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とつぜんSFノート 第99回

 そういうわけで、北海道から関西まで陸路で帰るハメになった。当時は、青函トンネルはない。北海道新幹線はもちろん東北新幹線も全線開通してなかった。これを陸路で札幌から大阪まで帰る。いかにたいへんかご理解いただけると思う。さいわい一行の1人が旅行代理店でアルバイトをしてたので切符の手配はすぐできた。
 まず、札幌から函館まで列車で移動する。この車内で小生、星群のYS,のちにDAICON5の実行委員長になる山根啓史、山根の同人誌仲間の若いの、の4人でSF大会について話し合う。この話し合いが、第25回日本SF大会DAICON5の最初の実行委員会であった。
 4人の一致した認識は、DAICON5をサーコンな(真面目な)SF大会にしようということ。DAICON3、DAICON4はゼネプロ(今のガイナックスの前身)のSF大会であった。武田、岡田らがやったSF大会である。サーコンな大会になるはずがない。お祭騒ぎのSF大会となった。そもそも小生たちはそういうSF大会に疑問を感じてSF大会招致の立候補をしたのだ。立候補は承認された。あとは2年後の日本SF大会をいかなる大会にするか、これから考えるのである。DAICON5が正式に始動した記念すべき時は北海道の列車の中である。
 この4人のうちの小生、YSは星群の会員だ。しかも二人とも会の役職についている。小生は連絡人、YSは編集人。と、いうことであるが、星群の会はDAICON5に関わらないことが確認された。星群の会は日本SFファンダムでそれなりの立ち位置を持っている会である。老舗の創作同人誌で、SF同人誌としては「宇宙塵」に次ぐ地位の同人誌として認知されている。
 そもそも星群の会の創設者高橋正則氏は1971年のDAICON2の実行委員長だった。創作に専念するということ、それに星群祭という独自のイベントを開催していること。それ以後星群の会は日本SF大会とは距離を置くようにしてきた。
 星群の会が日本SF大会に関わったのは2回だけある。1982年東京で行われたTOKON8。自主企画という名目でTOKON で大会内イベントとして星群祭東京出張版をやった。これは日ごろから親交の深い巽孝之氏への義理を果たすためである。巽氏はTOKON8の幹部実行委員であった。
 2回目は2002年島根で行われたゆーこん。この時は星群祭島根出張版をやった。これは星群の会の同人であり、山陰ファンダムのビッグネームファン故石飛卓美氏の要請によるものだった。
 ともかくDAICO5は既成のファングループ、同人誌、同好会、大学のSF研究会などにツテを求めず、独自に有志を募って実行委員会を組織しようということになった。この場にいた4人、関西に帰ったらさっそく、それぞれの友人知人友だち親戚縁者地縁血縁その他、それぞれの人脈を駆使してSF大会の実行委員になってくれそうな人物に声をかけることした。小生はまずあの男のことが思いうかんだ。
 こんなことをあれこれ話し合っているうちになんか妙にむし暑くなってきた。車内の気温はどんどん上昇。これはただごとではないと思っていたら、車掌のアナウンス「N号車(なん号車か忘れたが小生たちが乗っていた車両だ)のエアコンが故障しました。申しわけありませんが他の車両に移動願います」北海道の炎熱列車の始まりである。
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