年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

尊敬する人の変遷

2011年10月28日 | 福神漬
今の時代で面接などの応答で尊敬する人は親と答える人が多いようだが今から100年ほど前の大正年間に尊敬する人物に河村瑞賢と言う人物がいた。今では大阪か伊勢の付近の人しか知らないと思われる。この河村瑞賢がどの様な理由か福神漬の元祖と言うメーカーがある。江戸時代の日本海運網を整備した人物がどうして福神漬元祖となったのだろうか。今のところしっかりした文献は見当たらない。
 明治時代、福島県二本松出身の高橋太華と言う人が少年向けに明治25年「河村瑞賢」の伝記を書いた。高橋太華は明治22年に「少年園」と言う雑誌を発行した。この雑誌は日本で初めての少年向けの雑誌と言うべきものでの大正・昭和の青少年に多大な影響を与えた。また高橋太華は下谷根岸に集まった文化人グループに所属していて、酒を飲みながら「福神漬」を食べていたと思われる。また石井研堂とは郷里も同じ友人であった。

 参考
河村瑞賢と福神漬 

江戸時代初期の豪商・河村瑞賢は13歳の時伊勢から江戸に向かい、車力(一般には荷車または手車とも呼ばれる)から身を起こして近世実業家になり、数々の創意工夫により江戸時代の物流の中心となった海運を安全・確実な運搬方法に変えてゆき、産地・消費地の物価を変えたといわれました。彼の人生を変えた漬物は福神漬の元祖とも言われています。
 河村瑞賢は江戸で20歳頃までは仕事も上手くいかず、あきらめて上方(京都)に向かったが、小田原宿で老僧にたしなめられて再び江戸に戻る途中、品川付近の海岸でお盆の精霊送りの瓜や茄子が多数漂流しているのを発見するのです。そして、この海に浮かんでいる瓜や茄子を海岸で遊んでいた子供に拾い集めさせ、塩漬けにしたところ、この漬物が評判となり、莫大な利益をあげたということです。ある言い伝えでは、偶然にも品川の海岸で、誰にも拾われない瓜や茄子を、瑞賢は、これは福の神の仕業によるものと考え、「福神漬」と名付けられたという俗伝があります。
 お盆は精霊棚、棚飾りともいわれ一般的な飾りには、野菜のきゅうりで馬、なすで牛を模して作られます。これは、お盆に、我が家にご先祖さまも里帰りいただけるようにと、馬で早くお迎えし、お帰りはゆっくり牛にゆられて、と言い伝えられています。終わった後、野菜の牛馬は川に流します。
 河村瑞賢は作った漬物を江戸の町を建設している労働者に販売しました。明治の中頃まで都市でも漬物は購入する食品でなく、ほとんど全部といってよいくらい自家製で文献には贈答とか神社仏閣の門前で販売していたことしか記述されていません。つまり、漬物を販売することはとても難しいので誰も売っていなかったのです。彼は江戸市街の建設労働者にどの様にして販売したのでしょうか文献には出ていません。
コメント
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