yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

大越国報告-1  社稷壇を歩くの条

2007-01-05 12:19:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 年末に突然思い立ってベトナムに行って参りました。ハノイで見学した社稷壇と南郊殿はいずれも工事に伴う事前調査であり、いつまで見ることができるか不明ということで、やむなく新年を跨いで飛んでいきました。


(「社稷径」(Ngo(径) Xa(社) Dan(壇))の名の残る細い道を、現在幅50mに拡張する工事中なんです。それにしても背後の道のもうもうたる砂塵?排ガス!たまりませんね。)

 わずか5日足らずの滞在でしたが、とても充実した日を過ごすことができました。社稷壇や南郊殿もさることながら、急な旅立ちで通訳の手配もままならず、丸二日分は一人で初めて自分の足でハノイ市内を歩き回ることになってしまい、そのお陰でようやくタンロン王城を実感するという副産物を手に入れることができました。それにしてもハノイの交通事情は中国の比ではありません。なぜならば、バイクが多すぎるのです。バイクには排ガス規制がかかっていないのではないでしょうか。一日中ものすごい排ガスなんです。女性のバイカーはみんなマスクをしています(何故男性がしないのかは判りません)。晴れの日も曇りと変わらぬくらい町がよどんでいるのです。それ以上に旅行者にとっての問題は、みんながバイクに乗るので、歩行者がいないのです。その結果どうなるか?歩道がバイクの駐車場と化すのです。だから、歩道を歩くにはバイクとバイクの間をすりむけていかなければならないし、場合によってはほとんど歩く余地がないため、車道を歩く羽目になるのです。これは大いに危険!!
 そしてもうひとつの問題が、車道を横断するのがきわめてむつかしいということです。中国ならばだれかが路を横断しています。ですからそれについていけばいいのです。斜め後方に金魚の糞のようにしてくっついていけば何とか道が渡れることを最近知りました。ところがなんです。よほどの老人を除けばみんなバイクに乗っているものですから、横断する人が滅多にいないのです。一人で信号のない大きな交差点を渡ったときの恐怖感!皆さんは止めた方がいいですよ。きっとバイクに轢かれます!!!ハノイの町は歩いてなんとか土地勘を得ることができたのですが、それはなかなかのスリリングな旅でした。


(ハノイ中心部の地図。持ち歩いたためぼろぼろになってしまいました。上が北ですが、緑になっているところが王宮の中心部です。右(東)が東門寺のある大商店街、そして黄色の部分が南の住宅や新興商店街です。この中に社稷壇と南郊殿があります。)

 社稷壇や南郊殿の発掘調査に伴う資料はまだ十分には揃っていませんので、その解釈についても今少しの時間が必要かと思います。しかしせっかくの最新情報ですから、とりあえずここにスナップ写真でご紹介しておくことにします。もちろんヴェトナム社会科学院考古研究所からも快く情報の公開を認めてもらっています。ただ彼らとてまだ十分な発掘調査資料を整理し切れていない段階です。不正確な資料提示は誤解を招くといけませんので、とりあえず今回は発掘風景や周辺の歴史的、地理的環境を中心に私の思いついた事柄を書いておこうと思います。いずれ、何処かの雑誌にカラー写真付きで、もう少し掘り下げてきちんと書くことも約束してきました。それまでのダイジェスト版です。お許し下さい。

 まず歴史地理学的にこの発掘調査区は以前から社稷壇と南郊殿のあるところと考えられていたそうです。例えば、社稷壇ですが、今回の発掘調査地の直ぐ南を通る細い道路(路地?)の名称が「Ngo(径) Xa(社) Dan(壇)」(正確なベトナム語表記は各母音のところに発音に関する記号が付きますが、手元にヴェトナム語のソフトがありませんのでそれは略します)です。いってみれば社稷壇通りとでもいうのでしょうか、そのものずばりの名前が残っているのです。さらに地図によれば、道の南には「社壇湖」という小さな湖(池)があります。調査開始前にはぎっしり家が建っていたらしく、その立ち退きに日本のODAが使われ、幅50m近い道路の建設が始まることになったようです(しかし今のハノイでは、道をどんなに広げてもバイクの洪水は収まりません。路面電車などの公共交通網を整備する方が先決ではないかと思うのですが・・・)。立ち退きがなければ社稷壇は掘れなかったし、だからといって掘った暁には破壊されるし、どっちがいいのか、なかなか難しいところです(私はもちろんある理由で「今」掘るべきではないと思っています)。
 また、『大越史記全書』を調べていくと(まだ始めたばかりですが)、李朝の初め、1048年に「長廣門」外に社稷壇を立てたとあるのが初見のようです。社稷壇の北側を通っている道が「羅城通」と呼ばれ、羅城の推定地とされていますので、「長廣門」は羅城に取り付いていた門なのでしょうか。もしそうだとすると大越国の社稷壇は羅場外に位置したことになります。周辺に「長廣門」(ヴェトナム語でTruong quang mon)に通ずる道路名でもないかと拙い資料で調べてみましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。もっとたくさんの地図資料が何処かにあるはずだし、私の知らない石碑資料が「中文研」で収集されているそうなので、その辺りで調べると出てくるかも知れませんね。今すぐ誰かがやれば先駆者になれるのになー。
 

(現場の向こうには既にこのような大きなクレーン車やブルドーザーが入り遺跡下5mほどが下げられ、基盤工事が進んでいます。まるで早く調査して出ていけ!といわんばかりの居丈高な状況です。橋脚工事を進める久留倍遺跡のようです。寂しい!!)

 発掘調査された遺構は社稷壇内の中軸「道路」であるとされています。その根拠があまり明確ではないので「」付きなのですが、簡単な磁石やGPSで道路状遺構を測るとだいたい北方向を指しているようなので、周辺の地形に社稷壇に規制された道路痕跡でもないかと地図を見るのですが。残念ながら、先の社稷壇通りを除いて認めることはできませんでした(時間と通行の都合でこの周辺は歩けませんでした)。目をさらに北に移すと、社稷壇の北には現在のホーチミン廟があります。タンロン王宮の四至がまだ明確ではないのですが、社稷壇はおおよそ宮城の西辺の南に位置するということになるのでしょうか。後日ご紹介する南郊殿が王宮の東門の南に位置していることとそれなりに関連している可能性が考えられます。但し南北の位置関係では、南郊殿の方がやや南に位置しているようです。

 さて、発掘現場で少し気になったのが、断片的に残されている長胴の壺類でした。例によって、堀方がとばされているものが多く、その掘削位置や正確な位置関係が判らないのですが、中に一つ、断面に残されたものが考察の材料として使えそうです。李朝期だといわれる壺が正位置で立って残されていました、よく観察すると、断面に堀方が認められます。平面上にも明瞭に認められ、直径1.5mくらいの穴に置かれているようです、担当者の話を総合すると、他にも数点あったらしく、調査地内に残されている断片的情報を総合して考えると、調査地内のあちこちに壺を埋納する遺構があったことが推定できます。
 言うまでもなく社稷壇は五穀の豊穣を祈る儀礼の場です。実施にどのように儀礼が展開されたのか今のところ『大越史記全書』には詳しく出てきませんので知るよしもありません。中国を含めて社稷壇を本格的に発掘調査した例は知られていないと思われますので、他の事例から推測することも難しそうです。初めての発掘調査だけにより慎重にこうした情報が集められるべきなのですが、なかなか異国の地では・・・。悲しい!!


(今も奈文研の協力で現地で発掘調査技術の指導を兼ねた再調査などが行われているようです。しかし問題はどうも受け手側にあるように思われます。こちらでどんなに一生懸命掘っ立て柱の堀方の説明をしても、鼻から聞こうとしないんですもの!変なプライドを捨てて真摯に耳を傾ける誠実さが不可欠ではないんですかね、学問には!ま、もっとも日本にも似たような状況がないわけではありませんがね・・・。)


 少なくとも壺の中の土壌分析だけは慎重にしてみてはどうですか、と現場担当者にはお願いしておいた。五穀のどれかがまとまって入っていることがあればとても面白いと思っています。あるいは壺の器表面に墨書や刻書で五穀の名前が刻んであるかも知れないからそれも是非注意してみて欲しいとお願いしておきました。

 夕刻からは発掘の無事を祈る儀式を行うのでということで、15時過ぎには現場から出て国立民俗博物館を見学しました。ところが予想外にここの展示は面白く、堪能することができました。また時間があれば番外編でご紹介することにしましょう。初日早々実に充実した一日でしたが、とても残念なのはこの遺跡が破壊されることを前提に調査されていることです。考古学院も、担当者も、もちろん行政の皆さんはみんな、保存は難しいと判断なさっているようです。私だってこの現場に立たされたなら、残したいのは山々なのだが、なかなか難しいなーと思うに違いありません。で得も世界初の調査なんです!!タンロン王宮・社稷壇・南郊殿・文廟などをまとめて世界遺産にすればハノイというあまり文化の香りの知られていない町をよみがえらせることができると思うんですよね。今回の旅でも驚いたのは年末から正月の便にもかかわらず飛行機は満席なんです。巷ではヴェトナムブームだとも言われています。この観光客を歴史遺産にもつなげることができれば、もっと増えるし、リピーターが出てくると思うのです。外人の観光客も、過去の歴史からか、フランス人などの欧米系を中心にとても多いし、ヴェトナムの方々もフランス語のできる方が多いのです。なればこそ、この歴史遺産を何とか!残すために私達のできることはないのか、是非考えてみようではありませんか。

 新年早々長くなりました。久しぶりに素晴らしい遺跡を見て興奮したせいでしょう。今年もこうしたできるだけ生の情報をどんどん出していければと念じております。どうぞよろしくお願いいたします。

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