政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト
とりがら時事放談『コラム新喜劇』



山崎豊子の「沈まぬ太陽」で描かれている日航123便の犠牲者の身元確認シーンは壮絶を極める。
残された数々の遺品や遺体の一部を手がかりに遺族や警察、日本航空の社員たちが身元を確認していく姿は読者の胸を激しく打つ。
ちなみに事故原因を作ったボーイング社社員の姿はない。
中でも犠牲者の一人が遺したメモに記された遺書は衝撃的で、1990年代になってから知りあった私のオーストラリア人の友人も熟知していたくらい報道から受けた世界のショックは大きかった。

ただ「沈まぬ太陽」を読むと、犠牲者の身元確認のための手法として現在ではあたりまえになっていることが、たった20年前の航空機事故ではまだ採用されていない技法であったことに気づき愕然とする。
そう、20年前は未だ「DNA鑑定による身元確認」という科学的で極めて正確な手法が実用化されていなかったのだ。

エミリー・グレイク著「死体が語る真実」は法人類学者という耳慣れない特殊な職業にスポットを当てたノンフィクションだ。
法人類学者とは、人体のほんの一欠けの骨でもあれば、それがどの部位の骨であるのか、どういう機能を司っている部位なのか、ということが特定することの出来る「特殊技能」をもつ科学者のことである。
この特殊技能はどういう時に生かされるのかというと、やはり犯罪や事故の犠牲者の身元や死因の特定を行うことに使われるのだ

著者はケンタッキー州で検死官として活躍している法人類学者で、本書は著者自身の生い立ちから、検死官としての仕事に従事するようになり、やがて9.11テロという未曾有の大惨事の犠牲者の検死に従事するまでの経験が綴られている。

本書にも記されている通り、検死官なる職業は私たち一般人には数本のアメリカテレビシーズでしか、その存在や仕事の内容を見聞きする機会がなかった。
それらの番組も、1970年代の科学でもって描かれており、現在のそれとは大きく異なっている。

技術的視点からの検死という職業もなかなか奥深いものが本書からは感じられるが、それよりも、一個の人間が物体と化してしまった人間に対してどのように接していけば良いのかを本書では強く訴えかけているのだ。
原野に放置された死体がどの程度で腐敗を開始すのか、またウジ虫がその死体を貪り食い尽くすのはどのくらいの時間を要するのか。
扱っている題材が題材だけに紙面から目を背けたくばなる描写も少なくない。
しかし、そのおぞましい表現の中からも犯罪や事故の犠牲になった人々に対する愛情とまで表現したくなる検死官としての、いや人間としての使命感は感動をもって深く深く読者の心に刻まれるのだ。

とりわけNYのWTCビルで亡くなった数千の人々の見分けもつかない遺体の部分部分を検死し、それが自分の知人や家族の成れの果ての姿であったことに接した著者の仲間たちの慟哭は、本書が単なる検死に関わる好奇心だけで読まれる作品ではないことを物語っていた。

~「死体が語る真実~9.11からバラバラ殺人までの衝撃の現場報告」エミリー・クレイグ著 三川基好訳 文春文庫~

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




世界三大仏教遺跡バガン(ミャンマー)から車で小一時間。
そこに、このホッパ山がある。

ね、ワイオミング州のデビルズタワーに似ているでしょ?
何?似てない?

想像力を膨らましてね。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ホッパ山の形はワイオミング州のデビルズタワーに本当によく似ていたのだった。
違うことといえば、デビルズタワーの周辺は緑の少ない茫漠たる原野だった(未知との遭遇ではそう見えた)のに対し、ホッパ山の周辺は緑豊かななだらかな山々に囲まれているということ。
そしてデビルズタワーには人工的付属物がなく、その裏側にはUFOを向かいいれるため(いわゆるファーストコンタクトのため)の政府の施設が設置されていた(未知との遭遇ではそうだった)のに対し、ホッパ山には麓から頂上に登るための階段が設置され、麓には多くの僧院や祠、平たい頂上にはキラキラと金色に輝く寺院と祠が建っている、という違いがあった。

で、よくよく考えてみると似ているのは形だけで、あとはまったく違うことに気がついたのだが、ホッパ山イコール、デビルズタワーという第一印象を大切にしようと自分自信を納得させたのであった。

ホッパ山の麓は大変賑やかなところで、多くの参拝者や僧侶などで賑わうちょっとした町になっていた。
私たちは一軒の土産物屋の前でタクシーを降り、参道へ向かって歩きはじめた。
もちろん履物はタクシーの中へ残してきたことは言うまでもない。

さて、ホッパ山の名物といえば、猿。
ここには日光猿軍団というか、大阪箕面の山猿というか、そういう猿たちが生息し、私たち観光客や参拝者にちょっかいを出してくるのだ。

参道を上りはじめると、まず目に飛び込んでくるのが超印象的な達磨さんである。
この日本の達磨さんと同じように真っ赤に色塗られた達磨さんは、もしあなたが日本人なら一度見たら忘れられないという表情の持ち主なのだ。
で、どういうふうに印象的なのかというと、実に漫画チックなのである。

パッチリお目目に長い「まつげ」。
センター分けした「頭髪」。
マリリン・モンローも真っ青な赤く太い「くちびる」。

で、この達磨さんの頭の上に、名物の猿が座って私たちをお出迎えしてくれていたのであった。

ホッパ山の猿は、サイズ、姿、気性など、どれもこれもニホンザルとほとんど同じだった。
若干目がつり上がっており、ニホンザルと比べるとちょっとばかしヤンキー顔であったものの、きっとどこかでルーツは繋がっているのではないかと思えるような猿なのであった。

急な坂道の参道のあちらこちらでは、猿に与える餌が売られていた。
餌は新聞紙で南京豆を中国チマキのかたちに包み込んだもので、値段はTさんが買ってくれたので覚えていないが、随分と楽しめるものであった。
「ハハハ、キャ!」
と石山さんも楽しそうに猿に餌を与えている。
できれば、小猿を抱っこしている母猿や、小猿そのものに与えようと思うのだが、その瞬間を狙ってオッサン猿が奪いに来るので思い通りにするのはなかなか難しい。

関西人である私は自然と奈良公園の風景を思い出していた。
奈良公園では「鹿せんべい」なるものが売られていて、観光客や訪問客がそのせんべいを買い求め、そのへんをウロチョロしている鹿に手渡しで与えることができるのだ。

遠い昔、幼児であった私は両親に鹿せんべいをねだって買ってもらい、自分で食べようとした。というのは冗談で、子供ながらに、かわいい子鹿「バンビ」ちゃんに手ずからせんべいをあげようとトライしたのであった。
ところが、バンビちゃんがあと数歩で私の手元に届きそうな距離にやって来た時、不意に角を生やしたオッサン鹿が現れて、私の手元から鹿せんべいを「束で」奪い取ったのであった。
私は悔しいという感情よりも、恐ろしい、という感情で泣き出した、ということを良い大人になった今も法事などで親戚が集まると公衆の面前で語られるので困ったものである。
ついでながら、九つの時に寝小便タレをしたという話と二本立てにされると、もっと困ったことになってしまうのだが、それは余談。

ともかく、ホッパ山の猿どもは奈良公園の鹿どもと大変よく似た連中なのであった。

新聞に包まれた南京豆を取り出すと、大きな猿が襲いかかってくることがある。
「こらっ!何すんじゃい!」
と日本語で怒鳴っても相手はミャンマーの猿なので言葉が通じない。
「Tさん、通訳して」
などと言ったりしたら、Tさんにぶっ飛ばされる恐れがあるので言えるわけがない。

ともかく、南京豆を販売している売り子には襲いかからず、客が金を払って買い求めた途端に、客に向かって群がってくるところなど、まったくもって奈良公園の鹿と同じなのであった。

つづく

東南アジア大作戦

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「病で苦しんでいる者であれば、たとえ乞食でさえ家へ上げ、代金を求めず治療してやることも少なくなかった」
というような意味合いのくだりが、司馬遼太郎著「花神」第1巻の一節にあった。

そのお節介な医者の名前を緒方洪庵といった。

大阪大学医学部の前身である適々斎塾の主にして、幕末を代表する蘭方医。
福沢諭吉や大村益次郎など、明治の日本を築き上げた人々を育てた教育の人でもある。

「大阪はやっぱヨシモト、道頓堀のグリコかUSJかタイガースだよね」
とおっしゃる人々が多いけれども、タイガースは別として、適塾は現在もなお、地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」近くの同じ場所に建っているので、ヨシモト、グリコなどと軽いことばかり言わずに、是非、日本の夜明けの舞台の一つとなった歴史遺産を見ていただきたいものである。

ところで、この司馬遼太郎の描写した緒方洪庵像では医療に従事する者の非常に気高い倫理観が表現されている。
もし、あなたが医師であるのなら、例え患者が無一文の宿無しであったとしても、「何とかしてあげなければ我慢できない」という衝動に駆られ、診察し面倒をみないことには気が済まない性格でなければならないのだ、ということを主張しているのだ。

「そんなんじゃ、儲からないし、責任とるだけの貧乏くじは引きたくない」

とおっしゃる向きの医療関係者の方々は、是非奈良県へ行って医療活動、もとい、偽善商売をはじめになることをお薦めする。

新聞報道によると奈良県大宇陀町の女性が子供を出産する時に昏睡状態に陥り、大宇陀町の病院では手に負えなくなったので、他の「信頼できる」大きな病院に移送しようとしたら、十九にも上る県下の病院から「うちはベッドが一杯です」とか「担当の先生が不在です」とか「関係ないです」とか断られてたらい回しにされ、6時間後に、なんと大阪の国立循環器病センター(産科じゃなくて生体肝移植なんかの病院だぞ)がうちに来なさいと受け入れてくれて、何とか入院。
せっかく信頼できる病院にたどり着いたのに、女性はすでに手遅れで、無事に子供を出産したが本人は帰らぬ人になってしまったとか。
自分を生むためにお母さんが亡くなったことを知るであろう生まれた子供が不憫でならない。

ちなみに大宇陀町から豊中にある循環器病センターまでは、名阪国道を走って、西名阪道、阪神高速松原線、阪神高速環状線、阪神高速池田線を走っていかなければならない。
遺族の方も不憫だが、こんな距離を瀕死の患者を乗せて走った救急隊員の人々も不憫である。

で、昨日このニュースを新聞で読んで、いたたまれない気分になっていたのに、今日のお昼のラジオでもっと酷い内容の続報を耳にした。

「患者が死んだのは、大宇陀町の病院の産科医が内科医の助言に耳を貸さなかったからだ」
という。
責任のなすり合い。
ぶん殴るぞ!貴様ら。

奈良県民に告ぐ。
そこに住んでいたら殺される。
安心できる責任ある医療を受けたいのであれば、速やかに周辺府県へ避難せよ!

コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )




民主党代表小沢一郎氏の感覚でいくと、たとえばご本人に自宅から一軒空けたご近所で、散弾銃をぶっ放す人が住んでいても、同じ人が自宅の庭で発破の実験をする人であっても、警察にも届けなければ、警備員を配置するということもしないようだ。
世の中の「危ない犯罪者の皆さん」は是非、小沢氏の自宅周辺にお住み頂きたいと思うのである。
で、まずは手始めに、近々出所してくるであろう奈良県平群町の「騒音オバサン」から移り住んでいただきたいものだ。

昨日、民主党は北朝鮮の核実験は「周辺事態にあたらない」と判断した、と発表した。
だから、何かあっても自衛隊や海上保安庁は動いちゃいけないし、米軍との連携などもってのほか、というわけだ。

この民主党という政党は、自民党をお払い箱になった政治難民と、沈没していく日本社会党から脱出を図った政治難民によってそのほとんどが構成されている。
このうち、日本社会党はかつて、
「うちの娘が拉致されたみたいなんです。助けて下さい」
という一国民の願いに、
「北朝鮮は悪い国ではありません。そんなデマを流すのは『歴史を振り返らない』日本人の陰謀なんです」
みたいな意味合いのことを宣って、被害者家族を猫の子を追い払うように蹴り出した実績がある。
11年前の阪神淡路大震災でも、その自分の主張を通すためには国民の命も省みないという、政党スピリッツも遺憾なく発揮してくれた。
地震発生後、市民救出の為に己の被害も省みず出動準備を整えた陸上自衛隊伊丹駐屯地の自衛隊員達に「その必要なし」と出動命令をなかなか下さず被害を広げて、6000人以上の犠牲者と数十万人の被災民を生み出した。

そんな社会党難民とくっついている自民党難民だから、お互いの心意気はわかっているというところか。
海を隔てたとなりの国が、長崎、広島に落とされたのと同種の爆弾の実験をしても、「それは危険ではありません」となってしまうところが、この政党の怖いとこ。

この民主党のステートメントにすぐさま同調したのは社民党と共産党。
社民党は党員の大量離脱で倒産し、民事再生法で生き残った、いわば日本社会党の整理会社だから、同調するのはあたりまえ。
共産党は、その昔、己の意見を通すためには党内で殺し合いも辞さないくらいのネクラな政党で、なおかつ、20世紀の大実験「マルクス・レーニン主義」が崩壊したのに、未だに「共産党」と名乗っている稀代な人々の集まりだ。
ちなみに共産主義で成功した国は一つもないのがお気の毒。

ともかく、自民党以外に「国を守ろう」という意識のない我が日本の内政自体が、北朝鮮問題よりも深刻な、(自民党の)周辺事態じゃ、ないだろか、と思えるところも恐ろしい。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




地球の歩き方にも書かれているように、ホッパ山は仏教遺跡の街バガンと一つセットにされた観光地だ。
ただし、そのロケーションがバガンから若干離れていることから、訪れるのには別料金が必要になる。
私のようにガイドさんを伴っていないと、ホッパ山へ行くにはかなりの困難を覚悟しなければならないようなことがガイドブックには書かれているのだ。

「バスは一日二往復しかありません」
「しかもオフシーズンには走っていません」
「ピックアップトラックをチャーターしなさい」
「ホテルにタクシーをアレンジメントしてもらいなさい」
などなど。

不便な場所に位置するのだ。
私自身、今回の旅でホッパ山を訪れるべきかどうか悩んでいた。
だから事前に「ホッパ山を訪れます」とは宣言しておらず、昨日、バガンへ向かう船の中でTさんと雑談を交わしている間に、やっとこ行くことに決めた場所なのであった。
石山さんは私たちが誘うまでコースに含んでもいなかった場所だ。
とはいえ、ホッパ山が魅力の乏しい観光地だ、ということは決してなく、ガイドブックに掲載されている白黒の写真から判断してもなかなかユニークな場所であることは間違いない。

「次にここバガンを訪れるのは、いつになることやらわからない」
私の脳裏をふとそんな感覚が過ったのだった。
ただ、「ここを次に訪れるのは、いつになることかわからない」と思いながらも、結局何度も何度も訪問することは私には珍しくはない。
ここミャンマーでさえ、初めて訪れた時は「次に訪れるのはいつになることやらわからない」と思い、他の国では雇ったことのないガイドさんをお願いし「一度しかない訪問(とこの時は思った)」を有意義なものにしようとした。
ところが。実際は一年半後に再びミャンマーを訪れ、今こうして同じガイドのTさんを相棒に旅行を楽しんでいる。
(実際にはこのミャンマー大冒険の半年後、3度目のミャンマーを訪問を実現し、さらに年内に4度目の旅行を計画しているのだ)
だがホッパ山も、度々訪れるようになるかもしれないが、そうならないかも分らない。だから追加費用を支払って訪れることに決めたのだった。

バガンからホッパ山に続く道は、舗装はされていたものの、もちろん路面は穴ぼこやひび割れだらけのデコボコで時々干上がった川を通過する時は橋もなにもないので、おびただしい砂煙を上げながらタクシーは走ることになった。
それでも道路の両側は緑に溢れ、空は蒼く晴れ上がっているし、遠くにはパゴダの仏塔が臨まれるような、とても清々しい景色が広がっていた。

「ここは土がむき出しだったんです」
とTさんの説明。

バガンが観光地化されるに伴って、荒れ地であったこのエリアに政府は植林を奨励し、今その努力が実りつつあるというわけだ。
とりわけ我が日本の献身は少なくないという。

沿道には日の丸とミャンマーの国旗があしらわれた立て看板が見受けられ、植林に協力した大手日本企業やNGOの名前が記されている。
私はふとタイのバンコクの地下鉄を思い出した。
開通したばかりのタイの地下鉄の主要駅には日の丸とタイ国旗があしらわれたプレートがはめ込まれ、これまたタイ語、日本語、英語で、「この地下鉄は日本からの政府援助金で建設されました」と示されているのだ。
これこそまさに友好国。
ミャンマーもタイと同じように我が日本にとってはかけがえのない友好国なのであった。

「げっ、韓国の旗もあるぞ」

そう。
マネしごんぼでお馴染の韓国も、最近は中国の腰巾着よろしくミャンマーへの進出が盛んであるらしい。
そこで「日本へ対抗意識むき出しに」同じことしているのだという。
しかし、ミャンマー人は親日的だが、韓流の嵐吹き荒れるここミャンマーでも南北朝鮮人は「あまり好きではない」か「嫌い」のどちらかというのだからお気の毒なことである。
いつぞやの「ラングーン爆弾事件」が影響しているのか、それとも「進出韓国企業の労働条件の悪評判」が影響しているのかわからない。
分らないが、一般人の国際社会は平等に評価するものだと、つくづく感じるのだった。

やがて坂道が増えてきて、山らしきものも見えてきた。
でもホッパ山はまだ見えない。

小さな村の三差路にさしかかった。
道には標識もなければ、簡単な道知るべさえない。
もしガイドさんなしでここへ来たら、きっとどっちへ曲がれば良いのかさえ分らなかったであろう。
ここで進路を右にとると、道の傾斜はますます険しくなった。
道幅も狭い。
両側に緑の木々が接近してくる。
その時であった。
遥か前方、道が山なりになった峠の向こうの木の間から、ガイドブックの写真とまったく同じホッパ山の頂きが見えてきたのだ。

「止めて下さ~い!」

私はTさんを通じてタクシーの運転手にここで停車するようにお願いした。
ドアを開け、急ぎ足で外へ出てみると、ホッパ山の全景が見て取れたのであった。

「わ~、すっご~い!」

と石山さんも感嘆の声をあげる。

ホッパ山に向けてデジカメのシャッタを切る私の脳裏に、ある有名な映画の音楽が流れてきたのであった。
その映画とは、いささか古いのを承知で述べると、ジョン・ウィリアムスが作曲した若き日のスピルバーグの名作「未知との遭遇」の音楽なのであった。
なぜその音楽が浮んだかというと、ホッパ山は「未知との遭遇」の舞台になった米国ワイオミング州のデビルズタワーそっくりだったからだ。

つづく

東南アジア大作戦

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




DVDのソフトには映画以外にも色々な種類のものがある。
むしろその色々なものの方に劇場やテレビでは見ることの出来ない面白いコンテンツが少なくないが、この「世界の傑作コマーシャル」シリーズもその一つと言えるだろう。

不思議なことに、テレビのコマーシャルは自分の住んでいる国のものしか目にすることが出来ない。
さらに突き詰めれば、自分の住んでいる地方で放送されているものしか見ることが出来ないのだ。
だから、例えば関西以外の人はあの名作CM「関西電気保安協会」を目にしたことはもちろん無いだろうし、「大阪梅田の天佑ちゃん」や「大阪十三の美女の逆立ち」「京橋グランシャトー」「味園」「サウナ・ニュージャパン」「たよし」「ボトムライン」などのCMを目にすることなど、なおさら無いに決まっている。(こんなローカルCMは収録されていません、ハイ)

かなりローカルに走ってしまったが、このように自分の住んでいる地方のCMを他の地方の人が目にすることは稀なことなのだ。
ましてやそれが海外のCMとなればなおさらだ。

この「世界の傑作コマーシャル」には、世界各地で数々の賞を受賞した作品を中心に、一度見たら強烈に印象に残る作品が収録されている。
もちろん、もともとがテレビコマーシャルだから一つの作品時間が非常に短く、まるで4コマ漫画を読んでいるような感覚で楽しむことができる。

収録されているほとんどの作品が欧米や南米の作品であることは、もしかするとアジアやアフリカのテレビコマーシャルというのは世界市場ではまだまだ未熟なものと見られていることが原因ではないかと思われる。
私なんぞは、このブログでも度々紹介しているようにタイのCMなんかは楽しくて可笑しくて仕方がないのだが、そういうCMは一作品も収録されていない。
「世界の」と謳われているのだから、ともかく新興アジア各国のCMも収録されていたとしても良いのではないかと、悔やまれるポイントだ。

しかし、それでも収録されているコマーシャル作品は素晴らしいものばかりだ。
可笑しなものもあれば、ちょっぴり怖いものもある。
これはちょっとやり過ぎでしょう、という作品も少なくないが、それはそれで、各国の文化が映し出されて面白い。
ヨーロッパで描写されるセックスシーンを盛り込んだCMなんぞは、まず日本を含めたアジアでは放送できないだろうし、残酷すぎる描写も少なくないので、一瞬引いてしまうこともある。
結局、国内CMでさえ地域に配慮した内容であるのだから、CM作品が各国ごとの文化的特徴を写し出していたも不思議ではないのだ。
ともかく、世界各国のCM作品を見ていると、作品そのもののアイデアに文化や習慣の違いを痛烈に感じて、映画やドラマよりも楽しめる。

また、CMはタイムマシンの役割も果たしている。
各巻に収録されている日本の名作CMを見ると、当時の社会背景さえ思い出すのだ。
とりわけ「ソニートリニトロンカラーテレビ」のCMは、印象的だ。
「ぼく、タコの赤ちゃん」のナレーションで始まるソニー製テレビジョンのCMは、品質と性能を第一にに誇る日本の製造力と技術力の余裕さえ感じさせる力作だ。
あのコマーシャルから30年以上が経過して、そのCMを流した同じ会社が技術力と製造能力で没落し、CMさえ見るべきものがなくなっていることに気づいて愕然とする。

ともかく、「世界の傑作コマーシャル」は映像作品の宝石箱といった趣の作品集DVDだ。

~「世界の傑作コマーシャル」ワーナーミュージック・ジャパン刊行~

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




石山さんとの待ち合わせの場所はニャンウー空港に通じる幹線道路脇の茶店だった。
いや、茶店と表現していいのか、万屋と表現すれば良いのか、小さな食堂と表現すればいいのか、カテゴリー分けに困るような店だった。
いや、それよりもここって店?

ニッパヤシで葺いた屋根。
玄関らしきものはなく、店と住居の区別もつかない。
商品は少しばかり並んでいるが、周囲は何もないので、もしかして住宅なのか。
ともかくジュースなんかも売っている小屋のようなところだった。

この茶店では二羽のインコが放し飼いにされていた。
放し飼いという表現が適当かどうかはわからないが、ともかく緑色の羽をした綺麗なインコが二羽竹で作られた天井の梁に止まったり、木の枝に止まったりしながら飛び回っているのだった。
茶店の一画に、この屋の主人が作ったという餌入れ付きの止まり木があり、そこに二羽のうちの一羽が止まった。

「手乗りインコだそうですよ」
とTさん。
「へ~、だから開けっ広げでも、どこかへ飛んでいくようなことはないんですね」
と私。

動物好きのTさんはインコの捉まっている止まり木にそっと手を延ばした。
するとインコはピョコンとTさんの指の上に乗っかった。

「あ、ホントに手乗りインコだ」
「ヒナの時から育てているんですって」

ちなみに私が手を伸ばすと、このインコは完全に無視。
関心すら示さない。

「こいつ、オスのインコですかね」
「ハハハ」

でも、こいつは茶店の男主人の手のひらには止まるので、単に私のことが気に入らないだけなのかも知れなかった。
チクショウ。
ますます腹立たしいインコ野郎である。
で、このインコ野郎は、また変わった食習慣のある鳥であった。
餌入れには豆のようなものや穀物が入れられていたが、こいつはその中から緑色のトウガラシを選んで食らいつくという、味覚が麻痺しているのではないだろうか、と思えるような感覚の持ち主なのであった。

「これ、物凄く辛いんですよ」
とTさん。

その物凄く辛い緑色の生トウガラシを片方の足でつまみ上げ、まるで人間がバナナを食べるような持ち方で美味そうに齧っているのだ。

こうして暫くの間、Tさんと一緒にインコ野郎と遊んでいたが、石山さんがなかなかやってこない。
時折、乗客を満載したピックアップトラックが通り過ぎる。
「あいつら何やってんねん?」
という興味津々の顔つきで乗客たちは、私たちがインコ野郎と遊んでいるところを眺めつつ通り過ぎる。

こういう場合、もしここが日本ならば、
「今、どこにいるんですか?」
と携帯電話で一発確認というところだが、ここはミャンマー。
前述したように、携帯電話が通じない。

あれやこれや遊んでいるうちに、やっとこさ石山さんを載せたワンボックスが到着した。

「待ってましたよ」
「すいませ~ん」

石山さんの声はメチャ明るい。
満面の笑みを浮かべて、とても嬉しそうな表情をしていた。
やはり誘って良かったのだ、と思った。
一方、石山さんのガイドさんもニコニコしていたが、私とは簡単に挨拶を交わした後、Tさんとちょっと離れたところでブツブツと打ち合わせを始めた。
話の内容はだいたい見当はつく。
首を突っ込んで話をややこしくすると刺激があって面白いかも知れない、という衝動にかられたが、私も大人なので無視することに決めた。

やがて無事、平和裏にTさんと石山さんのガイドさんの話し合いが終った。
さあ、これでいよいよ私たちはホッパ山に向けていざ出発。

私とTさん、そして石山さんは私のチャーターしていたタクシーに意気揚々と乗り込んだのであった。

つづく

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




キチガイに刃物、北朝鮮に核兵器。
ということで、北朝鮮が「核実験やりました」と宣言したものだから、先週の世界は大騒ぎ。

「核実験やりました」
「はあ、そうですか」
「そうです」

という具合にいかないのが核兵器。

国際倫理観などからきりなしで、国家というよりもオウム真理教に近いカルト集団。
麻原某の代わりに尊師「金正日将軍様」というカリスマを頂いて、これまた麻原と同じように国民や自分に反抗する者に「ポア」の指示を出している。
で、「日本をポアせよ」と言ったかどうかは分らないが、カルト国家北朝鮮が核実験をやったものだから、世界中が大騒ぎするのは当たり前だ。

もっとも、その核兵器たるやお粗末で、おおかたの予想が「失敗した」か「大量のTNT火薬でごまかした」というのが本当のところだという。
ともかく迷惑千万。
こういう国にこそ、是非とも米軍には「世界平和と秩序を守るため」に爆撃を行っていただきたいものだが、石油も石炭も人的資源もな~んにもない「ビンボ~」国家のなので、終戦後の戦費減価償却ができないからアメリカも警告はするが手は出さない。

困ったのは我が日本。
これがイスラエルのような地球の裏側だといつものように事なかれ主義で放っておいても問題ないが、北朝鮮はすぐ近く。
大阪から沖縄や北海道へ行くよりも近くにある。

そこで北朝鮮に対して怒りを表現。
珍しく厳しい経済封鎖に乗り出した。

北朝鮮船舶の入港禁止。
北朝鮮との輸出入の禁止。
銀行口座の凍結等々。
ほとんどの国民と同盟国アメリカの支持を得て今朝から実施した。

ところが、これに妙竹林なクレームをつけている人たちが日本国内に現れた。

「カニの輸入が滞り、カニ生産者に打撃が生じる」
「アサリの輸入がストップし、関連業者に損害が出る」
「マツタケを食べられない」
などなど。
だから......
「経済的援助をせよ」
というのだ。

もともと北朝鮮という国の本質を知りながら、そのリスクを背負いつつ、このならず者との交易で金を稼いでいた業者をなぜ「特別に援助」する必要があるのだろうか。
疑問である。
それにマツタケなんて、もともと高くて口に入らない。

「北朝鮮からの輸入が途絶えて品薄になるから値段が上るよ、ヨロシクね!」
という業者とそれに癒着した政治家や役人の値上げヨイショに他ならない。
で、結局彼らは北朝鮮の経済制裁を口実に金を儲ける商魂逞しい人たちだ、と私には思えるのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




石山さんと合流する時間まで、私たちはニャンウーの市場を訪れることになった。
市場は電話を使わせてもらったホテルからすぐのところで、
「ここですよ~」
とTさんに言われるまで着いたことすら気づかないほどの近さだった。
さらに市場といえるようなコンリート作りの建物が建っているわけでも、それらしい看板が出ているわけでもなく、木造の建物の小さな商店が密集している昔ながらの市場だったから、なおさら気づかなかったのだ。

ミャンマーでのお買い物はだいたい市場で、ということが多いようだ。
スーパーマーケットやコンビニエンスストアというのは未だ一般的ではなく、日本や欧米式のスーパーマーケットに至っては私の見たところヤンゴンにあるシティマートというチェーン店が数店あるだけのような。
あとは昔ながらの市場ばかりで、どちらかというと私はスーパーマーケットのような殺風景なショッピングモールは好きではないので、それはそれでいいのだが、コンビニがないのは、かなりアンコンビニエントなことだと思っている。

お隣のタイにはカルフールやトップスという欧州系のスーパーチェーンがあちらこちらにあり、さらにはジャスコまであるので日本とほとんど変わらないし、コンビニに至ってはファミマ(日本資本)とセブンイレブン(日本資本)が壮絶な戦いを展開しており、だいたい困らない。
そういうコンビニ生活に慣れきってしまった「ヘタレ日本人」の私なんぞには、ミャンマーやベトナムは多少不便に感じる場所ではある。

とは言いつつ、普通の市場は昔の日本の公設市場や街角の市場を想起させ、懐かしくあり、かつ楽しい。

ニャンウー市場の敷地はかなり広い。
お店のジャンルも多岐に渡っていた。
衣料品のお店から日用雑貨、金物店、花屋、薬屋、米屋、八百屋、肉屋に魚屋などなど、なんでも揃っていた。
正直、肉屋と魚屋は衛生面で????という感じは否めないが、八百屋は作物が溢れているし、ベトナムの田舎の市場に比べると通路などは綺麗に掃除もされているので、どちらかというと快適な場所であった。

場所柄、観光地のバガンに隣接しているためか観光客相手に土産物を売る店も数多い。
地元の名産品の一つである漆器類。
あやつり人形。
ミャンマーサッカーの竹で編んだ蹴鞠などなど。

「ヤンゴンで買うよりもずっと安いですよ」

とはTさんの弁。
他のガイドさんが「安いですよ」と言う場合は「本当は高くて、ガイドさんに紹介手数料が入ってしまう」というのが普通なのだろうが、Tさんは違う。
Tさんが「安い」というものは本当に安く、信頼できる。
というのもTさんはガイドさんにしては妙に律義なところがあり、バックマージンは絶対に受取らないというスピリットがあるのだ。
初めてミャンマーを訪れた時、私が買い物をした後でTさんが憮然として私に突然キャッシュをつき出してきたことがあった。
「これ、店の人が私へのマージンだと言ってわたしてきました。こんなお金受取る理由はありませんから○○さんに返します」
私はビックリして、
「いいんですか? バックマージンは普通でしょ」
と言うと、
「他の人は知りませんが、私は嫌です」
とキッパリと断ったのだった。
ということで、なぜ私がTさんをミャンマーでの旅の案内人、もとい、友としているのかお分かりいただけたことと思う。

でもTさんはバックマージンのような灰色のお金は受取らないが、私と旅をして市場を訪れたりすると、どういうわけか客の私が買い物をせずに、Tさんが買い物に勤しむことが多い。
気がつくと、私が彼女の買い物のお伴をしているのだ。

私はもともと、どこへ行こうが何をしようが土産物を買いあさることがあまり好きではない。
好きではないどころか嫌いである。
なにも「土産物を買うとお金がかかる」というケチイ理由があるわけではない。
土産を買うと、荷物になるというのが私が土産物を買わない最大かつ唯一の理由だ。
一人旅を旨とする私は荷物が増えると、移動の時に困ることが多々あるからだ。

で、ここニャンウー市場でも、私が市場の通路で走り回っているガキを相手に写真などを撮っていると、Tさんは服地屋さんで反物の物色なんぞをしているのであった。
「ねえ、これとこれはどっちが良いと思いますか」
とTさん。
「........それは少し派手ですね」
と子供の写真を撮りながら私。
「そうですかね.......う~ん、これはどうでしょう?」
「.....それ、いいですね。」
「これにしようかな......て真面目に考えているんですか?」
「えっ、私が、ですか?」
「そうです」
という具合に、結構面白いのだ。
さらに、Tさんが店の人と値段の駆け引きを交わしているのを見るのも面白い。
最近の日本では値札のまま買い求めてしまう傾向が強い(大阪人と京都人は除く)が、買い物は一種のゲーム。
値段交渉をしながらお買い物をするのは楽しいことに違いない。

Tさんは、訪れた地方で布地だけ購入し、ヤンゴンの仕立屋さんで服に仕立ててもらっているのだそうだが、そのファッションセンスは悪くない。
石山さんをして、「Tさんて、センスいいですよね」と言わしめたくらいなのだ。
私はきっとTさんは衣装持ちなのだと思っている。
「では石山さんと合流してホッパさんへ向かいましょう」
さてさて、待ち合わせの時間が迫って来たようだ。

つづく

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »