ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

牛久沼越し雪景色の富士山に感動 牛久城跡・牛久沼周辺散策

2024年01月26日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)1月26日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第17回、令和6年(2024年)第2回「牛久城跡・牛久宿周辺散策
ウォーキングに参加した。

この日のコースは、これまで何度か歩いているが、JR牛久駅をスタート&ゴールとするのは
今回が初めてである。
過去には2010年6月11日に、得月院から雲魚亭・河童の碑・観光アヤメ園・牛久城址へと歩いている。
2017年3月17日には得月院を出発して牛久沼周辺を散策している。
2017年4月14日に初めて三日月橋桜コースを歩き、
2021年3月26日には2度目の三日月橋桜コースを歩いている。

荒川沖駅に集まったのは15名、まずまずの人数だ。


この日の朝の気温は6℃前後、しかも風が強くて寒い。
女性陣は陽の当たるホームの端に寄って電車を待っている。


男性陣はホームの中央で話に夢中になっている。


荒川沖駅9時5分発の電車が到着した。


牛久駅には定刻の9時12分に到着した。
牛久駅改札口前には荒川沖駅からの15名に、土浦駅から乗車した8名と龍ヶ崎市駅からの1名
が加わり、計24名が集まった。想定を超える人数だ。
やはり近くて過去に何度か歩いたことのあるコースというのが大きいと思われる。
電車でということもあるかもしれない。


この日のコース概要を説明し、続いてTK会長からの挨拶があり、


9時21分、牛久駅西口を出発!


先ずは国道6号方面へ。


国道6号の牛久駅西出口交差点を横断して、


牛久駅西口郵便局方面へ。


9時26分、牛久駅西口郵便局前を通過。


さらに真っ直ぐ進み、


スーパーカスミの駐車場を右手に見ながら進むと・・・


国道6号牛久土浦BPがある。
国道6号牛久土浦BP十字路を横断し、さらに左に横断して藤代方面へ。


右手には牛久町の家並みが見える。


国道6号牛久土浦BPに沿って進む。


左手に牛久小学校が見える。


国道6号牛久土浦BPを進む。


牛久小学校の300mほど先の信号を右折して300mほど進むと・・・


右手に牛久第三中学校が見えて来た。
『何となく見覚えのある景色だよなっ』
今までに何度かこの近くを歩いているが、最近では2021年3月26日(金)に三日月橋桜コース散策
として歩いているので覚えている方もおられることだろう。


道路を横断し、


三日月橋方面へ。


500mほど進むと、10時3分、最初の目的地牛久市観光アヤメ園に到着した。
観光アヤメ園は、総面積8,000平方メートルの敷地に約200品種、2万本のアヤメ、ハナショウブ、カキツバタが咲く。
毎年6月初旬から開花し、一番の見ごろは中旬になり、下旬まで楽しむことができる。
春には稲荷川のほとりに咲く桜とともに、桜並木が見事、と案内されている。


アヤメ園の中央にカッパの像がある。


カッパの像をバックに記念撮影だ。
『いやぁ(記念撮影は)久しぶりだねぇ』
記念撮影は昨年10月21日の「滝川渓谷ハイキング」以来となる。


観光アヤメ園を後にして、


右手に稲荷川を観ながら歩くことになする。


『この寒い中でも釣り人が居るんだぁ』
『好きなんだねぇ』


稲荷川の牛久沼手前を左に曲がり、


雲魚亭、河童の碑方面へ真っ直ぐに進む。


『この辺は少し風が弱くなったよねっ』
樹木が少しだけでも強風を遮ってくれるのがありがたい。


さらに道なりに真っ直ぐ進むと・・・


雲魚亭・河童の碑 400m、住井すゑ文学館 500mの案内板があった。


案内板に従って道なりに進むと、


稲荷神社の前に出た。


『いやぁ 満開だねぇ』 『もう直ぐ春って感じだよねっ』
ほぼ満開の白梅が美しい。


梅の木に見惚れながら進むと、右河童の碑 左雲魚亭の案内板が。
雲魚亭の下に何やら説明文が・・・
河童の碑から雲魚亭周辺にかけて花の苗を植える作業をしています。
芋銭の好んだ花 仙翁(せんのう)を中心に季節によって楽しめる花々を会員が
持ち寄ったものです。
年々充実させていきたいと会員一同張り切っております。
どうぞ温かく見守って下さい。
同時に竹林も整理しました。竹林内には立ち入らないで下さい。
ボランティアグループ 「芋銭の庭」


最初に河童の碑へ。


河童の碑


牛久市指定文化財(工芸品)
小川芋銭碑(河童の碑)
画聖小川芋銭は、明治元年牛久藩邸(現・東京赤坂溜池)で生まれ、同4年この地に移住、
少年期上京し、桜田小で勉学の後、彰技堂において画を学んだ。
同26年帰農以後は、郷土の伝説に登場する「河童」をはじめ「水の精」や「山の精」など
幻想的な世界を数多く描き、独自の画境を開いた。
一方芋銭は画のほかに、書や俳句にも通じ、絵を描く芭蕉とも称されており、昭和13年
71歳で他界するまで各地を訪れ、不朽の名作を残している。
平成二十五年四月二十二日指定  牛久市教育委員会


河童の碑の後ろにスダジイの大木が・・・


説明板には以下のように説明されている。
市民の木No.41  スダジイ(ブナ科)
樹高・15m、樹幹周り・400cm、樹齢・推定400年
(前略)
この辺りはかつて牛久藩の陣屋(1619年~1871年)の一部であり、近代日本画家の巨匠
小川芋銭(1868年~1938年)も四季を通して詩情豊かな沼畔に望むこの地をこよなく
愛しました。 牛久市


河童の碑を後にして、次の目的地雲魚亭へ。


河童の碑と雲魚亭の境界辺りに変わった道標が建てられていた。
正面に”國道方面”、右側面に「改善一歩」と刻まれている。
道標の横に「改善一歩」の刻字についての説明板が。
 この道標は、大正11年(1922年)に城中青年会(矯風会)の手によって、旧牛久村の
主要なみちすじに立てられたものの一つである。
当時、青年達が、道標を建てる計画をしていたところ、それを知った小川芋銭先生が、
永久に耐えられる石柱にしなさいと、これを寄付してくれたものである。
 青年会では早速好意を受け、芋銭先生の名を石柱に刻もうとしたが、先生は、
名前の代わりに「改善一歩」と刻みなさいと言われた。
 この改善一歩とは、自分の歩む道を善い方へ改めて進みなさい、という意味で、
現在7本が地区内に残っている。


「改善一歩」の意味を噛みしめながら進むと、10時32分、雲魚亭の裏庭に到着した。
浦庭には形の整った松の木が2本植えられていた。
そのうちの一つは”カッパ松”の名前が付いている。


そのむかし、村の若者が沼に棲むカッパに水の中に引きずり込まれ、死んでしまうことが
たびたびありました。
そこで、村で一番屈強な若者が、カッパ退治をすることになったのです。
ある日、その若者は、とうとうそのいたずらカッパを見つけました。
沼のほとりで昼寝をしているではありませんか。
若者はカッパを陸に引きずり上げ、松の木に括り付けて殺そうとしました。
ところが、カッパがあまりに泣いて詫びるので、気の優しい若者は、二度と悪事をしないことを
約束させ、カッパを放してあげました。
それ以来、沼で溺れる人はなくなりました。
またカッパを括り付けた松は「カッパ松」と呼ばれるようになったということです。


小川芋銭が揮毫した不動尊と書を刻んだ石碑群
 建碑者である医療法人土浦産婦人科(土浦病院)の院長石島ゑい(1885~1971)は、
心に不動尊を念じ、動じない覚悟で患者に向き合ったとされ、交流のあった芋銭の筆による
不動尊と書を石に刻みました。
 石碑は昭和4年(1922年)に制作され、病院の中庭に建てられました。
長らく医療現場を見守った石碑でしたが、病院の閉鎖に伴い牛久市に寄贈され、
現在地に移設されました。   令和3年3月 小川芋銭記念館雲魚亭保存会


雲魚亭
牛久沼をこよなく愛した画聖「小川芋銭」が晩年、牛久沼のほとりに建てたアトリエ「雲魚亭」。現在は小川芋銭記念館として芋銭の作品や遺品を一般公開している。
「雲魚亭」は芋銭の生前の数々の偉業を讃えるために昭和27年に芋銭の友人池田龍一氏が
中心となって建立された。


小川芋銭記念館雲魚亭
市指定文化財(建造物)  
雲魚亭 昭和12年建築 木造平屋建 瓦葺
平成22年6月28日指定 牛久市教育委員会


雲魚亭を後にして次の目的地へ。


雲魚亭からものの数分のところに住井すゑ文学館があった。
住井すゑ(1902~1997)は奈良県出身の作家。
昭和10(1935)年に、夫・犬田卯(いぬたしげる)の郷里である牛久村城中
(現・牛久市城中町)に家族で移住し、以来この地で執筆活動を行ない、
自由と平等を訴える作品を数多く発表した。
なかでも大作『橋のない川』は大ベストセラー小説となり、映画化された。
平成30(2018)年、住井すゑの書斎・抱樸舎(ほうぼくしゃ)・住宅の建物と土地が、
ご遺族より牛久市へ寄贈された。
改修工事を行ない、令和3(2021)年11月3日に牛久市住井すゑ文学館として一般公開された。


住井すゑ文学館の入口に現在地と周辺地図と観光地(A~F)の位置が表示されていた。


また、その隣に周辺の観光地(A~F)の写真と牛久沼の自然の写真が掲載されていた。
『牛久市観光アヤメ園はさっき行ったでしょっ、河童の碑と雲魚亭には今行ったばかりよねっ』
『夕焼けの富士山はとても綺麗だけど、この辺から富士山が観えるのかしらっ?』


一足先に敷地内に入った人から『牛久沼が見えるよっ』との声が・・・
声のする方へ行ってみると、一か所だけ木々の隙間から牛久沼が望める所があり、
皆さんがスマホやカメラのファインダーを懸命に覗いていた。


何とほぼ正面の牛久沼越しに真っ白な雪景色の富士山が見えるではないか。


『いやぁ こんな所から富士山を観られるとはねぇ・・・』
『しかも雪景色一色だもんねっ、感動ものだねっ』
『今日来た甲斐があったということよねっ』
自分も含めて皆さん満足のゆくこの日最高の景色だった、と思う。
入口で見た富士山の素晴らしい夕焼けの景色はまさにここからだったのだ、と納得した。


住井すゑ文学館を後にして、


かっぱの小径へ。


曲がりくねった坂道を下る(1)


曲がりくねった坂道を下る(2)


開けた所に出た。かっぱの小径である。


牛久沼の方に目をやると、富士山の頂上付近が少し見えただけだった。
住井すゑ文学館はかなり高い所(15mほど)にあったことが分かる。
牛久沼畔から富士山眺望の最高のポイントなのだと思った。


かっぱの小径を進む。


牛久沼はかなり風が強く、沖合はウサギが跳ねていた。
ウィンドサーフィンをやっていた人も諦めたのか、陸へ向かって来ていた。


かっぱの小径へ。


『お日様の反射が眩しいわねっ』


牛久沼の様子


かっぱの小径を進む。
『秋とか春に歩いてみたいわねっ』


かっぱの小径もこの付近で終わりになる。


かっぱの小径が終わり、左手に特別養護老人ホーム 元気館が見えた。
目指す牛久城址は右に曲がることになる。


特別養護老人ホーム 元気館とは反対側の方へ300mほど進むと、牛久城址への案内標識があった。


少し進むと通行止めのコーンがあったが、車両が対象なので、コーンを避けて進む。


薄暗くて細い荒地のような径を進むと・・・


右手に竹藪に囲まれた広場があった。
以前、ここを牛久城址の旧本丸跡と勘違いしたことがあったが、旧牛久城の出丸跡ではないかと
思っている。(はっきりとしたことは不明)


『こんな所に広場があったんだぁ』
初めての人には森の中にこんな広場があるとは思ってもみなかったのではないだろうか。


ここで小休止をしていこう。
『どうぞ どうぞっ』 持参したお菓子を配るいつもの景色だ。


『いただきま~すっ』 『いつもいつもありがとうねっ』


女性陣は一段と日当たりの良い場所に腰を下ろしている。


11時20分、小休止の後、牛久城址を目指して林の中を進む。


『急に広い場所に出たわねっ』


ここが本来の牛久城址である。


牛久城は岡見氏によって築かれた城で、牛久沼へ突き出した台地に位置し、三方を沼に囲まれている。
また、北条流の築城技術を取り入れて築かれており、惣構えをもっていた。
佐竹氏と結んだ多賀谷氏からの攻撃を受け岡見氏が滅亡したのちは北条氏方の持ち城となった。
その後「小田原の役」で北条氏が滅びると、豊臣秀吉によって由良国繁の母に牛久城が与えられ、
国繁が城主になったが、元和九年(1623年)に廃城となった。
江戸時代には山口氏が牛久陣屋を築き、明治維新まで存続した。
現在城址には土塁や空堀などの遺構が良好な状態で残っている。


牛久城址を後にして、次の目的地得月院へ。
農家に囲まれた細い道を進む。


細い道を得月院を目指す。


『これは薬師堂なのかしらっ?』


道路脇に小さな薬師堂が建っていた。
ご本尊の木造薬師如来坐像は牛久市の指定文化財(彫刻)として指定されている、とのこと。
奈良時代の僧「行基」の作と伝えられており、ほぼ半等身の薬師如来像、と説明されている。


11時34分、得月院前の駐車場に到着した。
この駐車場は何度か利用している。


得月院には、河童の絵を描き続けた日本画家・小川芋銭の墓があり、本堂の裏手に回れば
見学可能となっている。
得月院は小川芋銭の作品のなかでもモチーフとして使われたことがある。
得月院の門を潜ると・・・


直ぐ左手に閻魔堂があった。


閻魔堂の中には、中央に閻魔大王、その右側に妹の奪衣婆(だつえば)が睨みを効かせている。
三途の河原を渡ろうとしている亡者に対し、奪衣婆が亡者の身ぐるみを剥ぎ、その剥ぎ取った
衣服を、側に居る懸衣翁(けんえおう)という爺さんに渡す。
懸衣翁は受け取った衣服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝に下げると、亡者の
生前の業(ごう)の重みによって、悪いことをしてきた亡者の衣服は枝が撓るほど下がる。
それを閻魔大王が見ていて、その亡者に対し、あの世での処遇を決める、という仕組みだそうだ。


門を入った正面に得月院の本堂がある。
本堂は素朴ながらも趣のある造りになっている。
得月院は、文禄三年(1594年)牛久城に移り住んだ、由良国繁の母妙印尼輝子が開基した寺院。
地元出身で近代日本画壇の巨匠小川芋銭の菩提寺としても知られている。


本堂脇に立つカヤの木は、推定樹齢は約500年の大木で、樹幹約5m、樹高は20mほどある。
市指定文化財(天然記念物)となっている。
カヤの木は「蚊遣り(かやり)」のために焚いて煙をなびかせたことから、「カヤ」の名が
付いたとの説がある。材は緻密で堅く、木工・碁盤・将棋盤などに利用されている。
このカヤは近代日本画家の巨匠小川芋銭の二本の大木をモチーフにした作品「樹下石人談」に
書かれた木、とのこと。


本堂の奥へ行ってみると、


小川芋銭の墓があった。


得月院を出て左直ぐの所に牛久城の大手門跡を示す石柱が建てられている。


牛久城は、十六世紀の始めのころ、在地領主岡見氏によって築かれたといわれる。
天正十八年(1590年)岡見氏滅亡後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。
元和七年(1621年)由良氏が除封になり、廃城となった。
城は周囲三方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘り切った要害堅固な旧城中集落全域を包む
大規模な城郭である。
大手門は、堀切のほぼ中央に「喰違い虎口」と「桝形馬出し」を備えた、厳重なものであった。
平成3年3月1日  牛久市教育委員会


牛久城大手門跡を後にして、次の目的地旧水戸街道の牛久宿方面へ。
国道6号牛久土浦BPを横断し、


旧牛久宿方面へ。


11時49分、八坂神社前を通過


八坂神社を過ぎて次の信号を左に曲がり、旧水戸街道を牛久駅方面へ。


本牛久郵便局前を通過すると・・・


明治天皇牛久行在所の際の宿所があった。


黒塀をめぐらした旧家飯島家の門脇にある明治天皇牛久行在所跡を示す石柱が建てられている。
これは明治十七年(1884年)の明治天皇女化原行幸の際の宿所を記念した碑で、
牛久という片田舎に明治天皇が訪れたことを物語っている。
当時としてはビッグトピックで、牛久から女化間の臨幸道の改修や牛久沼東岸の
新道の建設などが行われた。


旧水戸街道を牛久駅方面へ進むと、瑞雲山正源寺という寺があった。
文禄元年(1592年)、当時の牛久城主の由良国繁公の母君の発願により、戦で命を散らした
人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建された曹洞宗の寺院である。


当初は、久宝山正源寺と称していたが、江戸時代に入り牛久藩主山口家二代目の弘隆公の時代に、
牛久藩のお膝元だった寺の門前は水戸街道の中央に位置する重要な中継駅として整備され、
牛久宿として栄えた。
それに伴い正源寺も牛久宿の安寧や街道を行き交う人々の安全を見守るお寺として、
弘隆公の支援を受け、現在の瑞雲山正源寺に改められた。


正源寺山門(鐘楼門)
本堂がこの山門を下った先に建っているというのは、あまり例がなく珍しいとされている、そう。


山門を潜り、坂を下って行くと、正源寺本堂があった。
曹洞宗瑞雲山正源寺
文禄元年(1592年)に当時の牛久城主由良国繁公の発願により創建された。
池波正太郎著の「鬼平犯科帳 雲龍剣」の中にも登場する、とのこと。


正源寺の境内にトチノキの大木があった。
樹高・17m、樹幹廻り・330Cm、樹齢・推定400年
木材には美しい模様があらわれることから、床柱や天井板、家具などにも使われるほか、
街路樹にもなっている。
有名なパリのマロニエの木は、この木の仲間だそう。


正源寺を後にして、ゴールの牛久駅へ向かう。


『いやぁ 今日はけっこう歩いたねぇ』
『疲れちゃったよっ』


前方に国道6号沿いの食事処「花屋与兵衛」が見えて来た。
間もなく牛久駅である。


牛久駅西出口交差点で国道6号を横断し、牛久駅へ。


12時20分、ゴールの牛久駅西口に到着した。


次回(2月9日)の説明の後、TK会長から労いの挨拶があった。
『久しぶりにちょっと距離が長かったようなので、ゆっくり身体を休めて下さい』
『また次回、楽しく元気に歩きましょうっ!!』
ということで、今日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この後、駅前の食事処「日高屋」で食事をして、帰路に就いた。


牛久城跡&牛久宿周辺の散策が終わった。
この日のコースは、これまで三日月橋桜見物コースや、城中ルートなどそれぞれ
別々に歩いているため、さほど距離は感じなかったが、今回は一度に両方歩いたためか、
これまでで一番長い距離を歩いたような気がする。

初めて牛久駅をスタート&ゴールとしたことにより、参加人数が減るということはなく、
この寒さのなか、24名もの参加者が集まったことは、喜ばしい限りである。

強風が吹く中、寒さに耐えながら牛久沼畔を歩いた。
住井すゑ文学館から見えた全山が白銀に覆われた富士山には大いに感動させられた。
大げさに言うと、寒さが吹き飛ぶくらいの感動を受けたと感じている。
また、別の季節に歩いて、今回のような感動を味わいたいものである。

この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。

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