ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第9回 国府津から箱根湯本

2014年09月21日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年9月21日(日)

第Ⅰステージ第9回目のこの日は、国府津(JR国府津駅)~箱根湯本
(小田急線箱根湯本駅)の約13Kmを歩いた。

東京駅で8時15分発熱海行き電車のドアが開くのを待っているところ。
この日の参加者は11名


東海道線車内


この日のスタート地JR国府津駅には9時33分に到着。


JR国府津駅


JR国府津駅で体調を整え、9時45分に箱根湯本目指して出発。国道1号線を進む。
1週間前は雨の予報だったので、”延期”あるいは傘を差して歩くことも覚悟をしていたが、
蓋を開けてみると絶好のウォーキング日和の快晴となった。
『日陰を歩きたいねぇ』


下水道の蓋は、小田原がイメージ出来るように、富士山・小田原城・酒匂川の渡しがデザインされている。
せっかくだから、小田原城へ立寄ることにしよう。


森戸川を渡る。


日本橋から79Km地点を通過。


松並木が(松の木が数本)見える。
車の多い国道1号線など歩いていると、このような並木?が現れると何となく気持ちが落ち着く。
かつて昔の人はずっとこのような景色を眺めながら歩いていたのだと思うと、羨ましく感じてしまう。


建ち並ぶ家の隙間からちらりと富士山が見えた。
(この後富士山は全く姿を見せてくれなかったので、この日はこれが最初で最後だった)


また小さな松並木が現れた。


国府津駅を出発して約30分が経過していた。
木陰で一休みしていこう。
『木陰に入るとホッとするね』


『あらぁ可愛いっ これ何て言うのかしら』
パンパスグラスである。
(家のは昨年買ったばかりのためか、このような穂はまだ出ない。来年に期待しよう)


酒匂川が近づくにつれ、お寺を多く見掛けるようになってきた。
酒匂川と関係があるのだろうか?
昔の川渡しの頃の事故や洪水などの死者を弔った、とか・・・
大見寺


妙善寺


こちらは酒匂不動尊


酒匂川は江戸時代の旅人にとって、たいへん渡り難い川だった。
延宝二年(1674)に船渡しが禁止され、冬は仮の橋をかけて行き来していたが、
夏は橋を掛けずに人に手を引かれたり、肩車されたり、台に乗って担いでもらったりしながら、
金を払って川越人足の力を借りなければ渡ることができなかった、そうである。
「酒匂川の渡し碑」が道路の反対側にあるらしいが、車が多くて渡るのは断念した。


『海が近いから、何となく潮の香りがするわねっ』


西湘BP


右手は箱根・富士山の方角だと思うが、富士山は全く見えない。


『酒匂川の風が気持ち良かったわねっ』


酒匂川を渡って少し進むと旧東海道は小さく左へ逸れる。
新田義貞首塚の案内があった。


案内に従って細い路地を進むと、新田義貞公の首塚碑があった。
後醍醐天皇方の中心的な武将であった新田義貞は、北陸を転戦中の延元三年(1338)、
越前福井の藤島で討死にし、足利尊氏によってその首級を晒されていた。


義貞の家臣宇都宮㤗藤は主君義貞の晒首を奪い返して、
義貞の故郷上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、ここ酒匂川の網一色村に達したとき、病にかかり、止むなく義貞の首をこの地に埋葬、


自身も志半ばにしてこの地で殉したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として、地元の人々に尊信されていたが、戦後は一時荒廃してしまった。
近年地元有志によって復興整備され、首塚の碑も建立された。
脇に並ぶ五輪塔は、家臣宇都宮㤗藤のものなのだろうか。


首塚の小さな公園でお茶タイム
この日はK子さんの古希(70)の誕生日だそうで、自身が握ったという赤飯のおにぎりが振舞われた。
『おめでとうっで良いのかな? ご馳走さまぁ』


山王小学校の入口を入ると、


小学校手前左側に上杉龍若丸(たつわかまる)の祠(墓)がある。
天文二十一年(1552)1月、父・憲政は相模国の北條氏康に敗れ、
居城の平井城から越後国の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃れた。


龍若丸はその時、安保泰広の御嶽城にいた。
御嶽城は3月に落城し、身柄は寝返った重臣妻鹿田新助(龍若丸の乳母の夫)によって北條方へ引き渡され、
小田原あるいは伊豆国で殺害されたという。
享年11歳または13歳という若さだった。


この日は彼岸、ちょうど白い彼岸花が供養するように咲いていた。


上杉龍若丸の墓(祠)の直ぐ近くに、戎社(えびすやしろ)があった。
大友皇子を奉っている、そうである。


久野川の山王橋を過ぎたところで国道1号線を渡り、


山王神社へ向かおうと久野川を見ると、


1羽の鷺がじ~っと獲物を狙っているのが見えた。
しばらく見ていたが、全く動かない。
辛抱強い鳥である。


星月夜の社 山王神社に到着。
かつて山王神社は、海辺の柚の池の南柚子ヶ藪にあったが、暴浪によってその土地が壊れたため、移転。
旧社地に星月夜の井戸があったことから、星月夜の社とも称う。
その井戸も移転して現在地にある、とのこと。


寛永元年(1624)、江戸初期の朱子学者林羅山が神社境内で星月夜の詩を詠んだように、小田原の名所であった。
神社裏手には、天正十八年(1590)の小田原城攻防戦で、一番戦闘の激しかった篠曲輪跡がある、そうだ。


日本端から83Km地点を通過


小田原宿の江戸方の出入り口、江戸見附跡
ここから小田原宿である。


道路の反対側に一里塚と見附跡の碑があることが分かり、跨線橋を渡る。


江戸口見附跡と一里塚址の碑
江戸から20番目の一里塚があった。
慶長九年(1604)塚には榎が植えられたが、天保中期(1840年頃)の相模国風土記には、
榎は枯れてしまい、代わりに松の小樹が植えられた、とあるそうだ。


小田原市内には旧町名を刻んだ碑があちこちに立てられている。
新宿町(しんしゅくちょう
江戸時代前期、城の大手口変更によって、東海道が北に付け替えられた時に出来た新町。
町は藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿や茶店があり、小田原提灯作りの家もあった、とのこと。


ここで国道1号線をいったん離れ、旧東海道へ。
『旧東海道はここを曲るようだねっ』


旧東海道を進む。


『おもしろい町名だねぇ』


”万町”と書いて「よろっちょう」と読む。
町名は古くから「よろっちょう」と呼ばれた、とのこと。
町内には七里役所という紀州藩の飛脚継立所があり、
江戸時代末期には旅籠が5軒あり、小田原提灯作りの家もあった、そうだ。


小田原市内に入ると、蒲鉾屋の年季の入った古い看板や、


小田原提灯を提げた”おでん”屋などが目に入る。


清水脇本陣跡
旅館の2階に資料館があるとのことだが、時間がないので通過することにした。


「なりわい交流館」なる建物があったので、中を覗いてみると、


冷たい麦茶を振舞われた。
『冷たくて美味しいっ』


せっかくなので、天守閣だけでも観て行こう、ということで小田原城へ向かった。


ちょうどこの日は ”えっさホイおどり”が催されていた。
揃いのコステュームで元気いっぱいに踊る姿は、見ていて気持ちが良い。


二の丸への橋を渡る。
どこも”えっさホイおどり”の出演者たちで溢れている。


本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固に造られていた、とされる、
常磐木門(ときわぎもん)から本丸へ。


小田原城天守閣をバックに全員揃ったところを撮ってもらった。
(ちょっと斜めになっている)


帰りは銅門(あかがねもん)を通る。
扉の飾り金具に銅を使用していたことからその呼び名が付いた、と云われている。
現在の門は、平成9年に復元されたもの。


再び旧東海道へ。
そろそろお腹も空いたことだし、何処か食事する所は?
「なりわい交流館」で見つけた”小田原どん”(鯵天丼)が食べられるとあったので、
約400年の歴史を誇ると云う老舗を覗いてみたが、我々の懐具合とはちょっと合いそうにない。
仕方がない、街道を歩きながら探すことにしよう。


ういろう本店
店舗内の一部はういろう博物館になっている、そうだ。
さすがういろうの本家本元、小田原城天守閣そっくりの造りである。


なかなか食事どころが見つからない、と思っていたら、目の前にファミレスのガストが。
全員一致でここで食事を摂ることに決めた。


『お腹が空いてたから美味しいわねっ』
味も値段もリーズナブルである。


人車鉄道・軽便鉄道小田原駅跡碑
明治二十九年三月、熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され、早川口が小田原駅となった。
明治四十一年に軽便鉄道とし、小田原電鉄からの乗換駅として、この地方の交通に恩恵を与えた。
大正十一年十二月、国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、その任務を全うした、とのこと。


東海道線の下を潜って、道路の反対側へ渡り、


少し進むと居神神社(いがみじんじゃ)があった。
居神神社または井神神社と云い、板橋と山角町の氏神である。
祭神は、木花咲耶姫命、火之加具土神と三浦荒次郎義意公の霊とされている。


旅の安全をお祈りし、


旧東海道を箱根湯本を目指して進む。


古希庵
明治四十年(1907)明治の元勲山縣有朋公は、ここ小田原の別荘に、独創的な庭園を築いた。
ときに公の七十歳、古希の年に因んで「古希庵」と名付けられた。
同じ公の所有だった、東京目白の椿山荘、京都別邸の無鄰菴(むりんあん)とともに近代日本庭園の傑作とうたわれた。


無人の入口で署名して、一人100円を払い、順路に従って園内へ


園内風景(1)
日本古来の「山水回遊式庭園」の形式ではなく、「自然主義的庭園」の形式を採ったとされる。


園内風景(2)
廊下の先は所有管理する会社の会議室になっている。


園内風景(3)
明治天皇の神霊を祀った槇ヶ岡神社が造られたが、公没後、那須の山縣農場へ移築された。
周囲に槇の木を植えたことから、槇ヶ岡神社と名付けられた。


園内風景(4)
お地蔵様もある。


園内風景(5)
三階の部屋と同じ高さの上段の庭。


茅葺屋根の門を出て、旧東海道へ。


旧い建物が旧東海道の名残りを味わわせてくれる。


板橋地蔵尊
「板橋のお地蔵さま」と古くからこの地に親しまれている。
永禄十二年(1569)香林寺九世の文察和尚が、身丈一丈(約330Cm)の大坐像を造り、
箱根湯本の宿古堂に祭られていた弘法大師彫造の御真体を胎内に安置したと云われている。


でっかい大黒尊天像が本堂の前に置かれていた。


小田急線高架下を通過


正面からの日差しが眩しいので、下を向いている。
決して疲れたからではない、と思う。


電車が直ぐ右側を通過して行った。
小田急線風祭駅付近


14時51分、蒲鉾の鈴廣前を通過
大型バスの観光客がぞろぞろと店の中へ吸い込まれていった。


コンビニ店の駐車場で一休み。
『ゴールはまだかなぁ』


15時14分、箱根町に入った。


道路工事中で歩行者は通れないため、側道を進んで、いったん階段を降り、


トンネルを潜って、


道路の反対側へ。


三枚橋が見えてきた。


早川


早川を渡り、


早雲道りを進む。
次第に坂道が急になってきた。
疲れた身体には堪えるが、最後の力を振り絞って前へ前へ。


早雲公園前バス停を通過


15時48分、早雲禅寺に到着した。


早雲寺はあいにく全面修理工事中だった。
これでは内部見学は望めない。
手短に北條氏の墓を見て引き上げることにした。


鐘楼は江戸後期の寛政年間の建物と考えられている、とのこと。


境内奥の「北條五代の墓」への石段を上ると、北条五代の墓があった。


北條五代とは、
北條早雲(1432~1519)
俗称伊勢新九郎長氏、戦国時代初期を代表する武将。
京都から駿河今川家に身を寄せ、伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。(享年88歳)
北條氏綱(1486~1541)
父早雲の意志を継ぎ、武蔵・上総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。(享年56歳)
北條氏康(1515~1571)
扇谷上杉を滅ぼし、関東の覇権を握る。領国経営に優れた手腕を発揮した。(享年57歳)
北條氏政(1538~1590)
信玄の西上を後援、信玄没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。(享年53歳)
北條氏直(1562~1591)
下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。
上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。
家康の助命で高野山に流される。(享年30歳)
この墓は、天正十八年(1590)の小田原城落城後、北條氏を継承した狭山北條家五代当主の氏治が、
小田原北條家滅亡から82年後の寛文十二年(1672)八月十五日に、早雲公の命日に竣工したもの。


北條五代の墓の右手奥に、江戸中期の俳諧師稲津祗空の墓がある。
江戸中期の俳人祗空は、享保十六年(1731)、箱根湯本(境内)に石霜庵を結んだ。


また、室町時代の連歌師飯尾宗祇法師の墓もある。
宗祇は、文亀元年(1501)2月越後上杉氏の許を発ち、弟子宗長・宗硯らとともに関東各地で連歌を催しながら
駿河・美濃に向かう旅の途上、翌文禄二年七月三十日、箱根湯本で客死した。(享年82歳)


早雲寺を後にして、箱根湯本駅へ向かう。
急な坂道を下って、


旧東海道の湯本橋を渡ったところに、


小田原馬車鉄道・電気鉄道湯本駅跡の説明板があった。
明治二十一年(1888)10月、国府津~湯本間に日本で3番目の小田原馬車鉄道が開通した。
今日の箱根登山鉄道の前身である。
全長12.9Km、軌間は1,372mm(狭軌) ここが当時の終点湯本駅で、1時間20分ほどで走った、そうだ。


箱根湯本の市街地を進み、


16時13分、この日のゴール箱根湯本駅に到着。
国府津駅を出発して6時間半かかったことになる。


小田急線で小田原へ向かう。
『いやぁ 今日はちょっと疲れたねぇ』
『けっこう距離もあったしね。それに小田原城にも立ち寄ったりしたから、時間がかかったのは仕方ないねっ』


16時45分、JR小田原駅に到着
17時7分発の東京行きを待つには、しばらく時間がある。
その間に、軽く一杯だ。『お疲れさ~ん!』


『これがあるから街道歩きは止められないんだよね~っ』


『やっぱり美味しいわねっ』

『皆さん、今日は大変お疲れ様でしたぁ』

「旧東海道を歩く」第九回目(国府津~箱根湯本宿)を無事歩き終えた。
少し距離は長かったが、天気に恵まれたのは何よりだった。
時間はかかったが、小田原城にも立寄ったことだし、これで良しとしておこう。
残すはあと2回、箱根湯本を出発し、箱根関所で一泊して三島宿を目指すことになる。
箱根の旧東海道を皆さんとともに無事踏破したいものである。

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