2015年6月28日(日)
昨年(2014年)は、旧東海道第一ステージとして、日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く人気のある区間を選んで、歩くことにした。
旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、
人気のある街道の中から区間を選んで歩くことにしたのである。
第四回は、当初の予定では、北国街道(信濃追分~上田宿)を2日かけて歩く計画だったが、
2日目の都合が悪くなり、日帰り可能な川越街道(新河岸駅~川越城本丸門跡 約7Km)に変更した。
立寄り先などは、「首都圏旧街道歩き」(メイツ出版)を参考にした。
池袋駅9時5分発の東武東上線快速に乗車。
日曜日の下りとあってか、車内は空いていた。
ふじみ台で各停に乗り替え、
9時40分、出発地の新河岸駅に到着。
この日の参加者は8名だ。
9時43分、川越城本丸御殿を目指して出発!
旧川越街道へ向かう。
旧川越街道を進む。
旧川越街道は、現在の川越街道(国道254号線)にほぼ並行している。
新河岸駅を出発して約14分、道路脇に砂新田春日神社があった。
「首都圏旧街道歩き」では紹介されていなかったが、この日の無事安全を祈願して行くことにしよう。
説明によると、砂新田春日神社の本殿は、江戸彫彫刻で飾られた小型の「一間社流造」で、
屋根はこけら葺を模した板葺き、とのことだが、板囲いの隙間から見えるのはこれが精いっぱいだ。
残念ながら江戸彫彫刻や板葺きなどは見えなかった。
建立時期は十九世紀中期と考えられるとのこと。
旧川越街道は、道幅はさほど広くはないが、交通量が多い。
現川越街道と並行していることから、バイパスとして利用する車が多いのでは、と思う。
不老川に架かる御代橋(ごだいばし)を渡る。
不老川は、全く水が流れていなかった。
『全く水が無いっていうのも珍しいんじゃないっ?』
この日初めて見た昔風の建物。
かなり古そうな感じだが、現在は、デイサービスセンターとして利用されているようだ。
10時16分、緩やかな坂の途中に烏頭坂(うとうざか)の碑があった。
烏頭坂は、富士見町へと上る坂で、往時は杉並木で明治時代まではかなりの急坂だった、そうだ。
新河岸川舟運が盛んだった頃は、荷揚げした荷を市内の問屋街へ運ぶ時には必ず通らなければならず、
難所として知られていた、とのこと。
文明十八年(1486)頃、この地方を遊歴した道興准后(どうこうじゅこう)の「廻国雑記」に
「うとふ坂 こえて苦しき行末を やすかたとなく 鳥の音もかな」という歌がある、とのこと。
烏頭坂の碑の横に急な石段があり、上ってみると、熊野神社があった。
高台で町並みが一望でき、見晴らしが良い、との案内だが、木々に囲まれて全く見晴しは望めなかった。
二の鳥居の奥には熊野神社の拝殿・本殿があった。
拝殿・本殿の裏に回って見ると、鳥居があった。
額には”諸社”と書かれていた。
鳥居の奥には神社名が刻まれた碑が墓標のように建てられていた。その数13。
『随分たくさんの末社が祀られてるんだねぇ』
熊野神社境内で一休みしていこう。
めいめい持参したお菓子や果物などを配り合った。
中には自宅の畑で採れたという”びわ”持参の人も。
『いやぁ これはなかなか立派な”びわ”だねぇ』
『ごちそうさまぁ~っ』
熊野神社を後にして、川川越城本丸御殿へ。
道路脇に川越まつり用と思われる山車庫があった。
富士山の女神 「木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)の山車」 岸町二丁目 とある。
今年の「川越まつり」は、10月17日(土)18日(日)に催され、総勢29台の山車が出るそうだ。
絢爛豪華な祭礼絵巻を再現する江戸系川越型山車の揃い曳きは、川越まつりの一番の特徴で、
その見事さは圧巻そのもの、だそうである。
10時37分、旧川越街道と現川越街道の合流点に到着。
横断陸橋で道の反対側へ。
現川越街道(国道254号)
川越市街地方面を望む。
東武東上線を跨ぐと、
いよいよ川越市街地だ。
10時49分、妙善寺に到着。
天台宗中院の末寺である。
小江戸七福神第一番毘沙門天としても知られている
ここまでの無事安全を報告しておこう。
通用門前の六地蔵は嘉吉元年(1441)作のもの。
境内には慈母観音像と「さつまいも地蔵尊」が建立されている。
10月13日は、サツマイモの日として、「さつまいも地蔵尊」を中心に、
イモに感謝を表す「いも供養」が妙善寺で催されるとのこと。
妙善寺の近くに菅原神社があった。
町名は菅原町だ。
川越まつりの山車は、菅原道真公となっている。
川越市内に入ると、旧い造りの家が見られるようになってきた。
11時7分、川越八幡神社に到着。
昭和8年に平成明仁天皇誕生記念として男銀杏・女銀杏の2本を植樹したが、
いつのまにか1本になったため、「縁結びの木」として有名、だそうである。
”無病息災夏越大祓い”の茅の輪くぐりは2日後の6月30日からとある。残念!
川越八幡神社は、長元三年(1030)創建の川越一の宮だ。
足腰健康の民部稲荷神社が祀られていることから、箱根駅伝のランナーやJリーガーの参詣も多い、とのこと。
川越駅のまるひろデパートが見えて来た。
私事だが、結婚直後に隣の上福岡市に住んでいた頃、かみさんがアルバイトをしていた。
今から40年近くも前のことである。
それまでの直線的だった道路がここで大きく曲っている”鉤の手跡”
鉤の手とは、ほぼ直角に曲がっていることを意味する。
川越城西大手門よりこの鉤の手までを、旧江戸町と言った。
城より、江戸へ行くための起点となる町であるため、
町の繁栄と共に江戸町と言われるようになった。
現在は、松江町となっている。
通町交差点まで戻り、東照宮中院通りを進む。
氷川神社の主神 素戔鳴尊(すさのおのみこと)を山車の人形とするのは西小仙波町。
素戔鳴尊は海の神様であり、西小仙波町の「波」にちなんでいる、そうである。
11時34分、仙波東照宮に到着。
朱塗八脚門の東照宮随身門をくぐり、
石鳥居の先の石段を上ると、
仙波東照宮の拝殿がある。
仙波東照宮は、日光東照宮・久能山東照宮とともに三大東照宮の一つである。
徳川家康の遺骸が久能山から日光に移葬される途中、喜多院に4日間逗留。
天海僧正が法要を営み、それを受けて仙波東照宮は、寛永十年(1633)天海僧正が、この地に創建した。
境内(拝殿前や本殿前)にはたくさんの石灯籠が献備されていた。
一番奥の本殿には、3対の石灯籠がある。
献備者はいずれも歴代川越城主の、松平信綱・松平輝綱・松平信輝である。
(写真は右側のもので、左側にも対照的に3つの石灯籠がある)
4代目川越城主柳沢吉保の石灯籠は拝殿前にあった。
歴代川越城主の石灯籠群。
いずれも2基づつ献備されていた。
仙波東照宮の境内を通り抜けて喜多院へ向かう。
喜多院の境内に入ると、先ずは鐘楼門が目に入った。
銅鐘は、元禄十五年(1702)頃の造営と考えられる、とのこと。
喜多院の山門から入り直すことにしよう。
山門の前には、天海大僧上の銅像がある。
白山権現神社
案内によると、
天長七年(830)慈覚大師円仁が喜多院を創建された時に、天台宗修験道の霊場である白山より、
喜多院の守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられている、とのこと。
喜多院(川越大師)本堂
本堂に今日の無事安全の報告をしていこう。
多宝塔は、寛永十六年(1639)に完成。
もとは白山神社と日枝神社の間にあったが、明治四十五年道路新設のため慈恵堂脇へ移築された。
復元のため昭和四十七年より解体が行われ、昭和五十年現在地に完成した。
喜多院は小江戸川越七福神巡り第三番としても有名だ。
大黒天が祀られている。
喜多院を後にし、成田山川越別院へ。
12時11分、成田山川越別院本堂に到着。
毎月28日は、蚤の市(骨董市)のため、大そうな賑わいである。
境内に入りきらず門の外にまではみ出している店も。
そろそろお昼時だ。
川越とくれば”うなぎ”であるが、ちょうど昼食時、どの店はいっぱいだ。
この時間帯は、どこも客が列をなして並んでいる。
ここはちょっと我慢して、先ずは川越城本丸御殿に到着後に空いている店を探すことにしよう。
蔵街通り(県道39号線)はいつ来ても人通りが多い。
川越の蔵街通りは、蔵の多さとその重厚さに圧倒される。
時の鐘
三層構造で高さ16m、城下町川越のシンボルである。
寛永年間(1624-1644)に川越藩主酒井忠勝によって建てられた。
度重なる火災で焼失したが、再建を繰り返し、現在の鐘楼は、明治26年の川越火災の翌年に再建された。
札の辻交差点を右折し、川越市役所方面へ。
道路反対側に一軒のうなぎ屋が・・・
このうなぎ屋は空いてそうだが、本丸門跡見学の後にしよう。
川越城大手門跡碑
川越市役所の玄関前、築城当時は本丸・二の丸を合わせた程度だったが、江戸時代になって、
本丸・二の丸・三の丸などの各郭や13の門を持つ大規模な城郭になった。
大手門跡碑の奥には川越城を築城した太田道灌の像が建てられている。
ゴールの川越城本丸御殿へ向かう。
中の門
室町時代(長禄元年/1457)、太田道真・道灌父子によって建てられた川越城は、
江戸時代(寛永16年/1639)に川越藩主となった松平信綱によって、大拡張工事が行われた。
それにより、約2倍の規模の近代的城郭になった川越城。
しかしまだ天下が収まって間もない時代だったので、戦いを想定し造られたのが、この中の門と中の門堀である。
中の門堀跡
中の門堀の特徴は、城壁側とその反対側の法面勾配が異なる点である。
城壁側の法面勾配が60°反対側が30°あり、城壁側が切り立っているので、
敵が攻めてきた際にこの堀を越えることが出来ないのだ。
川越市立美術館の向かい側が川越城本丸御殿だ。
12時53分、川越城本丸御殿に到着。
川越城は「日本100名城」の一つに指定されている。
「日本100名城」巡りで最初に訪れたのは2010年8月15日(日)で、この時は修復中で中に入れなかった。
2度目は2014年10月26日(日)のことである。
川越城本丸御殿の碑
現存する建物は、嘉永元年(1848)に再建された。
玄関・大広間・家老詰所など一部だが、本丸御殿が現存する例は全国でも珍しい。
枯山水の庭
家老詰所前の庭を観ながら寛ぐ人達。
(中国人観光客のようだ)
家老詰所には会議の様子の人形がある。
槍の間
うなぎ屋を探そうっ!
『さっきの店、空いていると良いねっ』
川越市役所前を過ぎ、
先ほど目に止ったうなぎ屋「一貫」を覗いてみると、空いていると言う。
我々にとっては、空いていることが何よりの条件である。迷わず入店だ。
先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』
『今日は汗をかいたから、ビールが美味いっ』
しばらくすると、うな重(\2,000円 税別)が運ばれてきた。
『いやぁ まずまずの味だよっ』
『お腹も空いていたし、美味しいねっ』
うなぎに満足した後は、お菓子屋横丁でも行ってみよう。
数日前に火事があったことは聞いていたが、どんな様子だろう。
昨日(土曜日)から営業を再開していることもニュースで報道されていたが・・・
焼けた建物や残骸はそのままになっていた。
市役所通り側からは入れないようになっていた。
お菓子屋横丁のもう一つの入口側へ回ってみると、
たくさんの人で賑わっていた。
今までと殆ど変らないほどの人出である。
ゆかた姿の女性の姿もちらほら。
(顔は見えないが)なかなか粋で可愛らしい。
”元気に営業しています”の貼り紙が・・・
『しかし、焼けたのは2軒だけで良かったよねぇ』
川越駅を目指す。
県道39号(蔵町通り)を過ぎ、西武線本川越駅前を通過。
クレアモール商店街を通り抜け、東上線川越駅を目指す。
『いやぁ けっこう賑やかな商店街だよなぁ』 『みな商売繁盛してそうだよねっ』
『地元(土浦)とは比較にならないねっ』
アトレマルヒロの中を通り抜けると、
15時5分、東武東上線川越駅に到着した。
『皆さ~ん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧街道を歩く」第五回目(新河岸駅~川越城本丸門跡)を無事歩き終えた。
道中の寺社を始め、川越市内の蔵街通りやお菓子屋横丁などの散策を楽しめた。
また名物の”うなぎ”を土用丑の日より一足早く味わうことが出来、満足の一日であった。
ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。
昨年(2014年)は、旧東海道第一ステージとして、日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く人気のある区間を選んで、歩くことにした。
旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、
人気のある街道の中から区間を選んで歩くことにしたのである。
第四回は、当初の予定では、北国街道(信濃追分~上田宿)を2日かけて歩く計画だったが、
2日目の都合が悪くなり、日帰り可能な川越街道(新河岸駅~川越城本丸門跡 約7Km)に変更した。
立寄り先などは、「首都圏旧街道歩き」(メイツ出版)を参考にした。
池袋駅9時5分発の東武東上線快速に乗車。
日曜日の下りとあってか、車内は空いていた。
ふじみ台で各停に乗り替え、
9時40分、出発地の新河岸駅に到着。
この日の参加者は8名だ。
9時43分、川越城本丸御殿を目指して出発!
旧川越街道へ向かう。
旧川越街道を進む。
旧川越街道は、現在の川越街道(国道254号線)にほぼ並行している。
新河岸駅を出発して約14分、道路脇に砂新田春日神社があった。
「首都圏旧街道歩き」では紹介されていなかったが、この日の無事安全を祈願して行くことにしよう。
説明によると、砂新田春日神社の本殿は、江戸彫彫刻で飾られた小型の「一間社流造」で、
屋根はこけら葺を模した板葺き、とのことだが、板囲いの隙間から見えるのはこれが精いっぱいだ。
残念ながら江戸彫彫刻や板葺きなどは見えなかった。
建立時期は十九世紀中期と考えられるとのこと。
旧川越街道は、道幅はさほど広くはないが、交通量が多い。
現川越街道と並行していることから、バイパスとして利用する車が多いのでは、と思う。
不老川に架かる御代橋(ごだいばし)を渡る。
不老川は、全く水が流れていなかった。
『全く水が無いっていうのも珍しいんじゃないっ?』
この日初めて見た昔風の建物。
かなり古そうな感じだが、現在は、デイサービスセンターとして利用されているようだ。
10時16分、緩やかな坂の途中に烏頭坂(うとうざか)の碑があった。
烏頭坂は、富士見町へと上る坂で、往時は杉並木で明治時代まではかなりの急坂だった、そうだ。
新河岸川舟運が盛んだった頃は、荷揚げした荷を市内の問屋街へ運ぶ時には必ず通らなければならず、
難所として知られていた、とのこと。
文明十八年(1486)頃、この地方を遊歴した道興准后(どうこうじゅこう)の「廻国雑記」に
「うとふ坂 こえて苦しき行末を やすかたとなく 鳥の音もかな」という歌がある、とのこと。
烏頭坂の碑の横に急な石段があり、上ってみると、熊野神社があった。
高台で町並みが一望でき、見晴らしが良い、との案内だが、木々に囲まれて全く見晴しは望めなかった。
二の鳥居の奥には熊野神社の拝殿・本殿があった。
拝殿・本殿の裏に回って見ると、鳥居があった。
額には”諸社”と書かれていた。
鳥居の奥には神社名が刻まれた碑が墓標のように建てられていた。その数13。
『随分たくさんの末社が祀られてるんだねぇ』
熊野神社境内で一休みしていこう。
めいめい持参したお菓子や果物などを配り合った。
中には自宅の畑で採れたという”びわ”持参の人も。
『いやぁ これはなかなか立派な”びわ”だねぇ』
『ごちそうさまぁ~っ』
熊野神社を後にして、川川越城本丸御殿へ。
道路脇に川越まつり用と思われる山車庫があった。
富士山の女神 「木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)の山車」 岸町二丁目 とある。
今年の「川越まつり」は、10月17日(土)18日(日)に催され、総勢29台の山車が出るそうだ。
絢爛豪華な祭礼絵巻を再現する江戸系川越型山車の揃い曳きは、川越まつりの一番の特徴で、
その見事さは圧巻そのもの、だそうである。
10時37分、旧川越街道と現川越街道の合流点に到着。
横断陸橋で道の反対側へ。
現川越街道(国道254号)
川越市街地方面を望む。
東武東上線を跨ぐと、
いよいよ川越市街地だ。
10時49分、妙善寺に到着。
天台宗中院の末寺である。
小江戸七福神第一番毘沙門天としても知られている
ここまでの無事安全を報告しておこう。
通用門前の六地蔵は嘉吉元年(1441)作のもの。
境内には慈母観音像と「さつまいも地蔵尊」が建立されている。
10月13日は、サツマイモの日として、「さつまいも地蔵尊」を中心に、
イモに感謝を表す「いも供養」が妙善寺で催されるとのこと。
妙善寺の近くに菅原神社があった。
町名は菅原町だ。
川越まつりの山車は、菅原道真公となっている。
川越市内に入ると、旧い造りの家が見られるようになってきた。
11時7分、川越八幡神社に到着。
昭和8年に平成明仁天皇誕生記念として男銀杏・女銀杏の2本を植樹したが、
いつのまにか1本になったため、「縁結びの木」として有名、だそうである。
”無病息災夏越大祓い”の茅の輪くぐりは2日後の6月30日からとある。残念!
川越八幡神社は、長元三年(1030)創建の川越一の宮だ。
足腰健康の民部稲荷神社が祀られていることから、箱根駅伝のランナーやJリーガーの参詣も多い、とのこと。
川越駅のまるひろデパートが見えて来た。
私事だが、結婚直後に隣の上福岡市に住んでいた頃、かみさんがアルバイトをしていた。
今から40年近くも前のことである。
それまでの直線的だった道路がここで大きく曲っている”鉤の手跡”
鉤の手とは、ほぼ直角に曲がっていることを意味する。
川越城西大手門よりこの鉤の手までを、旧江戸町と言った。
城より、江戸へ行くための起点となる町であるため、
町の繁栄と共に江戸町と言われるようになった。
現在は、松江町となっている。
通町交差点まで戻り、東照宮中院通りを進む。
氷川神社の主神 素戔鳴尊(すさのおのみこと)を山車の人形とするのは西小仙波町。
素戔鳴尊は海の神様であり、西小仙波町の「波」にちなんでいる、そうである。
11時34分、仙波東照宮に到着。
朱塗八脚門の東照宮随身門をくぐり、
石鳥居の先の石段を上ると、
仙波東照宮の拝殿がある。
仙波東照宮は、日光東照宮・久能山東照宮とともに三大東照宮の一つである。
徳川家康の遺骸が久能山から日光に移葬される途中、喜多院に4日間逗留。
天海僧正が法要を営み、それを受けて仙波東照宮は、寛永十年(1633)天海僧正が、この地に創建した。
境内(拝殿前や本殿前)にはたくさんの石灯籠が献備されていた。
一番奥の本殿には、3対の石灯籠がある。
献備者はいずれも歴代川越城主の、松平信綱・松平輝綱・松平信輝である。
(写真は右側のもので、左側にも対照的に3つの石灯籠がある)
4代目川越城主柳沢吉保の石灯籠は拝殿前にあった。
歴代川越城主の石灯籠群。
いずれも2基づつ献備されていた。
仙波東照宮の境内を通り抜けて喜多院へ向かう。
喜多院の境内に入ると、先ずは鐘楼門が目に入った。
銅鐘は、元禄十五年(1702)頃の造営と考えられる、とのこと。
喜多院の山門から入り直すことにしよう。
山門の前には、天海大僧上の銅像がある。
白山権現神社
案内によると、
天長七年(830)慈覚大師円仁が喜多院を創建された時に、天台宗修験道の霊場である白山より、
喜多院の守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられている、とのこと。
喜多院(川越大師)本堂
本堂に今日の無事安全の報告をしていこう。
多宝塔は、寛永十六年(1639)に完成。
もとは白山神社と日枝神社の間にあったが、明治四十五年道路新設のため慈恵堂脇へ移築された。
復元のため昭和四十七年より解体が行われ、昭和五十年現在地に完成した。
喜多院は小江戸川越七福神巡り第三番としても有名だ。
大黒天が祀られている。
喜多院を後にし、成田山川越別院へ。
12時11分、成田山川越別院本堂に到着。
毎月28日は、蚤の市(骨董市)のため、大そうな賑わいである。
境内に入りきらず門の外にまではみ出している店も。
そろそろお昼時だ。
川越とくれば”うなぎ”であるが、ちょうど昼食時、どの店はいっぱいだ。
この時間帯は、どこも客が列をなして並んでいる。
ここはちょっと我慢して、先ずは川越城本丸御殿に到着後に空いている店を探すことにしよう。
蔵街通り(県道39号線)はいつ来ても人通りが多い。
川越の蔵街通りは、蔵の多さとその重厚さに圧倒される。
時の鐘
三層構造で高さ16m、城下町川越のシンボルである。
寛永年間(1624-1644)に川越藩主酒井忠勝によって建てられた。
度重なる火災で焼失したが、再建を繰り返し、現在の鐘楼は、明治26年の川越火災の翌年に再建された。
札の辻交差点を右折し、川越市役所方面へ。
道路反対側に一軒のうなぎ屋が・・・
このうなぎ屋は空いてそうだが、本丸門跡見学の後にしよう。
川越城大手門跡碑
川越市役所の玄関前、築城当時は本丸・二の丸を合わせた程度だったが、江戸時代になって、
本丸・二の丸・三の丸などの各郭や13の門を持つ大規模な城郭になった。
大手門跡碑の奥には川越城を築城した太田道灌の像が建てられている。
ゴールの川越城本丸御殿へ向かう。
中の門
室町時代(長禄元年/1457)、太田道真・道灌父子によって建てられた川越城は、
江戸時代(寛永16年/1639)に川越藩主となった松平信綱によって、大拡張工事が行われた。
それにより、約2倍の規模の近代的城郭になった川越城。
しかしまだ天下が収まって間もない時代だったので、戦いを想定し造られたのが、この中の門と中の門堀である。
中の門堀跡
中の門堀の特徴は、城壁側とその反対側の法面勾配が異なる点である。
城壁側の法面勾配が60°反対側が30°あり、城壁側が切り立っているので、
敵が攻めてきた際にこの堀を越えることが出来ないのだ。
川越市立美術館の向かい側が川越城本丸御殿だ。
12時53分、川越城本丸御殿に到着。
川越城は「日本100名城」の一つに指定されている。
「日本100名城」巡りで最初に訪れたのは2010年8月15日(日)で、この時は修復中で中に入れなかった。
2度目は2014年10月26日(日)のことである。
川越城本丸御殿の碑
現存する建物は、嘉永元年(1848)に再建された。
玄関・大広間・家老詰所など一部だが、本丸御殿が現存する例は全国でも珍しい。
枯山水の庭
家老詰所前の庭を観ながら寛ぐ人達。
(中国人観光客のようだ)
家老詰所には会議の様子の人形がある。
槍の間
うなぎ屋を探そうっ!
『さっきの店、空いていると良いねっ』
川越市役所前を過ぎ、
先ほど目に止ったうなぎ屋「一貫」を覗いてみると、空いていると言う。
我々にとっては、空いていることが何よりの条件である。迷わず入店だ。
先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』
『今日は汗をかいたから、ビールが美味いっ』
しばらくすると、うな重(\2,000円 税別)が運ばれてきた。
『いやぁ まずまずの味だよっ』
『お腹も空いていたし、美味しいねっ』
うなぎに満足した後は、お菓子屋横丁でも行ってみよう。
数日前に火事があったことは聞いていたが、どんな様子だろう。
昨日(土曜日)から営業を再開していることもニュースで報道されていたが・・・
焼けた建物や残骸はそのままになっていた。
市役所通り側からは入れないようになっていた。
お菓子屋横丁のもう一つの入口側へ回ってみると、
たくさんの人で賑わっていた。
今までと殆ど変らないほどの人出である。
ゆかた姿の女性の姿もちらほら。
(顔は見えないが)なかなか粋で可愛らしい。
”元気に営業しています”の貼り紙が・・・
『しかし、焼けたのは2軒だけで良かったよねぇ』
川越駅を目指す。
県道39号(蔵町通り)を過ぎ、西武線本川越駅前を通過。
クレアモール商店街を通り抜け、東上線川越駅を目指す。
『いやぁ けっこう賑やかな商店街だよなぁ』 『みな商売繁盛してそうだよねっ』
『地元(土浦)とは比較にならないねっ』
アトレマルヒロの中を通り抜けると、
15時5分、東武東上線川越駅に到着した。
『皆さ~ん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧街道を歩く」第五回目(新河岸駅~川越城本丸門跡)を無事歩き終えた。
道中の寺社を始め、川越市内の蔵街通りやお菓子屋横丁などの散策を楽しめた。
また名物の”うなぎ”を土用丑の日より一足早く味わうことが出来、満足の一日であった。
ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。