ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(1日目)

2017年04月16日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年4月16日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十一回目は、黒野田宿(JR笹子駅)から
石和宿(JR石和温泉駅)までの約21Kmを歩いた。
1日目(日)は、笹子駅から笹子峠を越えて甲斐大和駅までの10Kmである。
一人で甲州街道を歩いていると言う「健康ウォーキング同好会」のS子さんも
『一人では笹子峠を越えたくない』との理由で、同行することになった。


6時48分に東京駅に到着し、駅弁屋へ直行。
6時53分発の高尾行に乗るため中央線ホームへ一目散。


高尾行中央特快に無事乗車。
『ぎりぎり間に合って良かったぁ』
安心してお腹が空いちゃった?


男性陣は常磐線で朝食を済ませている。


この日の参加者は、女性4名・男性6名の計10名である。


高尾駅で甲府行に乗り換え、9時2分、時刻表どおり笹子駅に到着。


めいめい体調を整え、9時19分、笹子駅を出発!


国道20号を笹子峠を目指す。


黒埜宿笠懸地蔵
往古より此の街道路傍に分厚い笠様の物を、頭に立ちつくす。
小作りの珍形石造り地蔵が在る。
之を黒埜宿笠懸地蔵と呼ぶ。其の由来に就ては今も詳ならず。
創建は安政二年卯五月、十三代将軍徳川家定の天領政治時代の頃。
天保の大飢饉と徳川天領時代の重税に苦しむ百姓たちが、
餓死・心中・乞食など襲って来る苦渋に満ちた諸業を喜しかれと、
このお地蔵様に心願して来たもの、とのこと。


笹子川に架かる黒野田橋を渡ると、


黒埜山普明院という寺があった。
臨済宗妙心寺派の禅寺である。


山門の脇に黒野田の一里塚碑が立っていた。
江戸日本橋より二十五里(約100Km)とある。


毘沙門堂


堂内には毘沙門天王が祀られている。


十六羅漢堂内には、大きな榧(かや)の根っこがあり、
その周囲にはいろんな木彫りの像が並べられている。


十六羅漢像は、榧の根っこの左右奥に鎮座していた。


境内に芭蕉の句碑があった。
『行くたびに いどころ変わる かたつむり』


普明院を後にして甲州街道を進むと、中央高速沿いの桜が目に入った。
『いやぁ まさに今が満開だねっ』
『こうやって下から見上げるの良いね~っ』


屋影橋の先にも見事な桜の木があった。


桜の木の脇には馬頭観世音像が並んでいた。
笹子峠は、昔の旅人や武士たちにはかなりきつい傾斜道だったのだろう。
共に旅をした馬を弔う馬頭観音塚はその苦難を物語る。


9時52分、追分を通過


笹子峠を目指す。


矢立杉の案内板
『笹子峠まで4Kmか、そんなに遠くはないねっ』


かつてのコンビニ跡に激安100円と表示された自販機が。
しかし、全部が100円ではない。120円、130円のものもある。


激安自販機の少し先で旧甲州街道は国道20号と分かれていた。
矢立の杉4Km、笹子隧道5.7Kmとある。
先ほどは、笹子峠4Kmとなっていたが、どっちが正しいのだろう。


左へ折れて山口橋を渡り、県道212号(旧甲州街道)へ。


旧甲州街道の案内板をうっかり見落としてしまった。
後ろからの大声で引き返し、案内板があったのに気がついた次第。
案内板は反対側を向いていて、進行方向からは見え難かったのだ。
『これじゃあ見落としちゃうよねっ』


県道212号から分れて旧甲州街道に入ると、
舗装された道は細い山道に変わった。


緩やかな上りが続く。


坂道を上って行くと、


杉林になった。
身体が温まってきた、と同時に汗が滲んできた。


10時43分、県道212号に合流する少し手前で一休み。
水分補給だ。


舗装された県道212号を進んで行くと・・・


笹子峠自然遊歩道(旧甲州街道)の案内板があった。
800mで矢立の杉へ至るとある。
左に矢立の杉方面を指す標識が立っていた。


矢印が指す笹子峠自然遊歩道へ。


笹子峠自然遊歩道は、急な坂道だったり、


沢を渡ったり、変化に富んでいる。


城跡を思わせるような石垣に囲まれた一角が現れた。
『ここに城があったんじゃないのっ?』


ここはかつての三軒茶屋跡で、
明治天皇御野立所跡の碑が建てられている。
『ここで野立をやったんだぁ』


三軒茶屋跡の石垣の上に、野仏像がポツンと残されていた。


沢に架かる木橋を渡り、


少しばかり急な坂道を上ると・・・


目の前に「矢立の杉」が現れた。
樹高約26.5m、根回り14.8m、目通幹囲9mで、樹齢1000年とも云われ、
天然記念物に指定されている。
幹は地上約21.5mで折れ、樹幹の中は空洞になっている、そうだ。
かつては中の空洞を見られたそうだが、今は周りに柵がしてあり、
進入禁止になっている。
『いやぁ しかし凄いね~っ』 『見事という他ないねっ』
その巨大さに圧倒される。


笹子峠の東800mほど下がったところに立つ「矢立の杉」は、
出陣する兵士がこの杉に矢を射立てて冨士浅間神社を祀り、
戦勝を祈願したと云われ、甲斐国誌などの古書に記されたり、
北斎や二代広重などの絵にも描かれている、そうであり、
当時からいかに知られた巨木であったかが伺える。


近くに身代わり両面地蔵菩薩像があり、


その隣に矢立の杉の歌碑があった。
唄杉良太郎となっているが、聴いたことはない。


この先も旧甲州街道の案内板に従って進むことにしよう。
県道212号よりかなり近道のはずである。


道なき道が続いている。
沢に架かる細い木橋を渡ったり、


急坂の杉林を抜けたり。


『街道歩きじゃないねっこれは、まるで山登りだねっ』
『昔の殿様もこんな所を歩いたのかねぇ』


急坂の山道を歩くこと25分、


県道212号に合流した。
『いやぁ きつかったよっ』
『街道歩きと言うより登山だねっ』


県道212号を笹子隧道(トンネル)へ向かう。


舗装道路を笹子隧道を目指す。


11時56分、舗装道路を歩くこと10分で笹子隧道に到着した。
甲州街道最大の難所と云われた笹子峠を回避するため、昭和13年に完成。
長さ240m、幅3mのトンネルは、地元住民の悲願であった。
国登録有形文化財になっている。


右手に峠への案内板があった。


『せっかくだから峠を越えたいねっ』と最年長のKさん(83歳)
自分よりも一回りも年長のKさんにそう言われれば、いやとは言い難い。


ここでトンネルを通過する4名と峠越えに挑戦する6名に分かれた。
ここまで来たからには、峠越え組と行動を共にするしかない。
12時1分、Kさんの後を追い、急坂の登り開始。


『いやぁ 峠越えはやっぱりきついねぇ』
『昔の人は大したもんだねぇ』


12時9分、トンネル入口から8分で笹子峠に到着。
江戸から諏訪までの甲州街道のちょうど中間地点にあたる笹子峠は、
江戸方面より上り1里15町、下り22町の峠道で、
笹子山は篠籠(ささご)嶺、坂東山とも呼ばれた。
北は大菩薩嶺より初鹿野山、南は黒駒山、御坂嶺、片山に連なる
一脈の大山である。
峠は八代、都留二郡の境で標高1096m、甲州街道一番の難所だった。


峠を少し下った右手に、天神宮の赤い鳥居が見えた。
昔ここを通った旅人たちが旅の安全を祈願したものと思われる。


峠を越えると反対側への下りは緩やかだった。


12時18分、トンネル西側(甲州市)に到着
トンネル通過組が首を長くして待っていた。


お腹が空いた、『弁当にしましょうっ』


トンネル出口辺りに腰を下して弁当タイム。


この日の弁当は、山形特選牛めし(950円)だ。


お腹もいっぱいになり、12時51分、麓の駒飼宿を目指して出発だ!


隧道の近くに甲州街道峠道の案内標識が立っていた。
『これって近道なんじゃないっ』


案内標識に従って山を下る。


峠道は急坂になっていた。


5分ほどで舗装された県道212号に出た。
そこには新たな旧甲州街道の案内標識があった。
清水橋という所へ通じているらしい。


案内標識に従って山を下る。
先ほどに比べさらに急坂で険しい径が続いていた。


甲州街道峠道は、杉林へと続く。


『ここは弾力があって歩き易いわねっ』
腐葉土のような状態で気持ちが良い。


小さな沢を渡り、


木橋を渡り、


さらに丸太橋を渡る。


13時19分、自害沢 天明水と書かれた道標を通過すると・・・


視界が開けた場所に出た。
しかし、今どの辺りを歩いているのか見当がつかない。
黙々と径を下るだけである。


13時25分、清水橋に到着した。
県道212号に合流である。
笹子隧道から35分かかったことになる。


この峠を往来した当時の旅人を偲んで作られたという
「甲州峠唄」が、昭和61年2月12日に発表された、とある。
この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり、
昭和62年5月、清水橋から峠まで地域推進の一環として、
日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して
歩行の出来る状態にしました、とのこと。


清水橋からは県道212号を進むことになる。


桃の木茶屋跡と書かれた標柱が立っていた。
往時は3軒の茶屋があった、そうだ。


県道212号を進む。
『県道なんだけど車が全然通らないねぇ』


もちざわ橋を通過


「飯田コンクリート(株)山梨工場」の手前で、
県道212号は車止めで閉ざされていた。
『なあんだ 車は通さないようになってたのかぁ』
車が通らない訳だ。


駒飼宿を目指す。


ヘアピンカーブが続く道路だが、少しでも近道をしようと、
斜面を下りる。


駒飼宿を目指す。
『あとどのくらいなんだろうねっ』


笹子峠から6Km地点を通過
国道20号まで2Km余りと思われる。


大和町日影の民家が見えてきた。


笹子沢川に架かる天狗橋を渡ると、


右手に芭蕉句碑があった。
秣負ふ 人を栞の 夏野或
(馬草負う 人を枝折の 夏野哉)


甲州道中 駒飼脇本陣跡 と書かれた標柱が立っていた。
今は駐車場になっている。
標柱の傍で子供が無邪気に遊んでいた。


駒飼宿(日影)の家並み


さらに駒飼宿を進む。


甲州道中 駒飼本陣跡
江戸より第三十宿、江戸へ三十里九丁、甲府へ五里十九丁
本陣一、脇本陣一、旅籠六、問屋場一、宿内家数六十四戸、
宿高百三十五石五斗六升三合 と書かれた標柱が立っていた。
『六升三合とは随分細かいねぇ』


旧甲州街道の道標に従って進む。


往時の駒飼宿の図
笹子峠の西麓にあった駒飼宿は、江戸時代には幕府の公用を
継立する役目を果たし、本陣・脇本陣・旅籠などが設けられた
甲州街道の要所として知られていた、とある。


旧い民家
二階中央部の造りが特徴的である。
猿が家の中に入ってくるので、窓は閉めたままにしているそうだ。
つい2-3日前にも猿が現れた、とのこと。


その隣も旧い民家だが、オーガニックカフェ店として営業していた。


S子さんお薦めのカフェ店で、熱いオーガニックコーヒーを注文した。
一杯550円とやや高かったが、疲れた身体には美味しかった。


旧甲州街道を国道20号へ。


笹子沢川に架かる古道橋を渡ると、


中央高速道が見えてきた。


さらに坂道を下ると、


右手に甲斐大和の町並みが見えた。


14時59分、国道20号のガソリンスタンド前に到着。


ここでS子さんとはお別れだ。
彼女は、先週一人で甲府から勝沼まで歩いたので、
この後、甲斐大和から勝沼まで歩き、電車で帰宅するとのこと。
『気を付けてね~っ』 『お疲れさま~っ』 


この日宿泊予約している「甲斐の国自然学校」に、
迎えに来て欲しい旨連絡し、ガソリンスタンドの脇で
めいめい整理体操などをしていると、


7分ほどで、迎えのワゴン車がやって来た。


途中コンビニに寄ってもらい、ビールと酒などを購入。
「甲斐の国自然学校」は、アルコール類を提供していないが、
持ち込みは自由とのこと。


時間があったので、武田勝頼公終焉の地で、勝頼公の墓があるという
景徳院へ案内してもらうことにした。
15時28分、景徳院山門前に到着。


この楼門は、天保六年(1835)に再建されたもの。
景徳院は2度の大火で堂宇を焼失しており、この山門だけが
往時の姿で残っている。県指定有形文化財。
『いやぁ 立派な山門だねぇ』


旗竪松(はたたてのまつ
勝頼公事すでに急迫なるを見て、武田家累代の重宝旗を大松の根本に立て、
楯無鎧を世子信勝公に着用させ擐甲の礼(元服式)を行いし処、
との説明がある。


景徳院本堂
景徳院は、武田勝頼公の死を弔うため、徳川家康が武田家滅亡後直ぐに
武田遺臣に命じて建立させた、そうだ。


本堂内には、勝頼親子と夫人の位牌が安置されている。
左から嫡子の勝信、勝頼公、北条夫人。
1週間後の4月23日(日)には、第52回「武田勝頼公まつり」が行われる。
武者行列や出陣絵巻が予定されている、とのこと。


本堂前左右には、勝頼公と死を共にした家臣たちの名前が書かれた
幟が立てられていた。


その中に常陸土浦藩とゆかりがあるという土屋惣藏昌恒と書かれた
幟があった。
Kさんによると、概略以下のようである。
土屋惣藏昌恒の嫡男は、天目山合戦の最中に家来によって秘かに逃げ、
駿洲興津の清見寺に預けられた。
父と同名を名乗った惣蔵が9歳のとき、徳川家康によって召し出され、
徳川秀忠の小姓として預けられた。
この時、「忠」の一字を承け惣蔵という名を「忠直」としている。
忠直は、天正19年に相模にて3千石、慶長7年には2万石を得て
上総久留里藩主となった。
忠直の二男数直は、秀忠の命によって家光の近習として仕えた。
また家光の下で若年寄に任命され、寛文2年に1万石で常陸土浦藩主となった。
つまり武田家家臣の土屋惣藏昌恒は、土浦藩と大いに縁がある、
という訳である。


甲将殿
勝頼親子と夫人の影像(人形)や遺品などが保存されている。


甲将殿の裏に勝頼公の墓がある。
左は信勝(勝頼の嫡男16歳)、中央が勝頼公(37歳)、
右は北条夫人(正室19歳)


勝頼公の生害石
天正十年(1593)三月
勝頼公はこの石の上で自害した。


北条夫人の生害石


勝頼夫人の辞世の句碑
『黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒』


景徳院を後にして「甲斐の国自然学校」に向かおうとした時、
運転手さんが気を利かして、「土屋惣藏片手切の碑」を案内してくれた。
土屋惣藏昌恒と土浦藩は縁があるという話を横で聞いていたのだ。

惣蔵は勝頼の自害の時間を稼ぐため、山中の最も崖路の狭い所で岩角に身を隠し、
左手は藤蔓に摑まり、右手で刀を持ち、迫りくる織田兵を次々に斬って捨て、
谷川に蹴落としたと伝えられ、谷川の水は3日間鮮血に染まったと
云われている、とのこと。


土屋惣藏の活躍奮闘により、武田勝頼主従は田野の郷まで戻り、
従容として自刃したと云う。
数丈の崖、自然の楯のようなこの場所で、寄せ来る敵兵を防ぎ、
たくさんの人を片手で切ったことから、「土屋惣藏片手千人切」と
云われている、そうだ。


16時3分、「甲斐の国自然学校」に到着


男性は、通常8人用の部屋を6人で使うことに。


天然温泉で汗を流した後は、コンビニで買ったビールで喉を潤す。
『かんぱ~いっ』
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


『かんぱ~いっ』


『最後に景徳院を案内してもらって本当に良かったよねっ』


『武田家と土浦藩がこんな形で繋がっていたとは意外だったなぁ』


一杯飲んだ後だが、夕食もしっかりといただこう。
『また明日も頑張りましょう!』


夕食


「旧甲州街道を歩く」第十一回目1日目(阿弥陀海道宿~駒飼宿)間
約11Kmを歩き終えた。
当初は2月末に予定していたが、甲州街道随一の難所とされる
標高1,096mの笹子峠には、雪が残っている可能性があり、
峠越えは厳しいと判断。
また、2日目は勝沼方面を歩くことから、せっかくなら桃の花が咲き誇る
4月初旬まで待とうとこの日まで延期した次第。

S子さんも無事笹子峠越えを果して一安心といったことだろう。

武田勝頼公終焉の地となった景徳院を案内してもらったおかげで、
武田勝頼公家臣の土屋惣藏昌恒が土浦藩と縁があることを知った。
また、「土屋惣藏片手切の碑」までも案内していただき、
「甲斐の国自然学校」の運転手さんには、大いに感謝している。

次は、どんなハプニングが待っているのか、
明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(2日目)

この日の万歩計は、22.000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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