Groove Blues / Gene Ammons and his All stars
ペッパーアダムスのプレーヤーとしての生涯を語るときに、デビューから1958年初までがひとつの区切りになっている。
デトロイトからニューヨークへ出てアパートを借りたのが1956年の1月。ニューヨークに住み始めてすぐその年の5月にはオスカー・ぺティフォードの推薦もありスタンケントンオーケストラに入団。いきなり全国ツアーに出る。11月に西海岸でバンドがオフになると、バンドメンバーのメルルイス達と一緒にロスへ。
そこで一年間の武者修行が始まる。生まれはデトロイト、育ったのはニューヨークだったので、西海岸は初めての長期滞在だった。ウェストコーストの名だたるプレーヤーとはこの時共演した。Gigだけでなく多くの録音セッションにも参加し、色々なプレーヤーのアルバムにサイドメントして数多く参加した。
その活動が認められてか1957年7月、モードレーベルの誕生の時には若手のホープの一人としてリーダーアルバムを制作。これが初のリーダーアルバムとなった。
その後メイナードファーガソンのバンドにも加わったが、1957年の秋には再びニューヨークに戻る。ロスへの滞在は最初から一年と決めての西海岸での活動だった。
ニューヨークに戻ると、毎日のように行われていたプレスティッジやサボイのセッションに参加。その中でもリーダーアルバムを作って一躍一流プレーヤーの仲間入りを果たす。
1958年を迎え、年明け早々このアモンズのセッションに参加した。
そして、このアルバムが1stステージ最後の区切りとなるアルバムになる。
アダムス27歳の時の年明けだ。次のステージはドナルド・バードとのコンビがスタートする。
この年は、ペッパーアダムスだけでなくジャズ界全体にとってもハードバップが花開き終焉に向かう節目の年だ。改めて時代背景を見直して頭の中を整理してみた。特に自分がその時代を生きていると思い出すのも早い。
1958年は昭和33年。自分は小学校3年生で正月を迎えた。
自分に置き換えるとイメージが沸く。東京タワーができたのがこの年だ。家に初めてテレビがお目見えした。黒電話もほぼ同じ時期だった。その時の電話番号はまだ覚えている。それまではラジオで赤胴鈴之助を聴いていたが、テレビが家に来ると月光仮面にローンレンジャー、金曜日の8時のプロレスとディズニーはすぐに毎日の生活の中に取り込まれた。
テレビが生活のリズムを作り始めた年だ。
その時、自分は目黒の都立大学に住んでいた。東横線はまだ高架ではなく地上を走っていた。古い駅舎で、手動の切符の販売機があった。まだ硬い紙の切符の時代だ。電車の色も黄色と紺のツートンカラー。緑になる前だ。渋谷に行けばデパートは東横。都電やトロリーバスもあった。東京周辺でも蒸気機関車が見れた時代、その頃の風景が走馬灯のように頭をよぎる。
しばらく前に「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画がヒットした。内容はともかく、この時代を生きた人間にとっては昔を懐かしみ、その時代を思い返すには格好の素材であった。その中に、東京タワーの建設風景が出てくるシーンがあった。全く同じ年である。
まさに日本の戦後の高度成長による進化を肌で実感できる時代だった。確かにこの年は岩戸景気に沸いていた年。東京タワーだけでなく、関門トンネルも開通したし、一万円札も登場。皇太子も婚約したし、明日に向かって明るい話題が多かった。
長嶋がデビューして新人賞もとったしウェスタンカーニバルも始まり、スポーツや芸能・音楽の世界もブレークした年だ。
阿蘇山や浅間山も噴火したので、今思えば本当の天変地異が起こったのかもしれない。
一方で、売春防止法が施行され赤線が無くなった年。社会全体がそれまでの枠組みから大きく変わった年かもしれない。
アメリカでは人気の出掛かったプレスリーが兵役に入ったのがこの年。60年代のブレークへ向けてなりを潜めた時だ。ジャズはまさにハードバップが最後の華を開かせた時、モードジャズの誕生までもうすぐの時だった。
このアルバムは、先に紹介した"The Big Sound"と同じセッションの残り曲を集めたアルバム。アダムスのプレー、リーダーのアモンズのプレーよりも、コルトレーンのアルトのプレーで有名なアルバムだが、この時代をあらわすスタジオジャムセッションの一枚。
他にも色々なセッションが毎日のように収録されていた時代。それぞれ印象に残る特徴を探すのは大変だが、アダムスにとっては後に自分を振り返った時、区切りとなる忘れられないセッションだったかもしれない。
1. Ammon Joy Mal Waldron 13:19
2. Groove Blues Mal Waldron 9:35
3. Jug Handle Mal Waldron 10:11
4. It Might as Well Be Spring Oscar Hammerstein II / Richard Rodgers 11:32
Gene Ammons (ts)
Jerome Richardson (fl)
John Coltrane (as)
Paul Quinichette (ts)
Pepper Adams (bs)
Mal Waldron (p)
Gerge Joyner (b)
Arthur Taylor (ds)
Supervision by Bob Weinstock
Recording engineer : Rudy Van Gelder
Recorded at Rudy Van Gelder Studio in Hackensack, NJ
on January 3,1958
ペッパーアダムスのプレーヤーとしての生涯を語るときに、デビューから1958年初までがひとつの区切りになっている。
デトロイトからニューヨークへ出てアパートを借りたのが1956年の1月。ニューヨークに住み始めてすぐその年の5月にはオスカー・ぺティフォードの推薦もありスタンケントンオーケストラに入団。いきなり全国ツアーに出る。11月に西海岸でバンドがオフになると、バンドメンバーのメルルイス達と一緒にロスへ。
そこで一年間の武者修行が始まる。生まれはデトロイト、育ったのはニューヨークだったので、西海岸は初めての長期滞在だった。ウェストコーストの名だたるプレーヤーとはこの時共演した。Gigだけでなく多くの録音セッションにも参加し、色々なプレーヤーのアルバムにサイドメントして数多く参加した。
その活動が認められてか1957年7月、モードレーベルの誕生の時には若手のホープの一人としてリーダーアルバムを制作。これが初のリーダーアルバムとなった。
その後メイナードファーガソンのバンドにも加わったが、1957年の秋には再びニューヨークに戻る。ロスへの滞在は最初から一年と決めての西海岸での活動だった。
ニューヨークに戻ると、毎日のように行われていたプレスティッジやサボイのセッションに参加。その中でもリーダーアルバムを作って一躍一流プレーヤーの仲間入りを果たす。
1958年を迎え、年明け早々このアモンズのセッションに参加した。
そして、このアルバムが1stステージ最後の区切りとなるアルバムになる。
アダムス27歳の時の年明けだ。次のステージはドナルド・バードとのコンビがスタートする。
この年は、ペッパーアダムスだけでなくジャズ界全体にとってもハードバップが花開き終焉に向かう節目の年だ。改めて時代背景を見直して頭の中を整理してみた。特に自分がその時代を生きていると思い出すのも早い。
1958年は昭和33年。自分は小学校3年生で正月を迎えた。
自分に置き換えるとイメージが沸く。東京タワーができたのがこの年だ。家に初めてテレビがお目見えした。黒電話もほぼ同じ時期だった。その時の電話番号はまだ覚えている。それまではラジオで赤胴鈴之助を聴いていたが、テレビが家に来ると月光仮面にローンレンジャー、金曜日の8時のプロレスとディズニーはすぐに毎日の生活の中に取り込まれた。
テレビが生活のリズムを作り始めた年だ。
その時、自分は目黒の都立大学に住んでいた。東横線はまだ高架ではなく地上を走っていた。古い駅舎で、手動の切符の販売機があった。まだ硬い紙の切符の時代だ。電車の色も黄色と紺のツートンカラー。緑になる前だ。渋谷に行けばデパートは東横。都電やトロリーバスもあった。東京周辺でも蒸気機関車が見れた時代、その頃の風景が走馬灯のように頭をよぎる。
しばらく前に「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画がヒットした。内容はともかく、この時代を生きた人間にとっては昔を懐かしみ、その時代を思い返すには格好の素材であった。その中に、東京タワーの建設風景が出てくるシーンがあった。全く同じ年である。
まさに日本の戦後の高度成長による進化を肌で実感できる時代だった。確かにこの年は岩戸景気に沸いていた年。東京タワーだけでなく、関門トンネルも開通したし、一万円札も登場。皇太子も婚約したし、明日に向かって明るい話題が多かった。
長嶋がデビューして新人賞もとったしウェスタンカーニバルも始まり、スポーツや芸能・音楽の世界もブレークした年だ。
阿蘇山や浅間山も噴火したので、今思えば本当の天変地異が起こったのかもしれない。
一方で、売春防止法が施行され赤線が無くなった年。社会全体がそれまでの枠組みから大きく変わった年かもしれない。
アメリカでは人気の出掛かったプレスリーが兵役に入ったのがこの年。60年代のブレークへ向けてなりを潜めた時だ。ジャズはまさにハードバップが最後の華を開かせた時、モードジャズの誕生までもうすぐの時だった。
このアルバムは、先に紹介した"The Big Sound"と同じセッションの残り曲を集めたアルバム。アダムスのプレー、リーダーのアモンズのプレーよりも、コルトレーンのアルトのプレーで有名なアルバムだが、この時代をあらわすスタジオジャムセッションの一枚。
他にも色々なセッションが毎日のように収録されていた時代。それぞれ印象に残る特徴を探すのは大変だが、アダムスにとっては後に自分を振り返った時、区切りとなる忘れられないセッションだったかもしれない。
1. Ammon Joy Mal Waldron 13:19
2. Groove Blues Mal Waldron 9:35
3. Jug Handle Mal Waldron 10:11
4. It Might as Well Be Spring Oscar Hammerstein II / Richard Rodgers 11:32
Gene Ammons (ts)
Jerome Richardson (fl)
John Coltrane (as)
Paul Quinichette (ts)
Pepper Adams (bs)
Mal Waldron (p)
Gerge Joyner (b)
Arthur Taylor (ds)
Supervision by Bob Weinstock
Recording engineer : Rudy Van Gelder
Recorded at Rudy Van Gelder Studio in Hackensack, NJ
on January 3,1958
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