ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.93 人吉城

2014年08月17日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月17日(日)

この日は、鹿児島城に続き、人吉城に登城することにしている。

人吉城は、中世城郭の特色を色濃く残す相良氏歴代(35代・670年)の居城で、
別名を三日月城・繊月城(せんげつじょう)と呼ばれる。

人吉城は、建久九年(1198)、人吉荘の地頭として下向した相良長頼の築城と伝えられる。
天正十七年(1589)、相良長毎(ながつね)が大改修を開始、慶長六年(1601)に
本丸、二の丸などの詰の城部分や御館(みたち)部分を竣工、寛永年間(1624~1644)に
石垣が完成した。


この日は午前中に鹿児島城に登城し、簡単な昼食後に車を走らせ、午後4時少し前に人吉城辺りに到着した。
人吉は初めてであり、事前の調査もほとんどしていなかったので、自分がどこにいるのかを確かめる必要がある。
人吉城前と思しき場所に案内図があったので、位置と城を確認。


案内図から推察すると、球磨川に架かる橋は水ノ手橋ということになる。


対岸は人吉市の中心市街地か。


水ノ手橋から人吉城を見てみる。
武者返の石垣と白くて長い土塀のコントラストがなかなか美しい。


橋の上から人吉城の水ノ手門方面を見たところ。
かつては、水ノ手門には船着場があり、球磨川に面する城門だったという。、


本丸への石垣は、武者返石垣と云われる。
城址へ踏み入ると最初に迎えてくれるのがこの武者返の石垣である。
石垣の上部に石材が突き出す「翅出」の技法が見られる。


石垣に沿って間米蔵(あいだこめぐら)跡がある。
間米蔵は、水ノ手門西側にあった間村(あいだむら)の年貢米を納めた蔵、と考えられている。
この蔵は、幕末の文久二年(1862)の寅助火事で焼失し、その後再建されたが、
明治初期の払い下げによって解体された。


振り返って武者返石垣を見る。


水ノ手門跡
慶長十二年(1607)から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。
水運を利用するため、川に面した石垣には7か所の船着場が造られ、
その中で最大のものが「水ノ手門」である。


この門は寛永十七年(1640)以前から幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。
川側にあった船着場は石張りの傾斜面となっていて、水位の増減に対応できるように工夫されていた。


堀合門の先に大村米御蔵跡・欠米蔵跡がある。
人吉藩では藩内12か所に米蔵を置き、このうちの間蔵と大村蔵は、
それぞれ城内の水ノ手口と堀合門東方に1棟づつあった。


大村米御蔵跡・欠米蔵跡の先、左手に小さな公園があった。


剣術の稽古の最中だった。


犬童球渓(いんどうきゅうけい)の歌碑
人吉が生んだ偉大な音楽家で、作詞・作曲は360余点にのぼる。
なかでも「故郷の廃家」「旅愁」は広く知られている。


御下門(おしたもん)跡
御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への
唯一の登城口に置かれた門である。


大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)桁行10間(20m)の櫓を渡し、
その中央下方の3間分を門としていた。
門を入った奥には出入り監視のための門番所があった。


振り返って御下門虎口を見たところ


石段を上る。
木々が生い茂っているので、特にこの箇所は昼でも暗い。


さらに石段を上ると・・・


三の丸跡だ。
二の丸の北・西部に広がる曲輪である。


周囲には石垣は造られず、自然の崖を城壁としており、「竹茂かり垣」と呼ばれる
竹を使った垣で防禦していた。


三の丸から二の丸を目指す。
かみさんたちは、何の建物もない景色はあまり興味がないためか、どんどん先へ行ってしまう。


二の丸への石段
次第に古城らしい雰囲気が漂ってきた。


かつてこの辺りに三の丸から二の丸に入る正門中御門があったところだ。
小規模ながら枡形となっている。


枡形の先を右へ曲ると二の丸への最後の石段がある。


二の丸に到着
江戸時代初期、「御本丸」と呼ばれて、城主の住む御殿が建てられ、人吉城の中心となった場所。
周囲の石垣には瓦を張りつけた土塀が立ち、北東部の枡形には櫓門形式の中御門があり、
見張りのための番所が置かれていた。


二の丸御殿は、6棟の建物で構成され、すべて板葺の建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、
建物の間には中庭があった。
御殿の「御金ノ間」は、襖などに金箔が貼られていた書院造りの建物で、城主が生活・接客する
御殿の中心となる建物だった。


二の丸から三の丸広場を見る。
西方に於津賀社と2棟の「塩蔵」、井戸と長屋を配置するだけで、広大な広場が確保されている。


二の丸からの眺望
人吉市街地が一望できる。
水ノ手橋の一つ下流に架かる大橋の先にホテルなどが見える。


二の丸から三の丸への石段
中御門を通らなくても二の丸・三の丸間の行き来ができるようになっている。


石段を下りると三の丸である。


再び二の丸への石段を上って本丸へ向かう。
本丸への石段は、三の丸から二の丸への石段に比べるとかなり狭い。


本丸跡に到着した。
ポツンと東屋が建っているだけだ。


本丸跡
本丸は、はじめ「高御城(たかおしろ)」と呼ばれていた。
地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、寛永十三年(1626)には護摩堂が建てられ、
その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓堂・山伏番所があった。


礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡である。
中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。


本丸を後にして御下門口へ。


次は御館(みたち)への入口である堀合門へ向かう。


堀合門
堀合門は、城主が住む御館の北側にあった裏門で、文久二年(1862)の「寅助火事」でも焼失を逃れた。


明治四年(1871)の廃藩置県後は、城外の新宮家に移築され、人吉城唯一の現存する建造物として、
市の有形文化財に指定されている。
形式的には棟門と呼ばれるもので、化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の優美な曲線が特徴的、とのこと。
平成19年に復元された。


堀合門を入ると、御館の広い敷地が広がる。
建物は残っていない。


文久二年(1862)の火災を契機に、御館の防火のために行われた工事で、武者返しを付けた西洋式石垣を導入、
外塀も土塀に変わった。


土塀上から見た御館の広場


かつての藩主の御殿があったとされる御館の奥へ向かって進むと、神社があった。
相良神社(拝殿)である。本殿が左にちらっと見える。
創建は明治十三年(1880)で、人吉・球磨地域の国事殉難の英霊4,748柱を合祀している、とのこと。


相良神社の鳥居
長い参道の先に拝殿が見える。


力石
第21代相良頼寛公の家老相良清兵衛は、主君の2万2千石に対して8千石をも領していた権力者で、
専横の振舞いが多く、相良家ではこの権力と実力を制しきれず、幕府に対して九ヶ条の罪状をあげて訴え出た。
江戸幕府では早速清兵衛を呼び出した。清兵衛出立後、その留守居をしていた清兵衛の義理の子田代半兵衛は、
この主君の仕打ちに不平を抱き反抗したので、藩では彼の屋敷を焼き打ちにし、一族は討死した。
これを御下の乱という。
その時城内に火の手があがったのを見て、城下の士卒は驚いて駆け付けたが、大手の門は固く閉ざされて、
開かなかったため、大童三之丞という人が付近にあったこの大石で門を打ち破って入り、
主君の安否を気遣ったという。この石を力石という。


居石
説明板(由来や何時頃からあるのかなど)が欲しい。


御館跡(みたちあと)庭園
御館は、天和三年(1683)に城主相良氏の居宅が置かれて藩政の中枢となった場所である。
公的な接客・饗応を行った表御門の南端には玄関が付いた大広間や使者の間がおかれていて、
この庭園を眺望できるようになっていた。池泉廻遊式庭園である。(中略)
優雅にして力強く、小空間にして宏大であり、眺めにも勝る相良氏の想い。
歴史ある大名ならではの名園と言える(作庭家 野村勘治氏監修より)


御館御門橋
御館(相良神社)への入口である。
多脚式の石橋で、明和三年(1766)に山田村の石材を切り出し、領内各村に割当して運搬させ建設された。


堀は蓮で覆われていた。
この堀は人吉城内で唯一の堀である。


馬責馬場(うませめばば)に沿って長い石垣(麓居館石垣)が続く。
右側は御館(相良神社)である。


長い石垣塀の途中に御館への入口があった。
ここを上ると御館(相良神社)へ行くことができる。


人吉城歴史館
歴史館館内には人吉城復元模型や歴史資料を展示とあるが、
平成17年からは全国でも例のない、地下室遺構が公開されているというので立寄ってみることに。
(有料200円)


地下室遺構の説明
相良清兵衛屋敷の地下室には、6m四方の大きさで、深さは3m、出入り用の階段が二か所にあって、
床の一角には途中まで石段がついた水深2.3mの方形の大型井戸がある。
床面北側の小石敷の下にはスギ板を敷き、井戸底からは刀が出土している。(中略)
全国的には類例のない謎の多い遺構である。


百聞は一見にしかず。
ここは実物(復元)を見るしかない。
歴史館の係の方の案内で地下室遺構への狭い入口から、階段を下りると・・・


そこには相良清兵衛屋敷の地下室遺構があった。
全国的にも他に類例が無く、実際の用途は不明、だそうだ。
貯蔵場・井戸・風呂場・キリシタン関連の施設などとする様々な用途や説が唱えられているが、
現段階ではいずれも断定することはできない、とのこと。


構造上では持佛堂での護摩祈祷に関連する「行水」「沐浴」といった、何らかの宗教的行為を行う
場所であった可能性も考えられる、とのこと。


人吉城歴史館を出て、平成五年に復元されたという角櫓・長塀・多聞櫓へ向かった。
途中に「御下の乱」供養碑が建てられていた。
寛永十六年(1639)、21代人吉城主相良頼寛(よりひろ)は父長毎(ながつね)の遺言によって、
専横の振舞いのある相良(犬童)清兵衛頼兄(よりもり)を幕府に訴えた。
翌年、清兵衛頼兄は津軽藩お預けの処分となったが、これを不服とする人吉城内の犬童半兵衛
ほかの一族によって「御下の乱」が起こり、半兵衛方の121人が死亡した。
死体は筏に積まれ、矢黒の亀ヶ渕の川原に埋葬され、この供養碑が建てられた。
河川改修のため、昭和48年に清兵衛の屋敷地であった現在地に移転している。


復元された角櫓
この角櫓は胸川が球磨川に合流する人吉城北西隅の要所に建てられた櫓である。
元は藩の重臣の相良清兵衛頼兄屋敷地であったが、寛永十七年(1640)の「御下の乱」で屋敷が焼け、
その直後に櫓が建てられている。


幕末になると角櫓は漆蔵として使用され、文久二年(1862)の「寅助火事」でも焼失せず、
明治初期の廃藩置県後に他の建物とともに払い下げられて撤去された。
内部は廊下があり、3部屋に分かれているそうだが、中には入れなかった。
平成五年に多聞櫓・長塀とともに復元された。


復元された長塀
球磨川と胸川に面した石垣上には、要所に櫓が築かれ、櫓や門の間には塀が立てられた。
宝永四年(1707)の大地震で塀の一部が損壊すると、塀の控石柱を引き抜いて土台とした
厚さ3尺(90Cm)の土塀に修復している。


長塀は、瓦葺き漆喰塗りとし、外側の下部には腰瓦が張られた。


また、塀の一部には石落としのための突き出しがある。
投石は古来から武器として利用されており、城郭建築においても櫓や塀に設置された。
平成五年に多聞櫓・角櫓・長塀とともに復元された。


石累上に建つ細長い櫓は、一般的に多聞(多門)櫓と呼ばれる。
人吉城の多聞櫓は、城の正面口である大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓である。
大手門櫓・角櫓と同様、江戸時代前期の1640年代に建てられ、宝永四年(1707)の大地震で
傾いたので修理されている。


幕末になると、「代物蔵」として使用され、寅助火事でも焼失せず、廃藩置県後の払い下げで撤去された。
平成五年に角櫓・長塀とともに復元された。


大手門橋の上から見た多聞櫓


球磨川の支流胸川に沿って手前から多聞櫓と長塀が並ぶ。


大手門櫓跡
胸川御門と呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所だったので、
石垣の上に櫓(矢倉)を渡して下に門を設けた。


さらに門前の通路は鍵形にして枡形に作り、また、門の北側には多門櫓を建てた。
門内には番所を置いて監視させている。
大手門櫓は正保年中(1644~1648)に建てられ、享保五年(1720)に造り替えられ、
明治初期の払い下げで撤去された。


大手門橋
大手門の外濠となる胸川の対岸に大手門橋を架けて防禦していた。
手前が大手門櫓跡


渋谷家屋敷跡
案内板には次のように紹介されている。
城の正面入り口である大手門周辺は、城の防備にとって重要な場所であるので、監視のための番所を置き、
重臣の屋敷を配置して戦時に備えた。
この場所は寛永十六年(1639)の絵図では、西然太郎屋敷と下台所屋敷であったが、翌年の御下の乱で焼失した。
その後、天保期(1830~1844)の絵図では、家老の渋谷三郎左衛門(しぶやさぶろうざえもん)の屋敷となっている。
手前の穴は台所隅にある食糧貯蔵用の穴倉だ。


下台所跡・犬童市衛門(いんどういちえもん)屋敷跡
江戸時代初期の絵図によると、球磨川と後口馬場に挟まれた区域は相良清兵衛屋敷や息子の相良内蔵助屋敷で、
馬場の南側には上級武士の屋敷が広がっていた。
江戸時代初期には下台所や犬童市衛門屋敷だったが、江戸時代後期には渋谷三郎左衛門屋敷があった、とのこと。
後に見えるのは人吉市役所。


方形井戸
前出の建物の西側にある方形の井戸は、江戸時代初期のもので、内法で東西90Cm・南北1.1mで、自然石で野面積み。
方形の井戸はこれまでの人吉城跡の発掘調査では前例がなく、珍しい遺構、とのこと。


後口馬場(うしろぐちばば)の井戸跡
平成12年度の発掘調査で発見された直径1.7mの円礫(えんれき)積みの円形井戸。
後口馬場と呼ばれた道路上に江戸時代はじめに造られ、寛永十七年(1640)の「御下の乱」直後に埋められている。
他の武家屋敷などの井戸は直径1m程度であることから、大型の井戸である。
実力者相良清兵衛屋敷の門前付近の道路上にあり、清兵衛との係りが強い公衆用の井戸と推定される、そうだ。
ちなみに後口馬場は、現在の人吉城歴史館近くに当る。


この後、この日の宿泊先である「ホテル華の荘」へ向かった。
人吉城址から車で5分ほどのところである。


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日本100名城巡り No.97 鹿児島城

2014年08月17日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月17日(日)


この日訪れる鹿児島城は、島津家久が標高107mの城山東麓に築いた平城である。
島津氏七十七万石の居城で、別名を鶴丸城と呼ばれる。

慶長六年(1601)に築城工事を開始、その約10年後に完成した。
城山を背後におき、中世以来の館造りを踏襲した城構えであった。
本丸と二の丸が連郭式に並ぶだけのシンプルな縄張で、御楼門以外に天守も櫓もなかった。
これは戦国期に領内に設置された多くの外城(支城)が外敵の侵入を防ぐことで、
本城を要害化する必要がなかったためとされる。
城は元禄九年(1696)に焼失、宝永四年(1707)に再建されたが、明治六年(1873)再び焼失してしまった。


この日は午前中に鹿児島城、午後には人吉城への登城を計画している。
「かんぽの宿日南」を8時を少し回った頃に出発し、鹿児島城を目指した。
11時20分、中央公園地下駐車場に到着した。

先ずは、駐車場から一番近い、明治維新の推進者のひとりである小松刀帯像へ。
駐車場を出ると、目の前に宝山ホールが目に入った。


小松刀帯像は、宝山ホールの前に建てられていた。
小松刀帯は天保六年(1835)喜入領主肝付家の三男として生まれ、20歳で吉利(日吉町)の領主小松家の養子となり、
小松刀帯と名を改めた。
子供の頃から学問や武芸に優れ、27歳で家老となり、西郷隆盛や大久保利通などを重要な役目につけた。
寺田屋事件・生麦事件・薩英戦争を乗り切り、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍した。
維新後も外交官など要職に就いたが、34歳で亡くなった。


銘文には次のように紹介されている。
この像は、京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、
王政復古を実現させた小松刀帯の功績を讃える像である。
時に小松三十三歳、慶応六年(1867)十月十三日であった。


次に向かったのは、薩摩の英雄西郷隆盛像である。
宝山ホールに隣接する中央公民館前を進むと、


正面の国道10号線(歴史と文化の道)の向こうに西郷隆盛像が見えた。
西郷隆盛像全体が見渡せるため、中央公民館前が撮影ポイントとなっている。
後ろの小高い山が城山公園である。


国道10号線(歴史と文化の道)の歩道橋から見た鹿児島城二の丸、本丸方面


横断陸橋を渡って西郷隆盛像とご対面。


鹿児島城二の丸、本丸方面へ。


市立美術館
旧二の丸跡に建てられている。
城山の山麓に位置するこの地は、歴史的に政治・文化の中心地として発展してきた場所である。
地元関係作家を中心とし、19世紀末葉以降の西洋美術の作品を主として収集・保存・展示している、とのこと。


市立美術館を過ぎると、石垣が少しだけ高くなった。
この辺りも旧二の丸跡だ。


鹿児島県立図書館前を通過
かつてはここは二の丸への入口だったところだ。


二の丸跡を過ぎると歩道の左側に植え込みがあり、道幅が広くなった。
間もなく本丸跡への入口である。


本丸跡の濠は一面蓮で覆われていた。
現存する一段と高い石垣や水濠が往時の姿を今に伝えている。


ポツンとピンク色の蓮の花が咲いていた。


本丸跡へ通じる石橋が架かっている。


鶴丸(鹿児島)城碑
鶴丸城は別名だと思っていたが、地元ではどうやら鹿児島城が別名のようだ。


この石橋の先に御楼門(本丸大手に建っていた櫓門)があったが、明治七年(1874)に焼失してしまった、とのこと。
御楼門の跡は石垣の立派な枡形が残されている。


石橋中央から濠と石垣を見る。


本丸枡形


本丸枡形を右に折れ、


さらに左に折れると本丸跡に辿り着く。


現在では鹿児島県歴史資料センター「黎明館」となっている。


黎明館は、明治百年(昭和43年)を記念して、昭和五十八年(1983)に開館。
人文系の総合博物館で、鹿児島の歴史・考古・民族・美術・工芸を紹介している。
鹿児島城復元模型や歴史資料も展示されている、とのこと。


黎明館の敷地は、江戸時代の鹿児島(鶴丸)城の本丸跡で、今でも濠・石垣・石橋など
由緒あるものが残っており、これらは県指定の史跡になっている。(黎明館案内書より)


本丸跡の一角に天璋院(篤姫)銅像が建てられている。
篤姫は、薩摩藩の名君島津斉彬の娘(養女)となった。
21歳のときに、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立のために、第13代将軍・徳川家定の正室となるため、大奥に送り込まれる。
しかし、家定が慶喜を極度に嫌っていたことなどにより、慶喜擁立は成功せず、結果的にはこの政略結婚は失敗に終わる。
その後、家定は結婚後わずか2年で死去。篤姫は23歳で寡婦となってしまう。
彼女は「徳川の女」として生きることを選び、戊辰戦争では西郷隆盛に徳川の家名存続を求める書状を送るなど、
幕末という激動の時代に存在感をみせた。(Wikipediaより)


黎明館へ入ってみる。
お腹も空いたし、外は何しろ暑い。
黎明館内部は冷房が効いていて涼しかった。
涼を求めてなのかどうかは分からないが、外からは想像できないほどの人がいたのにはびっくり。


ホールには、NHK大河ドラマで篤姫が乗った女乗り物(駕籠)が展示されていた。


金襴振袖打掛数点も展示されていた。


歴史資料センター
ここで100名城のスタンプ押下完了。
内部見学は有料(310円)となっているが、せっかくなので、中を覗いてみることにした。
なお内部は撮影禁止となっている。

歴史資料センター1Fを駆け足で回り、城山公園へ行こうと思ったが、かみさんたちはここで休憩して待つと言う。
仕方なく、一人で城山公園へ行くことにした。

本丸跡から城山に至る途中に薩摩義士碑があった。
愛知・岐阜・三重の3県にまたがる濃尾平野を流れる、木曽川・長良川・揖斐川は、
合流地点で度々大水害を引き起こしていた。
宝暦三年(1753)、幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩は家老の平田靭負を総奉行に任じ、約1,000名を派遣した。
平田は大阪の商人から22万両を借り、工事に取り掛かったが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めた。


さらに監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃・病死する者が続出。
完成までの1年3カ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していた。
平田総奉行はその責めを一身に負い自刃。藩主重年も後を追う様に病没した。
藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、
大正九年(1920)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられた。


碑の横に城山自然遊歩道があり、城山公園への上り口となっている。


城山自然遊歩道は石段だったり、


緩やかな坂道だったりする。


城山展望台への途中、木々の間から黎明館と市街地が垣間見えた。


さらに城山自然遊歩道を上る。


上り始めて約30分ほどで、城山展望台に到着した。
20人ほどの人が眺望を楽しんでいた。


展望台の側には茶店もあった。
冷たい飲み物でも買って、喉を潤しながら眺望を楽しむことにしよう。


展望台からの鹿児島市街地の眺望は”素晴らしい”の一言。
かみさんたちにも見せてあげたい。


桜島
朝方は雲に覆われていたが、きれいに晴れ上がってくれた。
”ありがとうっ”


市街地の眺望
鹿児島市街地は思っていたよりも大きな町だということが分かった。


城山を下りてかみさんたちと黎明館で合流し、黎明館内部のレストランへ。
天文館辺りで食事をしたかったが、次の人吉城のことを考えるとここで済ませるのが一番と判断。


鶏飯(けいはん)を注文
ご飯に鶏肉・卵焼き・しいたけ・奈良漬・ねぎ・海苔などを混ぜ、だし汁を掛ける茶漬けである。


『さっぱりしていて美味しいわねぇ』


食事の後は、駐車場へ戻る際に二の丸跡を通ることにした。


二の丸御角櫓(おすみやぐら)跡
御角櫓は、本丸の南東角に位置し、城の防禦とともに美観や威厳を保つ施設。
明治初期の資料では、「御角屋蔵」と表現され、物品収蔵施設としての用途もあったものと推測されている。
元禄九年(1696)に焼失し、幕府の許可を得て再建されたが、明治六年(1873)の大火で再び焼失した。


二の丸跡に建てられた県立図書館
かつて、本丸に政庁と藩主の居館・表書院などが置かれ、
二の丸には世継や側室などの居館や庭園が設けられた。


14時30分に駐車場へ戻り、次の目的地人吉城へ向けて車を走らせた。


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