yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

不破関再訪-1 鈴鹿関と不破関に共通点を見出すの条

2009-11-10 12:56:01 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 11月2日、不破関に行ってきた。私自身はもう何回目か覚えていない。しかし、今回は大きな成果が得られた。



 資料館はあいにく月曜日なので休館であったが、いつもの通りここに車を置いて見学をスタートした。



 今回の目的はこれまでの推定城壁内とは異なり、城壁の外、特に西側が注目点であった。

 そもそもの目的は、科研費で共同研究をしている大垣の情報科学芸術大学院大学の関口先生と、本年度の研究成果をすりあわせることにあった。もう一つの目的が学生の卒論指導であった。その卒論指導の中での探査で希望通り成果を得ることができたのである。

 一人の学生の卒論は、鈴鹿関を中心とした古代関・城柵の機能をGISを用いた3D復元によって分析してみようというものである。もう一人は、古代駅に付与された機能を、やはりGISを用いて立体的に景観復元し、その多機能性に迫るというものである。もちろんまだまだ不十分な点ばかりが目立つ「研究状況」ではあるが、それなりに面白い成果も出つつあり、今少しの頑張りが求められているところである。

 

 目指すはこの向こうに見える丘!!杉林が平らなところである。

 実は科研費での研究テーマの一つにも、「GISを用いた三関の比較研究」があり、既に鈴鹿関の3D化をほぼ完成させ、不破関の復元へと進みつつあった。そこで、先生とその方法論についていろいろお話しをする内に、
「ならば不破関に行って確認してみよう!」と言うことになったのである。


 これまではこの藤戸川で探訪は終わっていた。しかし、今回は・・・。

 食事をした後現地へ出かけた。学生は初めての不破関らしいのだが、特に感動する風もない。仮想現実にはまっている今時の学生にとっては現場などは大して感動を与えないのだろうかと、とても不思議に思った。

 ところで何故不破関へ?

 実は最近、鈴鹿関を分析する内にある発想に行き着いたのである。
 その確認のために一度現地に行ってみたかったのである。大正解だった。



 藤戸川を越えると再び道は向こうに見える丘に向かってだらだらと登っていく。

 実は、鈴鹿関の発掘調査によって、鈴鹿関の中に城山が取り込まれていたことがほぼ確実になった。これが発想の原点である。

 何故城山が必要だったのか?

 私はその目的を「監視」と考えた。今、城山に登っても木が生えていて多くは見通せないが、これさえなければ、西端の最高所からは真下に伊賀から来る東海道と近江から来る新東海道が見える。そして尾根のどこからでも関所全体が見渡せるのである。
 「見張り台」については、既に北西角の城壁の調査によって、その北に巨岩があり、この岩から南を監視でき、向かいの観音山からは東と南を監視することができることを明らかにした。この仮説ー監視説が正しいとすると、三関全てに「監視台」があったと考えてもいいことになる。

 ところがこれまで不破関については、城壁に囲まれた空間は藤戸川の段丘上の平坦地で、監視台など設ける余地がないと考えてきたのである。

 つまり仮説が間違っている?!ウーン一度現地で確認してみたいことがある。

 この答は次回に。



 

 弘文天皇自害峰と呼ばれている丘がこの左手にある。



 自害峰と言ってもここで自害したわけではない。具体的な場所は諸説あるが、「山前」と『日本書紀』は記す。その首を不破の野上にいた大海人皇子に村国男依がもち帰り、首実検の後この地に葬ったという伝説に依るらしい。

 

 672年7月初め、大津朝廷側の奇襲による激戦で黒く血に染まったという言い伝えの川。ま、いろいろありますなー。



 そしてこれが三本杉。大友皇子の首が葬られた場所がこの杉だというのですが、それにしては杉の太さが・・・・?!


 

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