軍事用語を翻訳する過程で作られたようで、「敵情(状)の報告」もしくは「敵情(状)の報知」という意味で情報という言葉が作られた。英語のInformationの訳として使われ、意味的にも単なるdataと使い分けている。今の時代、情報という言葉は日常的に当たり前に使われるようになったが・・・。

一方で「情」という言葉は、日本語としては深い意味がある。他人に対する思いやり、物に感じて動く心の働き、そして、真心、誠意。どの意味をとっても、日本人の心の原点を表すような言葉だと思う。
とすると「情報」という言葉を「情」けを「報」せると解釈すると、Informationの語源である軍事上の諜報活動による情報という意味より、より大きく深い意味を持つことになる。
日本人にとっては情報とは、この情けを報せるという意味の方がしっくりするように思う。
コミュニケーションの方法が便利になった半面、本当に心の通うコミュニケーションが難しくなっている。
もう一度、「情報」の大事さを見直した方がいいかもしれない。

このアルバムのライナーノーツの中で、フィルウッズのアルトを“情熱のアルト”と書かれている。
熱い、あるいはホットなアルトというのは自分もよく使う言い回しだが、「情熱のアルト」というのはまさに言い得て妙である。ウッズのアルトには音色だけでなく、プレーそのものに熱さを感じる。それは自分の内面をアピールするだけでなく、自分の想いを他のメンバーに訴えかけることも含めて。
ウッズはヨーロピアンリズムマシンのようにワンホーンでやる時も、あるいはジーンクイルのコンビの時も、そしてビッグバンドでリードを吹く時も、いつでもプレーへの想いは熱い。

このアルバム「アルトレガシー」は、先日紹介したベニーゴルソンの「テナーレガシー」の姉妹アルバム。録音されたのは1995年。新しいアルバムをあまり聴かない自分にとっては、最近のアルバムということになるがすでに20年が経っている。
先日ベニーゴルソンが元気に来日したが、このフィルウッズもまだ健在だと思う。歴史の生き証人として、いまでも伝説を語れる2人がまだ健在だということは、単に偶然ということではないかもしれない。

さて、このアルバムは、サミットと謳っているが巨人達を集めた訳ではない。フィルウッズをリーダーに若手の2人のアルトを加えたいわゆるバトル物。ヴィンセントへリングはキャノンボールアダレイに憧れナットアダレーのグループにも参加していた。アントニオハートも同様キャノンボールアダレイやゲイリーバーツの影響を受けたという。
ウッズとは親子ほどの年の差はあるが、お互い熱いアルトで渡り合うには良い人選だ。リズム隊のメンバーも若手を起用している。前作と同様若手を従えて、過去の巨人達が残した名演を再現するという企画だ。

ウッズがリーダーといっても決してウッズが前面に立つのではない。かといってよくあるバトル物でもない。曲によって主役を変え若手を前面に立て、時にはバックのアンサンブルを加え、まさにメンバー全員で揃って取り組んでいる。例えば、自ら名演を残したミシェルルグランのサマーノウズではヴィンセントを前面に立て自分は引き立て役に徹している。
選曲は日本人プロデューサーということもあり、1曲だけはウッズのオリジナルだが他は過去の様々な名演が思い浮かぶしっくりくる選曲だ。

ウッズは自分は好きなプレーヤーだ。これまで紹介したアルバムにも多く参加している。とにかく色々な時代、シーンでリーダーアルバム以外でも出番が多いので、まだ紹介していないアルバム、聴いた事のないアルバムは沢山ある。また少し探してみようと思う。

1. Blue Minor  Sonny Clark  5:38
2. The Summer Knows (Theme from Summer of '42)  
     Alan Bergman / Marilyn Bergman / Michel Legrand  9:43
3 . Minority  Gigi Gryce  6:44
4 . Stars Fell on Alabama  Mitchell Parish / Frank Perkins  6:15
5 . Autumn in New York  Vernon Duke  5:57
6 . All the Things You Are  Oscar Hammerstein II / Jerome Kern  5:24
7 . Song for Sass  Phil Woods  7:16
8 . God Bless the Child  Billie Holiday / Arthur Herzog, Jr.  8:22

Phil Woods (as)
Antonio Hart (as)
Vincent Herring (as)
Anthony Wonsey (p)
Ruben Roggers (b)
Carl Allen (ds)
Engineer : Troy Halderson
Produced by Makoto Kimata

Recorded at Power Station in New York, June 4 & 5, 1995



アルト伝説~アルト・ジャイアンツに捧ぐ
Phil Woods
ビデオアーツ・ミュージック
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このオーケストラのサウンドをライブでまた聴けるとは思わなかった・・・

2014-12-12 | MY FAVORITE ALBUM
北欧組曲 / 三木敏悟 & 高橋達也と東京ユニオン

1. パートⅠ 白夜の哀しみ Midnight Sunrise
2. パートII エドワード・ムンクの肖像 Sketches Of Munch
3. パートIII グレタ・ガルボの伝説 The Legend Of Garbo
4. パートIV アンデルセンの幻想 Andersen Fantasia
5. パートV シベリウスの遺言 Sibelius' Testament
6. パートVI 遊ぶ子供たち Children at Play

高橋達也(leader,ts)
多田春文、安孫子浩、鈴木基治、斎藤智一(tp,flh)
宮崎英次郎、内田清高、岡田光一 (tb)
簾健一 (b-tb)
堀恵二、柳沼寛 (as)
井上誠二 (ts)
石兼武美 (bs)
石田良典 (b)
金山昌宏 (p)
海老沢一博 (ds)
荒谷憲一、直居隆雄 (g)
今村祐司 (per)
ミッキー吉野 (synth)

Producer 藤井武

録音 1977年5月15日、22日 東京エピキュラス・スタジオ

1978年1月、丁度ペッパーアダムスがチャールスミンガスのレコーディングに参加している時、日本ではスイングジャーナルの2月号が発売された。2月号では毎年前年リリースされたアルバムからジャズディスク大賞が選定され発表される。
1977年の金賞はハービーハンコックのVSOPニューポートの追想、銀賞にはグレートジャズトリオのビレッジバンガードのライブ盤。どちらも記憶に残るアルバムだ。
そして、日本ジャズ賞にはこの三木敏悟の北欧組曲が選ばれた。

1970年代後半、突如現れた新進アレンジャー三木敏悟。全盛期の東京ユニオンに加わり斬新なアレンジのビッグバンドサウンドを聴かせてくれた。この「北欧組曲」はアレンジャーとしてのデビュー作、日本とスウェーデンで同時発売され、この三木敏悟の世界は海外にも広く知れ渡った。
受賞が決まった2月号には、このアルバムを出したスリーブラインドマイスレーベルの広告に、受賞記念で国内用に2000枚、海外用に5000枚の追加プレスを行うと記載されていた。如何に誕生した時からグローバルで認知されたかを象徴している。

その後、三木敏悟は自らのインナーギャラクシーオーケストラを編成し、アルバム「海の誘い」を出し、モントルーのステージにも立った。そして、さらに数枚のアルバムを出し、これからという時に解散してしまった。

それから長い月日が経ってすっかり過去のオーケストラかと思っていたら、昨年、この三木敏悟とインナーギャラクシーオーケストラ(IGO)が再編されたというニュースを聞いた。これは行かねばと思いつつ、予定が合わなかったり、スケジュールをチェックしきれなかったり、結局、聴けず仕舞いで一年が経ってしまった。先日、復活一周年記念を兼ねたライブが東京TUCで行われ、やっと聴く事ができた。



当日の会場は満員、評論家の瀬川さんやプロデューサー藤井さんの姿も。そして、席にはその日のプログラムが置かれていた。
ジャズのライブで当日の演目が事前に発表されることはめったにない。せいぜいその日の特集や目玉がアナウンスされれば御の字だ。クラシックのコンサートでは必ずといってほど事前に演目があり、それを知って聴きに行くのだがこの違いは何なんだろう?



プログラムに目を通すと、処女作の「北欧組曲」からの曲もある。そしてまだ聴いた事も無い新しい曲も。曲名の下に、簡単なコメントが書いてある。まるでレコードのライナーノーツのように。
メンバーがステージに上がってオープニング曲Merman’s Danceが始まる。
これは以前のライブの映像↓


リズム隊は若手、ホーンセクションはベテランが多い。トランペットの安孫子氏、トロンボーンの鍵和田氏、サックスの柳沼氏などオリジナルのメンバーもまだ健在だ。最近、あちらこちらのライブの常連、羽毛田さんや、田中さんの姿も。

目新しい点は、女性コーラスの3人組が加わっている事、サックスセクションに尺八が加わっている事だろう。オーケストラ全体のサウンドはこの編成になった影響が大きい。
尺八の音色というのはどうしてもそれだけで「日本」を感じる。そして、女性コーラス3人組は楽演団五束六文というグループで活躍する3人。



演歌もジャジーに歌うグループだが、それがオーケストラ全体に影響し和風の味付けが加わった。創立当時から4ビートには拘らない自由なリズムとアンサンブルが特徴であったが一層磨きがかかり、それを支える若手の元気なリズム隊も頑張っている。

三木敏悟のアレンジは、リズム、ハーモニーが曲の中でも実に多彩に変化する。しかし、どんな曲でもジャズのエッセンスが組み込まれている。それをアピールするようなプレゼンテーションがプログラムに加えられている。
「津軽海峡」のジャズバージョンを聴かせてくれたり、新曲の即興アレンジをステージ上で披露する曲も。「和風」を組み込んだオーケストラは、ステージでのエンターテイメントを組み込みながらさらに進化して多彩なサウンドを聴かせてくれた。復活といっても、昔の懐メロの再演ではなかった。

プログラムに沿って2時間たっぷりのステージがあっと言う間に終わった。曲の合間のMCも実に軽妙でありポイントを押さえている。メンバー紹介を兼ねたソロの配置も実に絶妙だ。

この満足感は、結果的に演奏だけでなくステージ全体が実に上手くプロデュースされ演出されていたということだろう。
第一部の終わりに客席にいたマイクプライスがトランペットで飛び入り参加しクロージングを行った。特に何の紹介も無かったが、お客さんの中でマイクさんを知っている人が何人いたか?これも飛び入り参加だとは思うが、これもうまく演出されていた。
ビッグバンドを単なるライブではなく、ライブショー仕立てして聴かせてくれるのは、若手の向井志門 & The Swingin' Devilsしか聴いた事がなかったが、新生IGOはその世界にもチャレンジしているかもしれない。

三木氏の普段の活動をあまり知らなかったが、山野の審査員を長年務めているそうだ。バンドリーダー&アレンジャーの養成講座も積極的に行っているようだ。作編曲家としてだけでなく、今回プロデューサーとしての素晴らしさを再認識し、単にライブを聴く以上のステージを楽しませてくれた。単に団塊の世代の復活というより、長年築いてきたこれまでの経験をすべてつぎ込んだようなステージには重みと厚みを感じる。同じ世代としては嬉しい限りだ。
来年も積極的に活動すると宣言していたが、また出かけてみたくなるライブであった。
ゴードングッドウィンやマリアシュナイダーに駆けつける若いファンにも一度聴いて貰いたいオーケストラだと思う。


北欧組曲[Blu-spec CD]
三木敏悟&高橋達也と東京ユニオン
THINK! RECORDS
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