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ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅡ 第二回 東海道(興津宿~蒲原宿)

2018年02月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年2月25日(日)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
として、新たに10コースを選び、”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第二回目は、東海道の興津宿~蒲原宿(新蒲原駅)
間(約14Km)を歩いた。
この街道は、2016年10月11日(火)に一度歩いている。
この時は、蒲原宿から興津宿へ歩いたので、今回は逆方向になる。
颯田峠から見る富士山は東海道随一の絶景と云われていることから、
富士山を見ながら歩くならこの方向しかない、と思ったことが
その理由である。

東京駅7時3分発の新幹線ひかり461号(岡山行)に乗車。
大人の休日倶楽部ではのぞみは使えないことになっている。


この日の参加者は、KKさん、NKさん、


IW子さん、OKさんと自分の5名である。


静岡駅で東海道線の上り興津行きに乗り換える。


静岡駅ではかなりの人が乗っていたが、清水駅を過ぎると、
車内はガラガラになった。


8時40分、定刻通り興津駅に到着


8時47分、先ずは颯田峠を目指し、出発だ!


興津の一里塚
江戸日本橋から41番目の一里塚である。


国道1号(東海道)を蒲原方面へ。


身延山道道標
現在の身延街道は、この少し先の興津郵便局前が起点となっている。
身延道は、ここから日蓮宗総本山の身延山久遠寺を結ぶ道で、
鎌倉時代、既に駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道であった。


身延山道は、江戸時代の身延道追分で、完原四里 萬沢三里 南部三里 
身延三里と刻まれている。


海を見てみようということで、旧街道を逸れて国道1号(静清バイパス)へ。
静清バイパスの向こうに海(駿河湾)が見えた。


国道1号に戻り、颯田峠を目指す。


颯田峠まで3.2Km、80分の表示が。


9時12分、興津川を渡る。
左に東海道線、右に国道1号(静清バイパス)が走っている。


興津川を渡り、


左に折れた所に颯田峠の街道の歴史があった。
参勤交代で諸大名も通ったとされる上道を進むことにした。


東海道線を潜り、


小さな公園(興津東町公園)の川越(かわごし)遺跡の
説明板に見入る。


川越しの説明版には、
ここは、東海道興津川「川越し」の跡で、
旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、連台または
人足の肩車で川を越した。
「越し札」は、その日の水深によって値が違い、連台越しの場合は
札四枚を要した。
深さが四尺五寸を越すと、いわゆる「川止め」になった。
定(天和三年)
太股川(42Cm)十二文、はさみ川(70Cm)十五文、横帯川(106Cm)二十四文
若骨川(120Cm)三十二文、脇水川(150Cm)四十二文
但し、冬季(十月下旬から三月五日まで)は、假橋が架かり無賃で渡れた。
川越し人足は、興津側で36人が常備されており、大通行があると、
250人以上が動員された。(興津地区まちづくり推進委員会)
『川の深さによって値段が違うんだ』


上道を進む。
颯田峠へ2.3Kmの表示。


頻繁に案内が出てくるので迷わずに進める。


『この道をいろんな大名が通ったんだ』


緩やかな坂道が続く。


道端には処々に無人販売所があり、地元で採れたみかんが売られていた。
1袋100円というのはお手頃な値段だと思う。


やや急な坂道を上ると、


9時47分、颯田峠登り口の墓地手前に小さな東屋があったので、小休止。
興津駅を出発してちょうど1時間が経過していた。


9時52分、いよいよ颯田峠越えである。


我々より一足先に、普段着姿の地元の年配の夫婦
とみられる2人が上って行った。
軽い足取りである。


後を追ったが、引き離されるばかりである。
『全然追いつかないよっ』
いつも散歩で歩いているものと思われる。


『けっこう急な坂道だわねぇ』


颯田峠と書かれた柱が立っていたので峠に到着かと思ったら、
峠の頂上はまだ先だった。


右手眼下に東名高速道が見えた。
しかし、富士山は厚い雲に遮られて見えない。残念!


道が平らになったので一息つける。


『やっぱ 平らな所は楽で良いよねっ』


山側の急斜面にはみかんと、


枇杷の木が植えられていた。
田中びわ(後述)という品種だそうだ。


10時19分、墓地から約25分で、峠の休憩所に到着した。


峠の休憩所には幸田文の随筆「崩れ」の中の一節が刻まれている文学碑と、


颯田峠山之神遺跡の碑が建てられていた。


峠からの眺め
晴れていれば、前方の低い山の後方には写真のように
富士山が聳えているはずなのだが・・・


やはり今日は富士山は全く見えない。
『いやぁ 残念だね~っ』


由比宿を目指す。


颯田峠の標柱を通過


国道1号(東海道)と東名高速が交差している。


みかんと枇杷の木に囲まれた急坂の街道を下って行くと、


麓の民家が現れた。


倉沢宿とある。
興津宿と由比宿の間の宿(あいのじゅく)である。


倉沢の一里塚跡
江戸日本橋から40番目の一里塚だ。


間の宿望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋
薩埵峠への東口の麓にある望嶽亭藤屋は、
その昔、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった。
明治元年3月7日、幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われた際に、
望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装して階段より脱出したが、
当時最新式仏製十連発のピストルを残して行ったと云われている。
当時と変わらぬ佇まいが、歴史を物語っている。


明治天皇御小休所跡 間の宿脇本陣柏屋
江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
明治九年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
明治十五、六年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、
倉沢の気候風土が郷里の九州に似ているところから、
田中びわの種子を取寄せ栽培を奨め、当地に田中びわが普及するところとなった。
(由比町教育委員会)


倉沢宿を進む。


間の宿本陣
ここ西倉沢は、薩埵峠の東坂登り口に当る「間の宿」で、
十軒ばかりの休み茶屋があって、旅人はここでお茶を飲み、
疲れを癒し、駿河湾の風景を賞で旅立っていった。
ここ川島家は、江戸時代慶長から天保年間の凡そ230年間
代々川島官兵衛を名乗り、 間の宿の貫目改所の中心をなし、
大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、
西倉沢村名主も務めた旧家である。(由比町教育委員会)


倉沢山宝積寺下を通過
『普通の家より高い所にあるねぇ』
『昔から寺なんかは津波に備えて高い所にあるんじゃないっ』


鞍佐里(くらさり)神社前を通過
「日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、
自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。
依って鞍去の名あり」と伝えられている。


続けて八坂神社前を通過
八坂神社(右)と中峰神社(左)
二つの神社が隣り合わせで並んでいる珍しい神社である。


倉沢宿の宿場町を進む。


”桜えびかき揚げ”の幟が。
お腹も空いてきたが、由比宿で桜えび丼を食べることにしよう。
それまで我慢だ。


東海道線が見えた。
由比駅はもう直ぐ(1.3Km)だ。


格子窓が美しい家だ。


大沢橋を渡ると、あかりの博物館があった。
日本の古今のあかりに関する展示がされており、
菜種油、蝋燭、石油等のあかりも点灯展示されている、とのこと。


東海道名主の館小池邸
小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾の名主を務めていた。
名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、
村役人の中でももっとも重要な役割を担っていた。
この建物は明治時代の建立だが、大戸・くぐり戸、なまこ壁、石垣等に
江戸時代の名主宅の面影を残しており、
平成10年に国の登録有形文化財に登録された。(静岡市)
由比宿を散策する人のために、休憩場所として開放されている。
中を覗いてみよう。


小池邸の内部(1)


小池邸の内部(2)


小池邸の内部(3)


裏庭
『きちんと手入れしてあるねぇ』


庭の一角には水琴窟もある。
柄杓で石に水を流すと、きれいに澄んだ音が聞こえた。


小池邸を後に街道を進むと、道端に時計の付いた掲示板があった。
横には、昭和五年十二月と刻まれていた。


旧街道を進む。


さらに旧街道を進むと、


横断陸橋があった。


横断陸橋で県道396号を渡ると、


間もなく由比駅だ。


由比駅前には、”由比桜えび通り”という名前のアーチが。
日本一桜えびが有名ということなのだろう。


11時41分、今宿と書かれた標柱を通過


由比漁港を目指す。


桜えびとしらすの製造直売の店
食堂ではなさそうで、ここで食べることはできないようだ。


東海道線を潜って由比漁港へ。
『漁港に行けば何かあるんじゃないっ?』という漠然とした期待だが・・・


11時49分、由比漁港に到着した。


港にはたくさんの船が係留されていた。
『これみんな桜えびとしらす漁専用の船なのかねぇ』
『それにしても凄い数だねぇ』


漁港の奥に「浜のかきあげや」という店があった。
桜えび丼などが売られており、たくさんの客が食事中だった。


ミニ丼セット
ミニ由比丼、ミニ漁師の沖漬け丼、味噌汁、かきあげが1,000円とある。
我々もここで食事を摂ることにして、ミニ丼セットを注文した。


ミニ丼セット


全員同じメニューを注文し、屋外で食べた。
『いやぁ これは美味しいよ』
ミニ丼だが2つあるのでけっこうボリュームもある。


桜えびとしらすのミニ丼でお腹がいっぱいになった。
パックに入ったかきあげは、持って帰ることにした。
由比に来ることがあれば、またミニ丼セットを注文しよう、と思った。


12時30分、ミニ丼セットに満足して由比漁港を後にした。


漁港近くに桜えびとしらすを売っている店があったので、
中を覗いてみることにした。


IW子さんがしらすを土産に買いたかったようだ。


由比の宿場を進む。


12時42分、豊積神社前を通過


宿場を進む。


せがい造り
軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし、
棰(たるき)を置いたもの。
民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多くみられる。
(由比町教育委員会)


下り懸魚(くだりげぎょ
平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、
雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。
(由比町教育委員会)


由比川橋を渡る。


由比川橋
天保十二年(1841)頃には、由比宿の街並みは東西五町半(約600m)ほどあった。
その宿場の西の木戸がこの辺りにあった、とのこと。


由比宿案内板


清水銀行由比支店
元庚子(かのえね)銀行の本店社屋として建てられ、
後に合併を経て現在に至る。
立面は4本のイオニア式柱頭を持つ柱を立て、古典様式の基本に則っている。
イオニア式とは古代ギリシャ神殿の建築様式の一つで優雅さが特色。
内部は吹き抜けの広い空間を持つ。
小規模ながら洗練された様式を持つ、大正期の地方における銀行建築の好例である。
国の登録有形文化財に指定されている。
(現地説明板)


おもしろ宿場館入口


おもしろ宿場館
宿場町・本陣・由比正雪が楽しくわかる。
おみやげ処「弥次喜多屋」もある、とのこと。


明治の郵便局舎
江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治四年、郵便制度の創設により飛脚屋は郵便取扱役所となり、
さらに明治八年郵便局と改称された。


脇本陣温飩屋(うんどんや
由比宿には脇本陣を交代で務めた家が3軒あり、そのうち江戸時代後期から
幕末にいたるまで務めたのが、この温飩屋である。


由比本陣跡の真向いに正雪紺屋がある。
江戸時代初期から400年続いている染物屋である。
正雪紺屋は慶安事件の由比正雪(1605~51)の生家と云われ、
今でも裏庭の祠には、正雪を祀ったといわれる五輪塔がある、とのこと。


屋内の土間には染物に使われた藍瓶が今でも埋められており、
昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。


いろんな染物品が売られていた。


記念に東海道五十三次の全宿場が染められた手拭(450円)を買った


由比本陣前の馬の水呑み場には、たくさんの亀が甲羅干しをしていた。


『いやぁ 凄い数だねぇ』
『人を怖がらないんだねっ』


由比本陣跡へ。


本陣跡には、東海道由比宿交流館があった。


由比宿交流館内部(1)


由比宿交流館内部(2)


由比宿交流館内部(3)


由比宿交流館内部(4)
由比宿のミニチュアが展示されていた。
中央の街道向かい側のやや広い所が由比宿の本陣である。


由比宿交流館で一休みし、


13時25分、再び旧街道を進む。


七里役所
紀州徳川家が、幕府の動向をいち早く知るために、
七里(28Km)ごとの宿場(23箇所)に設置した連絡所で、


業務に従事したお七里衆が配置されていた。


由比宿東枡形跡
当初の由比宿の東木戸で、桝型道路の形状を留めている。


由比一里塚跡
江戸日本橋から39番目の一里塚


13時34分、由比宿の標柱を通過
蒲原駅まで1kmとある。


旧東海道(県道396国)を蒲原宿方面へ。
頭上を東名高速道路が走っている。


旧東海道を進む。


そろそろ蒲原宿に入る頃だ。


13時48分、蒲原駅を通過


イルカスマシ??
気になる名前なので調べたら、イルカの背びれだそうだ。
イルカスマシは蒲原だけの食習慣で、子供のおやつやビールのつまみとして
蒲原の人は昔から食べていた、そうだ。


和歌宮神社前を通過


14時12分、蒲原宿の西木戸に到着
蒲原宿の西の入口には木戸があり、西木戸と呼ばれていた。


蒲原宿の標柱


標柱の指示に従って左に折れて進む。


美しい格子戸の家(増田家)


格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つ。


蔀戸(しとみど)のある家(志田家住宅主屋)


志田家は、ヤマロクという屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家だった。


蔀戸とは、日光や風雨などを遮る戸のこと。
上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、
下半分は懸金で柱に打った寄せに止め、
全部開放する時には、下のものは取り外せる。
昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下して戸締りの役を果たした。


旧五十嵐歯科医院
五十嵐準氏が地元蒲原に歯科を開業するにあたり、大正三年(1914)
に建てた病院併用住宅。
町屋を洋風に増改築した偽洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、
内観は和風というユニークな建物である。
平成12年に国登録有形文化財に登録されている。(静岡市)


五十嵐歯科医院の内部(1)
階段


五十嵐歯科医院の内部(2)
電話機


五十嵐歯科医院の内部(3)
和風の部屋になっている。


五十嵐歯科医院の内部(4)
欄間


五十嵐歯科医院の内部(5)



五十嵐歯科医院の内部(6)
田中光顕翁像


五十嵐歯科医院の内部(7)
2階に診察室があるのは当時としては珍しい。


高札場跡
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のこと。
辻札ともいわれた。
宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていた。
また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられた。


御殿道
かつてこの辺りに「蒲原御殿」があり、はじめは武田氏を攻めて帰る
織田信長を慰労する為に徳川家康が建てた小規模な物だったが、
二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張・整備され、
規模も大きくなったそうだ。
御殿の正確な位置は不明だが、この辺り一帯の相当広い地域を占めていた
と推定されている。
背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいる。


蒲原宿を進む。


手作りガラスと総欅の家(磯部家)
明治四十二年(1909)に建築された磯部家は、素材の美しさから
近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から
一枚板の戸袋に至る全てが欅造り。
二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手作りのガラスである。
(静岡市)


平岡本陣跡
ここは、蒲原宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、
かつてはここより100mほど東に東本陣(多芸本陣)もあった。
当時のままの土蔵や、大名駕籠を降ろしたお駕籠石が残っている。
黒々とした塀が、歴史を感じさせる。


鈴木家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠だった。
天保年間(1830~44年)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。
弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数六・一」とあり、
現在は鈴木家(左)四・一間、お休み処(右)二間の二軒に仕切られている。
(静岡市)


最後に広重の「蒲原夜之雪」へ。


「夜之雪 蒲原宿」の記念碑
昭和三十五年、「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になり、
これを記念して、広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近い
この地に記念碑が建てられた。


広重の「蒲原夜之雪」
歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」の五十五図のうち、
特に「蒲原夜之雪」は、「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに
”役物”と称され、なかでも最高傑作と云われている。
(静岡市)


旧街道を新蒲原駅へ。


東海道線の線路を潜って左に折れると、


14時53分、新蒲原駅に到着した。
『いやぁ やっと着いたねぇ』


新蒲原駅のホームで上り電車を待つ。


15時2分、上りの電車が来た。


三島で新幹線こだまに乗り換え、東京へ。


缶ビールが美味かった。
『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩くⅡ」第二回目 東海道(興津宿~蒲原宿)を歩き終えた。
期待していた颯田峠からの富士山は全く観ることが出来なかったが、
由比漁港で食べた桜えび丼、しらす丼には満足している。
由比漁港から新蒲原駅までは食後に歩いたためか、距離が長く感じられた。
新蒲原駅に着いた頃には正直言って疲れた。
万歩計は26,000歩を越えていた。

次回(2018年3月)は、中山道(大宮宿~上尾宿)を予定している。
次回はどのような景色を観ることができるのか、今から楽しみである。

ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。

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特選街道を歩くⅡ 第一回 中山道(蕨宿~大宮宿)

2018年01月21日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年1月21日(日)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
として、新たな”街道歩き”を始めることにした。

「旧街道を歩くⅡ」第一回目は、中山道の蕨宿~大宮宿間(約11Km)を歩いた。

荒川沖6時37分発の電車に乗車。


いつものメンバー、話も弾む。
この日の参加者は、自身も入れて7名である。


上野から京浜東北線に乗り換え、8時20分、蕨駅に到着


8時24分、蕨駅前を出発!


最初に立寄ったのは和楽備神社
この日の無事・安全を祈願して行くことにした。
和楽備神社は、社伝によると、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、
渋川氏が蕨城築城の折、八幡神を祀ったのが最初とされる。


江戸時代には蕨八幡と呼ばれ、明治44年に町内18社を合祀して和楽備神社と改称した。
合祀後の神社名に、祭神名(八幡神)を取ることは、各集落とも承服しない状況であり、
蕨一字では尊厳味がないので、岡田健次郎元町長の知人本居豊穎に依頼し、
万葉仮名から取って、和樂備神社と命名した、とのこと。
和楽備神社拝殿に参拝!


和楽備神社を後にし、旧中山道へ。


8時48分、蕨市役所前を通過


旧中山道(中山道蕨宿本陣跡交差点)に到着。
前回(2016年2月28日(日))、ここまで歩いているので何となく見覚えがある。


中山道武州蕨宿 板橋宿二里十町と刻まれた道標が。


反対側には、浦和宿一里十四町とある。
浦和までおよそ5.5Kmほどだ。


中山道(国道17号)を浦和方面へ。


400mほど進むと、「中山道ふれあい広場」があった。


蕨宿の浦和宿側の出入口である蕨宿上方木戸跡があった場所である。
(写真は、旧中山道蕨宿方面)


旧中山道との合流点は蔵造りの交番になっており、
交番の裏に「中山道ふれあい広場」がある形になっている。


「中山道ふれあい広場」の壁には大名行列などが描かれている。


旧中山道は、交番前の錦町三交差点を横断し、真っ直ぐに進む。
右は中山道(国道17号)になる。


旧中山道沿いには古い建物を見ることが出来、昔を偲ぶことができる。


旧中山道を進む。


長久山宝蔵寺という寺があった。


日蓮宗の寺院である。


宝蔵寺の少し先に中山道蕨宿一六橋と書かれた木柱があった。
一六用水に架かる一六橋のいわれ(説明の立札)
この橋は、見沼用水の分流、通称一六用水に架かっており、一六橋と名付けられた。
「一六」という名称は、南北朝時代~戦国時代(十四世紀~十六世紀)に、
この辺りで一と六の付く日に、「市」が開かれたことによると伝えられている。
江戸時代にはすでに一六橋の名が見えており、明治初年に書き上げられた
「武蔵国 郡村誌」には、長さ五尺(約151.5cm)、巾五尺の石造りと記されている。
平成24年3月吉日 一六会


一六橋の直ぐ先に中山道蕨宿一番地と書かれた木柱が。
境橋のいわれ(説明の立札)
この橋は、蕨宿と辻村との境を流れる見沼用水分流の笹目用水に架かっており、
そこから境橋と名付けられた。
江戸時代の中ごろまでは木製であったが、寛政九年(1797)に
蕨宿の池上氏が中心となり石製の橋を完成させた。
明治初年に書き上げられた「武蔵国 郡村誌」には、
長さ一間半(約2.7m)、巾二間半(約4.5m)の石造りと記されている。
平成24年3月吉日 一六会


9時33分、外環道手前の辻の一里塚跡に到着
日本橋から数えて5番目の一里塚だが、現在は碑が残るのみ。


一里塚碑の隣に、弁財天が祀られている。


弁財天の説明には、次のように記されている。
昔、この辻地区は湿地が多く、村人達は大変難儀をした。
この水難を守る為、水の神弁財天を安置し、地区の守り神とすると共に、
中山道を旅する人々の安泰を願った。
由来伝記の為、有志相計り保存会を結成し、
祠を再建して、ふる里の道しるべとする。


外環道を潜り、少し進むと、


小さな神社があった。
熊野神社である。


”おくまんさま”といわれ、辻の鎮守として地域の人々から信仰を集めている。


旧中山道を進む。


焼米坂
本名は浦和坂だが、江戸時代、新名物焼き米の看板を掲げ、
中山道を通る旅人に炒った米を売る茶店が数件あり、
この焼米坂の名が定着した。


焼米坂
江戸時代には旅人にとっては難所であったというが、
実際にはそれほどの坂には感じられなかった。


焼米坂に隣接して南浦和小学校がある。
焼米坂と南浦和小学校の真下をJR武蔵野線が走っているのだ。


旧中山道を進む。


旧中山道を進む。


旧中山道を進む。


神社らしき木立が見えた。
10時21分、ここで少し休憩していこう。


立寄った所は調神社(つきじんじゃ)だった。
調神社は、およそ1800年前に創建されたとされる。
調とは、古代の税「租庸調」の調(貢ぎ物)で、武蔵国の調がここに集められた。
伊勢神宮へ納める貢物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わっている。


調神社は、鳥居の無い神社として有名。
調が音韻で「つき」となることから月待信仰と結びついたため、
神社の守護は狛犬ではなく兎になっている。


御手洗の水は、水の神様である龍神様から戴き、身を清めるといった意味があるが、
この調神社では、龍ではなく兎になっている。


調神社の境内で一休み。
各自が持参した茶菓子を配り合うのがこのグループの習わしになっているが、
一度では食べ切れない量である。
半分持ち帰ってかみさんに上げることにしよう。


調神社を過ぎると浦和宿だ。


両側をビルに挟まれた旧い家(文壽堂原田表具店)を見るとエールを送りたくなる。
『いつまでも頑張って!』


文壽堂の向い側の青山茶舗で浦和宿Map(100円)が売られていたので買った。
(この後、浦和宿Mapを手に歩いたが、かなり役に立った)


右手に浦和駅を見て、


県庁通りを横断する。


門前通り
細い通りの奥に真言宗豊山派の王蔵院が見える。


奈良漬の老舗酒井甚四郎商店前を通過


うらわ美術館とパインズホテル


石臼を椅子代わりに利用している。
ここで、KKさんが浦和宿Map上に本陣跡があるのを見つけた。
少し戻ることになるが、行ってみよう。


石臼のイスから、すぐの所に仲町公園という小さな公園があり、
その入口に浦和宿本陣跡の説明があった。
説明によると、浦和宿は、本陣一軒、脇本陣三軒、旅籠十五軒、商家二百軒余りがあり、
本陣は、代々星野権兵衛が勤めていた。
加賀前田家や皇女和宮が浦和宿で休憩したということが伝えられている。


仲町公園内の浦和宿本陣跡には、本陣跡説明板と明治天皇行在所跡碑が建てられている。


常盤公園への入口に野菜を売る農婦の像があった。


農婦の像の横に、二七の”市場通り”の説明が。
この通りの北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、
昭和の初めまで毎月二・七の日に市が開かれた。
そこでは、農産物や各種生活必需品が取引された。
現在もその名残として市神様と市場定杭がある。


昭和55年、当時を偲んでこの通りに”市場通り”の愛称が付けられた。


慈恵稲荷神社
マンション群の間にひっそりと建っている。


参道に、二七の市場の跡碑が残されている。
江戸時代、十返舎一九は「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」
と詠み、浦和の市の賑いを表現している。
周辺では、蕨「一・六の市」、鳩ヶ谷「三・八の市」、与野「四・九の市」、
大宮「五・十の市」で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになる。


慈恵稲荷神社
浦和宿上町の人々が祀った稲荷社で、二・七の日には鳥居を中心に
南北二町の範囲で市が立った。


国道463号を潜り、


JRの線路を跨ぐと、


右手の浦和橋の袂に笹岡稲荷神社の幟と赤い鳥居が見えた。
道路の反対側を歩いていたため、神社には立寄ることが出来なかった。
近くには、日本橋から6里目の一里塚があった、そうだ。


北浦和の市街地に入る。


浦和と言えばJ1浦和レッズの本拠地で有名である。


北浦和駅近くの通りに選手の手形や足型が並べられていた。


11時54分、北浦和駅前を通過


廓信寺(かくしんじ
サツマイモの女王といわれた紅赤発祥の地の碑がある。


参道を進むと六地蔵が迎えてくれる。


廓信寺の仁王門を潜る。
江戸後期の建立とのこと。


仁王門の金剛力士像(吽像)


山門を潜って境内へ。


境内には聖観世音菩薩像や法然上人像が建立されている。


廓信寺本堂
鎌倉期の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。


秩父宮妃殿下御成お手植えの紅梅が咲いていた。


浦和市指定天然記念物のカヤの木
樹高16.5m、目通り幹周り2.46mの雄株で、枝下8mの直幹と
大きな樹冠から自然に垂れ下がる枝が、大樹の趣を見せている。
樹齢は、約300年と推定される。
平成8年11月(浦和市教育委員会、廓信寺)


12時16分、廓信寺を後にする


旧中山道を進んで行くと、


一本杉の仇討ち跡の説明板があった。
この地は、中山道界隈で「一本杉の仇討ち」として語り継がれた事件のあった場所。
この事件は万延元年(1860)常陸国鹿島津の官沖の船中で、水戸藩士宮本佐一郎と
讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ、斬り合いとなり、
宮本佐一郎が命を落としたことに端を発する。


河西はこの斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった
大老井伊直弼が桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けた。
そのため、居所が宮本佐一郎の息子である宮本鹿太郎の知るところとなった。
鹿太郎は4年後の文久四年1月23日(1864年3月1日)に、西野里之進、西野孝太郎、
武藤道之助の3人の後見人と共に、仏門に入ろうと不動岡総願時から江戸に向かう河西を、
針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごとに父の仇を討って本懐を遂げたと伝えられている。


その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方へ引き取られ、1月27日に浦和宿にて
幕府の取り調べが行われた後、小石川の水戸藩邸へ引き渡された。
事件は幕府最後の仇討ちとして、刷り物・はやり歌などで中山道界隈に広まり
語り継がれていった。
かつて、一本杉は樹齢約18m、周囲約3mと云われ、松並木の中で一際秀でた大樹だった
また、河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られたが、現在は北浦和にある廓信寺で
供養されているという。


旧中山道与野駅辺り。
時計は12時40分を過ぎており、お腹も空いてきた。
ファストフード店でもと思ったが、それらしき店がなかなか見つからない。


県道159号の下を潜って100mほど進むと・・・


ファミレスRoyal Hostがあった。


近くに他に店が無さそうなので、Royal Hostで昼食を摂ることにした。


豚肉と野菜の甘酢あん(税込1,166円)を注文。
お腹が空いていたこともあり、美味しかった。


大宮の氷川神社を目指す。


さいたま新都心駅周辺の高層ビル群が見えて来た。


”お女郎地蔵と火の玉不動”は、さいたま新都心駅前の県道164号の反対側にあった。
もう少しで見落とすところだった。


お女郎地蔵(右)
大宮宿に柳屋という旅籠があり、千鳥と都鳥という街道筋でも評判の姉妹が
旅人の相手をしていた。
やがて、宿の材木屋の若旦那と千鳥が恋仲となり、末は夫婦にと堅い約束。
そこに割って入ったのが悪名高い神道徳次郎という大盗賊。
何が何でも千鳥を身請けするとせまり、ついに宿に火をつけると凄む始末。
これを知った千鳥は、思い余って高台橋から身を投げてしまった…。
哀れに思った町の者が、女郎地蔵を建立したという。


火の玉不動(左)
高台橋のあたりを毎夜火の玉が飛ぶので、ある男が火の玉に斬りつけてみると、
キャっと声がして火の玉が消え、暗がりにいた不動明王と名乗る男が、
「剣を斬り落とされた」と言い残して姿を消した。
高台橋に行き不動の姿を確かめると剣を持っていなかった・・・。
以来火の玉不動と呼ばれるようになった。


北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水に架かる橋が高台橋で、
中山道の東側は暗渠になり、橋であることに気が付かない、とある。
この下を鴻沼(こうぬま)用水が流れていることになる。


13時54分、さいたま新都心駅を通過


コクーンシティの景観や


さいたま新都心駅周辺の高層ビル群などをキョロキョロ見回しながら進むと・・・


氷川神社一の鳥居が見えた。


武蔵国一之宮碑
氷川神社は武蔵国の一之宮であり、大宮の地名の由来大いなる宮居ともなっている神社。
2000年以上の歴史があるともいわれ、各地に点在する氷川神社の本拠を成す存在である。


氷川神社参道入口
古く中山道は、一部この参道を通っていたが、不敬であるということで、
江戸初期に新たな道が開削された。


是より宮まで十八丁(約2Km)とある。
長い参道には、ケヤキを始めとした高木が600本以上植えられている、とのこと。
ここから宮までどのくらい時間がかかるのか計ってみよう。
14時3分、スタート


宮を目指して歩き出して100mほどで、一丁の石柱が現れた。
この先、十八丁まで続くのだ。


氷川神社参道を進む。
車は一方通行となっている。


14時15分、八丁を通過


氷川神社参道を進む。


十三丁を通過


14時27分、二の鳥居を通過


二の鳥居から先は、参道は人だけになり、広いので歩き易い。


名代氷川だんご
人気のだんご(みたらし)は2本200円、甘酒250円。
酒まんじゅうをその場で揚げてもらう揚げまんじゅう(2個200円)がお薦め、とのこと。
店の前には行列が出来ていた。


十七丁を通過
残りはあと一丁だ。


14時32分、十八丁に到着
一の鳥居をスタートして2Kmをおよそ30分、時速4Kmということになる。
しかし、氷川神社の本殿はまだ先だった。


十八丁の先には、露店が続いていた。


露店に続いて、三の鳥居を潜ると、


右手に神楽殿


その左隣には額殿が建っている。


左手には戦艦武蔵の碑や


酒造、水の神様の松尾神社が見える。


神池に架かる赤い橋を渡ると、ようやく氷川神社の楼門が見えてきた。


氷川神社の楼門を潜り、神社内へ。


舞殿の先に拝殿がある。


14時38分、拝殿前に到着した。
日曜日とあってか大勢の人が参拝していた。


我々もこの日の旅の無事を感謝して参拝!


拝殿の中は、大勢の人がお祓いをしてもらうために整列していた。


氷川神社への参拝を終えたことから、大宮駅へ向かうことにした。
再び楼門を潜り、


参道へ。


神池の橋を渡り、三の鳥居を潜り、露店の間を抜け、


今度は、逆方向に参道を歩く。


大宮駅を目指す。


二の鳥居で氷川神社の参道を離れ、大宮駅方面へ。


駅近くの商店街を通り、


駅前の細い”焼肉街”を通り抜け、


15時18分、この日のゴール大宮駅に到着した。


「旧街道を歩くⅡ」第一回目 中山道(蕨宿~大宮宿)を歩き終えた。
距離はさほどないと思っていたが、中山道に因む名所旧跡に立ち寄ったため、
万歩計は27,000歩を越えていた。
氷川神社から大宮駅への帰りは、ふくらはぎがパンパンに張って正直疲れた。

次回(2018年2月)は、東海道(興津宿~由比宿~蒲原宿)を予定している。
颯田峠から富士山の絶景を観ることができれば最高なのだが・・・

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特選街道を歩くⅠ 第十二回 (北国街道)小諸宿~上田宿(2日目)

2016年04月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年4月25日(月)

昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の追分宿~上田宿間(約25Km)を歩くことになる。

この日は、昨日の続きでしなの鉄道大屋駅から同上田駅までの約9Kmを歩いた。
スタート地点のしなの鉄道大屋駅は、上田駅から2つ目(230円)の駅だ。

上田第一ホテルでしっかりと朝食(和or洋)を摂って、


8時18分、ホテルを出発!


上田駅へ向かう。


7分ほどで上田駅に到着


しなの鉄道駅で切符(230円)を買い、


8時39分発の小諸行に乗車。
昨日と同じ電車である。


通勤・通学時間帯が過ぎているためか、客はほとんど乗っていなかった。


8時45分、大屋駅に到着


昨日は気が付かなかったが、大屋駅舎内には大正11年11月設置の大時計があった。
設置当時の価格は70円だったそうで、昭和8年と19年に修理をしている。
初めのものは分銅式だったが、現在のものは振り子式に改造されている。
長野鉄道管理局内で同型のものは、この大屋駅に現存しているもののみ、とのこと。
今でもまだしっかりと正確に時を刻み続けている。
『大正11年からか、大したもんだねぇ』


8時51分、大屋駅を出発!
上田駅を目指す。


大屋駅を出て直ぐ、上田市街まで6Kmの標識が。
『あと6Kmじゃ大したことないねっ』
『昨日は、田中宿までだったのを、頑張って海野宿まで歩いたからねっ』


昨日歩いた割には女性陣の足取りは軽い。


その後に男性陣も続く。


北国街道の道幅が狭くなり、歩道も無くなって危ないので線路を渡って国道18号へ。


しなの鉄道に沿った国道18号を上田方面へ。


上田市東部を南北に流れる神川に、”神川合戦の地”の横断幕や幟旗が掲げられていた。
第一次上田合戦で、真田軍にここ神川附近まで追い詰められた徳川軍は、
大打撃を受けたと伝えられている。


9時28分、信濃国分寺駅を通過。


信濃国分寺跡があるというので、特に予定していなかったが、見学して行くことにした。
広い公園のところどころに礎石と思われる石が並んでいる。


塔跡だけが一段高くなっている。


僧坊跡


回廊跡


金堂跡


講堂跡


信濃国分寺に関する予備知識は全くなかったため、全体的な配置など全く分からなかったが、
幸いに国分寺僧寺跡の配置図があった。
それによると、寺域は東西176.56m、南北178.05mで、約100間四方の広さがある。
金堂・講堂・中門・塔・回廊・僧房の跡が確認され、
南大門の位置も推定されている。(Wikipedia)


国分寺の地図
国分寺跡は現国分寺の南方に位置している。
東側(右)に国分寺僧寺跡、その西側(左)に尼寺跡があるが、何とそのど真ん中を
東西にしなの鉄道が走っている。
『え~っ ここに国分寺があったことが分かって鉄道を敷いたのかねぇ』
『事前に分かってたら線路はここを避けてたと思うけどねっ』



信濃国分寺資料館(250円)があったので、ちょっと見学していくことにした。


国分寺僧寺・尼寺の模型
右が僧寺、左は尼寺で、僧寺と尼寺が隣り合っている。


僧寺
伽藍配置は中門・金堂・講堂を南北一直線に配置し、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。(Wikipedia)


尼寺跡は僧寺跡の西側に位置する。
寺域は東西150m、南北150mで、80間四方の正方形。僧寺より一回り小さい。
金堂・講堂・中門・回廊・経蔵・鐘楼・尼房などの跡が確認されている。
伽藍は、中門・金堂・講堂・尼坊・北門が南北一直線に配置され、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付くのは僧寺と全く同じ。
講堂の東西の回廊外に位置する建物跡は東が鐘楼、西が経蔵とみられる。(Wikipedia)


現在の国分寺は、国道18号を渡った先にあり、近くに横断歩道がないため、
10時35分、跨道橋を渡って国道18号を横断。


国道18号
(写真は信濃国分寺駅方面)


国分寺仁王門の手前に瓦窯跡観察施設があったので、立寄ってみた。
この窯跡は昭和42年2月、運輸会社建設工事の際に発見され、同年3月の緊急発掘調査により、
半地下式平窯跡二基であることが確認された。


窯跡
この窯跡は、平安時代の初めに、国分寺の補修用の瓦を焼いたものと考えられる、とのこと。
いつも思うが、ガラスでこのように覆うのは考えものだと思う。
ガラスが反射して見え難く、中の様子は殆ど分からないのだ。


現在の信濃国分寺の仁王門


阿像
身体の大きさに比べると顔が大きい。
ややアンバランスな感じがする。


吽像


国分寺仁王門を内側から見たところ。


仁王門を潜ると一直線の参道が続く。


10時46分、現在の国分寺に到着。
奈良時代の天平十三年(741)の聖武天皇の詔により、全国各地に建立された国分寺のうち、
信濃国分寺の後継寺院にあたる。
現在の国分寺は、信濃国分寺僧寺跡の北方300mの場所に建っている。


八日堂の別称がある。中部四十九薬師霊場の一番札所である。
本尊は薬師如来。
県指定文化材(県宝)


天台宗の寺院で、本堂は天保十一年(1840)に起工、万延元年(1860年)の建立。
再建の発願から完成まで31年の歳月を費やして竣工した。


三重塔は銅板葺で高さは20.1m。
源頼朝の発願と伝えるほか、塔内には建久八年(1197)の墨書があったと伝わるが、
様式から室町時代中期の建立と推定されている。
内部には大日如来を安置している。
室町時代の様式をよく表すとして国の重要文化財に指定されている。


観音堂
江戸時代初期の百体観音像が安置されている。


地蔵堂
地蔵尊と閻魔十王が安置されている。


鐘楼
享和元年(1801)、上田藩主松平伊賀守による建立。


大黒天堂
大正十三年(1924)に再建された。


真田・徳川会見之地
真田家の歴史が書かれた史書「上田軍記」に記述がある国分寺の会見は、
徳川秀忠が、上田城主真田昌幸の長男信之と信幸の義弟本多忠政を使いとして昌幸の元に送り、
上田城を明け渡すよう求めたと伝わる。
昌幸が応じなかったため、第二次上田合戦が起き、昌幸と二男信繁は秀忠軍を撃退した上、
関ヶ原の戦いに向かうのを遅らせることに成功した。
この碑は、NHK大河ドラマ「真田丸」放映に合わせて立てられた。


国分寺僧寺の中門跡と尼寺跡をまだ見ていないため、しなの鉄道の線路を潜って東側へ。


線路を潜ったところに、左僧寺の中門跡、右尼寺の建物跡と案内表示されていた。


僧寺の中門跡
線路の向う側に金堂・講堂が一直線に配置され、中門と講堂が回廊で繋がっていたのだ。


僧寺跡の西隣りに位置する尼寺跡へ行くと、
尼寺の回廊跡、


尼寺の金堂跡、


尼寺の講堂跡、


尼寺の中門跡などを見ることができた。
ようやく国分寺僧寺・尼寺跡の見学が終わり、


11時30分、再び北国街道へ。
『信濃国分寺って立派な寺だったんだね~っ』
『良い勉強になったよね~っ』


上堀交差点を


真っ直ぐ進み、上田市国分町へ。
『白かうじ???』


”味噌有”とある。家の造りは老舗のように見える。
『あぁ 糀屋かぁ』 納得である。 


古い家並みが続き、街道らしい雰囲気が漂う。


11時48分、国道141号を横断して進むと、


ポンプ式の井戸があった。
説明板には、
この井戸は、旧北国街道踏入村の生活用水や旅人の喉を潤した古跡です。
昔からこの井戸は、毎年七月に井戸替えをして、八月には砂文字天之川伝統行事が行われています、とある。
『昔からある古井戸なんだ』


上田市踏入付近の古い家並みを通過すると、


信州大学繊維学部入口の前に出た。


12時1分、科野(しなの)大宮社に到着した。


科野大宮社の鳥居と欅の大木
境内には欅の大木が何本か立っており、社叢は市の天然記念物に指定されている。


社伝によれば、第十代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命による創建という。
天武天皇の御世に神地の下賜があり、天平年間(729年-749年)には官祭執行の儀があったともいう。
信濃国府は古来上田市にあったとされるが、平安時代初期に松本市へ移されたとされる。
上田市の国府は神科台地上と推定されており、当社は国司が参拝する総社であったとする説がある。
現在の社殿は、万延元年(1860)の上田城主松平忠礼の再建によるもの。(Wikipedia)


科野大宮社の御神紋は、梶の葉。


御神紋 穀(カジ)の苗木が植えられていた。
穀(梶)の木は、桑科の植物で、山野に自生し、古代から神に捧げる神木として、尊ばれた。
この御神木は諏訪大社本宮より寄贈されたもの。


科野大宮社で最後の休憩を摂り、


上田駅を目指す。


上田駅は近い。


12時29分、鷹匠町停留所を通過
『珍しい町名だねぇ』
真田氏によって造られた城下町のうち、城の南東に鷹匠の居住地と定めて造られた町。
真田氏のあと、仙石氏の時代、寛文三年(1663)の記録には、
この町は、鷹匠其の外扶持人の屋敷四十二軒と記されている、とのこと。


12時35分、ゴールの上田駅に到着


ある人は駅弁を買いに、またある人はラーメン店へ向かい、
めいめいお好みの昼食を済ませた。


13時36分発「あさま618号」が入って来た。


「あさま618号」自由席車内は、空いていた。
この後、軽井沢~高崎で、かなりの客が乗り込んだが、
混雑と言うほどでもなく、快適な旅を楽しめた。


ご機嫌なお二人


予定よりもかなり早い帰着で、通勤時間帯に遭わなかったため、
常磐線もゆったりと座れて、めでたし、めでたしだ。
『皆さんっ 昨日今日と連続で大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩く」第十二回(最終回)、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を無事歩き終えた。
皆さんと揃って、元気に上田宿(上田駅)へゴールインできてほっとしている。

今回をもって「特選街道歩き」は終わったが、ほっとする間もなく、
来月から新たに「甲州街道」(内藤新宿~下諏訪宿)を歩くことになった。
どんな旅になるか、今から楽しみである。
また、忙しい一年になりそうである。

この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。

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特選街道を歩くⅠ 第十二回 (北国街道)小諸宿~上田宿(1日目)

2016年04月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年4月24日(日)

昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を2日間かけて歩いた。

この日のスタートは、しなの鉄道の小諸駅から。
北陸新幹線で上田駅からしなの鉄道に乗り換えて、5つ目の駅(400円)だ。

上野駅で朝食・昼食の弁当を買い、新幹線乗り場19番ホームで待つ。
この日の参加者は8名。


乗車するのは、6時58分発の長野行あさま601号。


車内(2号車)はガラガラだった。
中央部に向い合わせで席を確保して、ゆっくりと朝食を摂る。


8時27分、定刻どおり上田駅に到着


上田駅でしなの鉄道に乗り換える。
SUICAが効かないのは、ちょっと不便。


8時39分発小諸行に乗車


しなの鉄道車内も空いていた。


8時58分、この日の出発地小諸駅に到着


9時8分、出発!
先ずは、前回の街道終点荒町一丁目交差点へ。


荒町一丁目交差点からこの日の北国街道が始まる。


「ギャラリーつたや」
江戸時代から昭和初期まで、商人宿として繁盛した旅籠だった。
現在は、骨董や手作り工芸品などを扱う6店が各部屋に出店する共同ギャラリーとなっている。


蔵を備えた大きな家


こちらは骨董店


道路反対側にも骨董・古民具の店が。
『骨董品の店が多いねぇ』


蕎麦屋「そば七」
脇本陣代として江戸後期に建てられた立派な玄関屋根を持つ。


そば打ちの真っ最中だった。
『食べてみたいねっ』


「町屋館みはらし庭」の看板があったので、立ち寄ってみた。
昭和40年代まで味噌・醤油の醸造業を営んでいた旧商家の造りをそのままに活かし、
会議や展示、イベントなど多目的に利用できる施設として整備。


合わせて、浅間山などの眺望を活かした小公園に休憩施設・公衆用トイレを併設し、
本町の情緒あふれるたたずまいに調和した施設として平成13年7月にオープン。


『残念ながら浅間山は雲に隠れて見えないねぇ』


大井伊賀守居城鍋蓋城址
鍋蓋城は、長享元年(1486)大井伊賀守光忠によって築かれたと云われる。
鍋蓋城は、近世小諸城の三ノ丸北側に、鍋蓋曲輪として小諸城代家老屋敷などが置かれていた。


小諸脇本陣
本町が、寛保二年(1742)の洪水でことごとく流失してしまったために、
問屋・本陣・脇本陣などの宿駅の機能は、ここ市町に移った。


小諸本陣
問屋場を兼ねた本陣で、18世紀末~19世紀初頭の建築と推定される。
街道時代の面影をそのまま伝える問屋場建築は全国でも2棟しかなく、国の重要文化財に指定されている。
本陣主屋は小諸駅近くに移築・公開されている。


正面に小さな破風があるのが特徴


日本城郭初期の代表格の大手門
小諸城主仙石秀久が築造した小諸城の正門。
城郭配置から表玄関になり、また本丸から四番目の門であることから、四の門(瓦)とも呼ばれる。
二階入母屋造りの楼門で、石垣と門が一体化していないことや、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、
二階は居館形式をとっているなどの特徴がある。


大手門を内から見たところ。
現存の門は、慶長十七年(1612)の建立と云われる。
実戦的で華美な装飾を省いた質実剛健な建築は、弘前城とともに大手門の双璧と呼ばれている。
国の重要文化財に指定されている。(小諸市)


しなの鉄道の下を潜って懐古園へ。


小諸城址懐古園のシンボル三の門
徳川家達(いえさと)公の筆による”懐古園”の大額が掛かっている。
両塀には矢狭間、鉄砲狭間がある戦国時代の戦闘式要害を伝える建物。
国の重要文化財に指定されている。


三の門内側
小諸城は、城下町より低い位置に城を築いた「穴城」で、全国でも珍しい。
「日本百名城」でもある。2010年9月25日(土)に訪れている。


今日と明日(25日)は、ちょうど懐古神社例大祭で、たくさんの露店が出店準備中だった。


懐古園を後にして、北国街道へ。


10時14分、小諸新町の諏訪神社を通過


「牛に引かれて善光寺参り」という諺で有名な布引観音への道標、しかし、北国街道は直進だ。


北国街道


小さな川の橋に”小諸馬子唄”の歌詞が。
こもろ出て見りゃ 浅間の山に 今朝も三すじの 煙り立つ


しなの鉄道を跨ぎ、


国道18号の小諸IC南交差点を渡って、上田方面へ。
北国街道は右へと進む。


10時39分、小諸駅を出発して1時間半、少し休憩していこう。
『こいのぼりの季節なんだねぇ』


西原地区辺り


分岐点に「中部北陸自然歩道」の道標が。
北国街道は「中部北陸自然歩道」でもあるらしい。


国道18号との合流点に観音像が。
『何て言う観音様なのかねぇ』


国道18号沿いに「たかこの布あそび」という、瓦屋根が五層にもなった大きな古民家風の建物があった。
土屋敬子(つちやたかこ)という人の縫ったドレス・シャツブラウス・小物・子供服を陳列している、そうだ。
もとは寿司屋だった、とか・・・


「たかこの布あそび」から少し行ったところに「CAINZ HOME」が。


ここで、一休み。


11時21分、「CAINZ HOME」で北国街道は、国道18号と分れる。


少し進むと、長く立派な塀の家や


大きな蔵などを備えた家々が見られるようになった。
『街道らしい風景になって来たねっ』


これは半鐘
『随分低い所にあるんだねぇ』
『女子供でも手を伸ばせば届くようにしてあるんじゃないっ!?』
そういうことにしておこう。


道端には剣を持った双体道祖神や石仏群も・・・
石には”観音経一千巻 牛馬難消除”と刻まれている。


古い家並みが続く。


11時43分、滋野コミュニティセンター前を通過


本物そっくりの櫓が。
野沢菜・山菜 センターの文字が見える。


牧屋(ぼくや)一里塚の碑
江戸日本橋から43番目(43里)の一里塚。
塚は明治維新の際、民間払い下げとなり、原形を失った。


雷電為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。
力士生活21年、江戸本場所36場所中での勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、未曾有の最強力士に推す意見も多い。
身長197Cm、体重169Kg※の巨体から繰り出す怪力のため「鉄砲(突っ張り)・張り手・閂(かんぬき)・鯖折り」を
禁じ手にされたという逸話が有名。閂で相手力士の腕をへし折ったとも伝えられている。
※横綱白鵬(192Cm、158Kg)よりも一回り大きい体格である。


雷電為右衛門の死後、文久元年(1861)その履歴と英名を追慕して建てられたのがこの碑で、碑文は佐久間象山の筆。
いつの頃か、その破片を所持したり煎じて飲むと力が出たり丈夫になるとの信仰が生まれ、削り取られたため、
磨耗し、碑文は読むことができない。
このため、明治28年、象山夫人・勝海舟・山岡鉄舟などが新しく建て直したという。
現在、新旧二つの碑がある。


間もなくお昼、どこで弁当にしようかと地図を見ると、近くに神社のマークがあったので、行ってみると・・・
桜井神社という小さな神社だった。


『ここで弁当にしよう!』ということで、


拝殿前で日向ぼっこを兼て弁当タイム。


上野駅で買った駅弁「真田御膳」(1,150円)


海苔で巻いたおにぎりが6個、六文銭をイメージしている。
6種類のおにぎりが味わえて美味しかった。


昼食後の13時1分、街道へ戻る。


胡桃(くるみ)の木が整然と並んでいる。
胡桃が栽培されているとは知らなかった。


北国街道に戻ったところに明治天皇牧屋小休所の碑が建てられていた。


この辺りの半鐘は、一様に低い。


田中宿を目指す。


民家の軒先に慶應三年(1867)建立の筆塚があった。


「郷社縣諏方神社」と書かれた神社があった。
郷社は明治政府の決めた神社の格の一つだが、戦後は廃止されている。
明治四年(1871)全国の神社は官社と諸社に大別され、官社は大・中・小の官幣社と国幣社、別格官幣社に。
また、諸社は府県社・郷社・村社・無格社に分けられた。


近くで子供たちが遊んでいたので、何と読む神社なのか訊ねると、『すわじんじゃだよ』との返事。


境内には、欅の大木が。
神社の歴史は古そうだ。


田中宿に入った?
道路は拡張整備されて、立派な歩道も併設されている。
電柱が見当たらないのですっきりとしている。


『街道らしくないわねっ』


右手に成田山の文字が入った碑があった。長久寺だ。
地元の豪族常田氏の祈願所だったそうである。
入口に六地蔵が並んでいた。


高木屋という新しい店に「田中宿脇本陣跡」と書かれた看板が。
この先の路地を入ると、民家の庭先に本陣跡の門があるそうだが、見落としてしまった。


田中駅の反対側に馬に乗った勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)があった。
勝軍地蔵とは武具・甲冑をまとった地蔵菩薩で、戦いに勝ち飢饉なども免れるそうで、
鎌倉時代以降に武家に信仰された。
悪行や煩悩を破り勝つという仏様で、防火神としても信仰されている。


北国街道を左へ折れると、しなの鉄道田中駅である。


時刻は14時をちょっと回ったところ。
当初の予定では、この日は田中駅がゴールで、上田駅近くで宿泊することにしていたのだが・・・
少しばかり早いので、海野宿へ向かうことにした。


田中宿の家並みを見ながら進む。


海野宿まで1.2Kmの表示


しなの鉄道沿いの遊歩道を進む。


踏切を渡ると・・・


小さな公園に海野宿と刻まれた大きな石があった。
『海野宿に着いたんだねっ』


海野宿東端の白鳥神社境内に聳える御神木の欅の大木。
推定樹齢700年以上で、目通り7.3mとある。


古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在したことから、「白鳥神社」と称し、
古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善渕王・海野広道公を祭神としている。


白鳥神社で一息入れて、海野宿へ。


海野宿は、「日本の道百選」、また「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
昔風の旅籠造りの家並みが、水路を挟んだ両側に続いている。


「うだつ」は、防火・富の象徴として作られた。
海野宿は、明治時代に宿場から養蚕業の地へ変わっていき、財を成した。
江戸時代には、佐渡の金が通っていたので『金の街道』と呼ばれ、
明治時代に養蚕を始めてから『絹の街道』と呼ばれるようになった、そうだ。
海野宿の「うだつ」は、明治時代に作られたもので「袖うだつ」と言われる。
江戸時代に作られた「うだつ」は「本うだつ」と言われ、形も異なる。


それにしても海野宿の通りには人影が少ない、と言うより見えない。
今日は日曜日で天気も良いのに、街は静まり返っているし、寂しい。


本陣跡があったので覗いてみると、


門を入った正面に大きな庭木があり、中の様子が伺えない。
まるで通せんぼされているようなので、これ以上入るのは止めた。


海野宿大嶋屋
家の前に馬の塩舐め石が置かれている。


一応”営業中”の看板は掛けてあったが、
「昭和62年より27年間営業して参りましたが、この三月で閉店します」の張り紙が。


”お茶でも一服”と立寄ろうとしたが、入口に”宿泊の方のみ”の札が下っていたため、入らなかった。
(他にもお茶屋の1軒くらいはあるだろう、と高をくくっていたら、お茶屋は結局この1軒だけだった)


宿場は続くが、相変わらず人通りは少ない。


お茶屋らしき店を探したが見つからず、いつの間にか「重要伝統的建造物群保存地区」から
「歴史的風致地区」に変わり、


海野宿の外れに来てしまった。
『一服するところが殆どなかったねぇ』
皆さん、少々お疲れの様子。


後は、大屋駅へ向かうしかない。


左手に千曲川を見ながら大屋駅を目指す。


15時29分、大屋駅に到着。
田中宿から1時間30分ほどかかった。


15時44分発の上田行に乗り、


15時50分、一駅で上田駅に到着した。


とりあえずこの日の宿泊先「上田第一ホテル」へ向かう。


16時2分、「上田第一ホテル」に到着


ホテルのロビーで熱いコーヒーで一息入れる。
『疲れたぁ』


ホテルの夕食は日曜日は無いため、外食となる。
16時40分、外はまだ明るい。
食事の前に上田城を見物をしようということで城へ向かった。


道路の反対側を「信州上田おもてなし武将隊」と思しき衣裳の若者が通ったので、
カメラを向けるとポーズをとってくれた。サービス精神旺盛である。
『かっこ良いよっ』


ホテルから約8分、上田城正門に到着
時刻は16時50分、帰る人もいれば、これからという人も。


「真田丸大河ドラマ館」前の屋台にはまだ大勢の人が寛いでいた。


上田城本丸櫓門
正面の櫓門は平成6年に再建されたもの。


東虎口櫓門右にある「真田石」(高さ約2.5m・横約3m)は城内で最大
真田信之が松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、
大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられる。


櫓門の左側にあるのは角櫓(南櫓)だ。


城内の真田神社には、


真田幸村公が祀られている。


真田神社の左奥に城内唯一の大井戸、真田井戸がある。
この井戸から抜け穴があり、城の北方、太郎山麓や藩主居館跡に通じていたとの伝説もある。


本丸隅櫓(西櫓)


西櫓から上田城址公園を見下ろす。


西櫓横を通り尼ヶ淵へ。


尼ヶ淵
上田城址公園から西櫓を見上げると、その守りの堅さが実感できる。
江戸時代には、ここを千曲川の分流が流れていたため、その防御は強固になった。
崖の高さは12m余あり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくした。(説明板)


角櫓(南櫓)下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれている。
中断石垣は、長雨で一部崩落したことから、修復工事を実施した。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣がなかった部分であることから、
原形に基づきモルタルで修復している。(説明板)


尼ヶ淵の遊歩道を通って二の丸の堀跡へ。


堀は、二の丸を鈎の手に囲んでおり、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていた。
その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、ここを電車が走っていた。
昭和47年2月に電車は廃止され、現在に至っている、とのこと。
『へぇ~っ ここを電車が走ってたんだぁ』


平和の鐘建設の由来
時の鐘の歴史は、延宝五年(1677年)、時を知らせる鐘として上田城下の住民の親しまれ、
日常生活に欠かすことができなかった。
以来二百数十年の長い間、正しい時を知らせ続けてきたが、大正14年サイレンに代った。
鐘の位置も幾度か変わり、昭和9年に上田城跡のこの場に落ち着いた。
昭和18年大東亜戦争が悪化するに伴い、軍に徴発され、姿を消して鐘楼のみが風雪に耐えていた。
この歴史的遺産をなんとか復元しようと、昭和47年上田市自治会連合会に復元運動が起り、
「平和の鐘」と改め、30年振りに昔の姿に再現された。
再び悲惨な事の起らないよう、市民の平和の願いがこの鐘に込められている。
昭和48年吉日 上田市


17時40分、お腹も空いてきたので上田市内へ。
「真田丸大河ドラマ館」前の屋台は、既に閉まって人影はまばら。


ホテルで紹介された焼きとりの「千串屋」


『かんぱ~いっ』 『今日は大変お疲れさまでしたぁ』

『明日も頑張って歩きましょう!!』

「旧街道を歩く」北国街道小諸宿~上田宿間(初日)を無事歩き終えた。
当初予定していた田中宿までを急遽海野宿までに変更し、その分距離が長くなったため、正直疲れた。
「旧街道を歩く」もいよいよ明日最終回を迎える。
皆さんと揃って、元気に上田宿へゴールインしたい。

この日の万歩計は、33,000歩を超えていた。
30,000歩を超えたのは、昨年(2015)5月25日の中山道(軽井沢宿~坂本宿)以来である。


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特選街道を歩くⅠ 第十一回 (北国街道)信濃追分~小諸宿

2016年03月20日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年3月20日(日)

昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで、歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
この日の「旧街道を歩く」第十一回は、北国街道の追分宿~小諸宿間(約16Km)を歩いた。

この日のスタートは、しなの鉄道の信濃追分駅からとなる。
北陸新幹線で軽井沢からしなの鉄道に乗り換え、2つ目の駅だ。
第四回の中山道(追分宿~軽井沢宿~坂本宿)で一度利用しているので、記憶に新しい。

この日の参加者は、体調が優れなかったり、親戚に不幸があったり、
また、彼岸と重なったこともあって、4名が参加を見合わせたため、5名となった。

上野駅エキュート「駅弁屋匠」で弁当を買い求める。


「駅弁屋匠」の向い「キノクニヤ アントン」でも弁当を売っていた。
『駅弁屋よりこっちの方が安いよねっ』


新幹線乗り場へ


上野駅7時30分発のあさま603号(長野行)自由席は、充分に空いていた。
向い合わせにして和気あいあい。


8時42分、軽井沢に到着し、直ぐにしなの鉄道に乗り換えだ。
SUICAが利用できないため切符を買い求めることになるのがちょっと不便。


8時52分発の長野行に乗車し、


9時ちょうど、軽井沢から2つ目の信濃追分駅に到着。


9時6分、小諸宿目指して出発だ!
『ちょっと思ってたより寒いねぇ』
予報では、最高気温は9℃となっていたが、まだ早いので気温はかなり低そう。


浅間山は雪を被っている。


前回は右の道を進んだが、今回は左の追分宿方面へ進む。


追分宿を目指す。


国道18号下を通り抜け、


三叉路を左に曲がると直ぐに中山道追分宿である。
北国街道は、この先の”分去れ”からとなる。


9時30分、堀辰雄文学記念館に到着。
堀辰雄は室生犀星と訪れた軽井沢に魅せられ、後に宿場町の面影を残す追分に居を構えた。


この地を愛した堀辰雄の文学と生涯に触れる、詩情あふれる佇まいの記念館は、この奥にある。


追分本陣門
明治26年に信越線が全線開通すると、追分宿を利用した、宿継の荷駄・旅人は他の交通手段に代り、
宿場としての機能を失っていった。
本陣門(裏門)は、明治末期頃、追分宿に近い御代田町の内堀家の表門として移築され、
大切に扱われてきた。
平成17年、本陣門が軽井沢町の歴史的遺産であることから、内堀家より軽井沢町へ寄贈された。
現在は、堀辰雄記念館の入口となっている。


旅籠油屋
江戸時代から脇本陣を務めた油屋は、堀辰雄や室生犀星、芥川龍之介ら文人が繁く泊った宿である。


旅籠油屋
脇本陣の頃の建物は、昭和12年に焼失したが、翌年に再建された旅館の建物が残っている。
油屋の「つげの間」で堀辰雄は「風立ちぬ」を執筆した。


中山道追分宿


追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあり、法度、掟書きなどを記した。
さらし首、重罪人の罪状を記し、高く掲げた版札を高札という。
ここに掲示してある高札は複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている、そうだ。


9時39分、浅間山登山道分岐点を通過


諏訪神社鳥居


境内には小林一茶の句碑が建っているとあったが、見落としてしまった。


泉洞寺は今から約420年前の、慶長三年(1598)上州常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創された。


泉洞寺の門を潜ると、


立派な本堂が現れた。
創建時は「仙洞寺」だったが、江戸時代に火災に遭ったことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して、
「仙洞寺」から、水を持って寺を守る様にと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願った。
御本尊は聖観世音菩薩様である。


境内には、弥勅菩薩の半伽思惟像があり、左手を頬に当てているため「歯痛地蔵」と呼ばれている。
この石仏は、堀辰雄の数多くの名作の一つ「樹下」(「大和路・信濃路」)の文中にあって、
素朴な姿に心を惹かれ、朝夕ここを散歩し、親しんだと云われている。


9時58分、追分宿の西入口(京方)に到着。
国道18号(現中山道)が見える。


桝形茶屋つがる屋
寛永十二年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、
ここを往来する諸侯のため、宿場内には問屋・本陣・脇本陣を設置し、
宿の西入口、この辺りに枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが、当時枡形の地域内にあって、
茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。


分去れ(わかされ)
中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、宿場町の西端にあり、
今も賑わったありし日の面影をとどめている。
三角州のようになっており、常夜灯や道標・観音像が立ち並んでいる。
「右、従是北国街道 左、従是中山道」と刻まれている。


分去れ付近の北国街道沿いに立つ石像


分去れから250mほどで再び国道18号に合流した。
小諸まで11Kmとある。


北国街道(国道18号)
日本ロマンチック街道と名付けられているが、旧街道としての見所はあまりない。


浅間山の山頂は、雲がかかっている。
『もうちょっとで雲が取れそうなんだけどねっ』


10時22分、御代田町に入った。
標高929mの表示が・・・
『929mか、寒いはずだよねっ』


日本ロマンチック街道を進む。
緩やかな下りとなっているため、楽である。


10時31分、西軽井沢法事センター前を通過。


10時41分、道路の反対側にコンビニがあったので、ここで小休止することに。
風が強くなってきたので、建物の影で風を凌ぐ。


北国街道(国道18号)を進む。
ここで、道を間違えて、北国街道を少しばかり逸れてしまった。


『ここからの浅間山は邪魔なものがなくてきれいに見えるよっ』
『もうじき雲が取れそうっ』


三ッ谷西交差点で誤りに気づき、今度は国道18号ではなく、北国街道を進む。
『こっちは車が通らないので静かで良いねっ』


北国街道を進む。


明治天皇御小休所跡
北国街道追分宿と小諸宿の中間に、馬瀬口村という間(あい)の宿があった。
そこに、明治十一年秋(1878)明治天皇が東海・北陸二道の巡行の折に、
御休息所となった高山邸があり、当時の面影が残っている。


高山家長屋門の前に明治天皇御小休所跡の碑が建っている。


長屋門の西に隣接して、明治三十二年六月に公爵二条基弘題額(だいがく)により建立された、


「間瀬口村駐輦碑文」(ちゅうれんひぶん)がある。


北国街道をいったん逸れて、高山家横の道を200mほど右へ進むと、
遮るものがない雄大な浅間山が現れた。
『やっぱり浅間山はこの風景が一番似合ってるねっ』


北国街道に戻り、再び街道を進む。
間瀬口には宿場のような、大きな構えの立派な家が多い。
ここも高山家の表札がかかっていた。


こちらの家も立派な構えをしている。


間瀬口を過ぎると北国街道は、三度国道18号と合流する。


11時48分、小諸市に入った。
標高780mと表示されている。
追分から200m余下ってきたことになる。


11時55分、上信越道を通過


上信越道から50mほどで、国道18号と分れ、北国街道は左へ。


平原一里塚跡
江戸日本橋から40里目だが、標識とその横に寛政五年(1793)の「馬頭観音」が立っているだけである。
『かつてはここに塚があったんだねっ』


12時5分、一里塚の先右手少し入ったところに「金山神社」があった。


平原は間の宿だったが、宿が作られた頃、この神社だけが南側の沢田に取り残されてしまった。
悪病が流行したのはその祟りだということで、寛永年間に現在地に移されたという。


神社境内で昼食にしよう。
平早氏子会館と神社の間がちょうど風よけになった。


いばらきいいものとりあい弁当(1,100円)


ボリュームたっぷりで、満腹になった。


12時40分、この日のゴール小諸駅を目指して出発!


左手に「十念寺」の「二十五菩薩来迎会」の碑があった。
この世の中で真面目に信心していれば、あの世へ行く時、阿弥陀様がその信者をお迎えに来て下さる、
という浄土経の教えを如実に表した仏教的演技の一つである。
ここ「十念寺」に残されている「二十五菩薩来迎会」は奈良県の当麻寺(たいまでら)とともに、
全国で2つだけ残っている貴重な無形文化財、とのこと。


平原の黒松
小諸市平原の旧家の土蔵脇に、横に枝が伸びた立派な黒松の老木がある。


参勤交代で通った加賀の殿様も絶賛した、そうだ。


静かな佇まいの北国街道。


民家の門の奥に松の木が見える。


『枝振りが素晴らしいねぇ』


静かな佇まいの家並みが続く。


家並みが途絶え、再び浅間山の雄大な景色が現れた。
山頂の雲はすっかり無くなっていた。
『今日一番の浅間山だねっ』


平原交差点下のトンネルを抜けると、


この日何度目かの国道18号に合流した。
四ッ谷東交差点で、北国街道は斜め左の国道141号に分岐する。


右手に御影用水を開削した「柏木小右衛門生誕之地」の石碑が立っている。
小諸の御影新田は、江戸時代に小右衛門が遠く軽井沢の地から、私財を投げうって開削した、
総延長72kmにおよぶ御影用水のおかげで、豊穣の地となった。
その後、用水により安定した米作りが可能になったこと、中山道と北国街道に挟まれる交通の要所、
という点から「天領(幕府直轄地)」とされた。


四ッ谷の信号を横断して細道を下り、突き当りを右折するところに道標があった。
佐久甲州街道との分岐点となる場所である。
”右甲州道”の文字が読みとれる。
(写真後方から下って来た)


北国街道は、いったん国道141号に合流するが、


唐松交差点で、また国道と分岐する。
真ん中の道が北国街道である。


唐破風を備えた本格的な三重櫓だ。
個人の所有のようだが、今は使用されていないのか扉は閉じられていた。


14時2分、与良街(よらまち)に到着。


与良街では「現金屋」の屋号の店が目立つ。
米屋の看板がかかっている。


こちらの「現金屋」は竹材店のようだ。


北国街道与良館
情報を求めるため、立寄ってみた。


入口を入ると案山子のような手作りの人形が迎えてくれる。


運営資金カンパの銭蔵コーヒー(100円)を飲みながら、北国街道与良の見所を教えてもらった。


与良館の直ぐ裏の神輿蔵の前に「ぎおん石」と呼ばれる石があった。
この石は、慶長(1596~1614)の頃、祭り好きな左衛門という百姓が、小諸に祇園様がないことを悲しみ、
尾張の国、津島から祇園様を持ち帰り、この石に祀り、村人達の祭り事や家内安全の祈願がなされたという。
後に、ぎおん石と呼ばれ人々の災厄を祓い、願い事を叶える不思議なご利益がある石として、祈願に訪れる
人々が堪えなかったことでも知られる。(ぎおん石の由来)


「ぎおん石」の裏手に小諸城「銭蔵」がある。
江戸時代、小諸城内に設けられており、享保十一年(1726)、牧野康周時代の建築である。
明治五年(1872)、他の建造物とともに入札払い下げとなり、民間所有としてこの地に移築された。


「銭蔵」の主な特徴は、板張りの床下に石室があり、ふたは車付きの一枚の平らな石を用い、
これを滑らせて引き開けるように作られ、そこに隠された千両箱を盗難や火災から防いだ蔵である。
(小諸市重要文化財)


高浜虚子記念館
虚子は、正岡子規に師事し、新派俳句の俊秀として活躍、俳誌「ホトトギス」を主宰した。


高浜虚子旧居
虚子は、戦争中の昭和19年から3年1ヶ月の間この地に疎開。
この家で「縁側散歩」を楽しみながら、句作に励んだという。


小諸駅を目指す。


酢久(すきゅう)商店
延宝二年(1674)創業で江戸中期から酢・味噌醤油を醸造。
関東から仕入れた畳表・鰹節・茶・塩などを長野県内に流す問屋業としても成功し、
小諸藩の御用商人として藩にお金を貸して、武士に近い身分を与えられた旧家。
門をはじめ土蔵・母屋といった建物は全て江戸時代に建てられたもの。


大手門・懐古園といった名所は、次回に訪れることにして、
この日は小諸駅から上田駅を経由して帰宅することにした。


14時53分、小諸駅に到着。


駅で一息入れる。
『今日はかなり歩いたねっ』 『疲れちゃった』


15時30分発のしなの鉄道で上田駅へ向かう。


15時53分、上田駅新幹線乗り場に到着。


上田16時15分発のあさま622号に乗車。
上田駅から乗ったのは、正解だった。
軽井沢駅からでは多分座れなかったと思う。
『向い合わせに座れて良かったねっ』

『今日は大変お疲れさまでしたぁ』

予想以上に寒かったが、天気に恵まれ、北国街道の追分宿~小諸宿間を歩き終えた。
最初は、雲がかかっていた浅間山も最後はすっきりとした姿を見ることができて良かった。
次回は、このシリーズ最終回として、途中一泊して北国街道(小諸宿~上田宿)を歩く予定である。
天気に恵まれることを期待したい。

この日の万歩計は、27,000歩を越えていた。

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