yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

愛宕念仏寺羅漢さんお参りの条

2015-06-19 12:34:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は久しぶりの10年会でした。それに先立ち、10年会の中心だった故安藤栄里子さん作の羅漢さんの眠る愛宕念仏寺にお参りしてきました。

 お姉様のお話にユアと、もう三五年ほど前、愛宕念仏寺の復興を市民と共にと願った再興者西村公朝さんが五百羅漢を市民に彫ってもらって境内に置こうと考えられた。その公募にいち早く賛同されて参加されたのが安藤栄里子さんのお母様。ところが素人が石仏を彫るのは結構な難関。助けに入ったのが当時まだみんな元気だった三兄姉。まだ小学生だった栄里子さんも参加してできたのが以下の羅漢さん(どれか判りますか?)。

 愛宕寺は元々山背国愛宕郡に称徳天皇によって建立された寺だという。ところが当初の伽藍は鴨川の氾濫によって流失し、平安時代前期後半に千観によって六波羅付近に再建された寺に源を発する。ところがこれもいつしか廃寺と化し、ほとんどその偉容を失っていた大正11年に現在の地に移されたのだという。しかしその再興もうまくいかず、再び荒れていたのを、三十三間堂千手観音の仏像修理他全国の国宝級仏像の修理を手がけ、後に僧侶となった西村が、清水寺貫主大西良慶の勧めで再興にあたったのが今日の姿だという。

 たまたま日曜日は長く続いている十年会の久しぶりの集まりである。聞くところによると、十年会を引っ張ってきた故安藤栄里子さんがこの寺に羅漢さんを埋納したと聞く。そこで始まる前にお参りに行こうと言うことで有志で参ったのであった。

 事前にメンバーでもある安藤操さんに場所をお伺いしておいて、お寺へと向かった。

愛宕念仏寺の山門


説明板


本堂とその前に並ぶ羅漢さん達


安藤さんから事前に写真はもらっていたのですが、いざ来て見るとなかなか見つけられない。ウーンこの辺りなんだがなー・・・・


目標になるのが首をかしげた三列目の羅漢さんだというのでそれを探す。
どれもよく似ていてなかなか見つけられない・・・。オッツこれは似てる。首をかしげている左隣がそれだというからこれかな?!


 山裾にあるので、どれも山水の浸透で苔むしているのでなかなか判らなかったがついに突き止める。頭の苔は髪の毛のようなので残し、お顔をきれいにすることに。手で少し苔をむしり、カビのような苔も取っていくと眉毛や口、目のラインが何となく浮かび上がってきた。そこで奥の手?を。背広のポケットから出したのが例の歯ブラシ。たまたまもう棄てようかと思っていた歯ブラシと使用中の歯ブラシ二本があったので、その一本を使うことに。
 「安藤さんご兄姉、ごめんなさいね。」こうお詫びしながらゴシゴシ。
最後はお線香を捧げてお祈り。
 

 山際にない羅漢さんはこの通り。背中に彫られたお名前も読める。


本堂側から見ると。


再興した西村公朝さんのお墓。羅漢さんを上から眺めておられる。


 鐘をついて、お参りを済ませ、降りてくると丁度バスがいったところだったので、少し歩くことに。当日はとても蒸し暑くて、途中で休憩することに。嬉しいことにいちごのかき氷があった。躊躇なくこれを選択。美味かった。蜜の味は昔と全く変わらないが、少し違うのは上にミカンの缶詰から取ったミカンが数きれ乗っていること。そして中程にアイスクリームが仕込まれていること。だから贅沢なのだ。食べ終わる頃には身体が冷えてきて、大急ぎで外へ。
 

苔茂る羅漢の眉を刻む妹

愛宕から移りし羅漢苔茂る

妹たちの刻みし笑顔苔の花

五百羅漢 苔茂って妹が貌

 結局下まで歩くことに。久しぶりに清涼寺の境内を歩いてバス停へ。


 バスは道が混んでいて時間がかかったが無事十年会会場へ。本日は高級焼き肉。朧谷先生は体調を考慮して魚コース。ちょっと心配したが、この後いつもの二次会へ。終わったのが23時頃。でも事前に頂いた安藤薬局の漢方薬のお蔭で朝まですっきり。二次会にて。
 

 二次会が終わって出ようとすると山田博士が猛然と二回まで駆け上がる。何事かと思うと、二階の廊下でこんな展示が行われていた。もちろん全部レプリカなのだが、ホテルのロビーにこんな展示はとても珍しい。

 懐かしいガラス製釧


鏡のレプリカや環頭大刀まで。


何とも充実した一日となった。

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犬山市木之下城伝承館・堀部邸見学の条

2015-06-13 16:20:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 一昨日は犬山市にある堀部邸を見学してきました。
 特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク (赤塚次郎さん代表)が管理・公開する武家風屋敷です。明治初期(1883年)に財をなした堀部勝四郎が武家屋敷風の建物として建築した施設だという。その後離れなどの施設が付属増築されて現在にいたり、暫く管理が十分でなかったために荒れ放題であった施設を上記法人・通称「ニワ里ネット」が再整備を行い、今年から管理、活用することになったという。

 三重大学の卒業生がニワ里ネットの学芸員として勤務しており、以前から一度見に来るようにとの誘いを受けていたのが実現したものだ。

 6月3日オープンに会わせて紹介された朝日新聞の記事( http://www.asahi.com/articles/ASH5052VQH50OBJB003.html )によると以下のような特長があるらしい。
 
 犬山市にある国の登録有形文化財「旧堀部家住宅」が生まれ変わった。NPO法人が運営する「木之下城伝承館・堀部邸」として再始動し、一般公開も始まった。織田家の居城で、国宝犬山城の前身とされる木之下城を核に、町の新たな情報発信拠点を目指す。

 堀部邸は、犬山藩主成瀬家の家臣だった堀部家の住居。約1340平方メートルの広大な敷地には、木造2階建ての主屋や、養蚕に使われた作業小屋などが連なる。古いものは1883(明治16)年の築とされ、2006年、6件の建物が国の登録文化財になった。

 09年に建物を譲り受けた犬山市は、民間団体に貸し出し、建物展示やカフェなどの活用策を試行。今年4月、古墳など歴史遺産を活用した事業を展開するNPO法人「古代邇波(にわ)の里・文化遺産ネットワーク」(ニワ里ネット、犬山市)が3年間の管理・運営権を得て、本格的な活用が始まった。

 廷内に展示されていた堀部勝四郎夫妻?


 管理団体であるNPO古代邇波の里・文化遺産ネットワークのHP (  http://niwasato.net/home/ )でも詳しく紹介されているほか、あちこちで紹介されている。( http://horibetei.jimdo.com/ )

 以下昨日撮影した写真でその概要を紹介しておこう。写真よりもぜひ一度出かけて現物を見ていただければその魅力に引き込まれるに違いない。

  場所は国宝犬山城の城下町の南の外れ。正式名称は木之下城伝承館・堀部邸である。犬山城下町が形成される前に南部には木之下城が東西200m、南北350m程の範囲に形成されていたという。

 

その木之下城の西方部に設けられたのが堀部邸である。

 玄関
 
 特注のれん
 
 
 表庭
 
  
 
 
 中庭
 
 ボランテアの方々が荒れ放題だった庭をこの様に美しく整備して下さったそうです。


 トイレ


 離れ
 

 台所
 

 井戸
 
 今でも少し水がしみ出しています。
 

 女中部屋に使われていた渡り廊下部分です。わずか二畳の狭い空間です。かつて調査した長岡京左京の兵士の駐屯地も一人あたり二畳でした。イギリスのハドリアヌスウオール警護のためのフォートの兵士居住空間もそれくらいでした。二畳が人間の居住限界空間なのですかね。
 

 改装して近代的トイレに
 
 

 現代になって風呂に改装されたそうです。
 

 藏はギャラリー空間に利用
 
 
 
 堀部邸は国の登録文化財なのですが、様々なイベントに利用できるよう工夫されています。
 三時間利用して500円という格安でもあります。

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長岡京歴史散策の会の公式ブログ(HP)が誕生しましたの条

2015-06-07 23:52:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 長岡京歴史散歩の無事の出発を祝って、専用のブログとメールを作りました。
 今後はこれらを用いて行事の連絡や予定をお知らせすることにします。
 ぜひ一度覗いてみて下さい。
ブログ

 http://blog.goo.ne.jp/ngaokakyourekisisannpo

gmail

 nagaokakyourekisisannpo@gmail.com


 主にこの二つの事業を運営するための「長岡京歴史散策の会」も立ち上げることにしました。まだ、具体的な運営方法や運営者は定まっておりませんが、今後教育委員会の後援などをお願いするときに「会」と「代表」などがないと申請しにくいことを想定して作ることにしたものです。

 当面の事業は「長岡京歴史散歩」と「連続講座長岡京歴史よもやま話」を実施していく予定です。
 

 「連続講座長岡京歴史よもやま話」は現在詳細を詰めているところで、基本的に長岡京を主テーマに関連する考古資料や文献史料に関連する情報をスライド写真(パワーポイント)にまとめ講義と質疑応答による講座形式の事業の予定です。これも当面は私が講師を務めますが、いずれ、関係する研究者の方や調査関係の方にも参加してもらえればと考えております。

 とりあえず私が用います資料の大半は、三重大学時代に「教養部」の学生達に講義した考古学や古代史学の基礎的な資料をアレンジしたものとなります。
 車座になって、時にはお茶でも頂きながら気楽なサロン的な場にできればと思っております。

 詳細は数日中に発表します。乞うご期待!!


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第1回長岡京歴史散歩報告の条

2015-06-06 09:49:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 酷暑のなかたくさんの方に参加いただいた「長岡京歴史散歩」、ひとまず無事出発することができました。
 いろいろな人と再会することができ、応援の言葉も頂戴し、継続することに自信が湧いてきました。(懐かしいこんな方にもお会いしました!(お互いに歳を取りました!(笑)でもこうやって写真写りをみると体形は全く変わっていませんね。小学校の先生を辞めてしまって、今は自由人だそうです。)

 第1回の主な散策地は都の中軸である大極殿・朝堂を中心にその西側に広がる施設群でした。

〈第1ポイント・出発地点は朝堂院西第四堂跡です〉 国史跡朝堂院西第四堂跡及びその前方から発見された回廊・門闕跡を見学し説明しました。
「長岡京歴史散歩」を開催する趣旨は、発掘調査によって得られた情報を正確に、しかしわかりやすく伝え、情報を解釈する様々な視点を紹介して、市民の方々にも考えてもらうことにあります。。
この間たくさんの発掘調査が行われ多くの成果が出てきたのですが、私の感覚では余りに一方的な視点が強調され、特定の解釈だけが紹介され、あたかも決定的事実であるかのごとき説明が展開されてきているという危惧です。
 朝堂院前の回廊に付属する門闕も、詳しい検討もなされずに「」付きではあるのですが、「翔鸞楼」とされています。翔鸞楼は平安宮朝堂院の南門・応天門の西に付属する楼閣施設であり、その名称も含めて明らかに後世のものです.また、門闕がなぜ長岡宮朝堂南門に付属するのかについても何の議論もないまま、「桓武天皇による創建」とされて一般に流布されています。本当にそうなんでしょうか。限られた考古資料ではありますが、出土した瓦は難波宮で使用されたものが相当率含まれています。整地の解釈も慎重さが求められています。聖武朝難波宮に設置されていた施設を移建しただけということも十分検討しなければなりません。ある特定の見解だけを基に市民に説明を押しつけることが公共機関として正当なことなのか、少し疑問に感じています。説明ではそうした異論のあることも紹介しました。

 ガイダンス施設では「AR長岡京」という遺跡の3D復原をみるため、専用タブレットを借りて実体験してもらいました。コンピューター上で復原された3Dの朝堂院や門闕は相当な迫力があり、見学者に感動を与えました。特に、復原された施設群を様々な角度からみながら、遺跡を歩き回り、往時の偉容を辿る手法は、これまでの大金が注がれている割には安っぽい実物大復原よりよほど迫力があります。久留倍遺跡の整備がどうしてこの方法をとらなかったのか、本当に残念でなりません。

〈第2ポイントは朝堂と地鎮祭跡です〉 西第四堂から西の道路跡に出て宮内道路想定地を北上しました。調査や保存に私も含めた多くの人が苦心し、工夫し、苦労した朝堂院西第三堂・第二堂跡を見学し解説しました。西第二堂跡の一部が残る幼稚園前では、西にできた勝山中学校体育館での調査成果を紹介しました。発掘調査によって、乙訓郡衙跡→長岡宮第1次造成跡→地鎮祭跡→長岡宮第二次造成跡を確認することができ、長岡宮城の造成が大規模かつ計画的に進められた姿を明らかにしました。長岡宮城の造成が「ひな段」造成などという意味不明の造語で語られていますが、決して特異な造成を行って中枢部域や官衙域を形成したわけではないことはこの初期に行われた造成の様相から明らかなのですが、近年の調査担当者は新語がお好きなようです。
 ただし、失敗したのはその想定復原図を資料に入れておかなかったことです。何せ、資料を作るのも一人でしましたから、とても複数の資料を挟み込む余裕がなかったのです(言い訳は見苦しい!!(笑))。次回からはもう少し丁寧な資料作りに注意を払います。今回はお許し下さい。

〈第3ポイントは嶋院・島坂・島町・滝の下です〉 西第一堂のところで西に折れ、推定饗宴施設跡の眠る勝山中学校校庭を横目に見ながら島坂のある五辻へ向かいました。今回の散策の焦点となるポイントです。
 近年盛んに長岡宮の西辺部に当初の内裏・西宮があったという説がまことしやかに叫ばれています。文献研究者の中にはこれを積極的に支持する人も出てきて、あたかも市民権を得たかのような様相です。一般書や一般講演会でも主張され、多くの市民がそう信じておられるようです。しかし、これはあくまで特定の人物による仮説であって、まだまだ十分な検証を経ていません。断定できるものではありません。そこで、余談と偏見は置いておいて、その主張されている西辺部をじっくり歩いて市民に体感していただくことにしました。
五辻を南北に通る道はかつて西国街道と呼ばれた道で、長岡京期には朱雀大路の二本西、西一坊坊間大路の跡にも相当します。実はこの事実がとても軽視されているのです。
 五辻から南は急な下り坂になっており、中山修一氏の研究などでは、この坂こそが「島坂」に相当するのだとされています。当日は、島坂を北から見た後、五辻を西南西に延びる坂道を下っていくことにしました。坂道の南が小畑川の旧流路の痕跡であり、私が嶋院の苑池の跡と推定しているところにあたります。坂道に沿って長岡(向日丘陵)の南端の崖が露出しているのが見え、長岡宮が相当な丘の上に建設されていることを実感することができます。坂道がやや緩やかになる地点の崖際が滝の下です。参加して下さった元上司の島光男さんはこの辺りに住んでおられ、子供の頃は崖からこんこんと水が湧いていたと教えて下さいました。


 
 ここで参加者の中から思いがけない「つぶやき」を耳にすることができました。

 「そうか、だからこんなに大きな楠木がこんなところに育っているのか!!」

確信に満ちたその声の主は乙訓地域で造園業を営む方でした。乙訓の有名寺社の庭園の整備を積極的にやっている元気な方で、乙訓の地形は熟知しておられるのですが、さすがに我々がやる考古学の世界まではご存じないので、今回参加して初めてこの地がかつての河跡だと知られたのでした。彼曰く、地下に伏流水がたくさんあるから楠木はこんなに大きく育つことができたのだ!、と。

 やはり多様な見方が必要だな、とこの時強く感じたのでした。

嶋院の池が設置されていた可能性が高いと考えている長岡崖下の小畑川旧流路跡。今はこの様にびっしり家が建てこんでいるが、かつては壮麗な池が設置され、貴族達が儀式に臨み、饗宴を楽しんだところだと思うと気持ちも昂ぶる。



 滝の下の崖際まで降りて、今度は向日神社の本殿の裏へ崖下から急な階段を一気に昇ることにしました。しかしこれも良くなかったかもしれません。お年を召した方が相当いらっしゃって、本当に申し訳なかったと反省しています。ただ、皆さんこの道の存在を余りご存じなく、神社の裏がこの様になっていることに驚かれていたことは、目論見が当たったと言えます。
私の狙いはこの急な崖こそ、長岡宮城の西大垣なのだということを実感していただくことにあったのです。西大垣としての機能を自然地形を巧みに利用しているのだということを実感していただけたら成功だったのです。次回感想を聞いてみましょう。

〈第4ポイントは宮城西大垣推定地から見た崖下の施設群です〉 参加者の中には以前から疑問に思われていた方も相当の数いらっしゃって、
 「丘の上から丸見えなのにそんなところに「西宮」を造るのだろうか、不思議に思っていた」といわれます。実際に丘の上から見てその思いはより強くなったようで、「これは危険すぎるわな」という感想を一様に持たれました。
 向陽小学校で見つかった複廊遺構を「西宮」だとする人々は、一様に、宮城大垣を小学校の校庭の西端で検出された築地塀だとされます。丘の上の元稲荷古墳あたりが条坊制に従って推測する西大垣なのですが、なぜか、この位置に西大垣を想定することを拒否し、妙な形の宮城を復原するのです。
 つまり、向日神社や元稲荷古墳のある丘の上は右京域だというのです。不思議な説ですね。長岡宮城は丘の上から丸見えなのです。おまけにその崖下に天皇が日常的に住まいする内裏(「西宮」)があるというのです。信じられない説だと参加者の多くは納得して下さったように感じました。参加されなかった方こそ是非確認していただきたい事実なのですが、どうですかね。

 少なくとも「西宮説」が絶対でないことは伝わったように思います。目的の大半はこれで達せられました。

〈第5ポイントは私が考える当初の内裏・「西宮」跡です〉 複廊遺構の場所を確認し、複廊が東へ大きく伸びるという説に不利な宮内西一坊坊間大路西側溝の存在も紹介し、さらに東に向かって坂道を西宮・大極殿に向かって下っていきました。ここでも側溝を示す資料を添付しなかったのは私のミスです。第1回目はいろいろな課題を私に突きつけました。と同時に思ったことはこうした様々な作業を久留部官衙遺跡を考える会の皆さんは34回も、とても丁寧にやって下さっているのだ、ということを再認識しました。感謝申し上げます。



大極殿跡の公園が西側に拡張されるようでその工事の準備が始まっていました。長岡京研究の創始者のお一人小林清先生のお宅が史跡指定されたそうです。最近大極殿後殿が調査され、そうした成果も西宮との関係からご紹介しました。


大極殿の南の宝幢跡も注目の的でした。この20年余りで大極殿一帯がとてもよく整備されていっていることに感銘すら覚えました。ありがたいことです。




 本当は大極殿公園の石碑の下で記念写真を撮るつもりだったのですが、説明する内にすっかり忘れてしまい、大半の方が帰られた後、わずかの方で解散場所の西第四堂跡で記念写真を撮りました。これも失敗の一つです。なかなか何でもやるのはこの歳になると難しいことを実感しました。誰か、次回は写真係をしてくれないかな。また、今回の写真をお持ちの方は是非私まで送って下さい。コメントにその旨書いていただければ送り先をお伝えします。



 まだ報告しなければならないことはたくさんあるのですが、明日朝一番に病院で診察があるのでこれで休みます。
 次回はもう一つの新しい行事をご紹介します。乞うご期待!!


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 第2回は2015年9月26日(土) 12時45分阪急電車京都線 西山天王山駅改札口集合で、長岡京右京の経済的拠点、西市及びその関連施設を歩きます。旗持ちが欲しいので是非たくさんの若者の参加を願っています。


第1回「長岡京歴史散歩」50人で出発の条

2015-06-01 12:05:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 5月30日土曜日は記念すべき第1回長岡京歴史散歩の開催日でした。

 不安が二つ。
 1 天候
 2 参加者

 1の不安は雨だったのですが、結果的には雨が降った方がよかったと思えるくらいの晴天でした。とんでもない暑さで、おそらく30度は超していたと思います。一緒に歩いて下さった方には本当にありがたく思いました。



 集合場所の朝堂院第四堂跡のガイダンス施設は一杯でした。


 2の不安が参加者でした。事前広報を十分に行えなかったので、どれだけの方がおいで下さるのか、全く読めませんでした。ところが、前日に京都新聞が大きな誌面を割いて掲載して下さったのです。京都新聞楽再総局の記者の方にはお礼の申し上げようもありません。本当にあちこちの方々のご援助で実現することができました。感謝!!です。

 京都新聞洛西版5月29日朝刊

 また思いがけず、中山修一先生のご長男の忠彦様が参加下さったほか、向日市教育委員会時代の元上司島光男さん他、懐かしい方にもお会いすることができ、さらに、今後のお手伝いも申し入れて下さり、なんといえばいいのか、本当に嬉しいことばかりでした。
 ブログを見たとかで静岡からお出で頂いた方や、久留倍遺跡にいつも参加下さる方、三重大学の学生も一人参加してくれ、とても多彩な方々と歩くことができました。
 研究者仲間の吉水葉子さんにはご夫婦で参加下さり、旗持ちやら準備の手伝いやらいろいろなことをしていただきました。特に、終了後、帰り道だからと、幟やら、マイクやら、資料の残りやら、それなりにたくさんあった荷物を自宅まで届けて下さりました。後から思うとこのたくさんの荷物を手に持って電車で帰るのは大変だったな、と、より感謝の念で一杯になった次第です。いつかお礼の席を設けなければ。

 もちろん幟も大活躍しました。電車に乗って手に持って行くには重いので3本にしたのですが、5本持って行けばと後悔しました。

 



 ちょっとこれから出かけるので、散歩の内容や次回の開催予定、新しい企画についてはまた明日ご報告いたします。ご期待下さい。 

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長岡京歴史散歩の幟旗が出来上がってきました!の条

2015-05-29 23:09:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


卒業生のデザインになる幟旗が届きました。
早速つけてみました。
なかなかユニークな幟です。土曜にはこれを持って歩くのですが、幟は5本あるのですが、そんなに来てくれるかな?幟の方が目立ったりしたら恥ずかしいな。(笑)

資料もできましたよ。中身はセンター発行のものを利用しただけですが、やはり一人でやるのは大変!(笑)
ホッチキスどめが終わったのが、今朝の2時!
あー眠い!
そしてたった今、幟専用の袋ができました。用いた生地は長岡京遷都1200年を記念して作った風呂敷です。世の中に二つとありません!





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いよいよ明日「長岡京歴史散歩」第1回開催!お誘いの条!

2015-05-29 00:00:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 いよいよ長岡京歴史散歩の歴史的な第一歩(大袈裟な!!(笑))が歩を進めることになりました。

 明日5月30日13時西向日駅西口出発!!


 記念すべき第1回は長岡宮の中心部を歩きます。

「長岡京歴史散歩」


 第1回 大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る

 第1回は長岡宮城の中枢部を歩きます。何度も行かれた方がおありかも知れませんが、近年の向日市による整備はとてもよく、きめ細かく進められており、少し行かないうちに景色が一変しております。また発掘調査の進展によって、宮城の中枢施設の配置にも諸説が出されています。にもかかわらず、中山修一先生が提示された基本構造が無理なく理解できるものであることも実証されつつあります。そんな中枢部をゆっくり歩いてみようと思っております。

 2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合

〈主な予定コース〉

 西向日駅 → 朝堂院南門・門闕跡→西第四堂→西第三堂→嶋院(向陽小学校)→長岡宮西大垣(向日神社境内一帯)→ 向日神社 → 元稲荷古墳 → 朝堂院北西官衙 → 西宮(前期内裏) → 大極殿・朝堂院 → 西向日駅解散

 こんなチラシを作りました。お金がありませんのでパソコンで打って自宅のプリンターで印刷した簡単なものです。

 幟旗も作りました。私の教え子がデザインしてくれました。モデルは四日市でやって来た「壬申の乱ウオーク」です。果たして気に入っていただけますかね。

長岡京歴史散歩幟一応長岡京をイメージしています。




 1 開催の趣旨
  近年、長岡京跡の発掘調査はめざましく、日々新しい成果が生み出され、1200年前の都の姿が手に取るように明らかになって来ています。しかし残念なことに発掘調査終了後は埋め戻され、住宅や工場、公共施設に変わってしまい現地を確認することが困難になっています。そこで、資料を手に取りながら、現地を巡り、往時の姿に思いをはせていただこうと考えています。また、時には長岡京や創始者である桓武天皇及びその関係者の縁の地にも足を運びます。春と秋の季候のいいときに長岡京跡を歩きながら往時を偲んでみませんか。

 2 開催要項
・ 解説 山中 章(三重大学名誉教授)もしお手伝いしてやろうという方がおられましたら是非お願いいたします。
・ 年4回 5月・9月・11月・3月の第4土曜日13時~17時実施予定。
  もちろん、機会があれば発掘中の現場なども見学したく思っておりますが、しばらくは調査済みの所を回ってみます。
・ 申し込み不要 参加費 無料
・ 連絡先 山中 章携帯電話 09091173424
・ メール yaa1948@gmail.com
・ 山中章のブログ「yaaさんの宮都研究」に1ヶ月前に詳細を掲載

3 2015年度開催予定 
• 第1回:大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る
2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院南門→西第四堂→西第三堂→嶋院→長岡宮西大垣→向日神社→元稲荷古墳→朝堂院北西官衙→西宮(前期内裏)→大極殿・朝堂院→西向日駅
• 第2回 西市から長岡京の画期に触れる
2015年9月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西山天王山駅集合
〈主な予定コース〉  
• 第3回 桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王
2015年11月28日(土)12時45分京阪電車 交野線宮之阪駅集合16時解散
〈主な予定コース〉 百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡
• 第4回 東宮(後期内裏)周辺を歩いて長岡京の変化を感じる
2016年3月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅東口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院東第四堂→築地跡→東宮(後期内裏)→春宮→宮城東大垣→南院→西向日駅

4 その他
 ・ ボランテアのお願い

もちろん第1回が無理でもこれから定期的に開催しますので一度は参加してみて下さい。10年しかない不思議な都ですが、その実態が手に取るように伝わってきます。

 長岡京歴史散歩、おもしろそうだな、是非参加してみようと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

こんにちは「あきら君人形」と申します。これから皆さんをご案内しますので宜しくお願いします。
 (これもある授業で学生が作ってくれました。可愛がってやって下さい。)

「久留倍官衙遺跡を考える会総会」講演会報告の条

2015-05-26 15:00:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 久留部官衙遺跡を考える会は設立して11年目を迎えます。既にここで何度もご紹介していますように、市民の会による行事としては驚異的な内容と頻度で、様々な活動を実施してこられました。私も名ばかりの顧問として毎年の総会には出席し、少しお手伝いをさせていただいております。
 今年はいろいろな行事との関係で少し遅くなりましたが、5月23日に大矢知地区市民センターで開催されました。11回目になりますので、そろそろネタが尽き叟なのですが、今回は「聖武・光仁・桓武三代の斎王」と題して、次の様な内容でお話しをしました。今回は新しい参加者が増え、50名余の多くの方が聞きに来て下さいました。感謝!!です。相変わらず資料が多すぎて、最後が尻切れトンボになったのが恥ずかしい限りです。



(久留部官衙遺跡を考える会事務局長大泉義明さん撮影 以下の写真もお同じ)

 
  聖武・光仁・桓武三代の斎王
   山中 章

 はじめに~伊勢斎王制度の成立~

 天武二(六七三)年、初めての斎王・大来(伯)皇女が選任された。以後、南北朝に廃絶するまで伊勢国多気郡の一角には伊勢斎宮が置かれたとされる。初代斎王・大来(伯)皇女の用いた初期斎宮の厳密な位置は不明だが、現史跡指定地の西部が有力視されてきた。ところが続く持統朝に斎王が任命された形跡はなく、文武朝の当耆皇女の時初めて「斎宮」の名称が認められる。文武朝下で短期間に相次いで斎王が任命されるが、その斎宮所在地もまた未だに不明とされている。
 文武朝には『大宝律令』が制定され、斎宮司が設置され、律令の整備と共に斎宮制度も体制が確立した時期である。斎王の相次ぐ任命もそうした制度的確立に伴うものとも考えられるが、その背景を解き明かした研究は未だにない。元明朝に正史は斎王の任命を記さないにも関わらず、『一代要記』に記された二人の斎王を認定するのが一般的である。当該期二属する土師器の出土もまた不明瞭のままである。
ところで、斎宮を行政的に管轄する組織が斎宮寮であるが、大宝元年に設置されたにも関わらず令外の官であり、当初は「斎宮司」であった。「斎宮寮」となるのは「斎宮寮之印」が定められる元正朝のことされ、当該期にも新たな動きが予想できるが、この斎宮寮の位置も定かではない。
斎王の名が再度見えるのが、異例の長期滞在をした聖武朝の井上斎王の時代であった。『政治要略』は後の「初斎院」や「野宮」に相当する施設の設置を伝え、初めてト定から群行に至る伊勢斎王の「形」が示され、その後のモデルとなる。しかしやはり、井上斎王の伊勢斎宮設置場所もまた明らかではない。
『延喜式』によると、早くから確立していたかに見える伊勢斎王制度だが、聖武の跡を継いだ孝謙朝以下、淳仁・-称徳朝の斎王についてはいずれも女王または出自不明の人物ばかりで、その実態はほとんど明らかになっていない。
古代王権にとって、斎王制度が必ずしも常置の不可欠の制度とはみなされていなかったのである。
この様に、通説では遅くとも大来(伯)皇女の斎王任命でもって斎王制度が確立したかの如く説かれる斎王制度だが、文献史料、考古資料のいずれも、必ずしも十分な根拠を示しているのではないのである。少なくとも八世紀後半段階までの斎宮制度については再検討する余地がある。
状況が一変するのが光仁・桓武朝における史跡東南部への明確な設計図に基づく斎宮寮以下の行政組織の設置と斎王常置の空間としての内院施設の建設であった。その造営は宮都建設者の手になる本格的で精度の高い極めて計画的なものであった。はじめて文献史料における斎王の任命と伊勢斎宮における施設や使用生活品の実態が一致したのである。
ところで斎宮には、六・九・十二月の斎王伊勢奉祭に際し、宿泊や休憩、食事をとる施設として離宮院のあることが知られている。離宮院についても、延暦一六(七九七)年、度会郡沼木郷高河原から湯田郷宇羽西(現離宮院跡地)へと移転され、御厨(大神宮司政庁)が神宮から離れるという大きな変化がある。さらに、天長元(八二四)年、即位間もない淳和天皇の詔によって、氏子斎王の斎宮は離宮院へ移転されることとなる。以後15年間、三代の斎王が離宮院を斎宮として用いるが、仁明朝の斎王である久子斎王の承和六(’八三九)年、大火によって焼失し、再び多気郡の地へ戻された。

 今回は珍しく黒板に板書しました。実はこれ、赤塚次郎さんからのアドバイスなのです。
 「この頃の講演会の聴衆は耳が肥えている。非常に熱心な方が多く、特に勉強したい方は大学の授業風に黒板に必要なことを核ととても喜ばれる。」これを実践しました。果たして効果は??

 


 Ⅰ 文献史料にみる古代王権と伊勢斎王
 (1) 天武朝の斎王~大来(伯)皇女~
1. 『日本書紀』天武二(673)年四月十四日条 「欲遣侍大来皇女于天照大神宮而令居初瀬斎宮是先潔身稍近神之所也。」
 これについては『扶桑略紀』も同年同月同日のこととして「以大来皇女献伊勢神宮始為斎宮。」と記し、大来(伯)皇女がまず初瀬斎宮に入って潔斎し、その上で伊勢神宮に天照大神を祭るために遣わされたことが知られる。後の野宮での潔斎に相当するのであろうか。これだけでは大来(伯)皇女がどの様にして伊勢神宮に遣えたのかは判らない。

(2) 文武朝の斎王~当耆皇女・田形内親王~
 次の持統天皇の時に斎王の派遣は認められない。文武天皇の時、当耆皇女が遣わされ、初めて「伊勢斎宮」の呼称が用いられた。 
2. 『続日本紀』文武二(698)年九月十日条 (以下いずれも『続日本紀』) 「丁夘。遣當耆皇女侍于伊勢齋宮。」
3. 慶雲三(706)年八月二九日条「庚子遣三品田形内親王。侍或伊勢大神宮。」
 文武朝には短期間に相次いで斎王が派遣されるがその理由は明らかではない。
4. 大宝元(701)年二月十六日条 「己未。遣泉内親王侍於伊勢齋宮。」
 しかし、次の太政官符にみるように、令外の官として設置された斎宮司が、この時点で斎宮寮に格上げされており、文武朝に斎宮の位置づけが上昇したことが判る。このことに対応するかの如く、斎宮跡史跡指定地内で初めて当該期の考古資料が確認され、伊勢斎宮がこの地に置かれた可能性が指摘できた。
5. 同年八月四日条 「甲辰。太政官處分。(中略)。又齋宮司准寮。屬官准長上焉。」
 にもかかわらず、次の元明朝には確実な斎王任命を確認することができない。

(3) 元正朝の斎王~久勢女王~
 元正朝に任命された久勢女王の時初めて百官が京城外にまで見送っている。翌年には「斎宮寮之印」が定められ、斎宮や斎王の体制の整えられていくことが確認できる。
6. 養老元(717)年四月六日条 「夏四月乙亥。庚午朔。遣久勢女王侍于伊勢太神宮。從官賜祿各有差。是日發入。百官送至京城外而還。以從五位下猪名眞人法麻呂。爲齋宮頭。」
7. 養老二(718)年八月一三日条「秋八月甲戌。壬戌朔。齋宮寮公文。始用印焉。」

Ⅱ 大来(伯)皇女・大津皇子姉弟の悲劇

 初代斎王大来(伯)皇女はどのようにして誕生したのか、その歴史的背景を探る。
 大伯皇女は母太田の皇女が百済出兵のために九州へ移動中の船の中で生まれたといわれる。太田皇女の父は天智天皇で同母の妹が鵜野讃良良皇女(後の持統天皇)である。姉妹共に大海人皇子に嫁ぎ、太田皇女は大伯皇女と大津皇子を生み、鵜野讃良良皇女は草壁皇子を生んだ。しかし大田皇女は大津に都が遷される天智六年(667)に死去し、姉弟は後ろ盾を失う。壬申の乱勝者の側にありながら、不幸な人生を歩んだ姉弟が背負った宿命であった。
  大田皇女の血統を排除する第一弾は斎王制度の創出にあった。未婚の皇族女性を天照大神に奉仕させるという皇祖神の奉祭のための新しい制度は、有力皇女の婚 姻の阻止という側面を有していた。第二弾は大津皇子呪詛事件のでっち上げによる皇子の殺害である。その首謀者は鵜野讃良良皇女であろう。こうした陰謀の臭 いを感じたのか姉弟は密かに伊勢の地で会ったという。

1 大伯皇女と大津皇子
 (1) 『萬葉集』の大伯皇女と大津皇子:大伯皇女(斉明天皇7(661)年1月8日- 大宝元(701)年12月27日)
  ① 巻第2 105~106番(大津皇子がひそかに伊勢神宮に下向してきた時に詠んだ歌)
  藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代大津皇子の、伊勢の神宮に竊ひ下りて上来ります時に、大伯皇女のよみませる御歌二首
  ・ わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
  (吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之)
  ・ 二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ
    (二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武)
  ② 同163~164番(大津皇子薨去後、退下・帰京途上で詠んだ歌)
  藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代大津皇子の薨しし後、大来皇女の伊勢の斎宮より上京りたまへる時、よみませる御歌二首
  ・ 神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
    (神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓)
  ・ 見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに
    (欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓)
  ④ 同165~166番(大津皇子を二上山に移葬したときの歌)
  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りまつれる時、大来皇女の哀傷みてよみませる御歌二首
  ・ うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む
    (宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
  ・ 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに
    (礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓)

Ⅲ 井上内親王親子孫の悲劇


(1) 聖武朝の斎王~井上内親王~
1. 養老五(721)年九月十一日条「九月乙夘。天皇御内安殿。遣使供幣帛於伊勢太神宮。以皇太子女井上王爲齋内親王。」
 久勢女王に次いで任命されるのが井上内親王である。皇太子の娘でありながら斎王となる、前後に例を見ない斎王である。
そのト定から潔斎、群行に至る経緯が『政事要略』巻二四に詳しく述べられており、後のモデルとなったらしい。それによると、
①天皇内安殿出御
②舎人任命
③中臣・忌部の伊勢大神宮奉幣
④渡会神宮へ奉幣
⑤斎王任命
⑥北池辺新造宮へ移動
⑦移動の儀を右大臣長屋王が先導
⑧参議以上、侍従、孫王が前に烈立
⑨内侍が女嬬数十人を率いてこれに従う
⑩乳母や少女子十人余が輿を連ねて従う
⑪中臣と忌部が輿の前に従う
⑫輿を担ぐ大舎人は左右に6人ずつで、青の褶を着ける
⑬王二人ずつを前・後輿の長とする
⑭さらに内舎人8人ずつを、前後に並ばせる
⑮さらに宮城門と宮門の間に左右の衛士を立たしめる
 ⑯さらに群行前には斎宮寮の体制も整えられ、官人121人が追補されている
2. 神亀四(727)年八月二十三日条「八月壬戌。庚子朔。補齋宮寮官人一百廿一人。」
3. 同年九月三日条「九月壬申。庚午朔。遣井上内親王。侍於伊勢大神宮焉。」

 

(2) 光仁朝の斎王~酒人内親王~
1. 宝亀元(770)年十一月六日条「(中略) 又以井上内親王定皇后〈止〉宣天皇御命衆聞食宣。」授從四位下諱四品。從五位下桑原王。鴨王。神王並從四位下。酒人内親王三品。」
2. 宝亀二(771)年十一月十八日条「遣鍛冶正從五位下氣太王造齋宮於伊勢國。」
3. 宝亀三年三月二日条「皇后井上内親王坐巫蠱廢。(第五十三詔略)」
4. 宝亀三年五月二十七日条「廢皇太子他戸王爲庶人。(第五十四詔略) 故是以天之日嗣止定比儲賜部流皇太子位仁謀反大逆人之子乎治賜部例婆卿等百官人等天下百姓能念良麻久毛恥志賀多自氣奈志。」
5. 宝亀三(772)年十一月十三日条「己丑(13日)以酒人内親王爲伊勢齋。權居春日齋宮。」
6. 宝亀四年正月二日条「山部親王立太子
7. 宝亀四年三月五日条藤原鷹取、紀古佐美を伊勢国の守・介に任命
8. 宝亀四(773)年十月十九日条「大和国宇智郡幽閉」
9. 宝亀五年八月三日条「遣使秡淨天下諸國。以齋内親王將向伊勢也。」
10. 宝亀五年九月三日条「伊勢群行」
11. 宝亀六(775)年四月二十七日条「井上内親王。他戸王並卒」
12. 宝亀九(778)年三月二十七日条「大祓。遣使奉幣於伊勢大神宮及天下諸神。以皇太子不平也。又於畿内諸界祭疫神。」
13. 天長六年(829)八月丁卯二十日条「二品酒人内親王薨。広仁天皇(光仁天皇)之皇女也。母贈吉野皇后也。容貌□麗、柔質窈窕。幼配斎宮、年長而還。俄叙三品、桓武納之掖庭、寵幸方盛、生皇子朝原内親王。為性□傲、情操不修、天皇不禁、任其所欲。婬行弥増、不能自制。弘仁年中、優其衰慕、特授二品。常於東大寺、行万灯之会、以為身後之資、緇徒普之。薨時年七十六。(朝日本「優其衰暮」)」

(3)桓武朝の斎王・朝原内親王と井上内親王の血統
1. 天応元(781)年十月戊戌十三日条「授正四位上藤原朝臣家依從三位。无位朝原首眞糸女外從五位下。」
朝原内親王の乳母か?
2. 延暦四(785)年八月廿四日条「天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王齋居平城。至是齋期既竟。將向伊勢神宮。故車駕親臨發入。」
朝原内親王の伊勢下向に際し、桓武が平城旧京へ見送りに出かけた。
3. 延暦十五(796)年七月九日条「幸南院。賜五位已上物有差。無品朝原内親王授三品。(下略)」
朝原内親王が伊勢斎王の職を終えて帰京したか。
4. 延暦十五年十二月十四日条「巡幸京中。便御三品朝原内親王第。賜五位以上物。」
5. 延暦十六(797)年二月十八日条「朝原内親王獻物。賜五位已上綿。」
6. 延暦十六年六月七日条「三品朝原内親王、献白雀。御監及家司等賜物有差。初見者伊勢直藤麻呂、獲者菅生朝臣魚麻呂、叙位一階。」
7. 延暦十七(798)年九月十九日条「越後国田地二百五十町、賜三品朝原内親王。」
8. 弘仁三(812)年五月十六日条「妃二品朝原内親王辞職。許之。」
9. 弘仁八(817)年四月六日条「賜二品朝原親王度六人。」
10. 弘仁八(817)年四月廿五日条「甲寅。二品朝原内親王薨。遣使監護喪事。親王者、皇統弥照天皇第二之女也。母曰酒人内親王。年卅九。」

(4) 布施内親王と伊勢国
1. 延暦十六(797)年四月十八日条「以布勢内親王、為伊勢大神宮斎。」
斎王布勢内親王卜上
2. 延暦一六年八月二十一日「野宮」
3. 延暦一八(799)年八月二五日条「伊勢神宮封幣使派遣」
4. 延暦一八年九月三日条「伊勢群行。」
5. 延暦二五(806)年三月一七日条「桓武天皇崩御」
6. 大同三(808)年十月七日条「遊獵北野。布勢内親王奉献。飮宴極日。有司奏樂。賜五位以上衣被。」
7. 弘仁三(812)年八月辛卯六日条「无品布勢内親王薨。詔贈四品。遣從五位下弟村王。從五位下文室眞人末嗣等。監護喪事。親王者。皇統彌照天皇第五女也。母丸朝臣氏。親王資性婉順。貞操殊勵。」延暦十六年爲伊勢齋。
8. 弘仁三(812)年十一月二七日条「贈四品布勢内親王墾田七百七十二町施入東西二寺。」
嵯峨天皇による布勢内親王の遺領七七二町の東西二寺への施入。
9. 弘仁四(823)年九月卅日条「故布勢内親王家直銭一万貫、充修理諸寺料。親王遺命也。
10. 天長三(826)年七月二十六日条「摂津国垂水庄公田一町八段。賜斎院司。

おわりに

1. 斎王制度に隠されたもう一つの目的
2. 政争に翻弄された斎王達
3. 伊勢斎王から賀茂斎王へ


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「長岡京歴史散歩」出発の条

2015-05-25 14:31:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 いよいよ長岡京歴史散歩の歴史的な第一歩(大袈裟な!!(笑))が歩を進めることになりました。

 以前にはお知らせしましたが、ここのところブログの更新を怠っていたのですっかりこの広報を忘れておりました。

 記念すべき第1回は長岡宮の中心部を歩きます。

「長岡京歴史散歩」


 第1回 大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る

 第1回は長岡宮城の中枢部を歩きます。何度も行かれた方がおありかも知れませんが、近年の向日市による整備はとてもよく、きめ細かく進められており、少し行かないうちに景色が一変しております。また発掘調査の進展によって、宮城の中枢施設の配置にも諸説が出されています。にもかかわらず、中山修一先生が提示された基本構造が無理なく理解できるものであることも実証されつつあります。そんな中枢部をゆっくり歩いてみようと思っております。

 2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合

〈主な予定コース〉

 西向日駅 → 朝堂院南門・門闕跡→西第四堂→西第三堂→嶋院(向陽小学校)→長岡宮西大垣(向日神社境内一帯)→ 向日神社 → 元稲荷古墳 → 朝堂院北西官衙 → 西宮(前期内裏) → 大極殿・朝堂院 → 西向日駅解散

 こんなチラシを作りました。お金がありませんのでパソコンで打って自宅のプリンターで印刷した簡単なものです。

 幟旗も作りました。私の教え子がデザインしてくれました。モデルは四日市でやって来た「壬申の乱ウオーク」です。果たして気に入っていただけますかね。

長岡京歴史散歩幟一応長岡京をイメージしています。




 1 開催の趣旨
  近年、長岡京跡の発掘調査はめざましく、日々新しい成果が生み出され、1200年前の都の姿が手に取るように明らかになって来ています。しかし残念なことに発掘調査終了後は埋め戻され、住宅や工場、公共施設に変わってしまい現地を確認することが困難になっています。そこで、資料を手に取りながら、現地を巡り、往時の姿に思いをはせていただこうと考えています。また、時には長岡京や創始者である桓武天皇及びその関係者の縁の地にも足を運びます。春と秋の季候のいいときに長岡京跡を歩きながら往時を偲んでみませんか。

 2 開催要項
・ 解説 山中 章(三重大学名誉教授)もしお手伝いしてやろうという方がおられましたら是非お願いいたします。
・ 年4回 5月・9月・11月・3月の第4土曜日13時~17時実施予定。
  もちろん、機会があれば発掘中の現場なども見学したく思っておりますが、しばらくは調査済みの所を回ってみます。
・ 申し込み不要 参加費 無料
・ 連絡先 山中 章携帯電話 09091173424
・ メール yaa1948@gmail.com
・ 山中章のブログ「yaaさんの宮都研究」に1ヶ月前に詳細を掲載

3 2015年度開催予定 
• 第1回:大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る
2015年5月30日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅西口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院南門→西第四堂→西第三堂→嶋院→長岡宮西大垣→向日神社→元稲荷古墳→朝堂院北西官衙→西宮(前期内裏)→大極殿・朝堂院→西向日駅
• 第2回 西市から長岡京の画期に触れる
2015年9月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西山天王山駅集合
〈主な予定コース〉  
• 第3回 桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王
2015年11月28日(土)12時45分京阪電車 交野線宮之阪駅集合16時解散
〈主な予定コース〉 百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡
• 第4回 東宮(後期内裏)周辺を歩いて長岡京の変化を感じる
2016年3月26日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅東口集合
〈主な予定コース〉 朝堂院東第四堂→築地跡→東宮(後期内裏)→春宮→宮城東大垣→南院→西向日駅

4 その他
 ・ ボランテアのお願い

もちろん第1回が無理でもこれから定期的に開催しますので一度は参加してみて下さい。10年しかない不思議な都ですが、その実態が手に取るように伝わってきます。

 長岡京歴史散歩、おもしろそうだな、是非参加してみようと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

こんにちは「あきら君人形」と申します。これから皆さんをご案内しますので宜しくお願いします。
 (これもある授業で学生が作ってくれました。可愛がってやって下さい。)

第34回壬申の乱ウオーク~和珥部臣君手のふるさと池田町を訪ねて~の条

2015-05-22 16:44:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 長らくのご無沙汰です。度々長期休暇を頂き申し訳ありません。

 一旦最新の注射が効き、痛みも消えて、これで快方に向かうのかな、と思ったその後、再び痛みが再発し、検査をするとCRP(C-リアクティブ・プロテイン)がせっかく0,5にまで下がっていたのが再び2,0まで上昇していたのです。

 暫く様子を見ましたが改善の兆候が見られないので、注射をエンブレルからオレンシアに変えることにしました。
変えてから1ヶ月が経つのですが、なかなか痛みからは解放されません。お医者さん曰く、

「あんたのは頑固やなー」です。

いろいろ試さないと仕方ないな。しばらくはオレンシアをやって、様子を見ましょうということになりました。ただ、この頃困ることは痛みの根本が治らないもので、仕方なく痛み止めを胃薬と共に飲むのですが、その副作用で、胃が痛くなることです。これだけ痛いのは久しぶりです。なかなか一筋縄ではいかない病のようです。

 さて、前置きはこのくらいにして、壬申の乱ウオークです。

 今回は岐阜県揖斐郡池田町と大野町の古墳群を回りました。

 壬申の乱ウオークは第32・33・34と連続して壬申の乱を大海人皇子方の勝利に導く大きな役割をした三人の地方豪族、村國男依、身毛君廣、和珥部臣君手の故郷を訪ねてきました。それぞれ木曽川、長良川、揖斐川の中流域を掌握した地方の小豪族ですが、それぞれの出身地には特長有る遺跡が遺されているのです。揖斐川流域に遺された和珥部臣一族の墓域と推定されるのが願成寺西墳之越古墳群です。
 111基からなる群集墳で、1基を除き6世紀後半から7世紀前半に築造された古墳群だとされます。







 この地域は9世紀前半承和四(847)年までは南の安八郡に含まれていたことが知られています。壬申の乱が始まる二日前の6月22日、大海人皇子は三人に対し密命を発し、安八磨郡にあった湯沐邑の「令-うながし-」多臣品治に対し郡の兵を発して「不破道」を塞ぐよう連絡させます。

 『日本書紀』天武元年条
 天武天皇元年(六七二)六月壬午《22日》詔村國連男依。和珥部臣君手。身毛君廣曰。今聞。近江朝庭之臣等。爲朕謀害。是以汝等三人急往美濃國。告安八磨郡湯沐令多臣品治。宣示機要。而先發當郡兵。仍經國司等差發諸軍。急塞不破道。朕今發路。

 その一人が和珥部臣君手です。和珥部臣一族が根拠地としていたことを傍証する資料に揖斐川右岸中流域の郷名があります。
 北から、小島郷、伊福郷、春日郷、壬生郷、池田郷、額田郷です。額田部や春日部は和珥氏の一族であり、壬生郷は壬生部、伊福郷は伊福部との関係が推定でき、皇族との深い関係を持つ地方中小豪族の存在が考えられます。壬申の乱に際し三人が向かった先が安八磨郡の湯沐邑にいた多臣品治であることは先にみたとおりですが、当時安八磨評には後の池田郡域が含まれていました。和珥氏と皇族の配下にあった在地豪族の営んだ墓域こそ願成寺西墳之越古墳群であったと考えてはどうかというのが今の有力な説なのです。

 お昼ご飯を西国33番札所の谷汲山華厳寺の門前で済ませ、次に向かったのが揖斐川の左岸に展開する前期から中期の前方後円墳群で構成される国史跡野古墳群でした。

不動塚古墳を南から



不動塚古墳での説明



登越古墳を後円部後方から望む




 野古墳群は願成寺西墳之越古墳群より150年余り古い時期に築造が開始された古墳群で、古墳時代中期に揖斐川左岸上流域一帯を支配した豪族の墓域と考えられています。登越古墳が最も大きく、全長83,3mを測り、他に、モタレ古墳、不動塚古墳、南屋敷西古墳、南出口古墳、乾屋敷古墳などの前方後円墳が密集して築造された美濃地域でも例のない古墳群です。特に南口古墳からは中国からもたらされた鍍金七乳線彫式獣帯鏡が出土しており、ヤマト王権との深い関係が推定できます。

 こうした前期・中期からのヤマト王権との深い関係が基礎となって願成寺西墳之越古墳群の形成が促されたのかも知れません。

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チュニジア惨劇の条

2015-03-20 00:36:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 チュニジアから飛び込んできたニュースは、197年、エジプトで起こされた多数の日本人観光客襲撃事件8ルクソール事件)と重なる何ともやるせない、悲しいニュースだった。
 この間、イスラム過激派と呼ばれる非人間的集団は、自らの思想と異なる者を全面否定し、文化(財)を破壊し、異教徒を次々と殺害してきた。その蛮行が、今度はチュニジアで実行され、多くの命が奪われた。そしてまたしてもバルドー博物館というチュニス一の博物館で。

 実は2年前の今頃、3月末に7日余りチュニジアのカルタゴ、ローマの遺跡を見て回ったことがある。丁度ブログが停滞していた時期で、帰ってから暫くして、ほんの少しだけブログに書いたことがある
(http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/e/92b3edbb3c43af505b6ef828c56f19a5)
写真数枚とほんの数行の文章だからご存じない方も多いと思う。
 この時も直前にアルジェリアで石油プラントが襲撃されて、余り南へは行くなと言う外務省からの指示があって、残念ながらチュニジアの半分くらいしか回れなかったのだが、それでも想像もしなかった豊かな文化に驚嘆し、感動した1週間だったことを鮮明に覚えている。
 今回の襲撃の舞台となったバルドー博物館へは行けなかったが、同じようにたくさんのモザイクを所蔵しているカルタゴ博物館はじっくり見学した。これを機会に(こんなことをきっかけにしたくはないのだが)この後暫くチュニジア・カルタゴレポートでも書くことにしようかと思う。

 手始めにチュニスで見学したカルタゴ、ローマの遺跡を少し紹介しておこう。この前後のスライドは昨年末に大阪府立高等学校で行った授業「ローマ人の風呂文化と水道 ~テルマエロマエを考古学する~」の一部を紹介したことがある。
http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/e/134db84678da67300bea75fce93e2461

今回は前回省いたチュニスの一部を紹介しておこう。

チュニジアの歴史的空間


ローマ人によって徹底的に破壊されたカルタゴの遺跡。これもまた異文化による文化破壊の事例かも知れない。


ローマ人が設置したザクーアンの水源地とそこから延びる水道。


水道は延々20キロ余りにわたって延び、チュニスへと運ばれた。


ザクーアンの施設


水道橋とその内部。


人を救済するために人間が作りだした宗教。それが今や異教徒を倒す強力な武器と化している恐怖。それぞれの宗義によって静かに救済を進めることがどうして許されないのだろうかと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ



長岡京遷都1230年記念長岡京市特別歴史講演会で講演の条

2015-03-13 12:16:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 間もなく定年(常勤職)後の一年が過ぎようとしている。意外な病や信じられない友人知人の死に明け暮れた一年だった。そんな一年を振り払うような気持ちも込めて2月28・3月1日に開かれた古代城柵官衙遺跡検討会に参加した。その中の興味深い報告についてはいずれこの場に紹介しようと思うが、その前に一つ。

 3月1日の検討会は午前中で失礼して午後、今泉さんのお墓にお参りした。あいにくの雨で、ずぶ濡れになったが、雨男の本領!といったところか、それなりに趣のあるお墓参りになったように思う。もうあれから一年と二ヶ月。あっと言う間に過ぎたように思うしそうでないようにも感じる。でも、お墓で落ち合ったお孫さんの桜ちゃんをみて、「アーもうこんな時間が経ったのだ」と実感した。




 可愛いレインコートを身につけて、よちよち歩く桜ちゃんは間もなく二歳だ。まだ八ヶ月で抱っこされていたのが歩き、片言のお話しをするのだから、それだけの時間が経ったということだろう。お墓参りが済んで、ご自宅で少し歓談を、ということでお邪魔することにした。私のためにわざわざ次女の千尋さんまでおいで下さったのだから、ご迷惑を承知でお邪魔することにした。

 今泉さんは生前、可愛い娘さんのことがそれはそれは心配だったのだろう、お会いする度にいろいろな「武勇伝」を聞かせていただいていただけに、話のネタは尽きなかった。後に頂いたお手紙で、こうした今泉さんとの会話の一コマ一コマが、お父さんの面影を偲ぶいい機会になったと言って下さった。私の訪問が皆さんを元気づける機会になったのなら、それはそれは嬉しいことだ。思いがけず、長女の風美さんの作って下さった芋煮まで
ごちそうになって楽しい一時を過ごすことができた。特にいもには、之まで東北の方にお会いする度に話題になってきた食べ物である。どんな味なのかとても興味があったが、なるほど!!これは美味い!!と手を打ってしまった。もちろん風美さんの料理の腕がいいからだろうが、やみつきになりそうな味だった。こんな鍋を屋蓋で囲みながら一杯やったらいいだろうな!そんな思いを強くする一日だった。

 さて、一時の安らぎを得て京都へ帰ると恐怖?のレジュメ作り論文まとめが待っていた。

 9日には身内でやっている延喜式研究会での発表、15日は表記の講演会のレジュメである。

 「恐怖」というのは大袈裟なのだが、ここのところ様々な発表がどうも思い通りに行かない。東北へ行く前には二週連続で、講演会をやったのだが、正直言って一勝一敗だった。それも専門である長岡京の講演が今ひとつだったのにショックを受けていたのだ。準備は十分すぎるくらいしたし、事前に話し方のチェックもした。ところが会場に着くのが予定通りに行かず、バタバタと始まって動揺したらしい。ノートまで作っていった内容が最初から吹っ飛んでしまったのだ。どうもこのところ、記憶力の衰えか、臨機応変さの欠如かいずれかが原因と思えるのだが、予定通りに進まないと焦ってしまうようだ。以前なら暫く立てば修正可能だったのが、そう行かないのである。

 そんなことがあったので15日の講演は入念に準備をしているのだが、果たして言葉がうまく回るかどうか。ま、老化が進むと準備万端きちんと整えていかなければならないということのようだ。そんなわけで次の様な話しをすることになっている。

 長岡京に暮らした人々の姿を考古資料から復原しようというものである。長岡京市が会場なので、長岡京市域に存在した東西市を中心に話を進めようと思う。そのレジュメは新しい試みとして、全てパワーポイントの一枚一枚を原稿化したものとした。スライド写真一枚一枚に丁寧な説明を入れて、各写真で話を完結させて進むやり方だ。初めてなので、うまくいくかどうか、余り期待しないで報告をお待ち下さい。


講演テーマ



主旨


総論

基本図面


市への誘い




長岡京東西市


石工佐伯息人の人生→こんな話しもします


最新の調査成果も・・・
 なお、講演の最後に会場に次の様な新たな活動を宣言する。

 以前から温めていたことだが、どうも待っていても誰も協力してくれそうもないので、自ら先頭に立って始めようと思う。名付けて

 「長岡京歴史散歩」

 これまで久留倍遺跡を考える会の方々とやって来た「壬申の乱ウオーク」の経験を活かして主に長岡京に関係する遺跡などを回ろうという計画だ。今のところ私一人で考えたことなので、果たしてうまくいくかどうか全く判らないが、行動しなければ何も動かないので、やってみることにした。本当は20回分くらいの予定はもうできているのだが、身体が持つかどうかも判らないので、とりあえず一年間分を計画した。もちろんこの4回分については責任を持って開催する予定だ。壬申の乱ウオークの目標は50回で、既に33回実施して、残り17回だから、おそらく、突然死でもしない限り達成できそうだ(もう第34回も日程が決まり、間もなく公表できそうだから残り16回だ。) 。

「長岡京歴史散歩」へのお誘い

 年4回 5月・9月・11月・3月の第4土曜日13時~17時

第1回:大極殿周辺を歩いて長岡京の魅力を探る
  2015年5月30日(土) 12時45分 阪急西向日町西口集合
 〈主な予定コース〉 朝堂院南門→西第四堂→西第三堂→嶋院→長岡宮西大垣→向日神社→元稲荷古墳→朝堂院北西官衙→西宮(前期内裏)→大極殿・朝堂院→西向日駅

第2回 西市から長岡京の画期に触れる
  2015年9月26日(土) 12時45分 阪急西山天王山駅集合
  主な予定コース  

第3回 桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王
  2015年11月28日(土)12時45分京阪電車交野線宮之阪駅集合16時解散
  〈主な予定コース〉 百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡

第4回 東宮(後期内裏)周辺を歩いて長岡京の変化を感じる
  2016年3月26日(土) 12時45分 阪急西向日駅東口集合
  〈主な予定コース〉 朝堂院東第四堂→築地跡→東宮(後期内裏)→春宮→宮城東大垣→南院→西向日駅

※ 申し込み不要 参加費(資料印刷代) 100円
※ 連絡先 山中 章携帯電話 09091173424
※ メール yaa1948@gmail.com
※ 山中章のブログ「yaaさんの宮都研究」に1ヶ月前に詳細を掲載


 長岡京なんてもう何回も歩いたワイヤ!という人は別にして、興味のある方はどうぞご参加下さい。さすがに資料を印刷するところがないので、資料の印刷代だけ100円ほど頂きますが後は何の制約もありません。「長岡京歴史散歩」おもしろそうだなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

第41回古代城柵官衙遺跡検討会参加の条

2015-02-28 08:15:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今日はこれから多賀城にある東北歴史博物館で開催される古代城柵官衙遺跡検討会に参加のため移動中です。
 毎年楽しみにしている研究会ですが、今回は余り気乗りがしません。一昨年末に今泉高尾さんが亡くなられ、研究会の中身だけではなく、いつも楽しみにしていたその前後の今泉さんとの「旅」遺跡巡りができないからです。



今日の伊吹山

 今年で41回だそうですが、おそらくその半分くらいは参加していると思います。そのたびに多賀城で開催されるときはその周辺を、以外の地域での開催の時はどこかで落ち合って周辺の古代遺跡をいつもご案内いただいていました。だからそのお蔭で私は東北の古代遺跡のほとんどを回ることができました。そして最高の解説者と共に。

 でも今回からはこれが適いません。だからもう行かないでおこう、と思っていたのです。しかし、昨年開催された「今泉隆雄さんを偲ぶ会」に出席して、少し簡単なスピーチをやらせていただいて、
 「死ぬまで研究しないといけないよ。それが研究者でしょう!」という今泉さんお声がきこえてき、思い直しました。

 すぐに切符を手配し、大会参加の申し込みをし、今泉さんの奥様にも連絡を入れて、ご自宅へお参りに参りたい旨お伝えした。

 「そうだ、研究会への惨禍に会わせて毎回お墓参りに行こう!!」

こんなプランも思いつき、実行することにしたのである。早朝に京都を出た新幹線は今名古屋駅を出た。後5時間ほどで仙台だ。

 そうそう、実はもう一つ楽しみがある。今泉さんのお孫さん、桜ちゃんに会うことだ。4月で二歳になられるらしい。とっても元気な素敵なお孫さんだ。今泉さんが生きておられたらきっと溺愛されたに違いない可愛いお孫さん。彼女に会うことをもう一つの楽しみに加えることになった。

もっと早くに載せるべきだったのだけれど、今回のプログラムはこんな感じなのです。12年ほど前、今泉さんに案内されて伺った三十三間堂遺跡もテーマの一つらしい。楽しみである。

宮城県多賀城跡調査研究所からのお知らせを掲載しています。
第41回古代城柵官衙遺跡検討会の開催について

 第41回古代城柵官衙遺跡検討会(事務局:多賀城跡調査研究所内)を下記の日程・要項により東北歴史博物館にて開催します。今回の特集報告は『多賀城と陸奥国南部海道の諸郡』で、会の最後に平川南氏(人間文化研究機構理事)による特別講演「古代東北『海道』をゆく」を予定しています。
 多くの方々のご参加をお待ちいたしております。なお、参加には申し込み(所定の参加申込用紙による)が必要で、資料代として2,000円がかかります。

期 日:平成27年2月28日(土)・3月1日(日)

会 場:宮城県多賀城市 東北歴史博物館講堂(多賀城市高崎一丁目22-1 TEL:022-368-0101)

主 催:古代城柵官衙遺跡検討会

共 催:東北歴史博物館・多賀城市教育委員会・宮城県考古学会

日 程:
第1日目 2月28日(土)
13:00~ 開場・ 受付開始
14:00~14:10 開会行事(代表世話人挨拶)
平成26年度調査成果報告
14:10~14:35 秋田城跡第104・105次調査(秋田市秋田城跡調査事務所)
14:35~15:00 東山官衙遺跡(加美町教育委員会)
15:00~15:15 〈休 憩〉
15:15~15:40 多賀城跡第87次調査(宮城県多賀城跡調査研究所)
15:40~16:05 西木流D遺跡ほか(福島県文化振興財団)
16:05~16:20 〈質疑応答〉

18:00~20:00  情報交換会 (会場:ホテル法華クラブ仙台)

第2日目 3月1日(日)
9:00~ 開場・受付開始
特集報告 『多賀城と陸奥国南部海道の諸郡』
9:30~9:35 趣旨説明
9:35~10:15 報告1「熊の作遺跡と亘理郡南部の遺跡群(仮)」(宮城県教育委員会)
10:15~10:30 コメント「熊の作遺跡出土の木簡と墨書土器」(宮城県教育委員会)
10:30~10:40 〈休 憩〉
10:40~11:20 報告2「三十三間堂官衙遺跡とその周辺(仮)」(亘理町教育委員会)
11:20~12:00 報告3「泉官衙遺跡と製鉄遺跡群(仮)」(南相馬市教育委員会)
12:00~13:00 〈 昼 食〉
13:00~13:40 報告4「多賀城と陸奥国南部の諸郡」(宮城県多賀城跡調査研究所)
13:40~13:55 〈質疑応答〉
特別講演
14:00~15:00 「古代東北『海道』をゆく」 平川 南 氏(人間文化研究機構理事)

15:00~ 閉会行事(代表世話人挨拶)

平成26年度調査成果資料報告
1.徳丹城跡(矢巾町教育委員会)
2.払田柵跡(秋田県払田柵跡調査事務所)
3.井岡遺跡(由理柵・駅家研究会)
4.源光遺跡(栗原市教育委員会)
5.日向館跡(涌谷町教育委員会)
6.矢本横穴墓群(東松島市教育委員会)
7.山王遺跡(宮城県教育委員会)
8.山王遺跡(多賀城市埋蔵文化財センター)
9.鍛冶屋敷A遺跡(仙台市教育委員会)
10.清水遺跡(山形県埋蔵文化財センター)

参加費用・申し込み方法等
 所定の申し込み用紙に必要事項をご記入の上、下記事務局あてに郵送もしくはFAXでお申し込みください。参加諸費用は当日会場受付にて頂戴いたします。
→第41回古代城柵官衙遺跡検討会参加申込用紙(PDFファイル:66KB)

申し込み先
 〒985-0862 多賀城市高崎1-22-1
 宮城県多賀城跡調査研究所 古代城柵官衙遺跡検討会事務局(担当:吉野)
 FAX:022-368-0104 TEL:022-368-0102

申し込み締め切り
 平成27年2月6日(金)
 ※ただし、会場の定員280名になり次第、締め切りとさせていただきます。

費用
 参加費(資料代) 2,000円
 情報交換会 会費 6,000円
 2日目昼食代(お弁当) 1,000円

注意事項
※会場までは、仙台駅からJR東北本線で国府多賀城駅(運賃240円)が便利です。
※情報交換会場の「ホテル法華クラブ仙台」は仙台駅西口から徒歩15分です。Googleマップで情報交換会会場を確認→
※検討会会場は席に限りがありますので、手荷物は少なめにお願いします。博物館の手荷物ロッカーは少ないので予めご了承ください。
※3月1日(日)の昼食は博物館内外のレストラン・コンビニ・スーパーもご利用になれます。事務局で用意する弁当(1,000円)を希望される方は別紙申込書にて予めご予約ください。
※図書交換会参加希望者は、参加申込書記載欄に必要事項を記入し事務局へお申込みください。
※宿泊施設につきましては、事務局では斡旋いたしませんので各自でご予約ください。早めのご予約をお勧めいたします。

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今年の進学状況の条

2015-02-18 00:45:50 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先に三重大学考古学研究室の今年の就職状況についてご紹介したが、昨日、進学状況が確定した。
 進学については近年は複数の大学院を複数回受験することができ、その合格発表も配慮されているので、進学の幅が結構広く空いているのが現実である。そんな中で卒業生の内二人が進学を希望し、一人が、歴史時代、一人が古墳時代を専攻としていたので、それぞれ専門の研究者がおられるところを複数受験した。

 その結果古墳時代の人物埴輪を研究テーマにした学生が京都大学へ、奈良時代の瓦塔について研究した学生が三重大学の大学院に進学することが決まった。

 一人の卒論が「伊勢の瓦塔」、もう一人が「女子埴輪の所作-所作の造形とその意味について-」というものだった。
 毎年卒論は四年生の初めから近世史、中世史、考古学の三分野合同で演習形式で発表-批評-討論の形で、前期に一人二回、後期に一人二回の合計4回の発表機会を与えて完成に近づけていくスタイルを採ってきた。私はもちろん今年度は関係ないのだが、3年生の演習で卒論の基になる演習を担当してきたので、それなりの責任がある。学生達も一年間、私が非常勤で出校する日に相談に来ることがあったので、卒論の出来具合にはそれなりの関心を持っていた。

 毎年のことだが、資料を収集し、事実関係を分析、分類するところまではよくできるのだが、それらを、論文としてまとめる段になると失敗する。抽象化ができないのである。おそらく、演習の段階で先生方も口が酸っぱくなるくらいそのことを指摘されるのだが、資料集めに汲々して結局結論がうまくまとまらないのだ。

 ま、この二人の卒論も、結論的にはその域を脱することはなく、聞くところによると院入試の諮問段階でたくさん突っ込まれたと聞く。にもかかわらず入れたのは、現在の院事情も大いになることだろう。かつてなら、他大学から京大や東大の大学院に入ることは至難の業だった。しかし、近年では旧帝大の文系の学部生がなかなか大学院に進学したがらないのだ。大学院に進学すると修了後の就職が難しくなる、というのが理由らしい。ところが文科省は定員の確保を命じ、確保できない場合はペナルテイーを与えるという脅しにかかる。そうなると質より量となる場合が出てくるのである。もちろん個々の事情があるので、一概にそんなことは言えないのだが、一般論としてそのようなことがささやかれている。

 三重大の二人がどうか、私はそれなりに期待の持てる学生だと思っている。

 伊勢の瓦塔の分析では、岡山古窯という四日市市にあった窯から出土して30年近く資料整理も十分になされていなかった資料を倉庫から引っ張り出し、瓦塔の断片と思われるものを全て集めて分類し、初めて「放射状屋蓋」というタイプを見つけ出し、その分布について検討した斬新なものであった。もちろん、なぜ岡山古窯にあり、東海地方では珍しいのか、なぜ九州に類例があるのかなどについてはまだまだ分析が十分ではないが、卒論で新しい事実を指摘できればそれなりの評価は与えられる。まさに大学院に入ってからの伸びしろがあれば画期的な論文ができる可能性があるのだ。きっとこの点が評価されたのだろう。

 女子埴輪の所作については2012年の7月に学生達と一緒に「常光坊谷4号墳の埴輪」の調査」について簡単な文章を書いたことがある。( http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/m/201207 )
 今思えばあれが研究の始まりだった。真夏の松阪市埋蔵文化財センター収蔵庫で汗みどろになりながら、常光坊谷4号墳から出土した人物埴輪を3人の学生と共に詳細に観察したあの日のことが鮮明に蘇ってくる。その時から、学生の観察力と「根性」には感心していたのだが、それが卒論にまで結実し、埴輪研究のメッカ、京都大学でその研究を継続することができるようになったのだ。指導教員として、これほどの喜びはない。

 
http://www.city.matsusaka.mie.jp/www/contents/1324874993513/index.html より
 もちろん、微妙な埴輪の手先の造形の違いによって、分類される所作の集合体である古墳上の人物埴輪達が何を表現するものなのかという肝心な課題の解決はこれからなのだが、少なくともこれまで漠然と「捧げる」、とか、「祈る」とか「解釈」してきた埴輪の所作が、彼女の詳細な観察と分類により、もっと具体的に解明できる素地は確立できたと思う。
 大学院に進めばたくさんの時間があり、京都大学の資料はもちろん、全国の埴輪を見る機会が無限大に増えるのだから、是非本物のプロを目指してこれからしっかり勉強してもらいたいと思った一日でもある。
 
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初めての銀座の条

2015-02-11 20:09:57 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


 昨日(11日)は朝から某会議のために東京に行きました。

 別に東京なんて何回行ったか数え切れないくらい行っているのですが、昨日は初めて経験した貴重な日でした。

 つまり銀ブラです。

 私は東京という都市が大嫌いなんです。私の先輩広瀬和雄さんは大好きなのです。同じ京都に生まれ、育ち、同じ高校に行ったのにです。もっとも大学が彼は京都で私が広島ですから、この辺りから感覚がずれてきたのかな?さらに就職先が向日市と大阪府ではね!!!(笑)

 東京がきらいな理由。
 第一に人が多すぎること。
 第二に東京弁をしゃべる人間ばかりいること。
 第三に人間が規則を守りすぎること。以前22時過ぎの東京の駅を降りて改札口を出ると、長蛇の列。{なんじゃこれ??」階段の上から下まで先を辿るとそこはタクシー乗り場。「ギョ!!」アー怖かった。こんな方々は右向け右でしょうね。
 第四にせかせかしていること。
 第五に坂が多すぎること。
 第六に道が方向も規模もバラバラなこと。
 第七に交通機関があり過ぎてどれに乗ったらいいのかわかりにくいこと。
等々、数え切れないくらい一杯あるのです。その大嫌いな東京のど真ん中はもっと嫌いです。一番が丸の内・霞ヶ関、二番が赤坂・銀座、ところがその銀座に行ったのです。

 初めて有楽町駅に降りました。



 「銀恋」に出てくるあそこです。

 さて、東京駅に着きました。会議の場所が「銀座」というので当然東京駅から普通に行けるものと思い込んでいました。ところが新幹線の駅を降りて案内表示を見るにどこにも銀座という文字がありません。{????}
 おかしいな?仕方なく改札にいたJRのおねえさんに

 「地下鉄銀座線はどこですか?」と聞きました。素っ気なく
、「地下鉄銀座線はありません。」というのです。
  「どこに行くのですか?」
 「銀座一丁目です。」
 「それなら○○で□□で降りて下さい」と早口で路線名と駅名を言われる。何とか駅名が「有楽町」らしいことは判ったのだが、路線名が聞き取れない。でもま、案内標識に有楽町はこっちくらい書いてあるのだろうと思い直し、再び進むがどこにもない!!「エッツ??」さっきのおねえさんにきくのははずかしいからやむなくはなれたところにいたお兄さんに聞くと
 「山手線五番ホームです。」と少々早口だが、何とか聞き取って五番線へ向かう。

歩きながらブツブツ。「杖突いた老人が、新幹線を降りた改札口で尋ねているんだから、〈お上りさん〉くらい判るやろ。もうちょっとゆっくりとわかりやすく説明できひんのかいな!!そら、ようけ降りてきゃはるから一々丁寧にやってたら仕事がはかどらんというのは判る。そやけど、もうちょっと丁寧に説明できるやろ!」と思った次第です。

 何とかおにいちゃんの説明通り有楽町の駅を降りました。これがまたとんでもないところ。そこでまた、駅員さんに「松屋はどこですか?」と聞く。
 「ア、ココマッスグイッタラアリマスヨ」
 「ハア!?」

 で、真っ直ぐらしい道に出るとその道といわれたところには真ん中にどかんと大きなビルがある。その両側に道がある。「???」どっちや?」もう聞きに行けないので左側の道を進む。すると何とこの道の両側にはあるわあるわバーバリ、プランタン、zoe、ブルガリ(最初これ読めんかった(笑))そしてルイビトンが目標の松屋の角にあった。





お上りさんに思われるのが悔しいからそっと写真を撮ったら逆光でこんな写真しか撮れなかった。クッソー(笑)

 「ふー」その上この松屋の前の道は歩行者天国、あいにく昨日は祝日(私はこの日は祝日なんて思わないから以前から仕事をしている)で大変な人だかり。最終目的地がルノアールという喫茶店なので、先ずそこを探さないと。これがまた判らない。



ルノアールという喫茶店は東京中にあるらしく、私は東大の赤門前のルノアールはよく行ったことがあるが、銀座は初めて。何とか聞き出して判ったのだが、約束の時間には早過ぎる。仕方ないから昼飯でも食うかと周りの店を覗くといるわいるわどこの店も超満員!!それどころか東京名物・待っている人が長蛇の列!!(これがいやだから東京に行っても店に入らない。第八番目の理由)スタバまですごい人。ちなみにスタバは松屋の裏通りの左右に2軒もある。確か、津にはないと思うのだが、どっか郊外にあるのかも。とにかく津駅前にはうすいコーヒーで有名??(要するに私の嫌いなコーヒーしか出さない)ドトールしかない。

 そろそろ脚が痛くなってきたのでどこかに座りたいのだが・・・店がない!!いや、店は一杯あるのだが、入れない。どうしよう?仕方ない、待合の店に入って先にコーヒーでも飲んでいよう。と入ると同じ会議の方が順番待ちの席に座っておられる。座っていいというので、やっと座れた。

 (アー、とにかくしんどかった。二度と銀座なんて行くもんか!!)と心に秘めて京都に帰ったのでありました。ホント、疲れた!!益々東京が嫌いになった一日でした。

 僕も、私も、東京が嫌いという方はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ
 ちなみに、嫌いな理由をもう一つ思い出した。店が混んでいて、仮に待たずに座れても、ほとんどの店が「相席」。場所によっては知らない店で知らない客と尻付き合わせて食事をする。こんなのブロイラーと同じ。これも大嫌いな理由の一つ。