ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

本丸は何処? 牛久沼周辺散策(城中ルート)

2017年03月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年3月17日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第40回(2017年第11回)、「牛久沼周辺散策(城中ルート)
」ウォーキングに参加した。


この日第一集合場所は乙戸沼公園には、17名が集まった。
車4台に分乗して、スタート&ゴールの得月院駐車場に向かった。


得月院駐車場には既にかなりの人が集まっていた。
その後も次々と到着する。


さほど広くない得月院駐車場は、当会の車でたちまち満車状態に。
この日は、春の彼岸の入りである。
後から来るであろう墓参の人のためにも縦列駐車をしておこうと言うことに。


縦列駐車後の駐車場
『これだったら、大丈夫だよねっ』


縦列駐車などで時間を要したこともあり、準備体操は省略して、
9時56分、出発!


得月院前を通過


得月院には最後にお参りすることにしよう。


得月院の先を右に曲がり、牛久城方面へ。


『今日も良い天気で良かったねっ』
いつもの元気な顔ぶれが揃った。


緩やかな坂道を進む。


先頭を務めるのは、Oさんだ。
今年度の例会には全て参加しており、2年ぶりの皆勤賞は確実だ。


農道を進むと・・・


谷津田の風景が広がる場所に出た。
数年前に歩いた筈だが、この景色は記憶がない。
『道、間違ってるような気がするんだよなっ』とOさん。
早い方が良いとの判断で、引き返すことに。


谷津田に出る手前にあった細い径を進むと・・・


径は孟宗竹の竹林に続いていた。
(『納得がいかなかった』と言うOさんは、翌日再訪して
手前の左側にあった正規なルートを確認した、そうである)


『こんな道だったかなぁ』などと喋りながら竹藪を進む。
孟宗竹の竹林は行き止りとなり、民家の裏に突き当たった。


民家の裏から軒下を通り抜けると、


10時10分、得月院からさほど離れていない小祠脇に出た。
『こんな所に出ちゃったのかぁ』
小祠には「木造薬師如来坐像」の案内が見える。
案内には、
奈良時代の僧(行基)の作と伝えられており、
ほぼ半等身の薬師如来坐像が安置されている。
牛久市指定文化財(彫刻)とある。


径に迷った分、かなり余分な時間を費やしてしまったが、
気を取り直して牛久城を目指す。
今度は一般道を進むことに・・・


特別養護老人ホーム「元気館」前を通過し、牛久城へ向かう。


前方左手に何となく見覚えのある林が見えてきた。
『牛久城はあの林の中じゃなかった?』


さらに進むと、牛久城の案内表示があった。
『やっぱりこの径で良かったんだ』
案内表示に従って、牛久城跡へ。


両側に広がる竹林の間を通って進むと、


土塁に囲まれた牛久城の空堀跡が現れた。
『今でもしっかりと残ってるんだねぇ』
牛久城跡は近い。


竹林に続く杉林の中を進むと・・・


10時29分、牛久城跡(本丸あるいは二の丸のどちらか)に到着した。
周囲を竹藪に囲まれた広場になっている。
石碑や説明板などは何もない。
『ここが牛久城の跡なのっ?』


牛久城は岡見氏によって築かれた城である。
牛久沼へ突き出した台地に位置し、三方を沼に囲まれている。
佐竹氏と組んだ多賀谷氏からの攻撃を受けて岡見氏が滅亡した後は、
北条氏方の持ち城となった。


その後「小田原の役」で北条氏が滅びると、豊臣秀吉によって
由良国繁の母に牛久城が与えられ、由良国繁が城主になったが、
元和九年(1623)に廃城となっている。


江戸時代には山口氏が牛久陣屋を築き、明治維新まで存続した、そうである。


女性陣は、草っぱらだけの城跡などに興味はなさそう・・・


早々に牛久城を後にした。


次の目的地である牛久沼の「河童の碑」を目指し、先ほど来た道を戻る。


『牛久沼じゃないっ?』
『来るときは気が付かなかったけど良く見えるねっ』


牛久沼を目指して坂道を下る。


10時38分、案内に従って「かっぱの小径」へ。


正面が牛久沼だ。


右手に田んぼが広がり、木道が続いていた。


木道を進む。
『ここを歩くのは、初めてだよねっ』
『しっかりとした木道じゃないっ』


小春日和の中、牛久沼を渡る風が心地良い。
”春近し”を感じる。


鏡のような水面を見せる牛久沼が美しい。
このようなきれいな水面の牛久沼を見るのは恐らく初めてである。
左の方に泊崎大師堂が見える。


木道に続く「かっぱの小径」を進む。


「雲魚亭」・「河童の碑」の案内表示に従って、右へ。


この日一番の急な坂道を上り、


「雲魚亭」・「河童の碑」を目指す。


「雲魚亭」・「河童の碑」の少し手前に「抱樸舎」(ほうぼくしゃ)があった。
抱樸舎とは、
『橋のない川』・『向い風』・『夜あけ朝あけ』などの作品で知られる
作家の「住井すゑ」氏が夫の犬田卯(いぬたしげる)氏と共に、
昭和10年に牛久村城中に移り住み、執筆と農耕自給の生活を送った
場所に建てられ、住井すゑが様々な人たちと勉強会を行った場所、である。
現在は、見学の対応が出来ないとの理由で、公開は中止となっている。


10時54分、雲魚亭(うんぎょてい)に到着。
雲魚亭は、
小川芋銭最晩年の昭和12年(1937)9月19日、芋銭夫人と芋銭長男により
芋銭旧宅の敷地内に建てられた画室兼居室(アトリエ)である。
芋銭は同年9月末にここに移り住み、古希記念新作展などの準備に当るが、
翌昭和13年1月末に脳溢血で倒れ、12月17日に永眠するまでは、
療養のための居宅となった。


現在は小川芋銭記念館として芋銭の作品や遺品を一般公開(無料)している。
火~金は屋外のみだが、土日祝日は室内も公開している、そうだ。


雲魚亭から牛久沼に向かって直ぐの所に「お茶屋松」と命名された
枝振りの良い松の木があるが、詳細は不明。
なんらかの説明板が欲しい。


雲魚亭から河童の碑へ続く小道の脇に「与一の歌碑」が建てられている。
朝夕の 芋銭した志みながめたる 沼の向ふの 富士美しき
この歌碑は作家で歌人である「中河与一」氏が、
芋銭の雲魚亭の朝な夕なの生活から、その心境を詠んだもの。
ここから富士山が見えたのだろう。


「河童松」
牛久沼に住むいたずら好きな河童が畑を荒らしたり、子供を溺れさせたりと
住民に迷惑をかけていた。
そこで、村人たちは懲らしめのため、陸で昼寝をしていた河童を捕まえ、
沼のほとりに生えていた大きな松の大木に縛りつけた。
河童は二度と悪さをしないと泣いて村人に訴えたので、
哀れに思った村人は河童を沼に帰した。
それ以来、河童は悪さを止めただけでなく、沼の周囲の葦を刈り取る
といった村人の手伝いまでするようになった。
今でもこの河童を縛り付けたという松の木が残っており、
「河童松」と呼ばれている。


石碑の右脇にも形の整った松の木があるが、これは「河童松」ではない。
説明板には、わざわざ⇦で左側の「河童松」を指している。何とも紛らわしい。


「河童松」の前で小休止。


恒例のお茶タイムだ。


『ここから芋銭も富士山を眺めたんでしょうねっ』


この日はあいにく富士山は見えなかった。
(方角が多少違っているのかも・・・)


「河童の碑」へ向かう途中、「改善一歩」の碑(道標)が建っていた。
この道標は、大正11年(1922)に城中青年会(矯風会)の手によって
旧牛久村の主要な道筋に建てられたもの。
その当時青年たちが道標をたてる計画をしていたところ、それを知った芋銭が、
永久に耐えられる石柱にしなさいと寄付をしてくれたもの、だそうだ。
青年会では早速好意を受け芋銭の名を石柱に刻もうとしたが、
芋銭は名前の代りに、「改善一歩」と刻みなさいと云われた。
これは、自分の歩む道を善い方へ改めて進みなさい、という意味だそうである。


芋銭の「河童の碑」の手前に文字だけの「河童碑」が建てられているが、
この碑の詳細については不明。


11時4分、「河童碑」の少し先に建てられている芋銭の「河童の碑」に到着。
この碑は、芋銭没後の昭和26年、小川家をはじめ、
敬慕する人々によって建立されたもの。
正面には、芋銭晩年の作である河童の絵が描かれ、
”誰識古人画龍心”の文字が刻まれている。


「河童の碑」の後ろに「スダジイ」(ブナ科)の大木が生えている。
樹高15m 樹幹周り400cm 推定樹齢400年の古木である。
この辺りは、かつて牛久藩の陣屋(1619年~1871年)の一部であり、
近代日本画壇の巨匠小川芋銭(1868年~1938年)も、四季を通じて
詩情豊かな沼畔に望むこの地をこよなく愛した、とのこと。
この「スダジイ」は、牛久市の”市民の木”に指定されている。


「河童の碑」を後にして、右手に稲荷神社を見ながら
三日月橋生涯学習センター方面へ。


緩やかな坂道を下って行くと、


谷津田の田園風景が広がる場所に出た。


三日月橋方面へ。


『ほんとにのどかな風景だよねっ』


前方に三日月橋生涯学習センターが見えてきた。


稲荷川に架かる三日月橋
近いうちにこの橋を渡る予定である。


11時22分、三日月橋生涯学習センター前を通過


続いて、関東鉄道城中バス停を通過


左手に牛久第三中学校が見える。


牛久町に新しく造られた道路を得月院を目指す。


『ゴールの得月院は近そうだねっ』


得月院の手前に牛久城大手門跡碑があった。
大手門は、堀切のほぼ中央に”喰違い虎口”と”枡形馬出し”を備えた
厳重なものであったと説明板にある。
先に訪れた本丸あるいは二の丸からはかなり離れていることから、
城域としては相当広いと思われる。
大手門の痕跡は全く見る事ができない。


得月院へ向かう。


11時42分、得月院の到着
得月院は、曹洞宗の寺院である。


得月院の山門を潜ると、


正面に得月院本堂がある。
得月院は、文禄三年(1594)牛久城に移り住んだ、由良国繁の母妙印尼輝子が
開基した寺院である。
地元出身で近代日本画壇の巨匠小川芋銭の菩提寺としても知られている。


本堂内部


本堂脇にある榧(カヤ)は、樹高20m、樹幹周り500Cm、樹齢推定500年とある。
近代日本画壇の巨匠小川芋銭の2本の大木をモチーフにした作品「樹下石人談」
に描かれた木である。
この榧の木は、牛久市の”市民の木”に指定されている。


得月院の裏に回ると墓地があり、その中の小川家の墓地の一角に
一回り大きな芋銭の墓があった。
墓碑には、”潮光院清淵芋銭大居士”と刻まれていた。


得月院の山門を入って直ぐ左側に閻魔堂がある。


閻魔堂の中には、中央に閻魔大王、その右側に妹の奪衣婆(だつえば)が
睨みを効かせている。


奪衣婆
この兄妹は、三途の河原を渡ろうとしている亡者に対し、
奪衣婆が亡者の身ぐるみを剥ぎ、その剥ぎ取った衣服を、
側に居る懸衣翁(けんえおう)という爺さんに渡す。


閻魔大王
懸衣翁は受け取った衣服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝に下げる。
すると、亡者の生前の業(ごう)の重みによって、悪いことをしてきた亡者の衣服は
枝が撓るほど下がる。
それを閻魔大王が見ていて、その亡者に対し、あの世での処遇を決める、
という仕組みだそうだ。


11時49分、ゴールの得月院駐車場に到着した。
この日は、整理体操も省略である。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


何年かぶりに牛久沼周辺(城中ルート) を散策したが、牛久城跡への道を間違えて
竹藪の中を右往左往することになってしまった。
『納得がいかなかった』と言うOさんは、翌日再訪して正規なルートを確認した、
とのこと。ご苦労様です。
Oさんのためにもいつかリベンジする機会を設けたいものである。

この日は、道に迷いながらも何とか牛久城跡には到着したが、
そこが本丸跡だったのかあるいは二の丸跡だったのかは、分っていない。
再訪する機会があれば、その時は本丸跡と二の丸跡の両方を見たいと思う。

この日の万歩計は、10,000歩を計測していた。

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