yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

大越国報告-3  四鎮を訪ねるの条

2007-01-22 17:25:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 新年が明け、日常が戻ってくると共に多くの授業や教育活動、そして例年のセンター試験監督、そしてそして、卒業論文の最後の指導?(今頃あがいてどうなるんやと言いたいが)とあい続き、先週はヘトヘトでした。山田博士は既にこうした職務から解放されたようで、おそらくこれから連日の美食巡りが報告されることでしょう(でも忘れちゃいけませんよ!!A書店の原稿締め切りは過ぎていますからね!!最近どんどん若い方からの原稿が届いています。当ブログ愛読者?の中にもたくさんの関係者がいるやに聞いております。個別催促は当方自身の忙しさから月末までしませんが、2月に入ると矢のような催促電話をかけまくることを宣言しておきますから、皆様お覚悟の程を!・・・巷では夏までは?等という戯けた噂を流している人がいるそうですが、トンデモハップン!!メ、メ、滅相もございません!)


(ハノイの15世紀古地図に見える南郊殿)
 とマー、少し威圧的に始めましたが、当人は至ってしょぼくれております。とにかく先週はヴェトナムとの間で資料をやりとりするのに四苦八苦、結局全ての資料がうまく届かず、全部徒労!!ホント情けなかった。疲れ百倍!どななってんのや!と原因不明に悩んでいたら、先ほどメール到来。

 研究所の電気系統の故障で電気が使えなんだとか・・・ヤメテー!!もっとはよいうてよ!なんてったて私はヴェトナム語なんてからきしできませんからね(済みません、不正確でした。外国語全て)、そんな人間が中学生以下英語で作文することの苦痛!もう一度中学へ行き直したいわ、と思いながらの悪戦苦闘の作文。その全てが徒労ですもんね。

 でもいいことも一つ。このブログをご覧になったらしいハノイ在住の日本人の方からメールを頂いた。先週の土曜には紹介した南郊殿の現場にご夫婦で行ってみるとか、こういうのは嬉しい限りですよね。うまくご覧になれたかしら?もちろんレストランからの眺めを推奨しておきましたが。

 さてそんな疲れた体に鞭打って?大事な大事な仕事に少々疲れたので、ちょっとコーヒーブレイク、と言うことで四鎮をご紹介します。タンロン王京四方を護る施設のことです。古代でいえば玄武(北)、朱雀(南)、青龍(東)、白虎(西)の四神ということなのでしょうが、ハノイでは古くからの由来がよく分かっていませんので、こうした中国の思想と結びつくものは残念ながら認められませんでした。遡れても18世紀でしょうかね。黎朝末年から阮朝初期くらいまではたどれそうですが・・・。あ、言い忘れてました、もちろん一人で行ったのではなくて、南以外は西村昌也さんのご案内です。有り難うございました。


(北鎮といわれる真武観です)

 まず北鎮・真武観です。太湖の南岸に位置しています。ここだけは以前にも前を通ったことがあるのですが、中に入ってじっくり見たのは初めてでした。位置的にはとてもいい場所にあると思います。なぜなら、私はタンロン宮殿の北側に広がる太湖こそ禁野・禁苑の一部ではないかと考えているからです。先に紹介したホアンジュウ18番通り遺跡(いわゆるタンロン宮殿跡)のA・B区の間に広がる運河は北から入ってきますが、その先は太湖と繋がっていると考えられます。太湖周辺(特に西側)には古代寺院の存在も指摘されており、大越国にとってとても重要な場所として認識されていたのではないでしょうか。その護りとして置かれたのが真武祠だとしても不思議はありません。「真武祠」は「鎮武祠」の転化ではないかとも思うのですが、内部の解説は違っていました。


(名前の通り東の門の推定地にあるのが東門寺です。東橋寺とも言います。)
 ついで東鎮・白馬寺です。日本での白馬節会は中国の故事「正月七日春青陽に青馬を見ると邪気を払うことができる」によっていると言われます。大越国においてもそうだったのでしょうか。タンロン宮殿の真東に白馬寺は位置しています。ちなみに白馬寺の直ぐ近くには東門寺というお寺があります。これはタンロン宮殿の東門に当たる所からこの名が付いたと言われており、宮城域を復元する上で重要なお寺ですが、いつ寺ができたのか、何のためにこの地にできたのかについてはよく分かっていません。

(東鎮とされる白馬寺です。)
 西鎮はハノイ動物園の一角に動物園に囲われるようにしてたたずんでいます。案内してくれた西村さんは羅城の一部がこちらに回ってくるのではないかと仰っていましたが、ここにも小さな湖が広がっていました。ハノイ市内のあちこちには紅河の旧河道に由来すると思われる湖があちこちにありますから偶然かも知れませんが、社稷壇や南郊殿の南にも湖があり、中国でも明代初め、南京や北京にあった大祀殿(天地壇)には南に海(池?)が置かれたそうですから、全く無視する必要はないでしょう。頭の片隅に留めておいてもいい地形だと思いました。
 

(西鎮は子供達の歓声一杯のハノイ動物園の中に遺っていました。)

 さて、ここまで回ってタイムアップ。南鎮は翌日一人で回る羽目になってしまいました。地図と所在地だけ書いてもらって、タクシーの運転手にこれを見せて行ってもらうことにしました。もちろん言葉が通じませんから、万が一とんでもないところに行かれたらもうアウト!です。しかし、何とかその直ぐ近くまで到達し、広い道のど真ん中で車をおろされて、ガラガラを引きながらおそるそる南鎮に入りました。どのお寺(祠)もそうですが、外観はあまり変わり映えがしません。ただ共通していることはどのお寺にいらっしゃる年配の方(坊さん?)はたいてい漢字が読めるみたいだということです。私を日本人と知ってか知らずか、南鎮でも生け垣のカットをしていた方がわざわざ私を石碑の所まで案内してくださり、これを読めと言ってくれました。本当にヴェトナムや朝鮮が漢字を捨てたのは残念でなりません(と同時にいまの日本の若者がどんどん漢字離れしていることに危機感を持ちます)。
 

(南鎮は社稷壇の東普通に歩いても20分くらいの所にありました。)

 南鎮前の道が実は例の社稷壇に向かう道路だったのです。道路工事中でとてもガラガラを引きながら歩けませんでしたので、やむなくタクシーに乗ってタンロンの調査事務所へ向かいました。少し心残りでした。
 こうした四鎮の見学を通して感じたことはやはりこれらの施設がかつてのタンロン王京の京域と深い関係性をもっているのではないかということでした。あるいは、タンロンの京域は、中国江南の諸都市の様に、水上交通を主としたものかも知れません。水陸両面から京域の復元に迫らなければいけないのかも知れませんね。


(フエの南郊殿での祭り。)

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4 コメント

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Unknown (はすだ)
2007-01-30 02:26:16
ご報告、勉強になります。いくつかコメントさせて頂きます。

この地図を15世紀のものとするのは極めて危険です。15世紀にいったん地図が作られたのは確かで、現行本(『洪徳版図』)にそのときの情報が残されている可能性はありますが、現行本は少なくとも17世紀以降の成立です。

それから「太湖」→「西湖」です。西湖周辺地域の重要性については、桃木至朗先生の論文が触れていたと思います。
Unknown (yaa)
2007-01-30 09:46:08
 ご指摘有り難うございます。桃木先生の御高論を勉強させていただきます。

 太湖は確かに西湖ですね。

 なるほど、どれだけ地図に15世紀の事項が残っているのか興味深いですね。それにしても不思議なのは社稷壇が黎朝期のもので、社会科学院の皆さんは遷都するまで残っていたというのです。どうしてこれがどんな地図にも出てないのでしょうかね。

 いずれにしろ、今回の大発見によって、地図の問題にも一つの光明が見えるのではないでしょうか。
 なお、「噂」によると社稷壇の保存について若干の光が差しつつあるそうです。もっともいろいろ変わる国ですから、まだまだ油断はできませんが・・・。
 是非はすだ先生にもいろいろなツテでご尽力願いたく思います。

Unknown (はすだ)
2007-02-10 04:27:53
yaa先生:

保存に光が見えたとは何とも嬉しいことです。私も今夏に是非とも訪問してみたいと思います。

あの地図のどこかに社稷壇が書いてあったような記憶があったので、見てみたら有りませんでした。宗廟だったかな?でもこれも見つからない…。黎朝期までそこにあったという根拠はよく分からないのですが、確かに移転記事も記憶にありません。

可能性としては、現存する全ての地図は鄭氏政権以降のものです。よって、黎朝皇帝により強く関わる社稷壇は軽視されていたのかも知れません。もうすこし勉強してみます。

南郊壇の方は昭事殿という殿宇が附属しており、1663年に修築されたと年代記にはあります。そして武講所も隣接していたようで、鄭氏政権にとって重要な位置づけが与えられています。
Unknown (山中 章)
2007-02-14 12:36:40
はすだ先生、ご指摘、大変有り難うございました。鎌田先生の訃報、当方の不注意による風邪などで、先生のコメントに全く気付きませんでした。失礼お許し下さい。

光といってもどの程度なのか実体は不明です。実は3月初旬に社会科学院の考古学研究所責任者のチン先生が来日され、1週間ほど京都他を御案内いたします。その折にも、状況を確認し、できれば私も新年度以降に再訪したく思っております。

今後ともご指導の程お願い申し上げます。

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