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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



久しくこのブログに投稿していなかったので、編集画面が表示されない状態になっていました。
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休日。
子供を連れてどこに出かけようか数日前から悩んでいた。
ここんところ外食も多く、金遣いが荒くなっている。
来週も飲み会がいくつか予定されているので厳禁が「パタパタパタ~」と飛んで行くのも目に見えている。
突然の計画なので企業の社会見学用の低価格体験学習は予約が必要でこれは駄目。
博物館や美術館も考えてみたが、近所のこういうところは最近足を運んだばかりなので、近隣の府県まで足を伸ばさなければならない。
そこそこの距離を運転したり、電車に乗ったりしなければならないから、それも面倒だから駄目。

ということで、「ん~~~~~~~~~~っ」と考えた結果が、ありました。
エンタテイメント性と学術性を兼ね備えた理想の場所が。
しかも利用料が無料ときたら言うことはない。

ということで、今日の休日は家族で公共の図書館へ。

図書館には新刊、古書の書籍類はもちろんのこと、図書館によっては雑誌や写真集、DVD、CDなんかも置いていて、かなり楽しめる場所なのだ。
「図書館って、退屈な場所でしょ」
という人は「知る楽しみ」を失った想像力の乏しい人に違いなく、誠に持ってお気の毒だと思う。
想像力を高めると、日々の生活が楽しくなる。
仕事も円滑にいくようになる。
お客さんの背景にあるものを想像して楽しくなる。
レストランへ行くとメニューのリストを眺めて料理とその味を想像し、楽しくなる。
その他、あれもこれも想像力がたくましくなると楽しみが増えてくるのだ。

とはいうものの、今日は休日。
果たして公共の図書館が開いているのかどうか疑わしい。

インターネットで調べたところ、蔵書数が多くて比較的近場の堺市立中央図書館はなんと休館。
政令指定都市になったのだから市民サービス向上の為にも図書館は蔵書整理期間以外は開館しておいていただきたかった。
次に身近な図書館は大阪府立大学の図書館だがこれは子供の楽しめるような書籍はないだろうし、第一府民であっても小学生は入れなかったと思う。

ということで、若干距離はあったものの大阪市立中央図書館へ行ってきた。

地下1階、地上3階建ての図書館は広くて蔵書数もたっぷり。
最近は図書館よりも大きい書店が珍しくなく、ちょっとやそっとの図書館では「ショボ」と思われるだけが関の山。
そこへいくと大阪市の中央図書館は1日いても飽きないぐらい本がそろっているのだ。(エロ本は除く)
しかもビデオやDVD、CDもたっぷりあるので活字媒体が苦手の人にも楽しめる。

実のところこの図書館。
私は仕事で調べものがある時はちょくちょく訪れ、個人では買うのが躊躇われる高額な専門書などをペラペラと捲っている。
しかもここの面白いところは特許情報などをはじめ数多くの企業情報なんかも収蔵していて、結構仕事の役に立つのだ。
雑誌も市販のものはだいたい置いているので、書籍購入費(もちろん自分の)が乏しい時はここに来ると日経ビジネスも東洋経済もニュートンもアイデアも、なんでも読むことができる。(エロ本は除く)

ということで、今日は図書館でたっぷり3時間半、静かで楽しくしかも「無料」のエンタテイメントを堪能したのであった。
図書館は偉大な娯楽施設だ。



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自分の国ながら日本ほど近代世界史上において重要な役割を果たした国はないと思う。

15世紀頃にはじまる大航海時代以降、世界の歴史は一握りのヨーロッパの国々に委ねられていた。
スペイン、ポルトガルにはじまりフランス、イギリス、そしてアメリカと主役は常に交代していった。
しかし商業、法的、社会的なルールや価値観は変わることなく常にヨーロッパの国々のそれが世界スタンダードであった。
そして今もそうあり続けている。

アジア・アフリカ諸国は彼らの奴隷であり、とりわけアジアの溢れんばかりの富みや資源はヨーロッパ諸国に持ち去られていった。
南北アメリカの先住民文化はさらに残酷でヨーロッパによって完膚無きまでに滅ぼされてしまった。

19世紀の終盤になって忽然と世界史に登場し、そのヨーロッパ主体の流れを劇的に変えたのが日本人。
それもそう遠い昔の話ではなく、私たちの曽祖父母の世代にあたる人々が主人公だ。
2千年以上の歴史を持ちながら19世紀になるまで、ほとんど伝説の中でしか存在しなかった私たちの国、日本。
突然ひのき舞台に上がった世界にとっての未知の国は、それまで歴史の表舞台にいた人々の目にどう映ったのか。

講談社学術文庫「ヨーロッパから見た幕末遣欧使節団」はイギリス、ドイツ、ロシアで発行されていた当時の新聞記事からの情報を中心に幕府から派遣された公式な使節団がどのような目で見られていたかを調査した「他人の目を気にする」日本人にとって面白い歴史論文だ。

「パンタロンのようなズボンを履き」
「髪を妙な形で結い上げ、前頭を剃り上げて」
「腰に長い刀を差している」
「背が低く女性のような」

などなど様々な「へんなやつら」としての印象が綴られている中、各国での共通の印象が「その一方、知的な好奇心に溢れ、威厳に満ちた」というものであった。
使節団には福地桜痴や福沢諭吉など近代日本建設の主役を務めた人たちが含まれていた。
年齢層は20代、30代、40代。
最高齢は正使の竹内下野守の52歳。
若さと活力に溢れた当時の日本人の姿は、やがて訪れるアジアの時代の幕開けを予感させるに十分だった。
そしてさらに驚くことは、幕末とはいえ江戸時代のサムライ達が現代の顔を持っていた、いや、現代人以上に機敏でその時代と世界情勢を冷静に、そして鋭い目で見つめる能力を持っていたようだということだった。

今、私たちに必要なのはこの「へんなやつら」の堂々とした威厳に満ちた知的な精神に違いない。

~「ヨーロッパから見た幕末使節団」鈴木健夫ほか著 講談社学術文庫~

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数カ月前にテレビ大阪「ガイアの夜明け」でTDLでの人事評価の模様が放送されて感心したことがあった。
互いに「笑顔はどう」とか「接客態度は」とか、といったテーマーパークの従業員として必要な態度を評価する方法紹介されていたのだ。
私にはこれがなかなか洒落ているように見えた。
どういう方法かというと、キャストと呼ばれるスタッフが来園者としてパーク内を回り、他のキャストを採点していくという方法だった。

「なるほど。合理的でやる気が出る方法やな。さすが天下のTDL」

とその時は思った。

しかし、よくよく考えてみると、「お互いを刺激する方法」である他者観察方法は「いつ誰に、どのように見られ、どのように評価されているのかわからない」という監視制度に他ならず、あな恐ろしや、と感じるようになってしまった。

「案外、内情は陰険なのかもわからんな」

と、つぶやいてしまったのだ。

そういう意味で松本圭祐作「ミッキーマウスの憂鬱」は私が抱いていた東京ディズニーランドのバックステージのイメージをまったく裏切らない物語だった。
もちろんフィクションではある。
でも物語も作り話にしては結構リアルに感じさせるところがあった。
至るところに関係者でないと知り得ないのではないかというエッセンスが鏤められていたのだ。

この誰もが覗いてみたいディズニーランドの裏側を舞台にして実はもっと大切なものがこの小説では描かれていた。
それは最近の若者の職業に対する取り組み意識みたいなもので、実はその部分が最も面白かったりするのだ。

主人公の後藤君はどう見てもニートで、これまで職業を転々としてきたことを窺わせる。
そのニートな後藤君が仕事に対する甘い認識しか持っていなかった当初から、次第に骨のある若者へと成長していくところが、かなり魅力的なのだ。

とはいえディズニーランドの裏側を、なんだかどこかの秘密組織のように描いているところは、ホンモノのディズニープロダクションやオリエンタルランド、三井不動産からクレームは付かなかったのか、知りたくなるところだ。
もちろん、これはエンタテーメントのフィクション。
これもまたディズニー神話のスピンオフと思えば、怒る方がおかしいというものだろう。

お手軽娯楽小説。
肩の凝らない一冊だった。

~「ミッキーマウスの憂鬱」松本圭祐著 新潮文庫~

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1983年のクリスマス。
当時大学生だった私は大阪の玩具店でアルバイトをしていた。
クリスマスは今もそうだろうが玩具店にとってはその1週間後の正月と並んでかき入れ時だ。
ところが、同じかき入れ時でもこの年のクリスマスは例年とかなり異なっていた。
玩具が売れにくい、という現象が生じていたのだ。
その原因は......

ニンテンドー・ファミリーコンピュータ。

この年末、玩具市場は任天堂に席巻されてしまっていた。
来る客来る客が「ファミコンありませんか?」という質問ばかり。
あまりの人気に商品は入荷とともに売れきれてしまい、100台やそこらでは対応しきれない異常な事態に陥っていたのだ。

「梅田の阪急百貨店が20分で1000台を売りきった」
という伝説や、
「○○という玩具店はソフトとセットで数万円で売っていた」
というけしからん話しまで、さまざまな噂や実話が飛び交ったのだった。

その後の任天堂のサクセスストーリーはご存知の通り。

井上理著「任天堂 驚きを生む方程式」はそんな任天堂の歴史と人々を綴った珍しいノンフィクションだ。
京都は「我が道をゆく」という変わった会社が多いことで知られており、とりわけ任天堂の謎は厚いベールで包まれていた。
花札やトランプを作っていた、いわば零細に近いような会社が、いかにして世界企業に躍り出たのか、一般に知られることはなかった。
そういう意味でかなり興味を誘った一冊だった。

ところが読書中、さらに読後、そのサクセスストーリーも色あせるくらい、任天堂のビジネスに対する考え方が今の停滞している日本経済に教えてくれるものが多いかを知った。
その考え方とは「飽き」との戦いだ。

確かにゲームという製品は飽きられる。
飽きられたら消費者が離れて、もしかすると二度と手に取ってもらえないかも分からない。
しかし、それはゲームだけの話しにとどまらず、自動車然り、テレビ然り、あらゆる製品とサービスが同じ問題を抱えているのだ。
任天堂の成功はこの「飽き」をどのようにとらえ、勝負していくのかにあり、この姿勢は大いに参考になるのであった。

とはいえ、一昨日発表になったように任天堂でさえ利益を大幅に減少させ、本書に示されているような驀進できる経済状態ではないことを現在の世界は示している。

「マリオは最初の頃は単なる『オッサン』と呼ばれていたんです。」
と本書。
単なるオッサンが「マリオ」となったように、任天堂は経済沈滞でも「何か”おもろいもの”を生み出すのでは」という期待感のある企業であることは間違いない。
元気をもらえる一冊なのであった。

~「任天堂 "驚き"を生む方程式」井上理著 日本経済新聞出版社~

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今や伝説となってしまった感のある映画「スタートレック3カーンの逆襲」(1982年)の惑星ジェネシス生成シーン。
一発のミサイルが月のような惑星に命中するとジェネシスモジュールが作動して、みるみるうちに不毛の惑星を地球のような青々とした緑の惑星に変わっていく。
森があり、峡谷があり、湖がある。

NHKのニュースセンター9時のタイトルやひょうきん族のエンドタイトル程度のCGしか目にしたことのなかった私は、そのリアリティに溢れたそのCGを見て驚愕したのだった。

そのCGを製作したのがルーカスフィルムのCG部門。
現在のピクサーアニメーションスタジオだった。

「メイキング・オブ・ピクサー 創造力をつくった人々」は今やディズニーをも凌駕してしまったピクサーアニメーションスタジオに関わる人々の物語だ。

コンピューターグラフィックスの歴史は浅いようで意外に古い。
コンピューターグラフィックスが研究施設で試みられはじめたのが1960年代というのだから40年は経過していることになる。
でも実際に私たちの目にそれが「作品」として登場しはじめるのは1970年代に入ってから。
最初はボブ・エイブルやジョン・ホイットニーの製作したCF用画像であったと記憶する。
1969年に試作された映画「2001年宇宙の旅」のモニター画面に映し出されるワイヤーフレームはCGではなく手描きだった。

初めCGは明らかに内容よりもその「奇異さ」と表現の「斬新さ」に注目が集まっていた。
その「奇異さ」「斬新さ」を利用した映画が「トロン」だった。
しかしただ「奇異」や「斬新」なだけだと、やがて滅んでしまうものだ。
一発屋芸人にその例を多く見ることができる。
CGも、ともすればそういう危険性があったかもしれない。
それを滅ぼさず、生命を吹き込み、永遠のものとしての地位を与えたのがピクサーといえるだろう。

人生を感じさせる「レッズ・ドリーム」
笑える短篇「ニックノック」と「ルクソーJr」
初のアカデミー賞授賞のCGアニメ「ティン・トイ」
続いて初のアカデミー授賞長編アニメ「トイストーリー」
などなど

本書ではそのピクサーの草創期からの物語をジョン・ラセターのバイオグラフや、ピクサーの経営状態、CEOのスティーヴ・ジョブスの圧倒的な個性などを絡めた力強い構成で見せている。
そのためかどうか非常に読みごたえのあるドキュメンタリーになっていた。

技術者集団であったピクサーにラセターというディズニーを解雇されたアニメーターが入ったことにより、ハイテク会社が創作することのできる企業に変身していく姿を追うのも面白いし、自分が興した会社をクビになり、ほとんど失業状態だったジョブスが、勘違いを繰り返して、後のアップルコンピュータとは正反対に自身の考えがまったく反映されないまま勝手に会社が成長し、しかもやがて「アカデミー賞を受賞した製作会社のCEO。さすがアップルのスティーブ・ジョブスだ」と讃えられるようになることもユニークだ。

本書を読むと、そのドタバタサクセスストーリーで元気になること請け合いである。

~「メイキング・オブ・ピクサー 創造力をつくった人々」デイビット・プライス著 櫻井祐子訳 早川書房~

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30代を過ぎてから新しい英単語が覚えられなくなった。
タイミングの悪いことに、私は英会話を習い始めたのが28歳の時だったため、習い始めると同時に単語を覚えられにくくなってしまうという脳的負の現象が発生した。
その結果として、いつまでたっても会話能力が向上せず、現在に至っている。

そして年齢を重ねることによる弊害は、驚いたことに単語を覚えられないだけにとどまらない。
昔覚えていた筈の単語まで忘れていってしまうのだ。

「これはきっと年と共に脳細胞が死んでいっているからに違いない」

と私は確信した。
たぶん単語を記録している部分の細胞が死滅してしまったために単語力を忘れるのだ。
そして総脳細胞数が減少していることそのものが英単語の記憶力の低下に繋がっているのだ。
と、私は自分の脳細胞の責任にしたのだった。

どうやら、その理屈は間違いだったようだ。

講談社ブルーバックス「記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶の仕組みと鍛え方」を読むと、人の記憶能力はアルツハイマーなどの病気にでもならない限り衰えることは無いらしい。
もちろん若年の時代と壮年の時代、老年の時代では脳細胞の使われ方が違うようで、記憶の効率性はあるようだが「30歳を過ぎたから」という理由で英単語を覚えにくいのは単なる私の言い訳にすぎないこともわかった。
うすうす感じていたことなのだが、要は「ものぐさで勉強していなかっただけ」ということなのだ。

ところで、脳のメカニズムはどうなってんだろう?
と、時々考えることがある。
とりわけ人の名前を思い出せなかったり、英単語を覚えられなかったり、都合の悪いことを忘れられなかったりした時には、その疑問はかなり大きなものになる。

脳のメカってパソコンと同じ?

という疑問が一番最初に生まれるのだが、だったら人間のOSはいったい何?ということにもなり、なかなか難しい。
ウィンドウズな人とMacな人の対比をしたMacのコマーシャルがあるけれども、人はそれほど単純ではないしアバウトでもある。

なかなか素人にも分かりやすく書いている脳の仕組みについての書籍に出会うことはなかったが、本書は素人でもわかりやすく楽しめる一冊だった。
海馬のメカ、一度に覚えられる数の限界、脳の記憶と情報伝達を司る物質、などなど。

まだまだほとんどが謎だらけの脳。
肝心の「私という意識はどこに住んでるの?」という私の疑問には答えていなかったが、素人ながらのいくつかの疑問を氷解することができたのであった。

~「「記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶の仕組みと鍛え方」池谷裕二著 講談社刊~


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映画「舞子Haaaan!」はとってもバカバカしい映画で京都の文化を茶化しすぎていたから失礼だと思った。
ただ、私はその失礼な映画を迂闊なことに楽しんでしまったのだ。
大いに反省すべき点ではある。

というのも、京都の文化はイコール日本の伝統文化といっても過言ではないからだ。
今でこそ、京都は「旧都」や「古都」などと呼ばれ、単なる観光地に成り下がっている気配はあるものの、そこに生活を構える生粋の京都人からしてみると、
「天皇さんは東京へ行幸してはるだけで、いつか御所に帰って来はるんどす。」
と信じていることもなくはなく、(実際に宮中における遷都の儀は実施されていない、と思う)そういう意味において京都にはある種歴史の缶詰め的な様相が詰め込まれているのだ。
畢竟、京都の文化は日本の伝統そのものであり、それを茶化すことは日本自体を茶化すことになるのだと思う。

実際京都には他の地方にはない長い歴史を持つ首都としての不可解なシステムが数多く息づいている。
東京がちょっとやそっとでは持つことのできない、ある種の重厚さが存在しているのだ。

読売新聞社京都総局が編集した講談社+α文庫「京都 影の権力者たち」は、そういう不可解なもの(の一部)を果敢にも取材し、まとめられたものである。
その代表のひとつが映画「舞子Haaaaan!」でも取り上げられた祇園の茶屋遊びだ。
その独特の閉鎖性と、その閉鎖性を裏付ける納得の論理は、「お金になれば」なんでも歓迎の今日の私たちの商習慣に大きな衝撃をもたらす。
知的で、それでいて嫌みがなく、非常にスマートな客のあしらいは見習わねばならないだろう。

京都仏教会の力もまた、無宗教的日本においてかなり強烈である。
観光産業を質に取った京都駅前ビル建設反対デモンストレーションは今もなお記憶に新しい。

伝統の中に、それを否定するような存在も忘れていないのが本書の面白いところで、京都における日本共産党の存在にかなりのページ数を割いているのが印象的だ。
京都という伝統の街だからこそ、過去一千年以上もの間、自由な空気の首都として現在の日本をつくり出してきた街だからこそ存在する政治文化にユニークさを感じた。

考えてみれば京都は伝統の街ではあるけれどもハイテクの街でもあることを忘れてはならない。
京セラ、任天堂、オムロン、ローム、タキイ、ワコール、日本電産などなど、各市場のトップ企業がさりげなく本拠を置く街でもある。

「影の権力者たち」の存在こそ首都京都の貫録なのだ。

~「京都 影の権力者たち」読売新聞京都総局編 講談社+α文庫~


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これもベトナム戦争と同様におぼろげにしか記憶にないのだが、子供の頃にテレビのニュースで見た中国の要人といえば毛沢東主席と周恩来首相だった。
とりわけ私には周恩来首相の穏やかな表情が印象的で、どことなく威圧感があった毛沢東に比べて親しみが持てるキャラクターとして記憶されていた。

毛沢東の主治医・李志綏がアメリカに亡命した後に著した「毛沢東の私生活」は党主席の赤裸な生活を暴露しており、それはそれで非常に興味深いものがあった。
しかし、全編に渡り最も関心をそそったのは毛沢東を取り囲む人間模様だった。

夫の権力を笠に着つつも、その夫に愛されることは決してない毛沢東夫人の江青。
毛沢東の方針に意見をしては辺境へ飛ばされ、そして必要になると呼び戻されるということが繰り返された鄧小平。
主席の警護主任という職務にだけ専念することにより、自らが迫害されることを避け続けようとした汪東興。
などなど。
ある時は滑稽で、またある時は悲惨で、またある時は目を覆いたくなるほど醜いドラマが繰り広げられていたのだ。

このドラマの登場人物の中でも周恩来首相の生き様は子供の頃に「穏やかな人」と思っていただけにかなり衝撃的だった。
主席に決して逆らうことはなく、たとえそれが明らかに間違ってたとしても賛同する。
主席に説明をする時は首相である身分も関係なく床に這いつくばる。
そして、自分を守るためならば、たとえ親友であろうが迷うことなく裏切り売り飛ばしてしまう。
あの穏やかな表情の下には、人とも言えるようなドロドロとした、人間性そのものを疑いたくなる自らを守ることのみに一生を捧げた魔物が潜んでいたというわけだ。

考えてみれば、現在もなお中国がチベットやウィグルに侵攻し少数民族の漢民族への同化政策や強制移住、虐殺を繰り返すのも、また中国企業が生産した製品で世界中の人びとが健康被害や多大の損害を被っているのも、さらに共産国家でありながら貧富の差がどの国よりも著しいのも、その原因はこの中華人民共和国という国を建国した毛沢東という男の性格に起因しているのではないかと思われてならない。

核兵器による自国への攻撃で3000万人が死んでも怖くない、とソ連のフルチショフに対して発言し驚愕せしめ、そして実際に大躍進とそれに続く文化大革命で数千万人の国民が命を失っても、毛沢東は何の罪の意識も感じなかったのだ。

現在の中国はその主義を否定するどころか、建国の父としての偉業に比べれば、そのような犠牲は取るに足らないものとして、毛沢東を讃えている。

毛沢東の私生活。
これほど多くの人びとの私生活を、そして人生を破壊したものはないだろう。

~「毛沢東の私生活(上)(下)」李志綏著 新庄哲夫訳 文春文庫~

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まずは本書からの引用..........

「昨年(平成19年)8月、安倍晋三首相(当時)はインドを訪問し、インド国民軍を率いて日本と一緒に戦ったチャンドラ・ボーズの遺族に会いましたね。安倍さんが、「英国統治からの独立運動を主導したボーズ氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」と語ると、ボーズの姪にあたるクリシュナ・ボーズさんは、「日本の人びとがボーズの活躍を覚えてくれているのなら、私たちインド人も、英国の植民地支配に抵抗するため、ボーズがインド国民軍を組織したことを支援したのが日本だったことを思い出すべきだと」と応えた。(以下省略)
............

元産経新聞記者の高山正之と評論家の日下公人の対談本「日本はどれほどいい国か」。
納得できない矛盾した報道や外交、歴史問題を相変わらずの鋭い弁舌で斬って捨てているところが心地よい。

白人の価値観からしか物事を見ることが出来なくなっている日本のマスコミ。
しかも、それだけにとどまらず数々のウソを恥とも厭わない中国や韓国と一緒になって自分の国を辱めることに嬉々としている例えば朝日新聞や毎日新聞のような輩が現在の日本を蝕んでいる。

冒頭の安倍首相とボーズの姪とのやりとりは新聞では殆ど報道されず、私も本書を読んで初めて知ることになった。
たぶん、戦前にアジアと日本が友好的で密接な関係にあったことを報道することは、彼らマスコミの日頃の報道の趣旨にに合わなかったのだろう。

海外へ出てみると日本がいかに住みよいところであるのか実感することが多い。
人種差別は極端に少なく、宗教問題は殆ど皆無。資本主義なのに賃金格差も他国と比べると経営者が気の毒になるくらい少ない。
独特の文化と価値観が居住空間は狭いけど、相対的に住みやすい社会を創造しているのだ。

例えば先月破綻したリーマンブラザーズ。
本国米国のリーマン社員たちは、半数以上が解雇され職探しにまい進しなければならない恐怖にさらされている。
今年1月に支給された平均3000万円とも呼ばれるバカ高ボーナスは1セントも出る筈もなく、賃金も大幅にカットされる。
ところがリーマンの日本法人は違った。
野村ホールディングスに買収された日本法人に勤めるアメリカ人社員は当初「おいおい、日本人に使われるなんて最低だ」なんて言っていたらしい。
ところが、全員の雇用が確保され、ボーナスさえ普通に支給されることを知り、本国の同僚達から羨望の眼差しで見られているのだという。
このような例は日本法人のみの特例なのだという。

不況時でも社員を解雇せず余った時間を社員のスキルアップ教育に充ているという、日本企業独特の文化が金融の世界でも違った形で生きているようだ。

本書ではリーマンのような近々のケースは取り上げられていないが、外務省のようにへっぴり腰になるひつようもなく、マスコミのように国を売るような真似をする必要もないことを本書は語っている。
日本人として堂々と自分の意見を主張することこそ日本の為になるし、世界のためにもなるのだ。

帯に記されていた通りの「痛快対談」なのであった。

~「日本はどれほどいい国か 何度でも言う、『世界はみんな腹黒い』」日下公人、高山正之共著 PHP研究所~

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