ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

今季最後の紅葉を満喫 鎌倉散策

2012年12月01日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2012年12月1日(土)


このところ、かみさんにかまってあげられなかったので、罪滅ぼしの一つとして
”紅葉の鎌倉古寺散策”と洒落てみた。
車で行くと渋滞に巻き込まれるのは目に見えているため、電車で行くことにした。
土曜日にしたのは「休日お出かけパス」が利用でき、天気は日曜日より良さそうだから。

9時38分、北鎌倉駅に到着。予想どおり大変な混みようである。
北鎌倉駅のホームは狭い上に、西口へ向う人が踏切を渡らなければならないため、電車が通るたびに待たされる。
我々は東口の「円覚寺」へ行くので、東口に出たいのだが、上記理由で長蛇の列は一向に進まない。
結局駅を出るまでに5分以上もかかってしまった。


「円覚寺」の総門前


総門をくぐり、拝観料300円を払って境内に入る。
半分しか見えていないが、山号は瑞鹿山(ずいろくさん)と称する。


境内に入って先ず目につくのが正面の大きな三門である。
三門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、
諸々の執着を取り払って佛殿(涅槃・解脱)に至る門とされる。


案内によると、
この三門は、天明三年(1783)円覚寺中興の大用国師誠拙和尚が再建した。
楼上に観世音菩薩が安置されている。
「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆とされる。


三門の先に仏殿がある。


仏殿は昭和三十九年(1964)に再建されたもの。
本尊は宝冠釈迦如来


天井には前田青邨(まえだせいそん)監修、守屋多々志揮毫の白龍の図がある。


仏殿を出ると美しい紅葉に包まれた建物があった。


居士林こじりん
居士(こじ)とは、在家の禅の修行者を指し、その坐禅道場である。
土曜日には坐禅会が行われるそうだ。
牛込にあった柳生流の剣道場を昭和三年(1928)柳生徹心居士より寄進され、移築されたもの。


円覚寺の境内は思ったより広く、道が奥へ奥へと続いている。
美しく紅葉したもみじが迎えてくれる。


今が一番見頃なのではなかろうか?


妙香池みょうこうち
創建当時の建武二年(1335)頃の円覚寺境内絵図にすでに見られるいう放生池。
「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復原された。


妙香池を舎利殿辺りから見たところ。


突然かみさんから『かわせみがいるよっ』との声に引き返してみると・・・
20mほど先の妙香池端の石の上にかわせみが止っていた。
大勢の人がカメラを向けていたにも関わらず、逃げるそぶりはない。
三脚も使えないほど混み合っていたので、手で持ったまま撮るしかなかった。
何とか1枚撮ったところで、カワセミはどこかに飛んで行ってしまった。


舎利殿
源実朝が宗の能仁寺から請来した仏牙舎利(釈尊の遺骨)を奉安する堂宇。


鎌倉時代に中国から伝えられた「唐様式」を代表し、最も美しい建造物として国宝に指定されている。


如意庵


玄関に当るところにスイセンが活けられていた。
これで来客を迎えようという心づもりなのだろう。


開基廟の門
円覚寺を開いた北条時宗の正式なお墓、ということである。
贈従一位北条時宗公御廟所と刻まれた碑が建てられている。
”千社札お断り”の立て札がちょっと邪魔だ。


堂内には時宗・貞時・高時の尊像が安置されている。


さらに奥へ進むと、黄梅院(おうばいいん)がある。
時宗夫人の覚山尼が時宗の菩提のために建立した華厳塔の地に、後に足利氏が夢窓国師塔所として建立した、とある。


境内には梅の木がたくさん植えられている。
梅の名所でもあるようだ。


一番奥に聖観世音堂があった。


黄梅院から引き返す途中。
訪問者はさらに増えた感じである。


大方丈へ立寄ってみた。
「方丈」の名は、インドの維摩居士の居室が一丈四方であったことに由来するとのこと。
本来は住職の居間であるが、多くの宗教行事がここで行われる。


庭にビャクシン(柏槙)の大木がある。


鎌倉市の天然記念物となっている。
現在、蘇生外科治療中(治療番号第1260号)となっている。


庭には、百体の観音像が並べられている。


江戸時代、拙艘尊者が境域に岩窟をうがって百体の観音石像を祀ったことに由緒を発する。
その後荒廃したが、洪川禅師が明治二十一年(1888)に西国三十三体の観音像を新たに刻み、境内の一部に安置した。


元は塔頭松嶺院の地内にあったが、その後昭和五十八年に方丈の庭園に移された。
(以上円覚寺パンフレットから抜粋)


佛殿の裏庭に姫蔓蕎麦(ひめつるそば)がびっしりと群生していた。


国宝洪鐘(おおがね)の案内に従って、石段を上る。
これがかなりの段数があった。正確に数えてはいないが、180段以上はあったと思う。
日頃あまり歩かないかみさんには堪えたようだ。


石段を上り切ったところの正面に、弁天堂があった。
執権北条貞時(時宗の子)が7日7夜江の島弁財天に奉籠し、天下泰平・万民和楽を祈り、
霊夢を感じて大鐘を鋳造(正安三年:1301年)し、この円覚寺に奉納した。
この時、合せて弁天堂を建立し、弁財天を祀り、鎮守とした、と案内されている。


弁天堂の左側を見ると、
『んっ? 鐘楼だけっ?』
いやっ、鐘もちゃんとある。
最初見た時には梵鐘がよく見えなかっただけである。


梵鐘は鎌倉時代後期の作で国宝に指定されている。
鐘撞き棒は綱でしっかりと固定されていて、撞けないようになっていた。


まだまだ観るところはあるが、ひとまず円覚寺を後にすることにした。
時計は既に11時を少し回っていた。
相変わらず人が押し寄せてくる。


線路沿いを進む。
時折人力車を見掛ける。
人を連れてきて、ここで待っているのだろうか、それとも単なる客待ちなのか、何となく手持無沙汰な感じ。


11時25分、臨済宗建長寺派総本山、建長寺に到着。


建長寺の総門
昭和十五年(1940)、天明三年(1783)に建立された、京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)の門を移築したもの。


額の「巨福山」(こふくさん)は建長寺住職一山一寧の筆によるもので、
「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって
字に安定感が出ているとされる。世に百貫点と言う、そうだ。
(建長寺パンフ抜粋)


三門
三解脱門の略で、楼上に五百羅漢などが安置されており、その下を通ると心が清浄になることを祈念している。
(建長寺パンフ抜粋)


安永四年(1775)に第二百一世住職万拙碩誼(ばんせつせせぎ)が関東一円から浄財を募って再建したもので、
別名「狸の三門」と言われている。
これは、三門建立の折、この寺で育てられた古狸がその恩義に報いようと、僧侶の姿に身を代えて、
住職の化縁を助けて大活躍した、という言い伝えによるものだという。
重要文化財に指定されている。
(建長寺パンフ抜粋)


三門の右隣にある鐘楼
重さ2.7トンある梵鐘は、建長七年(1255)に大和権守物部重光が鋳造したもので、大覚禅師による建長禅寺の銘文が
浮彫りにされている名鐘。国宝に指定されている。


三門の裏手に推定樹齢750年のビャクシン(柏槙)の大木がある。
開山の蘭渓道隆が中国から持ち帰った種子を建長寺創建のときに撒いたと云われている。
樹高13m、胸高周囲6.5m、神奈川県の代表的な名木の一つである。


仏殿
芝の増上寺にあった、徳川秀忠夫人お督(ごう)の方(崇源院:すうげんいん)の霊屋建て替えに際し、譲渡されたもので、
正保四年(1647)に建長寺に移築されている。
重要文化財に指定されている。


堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)が安置され、法要が行われる。


法堂はっとう
禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物で、住職が仏に代って須弥壇上で説法するためのお堂。
文化十一年(1814)の建立である。
木造建築では関東最大で、2005年に重要文化財に指定された。


法堂では、本来仏像は祀らないが。今は千手観音坐像を安置している。
2005年愛知万博に陳列されたラホール中央博物館(パキスタン)所蔵の釈迦苦行像のレプリカが、
万博終了後パキスタンより寄贈され安置されている。


天井の雲龍図は小泉淳作の筆によるもの。


法堂の軒下でウォーカーと思しき人たちが弁当を食べているところだった。
そう言えば、時計は12時を少し過ぎている。
そろそろお腹が空いてきた。


唐門
屋根が唐破風(半曲した曲線状の破風)になっている門のことで、方丈入口の門。
仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。
関東大震災以来の大修理が2011年5月に終了し、移築当時の姿が再現されている。
重要文化財に指定されている。


方丈
「竜王殿」とも称する。
総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築したもの。


方丈の背後にある庭園へは、案内に沿って方丈をぐるりと回って行く。


庭園
大覚禅師の作庭で、貴賓を応接するための禅寺を象徴する庭園となっている。


江戸時代に改修され、半僧坊の山を借景とする瀟洒な庭園となっている。


方丈の外に出ると、天園ハイキングコースへの道にもなっている。
天園ハイキングコースは、「健康ウォーキング同好会」の来年3月に予定している。


竜峰院、天源院へ続く道の杉の木は枯れかかっていた。
あまりにも枝を伐採し過ぎたのではないかと思われる。


正統院手前の紅葉
この先は、来年のハイキングまでお預けにして、ここで、引き返すことにした。


建長寺を後にして、鶴岡八幡宮の本宮裏手で「里うどん」の看板を見つけた。
12時50分を過ぎてお腹も空いたことだし、うどんでも食べて行こう!
店の中では数組が椅子に座って待たされていた。
この時間どこもいっぱいだろう。ここはおとなしく待つしかない。


バラ丼とうどんのセット(950円)を注文。
待つこと約10分、ド~ンと出て来たのがこの丼、キャベツの微塵切りがメインだが、ボリューム満点である。
お腹が空いていたこともあるかもしれないが、意外(失礼)に美味かった。丼のタレがなかなか良かった。
しかも、鎌倉でこの値段は、『お得!』と言える。


鶴岡八幡宮
大勢の人で賑わっていた。やはり週末は人出が多い。
あと1カ月で正月だが、正月はこんなものではないだろう。


舞殿
境内の中心に位置する「舞殿」は、静御前が源義経を慕って舞を納めた「若宮回廊」の跡。
1年を通じて様々な神事が執り行われる神聖な場所である。


この日は、鎌倉の紅葉を愛でるのが主たる目的である。
鶴岡八幡宮はまた別の機会にゆっくり訪れることにして、覚園寺を目指すことにした。


途中に源頼朝の墓があったので、拝んでいくことにした。


急な石段を登る。


石段の正面に頼朝の墓塔があった。
江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186Cmの五層の石塔。
案外質素な佇まいではある。


次から次へと人がお参りに来る。
鎌倉駅からそう遠くないのと、TVで最も盛り上がっている時期だからということが裏付けられた恰好だ。


鎌倉宮
今回は、覚園寺(がくおんじ)を優先するため、ここからの写真だけに留めた。


覚園寺は鎌倉宮の横の道を奥へ向かうことになる。


狭い路地である。
車1台がやっと通れる広さだ。


14時25分、覚園寺かくおんじ)に到着


石段を上ると・・・
境内の紅葉が目に飛び込んできた。


門をくぐるともみじが真っ盛りといった状態で迎えてくれた。


境内はもみじ一色である。


鶴岡八幡宮や鎌倉宮をパスして来た甲斐があったと云うものだろう。
午後3時から、覚園寺の本堂(薬師堂)を拝観する約50分のツアー(有料500円)が始まるとのことだったが、
まだ20分近く待たなければならず、16時を過ぎると帰りが遅くなるため、残念ながら引き返すことにした。
しかし、素晴らしい紅葉を見れたことで、満足している。


鎌倉駅に向かう途中、荏柄天神社があったので、立寄ってみた。
かみさんは手前の鳥居で待っていると言う。
少々歩き疲れた様子である。


石段の先に・・・


荏柄天神社の拝殿があった。
学問の神様菅原道真公を祀ってあるので、合格祈願の神社である。
また、正直者、努力を重ねるものを助ける神として、年間多くの人が参拝している。
日本三天神の一つ。


御神木の大銀杏は、推定樹齢900年と云われている。
鎌倉市の天然記念物に指定されている。


鶴岡八幡宮を通る際に白無垢の花嫁の姿が。


大勢の人でごった返す小町通り


焼き立ての煎餅(50円)を頬張りながら鎌倉駅に向かった。
孫への土産に名物「鳩サブレ」を買った。
次に会うのが楽しみである。


この日万歩計は17,000歩を越えていた。
日頃殆ど歩かないかみさんにしては、少しきつかったようだが、文句も云わずに付き合ってくれた。
鎌倉には興味があるのだろう、また日を改めて訪れてみたい。


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