A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

いつも相手のいる仕事をしていると、たまには一人にしておいて欲しくなることもある

2017-03-02 | CONCORD
Willow Creek / Marian McPartland

 最近、著作権に関する話題が多い。パーマ大佐が「森のくまさん」の歌詞をかってに変えてCDを出したと訴えられた。著作人格権の同一性保持権の侵害ということらしい。とりあえずは解決したようだが。ジャズの世界では、原曲のメロディーを変えて演奏するのは当たり前、ほとんどの場合アレンジも施されている。先日紹介したミッシェルペトルチアーニのメドレー物を自作曲としたものなど完全にアウトだろう。歌詞も、その場の雰囲気に合わせて自由に変えることもよくある。アドリブでスキャットにしてしまうことも。という点で、歌詞についても同一性が保持されていないことは多い。

 次に、JASRACの音楽教育からも楽曲の使用料を徴収するという話。これには、音楽教室などから反論が相次ぎ、権利を持つ作曲家からも自分の曲は自由に使っていいという声も上がっている、果たして、JASRAC側の言い分がそのまま運用されるかどうか?

 これまでも音楽の権利に関しては、放送やレコードなど新しいテクノロジーやサービスが登場するたびに、その中での権利の取扱いについて新たなルール作り、そして運用上の問題が起こって来た。よくジャズの歴史の中で、ちょうどビバップが生まれた頃、ミュージシャン側のレコーディングストが起こり、当時(1942年〜44年)のレコーディングが少ないとか、そのお蔭でマイナーレーベルが誕生したとかの話が残されている。

 著作権はそもそも元の権利者を守るのが主旨、ところが実際にはその権利を代行する団体や事業者のビジネスが一番に考えられているような気がする。アメリカのレコーディングのストも、ミュージシャンの保護というよりも、音楽家教会(AMF)が自分で突っ走ったといわれている。

 昔、現役で仕事をしていた時、私的録音録画補償金制度に関わる仕事をしたことがある。各種のレコーダー機器が登場したことにより、私的利用とはいえ放送やレコード・CDが自由に録音をされることにより、元々の権利が侵害される(利益機会が減る)ので、その分の補償をハード機器に付加するという制度だ。結局、ハード機器に転嫁され、我々が高い買い物をしている構造だ。

 ところが、デジタル放送への移行期にコピーワンスというルールを作ったのに、同じように補償金を払うのは如何なものかとメーカー側が反論した。この制度に元々無理があった。メーカーから集めた補償金の分配先は各業界の権利団体まで、その先の権利者に分配する仕組みがなかった。当たり前で、何を録音、録画したかの記録がなければ、個々の権利者を特定できずに配分できないのは自明の理だ。結局は、権利者を守るといっても、潤ったのは利権団体だけだった。

 よく問題になるのは、放送コンテンツの権利。日本の場合これまで、オンエアを前提にして放送局に権利が属していた。後で再利用したくても、最初に取り決めが無かったので自由に使えない。ジャズの世界も、昔はNHK、民放を問わずテレビやFMで毎週のようにコンサートの中継やスタジオ収録の演奏がオンエアされよくエアチェックをした。これら演奏には今となってはお宝もあるが、この放送コンテンツがその後CDになったという話はめったに聴かない。
 一方で、欧米の放送コンテンツはよくアルバムとなって登場する。エアチェックや海賊版を別にすれば、最初から権利処理がされていたということになる。以前紹介したジムホールとロンカーターのライブ録音も、最終的な権利は演奏者のものとなっていたので、放送局の許可が無くても新たにアルバムにできたということだ。
 
 結論は、聴き手にとっては様々な作品、そしてその演奏を幅広く、自由に聴く機会が増え、権利を持っている人にとっては、何らかの形でその対価が払われればいいのだが、そう簡単にいかないのがこの著作権絡みの課題だ。

 さて、今回の主役はピアノのマリアンマクパートランド。コンコルドの所属となって、これまで何枚がアルバムを出してきたが、当時の彼女の活躍の場の中心は自分がパソナリティーを務めるラジオのレギュラー番組「Piano Jazz」。1978年に始まり、亡くなる2年前の2011年まで33年間も続く長寿番組だった。「徹子の部屋」のマクパートランド版なので、毎回ゲストを招き、おしゃべりと演奏を楽しむという企画だ。
 彼女自身の演奏、ゲストだけの演奏もあれば、2人のデュオもある。ゲストはジャズミュージシャンだけでなく他のジャンルまで及ぶので意外な組み合わせも。CDになったものだけでも30枚以上だが、他もその多くはネット上にアーカイブされて今でも聴くことができる。これぞ、権利処理の理想的な姿のように思う。

 そのようなマクパートランドが、コンコルドで新たなレコーディングをしたのは、1985年の年明け。ちょうど、ラジオではこの頃ガレスピーと共演していた。放送の為のスタジオ通いには慣れていた彼女だが、この日行ったスタジオはフレッドハーシュのスタジオClassic Sound Studio。そこで、いつものような共演相手もなく一人ピアノに向かった。

 この日演奏した曲は、彼女のオリジナルWillow Creek以外もすべてがバラード。それもジャズスタンダードといえるのはI’ve[ Got a Crush on You位。ブルーベックからスティービーワンダーの曲までバラエティーに富んでいる。しかし、演奏は彼女のジャズピアノのお手本のようなタッチで、特に演奏に変化を持たせることもなく、原曲の良さを一曲一曲噛みしめるように淡々と続く。
 日頃は、トークを含めて相手との掛け合いに神経を使っているが、この日はあくまでも自分との対話。またには、「一人でこんな日もあってもいいのかな」といった雰囲気のアルバムに仕上がった。

1. Without You                    Ahmad Jamal 3:41
2. The Things We Did Last Summer      Sammy Cahn / Jule Styne 5:28
3. All in Love Is Fair                Stevie Wonder 4:36
4. Willow Creek        Loonis McGlohon / Marian McPartland 3:27
5. Long Ago (And Far Away)       Ira Gershwin / Jerome Kern 2:54
6. Someday I'll Find You                Noël Coward 4:40
7. I Saw Stars      Al Goodhart / Al Hoffman / Maurice Sigler 4:05
8. Blood Count                   Billy Strayhorn 5:01
9. I've Got a Crush on You     George Gershwin / Ira Gershwin 3:53
10. Summer Song                    Dave Brubeck 3:21

Marian McPartland (p)
Produced by Carl Jefferson
Engineer ; Frank Kulaga
Recorded at Classic Sound Studio, New York, January 1985
Originally released on Concord CJ-272

Willow Creek & Other Ballads
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっとレコーディンを終えたので、今度はフェスティバルの舞台にも・・

2017-02-08 | CONCORD
Jazz Prose / The Fraser Macferson Quintet

 今から30年近く前、全国各地でジャズフェスティバルが開かれた。大手企業が冠スポンサーになって、日本の有名グループだけでなく海外からも多くのミュージシャンが集まり、夏の風物詩のひとつとなっていた。最近ではこのようなフェスティバルもすっかり影を潜め、代わりに町興しの一環として、街を挙げてのジャズイベントが開かれるようになった。
 東京では、新宿のトラッドジャズフェスティバルを始めとして、身近な所では阿佐ヶ谷ジャズストリート、練馬、そして我が家のある小金井でも規模は小さいが毎年開催されている。これらの、プロだけでなく地元のアマチュアも交えて楽しいお祭りは、東京だけでなく全国各地で数多く開かれているようだ。それだけ、身近にジャズを聴く機会は増えているのだが・・・。

 昨年、ゴルフ帰りに宇都宮ジャズクルージングに寄ってみた。渡辺貞夫の出身地である宇都宮はジャズファンが多いのか、このイベントは年3回も開かれている。同時に10か所以上でセッションが行われ、地元のミュージシャンが多く、名前も演奏内容も分からないので初めて行くと、まずどこに行くかで迷った。
 プログラムの中に、テナーの岡田嘉満と知った名前が見つかった。村田浩のビバップバンドの一員として、東京だけでなく全国を廻っているが彼の地元は栃木。普段は北関東を中心に活動をしているようで、東京ではなかなか聞く機会が無い。彼のように地方を拠点としているミュージシャンのライブ演奏を聴く機会は、たまたまその地を訪れた時以外ないものだ。

 ローカルミュージシャンの演奏に出会う機会が少ないのは日本だけでなく万国共通。アメリカはともかく、ミュージシャンの絶対数の少ないカナダとなると尚更だ。
 バンクーバーを拠点としていたフレイザーマクファーソンの演奏に惚れ込んだのは、コンコルドのカールジェファーソン。彼が自費出版で出したアルバムをコンコルドのカタログに載せ、新たにアルバムを作るためにバンクーバーにも乗り込んだ。その成果が前作のIndian Summerだ。そして、そのマクファーソンを今度はコンコルドジャズフェスティバルの舞台に引っ張り出した。ロンカーターとジムホールが出演した1984年のフェスティバルであった。

 マクファーソンは単身バンクーバーからコンコルドへ。他のメンバーもギターのエドビケットとベースのスティーブウォレスはトロントから。コンコルドのホスト役でもあるデイブマケンナとジェイクハナはボストンからと、一緒に共演するメンバーは共に東海岸から集まった。

 メンバーはかって一緒に共演した経験があり、演奏スタイルはジェファーソンが最も好むスタイルとなると、大舞台での演奏であってもほとんど打ち合わせやリハをすることなくプレーは始まった。テナーのスタイルはレスター派。日本で言えば、尾田悟といった感じのリラックスした演奏が続く。



 メジャーな世界では無名であったマクファーソンも、地元バンクーバーのスタジオではファーストコールの存在。カナダでも賞を受賞する腕前であったが、レコーディングの機会には決して恵まれていなかった。そんな、ローカルの実力者にもレコーディングやフェスティバルの舞台に上がる機会を与えたのがコンコルドであった。商売っ気抜きで、好きなミュージシャンを追いかけるのがジェファーソンの道楽であったとも言えよう。

 スタイルはフレイザーより多少バップスタイルだが、岡田嘉満のテナーも実によく歌うテナーだ。彼も自費制作のアルバムはあるようだが、今の時代なかなかメジャープレーヤーのアルバムでさえ制作できるレコード会社は無くなった。ローカルで活躍する隠れた名手のアルバムを作ろうというジェファーソンのようなマニアックなスポンサーはいないものかと思う。

1. You'd Be So Nice to Come Home To
2. All Alone
3. On a Slow Boat to China
4. Darn That Dream
5. Happy Man
6. I'll Never Be the Same
7. It Could Happen to You
8. There Is No Greater Love

Fraser Macfherson (ts)
Ed Bicket (g)
Dave Mckenna (p)
Steve Wallace (b)
Jake Hanna (ds)

Produced by Carl Jefferson
Recording Engineer : Phil Edward
Recorded live at The Concord Pavillion, Concord, California August 1984
Originally released on Concord CJ-269
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さなクラブのライブから、コンコルドジャズフェスティバルの大舞台に・・・

2017-02-07 | CONCORD
Telephone / Ron Carter & Jim Hall

 ロンカーターというと、自分にとっては丁度ジャズを聴き始めた頃のマイルスのグループの一員という印象が強い。しかしカーターの長いミュージシャン人生の中で、マイルスのグループに加わっていた期間は1963年からマイルスインザスカイまでの5年間、その間もスタジオワークでは数多くのセッションに加わっていた。レコーディングに参加した数の多さは間違いなく、ベスト5に入るだろう。
 今年で80歳になるがまだまだ現役バリバリ。良く来日して演奏を聴かせてくれるが、コンボであったり、ビッグバンドであったり、昨年はチェロを加えたノネット編成だった。ジャズだけでなく、クラシックの演奏にも長けているカーターは、要は何でもこなせるスーパーベーシストだ。

 一方の、ジムホール。有名な映画「真夏の夜のジャズ」では冒頭に登場するジミージュフリーのトリオにボブブルックマイヤーと共に加わっていた。映像では音はすれども姿はみせず、曲が終わった挨拶のところでワンカットだけ写っていたので印象が薄いが。その後、ロリンズやアートファーマーのグループに加わっていたが、彼も、その後スタジオワークが多くなった。スタジオでは常連のロンカーターと顔を合わせることも多かっただろう。

 この2人のキャリアを辿ると、2人ともチコハミルトンのグループが出発点になる。大陸の東西でハードバップ、そしてウェストコーストジャズが全盛であった頃、このハミルトンのグループというのは得意な存在だった。そこに2人が加わっていたというのも何か因縁めいたものを感じる。ハミルトンのグループでは必ずしも一緒にプレーをした期間はなく、入れ替わりだったようだが。

 この2人が、1970年にアローントゥギャザーというDuoアルバムを出した。ジムホールのデュオというと、ビルエバンスとのアルバムが有名だが、このベース版となる。一方のロンカーターも最近ではサックスのヒューストンパーソンとのデュオアルバムがあり、デュオでの演奏も多い。

 最近のゴルフはプロの世界では300ヤード越えのドライバーショットが目立つが、スコアメイクはやはりアプローチとパット。昨日のPGAツアーで松山が優勝したが、最後の勝因はやはりアプローチとパット。よく引き出しが多いという言われ方をするが、状況に合わせた多彩なアプローチの技を持っている松山に軍配が上がった。

 そのような意味では、ロンカーターとジムホールも日頃の多彩な演奏活動から自然と多くの引き出しを持つようになったのだろう。その2人が、丁々発止とやりあえば、それぞれの引き出しはフルオープンになる。
 ギターとベースのデュオというと、時々同じような演奏が延々続くライブに出くわすこともある。引き出しの少ない者同士のデュオは実に単調でつまらないが、この2人の掛け合いは実にスリリングだ。それも、ライブでの演奏だと一層。ゴルフでいうと練習場とコースでのショットの違いになるのだろう。本番でいい球を打てるようになれば本物だ。

 この2人のデュオにはライブのオファーも多く、忙しい日々の仕事の合間を縫ってはクラブ出演を続けていた。それも、大きな会場ではなく、小さなクラブの日曜の昼のセッションのような場所で。
 ある時、ニューヨークのビレッジウェストに出演した時の演奏がラジオ放送のために録音された。たまたまその音源の権利を2人はキープしていたので、ジムホールがコンコルドでアルバムを出すようになった時、ジェファーソンにそれを提供した。晴れてアルバムとなったのが、前作のLive at Village Westだった

 このアルバムが好評だったので、ジェファーソンはコンコルドジャズフェスティバルの舞台に2人を登場させることになった。1984年の8月、同じライブといっても、小さなクラブと違って、コンコルドのステージは2人だけの演奏には大きすぎたかもしれない。しかし、耳の越えたファンの暖かい拍手に迎えられ、2人の熱いコラボレーションが展開された。その、ライブでの演奏が収められたのが、このアルバムとなる。

 2人のデュオの3作目となるがいずれもライブでの演奏になった。スタジオに籠って2人きりで演奏するよりは、人前で一発勝負の演奏する方が、緊張感が増すのだろう。ジャズは、やはりライブに限るという一例だ。

1. Telephone                Ron Carter 5:05
2. Indian Summer      Al Dubin / Victor Herbert 5:43
3. Candlelight              Ron Carter  4:05
4. Chorale and Dance             Jim Hall 6:30
5, Alone Together   Howard Dietz / Arthur Schwartz 10:15
6. Stardust     Hoagy Carmichael / Mitchell Parish 7:29
7. Two's Blues                Jim Hall 4:04

Ron Carter (b)
Jim Hall (g)

Produced by Carl Jefferson
Engineer : Phil Edwards
Recorded at Concord Pavillion, Concord, California August 1984
Originally released on Concord CJ-270

Telephone
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョージウェインがConcordで手掛けた最初のアルバムは・・・

2017-02-02 | CONCORD
100 Hearts / Michel Petrucciani

Concordのアルバムにジョージウェインの名前が登場したのは、ニューポートオールスターズのアルバムであった。1984年の春、このオールスターズがアリゾナ州立大学での演奏を収めたものだ。

ニューポ―トといえば、ジョージウェインが1956年に最初に手掛けたジャズフェスティバル。発祥の地ニューポートでの開催は一時中断した時期もあったが、1981年装いも新たにニューポートの町に戻ってきた。
このフェスティバルには毎回、時の大物ミュージシャンが参加していたが、その中で変わらなかったニューポートオールスターズ。ウェイン自らがピアノで参加し、スイング、ディキシー系のベテラン勢がメンバーを務めた。

81年に再開された時、9年のブランクの間に他界したメンバーも多く、メンバーが一新された。その時新たに参加したのが、中間派の若手代表、スコットハミルトンとウォーレンバシェであった。このオールスターズは、本番のニューポートのステージだけでなく、全米の大学周りのツアーを行い、それに2人も参加していた。当時コンコルドレーベルの看板であった2人が、一時ウェインの元にレンタル移籍をしたような形だった。

ジェファーソンとウェインの仕事でのジョイントはこれがきっかけになったのであろう。
ジェファーソンは言わずと知れた大のスイング好き、一方のウェインは、ピアノの演奏はスイングスタイルだが、プロデューサーとしてはスイングには拘らず時代の先端となる演奏にも興味を示していた。

80年代の初めは、メインストリームとフュージョンが鎬を削っていた頃だったが、ウェインはあくまでもジャズはスイングする物に軸足を置いていた。という意味で、新伝承派と言われた若手達にもウェインは注目していた。

ウェインは、ニューポートを手掛ける前は地元ボストンで、ストリーヴィルという名でクラブやレーベルを運営していた。ジャズフェスティバルの企画・運営が中心になってからは、アルバム作りやレーベルのプロデュースは積極的に行ってこなかった。しかし、アルバム作りの情熱も残っていたようだ。

ジェファーソンの看板スターの貸し出しのお返しという訳でもないとは思うが、今度はウェインがジェファーソンにアルバム作りを手伝うことになる。

当時、ジェファーソンは自分の好みの領域を超えてアルバム作りを拡大してきた。その為に、自らプロデュースする以外に、東海岸で他のプロデューサーを起用したり、ミュージシャンの自己プロデュースしたアルバムを数多く手掛けるようになっていた。そんな時に、ジョージウェインをアルバム作りの総合監修に迎えるのは好都合だったのかもしれない。

コンコルドはそれまで、ラテン系のシリーズとしてConcord Picanteをサブレーベルとして設けていたが、カタログナンバーは両者共通化してきた。
新たにジョージウェインを迎え、今度はConcordというレーベルの中にGeorge Wein Collectionという、これまでのCJではなく、GWという別ナンバーシリーズを設けた。
このシリーズは結果的に10枚足らずの短命に終わったが、中に何枚か注目されたアルバムがあった。

そのシリーズの最初のアルバムがこのアルバムとなる。

当時、話題になっていたピアノのミシェルペトルチアーニ。ビルエバンスを源流とするピアノのスタイルも、この頃になると多くの後継者によって更にいくつかの個性あるスタイルに分かれていった。このペトルチアーニもその一人であったが、出身がヨーロッパであったこと、そして身体的なハンディキャップがあることが、演奏そのものよりも注目され、語られてしまっていたかもしれない。

ヨーロッパ出身であるペトルチアーニはモントルーにチャールスロイドのグループに加わり出演し、徐々にアメリカでも注目され始めていた。本格的なアメリカデビューは1983年、ニューヨークのクールジャズフェスティバルへの出演。これを段取りしたのがジョージウェインだった。

このペトルチアーニのソロが余程気に入ったのだろう、ニューヨークに滞在中、ステージでの演奏とは別にスタジオでも彼の演奏を録音した。スタジオライブの形式をとったようだが、自由奔放な彼のソロをステージ上の演奏をそのままの形で残したかったのかもしれない。ピアノの場合、ソロの方が、個性がはっきり出るように思うが、ペトルチアーニ自身、ソロの方が表現力を増すことができるとコメントしている。これが、ペトルチアーニのアメリカでの初録音となった。

コールマン、ヘイデン、ロリンズなどの曲に混じってペトルチアーニのオリジナルもあるが、Pot Pourriとタイトルされたメドレーでは、サムデイマイプリンスカム・・、オールザシングスユアーといったスタンダード曲が次々と続く。エバンスから始まるペトルチアーニの自らのジャズピアノの歴史かもしれない。

1. Turn Around                 Ornette Coleman 9:20
2. Three Forgotten Magic Words       Michel Petrucciani 5:26
3, Silence                   Charlie Haden 5:57
4. St. Thomas                  Sonny Rollins 6:41
5. Pot Pouri (Medley): Someday My Prince Will Come/All the Things You Are/Child Is Born
     Frank Churchill / Oscar Hammerstein II / Thad Jones / Jerome Kern /  14:21
6. 100 Hearts                Michel Petrucciani 11:59

Michel Petrucciani (p)

Produced by Gabreal Franklin
Live recording at RCA Studio A, New York, 1983
Originally released on Concord GW-3001 (George Wein Collection)

100 Hearts
クリエーター情報なし
Blue Note Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フレッドハーシュの初のトリオでのアルバムが提供されたのは何とコンコルドからであった・・・

2017-01-20 | CONCORD
Horisons / Fred Hersch Trio

ネットビジネスが世に出始めた頃、成功の秘訣は「プラットフォームビジネスに徹する事」という考え方があった。その昔はビジネスの組み立て方は垂直統合、多くの下請け企業群を傘下に持ち、製販一体が大企業の象徴のような時代もあった。今では分業化、良いものを外部から調達、それもグローバルレベルが当たり前の世の中になった。

プラットフォームビジネスというと、ビジネスレイヤー毎に輪切りにして、輪切りの部分を横展開していく戦略。ネット上ではポータルビジネスから始まったが、コマースが主流になり流通や決済まですべての領域に広がった。もちろん各レイヤーで成功するには、ITの利活用が不可欠であり、その巧拙がビジネスで成功するか失敗するかの重要な要素にもなった。

各レイヤーで勝ち組が出揃ってきたと思ったら、今度はレイヤー間の組み合わせ、連携が競争となり、新たな戦いが始まった。今や、車の自動運転が実現される時代、もはやITの利活用は利用者から直接見える所ではない、社会構造の奥深い所まで及んでいる。

さらに、最近のキーワードはビッグデータからAIに。我々生活者としては、ますます便利な世の中になっているが、反対に個人情報はすべてどこかに集まって、それらを元に勝手に判断を押し付けられる時代に。自分の意思を貫くには、そろそろ自分にとって必要なプラットフォームを利用者側が必要に応じで選別する時かもしれない。

さて、物でもサービスでも、それを実際に生活者に認知してもらい、買ってもらうために必要なものはブランドとそのネーミング。広告会社の一番の腕の見せ所である。そのブランド自体の役割も最近では大きく変化しつつある。果たして今後はブランドにどんな意味を持たせる世の中になることやら。

ジャズの世界では、昔はレーベルがブランドのようなものだった。レーベルの名前を聞いただけで、中身の演奏を想像できるようになれば、ジャズファンとしては一人前だった。自然と、好きなミュージシャンと共に、自分の好みのレーベルが決まってきたものだ。自分は、色々試行錯誤の結果、Concordレーベルファンに辿り着いたことになる。

Concordとは、オーナーのカールジェファーソンが、地元の町の名前Concordをそのままつけたもの。Concordの町自体が有名だったとは思えないので、実に安直に決められたネーミングだ。
地元で車のディーラーとして成功したジャズ好きのジェファーソンが、町のイベントとして公園の片隅でジャズフェスティバルを開催し、そのライブの録音をレコードにして通信販売で提供し始めたのがレーベルの始まり。特に積極的にビジネス展開するつもりも無かったようで、フェスティバルの名前もConcord、レーベルもそのままConcordでスタートした。

ギター好きのジェファーソンが最初に集めたのは、バニーケッセル、ハーブエリス、ジョーパス、ケニーバレル、チャーリーバードといったそれまで第一線で活躍していたベテランのギタリスト達。レイブラウンやジェイクハナといった彼らの仲間達も集まって、ジェファーソンに協力した。彼らも、昔のように大勢の人の前で演奏する場を求めていたのかもしれない。

地方に行くと、昔テレビの歌謡番組の常連だった懐かしい歌手がコンサートやホテルのショーに出ている。知名度は高いのでお客はそれなりに集まるからだろう。という点は、このコンコルドのジャズフェスティバルも同じ。客層は限られても、集客には十分な知名度と実力がある面々だった。

フェスティバルという年に一度のお祭りでは収まらず、出演したメンバーがLA4やグレートギターズのように新たにレギュラーグループを作ったり、他の仲間を呼んで一緒にアルバム作りを始めた。さらに、彼らが自らA&Rマンとして、日々の自分達の活動がてら、新人を発掘してはジェファーソンに推薦した。最初は、話が決まれば自分達が一緒に共演する、といった手作り感溢れるアルバムが多かった。その結果、ベテラン達に混じって、コンコルドでデビューした新人は、スコットハミルトンを筆頭に数多い。

当初、レーベルの活動拠点は西海岸であったが、東海岸でも同様な活動を始めた。それらも最初はすべてジェファーソン自らがプロデュースしていたが、数が増えるとプロデューサーも現地で起用し、アートブレイキーやジョージシアリング、ジムホールといった東海岸を拠点にしていたベテラン達も新たに加わった。

アートブレイキーのように、現役でグループを率いている場合は、そのグループの演奏はもちろん、ジェイムスウィリアムスのような若手メンバーにも別にレコーディングの機会を与えた。このような、現役レギュラーグループや、若手が加わると演奏自体、昔懐かしいスタイルだけでなく、新しいサウンドを聴かせるアルバムも増えていった。

カタログの枚数が250枚を超えると、ジャズの世界ではすでにメジャーレーベル、コンコルドサウンドは広く世間知られることになった。ちょうど同じ時期に展開していたPabloレーベルと並んで、ベテラン達の元気なメインストリームなプレーを聴けるレーベルとして定着していった。意図したものか、偶然かは別にして、どちらも似たようなブランドイメージが決まったということになる。

ところが、コンコルドのアルバムの中には時々プレーヤーの自主制作アルバムが混じっている。このような自主制作物は、初期の段階から、ルイベルソンバドシャンクのアルバムにもあった。自分で録音したものの、アルバムとして発売する機会を逃していたものが多い。
これらのアルバムは、ジェファーソンが特にプロデュースに関与した訳でもなく、いわゆるレーベル貸のような位置付けである。

インターネットが普及していなかった時の自主制作盤となると、その流通はメールオーダーの通信販売だけが頼りだった。告知だけでもなかなか大変な時に、定期的に新譜を出していたレーベルのカタログにラインナップされるということは、それだけでも世に認知してもらうには大きな告知効果があった。もちろんレーベルの持つ信頼感も合わせて。

新人達が参加し始めると、彼らにリーダーアルバム作りの機会も作るようになった。プロデュースをジェファーソンがすることもあったが、ミュージシャンに任せることも次第に多くなった。ドントンプソンのアルバムなどはその一枚。

アートファーマーのグループに加わり、コンコルドにアルバムを残したのがピアノのフレッドハーシュ。スタンゲッツのグループに加わったこともあり、他の有名プレーヤーとの共演も多かった。日本でも長期間ツアーをするなど活動実績は重ね、決して無名ではなかったが、何故かその時まで自分のトリオでの演奏の録音機会には恵まれないでいた。今の、フレッドハーシュの活躍ぶりからは信じられない事だが。

ジェファーソンは、このハーシュにトリオでのアルバムの機会を提供した。そのころハーシュは、ニューヨークに自分の録音スタジオを持ち、活動の範囲は一演奏家には留まらず広範囲だった。それ故、アルバム制作にあたっては、プロデュースのみならず、録音スタッフ、アルバムデザインに至るまで、すべてをハーシュに任せた。

結果は、完全自主制作アルバムで、いわゆるコンコルド色を全く感じず、突然ECMのアルバムが入り込んだような内容となった。このように、コンコルドの新人紹介アルバムは、制作過程に色々な経緯があるので、結果的に興味深いものが多い。

こおハーシュのアルバムも前回紹介したジーンハリスのアルバムとは色々な意味で好対照だ。ピアノのスタイル自体も、ハリスはピーターソンライクであるのに対して、ハーシュは当時からビルエバンスの影響が大きい。共演メンバーにはエバンスとコンビを組んだベースのマークジョンソンも加わっている。ドラムのジョーイバロンも、トニーベネットやカーメンマクレーのバックもしていたが、ニューヨークに移ったこの頃から、ハーシュなどと一緒に新しい世界に飛び込んでいった。このバロンにとっても今のドラミングに通じる出発点となるプレーを披露する場となっている。
演奏だけでなく、クラシックの録音もしていたというハーシュのスタジオ録音と、コンコルドの拠点でフィルエドワーズの手掛けた録音では、音の作り方も大きく違うのも興味深い。



コンコルドレーベルのファンにとっては、このハーシュのアルバムで、コンコルドのブランドイメージがさらに広がっていくことを実感できるが、ハーシュのファンにとってはコンコルドというレーベルイメージが、ハーシュの初アルバムにかえってマイナスイメージを与えてしまうかもしれない。ブランドイメージの難しい所だ。中身は正真正銘、今のハーシュの演奏に繋がるトリオの初アルバムとして聴き応えがあるものだが。

レーベルというのもある種のプラットフォームだが、今の日本のジャズ界は多くが自主制作盤。今の時代こそこのような自主制作盤を選別してカタログに載せるようなレーベルがあってもいいかもしれない。自分もライブに行った時に買い求める以外、なかなか新人達のアルバムを知る機会がない。今のネット時代だと、リコメンドアルバムがマイレーベルなのかもしれないが。

確かに今では色々なサイトでリコメンドアルバムが表示されるが、それは自分自身や同じようなファンの購買、視聴履歴を参考にしたものが大部分。ジェファーソンの試みたような意外性がリコメンドの選定基準に加わってくると、AI技術も本物になるだろう。

1. My Heart Stood Still           Lorenz Hart / Richard Rodgers 6:24
2. Moon and Sand       William Engvick / Morty Palitz / Alec Wilder 7:43
3. The Star-Crossed Lovers        Duke Ellington / Billy Strayhorn 5:00
4. One Finger Snap                     Herbie Hancock 3:22
5. The Surrey With the Fringe on Top  Oscar Hammerstein II / Richard Rodgers 5:00
6. Miyako                           Wayne Shorter 7:43
7. Cloudless Sky                        Fred Hersch 8:04

Fred Hersch (p)
Marc Johnson (b)
Joey Baron (ds)

Produced by Fred Hersch
Enginner : A.T.Michael, Mark Donald
Recorded at Classic Sound Studio, New York City in October 1984
Originally released on Concord CJ-267

Horizons
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝説のギタリストが、再び伝説の人に戻る時・・・・

2017-01-14 | CONCORD
The Legendary Tal Farlow

それなりに活躍していたミュージシャンンが第一線を退くと、それぞれ別の人生を歩む。
ジーンハリスはピアノを弾くことは止めなかったが、活動の場所は田舎町のホテルのラウンジであった。ピアノのホッドオブライエンは、コンピューター関係の仕事に就いた。

そして、ギターのタルファーローはニュジャージー州の海沿いの小さな町、Sea Brightでサインペインターとして日々を暮らしていた。ギターを弾くのも地元でセッションに出る位であった。
20歳を過ぎてから初めてギターを手にしたという。最近はスポーツであっても音楽であっても、10代の頃から世界的レベルのプレーヤーとして活躍する者が多い。遅咲きのファーローにとっては、この時代であってもプロとしてギターを生活の糧にすることは最初から念頭に無かったのかもしれない。

このように半ば引退状態であったタルファーローを再び第一線に呼び戻したのは、1976年のコンコルドジャズフェスティバルであった。コンコルドのハウスリズムセクションともいえる、レイブラウンやジェイクハナに加え、昔一緒にコンビを組んだレッドノーボをゲストに迎えてファーローの復帰を祝った

これをきっかけとして、伝説のギタリストは再び現役復帰し、コンコルドでアルバムを何枚か残した。
現役復帰するとレコーディングだけでなく、ライブやツアーも増える。80年代に入ると国内だけでなくヨーロッパツアーにも出向くようになる。しかし、そこでは自分の好きなように演奏するだけでなく、色々なセッションにゲスト参加する機会も増える。フランスに行くと、ホットクラブのグループにも招かれた。あのジャンゴラインハルトの演奏スタイルを伝承するグループだ。その演奏を聴いたファンは、必ずしもファーローの演奏している姿が楽しげには見えなかったという。

1984年も、自分のグループでヨーロッパツアーを行った。それを終えてすぐに今度は日本ツアーがあった。メインストリームからフュージョンまで毎日のように大きなコンサートが開かれていた当時の状況では、ファーローの来日と言っても大きな話題にならなかった。
実際に演奏する場も、アコースティックジャズフェスティバルとネーミングされ、ファーロー以外にローリンドアルメイダとデニーザイトリンと舞台をシェアした。しかし、メインはザイトリン。ファーローのステージは前座のような扱いであった。

コンコルドのオーナー、カールジェファーソンは、ツアーから戻ったファーローのグループに、ピアノのフランクストラゼリを加えてレコーディングを行った。
タルファーローのアルバムにはホーンが加わったアルバムは少ない。しかし、ツアーからこのレコーディングに至るグループには、サムモストが加わっていた。サムモストはフルートで有名だが、テナーはクールトーン、ウォーンマーシュのようなタイプだ。
他のメンバーとの調和を重んじていたファーローは、このようなタイプのホーンであれば、一緒にやってもいいと思ったのかもしれない。このアルバムでも、全曲に参加している訳でなく、実際の演奏もファーロー中心の演奏に表に出ることなく上手く溶け込んでいる感じだ。

このアルバムで参加したピアノのストラゼリも西海岸を拠点に活動していたベテラン。こちらも全曲に参加している訳でなく、そつない演奏を聴かせてくれる。

このアルバムを最後に、ファーローは再び表舞台から消えてしまう。やはりジャズ界の表舞台の活況の中で、「伝説のギタリスト」として加わることは、ある種の重荷になったのかもしれない。
ファーローにとってのジャズでありギターは、気の合った仲間と、それを聴いてくれるファンに囲まれ、気分よく演奏ができれば良く、無理にその世界を広げる必要が無かったのかもしれない。

結局、このアルバムが最後のアルバムとなり、タイトル通り再び伝説の人となってしまったが。
コンコルドではそれまでジェイムスウィリアムスと組ませたり、色々セッション毎に企画を凝らしたが、カールジェファーソンはその状況を察してか、最後は自分のグループで好きなように演奏させるように指示したように思える。

1. You Stepped Out Of A Dream        4:41
2. When Your Lover Has Gone         4:58
3. I Got It Bad And That Ain’t Good   5:14
4. When Light Are Low          6:45
5. Who Cares              4:16
6. Prelude To A Kiss           5:15
7. Everything Happenaas To Me        4:49

Tal Farlow (g)
Sam Most (ts,fl)
Frank Strazzeri (p)
Bob Maize (b)
Al “Tootie” Heath (ds)

Produced by Frank Dorritie
Engineer : Jim Mooney
Recorded at Sage and Sound, Hollywood, September 1984
Originally released on Concord CJ-266


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偶然一緒に演奏したのかきっかけで、2人のソウルエネルギーが全開へ・・・

2017-01-10 | CONCORD
Soular Energy / The Ray Brown Trio featuring Gene Harris

毎年8月になるとサンフランシスコに程近いコンコルドの街にはジャズミュージシャンが集まる。街の郊外にあるパビリオンで開かれるコンコルドジャズフェスティバルに参加するためだ。
規模が大きくなるにつれて、西海岸だけでなく東海岸や遠く海外から、日本からも北村英治が参加するようになった。ここでのステージの模様はライブアルバムとして毎年のようにコンコルドレーベルでリリースされ、会場に出向いたファンだけでなく、世界中のファンが楽しむことができた。また、その機会を利用してスタジオでの顔合わせセッションも開かれ、これも数多くアルバムとなって世に登場した。

自分のレーベルの所属ミュージシャンを中心にフェスティバルの毎年の出し物を考えるのはオーナーであるカールジェファーソンの楽しみであり、特権でもあった。1984年のフェスティバルのプログラム構成を企画していたジェファーソンが、何においても彼の片腕であったレイブラウンに、「今回はアネスティンアンダーソンにすべてブルースを歌ってもらおうと思う、メンバーを考えてくれないか」と、相談を持ち掛けた。

レイブラウンはすぐに、ピアノのジーンハリスを思い浮かべた。
というのも、少し前にレイブラウンはハリスに頼まれて2日間ハリスのセッションに付き合って、その縁で一緒にアルバムも作ったからであった。

お互い50年代からジャズ界で活躍してきた2人だが、共演したのはそれが初めてだった。というのも、ハリスは70年代には第一線を退きアイダホ州のボイセという地方都市に引き籠り、地元のホテルでピアノを弾いていた。ボイセはアイダホ州の州都とはいえ人口は20万人ほど。黒人が極端に少ない田舎町。ジャズ界との接点はほとんど無い場所だった。その地ででハリスはジャズだけでなくブルースからカントリーまで日替わりで何でも演奏している毎日だった。

レイブラウンと初めてプレーしたハリスは、久々にジャズのエネルギーが体内に蘇った。一方のレイブラウンはハリスのソウルフルなピアノの躍動感を一緒にプレーすることで体感した。ブラウンは数え切れない程のミュージシャンとの共演経験があるが、この感覚はあのミルトジャクションと一緒にプレーする時と同じだと感じ、早速ハリスを連れてニューヨークに行った。そのミルトジャクションと一緒にアルバムを作るために。
1983年12月のことであった。

その印象が強く残っていたブラウンは、ジェファーソンからの依頼を受けると、早速ボイセにいるハリスに参加を求め、一緒にフェスティバルのステージに立つことになった。

このアネスティンアンダーソンのブルース特集はステージでの演奏だけでなく、別にスタジオでアルバムを作ることになった。サンフランシスコのCoast Recordersスタジオにメンバー達は三々五々集合した。その時のアルバムが、先に紹介したアネスティンのアルバム”When the Sun Goes Down“である。

このアネスティンのレコーディングの準備を行っている最中、トリオの面々はせっかくだから自分達のアルバムも作ろうということになった。特にレコーディングの準備をしている訳でもなかったが、そこは臨機応変に対応できるジャズの良さ。リハーサルもなくスタンダード曲を次々と演奏し始めた。ライブでも初顔合わせの面々が簡単な打ち合わせでセッションを繰り広げるが、そのノリでこのレイブラウントリオのアルバムが誕生した。

過去にブラウンはオスカーピーターソンのトリオで、そして一方のハリスはスリーサウンズでピアノトリオでの演奏には手慣れた2人、レギュラートリオのように次々と曲をこなす。
ドラムはジョーウィリアムスのバックをしていた新人のゲーリックキングを起用したが、2人が引っ張るトリオに複雑なリズムやバックはいらない、ステディなドラムングがかえって効果的だ。
普段もう少し早いテンポで演奏されることが多いTake The A Trainをゆったりとしたテンポでスイングさせるところなどは、即席のトリオとは思えないコンビネーションだ。



ライブでのセッションも、演奏が興に乗じてくると飛び入りの参加で盛り上がる。ここでもアネスティンアンダーソンの録音にスタンバイしていたテナーのレッドホロウェイが加わる。そして、何と自分のアルバム(先日紹介したCatwalk)作りに来ていたギターのエミリーレムラーも加わって一緒に大ブローを披露している。
この曲だけはレイブラウンがヘッドアレンジで曲を提供。思いっきりアーシーな演奏に、レムラーのギターもデビュー当時のモンゴメリーライクなブルージーな演奏となる。自分のアルバムでの演奏と比較すると同じプレーヤーとは思えない。

コンコルドの常連であり重鎮のレイブラウンはこれまでトリオの時はモンティーアレキサンダーなどと組むことが多かった。今回、ハリスとは余程相性が良かったのだろう、これを機に2人のコンビのレイブラウントリオがスタートする。
ハリスにとっても、ちょっと歌伴のお手伝いという感じの参加のはずだった。だが、これがきっかけでコンコルドの看板スターに返り咲き、ジャズ界でのセカンドステージが始まった。何がきっかけで人生の大きな転機を迎えるか分からないものだ。

コンコルドのアルバムは総じて録音が良いが、このアルバムのハリスのピアノのタッチと、レイブラウンの重低音のベースが絡み合う迫力は、演奏だけでなく録音も格別だ。

1. Exactly Like You    Joe Burke / Dorothy Fields / Jimmy McHugh 5:47
2. Cry Me a River                 Arthur Hamilton 5:46
3. Teach Me Tonight            Sammy Cahn / Gene DePaul 4:51
4. Take the "A" Train                Billy Strayhor 6:20
5. Mistreated But Undefeated Blues            Ray Brown 4:16
6. That's All               Alan Brandt / Bob Haymes 5:48
7. Easy Does It         Count Basie / Sidney Keith Russell 4:03
8. Sweet Georgia Brown  Ben Bernie / Kenneth Casey / Maceo Pinkard8:45

Gene Harris (p)
Ray Brown (b)
Gerryck King (ds)
Red Holloway (ts) #5
Emily Remler (g)  #5

Produced by Carl Jefferson
Engineer : Pill Edwars
Recorded at Coast Recorders, San Francisco, August 1984
Originally released on Concord CJ-268

Soular Energy
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レギュラー活動での成果をオーナーの前でお披露目に・・・・

2017-01-07 | CONCORD
Catwalk / Emily Remler


世間では正月休みも終わり日常のペースに戻りつつあるが、どうも仕事を辞めるとなかなか日々のペースが作れない。このまま毎日が日曜日の生活を過ごすわけにはいかないなと思っていたら、昨日、高齢者の定義を75歳からに変えるというニュースが流れていた。

高齢者かどうかの自覚は個人差が大きいとは思うが、まずは健康であることが何にも増して大事な事であろう。自分はこれまで大きな病気知らず、怪我知らずで、幸い医者とはあまり付き合わずに過ごせてきた。今後は、少しは健康に留意しなければと思うのだが、それにはまずは規則正しい生活(食生活を含めて)のリズムを作ることが先決だろう。一年の計は元旦にありと言われるように、ちょうど1月は一年の節目、今月中に何とかしたいものだ。

初詣に続いて、初打ち、初ライブはとりあえずどちらも済ませたが、初打ちは散々な結果に。新年早々、間違いなく今年のワーストを記録した。この悪いイメージを払拭するためにも、仕切り直しが必要だ。

初ライブはトロンボーンの向井滋春、久々にライブを聴いた。昔はフュージョン系が多かった記憶があるが、今回はメインストリーム。同じ世代だが、プレーぶりも元気だし、チェロを弾いたりチャレンジ慾も衰えていないようだ。
奥様のボーカルありの楽しいライブであったが、この日の大収穫は初めて聴いたアルトの加納奈美。若手の女性サックスは次から次へと登場しているが、彼女の堂々としたプレーはベテラン揃いの他のメンバーに囲まれた中では貫禄さえ感じた。若手だけの演奏はなかなか聴く機会が無いが、このようにベテランの中に混じってくれると出会う機会も増える。今後が楽しみ。

さて、アルバムの方はコンコルドの続きを・・・。
今回の主役はギターのエミリーレムラー。コンコルドはギターのアルバムが多いが、ベテラン勢に混じって新人も多い。その中ではこのレムラーが一歩抜きに出た活躍を残した。

最初は、クレイトンブラザースのアルバムに参加し、すぐにハンクジョーンと初のリーダーアルバム”Firefly”を作る。モンゴメリーの影響を受けたというメインストリームのプレーを。
続いて今度はジェイムスウィリアムスのピアノをバックに若々しさを前面に出した”Take Two”

3作目”Transitions”は自分のグループ
で、コンテンポラリーなサウンドをアピール、といった感じで一作ごとに進化を感じさせるものだった。

そして、この4作目。
今度はどのように変容したかが楽しみだが、前作の録音から9カ月後。メンバーは前作と同じとなると、これまでのように大きな変化があるとは思えなかったが・・・。
彼女の活動の拠点はニューヨーク。ニューヨークではこのメンバーでレコーディングだけなく、日頃のライブ活動も続けてきたレギュラーグループになっていた。

レギュラー活動を続けると4人のコンビネーションは一段と良くなる。トランペットのJohn D'earth。決して有名ではないが、バディーリッチやサドメルといったビッグバンド育ち。ミュートプレーやモジュレーターを使用した多彩なサウンドを屈指した多彩なプレーを聴かせてくれる。
ベースのエディーゴメスはビルエバンスとの共演で鍛えられたコラボ上手。
そしてドラムのボブモーゼズも普通のドラムセット以外のパーカッションも駆使して多様なリズムを刻む。
この4人のコラボレーションが一段と進化したコンテンポラリーなグループサウンドなったということになる。
このアルバムはその成果の発表となった。

そして、この録音はこれまでのようにニューヨークではなく、4人をわざわざ西海岸に呼び寄せカールジェファーソン自ら陣頭指揮での制作となった。
とはいっても中身は、彼女自身がプロデュースした前作同様彼女に全面的に任せたので、期待の新人のオーナーの前でのお披露目の場となった。



1. Mocha Spice      Emily Remler 4:26
2. Catwalk        Emily Remler 7:19
3. Gwendolyn       Emily Remler 4:35
4. Antonio        Emily Remler 4:25
5. Pedals         Emily Remler 6:54
6. Five Years       Emily Remler 5:48
7. Mozambique      Emily Remler 7:44

Emily Remler (g)
John D'earth (tp)
Eddie Gomez (b)
Bob Moses (ds,per)

Produced By Carl Jefferson
Engineer : Phil Edwards
Recorded at Coast Recorders, San Francisco, California. August 1984
Originally released on Concord CJ-265

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワイルドなのは顔つきだけでなく・・・演奏も。

2017-01-04 | CONCORD
The Real Tania Maria : Wild

年末は忘年会の合間を縫って、ゴルフの打ち収め、ライブ通いと慌ただしく過ごした。
年明けは遠出もせず、初詣も近くの神社へ。暖かい日が続いたので初打ちには絶好の日が続いたが、一転のんびり家で過ごした寝正月であった。

こんな時こそジャズ三昧とも思ったが、正月早々大音量というのも近所迷惑で気が引ける、久々にテレビ三昧となった。テレビといっても地上波の正月番組は見るものもないので、もっぱらAXNの海外ドラマ漬けとなった。

録画で録り貯めたものもあったが、この正月は長年続いたCSIシリーズの最終をまとめてオンエアーということもあってこれ中心に。一時はニューヨーク、マイアミと展開していたCSIだが、結局本家ラスベガスだけが残り、これもシーズン15が本国でも最終となってしまった。

科学捜査という切り口が最初は斬新さのあったテーマであったが、マンネリになってしまったのだろう。科学的な操作技法も劇中では多少眉唾を感じさせる事もあったが、反対に未来を感じさせる意味では面白かった。世の中の進化は早い、実際に実用化されている捜査、鑑識手法も多いのだろう。監視カメラの画像の顔認識などは現実にも間違いなく進化している。時代を反映したとも思えた続編のCSIサイバーはAXNではこれからオンエアーされるが、アメリカではシーズン2ですでに打ち切りとのこと。CSIのドラマ作りが飽きられたのかもしれない。

さて新年最初のアルバム紹介はコンコルドレーベルの続きから。
コンコルドは、ベテラン達が最後の花を咲かせ、アンダーレイテッドなミュージシャンの紹介が多いが、新人達の発掘も積極的に行っていた。それらの新人達の中には、コンコルドでの成功を踏み台にして、更に次なるステージを目指す機会に恵まれた者もいた。

ブラジル生まれの、タニアマリアもプロミュージシャンとしての活動は地元ブラジルから始まった。そして70年代にすでにヨーロッパを中心に世界を渡り歩く活躍を行っていた。そんな彼女がインド、オーストラリアを公演中の姿を目にしたのがギターのチャーリーバード。コンコルドレーベルの創世記は、このチャーリーバードだけでなく、レイブラウンやジェイクハナといったそこに集ったベテラン達が自ら一緒に演奏すだけでなく、それぞれがA&Rマンとして新人発掘を行って、オーナーのジェファーソンに紹介するといった手作り感に満ち溢れた雰囲気があった。

タニアマリアを紹介された時期は、ジェファーソンはちょうどサブレーベルのPicanteを立ち上げたところ。タイミングがピッタリだったのか、これも協力者の一人カルジェイダーに早速プロデュースを任せ、彼女の初アルバム”Piquant”が生まれたのは’80年12月だった。

それから4年、その間ヒット作の”Come With Me”も出して一躍スターダムに上った彼女は、レコーディングだけでなくレギュラーメンバーで有名クラブでのライブ活動も続けていた。ちょうど世はフュージョン時代。ベースのジョンペナのスラップベースがグループのサウンドを今風に仕上げていた。
今回のライブの場所は、サンフランシスコのGreat American Music Hall。1907年に創立された歴史あるホールだ。カーメンマクレーのここでの有名なライブ盤があるが、このタニアマリアのステージは、最初の聴衆の拍手と歓声から彼女の熱いノリノリの演奏と熱唱を予感させる。

このアルバムのタイトルは”The Real Tania Maria : Wild”。
まさにこの演奏が彼女の普段の姿そのままだ。

ライナーノーツでも、オーナーのカールジェファーソンが彼女に贈る言葉は、会場の名前を捩った訳ではないと思うがこの3つだけだ。

A Great Lady
Great Music
A Great Performance
要は、何の説明もいらない、「素晴らしい」ということだろう。

彼女も自分と同じ世代60代後半だが、一昨年も来日してエネルギッシュなステージを楽しませてくれた。このアルバムのステージ同様まだまだ若い。

この、ライブでの演奏が一つの区切りとなったのか、彼女はコンコルドを離れる。
よりPOPSな世界にもチャレンジしたようだが、この時代のコンコルドで作り上げたスタイルが彼女の基本であり、ワンアンドオンリーの彼女のスタイルのような気がする。

1. Yatra-Ta                 Tania Maria 5:24
2. Fiz a Cama Na Varanda         Ovido Chaves 5:52
3. Vem P'ra Roda              Tania Maria 5:36
4. Come With Me       Tania Maria / Regina Werneck 5:26
5. Funky Tamborim              Tania Maria 6:16
6. Two A.M.                 Tania Maria 10:04
7. Sangria                  Tania Maria 5:10

Tania Maria (p,elp,vol)
John Pena (eb)
John Purcell (as,ss)
Dan Carillo (g)
Don Carillo (g)
Frank Colon (per)
John Pena (eb)
Walfredo Reyes (ds, timbales, timpani)

Produced by Carl Jefferson
Engineer : Phil Edwards
Recorded at The Great American Music Hall, San Francisco in September 1984
Originally released on Concord Picante CJ-264

Real Tania Maria: Wild
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

左手だけでなく、レパートリーの豊富さが・・・

2016-12-19 | CONCORD
The Key Man / Dave Mckenna

今では大メジャーレーベルになってしまったコンコルドレーベルだが、カールジェファーソンが直接プロデュースしていた時代のコンコルドレーベルは、中身もミュージシャンも彼の拘りが直接反映したストレートアヘッドな演奏が大部分であった。その中には一枚限りのアルバムとなった無名のプレーヤーもいたが、そこを定住の場所として多くの作品を残したミュージシャンも多い。

スコットハミルトンやクレイトンブラザースのように、ここでアルバムデビューをして順調にスター街道を登りつめた者もいるが、ローズマリークルーニーやメルトーメのようにすでに頂点を極めたベテランが、ここを最後の安住の地として再び花を咲かせたスターも多い。

それらのベテランの中にピアノのデイブマッケンナがいる。中間派のピアニストとして一定の評価をされてはいたが、評価を確たるものにしたのはこのコンコルドでの活躍だと思う。

ズートシムスの初期の名盤として、「Down Home」というアルバムがあるが、ここでのピアノがこのマッケンナであった。60年代の初頭というとシムスはアルコーンとの双頭コンビを組んでいた頃だが、この頃マッケンナとシムスは良く一緒にセッションをしていた仲だ。スイングスタイルのピアノに甘んじてていた訳ではなく、仲間と一緒に切磋琢磨していた。

この仲間達には、ジミーレイニー、ジムホール、ボブブルックマイヤー、そしてペッパーアダムス達がいた。この様子は、以前JAZZ Loftで紹介したこともある。ハードバップ、ファンキーの演奏が世の中を席巻していた時期だが、彼らがその頃演奏していたジャズもまた歴史の一幕であり、彼らのその後の活躍の礎となっていた。

マッケンナがコンコルドレーベルに初めて登場したのは、ジェイクハナ&カールフォンタのライブアルバムだったが、その後、スコットハミルトンを初めてとしてコンコルドレーベルの面々との次々と共演を重ね、オールスターズにも参加し、コンコルドレーベルの看板スターの一人となった。

誰とでも上手くやれる一方で、マッケンナのもう一つの側面は、ピアノソロの素晴らしさだ。ジェファーソンはそこに目を付けた。すぐにソロアルバム"Giant Steps"を作った。その後も嗜好を変えながら何枚も作られていった。このアルバムもその一環だ。

ジャズピアノにも色々スタイルがあるが、ピアニストとして個性がより色濃くでるのはソロでの演奏だ。ジャズでは主役は管楽器になりがちだが、メロディー、ハーモニー、リズムを一人で完結できるのはピアノ、ギターなどだ。メンバー紹介では、ピアノやギターはリズムセクションの一員として紹介されることが多いが、ソロになると自由自在な3要素の組み合わせ方が個性を作り上げる。
マッケンナの得意技はリズミカルな左手のベースラインで、これはなかなか余人をもって代えがたい。特にモダン以降のピアノでは。

もうひとつ加えるとすると、オリジナル曲ではなくスタンダード曲中心のレパートリーの多さだ。いわゆるジャズのスタンダードに限らず古い歌物からとドラディショナルまで幅広い。このアルバムもしかりである。子供の頃からラジオで聴いた曲をすぐに弾いていたというから、曲を覚えるのは天性のものかもしれない。ソロでクラブに出るときは、左手だけでなく、このレパートリーの広さが物を言うのだろう。まさに鍵盤を自在に操るキーマンだ。

1. Singing the Blues
2. Yours Is My Heart Alone
3, A Garden in the Rain
4. Don't Be Blue
5. Golden Earrings
6. Louisiana
7. London by Night
8. I'll Be Your Friend with Pleasure
9. We'll Meet Again
10. The Gypsy

Dave Mckenna (p)

Produced by Carl Jefferson
Engineer : Howard Johnson
Recorded at Different Fur Recording, San Francisco, August 1984


Originally released on Concord CJ-261

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルースで育ったアネスティンアンダーソンが久々にブルースづくしで・・・

2016-03-15 | CONCORD
When The Sun Goes Down / Ernestine Anderson

ベテランミュージシャンの「再生」を得意としたコンコルドは、ボーカリストの再生も手掛けた。一番の成功はローズマリークルーニーであったと思うが、このアネスティンアンダーソンもその一人だ。一度はアメリカを離れて活動をしていたアンダーソンを再びアメリカで活躍するきっかけを作ったのはレイブラウンであった。再デビューアルバムに付き合って以来、いつもアンダーソンのアルバムには一緒にプレーしてきたが、前作”Big City”ではモンティーバドウィックにベースの席を譲っていた。

アンダーソンは、子供の頃ブルース好きの両親の元で育った。何事においても幼い頃の幼児体験が大人になって役立つと言われているが、彼女のブルースフィーリングは生まれ育った環境によるものかもしれない。といっても、彼女の場合はオールラウンドシンガー。ブルースだけでなく、スタンダードからポップスまで何でもこなす。ブルースは彼女の幅広いレパートリーの一部であった。彼女のブルースをタップリ聴きたいと思うファンも多かったのだろう。

そんなファンの気持ちを察知したのか、ジェファーソンが彼女のブルースアルバムを企画した。オーナーの片腕であり、アンダーソンの後見人ともいえるレイブラウンは早速段取りを始めた。コテコテのブルースだけでなく、ブルース風の曲、そして古い曲だけでなくザヴィヌルのマーシーマーシーマーシーまでを選んだ。
ブルースに拘るとなるとバックのメンバーも大事だ。ピアノにはジーンハリスを起用した。アンダーソンとは昔、ライブで一緒にステージを共にしたこともあった。そして、テナーにはレッドホロウェイ。コンコルド初登場だがブルースナンバーの歌伴には良い人選だと思う。ドラムには若手だが、ジョーウィリアムスのバックも務めたゲーリックキング。今回はベースも自ら務め、全体のアレンジもレイブラウンが担当した。

お膳立てはすべて揃って、お馴染みの”Goin’ To Chicago Blues”からスタートする。そして最後のマーシーマーシーまで一貫してブルースフィーリングで歌い通す。ブルースに拘ったアルバムにしようというレイブラウンの思惑通りの出来に仕上がったのではないだろうか。ジャズ歌手であればブルースの一曲や2曲はアルバムやステージのプログラムに入れるのは当たり前だが、全曲ブルースに拘るというのもたまにはいいものだ。



コンコルドでは7枚目になるが、その後もコンコルドでのアルバムは続く。その後は?と思ってディスコグラフィーを見ると、2011年まではアルバムを出している。まだ健在のようなので。前回紹介したリーショーのように米寿になってもまだどこかで歌い続けているかもしれない。

このセッションがきっかけになったのか、ジーンハリス、レッドホロウェイも2人もコンコルドに登場する。

1. Goin' to Chicago Blues            Count Basie / Jimmy Rushing 4:48
2. Someone Else Is Steppin' In                Denise LaSalle 4:45
3. In the Evening (When the Sun Goes Down)            Leroy Carr 7:20
4. I Love Being Here with You           Peggy Lee / Bill Schluger 4:59
5. Down Home Blues                      George Jackson 6:04
6. I'm Just a Lucky So and So          Mack David / Duke Ellington 6:21
7. Alone on My Own                      Tony Webster  3:18
8. Mercy, Mercy, Mercy Johnny "Guitar" Watson / Larry Williams / Joe Zawinul  4:57

Ernestine Anderson (vol)
Red Holloway (ts)
Gene Harris (p)
Ray Brown (b)
Gerryck King (ds)

Produced by Carl Jefferson
Recorded at Coast Recorders, San Francisco, California. August 1984
Originally released on Concord CJ-263

When the Sun Goes Down
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔の悪友に合うと、「久しぶりに一緒に遊ばないか?」とよく言うが・・・ 

2016-03-04 | CONCORD
Hanging Out / Joe Newman & Joe Wilder

カウントベイシーオーケストラのトランペットセクションは代々強力メンバーであった。中でも50年代後半の全盛期のアトミックベイシーバンドには、後に自らビッグバンドを編成したサドジョーンズを筆頭に、スヌーキーヤング、ジョーニューマンなどの実力者が並ぶ。

彼らはその後スタジオワークやテレビの仕事が多くなり、参加したアルバムは数多くある。クインシージョーンズを始めとして、ドックセベリンセンなど有名ビッグバンドにもキープレーヤーとして参加しているが、サドジョーンズ以外は自らがリーダーとなってアルバムを作る機会はほとんどなかった。

コンコルドレーベルはそんな彼らにもリーダーアルバムの機会を与えた。
スヌーキーヤングの”Horn of Plenty”は、彼の唯一のリーダーアルバムといってもいい。そして、ジョーニューマンのアルバムがコンコルドで作られたのは、それから5年後の1984年になってからだ。

そのアルバムが企画された時、同じような境遇のもう一人にプレーヤーに声を掛けた。同様にスタジオワークの常連で、ニューマンともよく顔を合わせていたジョーワイルダーだった。ワイルダーも若い頃のアルバムがSavoyにはあったが、その後はスタジオワークが中心でそのソロプレーがファンの耳に届くことは少なかった。

ビッグバンドではリードセクションのメンバーは色々な楽器を持ち替える。それゆえビッグバンドで活躍するミュージシャンはマルチリードプレーヤーが多い。一方のホーンセクションはというと、トランペットセクションはフリューゲルホーンには良く持ち替えるが、基本的に持ち替えはない。

ではホーンセクションにとって彩を加える技となるとミュートプレーになる。ミュートと言っても色々な種類があって、アレンジャーは曲によって使い分けている。昨日は久々に、ニューハードのライブを聴きに行ったが、エリントンの名曲ムーチでは、アレンジもソロもミュートプレーの品評会のようであった。ビッグバンドならではの遊び心もある演奏だった。
しかし、そのミュートプレーがコンボの演奏で存分に披露される機会は意外に少ないものだ。

前置きが長くなったが、このアルバムでは2人のトランペットの技の競い合い、それもミュートプレーがタップリ楽しめる。トランペット2人のコンビというと、古くはルイアームストロングとキングオリバーに遡る。ついついトランペット2人というとハイノートのバトルを想像してしまうが、2人の演奏はディキシースタイルということもあり2つの楽器のコラボの妙だ。このアルバムでも2人の絡みが素晴らしい。

この2人のプレーの素晴らしさを引き出すために2人のアレンジャーが協力している。
フランクフォスター、フランクウェスの2人。ベイシーオーケストラで長年同じ釜の飯を食った旧友だ。今回の主役はあくまでもトランペット。2人はプレーをせずにアレンジに徹しているが、ウェスの方はバラード曲を、フォスターの方がアップテンポの曲と役割分担も明確にしている。リパブリック賛歌のようなお馴染みの曲を実に絶妙に料理し、オリジナルもまさにこの場に相応しいという曲を提供している。

そして、2人の引き立て役となるバックはピアノがハンクジョーンズ。この頃ハンクジョーンズは自らのトリオを中心にライブ、レコーディング活動中心に完全復帰していた。ここでは昔のスタジオ時代の仲間のリーダーアルバムに脇役として駆けつけ、バックに廻っても味のあるプレーを聴かせてくれる。そして、ベースのルーファスリードとマーヴィンスミスは当時売り出し中の中堅、単なる同窓会とは趣が違うが、ベイシーでの基本がベースにはあるのは間違いない。

メンバー選定、演奏、選曲、アレンジがすべてバランスよく組み合わされ、スイングし、リリカルで、メロディアスな主役の2人の技の素晴らしさとプレーの良さが十分に引き出されている。それらが一枚に収められたアルバムというのも、そうそうお目に掛かれない。プロデューサーのBennett Rubinはコンコルド初登場だが、その後もフランクフォスターやジーンハリスのアルバムを何枚か手掛ける。ジェファーソンの意を汲んでベテランの復活を手掛けるが、単なる懐メロにしなかったところが良かった点だろう。

タイトルの”hanging out”。そもそも意味はジャケット写真のように身を乗り出すということだが、慣用的には「遊ぶ」という意味で良く使われる。まさに仲間内で、「久しぶりに一緒に遊ばないか?」といったノリで作られたアルバムだと思う。目立たないアルバムだが、お気に入りの愛聴盤の一枚だ。

ベイシー時代のお馴染みの曲も、





1. The Midgets                    Joe Newman 4:49
2. Here's That Rainy Day    Johnny Burke / James Van Heusen 4:01
3. Duet                       Neal Hefti 4:12
4. Battle Hymn of the Republic           Traditional 6:08
5. Secret Love        Sammy Fain / Paul Francis Webster 5:09
6. You've Changed           Bill Carey / Carl Fischer 5:37
7, 'Lypso Mania                  Frank Foster 4:39
8. He Was Too Good to M      Lorenz Hart / Richard Rodgers 4:05

Joe Newman (tp)
Joe Wilder (tp,flh)
Hank Jones (p)
Rufus Reid (b)
Marvin "Smitty" Smith (ds)

Arranged by Frank Foster & Frank Wess
Produced by Bennett Rubin
Recording Engineer : Malcom Addey
Recorded at JAC Studios, New York City, May 1984

Concord CJ-262


Hangin' Out
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニューポートのジョージウェインとコンコルドのカールジェファーソンが握手をした日・・・

2016-02-20 | CONCORD
The Newport Jazz Festival All-Stars

ジョージウェインと言えば、伝統あるニューポートジャズフェスティバルを立ち上げたプロデューサーとして有名だ。一時は世界各地で年間40のジャズフェスティバルを手掛け、延べその回数は700回を超えるという。

ウェインは元々ミュージシャンで、ピアノも弾けば歌も歌う。ちょうどこのアルバムにウェインのバイオグラフィーが書かれているので紹介しておこう。
1925年生まれというので今年で90歳になる。音楽に興味を持つには子供の頃に周りにその環境が無いと難しいとよく言われるが、このウェインも例外ではなく、1936年11歳の頃は長兄が買ってくるルイアームストロングやベニーグッドマンのレコードを聴いてジャズに興味を持ったという。
更に遡れば、5歳の頃は汽車に乗った時、当時のヒット曲My Time in Your Timeを歌ってポーターからご褒美のビスケットを貰ったという逸話も母親が語っている。その内、当時のヒット曲、今ではスタンダード曲になっている曲は何でも歌えるようになっていた。

15歳の時、ディキシースタイルのピアノで、ボストンの街のバーで一晩2ドルの小遣い稼ぎを始め、ボストン大学の医学部に通っている間に腕を上げて、卒業する時には週に90ドル稼げるようになっていた。在学中に、すでにこのアルバムのオールスターズの原型ともいえるバンドをルビーブラフと一緒に編成していたが、1950年卒業と同時に医者になることを止めて、ジャズの道に進むことを決意する。

ボストンでプロ活動を始めて、クラブ出演を本格化するが、すぐに自分のクラブStoryvilleを作って、エリントンやアームストロングといった有名ミュージシャンを招くようになる。さらに同名のレーベルも立ち上げる。短期間でここまでたどり着くのは、音楽的な才能よりもやはりビジネスセンスに長けていたのだろう。

以前このブログで、ウェインがニューポートのフェスティバルを手掛け始めた1955年に録音されたWein, Women & Songというアルバムを紹介したこともある。ちょうどプロ活動を始めて5年目のアルバムだ。
その後本業はプロデューサー業へと移っていったが、ミュージシャンとしての活動は止めることなく今でも続けている。ニューポートジャズフェスティバルでも自分が参加するオールスターズを編成し舞台に登場していた。64年のステージはアルバムで残っているがディキシースイング系のミュージシャンの大同窓会も企画し、これに参加している。しかし、そのオールスターズもフェスティバルの開催場所が1972年にニューヨークに変ると解散の運命にあった。ちょうどジャズ界も変革の時代、時代もスイングジャズは本流から外れていった時であった。

1981年に再び、開催場所が誕生の地ロードアイランドに戻ると、このNewport Jazz Festival All Starsの復活を望む声がファンの間でも大きくなった。ウェインもメンバー集めを始めたが、昔のメンバー達はすでに他界していたり引退していたり。
ウェインはこのバンドの演奏スタイルに拘っていた。けっして出演者の中からオールスターを選抜するという訳ではなかった。自分がジャズを始めた時1940年代のスタイル、いわゆるディキシーからスイング、そしてモダンスイングまでのビバップ前のスタイルだ。徹底的に4ビートに拘り、演奏する曲も昔のスタンダードのみ、さらにレギュラー活動でもこのスタイルで演奏していないと駄目という徹底ぶりだった。
世はフュージョンの全盛期、メインストリームが復活してきたとはいえ、この条件に適うメンバーはけっして多くは無い。ニューポートの檜舞台に相応しいメンバーとなるとさらに限られる。そこで、白羽の矢がたったのはコンコルドレーベル所属のメンバー。ベテラン勢もいたが、若手代表でスコットハミルトンとウォーレンバッシェの2人がニューポートオールスターズに加わった。2人はコンコルドオールスターズの中核だったが、オーナーのカールジェファーソンも快諾したようだ。

他のメンバーは、エリントンオーケストラ出身のノーリスターネイ。ベースのスラムスチュアートはこのオールスターズが設立された時からの長老。ドラムのオリバージャクソンを加え、世代的には3世代混在のオールスターズとなった。
そして、このオールスターズは、ニューポートの本番の舞台だけでなく、各地のコンサートにも出演することになる。ウェインが力を入れていたのは国内では大学でのコンサート。いつものジャズフェスティバルのようなお祭りのステージとは違って自分の好きなジャズを若者に披露できるステージにしたかったのだろう。このアルバムもアリゾナ州立大学の講堂でのライブだ。ウェインのMCを含めて当日のステージの模様が2枚組のアルバムでたっぷりと収められている。

この手のオールスターズだと、顔見世のジャムセッションと各メンバーのソロをショーケスにして一回りし、最後は大ブロー大会で終わるのが常だがこれは少し勝手が違う。
プログラムはスタンダード曲が並ぶが、いわゆる歌物だけでなく、エリントンやベイシーなどの伝統あるバンドのジャズスタンダードも。どの曲もアレンジされているが別に凝ったアレンジやアンサンブルを聴かせるわけでもなく、かえってオリジナルの良さを残している。
ソロもボディーアンドソウルでスコットハミルトンをフィーチャーしているが、コールマンホーキンスを意識してハミルトンも好演している。バシェのホワッツニューも秀逸だ。モダンジャズのトランペットとは一味違うバラードプレーを聴かせてくれる。メンバー達も、単にスタンダードを演奏しているというのではなく、節回し一つにしてもいつも以上に古いスタイルに忠実にといった雰囲気だ。コンコルドのコンセプトとも相性がいい。

ウェインのオリジナルが一曲あるが、これはこのアリゾナ州立大学の創立100周年記念でプレゼントした曲。流石、名プロデューサーはプログラム構成にも細かい配慮がされている。いつもはスポンサーを意識してか、商売優先のプログラムを組んでいる感じがするウェインも、このオールスターズだけは自分の好みを通しているようだ。
この復活したニューポートオールスターズを聴くと、最初はジョージウェインのプレーヤーとしての道楽として編成されたバンドかとも思っていたが、伝統あるスイングの真髄を今のジャズファンにも聴かせたいという想いが感じられる。

このオールスターズの活動はその後も続いているが、コンコルドからもアルバムが何枚か出ている。ジョージウェインとカールジェファーソンのスイングするジャズを残したいという想いが通じたアルバムだ。ここではウェインはプレーヤーに徹して、アルバムのプロデュースはジェファーソンとなっているが、ライブでもあり2人の共作ということになるのは間違いない。

1. Exactly Like You          Joe Burke / Dorothy Fields / Jimmy McHugh 8:45
2. I Didn't Know About You             Duke Ellington / Bob Russell 6:11
3. Nobody Knows You When You're Down and Out       James Cox / Jimmie Cox 4:43
4. Rosetta                       Earl Hines / Henri Woode 4:32
5. The Jeep Is Jumpin'     Duke Ellington / Johnny Hodges / Billy Strayhorn 7:59
6. The Mooche                   Duke Ellington / Irving Mills 6:39
7. Body and Soul            F. Eyton / J. Green / E. Heyman / R. Sour 5:31
8. The Man I Love                 George Gershwin / Ira Gershwin 4:42
9. What's New?                    Johnny Burke / Bob Haggart 5:29
10. Struttin' With Some Barbecue             Lil Hardin / Don Raye 3:57
11. Moten Swing                   Bennie Moten / Buster Moten 9:04

George Wein (p)
Scott Hamilton (ts)
Warren Vache (cor)
Norrris Turney (as.cl)
Slam Stewart (b)
Oliver Jackson (ds)
Produced by Carl Jefferson
Engineer : Phil Edward
Recorded live at Gammage Center, Arizona State University, Tempe. Arizona, April 1984
Originally released on Concord CJ-260
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長年連れ添った妻に、初めてプレゼントした曲は・・・・・

2016-02-14 | CONCORD
For Iola / The Dave Brubeck Quartet

先週行ったライブはベイシーサウンドオーケストラと小幡光邦率いる923Bigbandとビッグバンドが続いた。923ビッグバンドは毎月定期的にライブを行っているので、ついついいつでも行けると思ってしまう訳ではないのだが。この所なかなか予定が合わず久々のライブであった。

今回はレギュラーメンバーであるリードトランペット鈴木正則還暦記念ライブという触れ込みであった。このバンドのメンバーでは少し前に近藤淳が還暦を迎えていたが、鈴木氏も還暦とは思わなかった。皆さん見た目は若々しいが、それなりに歳をとられているようだ。
ということで今回は主役の鈴木氏をフィーチャーした曲も多かったが、今回の目玉はミンガス特集。佐藤春樹のアレンジで4曲をメドレー風にやったが、どれも迫力満点、聴き応えがあった。この923ビッグバンドはいつものお馴染みの曲に加え、嗜好を凝らした新曲、新アレンジも適宜加わり毎回楽しめるライブだ。

このバンドの特徴はベースがエレキベースであること。リーダー小幡も指揮やトランペットだけでなく、適宜ギターに持ち替えソロやバックで参加するので演奏スタイルにも幅ができる。エレキベースだからといって別にフュージョン系や8ビートが多い訳ではないが、それはそれで拘りがあっていいものだ。昔は、4ビートでエレキベースを使った演奏は何か抵抗があったが、最近では抵抗感なくそれなりに楽しめる。今回のベースは中村健吾。彼のエレキベースを聴くのも初めてだったし、ピアノの松本茜のビッグバンドでのプレーというのも珍しかった。毎回、色々楽しめる923ビッグバンドだ。

さて、4ビートでもエレキベースというと、デイブブルーベックの晩年のカルテットのメンバー、息子のクリスブルーベックもエレキベース派だ。彼の場合はロックバンドでも演奏していたというので、エレキが本職なのかもしれない。ベーストロンバーンも吹くので時にはトロンボーンソロも披露するがどちらが本職か分からないが。

デイブブルーベックがコンコルドに移籍したのが1979年、その年のコンコルドジャズフェスティバルでのライブBack Homeがコンコルドデビューであったブルーベックには珍しくスタンダード曲ばかりを演奏したアルバムPaper Moonをスタジオ録音したが、その後はライブアルバムが続きスタジオ録音は無い。もっともブルーベックにとって、コンコルドジャズフェスティバルが開催されるコンコルドは生まれ故郷。ここでの演奏が本当のホームグラウンドでの演奏なのかもしれない。

1984年夏のコンコルドジャズフェスティバルにもカルテットで参加した。大きなジャズフェスティバルとなると、普通はそのグループの有名曲を披露するのが通り相場だが、この時は新しい曲を含めて自分のオリジナル曲が中心だった。82年にこのブルーベックのカルテットはオーレックスジャズフェスティバルで来日したが、その時も演奏されたベイシーライクな曲Big Bad Basieもここでは演奏されているが、この日のステージの目玉はアルバムのタイトルにもなっている、42年連れ添ったブルーベックの妻Iolaに捧げたFor Iola。妻に捧げた曲というのは誰でも一曲は作りそうだが、作曲を得意とするブルーベックも、妻への曲はこれが初めてだったようだ。

エコーを聴かせた処理をした幻想的なクラリネットで始まる曲だが、テンポを速めてIolaに対する想いを込めたピアノのプレーに続く。妻より先に、前のアルバムConcord On A Summer Nightでは初孫に捧げるBenjaminを作っていただけに、これでやっと妻に対する義理も果たした形となったが、ブルーベックは、この曲だけでなく、このアルバムにも収められているすべての曲に自分のこれまでの音楽人生のすべてを込めて妻に贈ることができたと言っている。それを聞いて聴くと、いつものブロックコードを多用したブルーベックスタイルのピアノの集大成のような気がする。

1. Polly          Dave Brubeck 7:46
2. I Hear A Rhapsody    Jack Baker 6:12
3. Thank You        Dave Brubeck 4:20
4. Big Bad Basie      Dave Brubeck 5:33
5. For Iola         Dave Brubeck 7:13
6. Summer Song      Dave Brubeck 5:00
7. Pange Lingua March   Dave Brubeck 8:56

Dave Brubeck (p)
Chris Brubeck (eb,btb)
Bill Smith (cl)
Randy Jones (ds)

Produced by Russell Gloyd
Recording Engineer : Phil Edwards
Recorded live at Concord Jazz Festival, Concord, California, August 1984
Originally released on Concord CJ-259


For Iola
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方の伝統芸能も時が経つと伝承者も減ってくるが、カンサスシティージャズは・・・

2016-01-13 | CONCORD
Sweet Baby Blues / Jeannie Cheatham with Jimmy Cheatham

ジャズの歴史を辿るとニューオリンズが発祥の地、ミシシッピー河を遡り、シカゴを経てニューヨークへというのが基本的なストーリーだ。一方で、カウントベイシーはカンサスシティーでバンドを立上げ全国区へ、そして、あのチャーリーパーカーもカンサスシティーに生まれて育って全国区へ。ベイシーが生んだスイングスタイルも、パーカーが生んだビバップも、どちらも元を辿ればカンサスシティーとなる。

ミシシッピー川を少し外れたカンサスシティーで何故このようにジャズが発展したかといえば、あの禁酒法が施行されていた時、このカンサスシティーだけは飲酒が許されていたからという。酒がある所には女性と音楽が付き物、歓楽街も栄えたという。これがジャズの発展に寄与したということになる。
となると当時(1920年〜1933年の13年間)そこで流行っていたジャズがカンサスシティージャズの源流になる。ベイシースタイルはその一つであるが、他にもあるはずだが・・。

カリフォルニア州の一番の都市というと言わずと知れたロスアンジェルス。第2というと知名度としてはサンフランシスコだが、実はサンディエゴの方が倍近くの人口を抱える大都市だ。ここにも地元で活躍するジャズミュージシャンはいる。ただし、ロスに近いということもあり本当にローカルなミュージシャン達だ。

その中のジミー・チータム&ジニー・チータムのおしどりコンビがいた。旦那のジミーはベーストロンボーンを吹き、一時はニューヨークでオーネットコールマンからライオネルハンプトンと一緒にプレーし、チコハミルトングループの音楽監督を務めたという。一プレーヤーというより、アレンジもこなし、教育にも熱心な理論家であった。

一方の、ジニーはピアノを弾き、ジミーラッシング、ジミーウィザーザースプーン、ダイナワシントンなど多くのブルース歌手の伴奏を長年務めた。2人は1978年にサンディエゴに移り住んだ。そこでの日々の活動の中心はカリフォルニア大学サンディエゴ校で教鞭を執ることであったが、地元のミュージシャンとのセッションを欠かした訳ではなかった。2人のスタイルは古き良き時代のカンサスシティージャズ&ブルースに拘ったバンドであった。彼女のボーカルにホーンを加え、ブルージーによくスイングするサウンドは他にあるようでなかなか聴けないものであった。

これを聴いて、早速レコーディングの段取りをしたのはコンコルドレーベルのカールジェファーソン。現場の仕切りはプロデューサーの新人クリスロングを起用した。彼のデビューアルバムでもあった。
レコーディングには、普段一緒にプレーしている地元のミュージシャンにロスから応援部隊も駆け付けた。トランペットの重鎮スヌーキーヤングに、これもベースのベテランレッドカレンダー、そしてブルースプレーが得意なカーティスピーグラーの3人であった。地元のメンバーの中には、クラリネットのジミーヌーンの息子もいて父親譲りのプレーを聴かせてくれる。この複数のホーンのアンサンブルとソロが売りのバンドだ。

曲はすべてブルース。泥臭いアーシーなブルースでもなく、R&Bのようにロックの影響を受けたブルースでもない、ギターがいないのも新鮮な響きでジャズの本流といったブルースプレーが続く。昔は伴奏役であったジニーのボーカルも大々的にフィーチャーされている。

彼等にとってはこのアルバムが初アルバムとなるが、2人はこれを機にSweet Baby Blues Bandを結成した。この後もコンコルドからは何枚もアルバムを出す人気グループとなった。1984年というとフュージョン全盛期だが、こんなスタイルを求めるファンも多くいたことになる。





1. Brand New Blues Blues         Jeannie & Jimmy Cheatham 4:57
2. Roll 'Em Pete             Pete Johnson / Big Joe Turner 3:21
3. Sweet Baby Blues            Jeannie & Jimmy Cheatham 4:13
4. I Got a Mind to Ramble       Jimmy Cheatham / Alberta Hunter 7:10
5. Ain't Nobody's Business If I Do      Porter Grainger / Everett Robbins 6:05
6. Muddy Water Blues        Jimmy Cheatham / Jelly Roll Morton 3:51
7. Cherry Red                     Pete Johnson 4:38
8. Meet Me With Your Black Drawers On  Jeannie Cheatham / Jimmy Cheatham 7:28

Jeannie Cheatham (p.vol)
Jimmy Cheatham (btb)
Snooky Young (tp)
Charles McPherson (as)
Jimmie Noone (cl,ss)
Curtis Peagler (as,ts)
Red Callender (b.tuba)
John Harris (ds)


Produced by Chris Long
Allen Sides : Engineer
Recorded at Ocean Way Recording, Hollywood, California, September 1984
Originally released on Concord CJ-258

Sweet Baby Blues
クリエーター情報なし
Concord Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする