来月(11月)でマンガの神様・手塚治虫生誕80年を迎えるのだという。
80年。
意外に短い、と思った。
手塚治虫がもし生きていれば80歳になっていたわけで、手塚マンガの新作が読めなくなって二十年だと考えると、いかに若くして亡くなってしまったのか、というのがよくわかる生誕80周年だ。
もし胃ガンなどにかからず、またはその胃ガンが治癒してさえいれば「グリンコ」や「ルードリッヒ・B」は結末まで読むことが出来ていたであろうし、大人が読むに足りる様々な新作を残してくれていたことは間違いないだろう。
(あ、但し「グリンコ」は連載が続いてたとしても、連載が終わる前に掲載誌の朝日ジャーナルが廃刊になっていた可能性が大いにあり。よって、生きていても中半端終了だったかもしれない。)
親の証言によると二、三歳のころに近所のオバチャンから頂いた鉄腕アトムの乗った玩具のパトカーがテレビ以外での私が初めての手塚作品との接触だったのだという。
このアトムのパトカー。
私の記憶にはちっとも残っておらず、写真さえ存在していないので、もはや最も身近に感じた最初の手塚作品とは言えないのではないかと思っている。
で、最初に手塚治虫のマンガに触れたのは小学5年生頃のことであった。
当時私にとってのマンガといえば、とりいかずよしの「トイレット博士」であり、永井豪の「オモライくん」だった。
いずれも下ネタ大流行のスカトロ・マンガだったが、他の大勢の子供がそうであるように、私もその手の低俗なギャグが大好きなガキなのであった。
そのような程度の低いガキの中で同じクラスのH君はノートの隅にめちゃくちゃ上手い鉛筆さばきで手塚治虫のブラックジャックやヒゲ親父、ヒョウタン継ぎなどを描いていた。
「なに?それ?」
と訊ねるクソガキども私たちに、
「これ、おれ、メチャクチャ好きなマンガやねん。かっこええぞ」
とマントを翻すブラックジャックを見せつけられたのであった。
それから間もなく、私は少年チャンピオンに連載されていたブラックジャックを読むことになった。
衝撃的だった。
筋がきっちりと通ったドラマチックなエピソードは私が持っていたマンガの価値観をガラッと変えてしまった。
そう、もう「マタンキ!」などと言っている場合ではなかったのだ。
以来私は手塚マンガのファンとなり、作者が亡くなった今もお気に入りの作品を読み返しては楽しんでいる。
なお、私の最もお気に入り手塚作品は幕末を扱った「陽だまりの樹」。
未来もののSF作品でもないし、ファンタジー系でもない、したがって魔法使いもロボットも登場しない地味な時代劇作品なのだが、ドラマに人間らしい暖かみと厳しさがあり、その日本的な感覚が私は大好きなのだ。
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