駅前から真直ぐに延びる通りの両側に広がる市場。
市場の大きさは両側とも一ブロックづつあってかなり大きい。
旅行ガイドブックではかなり辺境扱いであったこの街も、その実像はほかの街と同じのようだ。
通りに沿った市場の表緬には雑貨屋や電気店が並んでいた。
電器店にはソニーやサンヨーといった日本製品やサムソン、LGといった韓国製品の看板が並ぶ。
店頭に積み上げられたテレビのパッケージに書かれたサンヨーのロゴが目にとまった。
どことなく不自然でおかしな感じがする。
ロゴの縦横比がちょっと変なのだ。
「本物だろうか?」
というのが率直な感想。
日本企業は自社のロゴにかかわる管理も徹底していて、少しでも基準と異なると訂正を要求される。
だから、本物に似ていてもどことなく違うものは偽物が多い。
東南アジアではどこの市場でもみかけるように、到ることろで日本製の違法コピー製品が出回っている。
デザインはもちろんのことブランド名も遠慮なくコピーしている。
そういうコピー商品の出所が中国であることは周知の事実で、この国は2001年に世界貿易機構に加盟した際「知的所有権に抵触するものに関しては徹底して摘発、指導します」という約束を交わしたにも関わらずまったく実行していないのだ。
どれが日本メーカーの本物なのか判別のできない偽物もタチが悪いが、「SAKURA」だとか「FUJI」といった日本製品を彷彿させる「偽日本製品」もタチが悪い。
日本語の単語の品位を貶める効果が多分に含まれているからだ。
もちろん、相対的に高価な日本製品を購入することは一般のミャンマー人たちには難しいことかも知れない。
だからといって無断でコピーした製品を販売しても良いと言う倫理は世界では通用しない。
少なくとも、中国以外の国ではそうなっている。
日本企業も東南アジアでは現地生産に力を入れて現地価格のものも出荷している。
中国からのコピー商品はそういう現地向けの製品に対する大きな脅威なのだ。
もちろんコピー製品は電気製品だけではない。
食品では味の素。
偽のパッケージに入れられた白い粉が大量に売られている。
衣料品なら、日本出身のキャラクター達が「copyright」認可のタグもなく、そこここに印刷されている。
これも50キロ先の中国との国境から流れ込んでくるのだ。
市場は手軽にこの地域の「中国による」繁栄を確認できる場所であったが、ミッチーナから北へ20キロほど行ったエヤワディ川の源流に至る途中にも中国の姿を確かめられる場所があった。
マリカ川、マイカ川。
この二つの川が合流するミッソンという村がエヤワディ川の源流だ。
ミッチーナからミッソンへ到る道路はミッチーナの郊外までは舗装もされ道路幅も広い。
しかし、途中から道路は未舗装になり、巾も狭くなり、所によっては橋が壊れていたりして、急場に造成した迂回路を通らなければならないところもある。
「雨期には通行ができなくなることもあるんですって」
とはガイドのTさんの話。
この凸凹道を走っていると、お祭りのように賑やかな飾り付けを施した一画が前方に現れた。
多くの紅い幟が立ち並び、これも赤い色をした三角の小旗が無数に結びつけられたモールが電柱から電柱に飾られていた。
初めて目にした瞬間、なにか新興宗教の寺院かなにかか思った。
ミャンマーにも上座部仏教やキリスト教を元にした新興宗教はある。
しかし、よくよく見てみると漢字で書かれた立て看板があり、宿舎や重機などがおかれていたので、ここは中国の支援で建設されている工事関係者の飯場であることがわかった。
労働者の多くは中国からの出稼ぎの労働者が詰めているのだ。
この凸凹道はミャンマー最北の街プーターオに通じる幹線道路で、この道が水害などで閉ざされるとミッチーナとプーターオの連絡は航空機だけということになってしまう。
そういう幹線道路であっても先進諸国の経済制裁を受け続けているミャンマーにとっては拡幅はもちろん修理さえ十分に行うことができない財政状態であるわけで、中国からの「善意」はそれが多分に「下心」を含んでいるものであっても現状では有り難いということなのだ。
ミッチーナ市内の舗装された美しい道路も多くは中国政府の援助のもと、中国の土木会社が中国人作業者を使って整備敷設したものだと言う。
街のあちこちには中国人出稼ぎ労働者の宿舎があり、件の市場にも漢字の看板を時々目にすることができる。
以前、ここに書いたようにお祭りで多くの人々が集まったお寺を参拝すると、私の姿を認めた子供たちが「ニーハオ」「ニーハオ」と寄ってきたのは、いかに中国人がこの地域に溢れているかの証左でもあるのだ。
英国植民地時代、ミャンマー人を支配するために英国人たちが利用したのは印僑と華僑であった。
独立後、その印僑と華僑を追い払うために様々な方法をミャンマー政府は取ってきた。
70年代の鎖国政策も国家の主権と経済を自らの手に取り戻すための苦肉の策であったことは、現在では周知されている。
ベトナムはベトナム戦争終結後、もっと露骨に華僑を追い払い、それがボートピープルとなって世界の注目を集めたわけだが、消極的な性格を持つミャンマー人たちにはそんな大胆な行動はできなかったというわけだろう。
なんとかして追い払おうとした華僑たち。
その華僑の本国、中国の力を借りなければならない状況に追いやっている先進諸国の経済制裁はミャンマーはもちろん、この地域と密接な関係を持ち続けてる日本にとっても好ましい状態ではない。
ミッチーナ駅前の市場の横に、キリスト教の教会とイスラム教のモスクが通りを挟んで向かい合っているところがあった。
市場の向こうには金色に輝くパゴダがある。
そして中国の影。
この国の危うさと、中国という国の胡散臭さとしたたかさを同時に学ぶことのできる街。
ミッチーナは現代アジアの縮図でもあった。
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