ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第七回 (中山道)馬籠宿~妻籠宿(1日目)

2015年09月27日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年9月27日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
今回は、日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。
なお、旧東海道の三島宿から京都三条までは、別の機会を見つけて歩くことにしたい。

「旧街道(特選)」第七回は、中山道の落合川駅~落合宿~馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅間(約25Km)を2日間かけて歩いた。

東京駅でめいめい好みの駅弁を買い、7時3分発のひかり461号岡山行に乗車。
大人の休日倶楽部会員だが、のぞみ号では割引が効かないため、ひかり号とした。
参加者は、いつもの9名が集まった。


女性陣は、運よく3人掛けに座れて『幸先良いみたいっ』


名古屋駅には9時9分に到着し、中央本線中津川行快速電車に乗り換える。
中津川まで約1時間20分ほどである。


9時50分、中津川駅に到着。
中津川駅の次が落合川駅だが、11時ちょうど発のワンマン列車を待つことになる。


中津川駅には、中山道の「これより北 木曽路」の石碑(複製)が置かれていた。
”これから木曽路を歩くんだ”という気持ちが高まってきた。


11時0分発の坂下行に乗車。次の落合川駅までは3分である。


11時3分、旅のスタート地点、落合川駅に到着。
落合川駅で降りたのは我々だけだったのは少し拍子抜けである。


駅を降りると目の前に水を満々と湛えた関西電力の落合ダム湖が広がる。


中山道落合宿まで1.6Km、落合の石畳まで3.0Kmの表示


駅前で各々準備を整えて、


11時11分、先ずは落合宿目指して、出発だ!


落合川に架かる吊り橋を渡る。
中山道まで1.0Kmと案内されている。
『この橋歩くとかなり揺れるよね』


中央本線の鉄橋を潜り、600mほど進むと、


中山道(国道19号)に出たが、横断歩道がないので横断陸橋を渡る。


南木曽方面


曹洞宗の善昌寺は、慶長五年(1600)の創建といわれ、武儀郡関村(関市)にある龍泰寺の末寺である。
明治二十四年の道路改修工事で寺の一部が道路となり、寺は東側へ移設された。


境内にあった松はそのまま残され、現在「路上の松」と称されている。
また、創建当時の山門を覆っていたことから、「門冠の松」とも呼ばれている。


「門冠の松」の真前が中山道(中津川宿方面)となっている。


善昌寺前の公園で暑さ対策をしていこう。


落合宿を少し進むと、「落合宿助け合い大釜」が目に入る。
文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、4日間で延べ約26,000人余が落合宿を通った。
当時、暖かいおもてなしをするため、各家のかまどは引きも切らず焚き続けられた、そうである。
展示してある大釜は、寒天の原料(天草)を煮る時に使用されたもので、
容量は1,000リットルを超え、口径約1.5mある、とのこと。


落合宿本陣跡
落合宿本陣井口家は、代々本陣を勤めると共に、問屋・庄屋をも兼務し、宿の業務の運営を行う指導的な家柄で、
苗字帯刀を許される礼遇を受けた。
明治十三年(1880)に大改修されているが、正門を始め、上段の間・小姓の間等が今もそのまま保存されている。


落合宿塚田脇本陣跡
かつては、庄屋と問屋を兼ねていた。


落合宿は、江戸へ82里12町(323Km)、京へ52里9町(205Km)の位置にある。
町の長さ3町35間(390m)、家数75軒を数えた。


上町の秋葉様の常夜灯
宿場通りには、秋葉様の常夜灯が4基あり、戸ごとを回る当番により灯をともし防火を祈ってきた。
寛政四年(1792)十二月に建てられたが、明治十三年(1880)の道路整備の際、3基は他所に移された。
この1基だけが道の片隅に寄せられ、往時の姿を留めている。


高札場跡
常夜灯の少し先に「落合宿高札場跡」と書かれた石碑があった。


落合宿の外れ辺りを進む。


十曲峠の手前で中山道は左側へ進む。
かつては、この先の下桁橋は、「大橋」とか「落合橋」と呼ばれていた。
この橋は洪水のため、たびたび流失していたり、医王寺までの登り道がつづら折りの難所だったことから、
道路を変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯船沢経由の新道が中山道となった。
しかし、この道も悪路で、1.8Kmも遠回りになったことから、明和八年(1771)、
再び十曲峠を通る道筋に戻した、そうだ。


下桁橋(落合橋)


『凄いねっ 本物の滝みたいだねっ』


下桁橋を渡ると、”これより十曲峠”の表示が・・・


『けっこうきつい坂道だよねっ』
体中から汗が噴き出してきた。


『いやぁ しかし眺めは素晴らしいなぁ』


アケビだ。
ジャンプしても届く高さではないので、採るのは諦めた。


馬頭観音菩薩(イボ観音)
西向観音またはイボ観音とも呼ばれ、イボができると石を借りてさすり、
治ったら石を二つにして返す慣習がある、とのこと。


幾分、坂道が緩やかになってきた。


12時14分、医王寺に到着。
既にお昼を過ぎているが、もう少し頑張って昼食にふさわしい場所を探すことにした。


医王寺は、嘉永六年(1853)の建立。
薬師如来は行基の作と伝えられ、虫封じの薬師として、三河の鳳来寺・御嵩の蟹薬師とともに
日本三薬師の1つとして広く信仰を集めている。
境内には芭蕉句碑がある。
芭蕉45歳の時、木曽路を旅して「送られつ 送りつ果ては 木曽の秋」という句を残している。


医王寺の枝垂れ桜
俳諧の宗匠嵩左坊が「その日その日 風にふかせる 柳かな」と詠んだ県下随一と云われ名木であったが、
伊勢湾台風で倒れ、今は二代目。


12時24分、「落合の石畳」入口に到着。
これより840mの案内表示。


石畳の表面は、最近まで雨が降ったのか濡れており、滑り易いので注意が必要だ。
箱根の石畳よりは歩き易い。


落合の石畳の説明には、
落合の石畳は、中山道の落合宿と馬篭宿の間にある十曲峠の坂道を歩き易いように石を敷き並べたもの。
江戸時代の主な街道は、一里塚を造り、並木を多く植え、制度化し、その保護には絶えず注意が払われたが、
石畳については、何も考えた様子が見られない。
そのため、壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も荒れるにまかせていたが、
地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元された、とのこと。
『ボランティアで復元したのかぁ 大変だっただろうねっ』


水はけ用排水溝も造られている。


なんじゃもんじゃの杜
本名を「ひとつばたご」といい、古世代の依存木である。
五月中旬頃の開花で、満開のときは樹上が真白になり、雪が積もったような景観を醸し出す。
昭和51年、落合老人クラブが植樹した、とある。


自動車道路に出た。
平成17年の周辺市区町村の合併により、新中津川市として誕生した記念として、
「落合石畳遊歩道」が、道路を横断して長野県境まで120mほど続く。


「落合石畳遊歩道」を120mほど進むと、


先ほどの道路に合流した。


美濃・信濃国境の碑が建てられていた。
『ここから長野県なんだねっ』


国境の碑の前に新茶屋一里塚があった。
新茶屋一里塚は、天保~安政(1830~1860)には、立木は右(江戸より京)に松、左はなしだったが、
整備にあたり、右に松、左に榎を復元した。(平成6年2月)
写真の一里塚には、榎が植えられていた。
日本橋から83番目の一里塚だ。


藤村が揮毫した、”是より北 木曽路”の石碑があった。
中津川駅で見たのと同じ形だが、”是”が漢字という点が異なる。


バス停?
時刻表を見ると、平日は馬籠方面が一日1本、中津川方面が一日2本。
土日はどちらも一日0本となっていた。
これほど少ない本数のバス路線は知らない。
『利用する人っているのかなぁ?』


この辺りの地名を「新茶屋」という。
江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を「立場茶屋」と言った。
かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百mほど入った場所にあったが、江戸の終わり頃に現在に移った。
そのためここを「新茶屋」と呼ぶようになった、そうだ。
写真は、民宿「新茶屋」


時計は13時を少し回っており、お腹もかなり空いてきた。
民宿「新茶屋」の向い側に休憩所もあることだし、ここで弁当にしよう。


皆さん、東京駅で買った駅弁を広げる。


牛肉弁当(1,050円)
月並みだが、美味しかった。


弁当も食べ終わり、後は2Km先の馬籠宿を目指すだけである。
13時30分、馬籠宿へ向けて出発!
皆さん何かに見とれているようだが・・・


何とグリーンカーテンが、トマトで出来ている。
『たくさん生ってるねっ』
『今度、トマトを植えてみようかしらっ』


後方に見えるのは、民宿「新茶屋」だ。


新茶屋付近ののどかな景色を見ながら進む。


新茶屋から約10分行ったところに、正岡子規の句碑があった。
桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」と書かれている。


ここは、信州サンセットポイント百選に選ばれるほど、景色がきれいな場所らしい。


水もきれいだ。


道端に佇む道祖神


クルミが干してある。
ここに来る途中、いたる所でクルミの木を見掛けた。


馬籠宿を目指す。


”馬籠”のいわれ
昔の”まごめ”は生活物資は馬の背で何でも運んだ。馬は大切な動物だった。
馬方を本職にしていた人たちも何人か居た。
朝方中津や落合の町中に出かけ、帰りは馬の背に荷物を積んで持ち帰る人が馬方衆であった。
人が病気や怪我などで中津に行く時は、籠で地区の組内の人が担いで行った。
馬と籠、つまり”馬籠”ということ、と記されていた。


13時59分、諏訪神社を通過
参道が長そうなので、鳥居のところで一礼。


庚申塚


馬籠城址
この辺りの地名を「丸山」とも「城山」とも云う。
今から500年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。


馬籠宿まで残り300m付近。
『もう直ぐ馬籠宿だよねっ』


石屋坂の急な坂道を上ると、


14時15分、馬籠宿の入口に到着した。
『やっと着いたねぇ』


とりあえずこの日の宿「馬籠茶屋」を目指す。
地図によると、「馬籠茶屋」は馬籠宿の中ほどである。
この日は日曜日のため、観光客が多い。


石屋坂を上る。
ゴール間近だが、最後にこの急坂は堪える。
体中汗だくである。早く風呂に入りたい。


ここから先は何年か前に来たことがあるので、見覚えがある。


清水屋資料館
島崎家と親交の深かった原家は、屋号を清水屋といい、代々馬籠宿役人を務めていた。
藤村直筆の書簡や宿場町馬籠の資料も展示されている。(200円)


但馬屋
約110年前の囲炉裏がある宿で、馬籠宿のほぼ中央に位置する。
懐かしい囲炉裏端の寛ぎが楽しめる。
2か月前に予約しようとしたが、満室だった。


「馬籠茶屋」の看板が見えた。


「馬籠茶屋」の手前に馬籠郵便局がある。


「馬籠茶屋」の向い側も「馬籠茶屋」の看板が。
街道を挟んで宿と食事処の両方を営んでいるのだ。
こちらは食事(夕食・朝食)の時に使うことになっている、そうだ。


14時20分、宿泊先の「馬籠茶屋」の玄関を入る。
旅館の雰囲気が漂う。


部屋に案内されて、しばし寛ぐ。
『いやぁ お疲れさんでしたぁ』


夕方まで少し時間があるので、宿場を一通り見ておこう。
30分ほどの小休止の後、馬籠茶屋を出て、宿場へ。
馬籠茶屋から石屋坂を見下ろしたところ。
まだ観光客はかなり多い。人の流れは続いている。


藤村記念館、馬籠宿本陣
処女作から絶筆までのすべての作品、直筆原稿、遺品などが所蔵・展示されている。
大火による焼失を免れた隠居所が残る。(550円)


馬籠観光案内所で情報を仕入れる。
馬籠宿~妻籠宿を歩くと「完歩証明書」がもらえるとのこと。
通常、両方の宿場で各100円の合計200円が必要だが、宿泊者は100円でOKとのこと。
早速、全員100円を払って、「馬籠宿」を押印した手形を受け取った。
明日、「妻籠宿」を押印して完了ということになる。


馬籠脇本陣資料館
馬籠宿脇本陣蜂谷家の跡地に建てられた資料館で、往時の脇本陣上段の間が復元されている。
家財や什器、古文書などの展示もある。(300円)


木曽五木(きそごぼく
宝永五年(1708)五月、尾張藩は、木曽の住民たちがひのき・さわら・こうやまき・あすなろ・ねずこ
五種類の木を伐採することを禁じ、掟を破る者は死罪にした。
「木一本首一つ、枝を落とせば腕を斬る」として恐れられると共に、山を失った村人の経済は
音を立てて崩れていった、とのこと。


馬籠宿を展望台へ向かう。


この時期、キンモクセイの何とも言えない甘い香りが漂う。
『良い匂いだよね~っ』


展望台へ向かう。


恵盛庵(手打ちそば屋)


高札場
このように高い札場は初めて見た。
これぞ高札場である。


展望台
この先の馬籠峠は標高801m、この峠が馬籠宿と妻籠宿の境となる。
白雲や 青葉若葉の 三十里」の正岡子規の句碑も立つ。


藤村の歌碑
心を起さうと思はば 先づ身を起こせ”と刻まれている。


先ほどまで山頂には雲がかかっていた恵那山(2,192m)だったが、急に雲が取れて山容がはっきり。
『良かったわねえ 私たちツイてるんじゃないっ?』


15時40分、馬籠茶屋へ戻る頃には観光客の数は大分少なくなっていた。


無料休憩所に立ち寄った。
馬籠宿の案内や写真などが展示してあり、Wi-Fiが無料とある。
外国人が多く立ち寄るのだろう。


『どうっ 似合うかしらっ?』


宿泊先の「馬籠茶屋」を過ぎて、もう少し石屋阪を下ってみることに。


水車がある。
馬籠宿ミニ発電所だ。


石屋阪を下ったこのアングルは、馬籠宿のパンフレットにも載っている。


馬籠茶屋へ引き返す頃には観光客も大分少なくなってきた。


16時20分、馬籠茶屋に戻り、夕食前にひと風呂浴びることにした。
夕食は18時からとなっている。


夕食タイム
『いただきま~すっ』
この日の馬籠茶屋のゲストは、我々一行以外(10人ほど)は全て外国人だったのにはちょっとビックリ。


『お疲れさまでしたぁ』


この日の料理
味もなかなかで、ボリューム満点である。
『全部食べ切れないねぇ』


部屋に戻って飲み直しだ。
『かんぱ~いっ』
『明日も頑張って歩きましょうっ』


”中山道(馬籠宿から妻籠宿)歩き”の1日目が無事終わった。
落合宿から馬籠宿までの中山道は、勤労奉仕で整備された石畳と破砕したタイルできれいに舗装されており、
とても歩き易く、道に迷うこともなかった。
十曲峠の一部を除けば高低差もさほどではなかった。
車がほとんど通らないので安心して歩けるのが良い。

途中の景色も素晴らしく、街道の雰囲気を存分に味わうことができた。
天気に恵まれたことが幸いしたと思う。
明日は、馬籠宿から妻籠宿・南木曽駅を目指すが、天気に恵まれることを祈りたい。

この日の万歩計は、15,000歩を少し回っていた。

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