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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



ともかく旅の目的が「ブログのネタを取材すること」になっていることにまったく気付かぬまま、私は旅を続けることになった。

「一回きりになるだろう」
と思っていたミャンマーの旅は本人の予想を裏切って初めての訪問から1年半後、再び訪れることになった。
その時の表向きの目的は、
「ミャンマーで列車の旅をすること」
と、
「世界三大仏教遺跡の一つバガンを訪れること」
であった。
しかし、私の深層心理には「ブログのネタ取材」が潜んでいたことは間違いない。

そしてその旅は私の期待を裏切らなかった。

2度目のミャンマー旅行は想像を絶する壮大な個人旅行に発展し、わずか一週間の滞在の間に発生した数限りない驚き(トラブル)の連続は、旅行記「ミャンマー大冒険」シリーズとなって、1年2ヶ月間にもわたって断続的にこのブログで連載することになった。
その回数は100回を超えた。
400字詰め原稿用紙にすると800枚以上となり、たとえば書籍化するとすれば前編後編と2冊に分けなければならないようなボリュームへと膨らんだ。

その連載の間、私は2回ミャンマー旅行を決行し、次第に目的はエスカレートし、
「日本人はおろか、あまり外国人の訪れないところへ行ってみる」
という具合に発展した。
事実、3回目の旅行先はミャウーというミャンマーでもバングラディッシュと国境を接するチン州の田舎街を訪問した。
飛行機と船を乗り継いでたどり着いたこの街への旅行記については、現在連載中(一カ月ほど止まっているが)の「ミャンマー大冒険 Part 2」で明らかにするつもりだが、季節のせいもあったのか、街にいた外国人は数名の国連職員と私だけという、まさに秘境だったのだ。
そして4回目のミャンマー旅行は、ガイドブックには載っていないが、実際に訪れるとあまりの大きな規模に驚いてしまうシャン州タウンジー市の気球祭りを「取材」しに行ったのであった。

一方、ブログを書くことをまったく意識せず、潜在意識の中に存在する「ブログ取材」とはまったく別の目的で訪問することになったのが、この1月に訪問した台湾であった。

折しも、台湾前総統の李登輝先生が昨日から「ビザなし渡航」で来日されているが、私が尊敬するその「李登輝先生の国を見たい」という目的で訪問したのが台湾なのであった。

ベトナムも行った。
ミャンマーも行った。
本当に行ってみたいのは、あとニューヨークとドイツのミュンへン・オクトーバーフェスタと台湾だけ。
ニューヨークとドイツは遠方なので、なかなか行くことはできないにしろ、台湾は日本に最も近い国。
行こうと思えばいつでも行けた。
しかし、なかなか足を向けなかったのは距離の割に航空運賃が高いからだった。
関空から台北の航空運賃は関空からバンコクとほぼ同じ料金なのだ。

「台湾へ行きたいな~」
という気持ちが募ってきたところ、貯まっていた全日空マイレージのいくばくかが昨年末に期限を迎えることになった。
かなり貯まっていたので、「これで台湾へ行こう」ということに決め、予約を入れた。

初めての台湾は私の想像を超える興味深い国であった。
よくマスコミは二つの中国などと言って、台湾を中国の一部だと表現したがるが、それは明らかに間違いであることがわかった。
二つの中国ではなく、二つの日本なのであった。
台北の街を歩くと、そこは中華的エッセンスの入った日本。
どこをどう見ても、日本。
過去50年間日本の領土であったことが、これほどまでにこの国に影響し、今もなお、影響しつづけていることに驚きを感じたのだ。

まして日本統治の50年より長期になった中国国民党による統治期間を経てもなお、日本であり続けていること。
そして、ミャンマー人も日本人に似た個性を持っていたが、台湾人はそれ以上に、日本人に似た、というよりも超短期間滞在の私には「台湾語を話す日本の一民族」(表現に失礼があればお赦しください)にしか見えない大きな驚きがあったのだ。
言うなれば、日本という国は大和民族、琉球民族、アイヌ民族と、今では別の国になっている台湾民族の四つの民族で構成されているのではないか、とさえ思えたのだった。

ともかく、観るもの接するものすべてが新鮮であり、また新鮮ではない。そういう感覚が私の心にはたまらなく魅力的に映ったのだった。

しかし、結果的にここでも私はブログのために取材してしまうことになった。
折しも台湾新幹線が開業したばかり。
私は「話のネタに」とばかりに新幹線に乗車してしまったのであった。(「台湾新幹線の乗車体験記」シリーズを参照)

旅の目的。
それは無いよりは旅をずっと豊かにしてくれるもの。
たとえそれが「ブログを書くためのネタ探し」であったとしても。

さあ、次はどこへ飛んで行きましょうか?

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実際にミャンマーを訪れてみると、聞くと見るとでは大違いの国であることが判明した。
たった数日の滞在ではあったものの、マスコミ報道の多くは誇張され歪曲された情報であることを感じた。
確かに経済制裁のために国民の多くは貧困の中にある。
これは間違いなく軍事政府の責任だ。
しかし、石油や非鉄金属、ルビーやサファイヤといった天然資源に恵まれているこの国がアジアの最貧国の一つであることは、単に軍事政権の失政だけに原因があるとは、素人目にも思えない。
そこには仏教という異文化を基礎に持ち、商売と自己主張に不器用なミャンマーというかつての被植民地国家に対する欧米流の差別主義がはびこっているのではないか、と思えたのであった。
というのも、ミャンマーで私が接した人々が、容姿だけでなく性格まで、古き善き日本人に似ていたのだ。
子供の頃、父の実家がある中国地方の片田舎で接した素朴な人々と同じ雰囲気が漂っていたのだった。
情報化、高度経済化、物質主義に陥った代わりに、精神的な礎を失いつつある私たち日本人よりも、よほど人間的な暖かさに他の国では体験できない「やすらぎ」のようなものを感じることができたのだ。

この気持ちを誰かに伝えたい。
それが旅行記に発展した。

そう、旅行記。

もともと旅行記は「じぇいむずのショートエッセイ」という題名で、カナダに在住する友人のSさんだけを対象とした個人的なメールマガジンだった。
メールマガジンというよりも、本当の手紙だった。
内容は、日常のもろもろを面白おかしく書くことからはじまった。
それがやがて国内の旅行記になり、海外旅行記へと発展して行ったのだった。

やがて彼女以外の人にも読んでもらったらどんな反応が戻ってくるのか。
私はそれが知りたくて、他の友人にも送り始めた。
結果は概ね好評だった。
そこで、当時流行りはじめたブログに旅行記を掲載し始めたのだった。

このブログ自体ももともとは「時事放談」というタイトルがついているくらいだから、世の中の話題へ辛口で切り込むというのが主旨であったが、いつの間にかお笑いコラムに変化していた。
そこへ旅行記をアップしはじめるとアクセス数が急上昇した。
こうなると書く方の私としても面白い。

この時、ついに「旅行記を書くこと」が旅の目的に変化したのだ。

しかし、私はまだ「旅行記を書くため」なんて意識はまったくなかった。
その国を訪れ遺跡や寺院を訪問し、人々と接すること。
そういうありきたりな目的でもって旅をしているつもりだった。

旅の目的が「ブログの取材になっている」と気付いたは、なんとこのGW直前のことであった。
その時私は、
「今度の旅では、どんな面白い体験ができるかな」
と何気なく考えていた。
「また一杯写真を写して、面白い旅行記が書けるといいな」
とも考えていた。
その時であった、
「これって、もしかすると私はブログを書くために旅をしているんじゃないだろうか」
と気付いたのだ。

私はブログを書くために毎回、チマチマと貯めたお金で、ドドドと旅に出ていたのだ。

私の友人に毎日グルメ情報をアップしているmixi中毒患者が一人いるが、知らず知らずの間に私もブログ中毒に陥っていたのだ。

つづく


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ミャンマーといえばアウンサン・スーチーさんを思い浮かべ、続いて軍事政権が思い出されるという人は少なくないだろう。
そして新聞報道などによると、必ず前者が善で後者が悪という図式で描かれていることが多い。

ところがミャンマーに関する書籍となると、その善悪の採上げ方が随分と異なってくるのだ。
いわゆる知識人のかたがたが書いた書物ではノーベル平和賞を受賞しているスーチーさんは善として表現されているが、ミャンマーを実際に訪れたり、ミャンマーを任地として働いていたことのある人の表現では、スーチーさんの理想は高いがミャンマーの現実に合致せず、必ずしも彼女の主張は善ではない、ということが描かれているのだ。
とりわけ元駐ミャンマー大使の山口洋一氏著「ミャンマーの実像(勁草書房)」では、マスコミ報道から受けるものとはまったく別のミャンマーの姿が描かれており、私の好奇心を強く煽った。

ともかく、メーサイで見かけた物乞いの少女や、数々の書物の中に描かれているミャンマーの実際を見にいきたい。
私はついにミャンマーへ行くことを決断したのであった。

ミャンマーへ行くために、まず、ガイドブックを買い求めることにした。
そこで大阪なんばにある大手書店へ足を運び、ミャンマーを扱ったガイドブックを探してみた。
ところがミャンマーに関するガイドブックは地球の歩き方シリーズに一冊あるだけで、JTBや昭文社、実業之日本社のガイドブックにはないことを知った。
ロンリープラネットにはミャンマー編はあるものの、英語なので読むのが面倒くさいという理由で購入の候補から外れた。
ともかく、カンボジアのような小さな国でも数冊あるにも関わらず、ミャンマーのような大きな国でたったの一冊。
しかも情報の信頼度からすると他のガイドブックと比較すると若干劣るところのある地球の歩き方しかないのだ。
「なんでやねん」
と私は思った。
「これはよっぽど訪問する邦人が少ないに違いない」
とも思った。

ともかく仕方がないので、ページ数の割には価格の高い「地球の歩き方」を買い求めた。
そして帰宅後、インターネットでも調べてみることにした。

さすが時代はネットである。
タイやベトナムほどではないが、いくつかの有効なサイトを発見した。
それによると、ミャンマーへの訪問は結構費用がかかりそうなことが書かれていた。

すでに日本からの直行便は利用者が少ないために運休となっており、ミャンマーへ行くにはバンコク経由か、クアラルンプール経由でなければ行けないことが分った。
当然、私はバンコクを経由することに決めた。
そしてあるサイトの情報によると、ミャンマーのヤンゴン国際空港に到着後、外国人は200米ドル分を兌換紙幣に交換しなければならないということが書かれていた。
200米ドルといえば、日本人にとっても小さな金額ではない。
おまけに、政府発行の兌換紙幣は実勢レートとは何倍、いや十何倍もかけ離れたレートによる交換なのだという。
いったいこの国はどうなっているのだ?

私は少し心配になってきた。

社会主義の国、ベトナムでも私は大阪本町のベトナム領事館でなんの問題もなくすんなりとビザを取得することができた。
そしてSARSの荒らし吹き荒れる、ケッタイナ時期にあっても、ほとんどなんの障害もなくサイゴンで入国することができた。
両替も、ちゃんと日本円からベトナムドンへ両替することができた。
アメリカドルなど必要ではなかったのだ。

ところがミャンマーはそう簡単にいかないような気がしてきた。

旅行の日程が決まり、タイ航空の航空券も予約した。
そして後はビザだけとばかりに、大阪OAPのミャンマー連邦大阪領事館を訪ねると、なんと休館していたのだ。(旅行記「凸凹道の彼方には」を参照のこと(リンク欄の東南アジア大作戦に掲載))
しかも理由が洒落ていた。
「9.11に発生した同時多発テロのため安全に考慮して、大阪の領事館を休館にしています」
マジかい?
どこのどいつがアメリカの朋友としてミャンマーを攻撃すんねん、と私はズッコケタ。

ともかく時間的に東京の大使館にビザ申請手続きをするのは危ない、と思った私はアライバルビザを申請した。

「たぶん。ミャンマーへ行くのはこれ一回きりになるに違いない。だから、現地の人とコミュニケーションを図るためにも、現地で無用な時間を使わないためにもガイドさんを雇い、移動のための自動車も雇おう」

と、これまでの貧乏旅行とは打って変って、私は綿密な計画を立て、現地の旅行社に段取りをすべて依頼していたのだ。
ビザの発給に危機意識を持った私が頼ったのは、その旅行社だった。
「アライバルビザが取れます」
という、旅行社の文句に甘えて、関西空港のタイ航空チェックインカウンターのお姉さんも、バンコクドムアン空港のもぎりのお姉さんも聞いたことのない、ミャンマーのアライバルビザを申請したのだった。

ちなみに私が「一回きりになるだろう」と思って雇ったガイドさんが、今やミャンマーの旅には欠くことのできない、私の旅の相棒で親友のTさんなのであった。

つづく

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はじめに
えーと、先週の「旅の目的(5)」の中で、
「都人(みやこびと)から「田舎侍」と嫌われた会津藩士と同じになってしまう。」
という発言をしたところ、京都市伏見区在住の当ブログのご意見番の一人から、
「福島で仕事中の京都人としては、明日からの仕事がやりにくくなりますのでご配慮賜りたく、お願い申し上げます。」
という苦情メールを頂戴いたしました。
田舎侍と揶揄された藩名を名指ししたことに問題ありと感じました。
そこで正論を品格をモットーとする当サイトとしては、もっともなこととして、以下のように訂正させていただきます。
「むやみやたらと多くの志士の命を斬りまくった新撰組の後ろ楯として有名で、京の人々(とりわけ色街祇園の人々)から「お国訛りがひどーて、何言うてはるんか、さっぱりわかりまへんわ。ほんま田舎侍やこと」と嫌われた某藩士と同じになってしまう。」
以上、よろしくお願いいたします。
ん?訂正になってない?
ま、よしとしましょか、ハハハ(と、笑っている場合ではない)。
では、本題へ..........。

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旅の目的(7)

ベトナムへも行った。
タイのビーチリゾートへも行った。
いよいよミャンマーを目指す時が来たのだった。

ドラックで有名なゴールデントライアング訪れた時、同時にタイの国境の街メーサイを訪れたこともすでに述べた。
このメーサイ訪問の時の記憶がミャンマーという国と初めて接した私の体験として深く脳裏に刻まれていたのだった。

メーサイへはチェンマイからの現地旅行社によるグループツアーで出かけていた。
「あまり遠くへ行かないで下さいね。○○時に出発します」
とガイドは私たちツアー客にその時間まで自由行動ができる旨、宣言した。
「あ、ミスター○○。ミャンマーへは勝手に入国しないで下さいね。」
ガイドはカナダ人夫婦、アメリカ人親子、イギリス人ビジネスマン、と6人ほど客がいるにも関わらず、私にだけ「ミャンマーへ行くな」と注意したのだった。
きっと、私がいかにもミャンマーへ行きたいという表情をしていたのだろう。

メーサイとミャンマー側の街「タチレイ」は小さな川で隔てられているだけで、簡単に越境することができそうな距離であった。
もちろん、両国の間には厳重なるイミグレーションが設置されており、タイ側の建物は一般の事務所ビル、ミャンマー側は伝統的なミャンマー式屋根を持つ事務所ビルでできていた。
私たち外国人はこのイミグレで500バーツを支払いイミグレにパスポートを預けるとタチレイに1日だけ入国することができる。
しかし、この時、タイとミャンマーの関係がいささか悪化していた。
というのも、タイ政府は公然の秘密でミャンマーの反政府勢力に武器供与を行っており、つい最近、その反政府勢力を追討するためにミャンマー軍が発射した砲弾が誤ってタイ国領に飛び込んでしまい、小さな戦闘が展開されたのであった。
こういう時には国境を越えるのが難しくなる、という。
従って、「ミャンマーへ入ってみたいです」という私の希望もガイドには聞き入れてもらえなかったのだった。

私たち一般人の越境は制限されていたが、タイ、ミャンマーの国境付近に住んでいる住民は別であった。
この人たちはパスポートも持っていないのに国境を南北にウロウロすることができる。
とりわけモン族やアカ族などという少数民族の出入りはかなり自由だったのだ。
「ええな~」
と一瞬思ったものの、考えて見れば彼ら少数民族は自らが帰属すべき国家というものに対する意識が薄いだけなのだ、ということに気がついた。

この越境してくるミャンマーからの侵入者で最も私を困惑させたのは、小さな乳飲み子を背をって来る子供の物乞いであった。

旅行メモを付けていたボールペンを紛失していたので、私は自由時間宣言のすぐ後に、車道に面した商店街にあるコンビニに足を向けた。
すると、どこからともなく表れた少女の物乞いが両手をあげて私の後をついてくるのだ。
手をあげているのは、「ようこそいらっしゃい」という歓迎の意を表したものではもちろん無く、「金を恵んで」という意味なのであった。
その少女は小学校1年生ぐらいの年齢で、背の高さは私の腰あたりまでしかない。
正直、まだまだ幼い子供なのだ。
驚いたことに、その幼い少女が、兄弟と思われる乳飲み子を背負っていたことだ。
見るからに乏しそうなその少女の目が、物悲しい。

「子供にお金をあげないで下さい」
というポスターが街の到るところに貼り出されているのをすでに目にしていた私は、この子供を無視しようとした。

少し歩いたところにセブンイレブンがあり、私はそこでボールペンを買おうと思った。
無視して歩いていたが、それでも物乞いの少女はついてくる。
なんとか無視して店に入ると、さすがに店の中まではついてこない。
きっとコンビニの中まで入ってくるとタイ人の店主に叩かれるのだろう。
ボールペンと飲料水のペットボトルを買い求め、店を出ると、その子供は乳飲み子を背負ったまま私が出てくるのを待っていた。

これには私も参ってしまった。
いけないとは思いながら20バーツを彼女の手の中に恵んでしまった。
それでも、足りないのか彼女は私の後をついてくる。
瞬間的に、私はもし自分に子供がいたら絶対にこの街に連れてきただろうと思った。
というのも、物質的に裕福な暮らしをしている日本の子供たちには、ここメーサイに見るミャンマーからの物乞いの子供の姿など、想像もできないものだと思ったからであった。

自分と同じ子供が、物乞いをする姿。
これこそ、同じ地球の上で存在する現実の一つであることを、子供のうちに体験することは学校の授業よりも重要だと思ったのだった。

この時の乳飲み子を背負った物乞いの少女の姿が、私をミャンマーへ向かわせる一つの動機になったことは間違いない。
果たして、ミャンマーはそんなに乏しいのか?

私はこの疑問を直に確かめるためにも、ミャンマー訪問を実現したかったのだ。

つづく

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約5年ぶりに社内コンペに参加した。
5年経過してはっきりと分ったのは、5年間の間、一度もクラブを握っていないと、ちっとも上達しないことだ。
まったく練習せずにタイガー・ウッズになることはできないらしい。
また練習したからといってタイガーウッズになれるわけもない。
いずれにしろタイガーウッズにはなれないということだ。

しかも今回はさらに恐ろしいことが判明した、

以前であれば、社内コンペに参加しなければならないとなると、少なくとも一回ぐらいは事前に家や会社の近所にあるドライビングレンジ練習場へ出かけて打撃練習を行っていた。
ところが、今回は仕事が忙しくて、ちっとも練習場に足を運ぶことができなかった。
したがって、クラブへ着いてから5分間ほどパッティング練習はしたものの、ティーショットのリハーサルはまったくしなかったのだ。

結果的に、第1打は空振りをした。
思わず素振りをした振りをしようとしたが、無理であった。
思いっきり力を振り絞って素振りをするドジもいない。

従って見るも無惨なスタートとなったのだが、最終的なスコアが事前に練習した前回のコンペより若干だが「マシ」だったのが不思議である。

この事実は「練習をしてもしなくても『結果は同じ』」ということを意味しているのと同時に、私には「ゴルフの素質はまったくない」ということも意味していると宣言してもいいだろう。
また練習をしてもしなくても同じスコアということは、このスコアは私にとっては「絶対スコア」。
物理学における絶対温度みたいなものであることも同時に判明したのであった。

それにしてもゴルフは金のかかるスポーツである。
社内コンペといっても、プレー費や交通費を会社が負担してくれるものではない。
負担してくれるどころか交通費は実費で参加費までとる。
だから一回ゴルフに参加するだけで途方もない金額がかかってしまうことになる。

例えば昨日の場合、私の自宅からコンペ会場である兵庫県の某カントリークラブまで往復の高速道路料金が3200円。
距離にして往復150kmくらいなので、私の愛車「シビックH10年型」でのガソリン代は約14リットル×135円で1890円。消耗費を考えれば約2000円。
昼食を含めたプレー費が約18000円。コンペ参加費が3000円。馬券と称して順位をあてる強制ギャンブルが2000円。
合計28200円もかかったのだ。

これは私の通っているコナミスポーツクラブの3カ月分に相当する金額で、ゴルフは非常に単価の張るスポーツということができる。
さらに言えば、ゴルフはスポーツとも言い難いものもある。
体を動かすのはスウィングする時とOBのボールを探しに行く時、昼飯を食べる時、風呂に入る時ぐらいで、実際の移動は電気自動車に乗って移動するのでほとんどスポーツとは言えないくらいなのだ。
ゴルフをする人はよく老人のやるゲートボールを馬鹿にするが、もしかするとゲートボールの方が消費エネルギーは高くスポーツ性も勝っているのかも分らない。

また、ゴルフは道具にお金がかかるスポーツでもある。
私のゴルフクラブは父から譲り受けた無料の中古クラブだ。
しかし、無料といってもそれは「私にとっては」というだけの話で、私にクラブセットを譲渡することを理由に父は新しい高級クラブを買い求めた。
「オマエもゴルフぐらいはやらんといかん。仕事にゴルフは必須だ」
と父は言っていたのだが、要は自分が新しいクラブセットを買うための口実が必要なだけであったのだ。
同じ高級クラブなら、私はゴルフよりも新地や銀座のほうがいい。

ともかく私は中古だが、会社のみんなは結構高価そうなクラブを持っていた。
ピカピカ光るクラブヘッド。
ブラックに光沢が輝く飛行機と同じ材質のシャフト。
高級そうなゴルフバック。
住友ダンロップ社製のゴルフボール。

しかし、どんなクラブにでもプレーする人のゴルフの実力を効果的に高めるという性能はないことは、プレーがはじまるとすぐに理解することができる。
そして、そこそこ下手糞な人ほど、高級クラブを欲し、テクニックよりもクラブの銘柄、素材、価格、設計者にこだわるのだ。
これは丁度「カメラが好きだから」という理由で、退職金をはたいてニコンのD200やキャノンのEOS-1を買ったのはいいが、機材が重すぎたり、操作方法がよく分らず、写す写真は凡写真。
誕生日に買ってやったバカチョンで幼稚園児の孫がシャッターを押した写真の方ができが良かった。
なんていう笑えない団塊オヤジの俄カメラマンと共通点がある。

ということで、久々のコンペは人間観察を楽しんだ1日だった。
でも1番楽しかったのは狭いカート道をちまちまとハンドルを捌きながら走る電気自動車「カート」の運転であったことは言うまでもない。
なんといっても、ミスタービーンになったような気分になったからだ。

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クラスター爆弾というと、毎日新聞の五味元記者を思い出す。
イラク戦争に使われたクラスター爆弾を「記念の土産」として持ち帰ろうとした五味元記者は手荷物検査でひっかかった。
で、ひっかかっただけならな良かったのだが、検査官が検査した瞬間に爆弾が炸裂。
検査官は死亡した。

朝日新聞の記者だけではなく、毎日新聞の記者も「ただのアホ」ということを露呈した恥ずべき&悲しい事件だったが、解雇された五味記者はどうなったのかちょっと気になるところではある。

ところで、そのクラスター爆弾の禁止条約制定に向けた国際会議がノルウェーの首都オスロで開催され、このほどそれが閉会した。
クラスター爆弾の主な製造元であるアメリカやイギリス、中国、ロシアは不参加の、ほとんど意味のない会議だったが、マスコミは大きく記事で取り上げた。

それにしてもクラスター爆弾禁止にしろ、対人地雷禁止にしろおかしな法律を作ろうとする人たちがいるものだ。
この人たちの特徴は自分たちの主張していることが、
「特定の兵器は残酷だから使ってはいけないよ。でも残酷でない兵器はどんどん作って使うのもオーケーだ。」
という妙竹林なこととと、マスコミの皆さんは気付かないのか、無視しているのか。
どんな兵器でも他人を殺傷することを目的に作られているのだから、兵器の種類を限定して、
「残酷だから」
とか、
「危ないから」
というのは意味を成さないと私は思う。

確かに優秀な毎日新聞の記者が記念の土産として持ち変えるにはクラスター爆弾の不発弾はかなり危険だ。
クラスター爆弾の不発弾が、有名大学を卒業し、優秀な成績でメジャーな新聞の記者になったような、特別な人にも判別できない事実があるので、「危ないから、やめようね」というのは、分らなくもない。

しかし、こんな中途半端で論理に矛盾にある会議が「正義の会議」として国際的に認知されている事実のほうが、もっと危ないと思うのだが、世間のみんなはちょっと気付いていないのではあるまいか。

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バス停からビーチまで約10分。
近いにも関わらず、時間がそこそこかかったのはサイカーの運転手が高齢だったこともあったが、私の体重が重かったというのが最大の原因かも知れない。

「ありがとう」
と言ってサイカーの運転手に約束した料金の40バーツを支払おうとしたら、財布の中には20バーツ紙幣が一枚しない。
あいにく小銭もない。
あとは100バーツ紙幣と1000バーツ紙幣。
そして50バーツ紙幣が一枚。
結局50バーツを支払い10バーツはチップとしてあげることにしたのだった。
40バーツへの値切り交渉は失敗に終った。

ビーチの入り口の駐車場からビーチに向かって狭い道が延びていて、両側には土産物屋が軒を連ねていた。
ビーチボールや浮輪。
貝殻でできた風鈴や置物。
グリコやオイシイなどのスナック菓子。
水鉄砲やウルトラマンなどのオモチャ。
そしてイカの姿焼きや貝の浜焼きなど、日本の夏の風景とほとんど変らない光景が広がっていた。
日本と違うのは、日本は夏の二カ月ぐらいの光景だが、タイでは年中の光景であることだ。

その土産物屋街を抜けると突然視界が開け、眼前にビーチの砂浜と海が広がった。
ホアヒンビーチだった。

南国のビーチというと、どうしても白砂青松というか白砂青椰で、白い砂浜、エメラルドグリーンに輝く透き通る海、白いカモメに白い三角の帆を立てたヨットなんていう印象がある
誰がどうしてこうしたイメージを植え付けたのか謎であるが、ホアヒンのビーチはそんなイメージとは合致しない、ちょっとばかし失望させるビーチなのであった。
白い砂浜の所々では岩がゴツゴツと露出。
海の近くには小さなカニが作った直径一センチほどの小さな穴が一杯空いている。
沖合にはヨットならぬ王様のビーチを警護するタイ海軍の巡洋艦が浮んでいる。
海は濁っていて色は「須磨浦海岸(神戸市)よりちょっとまし」という感じだった。
確かに全体的には美しい。
砂浜は白いし、ヤシの木が南国ムードを誘ってくれる。
数多くの白人観光客。
南に向かって長く延びる海岸線。
その海岸線に沿って並ぶ美しいリゾートホテル群。
しかし、海そのものはバンコクからさして離れていないことから、そう美しいものではなかったのだ。

考えて見れば、シンガポールのセントーサ島のビーチもビーチは綺麗であったが海は汚かった。
油やゴミがプカプカと浮いていたので幻滅したのを思い出す。
そして後年行くこくとになるインド洋アンダマン海に面したミャンマーのグウェーサンビーチも、上記二つのビーチのようには汚れていなかったが、海が深いらしくはエメラルドグリーンではなかった。

今から十数年前、私は社会人2年目で沖縄出張を命じられ、恩納村というリゾートエリアのまっただ中で一カ月ほど滞在したことがある。
その一ヶ月間での唯一の休日に某有名ビーチに出かけ南の海を体験した。
それ以来私は本土の都市近郊にあるババッチイ海水浴場は見るのもいやになっていたのであった。

沖縄の海はビーチと青空と東シナ海の輝きが一体になり、海に入ると足元を熱帯魚がちょろちょろと泳ぎ廻る。
泳いでいて海の水が口に入っても塩っ辛いことを除いて「汚い」という感覚はまったく芽生えなかった。
ビーチも海も自然の清潔感で一杯で、健康的で日本的で沖縄的で、空に輝く太陽さえ大阪で見るのとはまったく違った太陽に見えたのであった。
まさにイメージどおりの海だった。
これで下品な軍関係のアメリカ人の姿さえ無ければ完璧なのに、と思った。
それほど沖縄の海で泳いだことは都会の海とプールしか知らなかった私にとって衝撃的な経験であった。

以来、テレビのニュースなどで、
「夏休み初日の江ノ島海岸では......」
というアナウンスと、芋の子を洗うような海水浴客の群衆のテレビ映像を見るにつけ、
「うわっ。気色わる~」
と思うようになっていた。

考えて見れば、沖縄の海は世界でも有数の美しさを持つ海なのかも知れないと思うようになったのはホアヒンをはじめ海外の海を見るようになってからであったと思う。
日本は世界トップの美しさを持つ海に囲まれていたのであった。
誇れ日本の海。
沖縄は日本の宝石だ。

ともかくビーチと海にはいささか(沖縄と比較して)失望したものの、静かな街並みと、食べ物の美味しさに魅了され、翌年、私はたくさんの本を持ち込んで、ここを再び訪れることになる。

海外のビーチを訪れるという目的が達成された次の私の目標は「ミャンマーへ行くこと」であった。

つづく(土日は別の話題でいきます。月曜日から続きを連載)

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なぜビーチへ行くのに「ホアヒン」を選んだかというと、特に理由はない。
当時、大阪で通っていたタイ語会話のスクールでクラスが一緒だった人が、
「もう、私、パタヤが好きで好きで。4カ月に1回タイへ行くと毎回パタヤなんです」
と言うのを聞いていたので、パタヤを避けてホアヒンを選んだというのが、へそ曲がりな私の理由と言えば理由なのだった。
ちなみに、私がトランプ詐欺に巻き込まれそうになったのは、ちょうどこの頃である。(「バンコクのトランプ詐欺(1)~(15)」参照)

シャム湾を挟んでパタヤとは反対側にあるホアヒンは王家のビーチがあるということで知られており、「閑静」で「落ち着いた」「品のある」リゾートとしてガイドブックなどには紹介されている。

「日本人って、すぐにホアヒンの名前をあげるのね」
と私に言ったのはシーロムにあるメキシコ料理屋で働くジェーンという名の女の子であった。
ジェーンといっても白人ではない。
タイ人はよくニックネームを用いて本名を名乗らないことがある。
本名を名乗っても外国人にはややこしい発音でなかなか覚えられないのだ。
ジェーンはニックネームなのだ。

買い物帰り、腹が減っていた私はメキシコ料理屋に入った。
なぜメキシコ料理なのか判然としないが、店が比較的空いていたのと、メキシコ風のピリッとさがなんとなく食べたかったのかも分らない。
そのメキシコ料理屋で客の案内係兼ウェートレスをやっていたのがジェーンであった。

客が少ないこともあり、私が日本人にしてはタイ人的なこともあってか、ジェーンはテーブルを挟んで私の向かいに座り込み、仕事そっちのけで小一時間私との世間話に花を咲かせたのであった。
で、そのジェーンの話によると日本人はタイに来た目的を「ホアヒン」「プーケット」「サムイ」「パタヤ」などのビーチを訪れるためと言う人が少なくなく、実際は全然そういう目的ではなく「女あさり」や「ゴルフ」といった「大人の遊び」なのに、私もその一人かと思ったというのだ。
しかし、スーパーの買い物袋を持って店に入ってきた私は彼女の目にもちょっと違った姿で映り、私に話しかけて来たと言うわけらしい。
だから、彼女の私への第一声は、
「どこ住んでるの? スクンビット?」
であった。

ということで、ホアヒンはパッケージツアーなどでは余り有名ではないが、地元バンコクに住む日本人やタイ旅行リピーターの日本人には結構ポップな場所なのであった。

バンコクの南バスターミナルからエアコン特急バスに乗ること約3時間。
ホアヒンに到着した。
バスを降りると自転車の横に客を乗せる座席を付けたサイカーの運転手が寄ってきた。
たどたどしい英語で、「どこ、ホテル、行くか?」と訊いてくる。
私が外国人であることがよく分ったな、と感心した。
私の乗ってきたバスはエアコン特急バスでも最上級のVIPバスなのであった。
何も考えずに切符を買って乗り込んだバスはガラガラなのに、やたら立派だったので感心していたが、「VIP」バスだったのだ。

私は日帰りでホテルには泊まらない。
そこで私はサイカーの運転手に訊ねた。
「ビーチまで、なんぼ?」
「50バーツ」
50バーツはちと高いのではと思った。
私の持っていた実業之日本社発行の「わがまま歩き」というガイドブックに掲載されていたホアヒンの小さな地図を見る限り、ビーチまではたった一キロ足らず。
50バーツはとっても高く思えたのだ。

私の値切りに応じて運転手は「40バーツ」と言った。
値切りゲームが楽しめるのは、ここ東南アジアと大阪の特権ではある。
私は20バーツという価格を目指したのであったが、よくよく考えて見るとここは高級リゾート地である。
王様のビーチもある。
そんなところで、大の日本人が20バーツ(60円=当時)、30バーツ(90円=当時)でウジウジ言うのは、幕末の京都で、じゃんじゃん豪遊した長州の藩士とは反対に金を使わずオシャレも知らず、都人(みやこびと)から「田舎侍」と嫌われた会津藩士と同じになってしまう。
私は40バーツで手を打ったのであった。

つづく

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ベトナムに到着して最初に驚いたのは、私が出会ったこの街の人は誰もホーチミン市をホーチミン市と呼ばないことであった。

「サイゴンへようこそ!」
とメコン川ツアーのガイドのターイさんは言った。
「お客さん、サイゴン初めて?」
と土産物屋の店員は言った。
「ここはサイゴン。SARSはハノイだから関係ないね」
とバイクタクシーのドンさんは言った。

そう。
役人と外国人以外はこの街をホーチミン市と呼ばないことに衝撃を受けたのだ。
独立の父。
ホーおじさん。
胡志明。
またの名を阮愛国。
南ベトナム解放後、故ホー・チミンの名前をとってサイゴンからホーチミン市に改名されたのだが、それは北からやってきた政権が勝手にやったことで市民は関係ない。
彼らは現在もなお「サイゴン=西貢」と呼んでいるのであった。

で、続いてビックリしたのはベトナムの民族衣裳「アオザイ」をここでは「アオヤイ」と呼ぶことであった。
これは後々判明したのだが、北ベトナムでは「アオザイ」で南ベトナムでは方言で「アオヤイ」と呼ぶのだ。
つまり南ベトナムの人々は「ザジズゼゾ」の発音が苦手なのだ。
これは丁度、江戸っ子が「し」と「ひ」の発音が苦手なのと同じなのだ。

「あの白いのが女子高生のアオヤイです」
とガイドさん。
「アオヤイ、ってなんです?」
と私。
「アオヤイは、アオヤイです。」
「アオザイのことは、本当はアオヤイって言うんですね」
「アオヤイです」

と、漫才のような分けのわからない会話をガイドのターイさんと交したのであった。

そして、最後に驚愕したのはメコンデルタの雄大さであった。
初めてメコン川をゴールデントライアングで目にした時は、
「河口から何千キロも離れているのに、大阪湾フェリーくらいもある船が行き来しているやん」
とビックリしたのだったが、河口近くのメコン川を見た私は、
「これって川? 瀬戸内海より広いやん」
とまたまたビックリしてしまったのであった。
「地獄の黙示録みたいだね」
と言っては喜んでる豪州人と英国人のツアー客に混じってのデルタ一日ツアーは、めちゃくちゃ印象的だったのである。

「メコンデルタを見ること」
という目的を果たした次の私の目的は、
「ビーチへ行くこと」
であった。

考えてみれば、この時すでに二ケタになっていたタイへの訪問の中で、一度もビーチを訪れていないことに私は気付いていた。
でも、これには原因があった。
私は常に一人旅なのでビーチへ出向いて、女の子とビーチボールでバレーボールを楽しみながら、
「キャハハハ!」
などという状況になるはずはなく、
「けっ、ビーチのどこがオモロイねん」
と一人で勝手にひがんでいたのであった。

しかし、ひがんでばかりいても情けないので、ともかくビーチへ行くことにした。
で、目指したのはバンコクから日帰りで行けるホアヒンというビーチだった。

つづく

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タイ、ミャンマー、ラオスの国境付近、つまりゴールデントライアングと呼ばれる地域でメコン川を目にした私の次の目的は、
「メコンデルタを見ること」
だった。

ベトナムは、以前から一度は訪問したいと考えていたところだった。
なぜなら、ベトナムという国名には、特別なものを感じさせる何かがあったからだ。
というのも、私が子供の頃のベトナムは戦場だった。
小学校低学年であった私のようなガキの目にもベトナム戦争は残酷で、いつ終わるものやらまったくわからない戦いに映った。
ちなみにベトナム戦争はベトナムではアメリカ戦争という。
もっともだが、目からうろこであった。

そのベトナム戦争が終結して30年近くが経過し、計画経済のドイモイ政策を耳にしたり、巷に溢れる観光ガイドを見かけては、
「ベトナムへ行ってみたいな」
という気持ちが芽生え始めていた。
そのベトナムへ行きたいという心の中の莟を開花させたのは、近藤紘一の著作との出会いだった。
「ベトナムから来た妻と娘」
「サイゴンの一番長い日」
「バンコクへ来た妻と娘」
など、東南アジアを舞台にした元産経新聞記者の故近藤紘一の著作はベトナムという国を身近に感じさせ、サイゴンからメコンデルタにわたるベトナム南部地域への私の思いは徐々に強まっていったのであった。

ベトナムへはタイのバンコク経由で出かけた。
このときすでに、成田に先立ち関西空港からはホーチミン市行きの直航便が毎日運行していたのだが、私は全日空のマイレージ欲しさにスターアライアンスに加盟していないベトナム航空を避け、タイ航空を選択した。
これ以降タイ国内同様、バンコクを起点に東南アジアをうろうろすることになった。
つまり、マイレージが欲しいという欲求がバンコクを旅の起点にさせたのであった。

ベトナムへの旅は困難を極めた。
いや、困難というよりも、
「あんた、大丈夫か?」
と会社や得意先、友人連中から数多くの心配を頂戴した。
なぜなら、新型肺炎SARSが中国から東南アジアにけかて猛威を振るい始め、ベトナムの首都ハノイではすでに死者も出ていたからであった。

まず、影響は出発前々日から表れた。
「あ、○○さんですか?」
いつもお世話になっている航空券を買った旅行社からの電話であった。
「そうですけど」
「毎度お世話になります。」
「こちらこそ」
「あの、ホーチミンからバンコクへ帰る便ですけど」
「はい」
「キャンセルになりました」
「えっ?」
「利用者激減でキャンセルです。○○さんのチケット発券済みですけど、便、無くなったから乗れません」
「で、どうすれば.......」
「○○さん、ホーチミンから午前の便でしたね。」
「はい、午後はバンコクのチャトチャックへ買い物に行くつもりなんですけど」
「夕方の夜の便が飛ぶみたいですから、それに乗ってください」
「航空券.......エアチケットはどうしたらええんですか?」
「そのままチェックインできる、ってタイ航空が言うてますから、とりあえず信じて、それを現地で見せてください」
「はあ」
「で、あかんかったら、ウチに電話ください」
「はあ?」

ということで、納得したら良いものかどうか、悩むような連絡なのであった。

いざ出発してみると関空からバンコクの便はいつもの通りだったものの、バンコクからホーチミンへの便では搭乗するなり使い捨ての医療用マスクが配られてきた。
しかも便数が減らされているにも関わらず機内はガラガラであった。
機内食も配られなかった。
フライトアテンダントたちは全員マスク着用で、アテンダントというよりも看護婦さん、飛行機の機内というよりも病院の中、といった雰囲気だった。

「えらいことに、なってしまった」
と、思ったが、こんなことはめったに経験できることでもなく、私はなんとなく浮き浮きしていたのであった。
「これで土産話が一つできた」
とさえ思った。
この土産話がくせ者だった。
というのも、この土産話がやがて旅行記となり、カナダ在住の親友Sさん限定のメールマガジンとなり、やがてブログに発展していくことになるのだ。

ともかく、SARSへの質問表をイミグレーションカードとは別に書かされ、ホーチミンのタイソニャット空港では医師の診断も受けるという、またとない体験をしたのだった。

つづく

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