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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



「毎週、金曜夜は会社で中国語会話のレッスンがあるんです」
英会話スクールのクラスメートに受講しているレッスンの曜日を水曜日から金曜日に替えてもらおうと思っていることを話したら、彼は寂しそうにこう言った。
最近、中国との取引が増えてきて中小企業でも会社で中国語の教育を実施しているところが少なくない。
日本の中国との貿易額は輸出入合わせて13兆円。この額は米国について二番目の数字だ。
多くの会社が中国に工場やオフィスを構え、多くの人が東シナ海を行き来している。
3年前、めったに葉書など書いて寄越すことのない従兄弟の一人が、突然の挨拶状を送ってきた。
「このたび会社の大阪工場の閉鎖に伴い杭州転勤を申し付けられました。このため家族ともども中国に渡り、生活することになりました。これまで色々お世話になりありがとうございました。皆様もご自愛くださいませ。」
との挨拶文が印刷されていた。
彼の会社は大阪にあった工場をたたんで、今後生産はすべて中国大陸の自社工場で行うことになったのだという。
そのため生産技術を受け持っていた彼は、中国への転勤を余儀なくされ、定年退職までの杭州勤務が始まったということなのだった。

最近はなんでもかんでも中国製。
スーパーで買う野菜や魚介類も中国産。電気屋さんで売ってる家電製品も中国製。百円ショップなんぞはほとんど中国製品の専門店。
中国嫌いの私は、商品を買うとき産地選びが大変だ。

先日、ある得意先の営業マンにつれられて、関西地方のとある漬物産地を訪問した。
「ある漬物会社が事務所の一新を図っているのでオフィス家具やPCシステムのPRに行くんだけれど、一緒に来ない」との誘いをもらい、興味本位で同行したのだ。
この漬物産地は全国的に有名で。地元の役所にはその漬物に特定した課まである。
全国シェアもなかなかで、健康食としても重宝されているから「売り上げが下がった」などということは聞いたことがない。
顧客の工場の前で車を降りると漬物の酸っぱい強烈な臭いが鼻を襲ってきた。
建物も古びてボロボロで、今回やっと立替え拡張の運びになったのだという。
事務所に入ると、ここもボロボロ。今どき見かけないダークグレーの事務机が並んでいる。
上履きのスリッパに履き替えて応接室に通されると、総務課長と社長が入ってきた。
挨拶もそこそこに家具のPRをはじめると、仕様に関する細かな質問が社長さんから繰り出される。漬物屋のくせに工業製品のことをよく知っている。創業者と聞いていただけになかなか勉強家のようである。
やがて「ほんで、これ一式でなんぼなん?」と社長に訊かれて価格を提示。それを見た社長がニヤッと笑ってひとこと言った。
「中国でつくらんかい。」
オフィス用の家具は量販用や通販用の商品を除いて今も国産が一般的。ディノスやニッセンのカタログに掲載されている商品なんかと比べたら、かなり割高だ。
社長は商取引で頻繁に中国を訪問し、現地でさまざまな接待攻撃にあっていて、大の中国好きのよう。中国人は接待上手だから、この社長もまんまと策略に引っかかっているのだろう。
だから「上海の最新オフィスのようなデザイン」で「中国製の家具がいい」と言うのだろう。
しかし、こちらの製品は日本で作って日本製を謳ってる。あんたんところは中国から材料仕入れて、日本でちょっと漬込み「県特産」なんかと宣っている。これって、ちょっと詐欺でないの?
そこで私は社長に言いたい「日本でつくらんかい。」
と。

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今から約150年前、日本は有史以来の危機に直面した。
嘉永6年。アメリカからの強圧的なお客様、ペリー提督率いる東洋艦隊が浦賀沖にやってきて、250年間にわたる徳川時代という平和な時代に終止符が打たれたのだ。
「通商を認めよ」
「港を開港せよ」
「鎖国を解いて、外国人への入国の自由を与えよ」
武器を携えたお世辞にも紳士的とは言えない彼らの態度は全国各地の武士階級をはじめ、あらゆる人々を憤慨させた。やがてそれは過激な攘夷運動に発展し、多くのテロルを生み出していくことになった。
ペリー艦隊の登場は、日本人が世界の中の日本人として初めて自覚する機会を与え、その結果、日本史上初の愛国精神(勤王精神)が全国土を包み込み、徳川幕府の存在意義を問うようになり、これがやがて倒幕運動、新政府樹立につながっていく。

当時、世界は帝国主義がもっとも盛んであった時代。とりわけ英国とフランスが日本への侵略の魔の手を伸ばそうとしていた。
「日本も支那やインドのように扱えば大丈夫」
などと彼らも考えていたが甘かった。
まず英国艦隊が薩英戦争で手痛い敗戦を喫してしまい、責任者はロンドンの議会で糾弾された。
つづいて下関での長州藩との領土割譲交渉で、長州側の優秀な外交官(高杉晋作)にやり込まれ、インドや東南アジアの国々とは事情がかなり異なることを痛感せねばならなかった。
日本を帝国主義の魔の手から守り通したものは武士階級を中心とする国民個々の高い教育水準と、純粋無垢な愛国精神(勤王精神)であったことは間違いない。
明治を築いた先人たちは強者のみが生き残れる時代にあって太平洋戦争に敗れるまで、石ころ一つ外国に奪われなかった。

しかしこの幕末期において、たった一人、おかしな行動をその信条にしていた高級官吏がいた。
その名前を小栗上野介という。
勝海舟の政敵として知られる小栗は幼少より秀才を謳われ若くして高級官吏への道を歩み始めた当時最高の文化人であった。
その高い教養でガチガチに固められた佐幕主義は、融資をきっかけに日本の権益全てを奪い、幕府を操り植民地にしてしまおうと画策しているフランスとの悪魔の握手も厭わなかったのだ。
勤王精神などどうでもよく、単に徳川政権の継続のみに固執して、武器や設備、教育に至まで、日本侵略を企むフランスの金にすがった人物が小栗という文化人なのだった。

第二次大戦後、文化人の必読紙として、その地位を確立してきた新聞が朝日新聞。
革新的思想をもつ学者や教師、学生たちに尊ばれ、「知識階級は朝日を読む。サンケイなんて三流紙」と言わしめたのは、そんな古い話ではない。
その「文化人の必読紙」朝日新聞の連載コラムに「竹島を友好の島に」と題した売国記事が掲載された。
領土問題で注目を集めている竹島を、この際、友好の印に韓国にくれてやり「友好の島」にしましょうという、普通の頭で読んでみると「狂っている」としか思えない趣旨のコラムなのだ。
執筆者の若宮啓文という朝日の論説主幹は「戦争できない日本は平和のために竹島を韓国に譲ろう」などと宣っているエセ文化人だ。
ここに記されている「日本の平和」こそ、戦後朝日が呪文のように唱え続けてきた「ちんけな平和」にほかならない。
この「朝日だけの平和思想」を貫くためなら、自国の領土割譲も厭わない、おまえは平成の小栗上野介か。

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とりがら映画評

上映時間169分。
とてつもなく長い映画だったが、実際に観賞してみて感じた時間の長さはとても短いものだった。
全編にわたるアップテンポな語り口は客を飽きさせることのないドラマを生み出している。この素晴らしい作品に成功をもたらしたのは巨匠スコセッシの職人芸と、溢れんばかりの力が漲ったディカプリオの演技のコラボレーション以外のなにものでもない。

「カメラを2台、貸してください。」
ディカプリオ演じる主人公のハワード・ヒューズが社交界のパーティでMGM映画のメイヤー社長に映画用カメラの借用を懇請する導入部のワンシーン。
「すまんが、他社には役者も機材も貸さん流儀なんだよ。」
「そこを、なんとか、2台。映画を完成させるためにはあと2台必要なんです。」
「君は、いったい何台カメラを持っているのかい?」
「24台です。」
「24台? で、あと2台必要だというのかね?」

この登場人物たちが交す会話で、すぐさま観客はこの物語が普通でないことに気付くのだ。
映画製作者で実業家、そして飛ぶことをこよなく愛する青年実業家。その主人公の華やかではあるがどこか寂しさが漂っている人生をこの映画は、見事に描いている。
完成させることなどできはしない、と言われていた大作映画を完成させ、ハリウッドのチャイニーズシアターでプレビューをする場面の華やかさ。
ジーン・ハーローやキャサリン・ヘップバーンといったヒューズを取り巻く美人女優たち。
新型の飛行機を操縦し、世界最高速を樹立する冒険家としての名声。
まさに億万長者としての栄華の日々を描いていくのだが、同時に潔癖症と精神の不安定といった心の病との闘いや、愛に餓えた悲しく寂しい人生を対比させ、決して単なる娯楽作品に終らせることのない厳しさをこの映画は持っているのだ。

この素晴らしい大作で観客に楽しませてくれたスコセッシとディカプリオがアカデミー賞を逃してしまったことは不運としかいいようはないだろう。
もしこの映画が昨年度のノミネート作品であったなら、アカデミー作品賞から主演男優賞、監督賞を受賞していたことは間違いない。
ところが、今年は例年になく力作揃いだった。
とりわけ「Ray」でレイ・チャールズを演じたジェイミー・フォックスはディカプリオのとって、生涯最大の競合相手であったに違いない。
先月「Ray 」を観たとき、フォックスの演技は凄いと思った。これはアカデミー賞だと確信した。
しかし、今ディカプリオの演技を見終わって、もしかするとフォックスの演技は確かに凄いものを持っていたが、あれはもしかすると単なる物まねだったのではなかったのだろうか、と思えてきたのだ。
そしてさらにもしかすると、モデルになったレイ・チャールズ自身が昨秋鬼籍に入らなければ、フォックスのアカデミー賞受賞は無かったのではないだろうか、とも思えてきたのだ。

それほど「アビエイター』は演出する者も、演技するものも、百パーセント以上の力を出しきった、観客から観て十二分に満足できる映画だったといえるだろう。
難を言えば、お尻が痛くてかなわなかった。

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とりがら書評

本書は、英サセックス大学教授の故クリストファー・ソーンがその研究成果をまとめた学術論文である。
永らく気になっていた本書だが、価格とその長さに躊躇してなかなか手を出せずにいた。しかし、そのまま放っておくと永遠に読む機会を逸してしまいそうなので、思い切って買い求めたのだ。

本書には書簡や速記録などの膨大な物理的資料と、当事者からのインタビューといった信頼できる調査資料に裏付けされた、太平洋戦争時の連合国の真の姿を浮き彫りにしている。
まえがきに「一部の読者に反対のみならず、怒りの念さえかきたてるものがあるだろうと思われる」という著者による記述が見られるが、本書を読むと、なぜ栄光に包まれていたはずの連合国側の人々が本書の内容に不快を感じてしまうのか、すぐに理解することができるのだ。

ついつい私たち日本人は太平洋戦争、または大東亜戦争というものを自分たちのポジションから眺めてしまいがちである。
しかし、ひとたび勝った連合国側の位置から見てみると、こんなにもドロドロした外交の綱引きが交わされていたことに驚かされる。しかも、本書を読むまで、当然疑問にもっても不思議のなかった事実にさえ、目を向けていなかった自分に気付き、がく然とするのだ。

たとえば本書を読むと、なぜ戦後、私たち日本人が戦っていた複数の相手から、米国のみが日本の占領軍となりえたのかという回答が本書の中には論じられている。
普通なら、英国やオランダ、オーストラリアに中華民国、そしてソ連が日本に進駐し、戦後統率するのが戦争への参加国の構成から見ると自然である。
しかし、現実には終戦時に日本を占領できる国力を保持していたのはわずか米国だけであったことを一般の歴史教育では学ぶことがない。
また、太平洋戦争が始まった時、すでに大英帝国はその領土をあまりに広げすぎていたため、かつてのモンゴル帝国のように、厳格な統一ができなくなりつつあったことや、大戦中すでに「英国はその広大な植民地からの富を搾取し続けなければ大国として維持していくことができない」というある米国の政府高官の冷静な分析があったことは、新鮮な驚きである。
「戦後フランスはもとの大国の地位を取り戻すためには20年以上の歳月が必要だろう」と言われていたことについては、戦後フランスが躍起になってインドシナの主権を主張し、紛争へとつながりディエンビエンフーの戦いでベトナム民兵に完敗してしまう歴史と照らし合わせると合点が行く。
さらに日本という非白人国家が、東南アジアで白人たちを追い回し、インドやミャンマーなどの独立運動家にまがりなりにも独立政府を設立させ、自信をつけさせていくことに対して、米国やイギリスがとりわけ戦慄していたことも興味深い。
ただ米国のみが「植民地の独立」についての考え方が他の連合国と異なっていたことも、私たちが考えることのなかった歴史の中の国際政治と言えるだろう。
この米国だけの違いが、戦後の国際社会における米国の地位を築き上げたといっても過言ではない。

自国の戦争責任を叫ぶ人が、未だに絶えることがない我が国だが、もっと広い視点でとらえなければ、先の大戦の意味を掴むことなどできないだろう。
別の角度から太平洋戦争を眺め、現代と変わらない空恐ろしい政治的駆け引きと、民族、人種の戦いと偏見が渦巻いていたことを知ることができる驚くべき本書は、近代史に興味を持つものの必読書である。

クリストファー・ソーン著「米英にとっての太平洋戦争 上巻」(草思社)

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小学校の6年間というものは、給食をいかに残さず食べるのか、というプレッシャーに押され続けた毎日だった。
毎日毎日、どうしてこんなに不味いものが作れるのか不思議でならないのが学校給食への私の感想だった。
まず、主食のパンが気に入らない。
親が昭和一桁世代だったので、小学校に入学するまでパン食というものをしたことがなかった。だから食事といえばご飯が当然で、パン食なんかオヤツの一つ。おまけに給食で出てくるコッペパンは焼け方も味付けも食べられればそれで良い、というような格好だけはパンの形をした物体だった。
おかずはアルマイトのバケツに入ったシチューやカレー、スープ類。これまた和食の家で育った我が身にはとても食えた代物ではなかった。
「先生たちが子供の頃は、食べるものなどなかったんですよ。(だから)食べなさい。」
と戦中戦後の特殊な時代を例に上げ命令口調の圧力に食器を前に昼休みを潰してしまったことも数知れず。
「そりゃ、あなた。好き嫌いが激しいだけじゃないの?」
というなかれ。ある日のこと、試食会にきた父兄が首を傾げて帰って行ったことを私は知っている。
だから中学生になって一番嬉しかったことは「もう、給食は食べなくていいんだ。」ということだった。これではまるでアーロン収容所から帰還した、もと日本兵とかわらない。

この学校給食に負けず劣らずの味覚をしているのが、飛行機に出てくる機内食だ。
各エアラインが競い合うサービスの代表が機内食だと思うのだが、これがちっとも美味しくない。場合によっては先の学校給食よりも不味いことがある。

初め乗った飛行機は、成田出発ロサンゼルス行きのパンアメリカン。今は潰れて無くなったこのエアラインも、機内食の味を思い出したら倒産するのも当然だったと思えてくる。それほど不味い味だった。
初めての飛行機で、しかも初めての国際線での機内食。ホントは私、めちゃくちゃ期待していたのだ。
離陸して暫く経つと、機内食のサービスが始まった。黒人の男性客室乗務員がワゴンを押して、
「チキン、オア。ビーフ?」と訊いてきた。
私はビーフを注文し、出された食事に胸ワクワク。しかしメインのお皿のラップを取ると、「なんじゃこれは?」と卒倒するくらい、不味そうな匂い(香りではない)が漂いでてきたのだ。
恐る恐るナイフとフォークでビーフを千切り口に入れると、やっぱり不味い。
試しに帰りの飛行機でチキンを注文してみたが、これもやっぱり不味かった。
一年に一度は利用するシンガポール航空の機内食も、これまた不味い。
人気エアラインの一つに数えられているこの会社も、華僑の誇りは何処へやら。離陸早々に配布されるお洒落なメニューは結構だけど、そのメニューと中身が合致しない。フライトアテンダントの容姿なんかどうでもいいから。もっと美味しいものを食べさせていただきたい。そんな気分にさせる機内食なのだ。
これまでいちばんマシだったのは15年ほど前に乗った全日空の国内線。
那覇から大阪に戻る途中にでてきた、サンドイッチのランチだった。あの頃はまだスーパーシートに乗らなくても国内線で機内食が出てきたのだ。

不味い機内食を意識してか、昨年ぐらいから羽田空港を中心に駅弁ならぬ「空弁」が人気を集めている。味音痴の航空会社に任せられないと、空港サービスの会社が結論を出したのか、なかなか美味い弁当を販売しているらしい。
しかし、世の中にはもっと上手が現れた。
エコノミークラスの機内食はすべて廃止すると先週デルタ航空が発表した。でも理由が納得いかない。経費の節減で止めるのだという。私はてっきり、あまりに不味いから止めるのかと思ったが違うらしい。
でも、これで国際線も弁当持参持ち込み可能でアーロン収容所から開放ということか。

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大学時代、大手清涼飲料水会社の配送のアルバイトをしたことがある。ほんの一ヶ月ほどの短期の仕事だったが、かなりハードな肉体労働だった。
ジュースのケースを専用の配送用トラックに荷積みして、担当地域の自動販売機をまわるという仕事だったのだ。しかし、アルバイトだからトラックの運転はしなかった。
助手席に乗って運転している社員のアシスタントをするが主な役割だった。
トラックが自販機を設置している場所に着くと、ネコと呼ばれる手押し車を荷台の下から引き出して、ジュースの箱を積み込む。そして社員と一緒に自販機がおいてある場所まで手押し車を押していくのだ。
あるときは平坦な廊下を、またあるときは階段を上り下り。
夏の暑い盛りのアルバイト。運動会系の肉体をしていない私なので、一日が終わると気が遠くなるほどの疲労を覚えた。

アルバイトの初日。出勤したら制服を支給された。会社のロゴが背中にかかれたつなぎの作業着だった。
しかし少し太っちょの私だったので、体に合うサイズの制服がない。一番大きなサイズなら、ちょっと痩せれば着れるのだが、つなぎの作業着なので窮屈だ。
そこで総務の課長が、本社に連絡して大きなサイズをすぐに取り寄せてくれた。やはり大きな会社は対応が迅速だった。
そのちょっぴり大きな制服がアルバイトを初めて一週間もたったらブカブカになってきた。
毎日の過労で急激に減量してきたために、大きな制服が必要なくなってきたのだった。
これで初めて決まったサイズの制服しか常備していない理由がわかった。

「軍隊では、軍服の大きさが決まっていたので、兵士の体に合ったサイズの制服を支給されるのではなく、兵士の方が制服に合った体にするのだ」と第二次世界大戦に出征していた伯父が語ってくれたことがある。
まさに清涼飲料水会社の制服と同じ。厳しい訓練で、体のほうが制服にマッチしてくるというわけだ。
しかし、ほんとうのところは制服に合わせて肉体作りをしなければならない理由が他にあったに違いない。
物資の欠乏、労働力の不足、そして兵員の訓練と教育時間の不足という、ないないづくしがもたらした、末期的状況が、軍服優先、人二の次という環境を産んだのではないかと思えてならない。
それが証拠に、勝ったほうの米軍に、この手の話はあまり聞いたことがない。
きっと訓練の厳しさ、規律の厳しさは同じでも、物資や人員の補給環境がまったく違ったから、「服に合わせて肉体作れ」などという、人を人とも思わない扱いはしなかったのではないかと思うのだ。

一昨年秋口に、会社のコンピューターシステムが新しくなった。
数年後に計画している上場に備えて、システムを入れ替えなければならないと、社長命令で導入したシステムだ。
意気込みだけはよかったが、開発費用を微妙にけちり、下心見え見えで得意先の関連会社に開発発注したものだから、まったく中途半端なシステムが仕上がった。
製造手配と納期の融通などまったくきかず、顧客の希望に応えらようはずもない。
出てくる伝票も、情報量は多いけど、見づらいレイアウトで現場の作業は大混乱。
「慣れよ、励めよ、文句は言うな。」
数億という費用を開発にかけたシステムだから、
「絶対大丈夫。君たち従業員の使い方が悪いのだ。コンピュータを理解して、お客様にも説明なさい。」
と、社長をはじめ、お偉いさんはみんな言う。_

「自分の体を軍服に合わせよ」といった日本軍は負けたけど、「PCに合わせよ」と言ったうちの会社はどうなるか。数年先が見物である。(なぜか他人事)

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愛媛県の高校が扶桑社が発行する歴史教科書を採用した。これに異議を主張する韓国人のグループが日本の裁判所に提訴した。
「日本の侵略を正当化した教科書を採用したことに対し、韓国人は多大な精神的苦痛を感じる。扶桑社の教科書採用の撤回と、その苦痛をまどう賠償金を支払われよ」
というのが、言い分だ。
新聞報道によると、この韓国人グループを支援する日本の市民団体があるそうだ。私としては、そいつらはいったいどういう頭の構造をしている人々なのか、一度CTスキャンにかけて見てみたいものがある。

盧武鉉のという左巻きの男、もとい大統領が、先日島根県議会が「竹島の日」を条例で可決したことへの抗議もこめて、国民相手のインターネット談話で「日本の帝国主義の復活への警告」や「侵略行為への反省の要求」、「解決されていない問題に対する謝罪の要求」などをしていくことを発表した。
就任したとき「日韓関係は過去にとらわれない」などと言ってた大統領は、今や反日運動の旗頭。金大中路線をきっちりと踏襲しているのだ。

今回起訴した韓国人グループも「日本に正しい歴史教育が為されること」を求めているらしいのだが、ほんとのところは、正しいとはどういうことか、理解できない人たちなのに違いない。
それとも理解することは、真実を認めることになるので「高い民族のプライド」に傷がつくようなことはしたくない、という、ホントは憶病者たちなのかもしれない。
そもそも日本が韓国と北朝鮮のある朝鮮半島を「侵略した」ということからして間違いだ。侵略ではなくて併合したが正しい。なぜ朝鮮半島を日本が「嫌々」併合したのか、ちょっと勉強すればすぐわかる。
当時の李氏朝鮮は国としての機能を失い、経済が破綻し、国民の半分以上が被差別階級に属し、馬車や自動車が十分に通ることのできるインフラさえなかったのだ。
時の世界は帝国主義のまっただ中。陸からはロシアがやってきて、海からは英仏蘭がやって来る。
自分のことしか考えないオツムのおめでたい李朝のトップは保身がすべて。
そんな倒れかけのアパートのような隣国が、新築したばかりの自分の家に倒れてきては大変と、当時の列強の賛同を得て日本はここを併合。経済、教育、産業の建て直し事業を展開したのだ。
それに解決されていない問題などないという証拠は、つい最近おのれの外交資料からでてきたばかりじゃないか。
1964年にすべての精算を終えて、日本が「経済協力」として拠出した金を韓国政府が責任をもって国民にわけるという約束すべてが決着しているのではなかったのか。
だいたい宗主国は自身に対して利益の上がらない植民地へのインフラ整備や教育活動にお金を注ぐことなど絶対しない。
だから植民地時代のベトナム、カンボジアやインドネシア、マレーシアには大学がない。中高校もまともにない。ベトナムは自国の文字も捨てさせられて、今もアルファベットを使っている。
そういう意味で、朝鮮半島は「植民地」とはとても言い難い。
朝鮮半島に道路、鉄道を建設し、京城帝国大学という最高学府まで設立したのは、どこのだれ? 
支那にへつらい、14世紀に自国の文字を捨てて漢字しか使わなかったのを「民族の誇りを取り戻しなさい」と、ハングル文字を掘り起こし、復活させたのもどこのだれ?
全部、盧武鉉という男が「反省しろ」と要求している相手じゃないか。

本当の歴史を学ぶと困るから、虚偽の歴史を本当にしたい。そんなところが本心だろう。

こんな下らないヤクザのようなインネンは、もういい加減止めにしたらどうなのか。
ほんとのところ、精神的苦痛で訴えたいのはこちらのほうなのだ。

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今どき電化製品を買うのにわざわざ東京の秋葉原や大阪の日本橋へ足を運ぶ人は少ないようで、かつて電器の街と栄華を誇った秋葉原も、妙竹林な街に変貌しようとしている。というニュースを耳にして二、三年が過ぎ去った。
しかし実際に秋葉原を訪れてみると、駅前には大きな電器店が軒を並べ、同じような商品を同じような価格で競い合って販売している。つまり、昔と変わらぬ光景が繰り広げられているのだ。
では噂の真相はどうなんだろうと、電器店と電器店の間にある狭い路地へ入ってくと、そこは「オタクの楽園」が広がる別世界だった。

駅前南に立地する古い雑居ビルは電器店は一階だけ。他のフロアにも確かに中古オーディオ店や中古の電子パーツ店は入ってはいるがそれはほんの一部分。他はすべてオタク関係店舗で埋め尽くされていた。
2階にはフィギュアの店や模型店。3階には漫画専門書店。4階にもフィギュアと模型の店が広がっていて、5階は怖くて行けなかった。
フィギュアや模型といってもそんじょそこらのありふれた玩具ではない凄みがある。
2階の模型店はドイツカブリ社製の模型が山と積まれていた。
HOサイズ(1/87scale)のクレーン車や消防車、特殊重機などの模型の箱が店の中央に堆く積まれ、周囲の陳列ケースにはフォークリフトや搬送機器などの、ちょっとやそっとではお目にかかれない模型が展示販売されていた。
ここだけが「なかなかユニーク。ちょっと買ってみたい」と私に思わせる店だった。
3階の漫画専門書店では、一般漫画はもちろんのこと、ちょっと危ない同人誌、かなり危ないエロ漫画、ほとんど犯罪ロリコン漫画が棚を埋め尽くし、暗い顔した陰気な顧客でかなりの混雑だった。
4階のフィギュア店は東大阪に本社のある有名な会社の直営店があった。模型店ではミリタリー系のミニチュアが陳列ケースに所狭しと並んでいた。
電器店ばかりと思っていた1階も、歩いてみればオタクコーナーがちゃんとある。
50センチ四方の透明アクリルケースが所狭しと林立した貸し棚コーナーには、未成年者お断りと書かなきゃだめじゃないかと思わせる、際どいフィギュアや、プレミアつきのミニカーなどが売られていた。

これは聞きしに勝る凄いところだと、呆気にとられ歩いていると、さらに異様なところを見つけてしまった。
秋葉原駅から少し離れたところにあるそのアーケードは入り口に中古のオーディオ店が様々な懐かしのオーディオ機器を並べていた。DATデッキにレーザーディスクプレーヤー、βマックスのビデオデッキ、木製の大きなスピーカーなどなど。
製産が中止になった機器が壊れて、音楽映像ソフトが見られなくなったら、まずはここへきてみるべきだと思っていると、アーケードの奥に視線が向かった。
暗く狭いアーケードは、どこか荒んだ感じがしていたが、なんだか懐かしい感覚に囚われた。
どこかで見たぞ、この景色。
アーケードの一番奥には華僑か印僑がやっている金製品の店がある。ショーケースには赤い毛氈の上に金のネックレスや指輪が並べられている。そしてその隣にはインド人と思しき外国人がインド製衣料や音楽映像ソフトを売っている。流れるBGMもインド音楽。そして香のかおり。
まるでここは、バンコクのヤワラートの中華街、怪しげなカオサンの裏路地、はたまた昼間から酔っ払いがうろつくシンガポールのリトルインディアなどとそっくりではないか。
オタクの街どころか、一部の場所はディープなアジアに変身してしているのだった。
思わず、心の中で叫んでしまった。「ここは何処だ、秋葉原」。

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米国のライス国務長官が訪日して「はやくうちの牛肉買わないと、どうなるか知らないわよ」とフニャフニャ小泉を脅して帰っていった。
尤も牛肉については厳しく言いはしたが、北朝鮮問題では日本を支持し、イラクでの自衛隊の活躍に感謝を示し、国連常任理事国入りは当然と、日米同盟を世界で最も重要な二国間同盟と宣言して去ったのは、さすが辣腕の国務長官女史。なかなかツボを押さえている。

ライス国務長官は15歳で大学に入学し、20歳で修士号を取得した、めったにいない才女である。
スタンフォード大学で教鞭をとっていたところをブッシュジュニアにスカウトされて政府の中枢部のメンバーとなった。初の女性国務長官だ。

女性がリーダーとして指導的な職務についているのはなにもアメリカだけではない。
男子優先の閉鎖的社会だといわれる私たちの日本にも多くの女性管理職が登場してきている。政治の世界はもちろんのこと法曹界やビジネス界、あらゆる分野に登場しているのだ。
つい先日、経営再建中のダイエーの次期社長に女性が選ばれたことが報道され、経済界の期待も大きい。
しかし、女性の管理職も男性と同じく、優秀な人ばかりがそのポストに就くとは限らない。

千葉県知事選で現職の女性候補、堂本暁子氏が当選した。無党派層を支持基盤にしただけで、知名度の高いタレント候補の森田健作を破っての勝利だから、わずか5000票の票差ながら、あっぱれということができるだろう。
問題は、この堂本候補の応援に千葉まで足を運んでいた太田房江大阪府知事だ。
この太田知事は全国初の女性知事として登場し、世間の注目を集めたが、集めただけで就任してからの6年間に、なんの方策も出さずに遊んでいる。いつもパフォーマンスを演じることのみに喜びを感じているという不貞の輩なのだ。
大阪府が抱える財政債務は府民一人当たり47万円。失業率は沖縄に次ぐ全国二位の7.7%。ホームレスの人口も約一万人でダントツの一位。この10年間で4000社以上の会社が本社を東京に移した。
このような危機的状況にも関わらず、太田知事のすることといえば、「女性を相撲の土俵に上げろ」運動とか「阪神タイガース」などのプロ野球応援とかの、府政に関係のないことばかり。
追いつめられれば「女性ならではの府政を実施」などと宣って、逃げ回る。
はっきり言って私たちは、男であろうが女であろうが、ちゃんとした府政の指揮者が欲しいのだ。

さらに太田知事よりも、もっと性質の悪い女性指導者が関西にはいる。
土井たか子がその人で、この人が音頭を取ってる社民党は自分の理想を守るためなら、災害時の自衛隊出動も妨害し、市民が焼け死ぬことも知らぬふり。
大反対していた消費税も、自分が与党になった途端、法案を通過させ、税率も引き上げさせた。
一頃日本のマーガレット・サッチャーと誉めそやされたが、なんでサッチャーが怒らなかったのが不思議である。
その他、田中真紀子に田島陽子。辻元清美に原陽子。
どうしてこういう変な女性ばかりがチヤホヤされるのか悲しくなる。

「人の言うことに耳を傾けず、喧嘩を続けるのであれば、仲裁はしません!勝手になさい!」と啖呵を切って、ボスニア紛争終止符への道筋をつけた元国連高等弁務官の緒方貞子のような人はまだまだ少ない。
「あの人、女性管理職なんだ」と男も女も言ってるうちは、まだまだ日本はダメなのか。
性別についてとやかく言えるくらい、日本の人材は豊かでないと思うのだが、いかがだろう。


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「ジョニーは戦場へ行った(1971年作)」という映画がある。
第一次世界大戦に従軍していた一人の兵士が、敵の爆弾の攻撃に晒される。
四股は吹き飛び、鼓膜は破れ、目は失明し、顎が破壊される。
しかし、彼は死ななかった。
収容先の病院で彼は意識を取り戻す。
音は......聞こえない。目は.......見えない。声は.......出せない。
四股が無くなり手を使うことも足をばたつかすこともできないのだ。
それでも彼は生きていた。
病室に降り注ぐ太陽の明かりを、陽の暖かさで感じ取り、心優しい看護婦の指文字で季節を知る。
やがて彼はわずかに動かすことのできる頭を枕に打つことでモールス信号を発信し、他人に自分の意思を伝えることを思いつく。
だが、世間に彼を知らしめたくない上官は彼に冷たく告げるのだ。
「頭で意思を伝えることは、禁止する」
と。

フロリダ州で植物状態が続いていた40代の女性に対し、先日、尊厳死が認められ、生命を維持するための栄養供給がストップされた。
これに対し、尊厳死を認めないと訴えを起こしていた女性の夫を除く家族が連邦議会に働きかけ、このほど生命を維持するために必要な法案が議会を通過。ブッシュ大統領はすぐさま署名し、法案が成立した。
彼女は20代であった15年前に自宅で意識を失い一時的な心肺停止に陥った。
このため脳死状態となり、自立呼吸はできるものの栄養の摂取、意思の表現はできなくなってしまったのだ。
医師たちは一様に植物状態を宣言し、彼女の復活はないものと判断した。
夫は愛する妻をこのままの状態で生かし続けることは残酷だとして尊厳死を認めるように何度も提訴。その都度彼女の両親姉妹は死なせるのは可哀想、生かせてあげてと逆提訴。
お互いの葛藤が繰り返され続けている。

医学が発展し、50年前であれば命を落としていたようなケースの病気や事故の患者や犠牲者の多くについて、本人の意思とは関係なく「生かし続ける」ことができるようになった。
上記の報道は、科学が生み出した悲劇と滑稽さであるといえる。
このケースも争っているのは彼女の家族で彼女自身ではないのである。果たして彼女自身がどう希望しているのかは誰にもわからないことなのだ。
もしかすると、ジョニーのように枕を叩くことはもちろん、眉一つ、目線一つ動かすことができないほど意思を表現する方法が全くないだけで、はっきりとした意識を持っているのかもしれないのだ。
人の意識が肉体のどの部位に存在し、どのように機能しているのかは現在の科学ではまだ明らかにできていない謎なのだから。

20年間ものあいだ、植物状態であった30代の女性が目を覚まし、ベッドの傍らで看病を続けていた母親に「お母さん」と呼びかけたというニュースも記憶に新しい。
しかし、意識がはっきりしているしてないに関わらず、生きている者の生と死の尊厳を尊重するのは難しい問題だ。

「このままで生きたくない」とジョニーはラストシーンで叫んでいたが、現実はどうなのか誰にもわからない。

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