年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

勝鬨橋と言えば

2017年08月30日 | 築地市場にて

勝鬨橋が一度開閉する時に出会ったことがある。それしか記憶がない。そもそも勝鬨橋は隅田川上流にある造船所の船の出入りのために開閉式となるように設計された。まだ交通量も少なくのんびりしていた時代だった。佃島の先に石川島造船所があった。今は高層マンション群となっている。そこに江戸時代囚人のための更生施設があった。明治に入って未決犯罪人の収容施設があった。犯罪事件の継続捜査や裁判所に出廷するための一時的な収容施設だった。

 明治の自由民権運動高田事件の被告人赤井が春先の大潮の干潮のとき、石川島監獄から脱走を図った。後に静岡県で逮捕された。この結果、犯罪人の逃亡を防ぐため隅田川の浚渫工事が企画された。浚渫された土は今の勝どきの土地となった。この件は歴史書には書いていない。しかし隅田川浚渫工事の着工時期から考えると逃亡事件との関連が考えることができる。深くなった隅田川で造船所が移転する必要が無くなり、月島の発展をもたらした。橋か作られ町が発展し、勝どきと築地の間に橋が開閉式の橋ができた。

 石川島に造船所が出来た理由は、築地で印刷関係の仕事をしていた平野富二である。平野は幕末長崎通詞の本木昌造の弟子だった。石川島には水戸藩の造船所があった。黒船来航後、水戸藩の洋式船が完成したが海に出ることが出来なかった。隅田川の水深が浅かったためである。水戸藩の造船には浦賀衆と静岡県戸田の人たちの協力があった。幕末の人間関係は複雑で浦賀与力の中島家には長州藩の桂小五郎が中島の漬物小屋に寝泊まりして西洋の情報収集をしていたようだ。のちに桂を頼った山尾庸三に影響を与えたようだ。異国を見てみようと発想する原点は浦賀衆の開放的な考えがあったと思われる。砲術指南だった下曽根金三郎も弟子の多い人だった。

秘術する考えと西洋的な学問・学術という考えが混じっている時代かもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする