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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

千葉行徳に醤油工場があった。

2014年07月21日 | 福神漬

ワザワザ野田まで行って調べたメモ紙が捨てられそうになって、あわててWEB上に保存することになった。

明治29年(1896)茂木房五郎家(行徳の沢の鶴酒造工場)を譲受、ミナカミ印醤油工場とし、茂木啓三郎が経営の任に当たった。

 この行徳の工場は戦後遊休地となっていたようでコカコ-ラの飲料工場(利根コカコ-ラボトリング)となり、一時は本社となっていたが今はまた遺構的に存在しているようだ。

 人工甘味料サッカリン混入事件で破綻した日本醤油醸造の栄枯盛衰を見ていると戦前の醤油販売拡大の難しさから行徳で茂木啓三郎が醤油を業務用としての需要家である福神漬製造者に接近したと思われる。しがらみのない新規需要家である缶詰製造者等の取引先を拡大したと思われる。

 野田の醤油史(市山盛雄)によると醤油販売に伴う問屋制度の打開のため、明治14年ころから醤油醸造家は色々な活動をしていた。その極端な例として明治期から海外に醤油販売を目指していたことを挙げられる。今はキッコーマンの売り上げも海外の方が順調なのも明治期からの需要拡大の努力の結果である。

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