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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



「このまま放っておくと、何を『仕出かすのか分からない』というのが安倍政権です」
「日本の制裁で北朝鮮の態度が益々硬化して、困る人たちが出てくるわけです」

朝7時台のNHKラジオの聞いていると耳を疑いたくなるようなコメントが飛び交っている。
ほとんどが聞いたこともないような大学の講師や教授陣、NPOの人たちのコメントだ。
ビックするすることに、コメントに共通しているのは「反体制」。
このコメントだけを聞いているとNHKは共産党の機関放送局かと思えてくる。

内容が目茶苦茶なこの「国営放送局」が逆ギレを起こした。
受信料未払いの視聴者(NHKを見ていない可能性もあるが)を裁判所に訴える行為に及んだのだ。

「全国民はNHKに受信料を支払わなければならない」などという法律は存在しない。
国営放送と言いながら、実際にはNHKは予算に国の承認は必要ながら「国営」ではない。
ましてや受信料は「税金」でもない。

見たくないもの、料金の価値のないものに対して私たちはその金額や支払い方法に対し、意見を述べたり、支払いを拒否したりする権利が存在する。
もしテレビを持っていたとしてもNHKを視聴していないのでれば、NHK受信料なんぞ払う必要はこれぽっちもないと考えるのが当然だ。
冒頭のうように、国家国民にとって利益となるようなコメントととはとても思えない発言をさも理論的な考え方のように垂れ流す放送局に国民全員が料金を支払ってやる必要があるのか疑問である。

「拉致問題の放送を命令」
されなければ日本の主張も国際放送で伝えない放送局。

受信料の強制徴収はそのあたりの問題をクリアしてからやってもらいたいところだ。
このままでは、単なる逆ギレですよ、みなさまのNHK。

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「2年以上国内で働いている研修目的で入国している外国人は雇用保険や健康保険に加入の義務がある」
とわざわざ厚生労働省がアナウンスしたのは先週だった。

最近は多くの場所で外国人の働く人を見かけるようになってきた。

私が毛嫌いしている大阪のローカルスーパー「スーパー玉出」も無法者企業ならではか、レジ係などに外国人労働者をよく目にするそうだ。
それもアジア系の外国人。
アジア系の外国人が日本国内で働くというのは非常に難しいのは多くの人が知っている事実。
にもかかわらず、なぜか「レジ係」という職種をこなしているのだから、きっとトリックがあるに違いない。

スーパー玉出に限らず、最近は定食屋で働くアジア系の外国人が多い。

今朝、朝食を食べた定食屋も店番が外国人だった。
なんといっても「鮭定食ちょうだい」がなかなか通じず「お、外国人か」とビックリした。
東京だけでなく、大阪の私の会社の近くの定食屋にも東南アジア系らしき給仕の女性が働いている。

私はなにも「外国人労働者はいけないよ」と言っているのではない。
中途半端な法律で雇用するなといいたいのだ。

世にフリーターや派遣社員という名の職業の日本人が増えている。
彼らの多くは日給月給の厳しい生活。
それでも職を得ることの出来るのはまだ良いほうで、単純な仕事なら黙って働く外国人労働者に職を奪われることも少なくない。

ドイツ、フランス、イギリスなどは労働力の不足を外国に求め、そのツケが今まわってきていて混乱している。
日本がそうならないためにも、中途半端な法律はアナウンスするよりも廃止したり作り直したりするべきだ。

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一週間の予定で東京出張の予定が入った。
一ヶ月以上前から「行かなければ」と分かっていた出張だったが、航空券の確保を怠り、都合のいい時間の飛行機が関空発、伊丹発とも満席になり、結局新幹線で行くことになった。

初めから神戸空港が候補の入っていないのは言うまでもない。

ということで大阪市営地下鉄御堂筋線のなかもず駅発5:58分の千里中央行きに乗り込んだ。
朝の御堂筋線は空いていた。
私のように出張にでかけるビジネスマンや、アルバイト社員とおぼしき人たちの姿がみられた。
このごく普通の人々の中に、ひときわ異彩を放っていたのが「ストレッチおじさん」であった。

ストレッチおじさんは隣との車両の扉に一番近い3人掛けの優先席に座り、なかもず駅を出発と同時にもくもくとストレッチを始めたのだ。
おじさんは60歳くらいの痩せ形。
顔は昔懐かしい「くしゃおじさん」風で、黒縁の眼鏡をかけていた。
そのおじさんは座席シートに両手を突くと、やにわに右足と左足を、サッ、サッとあげ始めた。
まるでラインダンスである。
このおじさんの足の高さはつり革に接近するくらいの高さに達し、周囲の視線を集めたのは言うまでもない。

おじさんは長居駅に到着するまでその動作を繰り返し、長居駅から天王寺駅までは両手でふくらはぎや太ももを叩く、マッサージを始めたのであった。

それにしても見事の光景だった。
このおじさん、周囲の迷惑も顧みず毎朝ストレッチに励んでいるのに違いない。

なお、こんな早朝の電車には当分乗りたくないので、おじさんを目撃することも当面ないと思われるのである。

メデタシメデタシ。

(JR蒲田駅近くの宿にて)

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子供たちの小遣い稼ぎと表現してしまえばそれまでだが、彼らを相手にしていると、ガイドをしてくれた少女だけでなく、彼らとの交流は結構楽しめるのだ。

タビィニュ寺院という、このバガンでは最も巨大な部類に入る寺院を訪れた時のことだ。
この寺院には絵はがきや手札サイズの水彩画、バガンの写真集などを売り歩いている少年たちが数人いた。

「本当に、どうなってんだんか分んないんですよ。あっちに行っても、こっちに行っても、絶対にその子が土産物を持って立ってるんです。もう信じられないって感じで」

と昨夜、皆で夕食を食べている時に石山さんが、驚くべきバガンの土産物売りの少年に遭遇した話しをはじめた。

寺院は大体に於いて東西南北の四方向に対してそれぞれ入り口があり、それぞれにまたお釈迦様の像が安置されているわけだ。
パゴダの内部は四角い回廊となっていて、中には見事なばかりの壁画と数多くの仏像が並んでいる。
外部に通じる出入り口や明かり取りの窓は、それはそれで見事としか言いようのない美しい光景が展開されている。

で、問題の少年は東西南北にあるどの入り口にも瞬時に現れ「まるで瞬間移動ができるみたい」な恐るべき能力を備えていると、石山さんは話していた。

「で、そこ何処なんです?」
と、私が訊ねると、
「それが名前を覚えてないんですよね」
との返答だ。
無理もない。
ここバガンに限らずミャンマーの地名、人名、お寺の名前などの一般固有名詞は、日常生活に於いて私たち日本人が接することのほとんどない名称ばかりで、覚えること困難であることこの上ないのだ。

もっとも、この覚えにくい名称はなにもミャンマーに限ったものではなく、お隣のタイや(私が行ったことのない)カンボジアをスキップしてさらにその隣のベトナムでも同じようなことが言える。
ただベトナムに関してはよくよく名称を聞いてみると漢字に当てはめることが出来ることがわかり、その後の記憶は「音」プラス「漢字」という漢字文化圏特有の方法をとれないこともないが、それとて実際は例外なのだ。
だから私は石山さんの「名前を覚えてないんです」という答えイコール「作り話」などとはまったく思わなかったのである。

で、その石山さんが指摘した少年がいたのは、ここダビィニュ寺院であることが石山さんと別れてから判明したのであった。

初めその少年は私とTさんの姿を見かけても、あまり関心を示さずに普通の素振りを見せていた。
「なんか買ってくれませんか」
ぐらいのことは声を掛けてきた。
で、そのミラクル移動は私たちがパゴダの中に入った途端始まったのであった。

私とTさんが中の薄暗い回廊を歩いていると、まず最初の窓のところにその少年が連続綴りになった絵はがきをダランと垂らして、ニコニコしながら私たちを見つめていた。

「なんですかね、あの子?」
「ハガキを買ってもらいたいようですよ」

で、とりあえずこちらもニコニコしながら無視して通り過ぎ、次の面の回廊を歩いていくと次の窓の向こうには、もうその少年が同じ姿勢で立っているではないか。

「あ、石山さんが言ってた子はあの子だ」
と叫んだのはTさんであった。
確かに。
石山さんの証言の中に、「もう、ジャイアンそっくりな子なんです」というのがあった。
まさしく、絵はがきを持って窓の向こうに立っているのは容姿がドラえもんに出てくるジャイアンにそっくりな少年だったのだ。

「次の窓にもいるんですかね?」
「どうでしょう」

とまたまた無視して通り過ぎると、微かに表を走るペタペタという足音が聞えた。

「Tさん、あの子走っているよ」
「走ってますね」
私たちはなんだか可笑しくなってきた。
で、彼の期待を裏切るべく反対方向へ戻ることに決めた。しかも足音をさせずに。
「あの子どうするでしょうかね?」
「.....ハハハハ」

いつまで経っても私たちが現れないので、ネタがバレたことの分った少年は一目散に私たちが向かった反対方向へ向かって走り出したようだ。
私たちが、その反対側の窓で「ハハハ」と笑って待っていると考えるのは、甘い。
私たちは少年の慌てて走る足音を確認すると、もといた窓にたどり着く前に、またまた180度方向を変えて、静々と小走りに歩いた。
もとの窓に走ってきても私たちがいないので、少年は嵌められたことに気づきまた方向を変えて走り出した。
「次の窓を飛ばしましょ」
「急げ!」
私たちは次の窓へ少年が到着する前に全速力で通過して、もともと入った入り口のところにやってきた。

そこへ息を切らしながらジャイアンが駆け込んできたのだ。
ザマーミロ。
べーだ。

ということで、まるで鬼ごっこだった。
ここミャンマーのバガンまでやって来て、地元の少年と鬼ごっこをやることになるとは思わなかった。
Tさんもガイドをすっかり忘れて鬼ごっこを楽しんでいるのであった。
おかげでパゴダの中の壁画や仏像を見るのはすっかり忘れてしまったが、なかなか面白い体験をさせていただいた。

私は楽しい体験をさせてくれたお礼に少年から絵はがきを買い求めた。

少年はこの地の小学生で今日は午前中が学校。
午後は小遣いを稼ぐため働いているのだといった。

つづく

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帰路につく石山さんを見送り、私はTさんの案内による寺院巡りを再開した。

「ここがシェージィゴーンパゴダですよ」
と連れられてきた、相変わらず覚えにくい名前の寺院は、朽ちた遺跡となってしまった寺院ばかりのバガンでは珍しい、今も活き活きと人々の信仰を集めているキンキラキンの寺院であった。

さっそくTさんに案内をしてもらおうと、まずは入り口付近にある四苦を表した仏像や彫像の解説をしてもらった。
出家経験もあり仏教に造詣の深いTさんは四苦について詳しく説明してくれた。
四苦とは四苦八苦の語源なのであるが、今やなんのことやらサッパリ分らん、という人々が多いので少しく解説すると次のようなものである。

その昔、インドの小国カピラバストゥーの王子にゴーダマ・シッダルータという方がいらっしゃった。
この王子は子供の頃から人々の幸せとはなにか、人はどうして生きているんだ、などという哲学的なことを熟考する傾向が強い今風に言うと少しく暗い性格の方だった。
ある日、バラモン教の聖者に連れられ東西南北四つの門を訪れた。
1つ目の門には癩を患った病人がおり、2つ目の門には足腰の立たない老人がおり、最後の門には死人がいた。
残り一つの門には生きている自分自身がいる。
人はこの病や老いや死からは決して逃れることが出来ない。
そして生きることさえ苦痛なのだ、ということに気づかれた王子はこの四つの門で体験したことをきっかけに出家し真実を探る修業の旅に出かける。
この方がやがて菩提樹の下で悟りを得て、多くの人を精神的に救う目覚めた人、つまりブッダ、お釈迦様となるのであった。

などということを中学生の時に愛読した手塚治虫の「ブッダ」というマンガのいくつかのシーンを思い浮かべながら、私はTさんの解説を聞いていた。

その時であった。
Tさんの解説を上回る、巧みな解説者、つまりガイドさんが現れたのだった。
せっかく更生し、真面目にガイドの仕事に戻ってくれたTさんの解説を横から奪い取ったのは、可愛い小学校五六年生くらいの少女であった。
インド系らしい整った顔立ちの少女で、キラキラと輝く大きく美しい目が印象的だった。

彼女がTさんになにやらミャンマー語で話しかけた。
「ハハハ........この子が『案内しましょうか?』って言ってますけど......どうします?」
少女は微笑みを浮かべて私とTさんを見つめる。
「......ん、じゃあここは一つ、彼女にガイドを頼むこととしますか」

彼女は身振り手振りとミャンマー語の解説でこの寺院の由来や成り立ち、そして歴史について丁寧に語りはじめた。
Tさんは彼女が少し話すごとに笑顔で日本語に翻訳し、私に彼女の話の中身を教えてくる。

どこでどういうふうに勉強したのか分らないが、彼女の知識はなかなかなもののようで、プロのガイドであるTさんも感心しきりであった。

パゴダは時計回りに回るというシキタリがある。
左肩をお釈迦様にお見せするのは失礼であるという考えに基づくものだという。
私とTさんは少女の案内でゆっくりとパゴダの周りを礼儀に従って時計回りに歩いて、彼女の解説に耳を傾けていた。

もとの入り口にもどったところで解説が終了。
感動したTさんが私よりも早く彼女にチップを渡した。
私ももちろん気持ちよくチップというか小遣いを渡したのは言うまでもない。

「本当はガイドは免許が要るんですよ」
とTさん。

初めてミャンマーに来た時にも聞いたのだが、ミャンマーでは観光ガイドは国家資格となっていて、資格のない者が闇でガイドを営業すると厳しく罰せられることになっている。
どのくらい厳しき罰せられるのかというと、軍事政権が罰するのだから、想像するだに恐ろしい、と思う。
Tさんにしても同じだ。
彼女の持っている免許は日本語ガイドとしてものなので、資格のない英語やスペイン語、中国語などのガイドをすると免許を持っていたとしても罰せられるのだ。
例えは悪いが普通免許を持っていても大型車を運転できないのに似ている。

「でも、あの子はいいですよね?」
「当然です」

少女に免許は必要ない。
これがイタズラや闇で儲けようという、トンデモガイドなら笑えないが、彼女の子供ながらにしっかりした解説は好感が持て、ほほ笑ましくもある。

ミャンマーでは彼女のようにアルバイトをして家計を助けたり、自分の小遣い稼ぎをする子供たちは少なくない。
例えば、ミャンマーでは小学校でも教科書などの教材は有償なので親が買ってやるか、買う金がなければ貰うか、子供自らが働いて学資を稼がなければならないのだ。
どこかの国のガキのように、自分の望が叶わないからといって強盗を働いたり、ホームレスに襲いかかることもないし、総てに失望したと宣って自ら命を絶つこともないのだ。

乏しいはずのミャンマーの子供たちは豊かなはずの日本人の子供たちよりも、遥かに生きるための逞しさを備えているのであった。

つづく

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ロシア人亡命者、アレキサンドル・リトビネンコ氏が死亡した。
原因は毒殺。

ロシアという国がマルクス・レーニン主義を捨てて15年が経過した。
その間、ロシアには資本主義システムが導入され、プラウダやタス通信といった国営メディア以外の民間経営の新聞社やテレビ局も登場した。
言論もかなり自由となり、暗い表情のソ連人から、明るいスラヴのロシア人へと変貌した。
ただ一つ変わらなかったものがひとつある。

それは「ロシア政府の闇組織」である。

今回、ロンドンの寿司店で毒を盛られたというリビネンコ氏も、先日殺害されたジャーナリストのアンナ・ポリトフスカヤ記者も「KGBのよくやる手口」で殺されているという。
これはいったい何なのか?

ロシアの大統領にウラジミール・プーチンが就任してから、ロシアはソ連邦時代へと逆進行している。
もしかするとKGBも新たに組織し直し、政権のための闇の事業を再スタートさせたのかもわからない。
大国だから非難される謂われはないと、人は言うかも分らない。
しかし、ロシアの現状は確実に言論の自由を失わしめ、かつてのロシア帝国がそうであったように、隣国を次々と武力で持って征服し、民族を虐殺、または移民させる、狂気の時代へ向かっているように見えるのだ。

日本企業とのエネルギー開発を一方的に反故にする。
無抵抗の漁民に背中から機銃を浴びせかけ殺害し、その上司である船長を捕まえ罰金を払わす。

大韓航空機を迷うことなく撃墜したあの時代が迫りつつあるのかも知れない。


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ミャンマーを扱った唯一のガイドブック「地球の歩き方」にどうして掲載されていないのか。
その理由を知りたくなる祭りがミャンマーにある。

タウンジー市の「気球祭り」

先日のミャンマー旅行での最大のイベントが、このタウンジー市(シャン州)の気球祭りだった。
この気球祭りの凄いところはその人出。
私が祭りに訪れたのはクライマックスを迎える最終日で、おそらく100万人以上のミャンマー人旅行者とヨーロッパ人を中心とした外国人観光客と、若干の日本人観光客が訪れるビッグイベントなのであった。

どのくらい凄いかというと、このイベント中、夕食を食べられるレストランを探すのが並大抵ではなかった。
名物のシャン料理はもちろん、ビルマ料理、中華料理、西欧風ファーストフード店に到るまで、どこもかしこも満席で、店のひとも忙しすぎて、ちっとも構ってくれないのであった。

肝心の気球が上がる会場は、文字通り鮨詰め状態。
幸いなことに、軍事政権のお偉方とその家族が陣取るVIP席のすぐ横に、外国人専用観覧席が設けられていたが、そんなところでは気球や、気球に仕掛けれらた美しい花火を見られないので、結局地元の一般の人々と一緒に祭りを眺めることになる。

「ちょっと、外国人の観覧席で休憩したいんですけど」
と警備の兵隊さんにお願いしたら、日本人に見えない私に疑いの眼差が、
「........いいよ。ところで、あんた何人?」
「日本人」
「おおおお、日本人か!」
ということで、笑顔で難なく外国人席へ入って休憩。
もちろんガイドのTさんも、国家資格のガイド免許を提示したら笑顔で外国人エリアに。

「すご~い!」

気球祭りは初めてというTさんも感嘆しきり。

ミャンマー連邦国シャン州の州都タウンジー市の年に一度の気球祭りは必見!
ミャンマーへの旅行を計画している人には絶対お進め。
ゴールデンロックやバガンだけがミャンマーじゃない!

(平成18年11月4日撮影)

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ここ数年、アメリカの世界的信用が著しく低下している。
もしかするとアメリカ合衆国には初めから信用なんてなかったのかもしれないが、アメリカ文化を伝えるプロダクツ「映画」「テレビ」には、世界的信用が存在したと思う。

では、なぜアメリカの世界的信用が失墜してしまっているのか。
それは最後の超大国だったはずのアメリカに中国やインドといった新参ライバルが出現したためでもあるが、その信用失墜の原因はやはりジョージ・W・ブッシュ大統領。
その人にある。

「世界の反米ジョーク集」はアメリカという国家の矛盾をアメリカ以外の国の人々とアメリカ人自身の口を借りてジョークという形で描き出している、楽しめる新書だ。
それもそのはず、著者兼編者の早坂隆氏はここ数カ月のあいだ書店の販売トップテンに名前を連ねる「世界の日本人ジョーク集」の著者兼編者なのだ。

考えるまでもなくアメリカ合衆国ほど、世界にとって迷惑な国はない。
この国にはどんなささいなことであっても、自分の主義主張に合致しなければ徹底的に叩く、という性癖がある。
しかも叩かれる対象に「石油」「天然ガス」「鉱石」「交通の要衝」などの条件が一つでも含まれているる場合は、その叩き方は異常になり、まったく関係ないイザコザに巻き込んででも、力で占領してしまう(例:イラク)ことも辞さないのだからたまらない。
その徹底した暴力を大航海時代の「(キリスト教の)神の名の元に」と同じ発想で「民主主義の名の元に」と宣って正義の行動と主張し、正当化してしまうので性質が悪い。

本書を読むと近年、アメリカの大統領にふさわしい人材が乏しくなっているということに気がつく。
というのも、ジョークの数々を読んでいくと現職の大統領絡みの「悪口」ジョークが多いのは仕方がないが、ビル・クリントンやジミー・カーターといったジョージに勝らずとも劣らない最低の人物が輩出されていることに気づかされるからだ。

第2次世界大戦後の世界には「アメリカは強い」「そして正義だ」というイメージが存在した。
ところがベトナムに敗れ、イランに敗れ、そして国家でさえないアルカイダに敗れ、今、中東世論に敗れようとしている。

ジョークでアメリカを振り返ることは、新聞の紙面には描かれない世界人類の本音が描かれている。
そこが本書の最大の魅力なのだ。

~「世界反米ジョーク集」早坂隆著 中公新書クラレ刊~


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ベトナムの首都、ハノイで開催されていたAPEC会議が終了した。

ベトナムといえば60歳以上の世代の人はすぐに「ベトナム戦争」を頭に思い描くことになるのだろうが、今は違う。
ベトナムといえば、
「ニャンチャンの美しい海岸」であり、
「サイゴンのショッピングエリアやオシャレなカフェ」であり、
「フエの王宮跡」であり、
「メコンデルタの豊かな農産物」であるわけだ。

もちろんそれだけではない。
ベトナムは東南アジアでは最も注目された新興工業国でもある。
政治的に不安定で、品位に劣る中国で苦労するよりも同じ環中国圏で、なおかつ自分たち日本人にとてもよく似た民族性を持つベトナム人は日本企業としても中国に代わる新しい工場進出地として注目を浴びている。
なんといってもアメリカが「一緒に仕事をしたい」と希望を述べるまでになったベトナムは、私のお気に入りミャンマーと比べて、日本企業も進出し易いのは言うまでもない。

この観光ブーム、日系企業進出ブームに沸くベトナムで、みんな忘れていることが一つある。
それはここが「共産主義国家」であるということ。

ベルリンの壁が崩れ去ってから早20年近く。
マルクス・レーニン主義はその本家本元ロシアでも姿をひそめ、もはや中国と北朝鮮くらいにしか残っていない埃をかぶった思想なのだ。
で、ベトナムもその数少ないうちの共産主義国家。
ビジネスをする上での解決すべき問題は少なくない。

知的所有権は特にそう。
街中をホンダ「みたいな」マークを付けたホンダと同じデザインのバイクが我が物顔で走っている。
国営百貨店の家電製品売り場では、日本の家電製品の横で、その家電企業グループのアメリカ映画の海賊版が販売されている。

法整備もまだまだで、危なっかしいといったらありゃしない。

ともかくベトナムブームの影に隠れる共産主義。
中国や北朝鮮とはかなり違うが、旅行者はともかう企業は十分に注意しなければならないところではある。

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バガンへ戻ると昼食の時間になっていた。
ニャンウーの街はずれにあるレストランで石山さんと最後の昼食。
ここで石山さんとは、今度こそお別れで、私たちはバガンの観光を続け、石山さんは午後のヤンゴン行きの飛行機に乗って帰路につく。

ところで、いつも私は「旅は一人でするもの」と決めていた。
だからいつも一人でタイでもシンガポールでもアメリカでもベトナムでもブラブラしてきたのだ。
ところが、ここミャンマーでの旅は私の旅のスタイルを大きく変えようとしていた。

「これがミャンマーを訪れる最初で最後になるかも知れない。効率良く廻るために思いきってガイドさんを雇おう」

というのが、最初にミャンマーを訪れた時の私の計画だった。
旅費はそこそこかかるし、日本からも直行便が運休中なのでちょっと遠い。
きっと一度訪問したら、次に訪れるのは何年も先になり、またまたタイやベトナムといった行きやすい国をめぐることになるんだろう、という程度に考えていた。
ところが、事態はまったく違った形に発展していった。
初めてヤンゴン国際空港に降りたって、当時研修中の新入社員だったTさんを案内人として旅を始めると、彼女の人柄も相まって、いつもと違う楽しさが私の旅に加わったのだった。

その結果、ミャンマーへの旅は一度では終らず、再び訪れる国となった。
その二回目のミャンマーの旅で、こんどは石山さんという東京出身の陽気な女の子を友とすることができた。
私には、このミャンマーという国には何か特別な能力が備わっているのではないかとさえ思えるのだ。
ミャンマーを訪れた多くの日本人が、この国を無性に愛し、そのあまりの熱愛を表現するために「ビルマにめろめろ」という意味の「ビルメロ」という言葉まで生み出した。
私もその「ビルメロ」の仲間入りを果たしてしまったらしい。
単にミャンマーは世界三大親日国の一つ、では片づけられないものがあるのだ。

「日本人のお墓がたくさんありますよね。私たちって、昔の(日本)人たちの作り上げたものを、今、食いつぶしていってるような気がしますよね」

昼食中、石山さんが真面目な顔をして、ふと漏らした言葉が私の胸を打った。
陽気な江戸っ子娘である石山さんから、まさかそういう言葉を聞くとは思わなかったのだ。

ミャンマーには第2次世界大戦中に亡くなった多くの日本人将兵の墓が点在している。
ここバガンにもある。
その墓を大切に守ってくれているのが、固有の墓をもつ習慣のないはずの一般のミャンマーの人たちなのだ。(上座部仏教は普通、特定の墓を持たないことが多い)
それを目にして日本人が抱く感慨は、個々によってそれぞれだ。

先の大戦を知るもの若くして散っていった自らの友に対して涙し、大戦後に生を受けた者たちはこのミャンマーの大地に命を捧げた多くの先人と、一緒に戦い斃れていった朋友アジアの人々に対し、今ある自分たちの繁栄を感謝し、涙するのだ。

Tさんといい、石山さんといい、ミャンマーは素晴らしい人たちに出会える、素晴らしい国なのであった。

........今日は随分と真面目に書いてしまった。

つづく


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