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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



今日はちょっと重い話題。

先週2つの大きな事件が報道された。

一方は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州で発生したアーミッシュの学校へ銃を持った男が乱入し、児童を殺傷した事件。
もう一方は、北海道滝川市で昨年9月に発生した女児の自殺の原因が学校内でのイジメにあったことを市の教育委員会が隠ぺいしていたという事件だ。

どちらも被害者が12、3歳の子供であるということに特徴があるが、新聞報道を比較すると、この日米の子供の死に対する考え方の違いが、不謹慎ながら私の興味を強くひいてやまないのだ。

アーミッシュはハリソン・フォード主演の映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」で一躍有名になったキリスト教の一派だ。
近代的な機器類を使わず、地味な黒、またはそれに近い色合いの独特の衣服を身に付け、基本的にはかなり質素な暮らしをしていることから、一般からは一種変わった人々と見られている。

このアーミッシュの子供たちが通う小学校に銃を持った男が数名の少女を人質にとり立てこもった。
ここまでなら、普通の人質事件で終ってしまうのだが、この事件の特異さは、この人質になった少女の一人が犯人に向かって懇願した内容なのだ。
その十三歳の女児は犯人に向かってこう言った。
「もし誰かを殺すのであれば私を撃ってください。その代わり、他のみんなを助けてあげて下さい」
と。
犯人は少女の望み通り、彼女を射殺した。
そしてさらに数名に向けて発砲した後、自殺を遂げている。
犯人の行動はコロンバイン高校を襲撃した男と変わるところはないかも知れない。
しかし自らを人身御供として指し出した少女の心は、いったいどいうものだったのだろうか。

「犯人を恨む気持ちはありません」
というのは被害に遭ったアーミッシュのコミュニティが発表した談話で、それに添えられた「私たちには怒りというものはありません」という言葉はキリスト教というよちも仏教を連想させる凄みすら感ぜられるのだ。
自己犠牲を伴う重い決断を、正しいか否かは別として、わずか十三歳の少女に下させる勇気を与えるアーミッシュ文化というのはいったい何なのだろうか。

それに対して「いじめ」という陰惨な体験から、たった十二歳の女児がどうして「自殺」というような選択を下してしまったのか。
私は教育委員会の事なかれ主義よりも、子供が物事の解決方法に自殺を思いつくような環境を生み出している、今現在の日本の文化を恐ろしく感じるのだ。
テレビは頻繁に「誰かが自殺しました」「子供が犯罪を犯しました」というような凄惨な事件の報道を垂れ流し、バラエティー番組ではコメディアンや「(似非)文化人」たちが「死」や「いじめ」などを茶化すような内容のものまで放送している。

昭和40年代後期、私自身もいじめられっ子の小学生だった。
しかし「死のう」などと思ったことは一度してなかった。
なかったというよりも思いつかなかった。
たった30年で、日本はどう変わってしまったのか。

二つの「死」に対する相違は、上辺の議論や謝罪に明け暮れる理念無き社会への警告以外の何ものでもないと思われてならない。

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