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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



アウンサン・スーチー女史が「「私を自宅に軟禁した人に敵意は抱いていない。警備担当者はとても良くしてくれた。彼らには(ほかの)国民にも同じように接してほしいと思う」とアナウンスした。
これはこれまでの姿勢を転換して軍事政権とも手を取り合って国を変えていこうという姿勢にとりたい、と私は思った。
これこそこの人の父が目指した国家建設の基本思想で、じつのこところ、軍政を敵対するこれまでの姿勢は父のやり方と相反するものもあったはずだ。

実際、ミャンマーではスーチー女史の支持は少なくないだろうが、マジョリティを占めるものでもないように感じたことがある。
公の場では政府批判の発言ができない人たちも、影では暗に政府の日頃の悪政を非難し、それをテーマにした歌も出回っていた。
「これ聞いているのをバレたら、大変なことになるんですけどね」
とその若い二十代の彼はウォークマンを聴きながら、聴いている歌の歌詞を教えてくれた。

アウンサン将軍は大戦中から終戦後暗殺されるまでの僅か短い間に主張していたのは、民族の壁を越えた祖国の安寧と繁栄で、そのために全ミャンマー国民は協力しなければならない、ということを主張していた。
この「民族の壁を越えて」という方針が、独立阻止、または独立されても権益を保護したい英国に都合の悪い政策であったことは間違いない。
と言うのも、英国はミャンマー国王を追放してからの植民地政策の第一は「民族対立による英国に対する民衆蜂起の抑制」にあったからだ。

当初スーチー女史は英国籍で、英国で教育を受けたということもあり英国人の考え方で父の国で活動してしまった。
元駐ミャンマー日本大使の山口洋一氏によると、かつてスーチー女史はクリントン政権におけるオルブライト国務長官と日ごと国際電話でアドバイスを受けていたという。
ミャンマー人が最も嫌うのは、かつての侵略者英国とそれに加担している米国である。
オルブライトからのアドバイスを受けとるというのは、国民感情的にもいかがなもかと思ったのだった。

今回釈放されたスーチー女史が軍事政権とも協力していくという意味合いのことを語ったことは重要で、この国の将来に少なからず光明が差してきたと言えるだろう。

よく、マスコミ報道で誤解されやすい部分にミャンマー政府は中国共産党よりも悪どく、北朝鮮国家のような国という印象を与えるが、実態はまったく違う。
だいたい、問題はあるものの、ミャンマーは総選挙を実施する国であるということ。
事実1990年に実施した総選挙は真面目に行なわれた。
そのためにスーチー女史の支持政党が圧勝するという、軍事政権にとっては想定外の事態に発展し、現在に至っている。
そして少数民族との紛争地域を除いて、許可の必要な場合もあるが、ほとんどの地域への入域が可能だ。

なお、ミャンマーは大の親日国であることも忘れてはいけない。
そしてまた、ミャンマーは経済制裁のために中国とのつきあいを多くしているが、大の中国嫌いの国であることも覚えておく必要がある。
さらにまた、ミャンマーは大の資源大国であることも重要な要素である。

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気球祭りは気球を夜空に上げて、そこから打ち出される花火芸術を眺めるだけが魅力ではない。
各地域地域の老若男女、とりわけ女性や子供たちが赤や緑の提灯を提げて練り歩くミャンマー版提灯行列も魅力的だ。

メインストリートの両側はレストランや屋台で埋まり、通りそのものも人人人.....。

その中を奇麗に着飾った少女たちの提灯行列が練り歩く様はなかなか風情がある。
もちろん写真に収めるのもまた楽しい。
しかしながら街灯も少なく、灯が十分でないのが写真撮影には辛いところだ。
正直言ってストロボ無しのフィルム撮影はまず無理。

上の写真はISO800モードのデジカメで撮影。
良い写真を撮ろうと思ったらISO1600以上で撮影できるデジタル一眼が必要になるだろう。

で、私はというと、次回訪れることがあればビデオカメラを持参したいと思うのである。



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今年はどういうわけか一度も国外に出ていない。(前にも書いたな、こんなこと)
したがって大好きな外国、ミャンマーやタイにも行っていないのだ。

ちょうど一年ほど前、私はミャンマーのシャン州を訪れていた。
ちなみにちょうど二年ほど前も、私はミャンマーのシャン州を訪れていたのだ。
つまり二年続けて秋の深まるシャン州を訪れていたわけで、なんとなく「シャン州が懐かしいな」と思い出したのが、写真の気球祭り。

昨年は気球祭りの季節に訪れたものの、祭りの行われているタウンジーには寄らずにカローという山間の小さな町だけを訪れてきた。
カローで日本語学校を営んでいる生きた歴史の証人とも言えるミャンマー人の先生に会うためであった。

その先生とのお話は別の機会にご紹介するとして、そのときはカローの町そのものも地元の祭り(花火祭り=私はこっちも大好き)に浮かれていたが、ヨーロッパやロシアからやってきていた観光客の皆さんはバンをチャーターして一時間半ほどをかけタウンジーの町へ気球祭りに訪れていたのだ。

気球祭りの期間、タウンジーのホテルは予約が不可能なくらい混雑する。
このタウンジーは高原の山の斜面にある大きな町で、第二次大戦中は日本軍の拠点のあった街として、年配の方ならご存知だろう。
タイ系であるシャン州のミャンマー人(シャン族)の料理は、脂っこいミャンマー料理と異なってタイ風で結構おいしい。

辛い系も豊富だが、あっさり系も少なくなく、とりわけ麺類がめちゃ美味しい。

そういう美味しい地元料理を食べたり、ダゴンビールやミャンマービールなどという日本ではめったにお目にかかれない地元のビールをいただきくのもまた格別。

大空に上げられた気球からは花火が大輪の花を咲かせ、これまた打ち上げ花火とは違った不思議な世界を演出してくれる。

両年とも私以外に数名の日本人ツアー客を見かけたが、フランス人やスペイン人より数が断然少ないのが、かなりさびしい。
シャン州はサイクロン被害もなかったろうから、今年も盛大な祭りが開かれていることだろう。

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私らしくないというか、今年はまだ一度も国外に脱出したことがない。
この原因には様々な要素が絡んでいる。

1.仕事する部署が変わったため休みを取り辛くなってしまった。
2.オイルサーチャージなる訳の分からん航空券のチャージが莫大になってしまった。
3.国内での用事が忙しい。
4.パスポートの期限が切れた。

などなど。

尤も、1は本来なら部署が変わったくらいで旅行を取りやめることは無いのだが、やはり私でなければ出来ないことが山ほどあり、まとまって休みを取ることが難しくなっていることは事実だ。

ところで、秋になると秋祭りが盛んになる。
私のお気に入りの国、ミャンマーでも秋になると祭りが各地で繰り広げられ、その賑やかなものを目にするのは結構楽しい。

「え?ミャンマーみたいな南の国に秋なんてあるの?」

という疑問を抱くあなた。
あなたには是非、ミャンマーはシャン州の秋祭りに訪れていただきたい。

シャン州はミャンマーの東北部に位置する大きな自治州で、人口を主に構成するシャン人はタイ人の親戚である。
タイのことを1930年代まではシャムと読んでいたが、シャムとシャンは同じと私などは理解している。
従って、シャン人の多くはタイ語を解すので片言だけタイ語を解すことの出来る私には便利だ。
と思っていたのだが、昨年チャイントンという町へ行ったとき、
「この地元のガイドさんはタイ語がわかりますよ」
と聞いて、タイ語で話しかけたが私の発音が悪かったのか、相手にバカにされたのかどうか、
「わからない」
と英語で言われた。

で、私はシャン州の祭りのなかで「タウンジーの気球祭り」「カローの花火祭り」「カックーのパオ族の祭り」を体験したことがある。
いずれの祭りも地球の歩き方には紹介されておらず、現地に行ってから知った祭りだ。
シャン州の州都タウンジーで開かれる気球祭りは数十万人の観衆が訪れる壮大な祭りだし、カローの花火祭りは素朴だがメチャ楽しい。
カックーのパオ続の祭りはカラフルで賑やかだ。(写真はカックーの祭りの山車)

サイクロン被害でメチャクチャになっていると思い込みのミャンマーだが、シャン州は問題なく観光できる様子。

ヤンゴンからはヒコーキで旧日本軍が作ったヘーホー空港までひとっ飛び。

あ~、シャン麺を食べたい!

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勘違いするといけないので、予め断っておくと上はちょうど去年の今ごろ、ミャンマーのヤンゴンに近いバゴーという街を訪れた時の写真。

私は土砂降りのなかゴールデンロックで有名なチャイティーヨーパゴダを参拝したが、あまりに雨がひどいのでホテルで前日からまる一日を過ごし、境内にお参りすることなく下山。

「シッタン川は渡れるんやろか」

という不安のもとバスに乗車。
無事シッタンの鉄橋を渡りバゴーまで戻ってきた時の光景が写真の通り。

街は低所は洪水で沈み、その中をバイクや自動車、自転車などが行き来する状態。
バゴーの寺院へのお参りもそこそこにヤンゴンへ向けてハイウェイを走り始めたが、車窓からの形式にぼう然とした。

ハイウェイ両側の田園地帯は全て洪水に沈み、ハイウェイも片側車線が完全に冠水して片側対面通行になっていた。

「政府はなにかしてくれるんですか?」

という私の問いにガイドのTさんは、

「するわけがありません。」

政府は何もしないと明言したのに付け加え、洪水でダメになった田んぼの借金を農民が背負うことになり、またまた生活が苦しくなるという話をしてくれた。
ミャンマーは一種の社会主義国家体制ではあるわけで、社会主義であればこういう大災害が起これば国や州は総力を挙げて国民を救済するミッションに勤めなければならないはず。
でもこの国では被害に遭った農民やその他の人びとが新たな借金苦を背負うのが関の山で、国は何もしないのだという。

そのミャンマーが昨年の洪水など話にならないほどの被害をサイクロンで受けているという。
CNNで放送された映像を見る限り、ヤンゴンの中心部でも被害は相当な模様で、災害のことなどまったく留意せずに建てられた木造住宅の多い郊外はきっと壊滅状態になっているに違いない。
また木造住宅なんてのは良い方で、ニッパヤシで建てただけの掘っ立て小屋のような田舎の乏しい農民の住居などは吹き飛ばされているに違いない。

ミャンマーの軍事政権はやっと各国の出先機関に対して救助を要請したようだが、遅すぎやしないか?

この災害で被災した市民を救済するのはきっと軍ではなくて僧院などの仏教機関。
家を失った人たちが頼るところはお寺しかないというのが実情だろう。
また、人を救うのが出家の仕事。
きっとお坊さんたちがあれこれと世話を焼いているに違いない。

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「ミャンマーがサイクロンの攻撃あって宇宙空母ギャラクティカの出動を待っている」
なんてふざけたブログを書いていたら、ホントに大変なことになっていたのでビックリしている。

3年前のインド洋大津波では我が自衛隊はどこの国よりも先駆けてタイのプーケットにいち早くその護衛艦を派遣したのだったが、今回は何をしているんだ、と私は言いたい。

軍事政権に遠慮、というよりも軍事政権を非難している英米の政府に遠慮してか、インド洋に展開している我が艦隊にミャンマー救助の命令を発していないのである。
嗚呼、ミャンマー、もといビルマでは先の大戦時に17万人の日本人将兵(台湾籍・朝鮮籍含む)がかの国で非業に倒れ、あるいは病に侵され帰国の困難に立ち会ったのであったが、会田雄次著「アーロン収容所」に記されている通り、戦に敗れた日本人を暖かく遇してくれたのはミャンマーの人たちなのであった。
それなのに、ああ、それなのに。
日本は......冷たい。

尤も、我が自衛隊は当該国からの救援要請がない限り動くことはできないので仕方がないともいえるが、私が繰り返し訪れているヤンゴンは壊滅状態。
なんとかしてあげたいと思うのが人情だ。

テレビのニュース(CNN)で確認したところ、サイクロンはアンダマン海で発生し、私の好きなビーチ「グエーサンビーチ」辺りに上陸し、パテインからヤンゴン、そしてバゴーを襲ったらしい。
どの街も、行ったことのある街と地域で、私は大きなショックを受けているのだ。

インターネットのニュースによるとヤンゴン市内の街路樹は軒並み倒れ、道路を塞ぎ、電柱は家の壁に突っ込んでいるという状態だ。
私の定宿「パークロイヤルプラザ」がどのようになっているのか、今のところ判然としないが、いつもお世話になっている旅行社のHPは一時的にアクセス不能に陥っていたが、昨日夕方、復活しているのを見て一安心したところだ。
私のお世話になっているガイドで友人のTさんはすでにヤンゴンどころかミャンマーを脱出し国外で住んでいるので安心しているのだが、お世話になったお坊様や、一緒にご飯を食べた僧院の子供たちはどうなったのか、大いに心配しているところである。

外務省の役人の皆さんはGW休み中らしく「海外危険情報」にも今回のサイクロンのことは書かれておらず、間抜けとしか言いようがない。
ちなみに在ヤンゴン日本大使館も日本人学校のHPも更新されず、サイクロンの被害は伝えていない。
多分、アクセスできないのだろう。
ミンガラドン国際空港も閉鎖されているらしく、現地の日本人はどうしているのだろうか。
○○さんはダイジョブなのだろうか。

ただでさえ経済的に乏しいミャンマーのこと。
これからの復旧が大変だ。
イカサマ選挙している場合やないやろう。

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久しくミャンマーにもタイにも行っていないので、無性に旅に出たくて仕方がない。

「このGWは旅に出ません」

と、宣言したのは言いけれど、

「...........大丈夫ですか?.......アタマ」

と何人かの部下たちに心配をかけたりしている。
決意は揺らいでいないのだ、やっぱりあの「の~~~~~んびり」とした空気が忘れられないので、今日はバガンの空の写真でブログをアップ。

ミャンマーのバガン。
世界三大仏教遺跡のこの場所は、素人カメラマンのバカちょんカメラでも、ここまで写せるすごいところです。


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本日ブログは小休止。

写真はミャンマーのミッチーナで写したやんちゃっぽい小僧さん。
ミッチーナはミャンマーでは例外的なキリスト教徒の多い街でお寺の数と教会の数が半分半分というところ(私の目測)。

ヤンゴンから飛行機で3時間ほどかかるけど、なかなか悪くないところです。
食べ物の味がいまいちだけど。




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またもやミャンマー軍政の横暴だ。
なんと、今度は私の大好きなヤンゴン動物園が新首都ネピドー(ピンマナ)に強制移転させられつつあるのだという。

ヤンゴン動物園といえばアジアでは我が日本の上野動物園次ぐ歴史ある動物園。
未だミャンマーが横暴極まれる英国の植民地であった時代に設立された生きた歴史の証人でもあるのだ。
その動物園が、今度は横暴極まれる自国の軍政によって300キロ以上も離れた片田舎の新首都に移転させられつつあるのだという。
これを怒らずしてなんという。
私は動物園のカバさんやゾウさん、風呂に入ってノンビリしていた熊さんたちを忘れることはできない。

私はここの「カバのエサやり」が大好きだった。

子供の頃、大阪の天王寺動物園のアシカのプールの前でエサのイワシを母に買ってもらい、それをアシカに与えるのを動物園訪問の楽しみにしていた。
二年前、ヤンゴン動物園を訪れると、カバにエサをあげることが出来ることを知り、これは面白いと思ったのだった。
なんという植物なのかは知らないがカバのエサとして売られていた緑の葉っぱを買い求めカバ舎に近づくと、それだけでカバが私の方に「ノッソ、ノッソ」と歩いてくるのだ。
それはまるで奈良の猿沢池の鯉のごとくなのであった。
ただ、カバの愛嬌のあるところは顔が「ニ~」っと笑った表情であることと、巨体短足に親しみがあり(私の体形と似ている、というわけではない)鯉よりも相手としてはるかに楽しい。
但し口を開けるとちょっとビビってしまうほど大きくてグロテスクなのが玉に瑕だが、そんなハンディキャップは慣れてしまえばなんでもないのであった。

このように、旭山動物園もビックリの日本でも体験できない様々な「エサやり」アトラクションのあるヤンゴン動物園が政府の横暴による強制移転によってなくなってしまうことに私は胸を痛める。
(ちなみに私が旭山動物園を訪問した時、日本最北のカバさんはマイナス18度の旭川市の極寒のなか、屋外で「ぷうぇ~」と鳴きながらたたずんでいた。ヤンゴンのカバさんのほうが幸せそうだ。)

エサ売りのオジサン、オバサンたちはどうなるのか?
サトウキビの大好きな愛嬌あるゾウさんたちはどうなるのか?
近づくと手を出してきて何かを貰おうとするマントヒヒさんたちはどうなるのか?
肝心のカバさんたちは、エサを貰うことが出来るのか?

ネピドーは無理やり作られた新首都だけに、住んでいるのはほとんど公務員。
公務員の月給12ドル。
カバたちはエサを買ってもらえるのだろうか?

ともかく、政府の我がままのために動物園を移転させられるなんて聞いたこともない。
体裁を重んじるタンシェ議長率いるミャンマー軍政。これを恥だとは感じないのか?

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4年前の秋のこと、ミャンマーのヤンゴンからマンダレーまで夜行列車で旅をした。
その距離、約600km。

飛行機なら1時間と少しだが新幹線もないミャンマーのこと、14時間が所要時間。
ヤンゴンを夕方3時に出発して翌朝マンダレーに到着する。

というのが予定だが、私の場合、27時間かかった。
その理由は、
「途中で豪雨のために鉄橋が流されたから」

思わぬ事態に停車予定のないタッコンと言う駅でほぼ12時間足止めを食らうことになった。
写真はその時に写したタッコン駅で遊んでいた子供たち。
タッコンは現首都ネピドーから100kmぐらいの小さな街。

あまり良い評判の聞かれないミャンマーだが、こんな表情の子供たちのいる国であることを考えると、メンタル面では日本なんかよりよっぽど健康で正常な国なのかもわからない、と訪緬のたびに考えてしまうのだ。



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