ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第五回 日野宿から駒木野宿へ

2016年08月28日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年8月28日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第五回目は、日野宿(JR日野駅)から駒木野宿(JR高尾駅)までの約12Kmを歩いた。

山の手線上野駅で、小田原行を待っているところ。


東京駅中央線ホームへは長いエスカレータだ。


8時39分発の高尾行中央特快に乗車。
立川から先へ行くには、中央特快が断然早い。


『いつもの快速を使うより15分も早く着くんだって』


9時26分、日野駅に到着


この日の八王子市の予報は、午前中は曇りということだったが、駅に着いた直後小雨が降り出した。
大した雨ではないので我慢出来なくはないが、全員一応雨具を着用し、9時37分、出発!


日野駅を出発して直ぐ、八王子方面へ向かう甲州街道の坂の途中に宝泉禅寺があった。


宝泉禅寺は、臨済宗建長寺派の寺で、開祖は鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚、
元徳年間(1330年頃)の創建と云われる。


本堂は、平成13年5月に新築落慶し、境内も整備し直されている。
この日の旅の無事安全を祈願した。


宝泉禅寺を後にして八王子方面へ向かおうとしたところ、
なんと中央線を横断する踏切は閉じられた状態に・・・
通りがかりの婦人に道を訊ねると、少し先に線路を跨ぐ橋があるとのこと。


線路に沿って中央高速道の下を潜り、しばらく行くと、


婦人に案内された中央線を横断する橋(神明橋)が見えてきた。


階段を上って神明橋へ。


神明橋から中央高速道、日野駅方面を望む。


神明橋を渡って大坂上三丁目の三叉路を左に折れ、甲州街道(国土20号)を目指す。


しばらく進むと、右手に日野自動車本社工場が・・・


大型・中型トラックの組立~検査までの一貫作業を行っている、とのこと。
敷地面積は、429,000㎡ で東京ドーム約10個分の広さだそうだ。
『いやぁ とにかく広いなぁ』


日野自動車の工場が終わると、今度は左手にコニカミノルタの工場が現れた。
こちらもかなりの広さである。


10時33分、コニカミノルタの工場を過ぎると八王子市に入った。


八王子市に入ると、旧家が目立つようになった。
まるで武家屋敷のような、薬医門を構えた大きな敷地の家が続く。


高倉稲荷神社前を通過
この辺りは高倉町というらしい。


高倉町交差点を通過すると、


甲州街道(国道20号日野バイパス)への合流点だ。


10時45分、日野バイパスに合流したところにコンビニがあったので、ひと息入れていくことにした。
日野駅を出発して1時間10分が経過していた。
雨は殆ど止んでいた。


『高尾まで8Kmなんだねっ』


11時ちょうど、八高線を通過
(写真は拝島方面)


11時5分、日本橋から43Kmの地点を通過


続いて、11時10分、国道16号(八王子バイパス)を通過


道路右手に「吉野屋」があった。
『5月に食べた”とろろ牛丼”、美味しかったよね~っ』
『しかし今日はちょっと時間が早すぎるよねっ』
ということで、この日は素通りすることに。
国道20号沿いなので、この先いろんな店があるだろう、との期待を込めて。


11時16分、浅川に架かる大和田橋に到着


大和田橋は、往時は4月~9月までは徒歩渡りで、10月~3月までは架橋された、そうである。


大和田橋を渡る。


橋の歩道上には、写真のような色タイルがある。
太平洋戦争の空襲による焼夷弾の投下跡、とのことだ。
説明によると、
八王子市は、太平洋戦争終結の13日前の昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機による空襲を受け、
約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の80%の家屋が焼失する被害を受けた。
このとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かった。


大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17か所残っている。
車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていないが、歩道上の弾痕数から推測すると、
橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われる。
建設省相武国道工事事務所では、焼夷弾の弾痕を保存し、太平洋戦争の痕跡を末永く後世に伝えるものです。
(建設省関東地方建設局 相武国道工事事務所)


浅川は、鮎が名物で将軍家にも献上された、そうである。


浅川を渡ると旧甲州街道は、現甲州街道(国道20号)から右に逸れ、北大通りを進むことになる。


竹の花公園の片隅に「竹の鼻一里塚跡碑」が建っていた。
日本橋から12番目の一里塚跡である。
江戸初期の頃は、ここが八王子宿の入口だったが、その後街道が移動して、現在は甲州街道筋からは外れている。


竹の花公園の隣に永福稲荷神社がある。
永福稲荷神社は、八王子市新町の鎮守で、祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。
古くはこの辺り一帯は竹の鼻と呼ばれていたところから、竹の鼻稲荷神社とも言われていた。
宝暦六年(1756)力士八光山権五郎が再建し、落成と同日に相撲を奉納したと云われている、そうだ。


永福稲荷神社の境内に、八光山権五郎の実物大の像が建てられている。
八光山権五郎は、江戸時代中期(寛延・宝暦)に活躍した八王子出身の力士で、
身長六尺三寸(191Cm)体重不詳、嶋屋という絹問屋の後継ぎで商売をしながら相撲をとっていた。
八光山は、八王子から相撲が開かれる場所へ旅立つ前には、必ず稲荷神社へ参拝し、旅の安全と必勝を祈願、
亦帰郷した折にも境内で勧進相撲を奉納した、とのこと。(以下略)


永福稲荷神社例大祭のポスター
9月3日(土)、屋台一杯に生姜を盛り上げた露店が並ぶ「しょうが祭」が行われる。
新町周辺で生姜が採れたことから、「しょうが祭」は江戸時代に始まったのではないかと言われている。
9月2日は前夜祭で、境内でカラオケや舞踊が、3日には奉納演芸大会が催される、そうだ。


旧甲州街道は、永福稲荷神社から八王子の市街地へ。


八王子駅近くに村社・市守神社があった。
天正十八年(1590)の八王子城落城後、八王子の町は現在地に移され、
横山宿では四の日、八日市宿では八の日に市が開かれ賑った。


そこで、市の取引の平穏無事を守り、人々に幸せを与える守護神として、
「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)を祀り創建され、横山市守稲荷と呼ばれた。
現在でも毎年二月の初午の日には「市守祭」と呼ばれる例祭が行われている。


江戸時代中期に「天日鷲命」(あめのひわしのみこと)が配祀され、毎年11月の酉の日に商売繁盛を祈願する
「大鷲祭」(おおとりさい)が行われ、現在でも「お酉さま」や「酉の市」と称されて賑っている。
今年の「酉の市」は、「一の酉」が11月11日、「二の酉」は11月23日となっている。


11時43分、八王子駅前交差点を通過


駅前の歩道には、「しょうが祭」の看板が・・・


そろそろお腹も空いてきた。
『どこか適当な料理店はないのかねぇ』


「八王子夢美術館」の前に八日市宿の碑が建っていた。
戦国時代の終り頃、関東を治めていた後北条氏が滅ぼされると、秀吉の命で徳川家康が新たな領主となった。
家康の統治下となった八王子では、八王子城下から現在の市街地へ街が移され、新しい街づくりが始められた。
まず東西の道(甲州道中)が整備され、横山・八日市・八幡の3宿が開かれた。


江戸時代に入ると、八王子は甲州道中の宿場町として、また地域経済の中心地として発展。
なかでも八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣が置かれ、山上家や新野家が本陣役を勤めるなど、
八王子の中心的な役割を担っていた。
四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で六斎市が立ち、多くの人々で賑った。


『ありそうでないねぇ』
適当な飲食店がなかなか見つからない。
『そのうち見つかるでしょっ』


目に入るのは仏壇屋ばかりである。
何故か八王子は仏壇・仏具屋が多い感じがしたが、気のせいだろうか?


12時12分、日本橋から46Km地点を通過
次第に飲食店のみならず普通の店も少なくなって、少し心細くなってきた。


そんな中、追分バス停に差し掛かった所で、小さな飲食店を見つけた。
ラーメンやカレーライスなどの他、定食や丼もある。
お腹もかなり空いていたので、全員一致で入ることに。


店内には他に客の姿はなかった。
店は綺麗で雰囲気も悪くなく、店主の対応もすこぶる良い。


めいめい好みの品を注文し、待つこと30分、親子丼が出て来た。
あさり汁が付いて、800円(税込)はリーズナブルである。


『いやぁ なかなか美味しいねっ』


『ファストフード店とは一味違うよねっ』
皆さん満足の様子だった。


13時24分、追分交差点の5差路に差し掛かった。
横断陸橋は、一部は完成していたが、まだ残り半分はこれからという状態だ。


追分交差点の横断陸橋を渡り、旧甲州街道へ。


追分交差点の横断陸橋を渡ったところに追分道標がある。
この道標は文化8年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、
江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てたと云われる道標の一つ。
”左甲州道中高尾山道”と刻まれている。


甲州街道を進む。


千人同心が住んでいたと言う、千人町一丁目付近を通過


日本橋から47Kmの地点を通過。


山梨中央銀行前に馬場横丁の碑があった。
江戸時代に千人隊拝領の馬場が宗格院の北側(現在の五小)前の通りにあったので、
当時からこの所より宗格院迄の道を「馬場横丁」と呼んでいた、とのこと。
武田氏の遺臣がルーツの武士集団で、千人槍衆とも呼ばれ、甲州・武蔵の国境警備に当った
千人同心屋敷跡碑を見落としてしまったのは、残念である。


甲州街道を進む。


高尾山道標
右高尾山、左真覚寺の文字が見える。
ここは散田一里塚跡で、日本橋より13番目の一里塚であった。
この辺りには田んぼが散らばっていたことから散田という地名になったという。


道標脇の石には、昭和二年新道開設当時の甲州街道の景色と歌が刻まれている。


旧甲州街道は、高尾山道標の横に続いている。
細い道の割には車がやたら多い。


原因はこのショッピングセンターにあるのではないか?
警備員に誘導され、次々に車が入ったり、出たりしていた。


細い道は、400mほどで再び甲州街道(国道20号)に合流した。


13時57分、曹洞宗(禅宗)の長安寺前を通過。
ここ八王子を発展させた徳川家康の家臣、大久保長安が有名。
長安は、八王子が江戸城に西側の固めとしてきわめて重要な場所であると考え、
ここに「千人同心」をおくことを提案し、実現させた人物である。
しかし、「長安寺」の長安は、大久保長安とはなんら関係ない、そうだ。


銀杏並木が続く甲州街道を進む。


銀杏(ギンナン)が鈴なりの木も


日本橋から49Kmの地点を通過。


14時10分、高尾警察署前を通過


武蔵陵墓地参道の石柱(参道右側)が建っていた。
多摩御陵参道の入口である。


参道左側の石柱には、多摩御陵参道とある。


参道は、欅の並木になっている。
『100年でこんな大木になるんだぁ』


14時18分、欅並木の先の南浅川橋に到着


昭和二年(1927)、御陵造営決定に伴い、南浅川に全長87mの木製の橋が架けられ、
「南浅川橋」と名付けられたのが始まり。


昭和十一年(1936)に現在の威厳と趣のある橋に架け替えられた。


南浅川橋を往復して欅並木の端で一休み。
ここから約1.5Km先の多摩御陵まで行くかどうかの相談をしているところ。
皆さん少しお疲れの表情に見える。


結局、高尾駅へ向かうことにした。


旧甲州街道は、右へ続いている。


国道20号から逸れて、旧甲州街道を進む。


車が殆ど通らない、静かな住宅地の中を進む。


黒い塀の旧家
『なんて言ったら良いか 趣があるよねぇ』


黒い塀の家は何軒か続いていた。
いずれも重厚さが伝わる造りである。


旧甲州街道は、高尾街道に突き当たった。


高尾街道を横断し、甲州街道(国道20号)へ。


銀杏並木が終わった所を左に曲がると、この日のゴール高尾駅はもう直ぐだ。


見覚えのある高尾駅舎だ。


14時59分、無事高尾駅に到着


高尾駅15時2分発の特別快速(中央特快)に間に合いそうだ。


東京駅から常磐線への接続時刻を調べている?


『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第五回目(日野宿~駒木野宿)を歩き終わった。
JR中央線日野駅から、高尾駅までというまずまずの距離だった。
日野駅では出だしからいきなり小雨に見舞われたが、途中で上がったため、傘無しで歩けたのは幸いだった。

次回(9月)は、駒木野宿(高尾駅)から小仏峠を越える道(約10Km)を予定している。
距離はさほどないが、甲州道中最大の難所と云われた小仏峠越えがある。
どんなハプニングが待ち構えているのだろうか?
今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次
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