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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



この橋も立派な観光地であった。
入り口付近にはいくつかの屋台が繰り出し土産物やお菓子などを売っていた。
宝くじの屋台まで来ているではないか。
橋に向かって歩いていくとやはり間違いない、
タウンタマン湖に架かるウー・ベイン橋はまぎれもなく淀川にかかる上津屋橋、通称流れ橋にそっくりなのであった。

たといお江戸日本橋やレインボーブリッジ、明石海峡大橋、瀬戸大橋を見たことがなくとも、もしあなたが日本人であれば上津橋は見たことがあるはずだ。
なに?
そんな橋、知らないし聞いたこともない?
まさかそんなはずはない。
上津屋橋こそテレビや映画の時代劇に頻繁に登場する100%木製の欄干のない、長ーい橋、そのものなのだ。

馬に跨がった暴れん坊将軍が軽快に渡っていく木製の橋。
武士の集団が渡っていると、途中で白だすきをした若武者が「父の敵!」などと叫んで待っている木製の橋。
「明らかに合成やんけ」としか見えない富士山を背景に大名行列が渡る木製の橋。
これこそ京都府八幡市内の淀川に架かる上津屋橋なのである。

ウー・ペイン橋は、その上津屋橋に瓜二つなのであった。
違いはといえば、ウー・ペイン橋の方が少しく橋の上から水面までの高さが高いことと、ウー・ペイン橋は淀川に架かっておらず、ここはミャンマーだということぐらいであった。

「ん~、時代劇に出てきそう」
「なんですか?それ」

しまった。
またつまらないことを口走ってしまった。
どうも私はTさんがミャンマー人であることを忘れてしまいがちだ。
「時代劇」
などと言ってもTさんが分るわけがない。

「サムライドラマにこんな橋が出てくるんですけどね........。」
「そうですか......ほらこれ、なんだか分りますか?」

橋の入り口には無愛想なオバハンが店番をしている、たくさんの鳥カゴを並べている店があった。

「もしかして、中の鳥を買って放してやるんですか?」
「そうです。良く知ってますね」

上座部仏教の国には放生の習慣がある。
日本にも放生の文化はあるが、ミャンマーほど一般的ではない。
これは囚われの動物を助けてあげて「徳を積もう」という考え方で、より良い来世を迎えられるようにという仏教的習慣に基づいている。
が、もともと自然界で自由に飛び回っていた鳥や泳ぎまわっていた魚をわざわざ買い求めて解き放つぐらいなら、はじめから捕まえなければ良いものをと思うのだが、これも立派な商売なのだろう。

「ほらほら、フクロウがいますよ」

Tさんは生き物が大好きなので鳥カゴの中身を見つめる目が輝いている。
確かにフクロウがいる。
手のひらに乗りそうな小さなフクロウだ。
今年の冬に訪れた旭山動物園で間近にフクロウを目にする機会があったが、そっちは飼育係の人が厚い革製の手袋をはめて両手で抱えなければならないほど、大きなフクロウであった。
それに比べてこっちのカゴに入っているヤツは小さい。
小さいが静かに目を閉じている姿はまるっきり森の哲学者そのものであった。
ソクラテスもかくやであろう、という風貌なのだ。
で、その小さなソクラテス先生が静かにしている理由は、夜行性以外に実はもうひとつあった。
そのソクラテス先生は「いじめられっ子」なのであった。

この店の主人は何を考えているのか、それともなにも考えていないのか、一つの小さなカゴに何種類もの鳥を一緒に入れていたのだ。
このため中の鳥たちはストレスが溜まっているのか、とりわけキツツキみたいなくちばしの長い小鳥が盛んにソクラテス先生を突っついているのであった。
このキツツキ見たいなヤツの仕打ちに静かに耐えている姿もソクラテス先生の風格を一段と高めているような気がしたが、フクロウは夜行性なので、単に昼間っから明るいところで迷惑に感じているだけではないかとも思われたのであった。

「このキツツキみたいなのを買いましょうか。それとフクロウも。」
「え、いいんですか? 放してやります?」
「ええ」

ということで、私は一つカゴの中で対立関係にあるキツツキとソクラテス先生を買い求めた。
いっぺんに二羽も持つことはできないので片方をTさんに持ってもらうことにした。
Tさんはキツツキ見たいなヤツの方を手に取った。

「危ないですよ。その長いクチバシでつつかれたら怪我するかも」

と心配したのも杞憂に終った。
というのもTさんに捉まれたキツツキみたいな鳥は急に大人しくなったのであった。
Tさんは頭まで撫でている。
間違いなくヤツは雄の鳥だと確信したのであった。

で、陸から百メートルほど入った橋の途中で彼らを放してやることにした。

「もしかして、放したらカゴのところに戻ったりするかも知れませんね」

とTさんは冗談めかして言った。

「まさか................では、放しましょう。一、二、三!」
と私の掛け声で二羽を放つと、二羽は鳥カゴ屋台に向かってまっしぐらに飛んでいったのであった。

つづく

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このように、他国の富を搾取して自国を肥やすというのが「植民地経営」というものなのだ。

欧米には想像を絶するお金持ちが存在するが、この人たちの多くは植民地からカツ上げした、よそ様の富みよって栄えている、といっても過言ではない。

「お帰りなさいませ、ご主人様」

というセリフを聞いてメイドカフェしか思い出せないあなた。あなたはオタクだ。
このセリフは基本的にバトラーなる職業に従事している人たちのセリフである。
映画「バットマン・リターンズ」でマイケル・ケインが演じていたのがこのバトラーなのだが、このような特別な使用人を抱えることができる財力の多くもまた、植民地からの恩恵なのだ。
だいたい考えても見よ。
例えば石油メジャーのBPにしろロイヤル・ダッチ・シェルにせよ、ちっとも石油が産出しない国の会社ではないか。
石油王ロックフェラーの系統を踏襲するモービルやエクソンは別にして、こういう会社が今日もなお中東の石油を牛耳っておるのだから、植民地時代いや帝国主義時代は恐ろしい。

つまり「植民地」とは宗主国がその富を享受するための搾取の対象でしかないのだ。だから植民地は宗主国に対して奉仕しなければならない。
もちろん植民地人民の教育などとんでもない。
愚民政策が最良の政策で、万一「原住民」から優秀なヤツが現れようものなら、各種因縁をつけて生涯刑務所にぶち込むか処刑するか本国へ連れ帰るのを旨とする。
鉄道や道路などのインフラは富を持ち出すためだけに整備するのだ。

そういう定義で考えると、日本人は植民地経営をしたことがないといえるだろう。
併合した二つの地域には電気、水道、下水道、鉄道を敷設して道路や港などを調えただけでなく、教育制度も整備して文盲をなくそうと努力した。
小学校、中学校。
さらにそれぞれの地域に帝国大学まで設立した。
普通、教育制度は整備しないのが植民地政策の鉄則だ。
なんせ宗主国にとって「賢い人」が出てくることほど恐ろしいことはないからだ。
しかもこの近代的な教育制度を整えただけではなく一方の地域には「漢字ばかり使わないで。まず自己の民族に誇りを持つためには文字から」と「原住民」たち自らが使用禁止にしていたハングルとか言う民族文字を彼らのために掘り起こしてやったりまでしたのだ。

これらのために日本の使った金は今の金額に換算すると何十兆円にもなる。
十年前の湾岸戦争と違いこの時は金も人も出したのである。
こんな「宗主国」はどこにもない。
それらを戦争に負けた時「余計なことしやがって」とばかりに帝国主義の総本家の皆さんに根こそぎ没収されてしまったのであった。
この二つの地域に加えて大陸の一部も、この時に日本から没収した資産を礎にして現在の繁栄を築き上げてきたのだ。
だからして文句を言われる筋合いは一切ないのである。

以上、ミャンマー旅行とはまったく関係のない、かなり長い余談。

で、本題へ戻る。
軽いショックを受けた王宮跡から少し走り、鉄道の踏み切りを越えると木立に囲まれたマハーガンダーヨン僧院に到着した。

「まだ、ちょっと早いですね。ウー・ペイン橋へ行きましょう。すぐ近くですから」

自動車は僧院を通り抜けて狭い道を走った。
すると前方に開けたところが見えてきた。それがタウンタマン湖という大きな湖であった。
雨期の終わりというのになんだか水が少ない。
少ないがその湖面には木製の橋が向こう岸まで架かっていた。
橋の手前で車を停めて橋を歩いて渡ってみることにした。
でも、この橋。どこかで見たことあるような...........。
橋の入り口に近づいて行った時、ふと私の脳裏に一つの風景が思い浮かんで来たのであった。

つづく

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マンダレー周辺には観光スポットが点在している。
とてもではないが一日で廻りきれるものではない。
もともと列車の到着した日と、今日の二日間をマンダレー観光に宛てていたのだが、先に長く述べたように列車が19時間も遅れてしまったために貴重な一日が削られてしまったのであった。
尤も、マンダレーの観光が一日少なくなった反面、予定通りなら絶対に訪問することのなかったタッコンという田舎町や、沿線の風景を楽しむことができたのだった。

とはいえ、マンダレー観光に使える時間が半分になってしまったことに変わりはない。
従ってダイジェストに廻ることになってしまったのだ。

大理石工房やあやつり人形のお店などを訪問した私たちは、次にマンダレー郊外アマラプラという街にあるマハーガンダーヨン僧院を訪れることにした。
この極めて記憶するのが難しく舌を噛みそうな名前の僧院は、朝の托鉢から帰ってきた数百人もの僧侶が朝食を摂るところを観光客に見学することを許しているところで、かなり重要なスポットなのであった。

「ここが王宮跡なんです」

僧院に向かいエヤワディ川沿いの商店や住宅が混在するところを自動車で走っている時、ガイドのTさんはそのマーケットなどが集まっていた一画を指さして言った。

「はあ、あそこが王宮、なんですか?」
「そうです」

となれば、マンダレー駅前の掘割に囲まれた広大な王宮はなんなのだ?

「あそこで、マンダレー最初の王様が王宮を造ったんです。そのあと、今の王宮が造られました」

つまり、マンダレーに都を置いた最初の王様が王宮を設けたのがこの場所だというわけらしい。
実際のところミャンマーの歴史は非常に長く、マンダレーに首都が置かれたのは近世に入ってからのことになる。
初めてミャンマーにやって来た時、ヤンゴンからほど近いバゴーという街を訪れたが、そこにも王宮跡があり、いったいどこが本来の首都なのかまったく分らなくなったくらいだった。
バゴーに王都が置かれたのは15世紀頃で、ここは名君の誉れ高き女王が統治したことでミャンマー史上に燦然と輝く時代を築いたという。
それもそのはず、あのタイのアユタヤ王国を滅ぼしたのはこのバゴー王朝で、タイは暫くの間、このミャンマー・バゴー王朝の勢力下に置かれた。
ミャンマー人のTさんに言わせるとバゴー王朝の女王はタイの人々にも親しまれているという。
その時代から下ること数百年。
マンダレーの豪族がやがて王宮を建設。マンダレーを首都にミャンマー全土を統治したのだ。

「王宮だったんですけど、みんなイギリスが壊してしまいました」

「なんで、こんな普通の場所にしか見えないところが王宮なの?」という私の疑問を先取りしてTさんは解説をしてくれた。

マンダレーを語るにはミャンマーの悲しい歴史を無視するわけにはいかない。
その1つ目の物証を図らずもお坊さんたちの朝食風景を見学するため僧院に向かう車の中からに目撃してしまうことになった。
マンダレーはミャンマー史における最後の王都であり、その最期はかなり悲惨であった。
時はまさしく日本が明治維新を成し遂げたのと同じ年、1868年、イギリスは強大な軍隊でミャンマーを制圧し王家一族を罪人のように扱いインドに島流しにしてしまったのだ。
ちなみにインドムガール帝国の最後の皇帝はミャンマーのヤンゴンへ島流しにされた。
以来、1948年に正式に独立するまでの約80年間、英印政府の制圧下におかれ塗炭の苦しみを味わうことになる。

イギリスは1942年に日本軍(ミャンマーにとって正義の味方、ちょっと迷惑なところもあったが)が進攻してくるまでの間したい放題、弾圧と略奪と搾取の有らん限りを続けた。
その略奪の中で一番有名なのがマンダレー王宮の玉座のエピソードである。

イギリスはミャンマーの植民地化が完成した後、王宮から王の玉座を運び出し本国へ持ち去った。
この玉座は非常に大きなもので、頑丈なチーク材に高度な技巧の彫刻が施され、全体に金箔があしらわれていた。
そしていたるところにミャンマー原産のルビーやサファイヤなどの宝石類を数えきれないほどちりばめて装飾を粋を凝らした王の権力を誇示するその象徴なのであった。
イギリスはこれをロンドンの大英博物館に飾り、国威を示した。
そもそも日本人観光客の有り難がる大英博物館そのものは盗品の宝庫でもあるが、それは余談。

第2次世界大戦が終ってミャンマーは独立を達成すると、当たり前だがイギリスに対して「私たちの王様の玉座を返して欲しい」と嘆願した。
この時すでにインドに島流しされていた王家は滅んでおり、なおかつ植民地時代に国土、とりわけ社会システムをメチャクチャにされていたため王政復古などできるわけもなく、せめて自分たちの王様の玉座だけでも返してもらおうと思ったのだ。

散々何癖をつけて玉座の返還を渋ったイギリスも国際社会の潮流に逆らうわけに行かず、ついに玉座を返還した。

ミャンマーの人々は喜んだが、その玉座を見てがく然とした。
なんと、玉座にはめ込まれていた総ての宝石類が取り外され、奪われ、どこへ持ち去られたのか分らなくなっていたのだった。
ミャンマーの人々は宝石の跡の穴ぼこだらけの玉座を目にし、イギリスへの怒りと植民地時代に受けた様々な悔しさを新たにしたのであった。

なお、この玉座は現在ヤンゴンにある国立博物館に保存されており実地に目にすることができる。

つづく

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ANAのマイレージポイントがついに目標を達成した。
目標にしていたのは35000マイルを超えること。

先日のミャンマー旅行でついにこのマイレージを達成しのだ。
それで35000マイルを超えるとどうなるかというと、タイのバンコクまで無料で行けることを意味するのだ。

世の中、無料ほど嬉しいことは他にない。
なんといっても宿泊費用と国内の移動交通費および食費だけでタイまで行けてしまうのだから、誠にもって喜ばしい限りだ。
3万円の予算もあれば4泊ぐらい十分に楽しめそうなのだ。

で、マイレージも溜まったことだし、次はいつタイへ行こうかと考えていたら、ふと別のアイデアが浮かんだ。

私は仕事で年に1~2回、沖縄まで出張する。
毎年年度末に官公庁関係の入札で受注した物件の納品に出かけるのだが、幸運にも今年もまとまった受注を獲得し、6月に那覇まで行くことになっている。

そこで、もしこの出張にマイレージを利用するとなるとどうなるのか。
シミュレートしてみると、私はめちゃくちゃ得をすることがわかった。

まず那覇までは当然のことながら国内線での利用になるので使用マイルは15000マイルのポイント消化で済むことになる。
まだ20000マイル残るという勘定だ。
で、会社には当然のことながらマイレージを使って出かけたことを黙っておいて正規の航空券代を請求する。
驚いたことに大阪~沖縄間の正規航空運賃は大阪~バンコク間の格安チケットよりも高価なので、出張費用でバンコクまでANAだけでなく、好きな航空会社を利用していけることになる。
さらに、バンコク行きの切符を「買う」ことになるのでマイレージが4000マイルほど付いてくるのだ。

で、その付いてきたマイルを使う必要もなく、実は15000マイル使った残りの20000マイルで中国か台湾へ無料で行くことができるのだ。
つまり、沖縄へ一度だけ出張するだけで、私はバンコクと台北もしくは香港への旅をゲットできるというわけだ。

ん~、マイレージと頭は使いよう。
なんとも有り難い話ではないだろうか。
でも、そう上手く行くかどうかはわからない。
無料ほど、怖いものもないからだ。

(予告)
明日からGWスペシャル!
好評旅行記「ミャンマー大冒険」を連続掲載します。ほな!



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だいたい旅行というのは「ゆっくり」「楽しく」「落ち着いて」するものである、と私は思っている。
だからして私の旅のスタイルは大体に於いて旅行期間中1つか2つの都市にじっと滞在するのを常にしているのだ。(例外もある)
ところが、世の中には、この「ゆったり旅行」を真っ向から否定するツアーが存在するのだ。
まったくもって理解に苦しむ、わけの分らないツアーなのだ。
どう訳が分らないかというと、旅行期間中ず~と移動し続ける旅行なのだ。
移動し続けるといっても豪華客船の旅でも豪華寝台列車の旅でも、キャラバン隊でも探検隊でもない。
単に複数の「街」や「名所」だけを訪問するためだけの旅行なのだ。
私は、そういうスタイルのツアーのことを「トライアスロン旅行」と呼ぶことにしている。
なぜななら、異様に体力を必要としそうな旅行だからだ。

先週、クレジットカード会社から月刊会報誌が送られてきた。
封筒をビリビリと破いて中身をとり出すと、いつもの月刊誌と一緒に何枚かの広告チラシが入れられていた。
そのチラシのうちの一枚に次のようなものが含まれていた。

「カナダ周遊ハイライト七日間」

と題されたそのチラシを見て私は腰を抜かしそうになった。

カナダには親友の一人が住んでいることもあり、以前からカナダに行って手料理でも御馳走にならなければならないな、と思っていたのだがこういうツアーでは絶対にお断りだ。
ま、一人旅をモットーとしている私にツアーは関係ありませんが。

で、そのツアーの凄まじさ半端ではなかった。

カナダのハイライトを七日間で廻る。
確かに魅力的に聞えるが、日本の国土の何倍もある国のハイライトを七日間である。
で、訪問する街や名所をチェックすると凄まじい。

日本を飛立ったエア・カナダの航空機でまずはお決まりのバンクーバーへ。
続いてカルガリー、ほんでもってバスでバンフへ。
さらにそこからキャンモア、カナディアンロッキーと足を運び再びカルガリーから空路トロントへ。
トロントではブルージェイズの試合など一切観ることなくナイアガラ瀑布へ移動。
で、またまたトロントへ戻って空路バンクーバーで乗り継ぎ成田帰国。

死ぬぞ、このツアー。

間違ってもらっては困るのはこれが七週間の旅ではなくて七日間の旅であるという点だ。
七日間で訪問する場所が七ヶ所。
これをトライアスロン海外旅行と言わずしてなんという。

大阪万博の時に、各パビリオンを回って入場パスポートにスタンプをついてもらうというアトラクションがあったが、この海外旅行はそういう「スタンプ押すだけ」のアトラクションか。
チラシの中には「ゆったり温泉」などとも書かれているが、たった一晩途中の温泉に寄ったとしても、なにがゆったりか。
第一カナダの温泉は日本の温泉旅館とは大きく異なるはず。
湯船に浸かってゆったりと、などというわけにはいかんだろう。

旅行費用は209800円から。

価格はともかくこのチラシを見て「素敵」と思うか「アホか」と思うかは人それぞれ。
でも、めったに旅行しない人は選ぶんだろうな。
こういうウルトラクイズみたいな旅行を。

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コメディ俳優のジーン・ワイルダーを知ったのは日曜洋画劇場で放送された映画「ヤングフランケンシュタイン」でだった。
ジーン・ワイルダーとマーティ・フェルドマンとマデリン・カーンのお馬鹿トリオが織りなすドタバタ劇は何もかも新鮮で刺激が強く映画少年であった私を夢中にさせてくれた。
難を言えば、この作品には多少「狂気」が混ざっていたことぐらいだった。
しかし、この「狂気」こそ監督メル・ブルックスの作風であることは、他の作品を見ることによりすぐに納得するに到ったのであった。

映画「プロデューサーズ」を初めて見たのも深夜のテレビだった。
新聞のテレビ番組欄を見ると「ジーン・ワイルダー」の名前が記されているので、どうしても見たくなりビデオ録画して観賞したのだった。が、その狂気さはヤングフランケンシュタインを遥かに超越し、正直いって見ている途中でビデオデッキの「停止ボタン」を押してしまったくらいヘンチョコリンなのであった。
「プロデューサーズ」の前年に公開されたニューシネマの金字塔「俺たちに明日はない」に端役で登場したばかりの若いジーン・ワイルダーはさすがにこの時はまだ、アカデミー賞にノミネートされたとはいえワイルダーらしさに欠けるものであった。
しかし、映画そのものには、他のコメディとは明らかに異なる「あまり好きになれない」個性が存在したのだった。

とはいえ、以降メルブルックスの映画をかなりの本数を見ることになった。
狂気さに拒否反応を示しつつも結局はブルックスの作品は私の性に合っていたということができるだろう。

そして40年近くの年月を経て、唯一私が取っつきにくいと感じていたメル・ブルックスの作品「プロデューサーズ」が蘇った。
しかもミュージカルとして。

ブロードウェイミュージカルの完全映画化として公開された「プロデューサーズ」は前作の狂気をさらにエスカレートさせてはいたが、その狂気さが良い意味で大輪の花のように開花して高度なエンタテーメントの溢れた作品に仕上がっていた。
はっきりと宣言したい。
「プロデューサーズ」はめちゃ、面白いぞー!

映画の導入部がすでに往年のMGMミュージカル真っ青なダンスとコーラスシーンで始まる。
もう胸ワクワク、ドキドキ。
映画や舞台ファンにはたまらないオープニングだ。
しかし、MGMの名作ミュージカルと異なるのは、その歌詞の中身。
「下らないショー」
「早く終りやがれ」
「途中で帰っちゃうぞ」
と、にこやかに出演者が歌う歌の歌詞は下品、お下劣、悲惨、ロクデモナイものなのだが、その暗ーい陰気な歌詞を陽気に楽しく満面の笑みを浮かべて歌うものだから、見ている観客のこっちとしても妙に楽しくなってきてしまうのだ。
そういう心理になったら、もうペースはブルックス。
映画「プロデューサーズ」の世界にどっぷりと引き込まれてしまっていると言うわけだ。

ともかく舞台をそのまま映画に持ち込んだような構成で、ロブ・ライナーが「シカゴ」を映画用に大幅にアレンジして製作したのとは異なる映画なのに「強烈なステージパワーの漲る」作品になっている。
ともかく何もかも狂気というエネルギーが爆発転しているわけだが、「ミュージカル」という解毒剤が、その「狂気」を中和して、近年稀にしか見ることのできない楽しい作品に仕上がってるのだ。

ともかく、一見の価値はあり。

もし映画の音楽に合わせてリズムを取っている自分に気づいたら、またまた映画館へ足を向けることになってしまうこと請け合いである。
で、この映画を見ることについて一つのお約束。
それは一度劇場に入ったらエンドクレジットが終了するまで絶対に席を立たないこと。
そして映画の最後に出て来た役者さんを見て「誰なの、あの人」なんて絶対に言わないこと。
若い映画ファンの君。
そんな失礼なことは言ってはいけない。
なぜなら「あの人」こそ、この「プロデューサーズ」の原作者でもあり脚本家で作曲家、作詞家、そしてプロデューサーであるメル・ブルックスその人なんだから。

~「プロデューサーズ」2005年 コロンビア映画・ユニバーサル映画配給~

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今回は私の勝手な考え(いつもですが)が多分に含まれていることを、とりわけバファローズファンの方にお断りしておきたい。

色々な意見はあるだろうが1989年の日本プロ野球のヒーローはやはり近鉄バファローズの阿波野秀幸投手だったと私は思っている。
当時入団3年目。
毎年15勝以上の成績を上げ続けてきたエースはこの年、29試合に登板し19勝。
リーグ優勝に貢献した。
シーズン終了後には親会社近畿日本鉄道の看板特急アーバンライナーの広告にもビシッと決めたスーツ姿で登場し、名実ともに近鉄グループの顔となった。
ところが翌1990年、阿波野投手の成績は急降下することになる。
なんとか10勝を上げることはできたものの、前年まで2点台だった防御率が4点台に下落。以降2000年に横浜ベイスターズを引退するまで、ついに二ケタ勝利を上げることはできなかった。
阿波野投手の1990年に訪れた「突然の低迷」の原因を成績表から探ることはできない。
なぜならそれは心理的な要因で、それらは数値として記録されることは永遠になかったからだ。
阿波野投手の心理的プレッシャーになったもの。
それは剛腕ルーキーの登場であった。
そのルーキーの名前を野茂英雄といった。

マイケル・ルイス著の「マネー・ボール」はアスレチックスの元GMビリー・ビーンにスポットを当て、メジャーリーグの新しい潮流の一つを描いたノンフィクションだ。

メジャーリーグの各球団の選手の総年俸には大きな開きがある。
お金持ちの球団とそうでない球団との差は年々広がっており、本書で採上げられているアスレチックスの年俸はヤンキーズの三分の一。
その少ない予算でワールドチャンピオンを目指し、金持ちチームとシーズンを戦い抜いていかなければならないのだ。
高い年俸を出すことができるチームは必然的にメジャーを代表するようなプレーヤーの獲得が可能であることを意味し、このため一般的に金額の多寡は勝利へ結びつく直接的な要因のひとつと考えられている。
だから総年俸の大きいヤンキーズは強いということがいえるのかも知れない。
しかしヤンキーズの総年俸の三分の一のアスレチックスがここ数年好成績を収めプレーオフの常連となっていることは、どう説明すれば良いのだろうか。

この背景にあるのが本書「マネー・ボール」で描かれているフロントによる独自の選手分析である。
つまり、高年俸の打率優秀、防御率優秀な選手が、必ずしも「結果を残せる」選手ではないということに初めて注目し、埋もれた選手や他球団が欲しがらない言葉は悪いが「キズモノ」の選手を掘り起こしていくのが秘策なのだ。
「本塁打を打つのか、それとも三振するのか以外、打球がフィールド内に飛んでいき、それが安打になるかどうかは数値で読めるものではない。運である」
という意味合いの考え方や、
「記録される数値の中には、安打になったとき、守備の選手はどの位置にいたのか、どのような体勢をとっていたのかは『記録されることはない』」
というような野球の捉え方はユニークである。
確かに打球が安打になるのは、単に打者の打率が良かったからというのではなく、守る側の守備位置やコンディション、天候などが大きく影響しているはずだ。
「誰も注目しない埋もれた選手を発掘する」
「高校生をドラフト一位指名するのは投資としてナンセンスだ。発展途上の高校生は先が読めない」
という考え方もまた、保守的なプロ野球の世界では異端であり斬新な考え方であったのだ。

重要なことは、本書で扱われている内容が「ベースボールはビジネスである」という視点で描かれていることだろう。
確かにベースボールは言われるまでもなくビジネスだ。
が、ほとんどの球団が多額の債務を抱えているような劣悪な経営状態の中で高額な年俸を勝てもしない選手に支払っているというのは、たとえそれが現実だとしても野球チームはまともな企業とはいえないのだ。
だからと言って、簡単にチームを売り払っても良いものか。
そこに文化と伝統しての野球があり、簡単に片づけられない問題がある。

「勝ち数を上げるために必要な投資額」という話は、なにもプロ野球に限った話ではない。
その勝ち数を増やすために一般のビジネスシーンでは、野球での勝率や打率、本塁打本数、失策率などよりも、遥かに多くの情報を収集し分析するのが当たり前になっている。

ここで冒頭に戻るが、もし、野茂英雄というルーキーを入団させることで、エース阿波野が精神的なプレッシャーを受け、その後のチームの成績にかかわってくるということが分析されていたのであれば、球団は違った選択をしていたかもわからない。
精神的な問題。
「女房や恋人とケンカをした」
「些細な自動車事故を起こした」
「子供が風邪をひいて熱をだしている」
「ヤツには絶対に負けたくない」
という精神的要素は容易に数値に表すことができないのだ。
しかし本当のところ。そういう精神的な要素も数値や記録として残さなければ、正確なビジネス判断を誤ることになる。

「マネー・ボール」ではメジャーリーグという野球ビジネスを単なるショーではなく高度な投資ビジネスのように捉えているところがまたユニークであり、魅力的である。
株式投資は無数のデータを収集し、電算機など最新のソフトウェアを駆使して分析すれば必ず勝利をうることができる、という考え方を野球にも持ち込んでいるのだ。

サッカーはルールが紙一枚。
野球は書籍になると言われているが、野球の場合はサッカーに比べて実際はそれ以上にウンチクの溢れたスポーツなのだ。
野球の周辺に屯するプロ、アマチュア、ファン、一般人など多くの人々を株式や物理を研究するように、その世界に没入させていく恐ろしい力を秘めている。

それにしても、野球はなんて理屈が多く、かつ広がりのあるスポーツなのだろうか。

~「マネー・ボール」マイケル・ルイス著 中山宥訳 ランダムハウス講談社刊~

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他の国の古都がそうであるように、マンダレーもまた工芸の街であった。

金箔工房を訪問した私たちは次に仏像を製作している大理石工房や象牙の工房のある場所を訪れることになった。
タクシーは大通りを南に向かって暫く行くと、今度は西に向かって右折した。
ヤンゴンと違いマンダレーは京都や大阪と同じ升目の街なので方角を覚えられるのが大変よろしい。
タクシーが曲がると正面に立派なお寺が見え、多くの僧侶があるものは托鉢鉢を持ち、あまたあるものは布製の鞄を持ち、またあるものは手ぶらで行き交っていた。

「あのお寺がマハムニ寺です。あそこへは明日の朝寄りましょう」
とTさんは言った。
というのも、マハムニ寺は朝の法要が有名なのだという。
大勢の市民が早朝法要にお参りする光景は一見の価値があり、私自身にとってもお参りすることは良いことなのだという。
さすがTさんである。
日頃の私の行状を知ってか知らずか暗にお釈迦様と面と向かって反省せよとの仰せだろう。
昨日というか一昨日というか列車が19時間も遅れたのはきっと、窓から弁当クズを捨てたことだけが原因ではないであろう。
仕事をサボってカフェで読書三昧していることや、勤務時間中に映画や美術展を見に行ったりしていることを反省せよということなのだろう、と思った。

そのマハムニ寺の正門を左に曲がると両側に大理石の工房が並んでいた。
朝の早くから多くの職工が鑿や鎚を待ち真っ白な大理石を仏像や精霊の形に彫り込んでいっている。
ここでタクシーを下りて私たちは歩いてみて回ることにした。
それぞれの工房は彫像を作っているだけのところと店も一緒に構えているところあった。
もちろん工房を持たない店だけのところもあったが、それぞれ土産物屋なのかそれとも仏像販売店なのか区別がつかない中途半端なところがなかなか渋いのであった。
漫才師のちゃらんぽらんには是非とも来ていただきたい場所なのであった。

白い大理石をお釈迦様の形に彫り上げると、続いて彩色の工程がある。
ちょうど立ち止まった工房では座ったポーズのお釈迦様寝かせて数人の職工が筆と絵の具で彩色を施していた。
上座部仏教の仏像は日本やベトナムなどの仏像と比較して非常に派手であることは前述しているとおりだが、なおかつ美術品というより恐れ多い表現なれども漫画チックなご容姿をお持ちである、というのも特徴のひとつだ。
「上座部仏教の仏像が日本のそれと比べて俗っぽいのは、それだけ『人々の信仰が生きている証拠だ』日本の仏教のように形骸化していないからこその『たまもの』なのだ」
と述べていたのは、名前は失念したが著名な日本の文化学者の言葉であった。
それだけに、作り上げられつつあるこれら一体一体の仏様の表情もなかなかよろしく、思わず見とれてしまう魅力が潜んでいたのだった。
もちろん美術品としての魅力ではなく、仏様から透けて見えるミャンマーの人々の魅力が輝いていたのだった。

土産物屋で小さな象と象牙で作られた串を数本買い求めた。
いや、ここは土産物屋に見えるのだが、もしかすると土産物屋ではないのかも知れない。
なぜなら、買った商品は八百屋でナスビを買った時のように古新聞に梱包され手渡されたからであった。
土産物用のラッピングペーパーなどないのかも知れないがそばにいたTさんも何も言わないので、これが普通なのだろうと思い込むことにした。

工房の並んだ一画にあやつり人形を売る店があった。
店の表はもちろんのこと店の中にもミャンマーの伝統的なあやつり人形が所狭しと並べられ、あるいは壁に吊られて販売されていた。
もちろんこの店もただ人形を売るだけの店ではなく、店の中で人形を製作し販売していたのだった。
人形の組立が店の隅で行なわれていた。
小さなカゴが床の上に並べられ、その一つ一つに手、腕、足、首などの部品が入れられている。
なかなか楽しい。
ドールハウスではないが、あやつり人形の部品を組み立てるのはなかなか楽しそうだ。
もっとも、ここの人たちは仕事で人形を組み立ててているわけだから楽しいかどうかは分らない。
楽しいことももしそれが仕事である場合つまらなくなることも少なくない。
その点私の本業(ヒ・ミ・ツ)なんぞは、趣味にしたとしても面白くない詰まらん職業ではある。
早く、このようなアホらしい仕事(ヒ・ミ・ツ)からは足を洗わねばならないと、せっかく旅に来ているのに一瞬仕事のことを思い出してしまったのであった。

ともかく、あやつり人形はどれもこれも魅力的だった。
表情一つとってみても総て手作りであるため、同じキャラクターであっても同じ顔はしていない。
服装も微妙に異なり魅力的だ。
「一体あたり、だいたいいくらなんですか?」
安ければ買いたいと思ったのだが、値段を聞いてびっくりした。
私は日本と比べて格段に物価の安いミャンマーだからだと高を括っていたのだが、一体数万円という金額を聞いて瞬時に購入を諦めたのだった。
もしかすると店員が示したのは外国人を対象にした「外国人価格」だったのかも知れないし、値決め交渉スタートのお約束高価格だったのかも知れない。
しかしなんといってもこっちは操り人形の正当価格を知らないので商談ゲームをしてまで買うことはないと思ったのだった。
それに現金をあまり持っていなかった、というこちらの事情もある。
もしクレジットカードが使えたりしたら、買っていたかもわからない。
ミャンマーではクレジットカードがまったく使えないので衝動買いをせずに済んだのであった。

それにしてもあやつり人形は欲しかった。
数体買い求めて日本へ持ち帰り、お釈迦様とか鬼とかお姫さまや勇者で織りなす「爆笑コント」などを作ったら受けるだろうと想像したのだ。
きっとサンダーバードのスーパーマリオネーションよろしく結構面白いものができたのではないかと悔やまれたのであった。
が、またこんなことを考えているとお釈迦様の罰が当たるかもしれないので、心を引き締めなければならないと思ったのであった。

つづく

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飛行機に乗っていると客室正面のビデオ画面に高度、速度、風速、風向、現在位置などが映し出されていることが多い。
初めて飛行機に乗った二十数年前にはこんなサービスはなかった。
このサービスは外の景色が見えにくく、しかもちょっぴり怖い乗物という飛行機に搭乗している乗客にとって、とても安心感を与える優れたアイデアだと思う。

実のところ、速度や風向きを表示するこのサービスのメカニズムがどうなっているのか長い間私には疑問だった。
「地下鉄の電車はどこから入れるんでしょうかね」
という古い漫才のネタと同じくらい不思議だったのだ。

電車や自動車なら車輪があるので、スピードは簡単に測定できる。
しかし、船や飛行機、宇宙船はどうやって速度を測定しているのかわからなかったのだ。
とりわけ時速一千キロ近くもの亜音速で飛行する飛行機が、どうやって風のスピードを測るのか不思議で仕方がなかった。
飛行機というのは飛んでいるとはいえ、空中に浮んでいるのと同じなので、正確に計測することなどしょせん不可能なんじゃないか、ぐらいに思っていた。

内田幹樹著「操縦不能」を読んで、初めてそのメカニズムを知ることができた。
尤も知ることができたと言っても、この本は技術書ではなく小説なので書かれていることがホントのことかどうかはわからないが、元大手エアラインの機長が執筆したサスペンス小説だけに、頻繁に登場する客室内の専門用語や技術用語は本物であることは間違いない。
またその専門用語やヒコーキマニアにしか分からないような会話が展開されるのが、この作家の作品の魅力でもあるのだ。

物語は、北朝鮮からの亡命者を乗せた成田発ワシントンDC行きのニッポンインター(ANAをモデルにした架空の会社)のジャンボジェット機が、工作員の謀略により計器による操縦が不能になり340人に乗員乗客が墜落の危機に瀕する。
さてさてどうなるのか?という和製サスペンス小説としては珍しい航空ものである。

この危機を救うのがかつて操縦士候補であった訓練係の一人の女性。
この女性が地上の訓練用シュミレーターで危機に陥っている飛行機の状況をトレス、再現することにより危機をかわしながら着陸できる空港まで誘導して行くというハラハラドキドキのストーリーだ。
この物語の一番魅力的なところが、このフライトシュミレーターの描写シーンだろう。
マイクロソフトのコンピューターソフト「フライトシュミレーター」にのめり込んだ男が実際のジャンボジェットの操縦室に押し入り機長を刺殺して一時的に操縦桿を握るという事件が数年前に発生したが、そういう狂人が現れるほど飛行機の操縦に憧れる人は少なくない。
実際の飛行機を操縦することはできなくとも、一度ぐらいフライトシュミレーターを操って見たいというのが本音だろう。
(どうしても、という人は子供用フライトシュミレーターを体験しに関西空港の展望コーナーへ行ってみよう)
そういう意味で、シュミレーターが舞台の一つというところは、この小説の見どころの一つだといえる。

物語終盤の詰めのあまいところが小説としては不完全な気がしないでもないが、ヒコーキマニアには十二分に楽しめるドラマではないだろうか。

~「操縦不能」内田幹樹著 原書房刊~

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「日本は韓国に悪いことしてきたんやから竹島ぐらい韓国にあげたらええんちゃうの」

当ブログのご意見番の一人、ハンドルネーム船長さんの情報によると、桂米朝一門の重鎮で、枝雀一門筆頭である落語家の桂南光氏が関西ローカルのテレビ番組で上記のような発言をしたという。

いつの頃からかお笑いタレントがテレビ番組で知識人然として政治経済に関するシッタカコメントを述べるようになった。
この傾向は島田紳助氏が報道番組のキャスターになったあたりからではないだろうか。

本来、漫才や落語、講談といった演芸のなかで語られる政治ネタ、経済ネタはウイットに富んだ笑えるものでなければならない。にも関わらず、最近のお笑い芸人によるコメントは先に述べたように笑えないものが増えてしまった。

「辻元清美さんは執行猶予中の身ではありますが、積極的な行動力は評価できるでしょう。選挙運動は頑張ってもらいたいもんですね」
というのは河内音頭取りの河内屋菊水丸氏がラジオで度々語っていた内容だ。
どういった経緯で執行猶予が付いているのか。どういう理由で前職を解雇されたのか。そして選挙資金やその基盤となっている組織がどういう反政府雨滴組織であるのかを、菊水丸氏はまったく理解していないのか覆い隠そうとしている。

「ブラックバスの駆除は外来種への差別である」
と発言するのは元シンガーの清水国明氏。
誰が最初に放流したのか不明だが、琵琶湖で本来生息しないはずのブラックバスが繁殖し、琵琶湖の在来種であるニゴロブナや鮎などが生態系を荒らされて激減している。
これを問題視した滋賀県や地元漁協がブラックバス退治に乗り出したら、清水氏は自己の支持者を集めて冒頭のステートメントを発表した。
まるでブラックバス駆除が外国人差別であるような表現だ。

お笑いが口にする政治経済ネタは、本来市井の人々が口にしたいけど誰も言わない、なかなか言えない本音を笑いというオブラートに包んで発言するから面白かった。
ボヤキ漫才人生幸朗生恵幸子の漫才の面白さはその代表だった。

日本人は普段腹が立つことがあっても口に出して直接主張する文化を持ち合わせていないのが特徴だ。
むしろ不満や反論があっても、それを口にしないことが美徳というのが日本文化だ。
だから「日本は悪い」と言われても口では反論せずに、態度で示してきた。
「日本は歴史を歪曲している」と言われても、正論をもって話し合いをし、むちゃを言う二つの隣国との妥協点を見つけようと努めてきた。
しかしそのどれ一つをとっても理解されないばかりか、逆手にとって玩ばされているのが現実だ。
で、日本人は怒っている。
猛烈に怒っている。
でも、口に出さない。
だから、
「日本は韓国に悪いことしてき、たんやから竹島ぐらい韓国にあげたらええんちゃうの」
と見当違いなコメントを発するお笑い芸人は、日本の芸人という意味で完全失格と言えるだろう。

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