ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

参加人数が半減 粕壁宿と古隅田川散策

2023年07月08日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2023年7月8日(土)

隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第6回、令和5年(2023年)第12回、「粕壁宿と古隅田川散策(春日部市)
ウォーキングに参加した。

この日のウォーキング場所は春日部市の旧日光街道粕壁宿。
電車を利用することから、通勤時間帯の混雑を避けるため、土曜日実施とした。
現地不案内なため、去る4月18日(土)に下見を行なっている。

荒川沖駅8時25分発の電車に乗車するため、5分前に改札口を通過し駅ホームへ。


上りホームで電車を待っているところ。


8時25分ちょうど、上り電車が到着した。


8時55分、柏駅に到着し、東武野田線へ。


この日の参加者(1)


この日の参加者(2)


この日の参加者(3)


この日の参加者(4)


この日の参加者(5)
この日の参加者は、土浦駅から6名、荒川沖駅から6名、牛久駅から1名の計13名。
ちょっと寂しい人数ではある。


9時48分、春日部駅に到着。


春日部駅東口改札口


春日部駅東口改札口を出て・・・


9時58分、春日部駅を出発!!


駅前の大通りを進む。


春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」
この情報発信館は、”誰でもぷらっと気軽に立ち寄れる憩いのスペースであり、
春日部の特産品やまちの情報などを全国に発信するプラットホームでもあってほしい”
という願いが込められている、そうだ。


春日部市はアニメ・漫画「クレヨンしんちゃん」が誕生した街として有名とのこと。
クレヨンしんちゃんは春日部市に特別住民登録されていて、春日部市の代名詞的な
キャラクターになっている、そうである。


「ぷらっとかすかべ」の展示品(1)


「ぷらっとかすかべ」の展示品(2)


小学校通りを春日部市郷土資料館へ。


小さな公園に建てられた像


小学校通りの歩道には写真のような少女像も。


春日部小学校を過ぎると、交差点の向こうに春日部市郷土資料館の建物が見えた。
春日部市郷土資料館は、春日部の旧石器時代から現代までの歴史が展示されている。


郷土資料館の入口を入り、


先ずは粕壁宿の町並みの模型(縮尺200分の1)を見てみよう。
手前が日光方面で、反対側は江戸方面


粕壁宿の町並みの模型(2)
明治天皇御昼食所(脇本陣)
旅籠高砂屋竹内彦右衛門宅(明治14年7月31日)


粕壁宿の町並みの模型(3)
芭蕉宿泊伝承の東陽寺


粕壁宿の町並みの模型(4)
問屋場


粕壁宿の町並みの模型(5)
本陣


常設展示品(1)
原寸大の竪穴式住居模型


常設展示品(2)
縄文土器


常設展示品(3)
埴輪


常設展示品(4)
五月人形の甲


館内見学風景


10時29分、次の目的地(八坂神社)へ。


国道4号を横断して、路地裏の小さな道を進むと・・・


10時40分、八坂神社に到着した。
『小さな神社なんだねっ』


国道4号方面の鳥居から撮った八坂神社


日光道中 粕壁宿
①八坂神社
粕壁宿は、日本橋から九里二丁(約36Km)の距離にある。
巾約9mの道沿いには約1.1Kmの家並みが続いていた。
嘉永二年(1849)には、人口3,779人、旅籠屋は37軒あった。
宿の入口にある八坂神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれた。
明和七年(1770)に火災に遭い、詳しい由来は不明だが、宿の市神として信仰された。
神社の祭礼は、現在の春日部夏まつりの起源でもあり、江戸時代には毎年六月(旧暦)に行われた。
平成27年7月 春日部市教育委員会


横断陸橋を上り、


国道4号を横断する。


日光道中 粕壁宿
②東陽寺・源徳寺


目の前に東陽寺があった。


門の脇に傳芭蕉宿泊の地の石柱が。


東陽寺本堂
東陽寺は、曹洞宗寺院で医王山と号する。
『いやぁ なかなか立派な寺だね~っ』


芭蕉の宿泊を刻んだ碑があった。
芭蕉に随行した弟子曽良の日記に「廿七日夜カスカヘニ泊ル江戸ヨリ九里余」とあったそうだ。
このことから元禄二年(1689)3月27日、芭蕉が「奥の細道」の旅で東陽寺に宿泊したとも
伝えられている。


東陽寺を後にして大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)を目指す。


10時54分、目の前に大きな川が現れた。
下見した時とは異なる景色である。


近くにあった地図を確認すると、
川は大落古利根川で、見えているのは埼葛橋とある。
春日部市民文化会館隣の市立中央図書館の所を目指していたのだが、道を間違えてしまった。
東陽寺を出るとき、門の反対側から出たのが間違いだったと気が付いた。


大落古利根川のリバーウォーキング
左手少し先に見えるのは春日部市民文化会館と思われる。
見覚えのある景色である。


桜並木の木陰で一休みだ。
『いやぁ蒸し暑いね~っ』


お茶タイムで一息入れよう。


お茶タイム


一息入れた後、次の目的地碇神社を目指す。


150mほど進むと碇神社らしき茂みが見えて来た。


11時9分、碇神社の祠に到着。
碇神社と呼ばれている祠は、江戸時代に名主を務めた多田家の屋敷稲荷だったそうだ。


どおりで碇神社の狛犬は稲荷神社のシンボル狐なのだ。


祠の脇に生育する巨木がイヌグスで、樹齢600年余りを数えます。
かつては高さ約12mの巨木でしたが、昭和54年の台風で被害を受け、現在では高さ約7m、
根回り約10mを測ります。
イヌグスは、和名をタブノキと言い、主として中部地方以南の海岸地に多く自生している
暖地性の常緑樹です。
そのため、「碇神社のイヌグス」は、イヌグスの生育の北限とされ、埼玉県内でも珍しい
樹木であることから、昭和30年に県の天然記念物に指定されました。
平成30年2月 春日部教育委員会


碇神社からいったんかすかべ大通り(旧日光街道)へ戻り、


右へ曲がってかすかべ大通り(旧日光街道)を日光方面へ進む。
旧街道という面影(イメージ)は殆ど感じられない。


粕壁宿の旗があるので、粕壁宿と分かるが、旗がなければ普通の市街地にしか見えない。


日光道中 粕壁宿
④本陣跡
『ここに本陣があったということなんだろうねっ』


旧商家の前に立つ日光街道の道標


次の交差点を右(古利根川側)に曲がると、商家の蔵らしき建物があった。


日光道中 粕壁宿
⑤ミセと蔵
中宿(仲町)と呼ばれるこの辺りには、江戸時代に米問屋などの商家や旅籠屋などが多く立ち並んだ。
粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行の長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を
その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。
このような短冊状の地割は、江戸時代の多くの宿場町にみられる歴史的な景観の一つである。
街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げしていた。
現存する蔵造りの建物は、火災よけのため、幕末から明治期にかけて建てられたものが多い。
平成27年7月 春日部市教育委員会


再び大落古利根川へ行くと、古利根公園橋があった。


橋が公園のようになっている。
『へ~っ 珍しい橋だねぇ』


川の真ん中辺りで折り返すことが出来るようになっている。


西洋風の少女の像が建てられている。


古利根公園橋を折り返して再び旧日光街道に戻る。
『いやぁ なかなか面白いものを見せてもらったねぇ』


かすかべ大通り(旧日光街道)


道路を横断した所に日光道中粕壁宿の説明板があった。
日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた「五街道」と呼ばれる街道の
ひとつで、江戸時代初期には日光街道あるいは日光海道と記されていました。
しかし、正徳六年(1716)に五街道の名称について御触が出され、日光街道は海のない国を
通るため、日光道中と改められました。
粕壁宿は江戸時代元和二年(1616)には日光道千住宿より数えて第4の宿場に定められたと
されています。
寛永十三年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍諸大名の参拝で日光道中の各宿場はにぎわい、
一段と発展しました。
江戸時代の終わり頃の記録によると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」
「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋・などの商店や農家の家並みで
159軒を配し、新町橋側より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の
8つの字に分かれていました。


道路向い側の店のシャッターには、日光道中 粕壁宿の当時の絵が描かれていた。


日光道中を進む。


日光道中 粕壁宿
⑥問屋場跡


蔵造りの建物があった。
『かなり古い建物だよねっ』


日光道中 粕壁宿
⑦高札場跡・浜島家住宅土蔵


11時29分、最勝院に到着
春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」で入手したパンフ「日光道中粕壁宿」によると、
広い境内を利用して、相撲の巡業やサーカス・芝居・武道大会などの興行が行われていました。
本堂西側には春日部重行公の墓と伝えらえている塚があります、と紹介されていた。


最勝院本堂にお参りして、


鳥居を潜って春日部重行公の墓と伝えられている塚へ。


春日部重行公の墓と伝えられている塚があった。
春日部重行は、南朝の臣として御醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどにより、
上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任ぜられたが、のちに足利尊氏の軍勢と交戦し、
敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。
その後、重行の遺骨は最勝院に持ち帰られ、境内に葬ったものと云われている。


春日部重行公 御霊古墳の記に見入る。


春日部重行公の墓と伝わる古墳を後にして・・・
最勝院の隣に建つ成就院大日寺前を通過し、


いくつかの寺院が立ち並ぶ道を進むと、東武伊勢崎線の踏切があった。


上りの電車が通過して行った。
線路を渡ると直ぐに警報機が鳴りだし、今度は下りの電車が通過していった。
『もたもたしてたら踏切渡れないよねぇ』


次の目的地春日部八幡神社を目指す。


住宅街を進むと・・・


春日部稲荷神社の参道があった。
地図には春日部八幡神社が直ぐ隣なので、ここを行っても八幡神社には行けるだろう。


春日部稲荷神社の幟が並ぶ参道を進み、稲荷神社の幟が途切れた所を左に曲がると、
春日部八幡神社の参道があった。


春日部八幡神社の参道入口の鳥居の所まで戻ったのは、


参道入口に平安初期の歌人在原業平が奥州に旅をしたとき、武蔵国と上総国との境にある
隅田川の渡しで詠んだとされる「都鳥の碑」があったからである。


名にしおはば いざ言問わん 都鳥 わが思う人は ありやなしやと


あらためて春日部八幡神社に参拝し、


春日部八幡神社の隣の春日部稲荷神社に続く石段を進むと・・・


春日部稲荷神社があった。
『ずいぶん簡素な神社だねっ』


春日部稲荷神社の直ぐ近くに広場があったので、そこで一休みしよう。
Nさんが春日部八幡神社の御朱印を受け取りに行っている合間の一休みである。


5分ほど後、御朱印帳を手にNさんが戻って来た。


次の目的地古隅田川へ。


12時23分、古隅田川に架かる浜川戸橋に到着した。


浜川戸橋から見た古隅田川


古隅田川は能楽「隅田川」の舞台である。
欄干のパネルは「梅若丸の母」を演じるシテ(主役)の姿を表している。


シテのパネルに見入る女性陣の皆さん。


この日のゴールである北春日部駅へ向かう。


次はようやくゴールということにちょっと安堵したという表情の皆さん。


12時38分、ゴールの北春日部駅に到着。


昼食は一駅先の春日部駅周辺でということで、北春日部駅改札口へ。


12時46分、北春日部駅から数分で春日部駅に到着した。


いったん春日部駅西口に集まり、


TK会長の労いの挨拶を受け、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


数日前までは雨の予報もあって、実施を見送ることにしようかと大いに悩んだが、
前日夕方の「朝方は雨も日中は曇り、午前中の最高気温28度」という予報を信じて
実施した次第。
しかし、この日も朝から雨がパラつき、実施出来るのかという不安定な状況だったことから、
参加を見送った人が多かったのではないかと推測している。
この日の参加人数が13名というのはいつもの人数のほぼ半数で、昨年(2022年)7月1日の
「おおつ野ヒルズ」の過去最少記録の12名に迫るという何とも寂しい例会となった。
やはり、梅雨時の例会は雨の多さに悩まされ、延期も含めて実施可否判断に大きく影響を
受けることが多い。
そのため、来年度以降は7月の例会は実施を見送り、その分を他の月に分散することを検討
したいと思っている。
ただ、人数が少かった分、お互いのコミュニケーションがこれまでになく良かったように
見えたのは思い過ごしだろうか?

この日の万歩計は、15,000歩余りを計測していた。

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