とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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台湾新幹線の乗車体験記(8)

2007年01月31日 20時23分06秒 | 旅(海外・国内)
新幹線の扉が開くまで、プラットホームで記念写真を写している人々を観察することにした。
なんといっても初めての新幹線。
胸がときめかないはずはない。

私が初めて新幹線に乗車したのは昭和43年のことであった。
当時、幼稚園児であった私は大阪から愛知県の豊橋市へ出張に出かける勤め人であった父に連れられ、初めて新幹線に乗車したのであった。
なんせ40年近く前のことなので詳細は覚えていないのだが、めちゃくちゃ喜んでいたことは覚えている。
なんといっても世界最高速の時速210kmで走る新幹線「こだま号」に乗車したのだから自慢しない幼児はオカシイ。(ひかり号でなかったのが残念である)

新幹線から眺める景色は何故か傾いていたことが印象に残っている。
きっとカーブを走行する窓から眺めた景色が幼児だった私の頭脳に焼き付いたのであろう。
しかし、そんな傾いた景色よりも決定的な私の新幹線記憶となったのは「カレーライス」であった。

いつの頃からか新幹線からは食堂車が姿を消した。
それも仕方がない。
東京から大阪までたったの2時間半。
しかも、5~10分おきに走っているにも関わらず、常に通勤列車並の混雑なので食堂車なんぞを連結していると非効率的でJRの収益にも影響するであろう。
しかし、国鉄時代の当時。
たといこだま号というような12両編成の各駅停車であっても食堂車が連結されていたのだ。

豊橋での所用を終えた父は帰りの新幹線でカレーライスを買ってくれたのであった。
それまで、列車で食べる食べ物といえば大阪駅か岡山駅で買う駅弁か、姫路駅で買うそばぐらいしか知らなかった私にはカルチャーショックなのであった。
東海道新幹線で食べるカレーライス。
今となれば周囲にばらまかれたカレーライスの匂いは迷惑ではなかったのかと心配されるのだが、当時はそんなことは関係ない。
新幹線で食べるカレーライスがめちゃくちゃ美味い!、と私の頭脳に焼き付けられたのであった。

「ボク、新幹線でカレー、食べたんやで」
と周囲に自慢したのは言うまでもない。
したがって、ただのオッサンと成り果てた今日でもなお、カレーライスを食べるたびに0系新幹線こだま号に乗った想い出が蘇るのだ。

ここ台湾新幹線には、今日の日本の新幹線と同じように食堂車は連結されていない。
台北から高雄まで、鈍行でも2時間で走ってしまうのだから当然といえば当然だ。
しかし、こうしてプラットホームで記念撮影に勤しんでいる親子連れを目にすると、JRのコマーシャルではないが、写真に納まる小さな子供たちの心には、
「高鉄に乗るからね♪(のぞみに乗るからね、の替え歌)」
と焼き付けられ、楽しい想い出として一生忘れることはないのであろう、と思うのであった。

つづく

台湾新幹線の乗車体験記(7)

2007年01月30日 21時26分23秒 | 旅(海外・国内)
台湾では鉄道のプラットホームの1番線、2番線のことを1月台、2月台という。

どうして「月台」なのか意味不明なのだが、これが日本人の私にとっては非常に紛らわしものになった。
前回でも記したように日本人として習性の悲しさは、そこがたとえ外国であったとしても看板にアルファベット表記と漢字表記が並んでいると、どうしても漢字表記を読んでしまうことにある。
ここ台湾では新幹線に限らず地下鉄でもプラットホームの番線を記す言葉として月台という言葉が使われており、難渋した。
というのも、やはり1月台とか2月台といった表記で書かれていると、どうしても、
「では3月台や4月台はどうなのよ。ほんでもって12月台の次はやっぱり1月台、なんちゃって」
となってしまうのであった。

「月」という漢字には鉄道のなんらかを指し示す意味合いが隠されているのか、私は不勉強なので今もって分らない。
わからないが、できれば「番線」とい日本語に改めていただきたいと思ったのであった。

もちろん板橋駅の表示も同じように1月台、2月台とされており、とてもややこしいのであった。

エスカレーターを降りてゆくと甲高いインバーター音を立てながら700T系新幹線車両がプラットホームにゆっくりと停車するところだった。
写真でしか見たことのなかった台湾新幹線。
その外形は「のぞみ号」とまったく同じの車両も、色彩はオレンジを基調にしたまったく異なるものであった。

エスカレータを降りつつ、このオレンジ色の新幹線を目にした私のはウキウキとときめくのであった。

停車した列車はすぐにドアを開かず、そのまま停止している。
きっと車内整備などを行っているのだろう。
そういう意味では板橋駅は東京駅と同じなのだ。
一方、プラットホームにはスーツケースや大型の鞄、バックパックを担いだ多くの乗客が集まっていた。

若者のグループ。
家族連れ。
ビジネス客。
外国人旅行者。
などなど。

その乗客たちの多くが、一様にカメラを取り出し記念写真の撮影に勤しんでいるのであった。

私は30年前。
山陽新幹線が岡山まで開通した時のことをつらつらと思い出していた。
私の父の実家は岡山にある。
私はこのとき母に連れられて初めて新幹線で父の郷里に行けることに感動していた。
というのも、それまで在来線の山陽本線を走る鷲羽号という急行で2時間以上もかかっていた大阪~岡山間をわずか1時間(現在では最短40分)で結ぶと言う新幹線の力に大いに感動していたのであった。

で、台湾の新幹線車両を前に記念写真を写している台湾人の方々(もしかすると日本人かも知れないが)を見ているうちに新大阪駅を出発する満員の山陽新幹線の車両の前で記念写真を写したことを思い出したのであった。
ただ、当時と違うのは、みんなデジカメで撮影していることと、若者の集団はたいてい携帯電話に搭載されているカメラで撮影していることであった。

さあ、あとは扉が開いて乗車アナウンスが流れるのを待つだけだ。

つづく

ミャンマー大冒険 Part2 (2)

2007年01月29日 20時26分26秒 | ミャンマー旅行記・集
昨日(2006年4月1日)、関西空港を出発した私はいつものようにバンコクを経由してミャンマー時間の夕刻、ヤンゴン国際空港に到着した。
ヤンゴン国際空港に降り立つのは今回で三回目だった。
このヤンゴン国際空港のターミナルビルは日本からの資金援助で改装と拡張が行われていることは、確かずっと以前別の旅行記で書いたことがあるような気がするが、その工事のため、ここへ降り立つたびにターミナル内部の景観が変わる。

初めて降り立った時は銭湯の番台風の入国カウンターが2つあるだけの殺風景でボロッチイ到着口であった。
昨年の2回目の時は入国カウンターも増設され、内部のカベなども塗り替えられており、殺風景さがかなり改善されていた。
今回の3回目は、場所も少しばかり変わったようでさらに美しさに磨きがかかり、カウンターも既に番台風のものではなかった。

今回は私の入国する手続きが前回そして前々回と少しばかり異なっていた。
というのも、今回は初めて日本でビザを取得してからやって来ているのであった。

これまでの2回の旅行では私はTさんの所属しているミャンマーの旅行会社にアライバルビザを申請してもらい入国していたのだ。
私がどうしてアライバルビザを申請して入国していたのかというと、大阪のミャンマー連邦領事館が何故か9.11同時多発テロを理由にして休業状態で、大阪ではビザの取得ができなかったこと(詳しくは拙著「凸凹道の彼方には」(とりがら旅サイト:東南アジア大作戦に掲載)をお読み下さい)と、アライバルビザであれば入国審査で並ばずに入国できるかであった。

ところが今回、いつものようにアライバルビザを頼もうと出発2週間ちょっと前にTさんにメールを入れると、
「たいへんです!ビザが間に合いません。そちらで取れませんか?(オロオロ)」
などという、真面目なのかふざけているのかわからないメールが届いた。
なぜビザが間に合わないかの理由はいたって簡単だった。

ミャンマーは昨年(2005年)秋に、国民にも、そして国交のある日本を含む諸外国にも通知せず、いきなり首都をヤンゴンから北中部のピンマナに遷都したのだ。
隣国で同じASEANのタイ王国なんかはヤンゴンに新しい大使館を建設中ですらあったのに、いきなりの遷都で、もちろん喜ぶものは誰もいなかったのだ。

このピンマナ(その後、ネーピードという名前に改変)というのはド田舎の標本とも呼べるような街であった。
まともな庁舎もなく、役人の皆さんはマラリアにおびえながら暫くの間、集団生活を余儀なくされるような場所なのであった。
当然のことながら郵便事情は劣悪で、二三日でちゃんとビザ発行に必要な書類が届くという保障がない。
届くという保障がないので1週間や2週間でビザ発行資料が戻ってくることも考えにくく、その結果としてTさんは私に「日本でビザを取ってきて下さいな」と頼んできたのであった。

幸いなことに、昨年から大阪の本町にある日本ミャンマー友好協会の大阪事務所がビザ申請を受け付けてくれるようになったので、私は急ぎ中央大通りに面した大阪市西区の日緬友好協会の事務所を訪ねたのだった。

「すんません。ビザ、すぐに発行できるでしょうか?」
「ハイハイ......できますよ。ここに記入して下さい。いつまでに要るんですか?」
「再来週の週末までに」
「再来週?そら、えらい急ですな。」
「実は........なんです」
「ハハハハ........ミャンマーです。」

日本ミャンマー友好協会の日本人のオジサンはミャンマー人のようにノンビリかつ親切に書類作成を手伝ってくれたのだった。

「で、ホテルはどこ泊まるんですか?」
「なんて名前やったかな?」
「ま、とりあえずトレーダーズホテルにしておきましょう」
「トレーダーズホテル?」
「日本人がよく泊まる高級ホテルですよ」
「ハア」
「あなたも、エエお歳のようですからこれくらいのホテルに泊まらんとあきませんで」

と、なにやらバックパッカーもどきの私の心にぐさっと突き刺さるような一言を投げられたのであった。

で、ビザは無事発給。

ヤンゴン国際空港で私は荷物を受取り、ロビーで無事にTさんと再会。
アハハハ、といつものように笑いながら市内のホテルへ向かったのであった。

なお、私のホテルは高級ホテル「トレーダーズホテル」ではないことは言うまでもない。
その見るからに高級なトレーダーズホテルと道路を挟んで東側に建つヤンゴン一の高層ビル「サクラタワー」のさらに横の路地を、テクテクと入っていった1泊US10ドルの安宿が私の今回のヤンゴンの宿になっていたのであった。

やれやれ。

つづく

アパホテルは教育制度の成れの果て

2007年01月28日 20時54分43秒 | 社会
いきなり話が逸れて恐縮だが、ジーン・ケリー主演の名作「雨に唄えば」の冒頭のシーン。
チャイニーズシアターでの新作発表の記者会見で、
「あなたのモットーはなんですか?」
と芸能記者に訊ねられたダン・ロックウッドことジーン・ケリーは、
「それは、いつも威厳を持ち続けてきたことです。威厳です」
と答える。
その威厳の実際は、ボードビリアンを演じたり、こそこそと映画館に忍び込んだりと言うシーンが展開されるわけだが、そこでも自らの「威厳」を忘れたことはない、ということだ。

この威厳が失われた社会が今の日本社会ということか。

最近多発している殺人事件や官僚政治家の汚職事件を目にするたびに意識するのは、「威厳」の無さ。
宮崎の官製談合事件も、社会保険庁の杜撰な管理体制も、名古屋市の地下鉄談合も、すべてすべて威厳がないから発生した事件と言わざるを得ない。

その昔。
日本人は嘘をつくことを恥ずかしいことだと考えていた。
「あなたはウソつきか」
という意味合いのことを告げられただけでも、役人たちのなかには「恥」だと思い自ら命を絶つ者もいたくたらいだ。
武家商人の別なく身分の高いものほど社会に対するモラルを守るということに対する実直さは目を見張るものが合った。
つまり威厳に満ちた社会習慣が存在した。

ところが第2次大戦後、アメリカ主導で導入された民主政治なるものによって、これらの美徳も「封建的で時代的」という理由でことごとく否定され、一度この伝統の社会習慣を口にしようものなら「戦争擁護」「軍国主義者」「反民主主義」といったまったく関係のないレッテルを貼り付けて非難した。

その先頭が各労働組合であり、日本共産党であり、日本社会党(現社民党と民主党)であり、大江某なる意味不明文書大好きのの作家であったり、朝日新聞とNHKなのだ。

この戦前の日本社会を否定してきた人たちの特徴は「平気で嘘をつくこと」。
また、嘘をつくことを彼らは「革新」とも呼ぶ。

となりの国は天国ですよとばかり喧伝した理想の国が北朝鮮で、子供に「国旗は血にまみれている」言ったのも、反戦主義を唱えながらアメリカ帝国主義反対とぼかりにテロ行為を起こして無実の民を殺すのも、沖縄の小島で民間人が玉砕したのは軍の命令と創作して小説に書くのも、自らサンゴに傷を付けて誰がやったとほざくのも、みんな上記の人たちばかり。

で、本題に入るのだが、不二家にしても、アパホテルにしても、姉歯にしても、嘘をつくのはこれら戦後民主主義の伝統なのか、と思いたくなるものばかり。
宝石チャラチャラ、ファッションセンスのかけらもない下品な顔を公衆に曝して自ら「私が社長です。安全と信頼と、」などと宣う女社長に誠意のみじんも感じられないのは無理もない。
さらに信じられないのは、今回の姉歯から続く一連の耐震偽装という嘘の連鎖を官僚や政治家だけに添加して満足しているいくつかのサイトが世間からもてはやされていることだ。

当然、このような事件を生み出す土壌を作った官僚政治家は許されるべくもないが、「ウソつき日本人」を作り上げた戦後の教育制度を責めなければ、アホ官僚やウソつき政治家は今後もどんどん出てくるだろう。

アパホテルの耐震構造偽装事件は教育制度の成れの果て、と結論づけても過言でもないと思うのだが、いかがか?

台湾新幹線の乗車体験記(6)

2007年01月27日 21時21分22秒 | 旅(海外・国内)

台湾新幹線の自動改札機は日本仕様のものではなかった。
外見からするときっと欧州製なのだろう。

台北の鉄道の自動改札機を観察して見ると、国鉄にあたる台鉄の自動改札機は日本仕様だ。
台北駅も板橋駅も日本ではお馴染のハの字型の開閉式バリケードの装備された立石電機社製と思われる改札機だ。
ところが地下鉄は日本式ではない。

台北の地下鉄には2種類の自動改札機がある。
1つは3本足のバリケード式ゲートの装備された改札機で、切符を投入するとそのバリケードを体で押すことができ、クルッとバリケードが回って一人だけが通過できる仕組みなのだ。
これはアメリカ映画でよく見かけるシステムだ。
さすがアメリカから車両やレールを輸入した台北の地下鉄。
改札機もアメリカ式なのであった。

もう一方の改札機はドイツ・シーメンス社製とおぼしき改札機だ。
というのも、タイのバンコクを走っている地下鉄の改札機と同じ機種で、現在は使われていないが、そのうち「トークン」と呼ばれるコイン型の無線ICカードを投入することになるだろう投入口の付いているタイプだったからだ。

そういえば台湾新幹線の自販機はフランス製だともいう。

新幹線本体は日本製。
その周辺システムは欧米製。
これでは、台湾新幹線はちと危ないのでは、という疑問も頷けるというものだ。

この種の欧米製自動改札機には利用者が連続して通り抜けられないという重大な欠点がある。
なんといっても、一人づつ通り抜けるごとにゲートが閉まる仕組みになっているので大量の利用者を捌くことができない。
前述しているとおり、台湾も日本と同じように人口密集国家で、利用者が異様に多い。
そこに欧米方式をとなると、どうなるか。
糞詰まりになるのである。

もし、台湾高鉄にNHKプロジェクトXの阪急北千里駅に導入された世界初の自動改札機開発物語を見せていれば、欧州製を買わなかったかもわからない。
そして、もし台湾高鉄にNHKプロジェクトXの世界初のコンピューター座席予約システム「国鉄のマルス」開発物語を見せていれば、発券システムもフランス製ではなく日本製であったのに違いない。

ということで、この超非効率な自動改札機を通り抜け、階段を降りると、そこはもう新幹線のプラットホームなのであった。

階段を降りていくと、
「ウィンウィンウィン~」
というインバータ音が混じった東海道山陽新幹線でお馴染の新幹線のホーム侵入の走行音が聞えてきた。
ちょうど、私の乗車予定の左営駅(高雄市)行きの新幹線がホームに滑り込んできたのであった。

つづく

台湾新幹線の乗車体験記(5)

2007年01月26日 21時12分34秒 | 旅(海外・国内)
「結構、日本語が通じますよ」

台湾駐在8年の経験がある得意先の仲のいい営業マンが教えてくれたことがあった。
もともと日本の領土(植民地ではない、と拓殖大学の黄文雄先生もおっしゃってる)だったので、日本語が話せる人がいても不思議ではない。
しかし、それも昭和一桁生まれのお年寄り世代までだと思っていた。
前総統の李登輝先生なんぞは家では日本語で奥さんと会話をしている、なんてことも聞いていたが、若い世代はさほど話せないだろうと考えていたのだ。
ところがどっこい。
もうひとつの日本の領土だった大陸の盲腸部分とは異なり、ここ台湾では若い世代にも日本語を解する人が少なくないようでビックリしたのだ。

ここ板橋駅でも英語はダメだが日本語を解する20代とおぼしき台湾高鉄のガイドさんに救われた、というわけだ。

「どこ行きますか?」
とガイドの女の子。
「台中まで乗って見たいんですけど」
と答えると、
「台中ですね。いつの切符ですか?」
「今から..........次の列車で」
「えええ!今日!台中....売切れだよ~」

そんなに大げさにビックリせんでもエエだろう、と思うくらい彼女はビックリしたのだった。
この時初めて知ったのだが、台湾の新幹線は全席指定で自由席がない。
指定席はエコノミークラス(普通指定席)とビジネスクラス(グリーン車)に分類されていて、座席の予約ができないと乗車できない仕組みになっている。
ちょうど営業開始当時の「のぞみ号」といった感じだ。

なお、全席禁煙である。

一方、台湾の新幹線は開業からまだ2週間。
誰も彼もが乗りたい乗りたいで予約ができにくい状態が続いているらしく、当日ひょこひょこやって来て「次の台中行きの切符、ちょうだい」などという呑気なヤツは私のような日本人しかいないのかもわからない。

「売切れだよ~」
と叫んだガイドさんは、それでも機械を操作して切符を探してくれた。
すると、
「あ......ありました」

台中行きの空席は残っていたのであった。
ところが台中へ行くのはいいが、台北へ戻ってくる適当な時間の列車が予約で一杯のため、台北へ戻ってこれる列車はかなり遅いものになってしまいそうだった。
台中へ新幹線なら1時間で到着するが、在来線では3時間はかかる。
この客、つまり私が「新幹線に乗って見たいだけ」のお上りさん乗客であることを見抜いた彼女は、

「桃園まで行って帰ってくるのはどうですか?」

とオファーしてくれた。
桃園は次の駅で、これはたとえば新大阪から京都まで、または品川から新横浜まで乗車するのと同じなのだ。
そうすれば1時間以内に行って戻ってこれることがわかった。

「んじゃ、そうしましょう」

券売機は彼女が全て操作してくれた。

「切符は記念に要りますか?」
と彼女。
新幹線は自動改札なので、設定をしておかなければ機械に回収されてしまう。
「持って帰ります」

ということで、無事、板橋~桃園間の往復の切符を購入。
改札口へ向かうのであった。

「ありがとう。謝謝。」
と私。
「ありがとうございました!」
と彼女。

つづく

700T系新幹線の乗車体験記(4)

2007年01月25日 20時17分53秒 | 旅(海外・国内)
最近私は新幹線の切符を買う時はほとんど自動販売機で購入しているので、ここ台湾でも同じように自動販売機で購入しようと思った。
自動販売機のコーナーの列はカウンターの列ほど酷くなく、幸いにも前列の数人を待っていると、すぐに順番がまわってきた。

問題は自動販売機の前に立った時に起こった。
いや起こったというのは正しくない。
単に私がトンチンカンなだけであった。

つまり使い方がよくわからないのだ。

日本の切符販売機も最近はボタンがたくさん付いていて、何が何だか分らないことが多い。
地下鉄の券売機にはJRや私鉄との連絡切符や、回数カードやICカードの販売ボタンが搭載されていて、始めて見る者にはなにがなんだか、暫く立ち止まってよく見てみないと分らないような機械が多いのだ。

この台湾新幹線の券売機の液晶画面にはそんなにたくさんのボタンは付いていなかった。
付いていなかったが問題が起こったのだ。
つまり、台湾語で書かれているため、いくら漢字表記でも瞬時に読み取ることができなかったのだ。

台湾に到着してからずっと、台湾があまりに日本に似ているので、驚きの連続であったのだったが、時間もかなり経過していたこの時、ついにここが日本なのか台湾なのか一瞬区別がつかなくなっていたのであった。

漢字ばかり、それも正漢字で記された液晶ディスプレイを見た私の頭は混乱した。
その時であった。
首からIDカードをぶら下げた台湾高鉄のちょっぴり可愛いスタッフの女の子が声を掛けてきてくれたのだった。

「..............。」

当然彼女は私を台湾人だと思ったのだろう。(台湾人と思われたのは初めてだった。これまでタイ人、ミャンマー人、シンガポール人、ブラジル人に間違えられたことがあるので、これでまた新たな一国が加わることになった)台湾語とおぼしき言葉で私に話しかけてきたのであった。

「ゴメン、台湾語は話せないんだ」

と私は英語で言った。
その途端、彼女は驚いて思いっきり怯んだのであった。まさか私が外国人だとは予想しなかったのだ。

「英語、話せる?」

と私は再び英語で話した。
新幹線の切符売り場のガイドさんである。英語ぐらい話せるだろうと思ったのだった。
ところが、彼女はオドオドしだした。
ちょうど、外人に英語で話しかけられてビビっている日本人のようにオドオドしているのだ。
こんなところまで日本人に似る必要もないと思うのだが、台湾の人は面白い。

「こまったな。使い方がよー分らんし」

と私がブツブツと日本語で呟くと彼女は急に安心した表情になった。

「あ、日本人ですか、どこ行きたいですか?」

と突然彼女は多少たどたどしいけれども、しっかりとした日本語で話し出したのであった。

「ゲゲ、あなた日本語話せるの? 早よ言うてよ」

彼女はニコッと笑って券売機に私を導き、丁寧に日本語で説明を開始してくれたのであった。

つづく

700T系新幹線の乗車体験記(3)

2007年01月24日 23時05分35秒 | 旅(海外・国内)
地下鉄板南線の板橋(ばんきょう)駅を下車すると、そこからは幅の広い目新しいコンコースが台鉄新幹線の乗り場の方へ、ずずずずと延びていたのだ。

やはり地下鉄としても新幹線との乗換駅を意識しているのか、板橋駅はかなり美しい作りである。
但し。帰国してから2年前に購入したガイドブックを見たみると、この板南線は新埔という駅から、板橋を通解して永寧というかなり先の駅までは工事中を意味する点線で描かれており、つい最近やっとのこと開通したばかりであることを知った。

つまり板橋駅が清潔で美しかったのは単に新しいだけだったのかも知れない。

で、ものの数分も進んだら、大きな台鉄の地下コンコースに出て来た。
天井から吊るされた案内板には「高鉄乗車方向」と書かれており、その横には「高鉄験票開門」と書かれていた。
最初の文字は英語表記を読まなくてもだいたい見当はついたが、2つ目は分らなかった。
日本人の悲しさで、どうしても漢字の方を読んでしまい、表現の違いと、難しいオリジナル書体の漢字に、オドオドしてしまっているのであった。

高鉄験票開門は切符売り場であることは英語表記を確認したらすぐに理解できた。
しかし、私は初め「改札口」のことかな、と思ったのも正直なところである。

さてさて、この台湾の新幹線「板橋」駅は地下にあるのだった。
日本で新幹線の地下駅と言えば上野駅しかないのだが、台湾の新幹線は板橋駅も建設中の台北駅も地下駅なのであった。
なぜそうなったのかという理由は知らないが、日本の人口密度を上回る大変な混み混み状態である台湾の都市部に配慮した設計なのかもしれないと思ったのであった。

台湾新幹線の切符売り場は日本の新幹線と同じようにカウンター式の窓口業務と、自動販売機にわけられていた。
ここへ来るまで知らなかったのだが、台湾新幹線は全席指定で自由席と言うものがなく、座席指定を受けられない場合は乗車することができない、という非常に厳しいシステムになっていたのであった。

案の定、開通したばかりの新幹線の切符売り場は大勢の乗客で長い行列が出来ていた。

「これは........帰えろ」

と、並ぶことと雑踏の大嫌いな私は、今回の新幹線試乗は止めておいて、次回訪台湾のとき高雄に向かう際に利用しようと躊躇したのだった。
でも、それでいいのか?
私は自分の心に訊いてみた。
ここ台湾までやって来て、新幹線を目の前にして、乗らずに帰っていいものだろうか、と。
次の瞬間、私は勇を奮って切符売り場へ足を向けたのであった。

つづく


700T系新幹線の乗車体験記(2)

2007年01月23日 22時59分03秒 | 旅(海外・国内)
台湾の新幹線。
その最北端の起点は「板橋駅」である。

「板橋駅」と言っても、新幹線で「板橋駅」で下車したら埼京線や地下鉄都営三田線や東武東上線に乗り換えられる、なんてことは、もちろんできない。
そういうコテコテのしょーもないボケをしようと思っている人は、関西では通用しないので注意するように。

だいたい大阪や京都では、
「板橋って、何処?」
ということになり、
「東京だよ」
なんてことを言ったりすると、
「そんな東京みたいな一地方の地名なんか知るはずないわ」
とコケにされることになるのだ。
(注:関西人(とりわけ京都人と大阪人)には、東京は地方の一都市でしかないというわけの分らない中華思想がある)

この台湾の「板橋駅」は「いたばし」と読むのではなく「ばんきょう」と読むのだ。
台湾へ行ったら上記のボケをやってみようと計画している人は自制するようにおすすめしたい。

当初この新幹線は台北駅(現地の名称:台北車站)を起点に計画されていたというのだが、様々な理由で板橋から台北までの工事が遅れており、本来2つ目の駅になるはずの板橋駅が起点となって営業を開始したのだという。
これは、東北上越新幹線が開業当時、都内まで乗り入れすることができず大宮駅という中途半端なところを起点としていたのにとてもよく似ている。
台湾は日本とホントに似ている国だと思ったが、こういうしょーもないところまでそっくりなので恐れ入ってしまう。

さて、新幹線の計画起点から2つ目の駅という板橋駅であったが、実際のところは台北駅からさして離れていない、ほとんど同じ街中と言いきっても過言ではないくらい、すぐ近くの場所なのであった。

この日、私は世界最高層ビルの台北101方面から地下鉄板南線に乗車し、板橋駅を目指した。
そう。
板橋駅は地下鉄に乗って行けるほどの距離にある駅なのであった。
地下鉄板南線は台北駅まで真直ぐ西に向かって走っているのであるが、台北駅を出ると大きく南に方向を変える。
板橋駅は方向を変えてから5つ目の駅。
時間にして10分ほどの場所にある駅だったのだ。

つづく

700T系新幹線の乗車体験記(1)

2007年01月22日 20時24分11秒 | 旅(海外・国内)
700T系新幹線に乗車した。
700T系と言っても東海道山陽新幹線ではないこといは言うまでもない。
もし、読者諸氏の中に「ほほ~、新しい新幹線が出ましたか」とばかりに、東京駅や新大阪駅に駆けつける人が出て来たとしても、700T系新幹線は乗車することはもちろん、見ることさえできない。

もしあなたの近くで、

「ワシ、東京駅で700T系車両を見かけたで」

という人が現れたら、あなたは注意しなければならない。
なぜなら、その人はウソつきだからだ。

700T系新幹線はつい先日営業運転を開始した台湾高鉄、つまり台湾の新幹線なのだ。

ということで、お待たせしました!
とりがら時事放談がお届けする、「速報!」とりがら「テツ」向け最新乗車レポート。
題して」、
『台湾の新幹線の乗り心地は、やっぱり新幹線だった!』

先週の金曜日から初めての台湾旅行に出かけた私は、新幹線に乗ろうか乗るまいか、大いに悩んでいたのであった。
「台湾旅行に行くから」
という理由だけで、開通間もない「新幹線に乗ってきました」などと言うと、
「あら。○○さんって、お上りさんだったのね」
と言われかねないので注意が必要だった。
ところが、初めて台湾の大地に下り立ち桃園中正国際空港から台北市内に向かうバスの中から景色を眺めていた私の目に飛び込んできたのが、高速道路をまたいで真直ぐに延びている新幹線の高架橋だったのだ。

空港から台北市内に向かうバスの車窓に展開される光景は日本のそれとほとんど同じ。
田んぼや山の斜面に点在する工場や倉庫。
入居者募集を訴える巨大看板。
田んぼ。
あぜ道。
そして新幹線の高架。

まるで日本の地方都市のような光栄が展開される中、それまで想像の中でしかなかった私の台湾と言う国への感慨は一挙に膨らんで、爆発していたのであった。

もともと私は、海外へプラプラ旅行へ出るようになってから行きたい国がいくつかあった。
タイやシンガポールは成り行きで通うようになった所なのだが、小説やエッセイなどを読み漁った結果「行って見たい」と思い続けるようになった国や地域は以下のところだったのだ。

ベトナム。
ミャンマー。
ミュンヘンのオクトーバーフェスタ。
NYのブロードウェイ。
そして台湾。

ベトナムとミャンマーは歴史と文化への興味に惹かれて既に訪問済み。
ミュンヘンとNYは単なる個人の欲求(ビール飲み放題と観劇し放題)が影響。
台湾だけが、訪問したい理由をすこし異にしていた。
というのも色々な本を読んでいるうちに台湾が世界上唯一の日本と価値観その他を共有できる国なのではないか。つまり、旧植民地だったという意味合い以上にかなり「似ているのではないか」と思えるようになっていたのであった。

で、結論から述べると、初訪台の私の感想は、
「なんじゃい、これは! 台湾って、日本に似ていると聞いてたけど。似ているどころか、同じやんか」
と叫ぶぐらい大きかったのであった。

訳が分らないかもしれないが、きっとこの時、私のこころに、
「んじゃ、観光には関係ないけれど新幹線に乗ってみっか。」
と言う決意が生まれたのであろう。

ということで、私は訪台二日目に台湾新幹線に乗車することになったのであった。

つづく

(注)このシリーズは短いのでミャンマー大冒険PART2と交互ぐらいに連載します。