はじめに
えーと、先週の「旅の目的(5)」の中で、
「都人(みやこびと)から「田舎侍」と嫌われた会津藩士と同じになってしまう。」
という発言をしたところ、京都市伏見区在住の当ブログのご意見番の一人から、
「福島で仕事中の京都人としては、明日からの仕事がやりにくくなりますのでご配慮賜りたく、お願い申し上げます。」
という苦情メールを頂戴いたしました。
田舎侍と揶揄された藩名を名指ししたことに問題ありと感じました。
そこで正論を品格をモットーとする当サイトとしては、もっともなこととして、以下のように訂正させていただきます。
「むやみやたらと多くの志士の命を斬りまくった新撰組の後ろ楯として有名で、京の人々(とりわけ色街祇園の人々)から「お国訛りがひどーて、何言うてはるんか、さっぱりわかりまへんわ。ほんま田舎侍やこと」と嫌われた某藩士と同じになってしまう。」
以上、よろしくお願いいたします。
ん?訂正になってない?
ま、よしとしましょか、ハハハ(と、笑っている場合ではない)。
では、本題へ..........。
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旅の目的(7)
ベトナムへも行った。
タイのビーチリゾートへも行った。
いよいよミャンマーを目指す時が来たのだった。
ドラックで有名なゴールデントライアング訪れた時、同時にタイの国境の街メーサイを訪れたこともすでに述べた。
このメーサイ訪問の時の記憶がミャンマーという国と初めて接した私の体験として深く脳裏に刻まれていたのだった。
メーサイへはチェンマイからの現地旅行社によるグループツアーで出かけていた。
「あまり遠くへ行かないで下さいね。○○時に出発します」
とガイドは私たちツアー客にその時間まで自由行動ができる旨、宣言した。
「あ、ミスター○○。ミャンマーへは勝手に入国しないで下さいね。」
ガイドはカナダ人夫婦、アメリカ人親子、イギリス人ビジネスマン、と6人ほど客がいるにも関わらず、私にだけ「ミャンマーへ行くな」と注意したのだった。
きっと、私がいかにもミャンマーへ行きたいという表情をしていたのだろう。
メーサイとミャンマー側の街「タチレイ」は小さな川で隔てられているだけで、簡単に越境することができそうな距離であった。
もちろん、両国の間には厳重なるイミグレーションが設置されており、タイ側の建物は一般の事務所ビル、ミャンマー側は伝統的なミャンマー式屋根を持つ事務所ビルでできていた。
私たち外国人はこのイミグレで500バーツを支払いイミグレにパスポートを預けるとタチレイに1日だけ入国することができる。
しかし、この時、タイとミャンマーの関係がいささか悪化していた。
というのも、タイ政府は公然の秘密でミャンマーの反政府勢力に武器供与を行っており、つい最近、その反政府勢力を追討するためにミャンマー軍が発射した砲弾が誤ってタイ国領に飛び込んでしまい、小さな戦闘が展開されたのであった。
こういう時には国境を越えるのが難しくなる、という。
従って、「ミャンマーへ入ってみたいです」という私の希望もガイドには聞き入れてもらえなかったのだった。
私たち一般人の越境は制限されていたが、タイ、ミャンマーの国境付近に住んでいる住民は別であった。
この人たちはパスポートも持っていないのに国境を南北にウロウロすることができる。
とりわけモン族やアカ族などという少数民族の出入りはかなり自由だったのだ。
「ええな~」
と一瞬思ったものの、考えて見れば彼ら少数民族は自らが帰属すべき国家というものに対する意識が薄いだけなのだ、ということに気がついた。
この越境してくるミャンマーからの侵入者で最も私を困惑させたのは、小さな乳飲み子を背をって来る子供の物乞いであった。
旅行メモを付けていたボールペンを紛失していたので、私は自由時間宣言のすぐ後に、車道に面した商店街にあるコンビニに足を向けた。
すると、どこからともなく表れた少女の物乞いが両手をあげて私の後をついてくるのだ。
手をあげているのは、「ようこそいらっしゃい」という歓迎の意を表したものではもちろん無く、「金を恵んで」という意味なのであった。
その少女は小学校1年生ぐらいの年齢で、背の高さは私の腰あたりまでしかない。
正直、まだまだ幼い子供なのだ。
驚いたことに、その幼い少女が、兄弟と思われる乳飲み子を背負っていたことだ。
見るからに乏しそうなその少女の目が、物悲しい。
「子供にお金をあげないで下さい」
というポスターが街の到るところに貼り出されているのをすでに目にしていた私は、この子供を無視しようとした。
少し歩いたところにセブンイレブンがあり、私はそこでボールペンを買おうと思った。
無視して歩いていたが、それでも物乞いの少女はついてくる。
なんとか無視して店に入ると、さすがに店の中まではついてこない。
きっとコンビニの中まで入ってくるとタイ人の店主に叩かれるのだろう。
ボールペンと飲料水のペットボトルを買い求め、店を出ると、その子供は乳飲み子を背負ったまま私が出てくるのを待っていた。
これには私も参ってしまった。
いけないとは思いながら20バーツを彼女の手の中に恵んでしまった。
それでも、足りないのか彼女は私の後をついてくる。
瞬間的に、私はもし自分に子供がいたら絶対にこの街に連れてきただろうと思った。
というのも、物質的に裕福な暮らしをしている日本の子供たちには、ここメーサイに見るミャンマーからの物乞いの子供の姿など、想像もできないものだと思ったからであった。
自分と同じ子供が、物乞いをする姿。
これこそ、同じ地球の上で存在する現実の一つであることを、子供のうちに体験することは学校の授業よりも重要だと思ったのだった。
この時の乳飲み子を背負った物乞いの少女の姿が、私をミャンマーへ向かわせる一つの動機になったことは間違いない。
果たして、ミャンマーはそんなに乏しいのか?
私はこの疑問を直に確かめるためにも、ミャンマー訪問を実現したかったのだ。
つづく
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