大正6年秋、日本郵船の欧州航路の常陸丸がインド洋で遭難した。当時の報道では日本政府と日本郵船との間で遭難原因がわかるまでもめていた。翌年の2月に捜索隊がインド洋の島で池之端酒悦の木箱を発見した。木箱には福神漬と書いてあった。日本の船でなければ福神漬は積んでいない。このことで遭難が確定されたが、天候不順等の原因かどうかが特定されなかった。2月末に常陸丸の乗客・乗員が捕虜となっている報道が日本に届いた。一時郵船関係者は喜んだが常陸丸船長はドイツ軍の砲撃で亡くした人たちの責任を取って、大西洋上で身投げをして責任をとったという。日本政府は新聞報道ということで戦時海上保険料を認めることはしなかった。日本郵船の戦前の社史にも記述は少なく、まして戦後の社史にはさらに少ない。今年天皇陛下が日本郵船歴史博物館を訪問されたが先の大戦で亡くなった船員たちの慰霊だったと思われる。観音崎の端に戦没商船員の慰霊碑がある。陛下がたびたび慰霊されている。数は少ないが第一次大戦でも日本の商船は遭難し、死者も出ている。国策に協力していたのに死者の扱いに差があるのはどうかと思う。
常陸丸の事件はその後日本とドイツが同盟関係になり、戦前は忘れられていた。戦後に作家長谷川伸が(インド洋の常陸丸)という小説を書いて広く世間に知られた。福神漬はそのような意味で日本郵船社員には印象の残る漬物である。記録はないが記憶にあるということはこのような事件の連続である。三菱の創業時期に福神漬関連の資料を今確認中だがまだまだ福神漬は三菱にとって印象の残る漬物である。三菱東京UFJ銀行築地支店は幕府の蘭医桂川家の跡地で営業している。ここで1万円札の福沢諭吉が桂川家に出入りして洋書を借りて読んでいた。桂川家の口ぞえで福沢はアメリカにいけるようになったという。