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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



最近わけのわかんない書き込みやTBが数多く貼り付けられる当ブログであるが、今日も台湾人のか方とおぼしき人から「よーく分らない」コメントが貼り付けられた。
で、貼り付けて下さったのは「Babo」さん。

さらに内容は、
「日本の友人のみなさん、こんにちは!
私は台灣人です。
みなさんに重要な情報があります。
台北では最近大陸人(中国人密入国者)が路上に多く、またタクシーを運転してる大陸人も居ます。
なので、外出するときは安全に注意して下さい。
この情報を台北に住む日本人の友人に教えて、また台灣旅行の準備をしている日本人に教えます。
これら台北に住む中国人がますます多くなり、最近の台北は治安が悪くなった。
これらを理解し、日本の友人に伝える事を希望します。
私は台灣で日本人が危険に会う事を望みません。」
というものだった。

私は1月に初めての訪台を果たしたが、タクシーは一切使わず。
台北市内のみの滞在だったので、移動はほとんど「地下鉄」。
故宮博物館やその他、郊外の観光地には「路線バス」で出向いたのだった。
というのも、台湾のバス、地下鉄はちゃんとした「漢字」で行き先を描いているので、私のような台湾語の分んない日本人にも優しいインフラが整備されていた。
弊害はといえば台湾を外国と思えなくなってしまったこと。
たった4日の滞在で、気がつけば大阪から離れた日本の何処かに居る感覚に陥っていた・

もっとも、タクシーもわざと使わなかったのではなく、訪台語いきなり使いたくない体験をしたからであった

桃園空港に着いたとき、
「お客さん!台北駅まで4000台湾ドル(12000円)でどう?」
と抜かしたタクシー運転手がいたのだった。
私はむかっ腹が立ち、「誰が白タク使うねん!」と叫んだのは言うまでもない。
ということで、大陸出身のイリーガルイミグラント運転手に遭遇することはあり得ない。

ではでは

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アマゾンドットコムで1500円以上購入すると送料が無料になる。
横田増生著「アマゾン・ドットコムの光と影」によると、客が1500円以上商品を購入するとアマゾンドットコム社が運賃を負担しても損をしないような運賃契約を運送会社と取り決めているのだという。
その契約価格のミニマム、300円。
1500円の購入だと粗利が300円以上あるので、顧客から別途送料を徴収しなくても赤にはならないというわけだ。

アマゾンドットコムの日本での急成長は、この運賃「見かけ無料」にあるに違いない。

ところで、私たち一般人が宅急便や郵便で小荷物を送るとき、一通あたり300円では送ることはできない。
アマゾンドットコムが最低300円の料金で全国どこへでも配送できるのは運送会社との契約が特別な内容であるからにほかならない。。
毎日数万という数の受注を捌くので運送会社としても自社倉庫のアマゾンへの賃貸と荷物の管理業務、そして配送業務と多岐にわたり、仕事の内容としても魅力的だ。
アマゾンという会社は、その販売システムが一番の武器であり、商品の在庫や荷捌きなどは世界中どこでもアウトソーシングなので日本でのやりかたが特別なわけではない。

実のところ運送業の運賃というのは国土交通省の管理下にあり、迂闊に変更などができない構造になっている。
変更ができないどころか配送を請け負う運送業者は自社の登記場所と営業エリアが厳しく管理されており、自社に認められている地域以外では簡単に営業できないのだ。
したがって、アマゾンや私たちが利用している小口貨物については、その規制範囲で運送会社と荷主がいかな方策が互いの利益になるのか模索した結果として、現在の姿が存在するというわけだ。

これがバス会社やタクシー会社になるとさらに厳しくなる。
路線バスは言うに及ばす観光バスやタクシーなども許可を受けた地域でなければ営業することはできない。
例えば、大阪に在住する人が九州に住む家族のために東京で免許を受けているバス会社の観光バスをチャーターすることはできないのだ。
しかも価格まで決められているのだから、この世界だけは社会主義がまかり通っていることになる。

今週の前半、このヤクザのシマ管理のような「縄張管理」に違反したかどで京阪タクシーの社長らが逮捕された。
中央競馬会の関連会社から依頼された印刷物の運搬を長年に渡って請け負っていたことに対する運送法違反の容疑だそうだ。

「運送会社に頼むより、タクシーで運んだ方が運賃が3分の2から半分になるんですよ」
と荷主は語った。

確かに法律違反は咎められて当然だ。
悪法も法なり。
しかし、これって何処かおかしくないか。

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元総理大臣「宮沢喜一」が亡くなった。

宮沢喜一といえば「飛行機の機内ではワシントンポスト紙が愛読紙」の英語堪能な政治屋だった。
政治家でないところが、ちょっと苦しい。
ただし、英語はその能力が堪能なだけで使い方を知らない「考える能力に欠けた」人でもあったのだ。

この御仁の時代は英語さえ話せたら「エリート」な時代だったが、今では「NOVAに行って習ってんのぉ」程度のパープーな人でも話せる時代。
そういう意味では宮沢喜一は英語の話せるパープー人の先駆けでもあったわけだ。

その証拠に、教科書問題では国を売ること忘れることなく、今日の日中韓関係を作り出した。
そしてバブル崩壊時代に「高橋是清の再来」とばかりに持ち上げられて蔵相になっても、能力がないからなんにもできず、
ただただ「エリート意識」が服を着て歩いている、裸の王様そのものだった。

ま、亡くなりはった人に鞭打たんのが我が国のしきたり。
口では「哀悼の意」とか言いながら、心では「罵っている」人は多いかもしれない。

しかし辛口のこのコラムではハッキリ言います。
「英語を話すサルが逝く」

今後、カタチにこだわり能力のないこういう政治屋は出てこないいただきたい、というのは「彼が愛することのできなかった日本国民」の願いです。

(※今日はmxiに投稿した文章を転用してます。あしからず)

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ここ十年ばかりの間に林立したシネマコンプレックス。
そのスクリーン総数が2317だという。

私の地元、大阪なんばの3軒だけを数えてみても22スクリーンもあるわけだから、これが全国となれば2000スクリーンを越えても不思議ではない。
かつて、大阪なんばの映画館は南街会館の5スクリーン、東宝敷島の2スクリーン、国際劇場の2スクリーン、千日前セントラルの1スクリーン、千日前スバル座1スクリーン、松竹座1スクリーン、浪速座の2スクリーン、道頓堀東映の2スクリーンの計16スクリーン(エロ劇場は除く)程度しかなかった。

現在はシネコンだけで22スクリーン。
昔ながらの映画館が8スクリーンあるので、実際は30以上のスクリーンがひしめいていることになる。

これだけ数が多いと過当競争になり、各映画興行会社とも客を呼び込むのにあの手この手を駆使している。

新聞報道によるとシネコン老舗のワーナー・マイカルが6本見たら1本タダというTOHOシネマズとまったく同じサービスを首都圏を中心に開始して、客集めを強化しはじめたという。

確かに私のような映画ファンは一本でも安く見られることは大歓迎。
ビデオソフトの普及で名画座が姿を消して、今や映画を見るためには一般的な入場料を払うしかない状態だ。
1本1800円の観賞料は大の大人にもチト高い。
だから観賞本数に応じて特典を受けられるのは大歓迎。
この特典で私は年に最低3本はタダ見をしている。

シネコンはかつての劇場と異なって画質が良い(一部劇場はデジタルだ)し、音質もドルビーデジタルにTHXと家庭では到底楽しめないハイテクを装備している。
おまけに昔の劇場と違って、客席の配置が洒落ていて前に座っている人の頭が気になるなんてこともない。
「すいません。もっと深く腰掛けていただけないでしょうか。頭、気になって画面が見えないんですけど」
と、かつて松竹座で文句を言われた私のような不愉快な体験もしなくていい。

ところが、これだけスクリーンがあっても私たち映画ファンを満足させない問題が露呈している。
それは、どこの劇場も上映内容が似通っているということだ。

前述のなんばの3館のシネコンは上映内容がほぼ一緒。
どこの劇場もお客を確実に集められる作品ばかりを上映したがり、ちょっとマイナーな作品はビデオにお任せ。
これでは過当競争にもなる筈で、もっと上映作品を選択してはほしい、というのは映画ファンの真面目な希望。
スクリーン数と割引攻勢の激増は、質より量の体質を作り、エンタテイメントビジネスには沿わないと思うのだが.......配給会社にそのへんのセンスはないようで。

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もう10年くらい前になるが、大阪市営地下鉄御堂筋線の動物園前駅で一人の女性が列車に轢かれて亡くなった。
原因はプラットホームから知的障害者の少年によって突き落とされ、そこへ電車が入線して来てしまったからだった。
「怖いよ~、怖いよ~」
と当の犯人の少年はおびえていたらしいが、本当に怖かったのは、何も悪いことはしていないのにホームから突然突き落とされ、目の前に電車が迫ってきて惹き殺された被害者本人であろう。

この事件は、その事実のみが一回だけ報道され、後はどうなったのか知る由もない。
マスコミすべてがまったく報道しなかったのだ。
きっと犯人の少年が知的障害者ということで報道機関は事件の追跡取材をしなかったのだろう。
しかし、殺人事件である本件について誰が責任を取り、遺族にはどのような賠償が為されたのか。
大いに関心を払わねばならなかったのは間違いない。

元衆議院議員の山本譲司が秘書給与詐欺事件で有罪判決を受け、刑務所に服役したことはもしかすると天命でだったのではないだろうか。
本書「累犯障害者 獄の中の不条理」を読んでいると、なんとなくそう思えてくるのだ。

地下鉄で女性を死なせた少年のケースに限らず障害を持った人々が犯罪を犯した場合、現在の日本ではそれを報道することはタブーとされている。
新聞やテレビは絶対に記事にしない。
週刊誌でも一部のマイナーな雑誌が取り上げる程度だ。
これはいったいどういうことなのか。
刑法第39条が原因しているというが、それでいいのだろうか。
「心身薄弱者の行為は罰しない」との条文が常に物議を醸すが、殺人や強盗などの重大犯罪を犯す者に正常な者などほとんどいないに違いない。
また罰することはできないとしても、報道することまで否定してしまっていいのだろうか。

本書では加害者が障害者であることを良いことに、それを食い物にする養父や警察、弁護士などの姿が描かれている。
もし、こういう事件をきっちりと報道する姿勢がマスコミ側にあったとしたら、もっと違った展開になっているのかもわからない、
筆者はこれを福祉行政の不備を誘因するものとして捉えているようだが、私は違った面から考えたい。
つまり、報道することによって健常者の権利が守られる真当な世の中になるのだと。

「報道しないことが、障害者の現実に一般の人々の目を向けさせない原因になっている」
という意味合いのことを筆者は語っているが、まさにそれは正論だと思う。
しかし「それではいったいどうすれば良いのか」という疑問に対する解答は筆者自身も示していない。
それでも社会のタブーに目を向けた本書の存在意味は決して小さくはない。

~「累犯障害者 獄の中の不条理」山本譲司著 新潮社刊~

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長い。
ともかく長くて長くて、どうして途中にインターミッションがないのか疑問である。
その長さは、映画終了と同時に劇場のトイレに長蛇の列ができていたことでも理解できる。
予告編を含めて上映時間は三時間きっかり。
新大阪駅から新幹線のぞみ号に乗ると東京駅で中央特快に乗り換えて新宿で降りても駅前のプロントでコーヒーが飲める時間ある。
また関空から飛行機に乗って台北へ行く方が若干短いので、この映画の機内上映は適さない。

このように長い映画は途中で尻が痛くなってきてドラマに集中できないことが多いが、本作もまた、そういう集中のできない映画の一つとなってしまった。
期待して行ったのに..............。

製作者側はたぶん自分たちの見せつけたい数々の仕掛けをすべて盛り込みたかったのかも知れないが、見せつけられる観客にとってこれほど迷惑なことはない。
シリーズ物の映画というのは一作目がずば抜けて素晴らしく2作目以降は凡作というのが一般的で、その代表作がスタローンの「ロッキー」シリーズなのだが、楽しい筈の本作がそんな作品に成り下がってしまったとは悲しい限りである。

前作の「デッドマンズチェスト」の内容をかなり忘れていたのも影響があるが、はじめの30分ほどは何が何だかサッパリ分らない展開となった。

だいたい何故いきなりシンガポールなのか。
シンガポールが悪の巣窟となっていることに、シンガポール政府は抗議しないのか。
それともシンガポール政府は日本が昭南市として統治するまでこのような魑魅魍魎がすくう不清潔で暗い場所だったということを認めたのか。
まったくもって訳がわからないのだ。
だいたいこの物語は「カリビアン」。
大西洋に位置するカリブ海ってシンガポールに近いのか?
もしそうなら、次回シンガポールを訪れたついでにキューバに寄ってみようと思うのであった。

もっとも、ファンタジー映画にケチをつけても仕方がないが、私が云いたいのはもっとコンパクトにまとめて欲しかったということだ。

観客が意識を集中して映画を見ることのできる時間は二時間程度だと私は思っている。
できることなら1時間45分ぐらいにまとめてもらいたいぐらいだ。
映画の長さというのは、観客の快適性にとって重要であると同時に製作者側にとっても重要だと思う。
というのは3時間もある映画は1日に上映できる回数も3回程度に限られ、とっても回転率の悪い営業になってしまう。
コーヒー一杯で3時間も4時間もねばる喫茶店の迷惑な客と一緒なのだ。
これが2時間の映画だと5回ぐらいは上映できるわけで、製作者側も、観客も、映画館も全員素直に喜べるのである。

有名な話として、スターウォーズの1作目(1977年)が作られたとき、監督&製作者であったジョージ・ルーカスはヒットするかどうかわからない作品を最も効率良く劇場で公開させるために、涙をのんで多くのシーンをカット。
全編を1時間58分に凝縮したといわれる。
この時間であれば、上映するフィルムの本数を5巻丁度に納められることはもちろん、1日の上映回数を増やし、資金を回収できるかどうかわからないオモチャの飛び交うSF映画に一か八かのビジネスを託したからだ、ということだ。

ともかく、もっとコンパクトに、そしてもっと分かりやすい物語にすれば一作目のように魅力たっぷりの映画になったに違いない。


~「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」2007年ディズニー作品~

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「環境問題については先進諸国が責任を持つべきだ」とドイツのハイリングダム・サミット前に語ったのは中国国家発展改革委員会の馬凱主任。
本末転倒、責任転嫁とはこのことだ。

九州から関西にかけて多発している「光化学スモッグ」の犯人は中国大陸から流れてくる汚染物質だということで、ついに隣国は留学生や観光客を騙る殺人者を送り込むだけでは物足りなくなり、ついに汚染物質で日本列島に攻撃をしかけたというわけか。

中国やインドの急激な経済発展に伴う大気汚染や水質汚染、土壌汚染は世界経済に深刻な影響を与えはじめている。
なかでもインドと異なり中国は環境汚染ぐらい悪いことなどとちっとも思っていないところが恐ろしい。
環境破壊は無意識のうちに発生している、いわば「自然現象」で、自分たちが先進諸国と同じ水準の生活をするためには、そんなささいなことは目をつぶるのが当然だ、というのが彼らの考え。
歯磨き粉や家畜用飼料に毒物を混ぜて販売しても悪いという観念がまったく生まれない国民だから、知らずに出している汚染物質のことなんか「知るもんか」というのも当然だ。

環境問題が先進国の責任であるのであれば、早い話、欧米日本の先進諸国は中国製品の購入を取り止めこぞって経済上の国交を断絶すれば済む話。
でも、それは人類史上で二回も経験した悲劇を再来させることに繋がることにもなるかもしれないので、できないことでもある。

こういう、困った国家が世界にどういう影響を与え、どういう現実を生み出しているかを冷徹に分析し取材しているのが本書「中国は世界をメチャクチャにする」だ。

フィナンシャル・タイムズの元北京特派員の著者は中国の世界経済への台頭を冷静な目で見つめている。
中国国民の貧困から築き上げてきた現在の力については時に称賛さえしている。
しかし、その中国的サクセスストーリーの裏側には、無数の矛盾が存在し、中国国内だけでなく世界中に混乱と不幸を生み出していることを実例を上げて指摘している。

産業革命当時と替わらない超低賃金で働く無保証の中国人労働者。
中国人労働者の侵入により息絶えたイタリアの伝統産業。
俄成金に設備ごと買収されたドイツの製鉄所。
偽ブランドでシェアの3分の2をかすめ取られた日本のバイクメーカー。
などなど。

本書の最後で著者は中国と世界の明るい未来を無理やり示唆しているが、
「世界中のマンホールの蓋が盗まれた」
という事件ではじまる本書の中身は、過去数世紀にわたって築かれてきた世界の標準ルールが中国という独特の価値観を持つデストロイヤーにより破壊されつつある事実と、次期大戦に繋がる資源と環境にまつわる暗い未来を暗示していると感じざるを得ない。
数多くの事例が示されているのでなおさらだ。

~「中国が世界をめちゃくちゃにする」ジェームズ・キング著 栗原百代訳 草思社刊~

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写真はミッチーナ駅前(ミャンマー連邦カチン州)の踏み切り。
夕刻とはいえ、かなりの交通量。
ここミッチーナには日本製の違法コピー製品を含めた中国製品が溢れ、街は活気に満ちていた。


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ミッチーナ市から車で約1時間半。
ミャンマーの大河エヤワディの源流がここ。
プーターオの街付近から流れてくるマリカ川とチベット高原から流れてくるマイカ川が合流してエヤワディ川となるのだ。

河口のヤンゴン付近では黄土色に濁っているこの川も、河口から1000km以上のここでは、まだ水が澄んでいる。
なお、お盆休みにここへ行ってみようという人は、諦めた方がいいかも。
なんせ雨期ですから。

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駅前から真直ぐに延びる通りの両側に広がる市場。
市場の大きさは両側とも一ブロックづつあってかなり大きい。
旅行ガイドブックではかなり辺境扱いであったこの街も、その実像はほかの街と同じのようだ。

通りに沿った市場の表緬には雑貨屋や電気店が並んでいた。
電器店にはソニーやサンヨーといった日本製品やサムソン、LGといった韓国製品の看板が並ぶ。
店頭に積み上げられたテレビのパッケージに書かれたサンヨーのロゴが目にとまった。
どことなく不自然でおかしな感じがする。
ロゴの縦横比がちょっと変なのだ。

「本物だろうか?」
というのが率直な感想。
日本企業は自社のロゴにかかわる管理も徹底していて、少しでも基準と異なると訂正を要求される。
だから、本物に似ていてもどことなく違うものは偽物が多い。

東南アジアではどこの市場でもみかけるように、到ることろで日本製の違法コピー製品が出回っている。
デザインはもちろんのことブランド名も遠慮なくコピーしている。
そういうコピー商品の出所が中国であることは周知の事実で、この国は2001年に世界貿易機構に加盟した際「知的所有権に抵触するものに関しては徹底して摘発、指導します」という約束を交わしたにも関わらずまったく実行していないのだ。

どれが日本メーカーの本物なのか判別のできない偽物もタチが悪いが、「SAKURA」だとか「FUJI」といった日本製品を彷彿させる「偽日本製品」もタチが悪い。
日本語の単語の品位を貶める効果が多分に含まれているからだ。
もちろん、相対的に高価な日本製品を購入することは一般のミャンマー人たちには難しいことかも知れない。
だからといって無断でコピーした製品を販売しても良いと言う倫理は世界では通用しない。
少なくとも、中国以外の国ではそうなっている。
日本企業も東南アジアでは現地生産に力を入れて現地価格のものも出荷している。
中国からのコピー商品はそういう現地向けの製品に対する大きな脅威なのだ。

もちろんコピー製品は電気製品だけではない。
食品では味の素。
偽のパッケージに入れられた白い粉が大量に売られている。
衣料品なら、日本出身のキャラクター達が「copyright」認可のタグもなく、そこここに印刷されている。
これも50キロ先の中国との国境から流れ込んでくるのだ。

市場は手軽にこの地域の「中国による」繁栄を確認できる場所であったが、ミッチーナから北へ20キロほど行ったエヤワディ川の源流に至る途中にも中国の姿を確かめられる場所があった。

マリカ川、マイカ川。
この二つの川が合流するミッソンという村がエヤワディ川の源流だ。
ミッチーナからミッソンへ到る道路はミッチーナの郊外までは舗装もされ道路幅も広い。
しかし、途中から道路は未舗装になり、巾も狭くなり、所によっては橋が壊れていたりして、急場に造成した迂回路を通らなければならないところもある。
「雨期には通行ができなくなることもあるんですって」
とはガイドのTさんの話。

この凸凹道を走っていると、お祭りのように賑やかな飾り付けを施した一画が前方に現れた。
多くの紅い幟が立ち並び、これも赤い色をした三角の小旗が無数に結びつけられたモールが電柱から電柱に飾られていた。
初めて目にした瞬間、なにか新興宗教の寺院かなにかか思った。
ミャンマーにも上座部仏教やキリスト教を元にした新興宗教はある。
しかし、よくよく見てみると漢字で書かれた立て看板があり、宿舎や重機などがおかれていたので、ここは中国の支援で建設されている工事関係者の飯場であることがわかった。
労働者の多くは中国からの出稼ぎの労働者が詰めているのだ。

この凸凹道はミャンマー最北の街プーターオに通じる幹線道路で、この道が水害などで閉ざされるとミッチーナとプーターオの連絡は航空機だけということになってしまう。
そういう幹線道路であっても先進諸国の経済制裁を受け続けているミャンマーにとっては拡幅はもちろん修理さえ十分に行うことができない財政状態であるわけで、中国からの「善意」はそれが多分に「下心」を含んでいるものであっても現状では有り難いということなのだ。

ミッチーナ市内の舗装された美しい道路も多くは中国政府の援助のもと、中国の土木会社が中国人作業者を使って整備敷設したものだと言う。
街のあちこちには中国人出稼ぎ労働者の宿舎があり、件の市場にも漢字の看板を時々目にすることができる。

以前、ここに書いたようにお祭りで多くの人々が集まったお寺を参拝すると、私の姿を認めた子供たちが「ニーハオ」「ニーハオ」と寄ってきたのは、いかに中国人がこの地域に溢れているかの証左でもあるのだ。

英国植民地時代、ミャンマー人を支配するために英国人たちが利用したのは印僑と華僑であった。
独立後、その印僑と華僑を追い払うために様々な方法をミャンマー政府は取ってきた。
70年代の鎖国政策も国家の主権と経済を自らの手に取り戻すための苦肉の策であったことは、現在では周知されている。
ベトナムはベトナム戦争終結後、もっと露骨に華僑を追い払い、それがボートピープルとなって世界の注目を集めたわけだが、消極的な性格を持つミャンマー人たちにはそんな大胆な行動はできなかったというわけだろう。

なんとかして追い払おうとした華僑たち。
その華僑の本国、中国の力を借りなければならない状況に追いやっている先進諸国の経済制裁はミャンマーはもちろん、この地域と密接な関係を持ち続けてる日本にとっても好ましい状態ではない。

ミッチーナ駅前の市場の横に、キリスト教の教会とイスラム教のモスクが通りを挟んで向かい合っているところがあった。
市場の向こうには金色に輝くパゴダがある。
そして中国の影。

この国の危うさと、中国という国の胡散臭さとしたたかさを同時に学ぶことのできる街。
ミッチーナは現代アジアの縮図でもあった。

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