年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

塩業資料室から

2011年10月13日 | 福神漬
水曜日の市場休の時は普段訪問できない資料探しとなる。塩に関する15000冊の書籍を所蔵しているという塩業資料室を訪問した。昔は都内にあった(六本木?)のだが今は神奈川県小田原市酒匂の海岸付近に移転した。東京から当地までいって塩に関する資料を探す人は稀らしい。資料室のあるところを所有しているのが財団法人塩事業センターで海水総合研究所の建物の中にある。聞き損なったのだがこの多分今は海水の汚染を調べているだろう。
 資料室を訪問する前日に電話を入れ、調査の内容を伝える。「行徳塩業と浦賀奉行所との関係」と伝える。電話にでたYさんの話だと行徳塩業の資料はありそうだが浦賀奉行との関係の資料はなさそうであると言っていた。現地まで行って資料がないことは度々あるので一応有りそうな書籍を検索し、取り出してもらった。その中の一冊に日本食塩販売史によると幕末浦賀奉行所を通過した瀬戸内塩はニガリ分の多い差塩で行徳の真塩と比べて関東では好まれていなかったという。その理由としてニガリが出た分目方が減るということであった。そこで行徳で加工して真塩にして販売したという。ニガリ分の多い塩の需要者は漬物製造者であったという。嘉永年間の資料には行徳伊勢宿喜兵衛という文献があった。やっと浦賀と行徳喜兵衛の接点が見つかった。
 嘉永年間問屋組織の再興の動きで、中島三郎助と浦賀塩問屋の間で色々な折衝があった。漬物用の塩として瀬戸内の差塩を使用していた行徳喜兵衛と浦賀の塩問屋は接触があったと思われる。
コメント
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