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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



ASEANの会議がラオスのビエンチャンで開催されている。
このラオスという国は帝国主義時代にフランスの圧力に屈したタイ王国がトカゲのしっぽ切りのように切り捨てた領土だ。日本の歴史で例えるとサンフランシスコ講和条約を締結したいばかりに南の北海道であった台湾を切り捨てた行動と良く似ている。
それはともかく、このビエンチャンにASEANメンバーでない国も参加している。
我が日本国もその一つで、お隣のエセ共産国家、中華人民共和国と名乗っている「支那」もその一つだ。
その支那の国家主席が我が国の総理大臣にむかって「靖国神社に参拝するな」と命令しているニュースが今日の夕方、インターネットニュースで報道された。
それに対して我らが小泉首相は「不戦の意志を誓うために参拝しているのでご理解を」と言ったらしい。
アホか。このオッサンは。

支那はつい先日、攻撃型の原子力潜水艦を我が領海に不法に侵犯させたばかりだ。しかも侵犯中は「そんな原潜は知らん」と白をつき通し、支那の港に着く頃やっと認めるに及んだのだ。しかも認めはしたが、我が国に謝りもせずミステイクだなどとぬかしている。
半世紀前なら我が帝国海軍がとっくの昔に撃沈しているところだ。実に舐められたもんである。
それで先日の南米でのAPECで恫喝され、今回もビエンチャンで支那の言いたい放題。まったくもって亡国の悲しみとしかいえないのだ。
支那は「日本は侵略国家」などとぬかしているが、実は現在、支那ほどの「侵略国家」はイスラエルとアメリカ合衆国を除くと存在しないのである。
支那はまず、日本が満州と呼んでいた地域を侵略した。
ここは司馬遼太郎の「韃靼疾風録」にあるように、女真族の統治地域であって支那人、つまり漢族のエリアではない。
日本が連合国にボコボコに叩かれて、ボロボロになって撤退した後に支那人がやって来て、この満州国を勝手に「中国東北部」などと呼ぶようになり、首都新京も長春などというわけのわからない名前になった。
この満州の次ぎに支那が侵略したのがチベットとウィグルで、この地域の悪行非道についてはもはや私の説明は必要ないであろう。
知りたい人はブラッド・ピットが主演した「セブンイヤーズ・イン・チベット」を観るように。
現在、支那は南シナ海に浮かぶ南沙諸島と我が南西諸島を侵略しようと虎視眈々狙っている。
地球儀か世界地図を開くと良くわかるが南沙諸島はどうみてもベトナムかフィリピンの領土。南西諸島に関してはもはや誰が見ても我が領土。沖縄県なのである。

海外旅行へ出かけると、傍若無人でマナーもへったくれもなく、どこでも騒々しいアジア系の団体旅行客がいるが、そいつらはたいがい支那人である。
声がでかく、場所を弁えず唾を吐き散らし、少しでも自分よりも身分が低いと思うと居丈高になる。
すべての支那人がそうではないと言いたいが、そういう人が目に付いてかなわないのだ、バンコクやその周辺では。
団体旅行といえば日本人も得意とするところであるが、世界の一般的な評判として「日本人はおとなしい」らしい。
大人しい。ホテルの部屋を汚さない。口数が少ない。というのは日本人の特徴らしい。

しかし国際会議で大人しいのはいかがなものだろうか。
小泉首相はきっと子供の頃から喧嘩をしたことがないのだろう。だから国内では、いや、与党内では威勢の良いことを言っても外にでると、洒落た反論も、ちょっと脅かすぐらいの発言もできない内弁慶なのだろう。
なぜ「靖国神社に参るのだ」との質問に、
「我が国を命を賭けて守ってくれた英霊達のみなさんに、世界の平和をお願いしてなにが悪いのですが。我が国が、国の伝統と格式に則って、戦没者の御霊を祀ることに、外国人であるあなたにとやかく言われる言われはない! それとも、我が国を何かにつけて悪役にしなければならないような理由が、アナタの国にはあるのですか。」
となぜ言えない。

家業が政治家のボンボン政治家はもう要らない。
おーい!
だれか喧嘩上手な政治家はいないのか?(○シー、山本夏彦先生の「おーい、だれか戦前の日本を知らないかい。」(文春新書)のぱくりです。)

お断り: このサイトはウヨクのページではありません。(とりがら憂国党)

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仕事での移動は、もっぱら公共交通機関を利用することにしている。とりわけ鉄道での移動が全体の九割以上を占めていると思う。
鉄道で移動すると、どうしても駅から目的地まで歩くことになる。
目的地が大阪市内や東京都内などの場合は、長くても十五分歩けば目的地へたどりつくことが出来る。
しかし郊外、田舎となるとそうは行かない。だから駅からタクシーなどを利用するが、時としてタクシーさえ無いこともあり、私は過去に客先から最寄りの駅まで二時間近く、歩いたことがある。

私がどうしてこうも公共交通機関を利用したがるのかというと、それは時間が確実に予想できるからだ。

今日、奈良の天理近くへ社用車で出かけた。
仕事の打ち合わせを終えて、帰ろうとして走り始めると、ちょうどラジオが交通情報を流し始めた。
「阪神高速松原線の大阪方面行きは事故で一車線が塞がれています。この影響で平野、喜連瓜破の入り口は閉鎖され、事故現場を先頭に六キロの渋滞です。」
これはいかん。
渋滞に巻き込まれるということは自動車の運転で疲れるということだ。帰社後、多くの処理すべき仕事が残っていたので、できるだけ疲労は避けなければいけない。
そこで、私は帰りの進路を変えて、松原線を通らずに済む、第二阪奈道路を通るコースをとることにした。
ところがこちらは大和郡山市内の国道、市道、あらゆるルートが混みあっていて、結局、阪奈道路に入るまでに二時間近くもかかってしまったのだった。
おかげで事務所に帰ると、すでにくたくた。しばらく仕事にならなかった。

この天理近くの客先は最寄りの駅から三キロメートルほど離れており、不便なのだが、三キロメートルといえばたった四十五分で歩ける距離だ。
四十五分歩けば健康作りにもなるし、電車の中では書籍を読むことが出来る。
自動車の運転は無為に過ごさなければならないことが多く、だいたい運転中に本を読むことなどできない。最近は携帯電話さえ禁止である。
最近考え事をすることが多く、注意が散漫になっているので、事故を起こす可能性さえある。
とりわけ交通渋滞に長時間巻き込まれると、くるまをその場で乗り捨てて電車で帰りたくなってしまうのだ。
自動車の移動は一見楽だが、ムダだらけに思えてならない。
だから私は自動車での移動が嫌いだ。

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とりがら映画評

年末年始の話題アニメーション映画三作品の中でも、この「ポーラー・エクスプレス」は特筆すべき映画だろう。
宮崎駿の「ハウルの動く城」は最新のテクノロジーを随所に用いているとはいえ、昔ながらの手書きの絵がテクニックの基本であるし、ピクサーの「Mr.インクレディブル」は従来からのCG技術の積み重ねだ。
ところがこの「ポーラー.....」は、パフォーマンス・キャプチャーなる新技術を用いて、従来とはまったく異なるCGの世界を作り出している。
生身の俳優が演技する姿を二百台のキャメラで同時にスキャンして、動作はおろか表情までコンピュータに読み込んでしまう凄い技術なのだ。その結果、俳優は自分の姿をもとに、まったく違った人物になり、スクリーンに現れるというわけだ。
今年の始め頃からインターネットでこの映画の予告編は流されていた。やたらリアルな映像に見とれていると、トム・ハンクスそっくりの車掌が列車から降りてきて「なんだこれは」という気にさせられ、その時からこの映画の封切りを楽しみにしていたのだ。
今回封切りされたばかりの作品をみて、車掌ばかりでなく、驚いたことに、この技術でトム・ハンクスは五人のキャラクターを演じわけているのだった。
生々しさという意味では、まだまだCGという感じが抜けていないが、これまでのCG映画がある種の「人形劇」と例えるなら、これは明らかに人の演じる「舞台劇」ということができるだろう。

ストーリーは同名の絵本を原作にしており、映画もその作風を忠実になぞっているとのこと。
確かに、スクリーンに繰り広げられるファンタジックな世界は、これまでにないインパクトを見る物の心に与える事になるだろう。
ロバート・ゼメギス監督の映画ということで、音楽はいつものアラン・シルベストリ。今のハリウッドにあって、正攻法で力強く、かつ美しいスコアを作曲できる代表的なコンポーザーだ。
今回も、タイトル曲をはじめ数々の印象的な音楽を聴かせてくれている。
「CD、買いに寄ろか」
と話す声が、映画終了と共にあちらこちらから聞こえてきた。
スピード感と、映像美、そして音楽美が旨い具合にハーモニーを奏でている「クリスマスシーズン」には是非、オススメしたい一品でした。

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とりがら書評

チェ・ゲバラ、という人をご存知だろうか?
フィデロ・カストロとともに一九六〇年代キューバ革命を成功へと導いた指導者の一人だ。
本書はそのチェ・ゲバラが医学生であった時、友人と二人で南米を一年ばかし旅行した時のことを記した旅行記である。

この秋、ロバート・レッドフォードが製作総指揮をとった、本書を原作とする映画「モーターサイクル・ダイアリース」がミニシアター系列で公開され大きな話題となった。
私は残念ながら映画の方は仕事が忙しく見逃してしまった。
また一部地域では「チェ・ゲバラ展」なる展示会も催され、多くの人々が今は亡き革命家に思いをはせたことと思う。

ゲバラが革命指導者になったのは、レーニン主義に共鳴していたわけでもなく、社会に不満のある生活を強いられていたからでもない。
そもそもゲバラはアルゼンチンの中産階級の家庭に生まれ、決して乏しい生活を営んでいたわけではないのだ。むしろ医学校に進学できるくらいの財力は持った家庭にいたわけだ。
この医者、とりわけハンセン病の専門医を目指した青年が、なぜ革命運動に関わっていったのか、ということについてのヒントが本書には随所に散見することができるのである。
たとえば彼が訪れた山間部の乏しい村には、十分な医療を受けることもできず、ただ死を待つだけのインディオの人々が存在し、彼は医師としてまったく無力であることを度々彼は思い知らされることがエピソードとして紹介されている。
多感な二十代前半に、当時は珍しかったこの放浪旅行を行ったことにより、南米が抱える多くの社会的矛盾に直面し、革命家チェ・ゲバラの基礎ができあがるのだ。

この日本語訳はスペイン語の原書を使用しているとのことだが、多くの箇所が、スペイン語の言い回しをそのまま使っているのか、翻訳に携わった人の日本語構成力が乏しかったのか、日本語の文章という意味合いの上では、随分と読みにくい書物になってしまっている。
しかし、一人の若者が、どのような経験を経て、どのような人物に成長してくのかを知るためには、たいへん貴重な紀行文になっていると思わずにいられないのだ。
漠然と、何をして良いのやらわからない若者や、何かしたいがどうしたら良いのかわからない若者に是非読んでもらいたい一冊である。

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劇場で観る時間を作れなかったアメリカ映画「シュレック2」のDVDが発売されたので、さっそく近くのtsutayaで借りて見た。

シュレックの1作目もビデオでの鑑賞だった。このときはもともとなんとなく劇場で見る気にならなかったのでDVDでの鑑賞が初めてとなったのだった。
DVDで見た感想は「面白い」の一言で、パート2が封切られると聞いたときは是非劇場でという気持ちになったのだ。
ところが、いざ公開されてみると、どの劇場も日本語吹き替え版が主流で、字幕スーパー版は深夜か、早朝かといった限られた時間での上映になっていた。このため劇場で上映されている時間と、仕事の時間のタイミングが合わず、ついに劇場公開を逸してしまったというわけなのだ。
では、なぜ日本語吹き替え版を見なかったのかというと、その理由は簡単である。
日本語吹き替えの役者の面々が「大嫌い」だったからだ。
しかもその「大嫌い」には理由がある。
もともとこの映画のオリジナルはアメリカの人気俳優が主人公を吹き替えており、それぞれのキャラクターの個性を十二分に表現している。
アメリカは日本とは違い、そのクオリティーを評価する場合かなりの割合が実力に比重をおかれる社会だ。したがって、人気のある役者はそれなりの実力があり、シュレックにしてもその力は充分に発揮されている。
ところが日本語吹き替え版は「素人の文化祭」といっても過言ではなく、主人公を関西弁で吹き替えるなど、聞くに堪えない代物にしてしまったいるのだ。
人気アイドルがテレビの吹き替えに挑戦することはあるが、映画は客がわざわざ料金を払って観る興業物である。にもかかわらず、人気取りのためだけに「名前だけ有名な」タレントを重要な登場人物の声に使うなど言語道断。客をバカにしている。
子供にもわからせるため日本語で吹き替えているのだろうが、もっとマシな品質にしてもらいたいもである。

で、この「シュレック2」は1作目と同様、子供には理解できないギャグ、というよりも見せたくないギャグが多く、なぜ日本語版を中心にしてロードショー公開したのか不明である。
ドリームワークスの作るCGアニメ作品はピクサーの作るCGアニメとは明らかに異なっていることを、配給先も認めるべきだ。



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人気アニメ番組「ドラえもん」の声優さんが交替する、というニュースが話題になっている。
主人公のドラえもんを担当している大山のぶ代が六十八歳、のび太の小原乃梨子とスネ夫の肝付兼太が六十九歳、ジャイアンのたてやわ和也が七十歳、しずかちゃんの野村道子が六十六歳。
五人の年齢を考えると、仕方がないかなとも思ってしまう。
後継の声優は現在人選中ということで、新しい若い声優が選ばれて向こう二十年、三十年とキャラクターを演じていくことだろう。

ところで、アニメや外国ドラマの声優が交替してしまうことは、とても大きなインパクトを持つ。時には良いほうに変わることもあるけれど、たいていの場合、悪いほうへ変わってしまうことの方が多い。
やはり初めに視聴しだした時の声が、キャラクターのイメージとして脳にすり込まれていることが大きな原因だと思う。

これまで声優が変わって、視聴者である私が違和感に悩まされた例を挙げると次の通りとなる。

1. 鉄腕アトムの清水マリが産休でアトムの吹き替えができなくなったとき、別の声優(名前を忘れました。確かジャングル大帝のレオの声を演じてらした方)がピンチヒッターで声を当てたとき。
2. 同じく、時代を経て、ヒゲおやじの声が矢島正明から富田耕生になったとき。
3. ドクター刑事クインシーでクインシーの声が北村和夫ではなくなったとき。
4. 小池朝雄ではなく石田太郎が演じている「新・刑事コロンボ」のコロンボの声。
5. 刑事コロンボ「ルーサン警部の犯罪」でルーサン警部が山城新伍であったとき。
6. TNGでピカード艦長の声が第二シーズンから変わったとき。
7. ひょっこりひょうたん島のドンガバチョの声を名古屋章が演じたとき。
8. ロバート・レッドフォードの吹き替えが野沢那智、もしくは広川太一郎でないとき。
9. ポール・ニューマンの吹き替えが川合伸旺でないとき。
10. ジョン・ウェインの吹き替えが小林昭二でないとき。
11. チャールトン・ヘストンの吹き替えが納屋五郎でないとき。
12. ロバート・ワグナーの吹き替えが城達也でないとき。
などなど

ルパン三世の栗田貫一のように「声帯模写」で声の変更を切り抜けようとしている例もあるが、やはり「成功」という意味からはほど遠いような気がする。
かつて大河ドラマの勝海舟で、主役の途中交替があったが、今回のドラえもんの声優交替ほどインパクトはなかったと思う。(筆者はガキであったため良く覚えていないことも原因)
顔はそのままで声だけ変わることに、声優交替は役者交替よりも影響は大きいのではないか。
今回のドラえもんの声優交替はもしかすると「ドラえもん」そのものの寿命と関わりが出てくるかも知れない。



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その昔、アイスクリームやアイスキャンディーといった駄菓子は夏だけの食べ物だったような気がする。
上部が水平のガラス引き戸になっているアイスクリームの冷蔵庫は、冬場、ベニヤ板やダンボール、ブリキの蓋でカバーされていた記憶がある。
そのカバーの上にホコリがうっすらと積もっているのが冬の駄菓子屋の景色のひとつだったように思うのだ。
いつのころからか、このアイスクリームが通年のお菓子と化した。

かくいう私も仕事の合間に、会社から歩いて五十歩以内にあるコンビニエンスストアに出かけ、アイスクリームを買い求めて一息ついている。
喫煙の習慣のない私にとって、アイスクリームは気分転換を図ることができる麻薬性のあるお菓子というわけだ。

最近、このアイスクリームの価格が気になりだしている。
子供のころ、駄菓子屋で売っていたアイスクリームはひとつ数十円で、キャンディーやバーの類は一本十円だったような気がする。
ここ十年ほどの間は、バニラのカップがひとつ百円。バーが八十円くらいで落ち着いていた。

ところが、ついさっき会社の近くではないコンビニエンスストアに立ち寄り、アイスクリームを買おうとしたら、金額を見て驚いた。
ひとつ百円のアイスクリームは一種類しかなく、ほとんどが百五十円から二百円。なかにはアイスクリーム専門の有名ブランド品で四百円近くするものまで売られていたのだ。
当然、雪印や森永、グリコといった何十年も馴染んできたメーカーのものはほとんどなく、横文字のものが多く見られた。
さらに解せなかったのは、コンビニチェーンオリジナル・ブランドのアイスクリームの値段だ。
普通、お茶やソフトドリンクなど、コンビニオリジナル商品は通常品よりも安い。
ところがオリジナル・アイスクリームはひとつ百六十円もしていたのだった。
試しにひとつ買ってみて試食したところ、この夏お気に入りになったひとつ百五円の森永の商品には到底及ばない味付けであった。

カップのサイズが小さくなって、価格が上がり、高級感を出したパッケージデザインで客をだます。
今のガキどもは騙せても、コンビニが普及する前、十円玉や百円玉をしっかりと握り、駄菓子屋のお菓子を貪り食っていた、昭和四十年代前半以前の世代、つまりオヤジ世代のものには、そんな姑息な手段は通用しない。

当分、大きな数字が目印のその大手コンビニでは、アイスクリームやオリジナル弁当の類は買わないと誓ったのであった。

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もうすぐ、スキーシーズンが始まる。
先日、福島県へ行った際、磐梯山の斜面に大きなスキーゲレンデが広がっているのを目にして、私は久しぶりにスキーを楽しみたくなってきたのだ。
福島にある工場の社員に訊ねると、季節になると仕事が終ってから有志が一緒にナイトスキーを楽しむこともあるそうだ。
東北ならではの土地のメリットに羨ましく思ったのだった。
大阪で仕事を早々に終えて、気軽に行けるスキー場はなくはない。
近くに六甲山人工スキー場がある。
しかしあるだけで、仕事疲れを圧して、張切って行くようなところではとてもない。

さて、スキーといえば今年はすでにラッキーなd季語とが一つあった。
ただこのラッキーは形式だけはラッキーで、実質的にこれほど無意味なものはない、というラッキーなのだった。

今年の初め、ある雑誌でスポンサーがバックアップしている岐阜のスキー場のリフト券をペアでプレゼントしてくれるという懸賞が掲載されていた。
永らくスキーもしていないし、流行りのスノーボードなどやったこともない。
そこで私は試しにこの懸賞に応募してみようと思い、余っていた年賀状に必要事項を書き込み投函した。
すると驚いたことに、そのリフト券が当選したのだ。
ある日、懸賞に応募したことなどすっかり忘れていたころ、郵便受けにある鉄道会社の封筒が入っていた。
開封してみると中に二枚のリフト券とメッセージが入っていた。
「おめでとうございます。リフト券が当選されました。スキーシーズンも終盤ですが、チケットが是非お客様のお役に立てることをお祈りしております。」
というようなことが書かれている。
私は当選したことに一瞬喜びを感じたが、すぐに現実に引き戻された。
季節はゴールデンウイーク前の四月中旬。岐阜に雪などあるわけがない。
もっと迅速な抽選を、次回は期待したいものだと思って、リフト券をごみ箱に捨てたのだった。
送ってくれるなら、今度はもっと早く、せめて二月には送ってくださいね、JR東海さん。

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紀宮様が近く婚約されることが報道された。お相手は東京都に勤める公務員だという。
不敬な発言でお叱りを受けるかも知れないが、紀宮様はこのまま行かず後家になられるのではないかと私など心配していたので、まずは一安心だ。きっと、私と同じ感想を持っている国民は少なくないだろう。

ところで、当然のことながらお相手の経歴や背景が報道され、マスメディアは人柄を探ろうと興味津々。どういうわけか花婿になられる方の給与まで報道する始末だ。
報道によるとお相手の給与は月額手取りで約三十万円。年収は七百万円だという。
この月給と年収の額を聞いて、人々はどう思うだろうか。高いか、安いか。人によって感想はそれぞれ異なると思う。
私はこの給与を聞いて「まずは普通のサラリーマン」と感じたが、同時に「どうして月給が三十万なのに年収が七百万円なのだろうか」と疑問をもってしまったのだ。
もちろん年に二回のボーナスが加えられてこの年収になっているのだろう。
しかし、良く考えてみると、国や自治体は赤字だらけ。すでに国家の借金は国民一人当たり数百万円になっているという。
にもかかわらず、多額の賞与を支給し続ける、国や自治体の考えが理解できない。

普通、一般企業であれば、決算が赤字であれば、ボーナスは削られ、あるいは廃止される。さらにボーナスはおろか給与さえ月額何パーセントカットと提示されて、業績そのものを全社員が何らかの形で責任をとるのが当然なのだ。
昨年倒産した大手都市銀行「りそな」の行員さんたちは今冬のボーナスもゼロだという話を聞く。
私たちの国では、公務員にはこの法則は成り立たない。
公務員は不思議な法律に守られて減給はおろか、簡単な責任さえ取ることはない。
大阪市や大阪府は都市開発や大阪ドーム、クリスタ長堀などの事業に失敗しても、誰も首になることはないし、減給されることもないのだ。
こんなことは民間企業では考えられない。
左遷も解雇もなければ、減給、賞与カットもない。
市民は公務員の奴隷なのかも知れない。

かつてJRが国鉄といわれていた頃、ダイヤ改正も、給与や勤務時間といった労働条件も、昇進も、配置替えも、すべて組合との話しあいで、違法な労働争議をしたとしても解雇されることも懲罰を受けることもなかった。
赤字ローカル線も巨大開発も政治家と、勤務地が変わることを拒む労働者のエゴで止めることが出来なかった。
結果、大国の一年間の予算規模のような莫大な借金を残して倒産した。

税制調査委員会が「特別減税の廃止」「消費税額の値上げ」を今日、打診した。
こいつらは公務員の収入を守ることを考え、支出は減らさず、歳入のみを増やそうとしている。
公務員の平均給与はすでに民間レベルを遥かに超越している。だれかが、この馬鹿げた制度に歯止めをかけなければ、日本は人の住めない国に成り果ててしまうだろう。
帝京大学の高山正之先生が週刊新潮で連載しているコラムの中に次のような趣旨の内容を執筆されていた。

ある日、高山先生はアメリカ人の友人に質問した。
「アメリカの公務員の給与はどのくらいなんですか?」
「ん? .......公務員だよ。」
「え?。」
「だから公務員は、公務員の給与だよ。」
公務員の給与はアメリカでは最低労働賃金とされている。だから公務員の給与を質問することなど愚なことだということだ。高額の給与が欲しければ「民間で働け」ということらしい。

との意味合いだった。

まずは税制調査委員会や財務省の連中から最低賃金にしてはいかがなものだろうか。

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とりがら書評

数年前、書店の文庫本コーナーで「深夜特急」という気になる題名の書籍を見つけた。
作者は沢木耕太郎。
恥ずかしながら、書籍の類いは特定の作者を偏読する癖があるため、この時点でまったく知らない作家だった。
後に優れたノンフィクション作家ということを知り、手当たり次第に沢木作品を買い求め読みあさっていったのは余談。
さて、初めて見てから、実際に購入するまで半年ぐらいかかったかも知れない。なんせ偏読癖を持っているため「深夜特急」などという題名からは面白いという雰囲気をつかみ取ることができなかったのだ。
そしてある日、理由は不明だが、この書籍の第一巻を買うことになった。
一ページ目を開き読み始めると、表現できない期待感が胸を包み込み始めた。なんかワクワクするのだ。そしていつの間にか読むことを止めることができないくらい「深夜特急」の世界にはまり込んでいた自分がいたのである。

本書は一九七三年に筆者の沢木耕太郎が一年半をかけて香港からロンドンまでユーラシアを旅した時の出来事や街・人の様子、社会状態などを記した戦後紀行文の傑作である。
ミッドナイト・エキスプレスは今回改めて刊行された全集としての題名だ。

一九七三年と謂えばベトナムから米軍が撤退を決めた年だった。ヒッピーが社会現象として存在し、日本では大阪万博の余韻がまだ少し残っていた頃だろう。
その混沌とした七十年代のアジアからヨーロッパを筆者はバスで旅をするのだ。

今回改めて読んでみると、通過している(できる)国が現在とは微妙に違うことに興味を魅かれる。
筆者は当時戦火の中心であったインドシナと鎖国状態だったミャンマーは飛行機で飛び越え、まだまだ平和だったアフガニスタンの真ん中をバスで突っ切っている。
現在はインドシナが安全地帯で、アフガニスタンは極めて危険な地域となった。
9.11事件以来、アフガニスタンとイラクに世間の注目が集まっているためか、本書を初めて読んだ時感じた前半のマカオのカジノでのギャンブルの興奮よりも、今回はバスの車窓から眺めた平和なアフガニスタンの風景の描写の方が、はるかに印象に残ったのだった。
筆者が実行したインドからロンドンまでのバスの旅は現在ではほとんど不可能なルートにあたる。
真似をしようとは思わないが、もし誰かが本書に感銘を受けて、真似をしてみたいと思っても、それはほとんど出来ない相談なのだ。

「深夜特急~ミッドナイト・エクスプレス」を読了して感じた最も大きなことは、最初の時も、今回も共通している。
「畜生! もっと若いうちに、しっかりと旅をするんだった。」
という後悔である。


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