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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



「時々人は、心の中の不要なものをゴミ箱に捨てることも必要なんですよ」
といつもミャンマーで私のガイドを務めてくれているTさんは言った。

Tさんは他の多くのミャンマー人と同じように熱心な仏教徒だ。

「仕事が大変でストレスが溜まって、朝、変な時間に目が覚めるんです」

と先日メールを打ったらTさんが私のことを心配して、あるホームページを紹介してくれた。
そこに載っていたのが本書なのだ。

「ブッダの智慧で答えます」は日本上座部仏教界の僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラ長老が、一般の人の質問に仏教的見地から答えた問答集だ。

日本も言わずと知れた仏教国(神道と併存)。
仏教が伝わったのは西暦6世紀でタイやミャンマーで仏教が国教とされるよりもずっと古い歴史を持つ。
ところが、伝わった仏教はチベット、中国を経由した北伝仏教「大乗仏教」であったために、その形態は時が経ると共に形骸化し、政治に利用された。
その結果、仏教本来の「人の道」を教え伝える機能が著しく低下してしまった。
第2次世界大戦後に制定された日本国憲法が「宗教の自由」をことさら謳い上げたために、ますます仏教の思想は廃退していくことになった。
今や仏教寺院は「観光客の入場料で賄う存在」であり「葬儀を請け負う葬儀屋」であり、僧侶は思想を深めるためではなく僧侶という職業に就職するために仏教系大学で学ぶような、体たらくになってしまった。
一方、正しい教えを受けていない国民の中には仏教の名を騙るオウム某教や、与党系カルトのS学会のような反社会的集団に騙される始末。
ホントにホント、嘆かわしい。
「京都の大寺院を訪れる旅行者は、一週間分の請求書を持ってきた肉屋とばったり出くわしたり、僧侶が自分の子供たちと遊んでいる場面に闖入してしまうかもしれない」
とは、ドナルド・キーンの名著「果てしなく美しき日本」(講談社学術文庫)の一節だ。

仏教の僧侶が「ビジネスの一つ」となってしまった現在の日本の人々が、タイやミャンマーなどの上座部仏教の国を訪れると、生活に染み渡った仏教文化に接し愕然としてしまうことが多い。
実は私もその一人。
僧侶が妻帯することは絶対なく、葬式を司るだけにビジネスマンでも決してない。
仏法を学び、人々に法話を伝え、時に子供たちの学習や生活までも面倒をみる。
そういう仏教の姿を目撃すれば「日本のお寺はちとオカシイ」となってしまうのも仕方がない。

そういう意味に於いて、日本で上座部仏教を通じて釈尊の教えを伝えるスマナサーラ長老の著書は新鮮だが、祖父母から口伝えに教え込まれた日本人の考え方を蘇らせるものとして、面白い。

「何のために生きるのか」
「なぜ働くのか」
「自殺について」
「親とは何か」
「戦場でも善は成り立つか」
などなど。
今社会で問題になっている事柄の一つ一つに本書を読むと釈尊は答えを用意していて、僧侶はそれを人々に分りやすく伝える義務があることを思い起こさせる。
拝観料を徴収して、葬式をコーディネート、高い金額で戒名を販売する。
それは仏教を伝える僧侶の仕事ではないのである。

なお、スリランカ出身のスマナサーラ長老は駒沢大学の大学院留学を経て、現在はNHKなどの番組や、数多くの講演を通じ釈尊の教えを伝えることを職務にされている。
Tさんに教えてもらうまで、日本にこういう仏教界があることも、長老のような僧侶が日本にいることも知らなかった私は正直、ショックを受けた。

帯に書かれていた長老の言葉「仏教とは、正しく生きるための実践マニュアルなのです。」は、日頃宗教観の乏しい私には強烈なパンチとなったのは言うまでもない。

~「ブッダの智慧で答えます」A・スマナサーラ著 創元社刊~

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