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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



とりがら書評

沢木耕太郎のノンフィクション全集、その最終巻「祝杯を乾して」を読了した。
沢木作品のなかから主なスポーツ観戦記を厳選し収録しているのが本書である。

沢木作品のスポーツ観戦記には熱い心で試合を見つめる観客の視線で語られているという特徴がある。
それは著者が得意とするボクシングを観戦するときも、その他のスポーツを見るときも、小難しい技術的な解説をすることなく、私たち一般人の目の高さで語って聞かせてくれるという特徴だ。

私たち一般人が、ある競技に感動を覚えたとしても、その感情の高まりを言葉に表すことは、なかなかできるものではない。
「あー、面白かった」「良かったね」「素晴らしかった」
程度の言葉でしか表現することが出来ないのだ。
沢木耕太郎の巧みな文章は、難しい専門用語を使うことなく、それぞれのスポーツが与えてくれる、多くの人々が受けているであろう感動を、私たちに代わって表現してくれている。
さらに、作品の面白さには、深夜特急に似た紀行文の要素もからんでいることが少なくない。それは読む者にとって、スポーツ観戦をするために、自分自身も旅をしている気分を味わえるという楽しさなのだ。

本書の後半には2002年の日韓共催ワールドカップ・サッカーを題材にした「杯<カップ>」が収録されている。
実のところ、「杯」の単行本が発売されたとき、私は買おうか買うまいか悩んだ末、ついに買わなかった。同時に発売されたオリンピックを扱った「冠<コロナ>」は迷うことなく買い求め二三日で読み終えたのに、「杯」は買わなかったのだ。
なぜなら、もともと私はサッカーに対する興味が薄く、ワールドカップで国中が盛り上がっていたときでさえも、どことなく心が冷めていたからだ。
しかし、それにもまして「杯」を買わなかったのには、別の理由がある。それは「韓国」と共同開催したワールドカップを扱っていたからだという理由がある。
正直私は韓国という国にあまり良い印象を持っていない。
植民地時代の歴史を無理やりねじ曲げて、卑屈なまでに日本を口撃してくる韓国という国が大嫌いだったのだ。その結果として、興味のないサッカーというスポーツと、印象がとびきり悪い韓国との共同開催というワールドカップを扱った作品を、読んでみたいという気持ちには、なかなかなれなかったのだ。
今回、全集に収録されたことをきっかけに「杯」を読んで見ると、意外な事実に心を動かされることになった。

サッカーには相変わらず私の興味をかき立てるものは感じられかったが、著者、沢木耕太郎が各会場を移動するときに接することになる、多くの韓国人の暖かさと力強さに感動を覚えたのだった。
空港からホテルまでの道がわからず、料金を受取ろうとしない律義なタクシー運転手。光州の会場からソウル郊外の新村まで、見知らぬ著者を自分たちの自家用車で送ってくれた学生たち。駅までわざわざ案内についてきてくれた日本時代を知る老人。などなど。
もしかすると、日韓のテレビが報道する韓国は、実際の姿とはかなり違うのではないか、と思えてきたのだった。
飛行機にのれば僅か1時間。一度、韓国を訪れてもいいな、と私に思わせる機会をくれた一冊だった。

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1993年。米国ペンシルベニア州の道路を泥酔状態でバイクを運転していた男が、カーブで転倒した。重症は負ったものの幸いに命は助かった。
するとこの男、何を思ったのか辣腕弁護士を雇ってバイクメーカーを訴えた。転倒して怪我をしたのは泥酔していた自分のせいではなく、転倒のきっかけとなった、収納し忘れたバイクのスタンドの構造にあるのだと。
普通の国では「なにを言いやがる。スタンドをたたみ忘れたお前さんが悪いんだろ。」と、相手にもしてもらえない訴えだが、この国は違った。その結果、本田技研工業の現地法人は、この悪徳弁護士と、バカ男に1970万USドルを支払わされた。
1990年、オレゴン州にあるハンバーガーショップでアルバイトしていた高校生が、帰宅時に居眠り運転をして酔っ払い運転の車と正面衝突をした。少年はあえなく死亡。両親は相手の運転手から賠償金を受取ろうとしたが、センターラインを越えて反対車線に飛び込んだのは少年の方なのでどうにもならない。仕方がないから、両親は辣腕弁護士を雇い、少年が働いていたハンバーガーショップを訴えた。「酔っ払い運転は飲ませた店も悪い」という法律を拡大解釈して、酔っ払いが運転するような深夜に帰宅させた店が悪い、と主張したのだ。
これも普通の国なら門前払いになるような内容だが、米国は違った。裁判の結果、マクドナルドは少年の両親に40万USドルを支払わせさせられた。

昨日、週末の土曜日だというのに、朝から会社の事務所でウィンドウズPCを使用して、かなり難しい報告書を作成していた。
書類は数ページに渡り、写真を貼り付けたり文章を書いたり、2時間近くキーをたたいていた。
すると突然画面に次のようなメッセージが表示されたのだ。
「問題が発生したため、Wordを終了します。ご不便をおかけして申し訳ありません。」と。
つまりプログラムにエラーが発生し、データがぶっ飛んだ、ということなのだ。
この貴重な人生のうちの2時間を、いったいどうしてくれるのか。無性に腹が立ちPCのコンセントを抜いて窓からそれを放り投げたい衝動に駆られた。
「小まめにセーブしていないアンタが悪い」という人もいるだろうが、OSは世界で最も普及し、信頼性も高いというWindows-XP。使用しているMS-WORDも最新バージョン。腹が立たない方がおかしい。
暫く、怒りで報告書の文章を思い出すことさえ出来ず、午前中はほとんど仕事にならなかった。
だいたいマイクロソフトの製品はエラーが多すぎる。
以前は「不正な処理がなされました」などといった「使うあんたが悪い」とも受取れる高圧的なメッセージが画面に現れて、画面が凍りついたり、あるいはソフトがいきなり終了することがよくあった。
最新バージョンのOSは言い回しが「柔らかく」なっただけで以前とまったく同じなのだ。
マイクロソフトはいわずと知れた米国企業。
いわれのない事故にケチをつけ、多額の賠償金を企業に支払わせる米国が、このマイクロソフト製品の「誰もが知ってる欠陥」にはまったくケチをつけない。
なんかあるのか? マイクロソフト!
確かにコンピューターは複雑なシステムで、ちょっとしたバグがエラーに繋がる。「OSってこんなもんです」で世の中通るのなら、家電用OS世界一のシェアを持つ、フリーズしない日本製OS「トロン」の存在はどうなるのか。 また昔はよく爆弾が表示されフリーズしたMacOSも、今ではほとんどフリーズしない。私は自宅ではMacを使用しているがOS-Xにしてから二年余。フリーズしたりプログラムが飛んだことなど一度もない。
マイクロソフトには吹っ飛んだソフトにつき、妥当な労働費と精神的打撃に見合うだけの賠償していただきたいものだ。「問題が発生しました。ご不便をかけます。お詫びに1時間あたり1万ドルを支払います。」とのメッセージを添えて。


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新年早々の北海道旅行は、下手な海外旅行よりも遥かに大きなものを私の心に残してくれたようだ。
大阪から札幌へ入り、旭川へ日帰り旅行。最後は函館から大阪へ戻ってきた。
札幌が大都会であることに驚き、旭川が大阪府下のいくつかの主要都市より遥かに都会であることに驚いた。そして最後に訪れた函館が、あまりに田舎なのに驚いた。
つまり、訪れる街ごとに驚いていたのだ。
とりわけ意外だったのは函館が思いのほか小さな街であることだった。
函館という北海道では数少ない歴史ある街が、こじんまりとしていることに驚いたのだった。

夜、JR函館駅を降りると、駅前広場が雪に埋もれていたことも原因かも知れないが、繁華街らしいところがまったく見当たらず、その寂しさになんだか初めて北国へ来たという感慨が沸いてきたのだ。
雪がしんしんと降る中を歩き、ホテルのロビーへたどり着くと、
「いらしゃいませ~、こんばんわ~」
という、フロント係の女性の言葉に微かな東北の訛りがあることが、私の心を暖かくしてくれた。
札幌や旭川の東京言葉にはいささか白けていたからだ。

函館での感激は、ホテルのスタッフの東北訛りと親切だけではなかった。
ホテルで教えてもらった市電通りの居酒屋へ行くと、刺し身や小鍋、地酒とサッポロビールクラシックをたらふく食べて飲んで、なんと札幌の半額近くの安さだったのだ。
味も申し分なし。
北海道に住むのであれば函館がいいな、と少し思った。

このとき函館の名物、イカそうめんを食べた。
イカそうめんが函館の名物であることを私はまったく知らなかった。名物であるばかりでなく、イカは函館の特産物であることも同時に知ることになったのだ。

翌日、観光地の屋台で売っていたイカ飯を食べてみると、これも美味しい。
小ぶりのイカにもち米を混ぜて炊いたご飯を入れて、醤油をベースにした出汁の中でクツクツと時間をかけて煮たものだった。
箸でつまむと簡単に身が切れて、口に入れるとジューシーなイカの味が口中に広がり、ご飯の暖かさとイカの美味しさで心が豊かになってくるのだった。

アイスクリーム店では、ただでさえ美味しい北海道のアイスにイカ墨をアレンジしたイカ墨アイスが売られていた。これも買い求めて食べてみると、当然のように文句なしの味だった。

イカ尽くしの函館の土産は地域限定グリコと「いかせんべい」。
イカせんべいは試食してみると、懐かしい駄菓子屋のせんべいをさらに美味しくしたような味だった。
誰かにあげようかと思っていたが、無意識のうちに独り占めしてしまった。(ゴメンネ)
イカせんべい。噛みしめると、噛みしめるごとに
「市電の車窓から見た雪景色」
「ラーメン屋の話し好きなオバサン」
「青函連絡船博物館で懇切丁寧に案内してくれた職員のオジサン」
など。
パリッ、パリッという音が出るたびに、函館の街のあれこれを思い出すのだ。


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A380型旅客機。
欧州のエアバス社がそのカウンターパートであるボーイング社を追いつめるために開発製造中の超大型旅客機である。
ボーイングの747は最大550人程度の旅客を搭乗させることが可能だが、A380はそれを遥かに上回る600人以上の乗客を乗せることが可能だという。
A380はオール2階建て構造。まるでJR東日本の通勤新幹線マックスみたいな飛行機なのだ。

35年前に出現したB747がもたらした一番の影響は航空運賃が格段に安くなったということだ。
B747が登場する以前は、例えば多くの旅客機には現在のファーストクラスのようなサービスと一種のステータスが存在した。ところがB747の大量輸送が空の旅をより身近に、大衆化させたのだった。
果たしてA380はどのような効果をもたらすのか。

ところで、私も多くの男どもと同様に飛行機が好きである。飛ぶことにある種の快感を覚えることもあるが、飛行機としてのメカに興味を持っているのだ。そう、メカに興味を持っているからこそ私は世界注目の新しい大型機A380には乗りたいとは思わないのだ。
なぜか。
それはエアバス社の作る飛行機だからだ。
かねてから、私はエアバスの飛行機は危ないと思っている。というのも、それを設計製作しているのが主にフランス人であるからだ。
フランス人は欧州でもきわめて特異な個性を持っている。とりわけ「技術」という分野においては「我が道こそ正しい」という理念を頑なに貫いており、多大の迷惑を世界中にかけているのだ。

例えば、1964年に日本が世界初の高速鉄道「東海道新幹線」を開業させると、欧州の鉄道王フランスは対抗心をむき出しに日本とはまったく異なる技術を開発し、高速鉄道TGVを完成した。その結果、日本の新幹線を上回る(当時)時速300キロ運転を可能にしたのだ。ただしそれは、消費電力は新幹線の倍で、輸送人員は半分という、環境にまったく配慮されていない、とても効率の悪い乗り物だった。
また、世界の空の航空管制は普通、英語を使って行なわれているが、フランスの上空付近だけはフランス語で行なわれている。これは「フランスも独自に航空機を開発した国家である」という屁理屈でごり押しされた結果、無理やり認められた制度だ。この結果、多くの人が死ぬことになった。フランス語を解さないパイロットへの誘導ミスが原因で2002年スイス上空でDHLの貨物機とロシア旅客機が空中衝突した。
さらにさらに、鉄道技術で日本に対抗した頑固な精神は飛行機でも発揮され、エアバス社の飛行機はボーイングとはまったく反対の安全システムを採用することになった。
コンピュータシステムが発達した現在でも、ボーイング社は緊急時の判断は人にゆだねる、という思想を貫いている。これに対しライバルのエアバスはあくまでも人より機械なのだ。
1994年4月26日、名古屋空港で中華航空のエアバスA300型機が着陸に失敗。乗客のほとんどが死亡した。
着陸しようとしていた中華航空機は着陸をやり直そうとパイロットが操縦桿を操作したところ、着陸を強行しようとした自動制御システムと対立、機体制御が混乱し失速、滑走路にたたき付けられた。
これがライバル「ボーイング」の旅客機ならパイロットが操縦桿を操作した瞬間、機の全権はパイロット、つまり人へ移る。

A380は来年シンガポール航空に第一号機が納品される。
シンガポールへ行くときはANAかJAL、タイ航空で行くことにしたい。

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数百億円の赤字を抱えながら、コスト削減などこれっぽちも考えず、「損した分は税金から」というスピリッツに則って、意識的に残業を増やし、常識を覆す高給取りの「バス運転手」を排出する組織を大阪市交通局という。

大阪市交通局のバス事業で、一般常識を逸脱した非常に高額な勤務外手当てを支払っていた実態が表面化した。
通常の給与以外に勤務外手当てを年間360万円以上受取り、年収一千万円以上の収入を得ているバスを運転する職員数は、なんと300人にも上るという。
バスの運転手が年収一千万円である。
民間バス会社の社員が聞けば、耳を疑いたくなるような数字だろう。「いつからバスの運転手は飛行機のパイロット並になったんだろう」と。
ここのところ大阪市そのものが職員年金への不正支出やビジネススーツを「制服」と称して年間一人3万円の補助費を出していたことなどを暴れ、苦境に立たされている。
それに加えて今回の市交通局のずさんな管理体制である。
いったいこの国はどうなっているのかと、怒りを通り越し、情けなさともどかしさで涙が流れそうになるのは私だけではないだろう。

ところで、大阪市交通局の市バスには数年前からユニークな路線事業が出現した。
「赤バス」
という乗車賃百円均一のゾーンバス事業がそれだ。
この赤バスには大きな特徴がいくつかある。それは次のようなものだ。
「どこを走っているのかわからない」
一般的な市バスの路線図には描かれていないし、まともに広告も行っていないので、一般市民でこんなサービスがあること自体、知るものは少ない。
「どこにバス停があるのかわからない」
たいてい電柱の陰や路肩の垣根、ガソリンスタンドの看板などに隠れているため、「こじんまり」とした赤バス用バス停は見つけることが至難である。
「いつも空いている」
赤バスを目撃するとたいてい客は二三人。多いときで四五人か。一番多いのは空気だけを乗せて走っているときである。乗車人数が少なく燃費はきっと良いだろう。
「車両はどれも高価そうな低車高のメルセデス」
運転手の乗り心地を考慮してか、国産の菱形三つは信頼できないからなのか、なぜかメルセデス。日独友好には有効だろう(シャレか)。
このように、赤バス路線が市内のあちこちに出現し、「好評だから路線を増やします」と目立たない小さなポスターを掲示して、癌細胞が仲間の細胞を増やすことに努力するように、職員は同じ職員仲間を増やすことに努力している。
二人か三人の乗客しか乗っていないバスがどのように好評なのかよくわからない。「いつも空いていて座れるから」好評なのだろうか。

大阪市交通局のバス事業は十三年前から赤字経営。累積赤字は五百億円を超えるという。
これだけ赤字が増えてきたから、赤色のバスでも走らせてやろう、という、いわばヤケクソもどきのシャレなのか。
早く民営化でもして、正常化しなければ、大阪市民は乗ってもいないのに料金を払わされることになるだろう。かつての国鉄のように。

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早朝。
通勤のために地下鉄に乗り込んで、空いている座席に腰を掛けた。
鞄から本を取り出し読み始めると、隣に座った中年の男がおもむろにノートパソコンをとり出した。
「朝から社内で仕事とはご苦労様なことだ」
と思っていると、ワープロソフトかエクセルかを立ち上げたのか、パチパチとキーを叩き始めた。

電車に乗っていて気になるノイズにウォークマン(近ごろではiPodか)のイヤホンから漏れてくるシャカシャカ音がある。
また携帯電話でゲームをしたりメールを送ったりするためにキーを操作するときに発生するピピピという音も耳障りだ。
このたびこれに、ノートパソコンを操作するパコパコ音が加わった。

私の横に座った中年ビジネスマンがとり出したのは古めかしいB5サイズのIBM製ノートPCだった。
膝の上に置いた鞄を机がわりにして、その上にPCを置いて操作しているのだ。
私は書籍を広げて読み始めたが、よこでパコパコとキーを叩く音が耳障りになって、中身に集中することが出来ない。
電車内の耳障り音には、その音自体は電車の走行音やエアコンの音、車内アナウンスの音よりも遥かに小さいが、妙に気になって仕方がないという共通事項がある。
私はなんとか書籍の方に集中するように努力したが、結局諦めて本をたたみ、鞄にしまった。

この忌々しい中年ビジネスマンはノートパソコンで何を作成しているのだろう。
私は大変気になった。私の朝の楽しみである読書を妨害した男である。電車の中でパソコンを操作しているのだから、きっとかなりバリバリのビジネスマンに違いない。多分、売り上げ表や市場調査表をエクセルで作ったり、分析したりしているのだろう。そして今日の業務で行うべきことを早速通勤の電車のなかで、策しているのだろう。と、思った。
そこで私ははしたない行為だとは思いながらも、横目でディスプレイをのぞき込んだのだ。
すると、そのディスプレイには次のような意味合いの文章が打ち込まれつつあったのだった。
「某君(名前は忘れた)の酒気帯び運転の検挙について」との表題に続き、
「新年会のあと、某君と誰それ(これも名前は忘れた)君と私は、二次会に行きました。そこでウイスキー
や焼酎などを飲みました。その後、ラーメン屋に行きました。ラーメン屋でラーメン三杯とビール大瓶一本を注文しました。.......」と続いているのだ。
私は思わず吹き出しそうになってしまった。
バリバリのビジネスマンと思っていた中年の男は、同僚か部下かは知らないが、酒気帯び運転をして警察に捕まった仲間のことを会社に報告する文書を製作していたのだ。
まず表題そのものがレポートとして拙劣だ。
会社へのレポートの表題であれば「某君の酒気帯び運転での検挙の件」とか「検挙について状況を報告いたします」とすべきところを「検挙について」で切ってしまっているので、中途半端なのだ。
それに本文が幼稚で、文章の末尾がすべて「行きました」とか「飲みました」とかしました調になっていた。「なになに美味しゅうございました」だったら、マラソンランナー円谷幸吉の有名な遺書であるが、これでは小学生の作文である。

ノートパソコンを電車内で駆使するバリバリのビジネスマン。
その正体は意外とこんなものかも知れない。

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先日、あるベンチャー企業が開発したマンション用ビデオサーバシステムに対し民放放送局の数局がシステムを利用しないように裁判所に提訴した。
なんでもシステムが「著作権侵害にあたる」のではという疑いがあるからだという。
このシステムは放送されている番組を一定期間手当たり次第に超大容量のハードディスクに記録して、入居者が好きなときに好きな番組を視聴できるというシステムなのだそうだ。
この「録画」という行為が著作権の侵害に当たると考えているようだが、料金も取らず、入居者が私的に見る分にしか利用できないこのシステムが果たして著作権を侵害しているのかどうか、裁判所の判断が注目される。

ところで、このような番組のタイムテーブルに関係なく、自分の好きな時間に好きな番組を見れるようになるシステムが採用されるとどういう現象が起きるかというと、本来ゴールデンタイムで見られるはずの番組が、他の番組に置き換わり、民間放送にとっての最大の収入源であるCM放送料が目減りしてしまうという現象が起こるのだ。
ただでさえ、ハードディスクレコーダーが普及しつつあり、家庭では手当たり次第に録画して、好きな番組を好きな時間に観賞するというライフスタイルが完成しつつある。
視聴者は好きな番組は時間に関係なく見るようになり、つまりCM放送料の多寡に関係なく番組を見るようになる。
さらにテレビ局にとって最悪の場合、視聴者はCMをスキップして見るようになるのだ。
もう、広告代理店や民間放送が主張しているような広告効果はテレビでは失われているのかも知れない。

この新しいライフスタイルが招いている現象に、拍車をかけているのがケーブルテレビやCS放送の普及だろう。
かつてテレビのチャンネルといえば「みなさまのNHK」か数チャンネルの民間放送しかなかった。
ところが、最近はケーブルやCS放送を利用すると、たった数チャンネルの選択技から数十チャンネルの選択技に変わってしまうのだ。
視聴者にとってA社やM社やF社やM社の放送局だけが、テレビではなくなっているのだ。

ここ数年以内に、この従来以外のメディアの攻勢にインターネット放送が参入する。いや、すでにいくつかは参入を開始していると言っていい。
こうなると、隣近所のオジサン、オバサン、オニイサン、オネエサンが自分の家で「放送免許」も関係なく放送局を開いてしまう時代が到来するのだ。
もう、民間テレビ局が「お台場」だとか「六本木」だとか「茶屋町」などと言った、都心の一等地に巨大な自社ビルを建てることも、一般民主とは隔絶した超高額給をとることも出来なくなる。

民間放送のマンション用サーバシステムに対する提訴は「テレビ局の黄金時代の終焉」を表しているのだ。

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地図の描き方は小学校の時に社会科の授業の中で教わったと記憶している。
簡単な地図で、それも都道府県や市町村ではなく、自分の住んでいる地域の地図を描かされた。
それを元に、発泡スチロールや竹籤を使用して、ちょっと立体感のあるパノラマを作らされたりした。
学年が上がるにつれて、市の地図を使うようになり、府の地図となり、やがて日本地図、世界地図を使うようになった。

色々な地図を教材に使ったが、それら異なる地図にはたったひとつだけ、約束事があった。
それは北を上側にして描くということだ。
したがって大阪府を描くと当然のことながら豊能町や能勢町といった、とても大阪府とは思えない山奥が上にくる。
日本地図を描けば北海道が上にくる。
世界地図を描けば北極が上にくるのだ。
道路地図を買っても、鉄道地図を買っても、市街地地図を買っても、上側が北だ。

JR大阪駅中央コンコースにこの「北は上」というセオリーを逸脱した地図が掲示されているのを発見した。(写真)
「大阪市街案内」と記されたこの地図は、改札口横の柱面に取り付けられている大変立派な作りの地図なのだが、地図の上が西を向いているのだ。
地図に向かって立つと、神戸の方角を向いて見ることになるので、地図の上を西向きにしているのかも知れないが、果たして混乱することはないのだろうか。
子供の頃から「地図の上は北」と教え込まれてきた者にとっては、上が北ではない地図は非常にややこしい存在なのである。

この地図を見つけたとき、私は大阪の地図だとは思わなかった。
JRの駅には地方への旅行を案内する数多くのポスターが貼られているが、この地図もそのポスターの一つだと思ったのだ。
大きな川が「南から北を向いて」流れているし、その川の西側には大きな街が広がっている。
「福岡かな?」
と思った。
しかし、近くへ寄って、よくよく見ると、
「なんじゃ、大阪やないか。」
と呆然としたのだった。
南から北へ向かって流れている大きな川は淀川だった。
上の水色の部分は日本海ではなく大阪湾だった。
地図の下側は大阪市の旭区で、上側が住之江区や港区になっている。実に不思議な地図だった。
地図は見る方向によってまったく別の場所に見えてしまうことを初めて知ったのだった。

確かに初めて大阪を訪れた人は、どちらが北でどちらが東なのかわからないだろう。
だから案内地図の向きを見ている方向に合わせるのは、ストレンジャーにとっては便利なのかも知れない。
しかし地図に対する常識を持っている人ならば、どちらが東西南北かを確認してから地図を見るのではないか。そうすると、この大阪市街案内のような地図をみると、よけいに迷ってしまうような気がすのだが.....。

だから私はカーナビの地図に違和感を感じるし、かえってカーナビのように東西南北がクルクル回るものは迷惑なのだ。
大阪駅の案内地図。
果たしてこれはカーナビ時代の発展形なのか? 
私は知りたい。


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神戸の三ノ宮で食事をして家に帰る途中、異様な光景を見た。

場所は大阪市営地下鉄梅田駅。
JRのコンコースから降りてきて、地下鉄の自動改札をくぐり御堂筋線のプラットホームへ降り立つと、帰宅途中の人々でかなり混雑していた。
時間は午前零時少し前。こんな時間にラッシュアワー並に混雑しているということは、落ち目の大阪にも好景気の春がやってきたということなのだろうか。
あちこちで、酔い心地良さそうな人々が、にこやかに語り合い、あるいは悪態をつき、あるいは立ったまま寝ている。

ふと次の電車はいつ来るのだろうか、とホームの白線に沿って進行方向後ろに目をやると、異様な光景が飛び込んできた。
白線に沿って、おおよそ二十人近くの人たちが、携帯電話を片手に持ち、白く輝く操作画面を一心に見つめているのだ。
大阪の地下鉄はほとんどの駅で携帯電話を利用することができるのだが、彼らは携帯電話で話をするために電話機を手にしているのではなかった。
ただただ携帯電話の小さな画面をのぞき込んでいるだけなのだ。
彼らには立っている、しゃがんでいるの違いはあるけれど、上半身はまったく同じポーズを構えているのだった。向きも同じ線路の方向。
携帯電話の表示器からの光でボンヤリと照らされる彼らの顔は、どことなく病人のそれに見える。
それにしても、なぜこんなにも大勢の人たちが携帯電話を見続け、操作に夢中にならなければならないのか。

異様としか言いようがない。

携帯電話の操作画面を見つめる人々。
いまや街で見かける当たり前のような風景だ。
この当たり前のような光景に私は違和感を覚えてならない。
これは携帯電話でテレビが見られる機種がある、とか、ゲームができる機種がある、といったことではない。
そのほとんどの人が電子メールを読むことに、あるいは送ることに熱中している。
どんな内容をやりとりしているのか、一度見せてもらったことがあるが、正直言ってどうでもいいようなことばかりなのだ。

携帯電話会社はメールのやり取りで多くの利益を上げていることだろう。
使う方も一回数円なので使用することに頓着しない。
しかし、なぜそんなに他愛もないような内容のメールをいつもいつもやり取りしなければならないのか。
ここに現代の病理が潜んでいるという気がしてならない。
子供を誘拐し、殺害した画像をメールに添付して被害者家族に送り付けてくる犯人の心理と、わざわざ金を払ってまで送る必要のないような下らない内容のメールを送受信している携帯電話中毒患者の心理とは、もしかすると紙一重の違いでしかないのではないだろうか。

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ブッシュ大統領が二期目の就任式を行った。
その就任式場で演説で「この土地(米国)を守るためには、たの土地に自由を普及させなければならない」という意味合いのことを述べた。
これは世界の平和を守るためには「他の国も米国式自由主義を信仰しなければならない」という意味だ。
従ってアメリカ式自由を守らない奴には天誅を加えるということで、イラクやイラン、アフガニスタンなどに軍隊を派遣して戦争をふっかけている。
ところが、イラクやイランと同じようにアメリカ式自由を守らない国にロシアや中国があるが、このあたりにちょっかいを出すことはない。
なぜなら相手が強そうだからだ。
つまり弱いものいじめしか出来ないわけだ。
その弱いものも、ここに数十年は慎重に選ばれるようになってる。

かつてアジアの強国であった我が国をこてんぱんにやっつけて得意満面になったアメリカは、白人文化圏代表者として第二次世界大戦後の新しいアジアの管理者となろうとして、東南アジアにちょっかいを出した。
東南アジア諸国は負けはしたが同じアジア人である日本人の奮闘に刺激され、植民地支配の眠りから覚めてしまったからだ。
とりわけ豊かなインドシナに目を付けて誕生したばかりのベトナムに土足で踏み込んだ。たまたまここが共産主義を旗印に掲げて独立したものだから、アメリカ式自由を伝導するということを口実の一つとして、勝手に上がり込んだのだ。
「日本を倒せたのだから、ベトナムなんてちょろい。」
とアメリカな思った。
ところが以後二十年以上にわたり、国が疲弊してしまうくらいに、この小さなベトナムに苦しめられることになったのだ。
だから、その古傷が痛むので、今では本当に弱いところを見極めてから喧嘩を売るようにしている。
ガキ大将以下の国である。

このガキ大将にはもうひとつ悪い性格がある。
それは自由を伝導するための戦争ならば、相手が兵士であろうが女子供であろうが殺戮することには一向に頓着しないということである。
日本も兵士以上の人口の民間人が焼夷弾と原子爆弾で殺されたが、アメリカ政府は未だに保障はおろか謝罪さえしてくれない。保障をしてくれないものだから、それが当たり前になってしまた日本人の裁判官が「原爆で受けた被害を補償するのは国の責務」と称して外国人である韓国人に「障害補償をしないのは政府の誤り」などという変な判決をだしてしまう。
日本人被爆者は自国民だからケアするのであって、外国人はそこの政府がケアすべき問題だ。金を出してもらいたいのであれば、アメリカに請求するがよろしかろう。
以上、ちょっと余談。

今もアメリカは自由を伝えるためにイラクで未成年者を撃ち殺したり、市場や住宅地を爆撃したりしている。
まことに「自由」を広めるのは大変だ。
今年も平和の伝道者「アメリカ合衆国」は銃と爆弾とミサイルで自由を世界中に広めてくれるだろう。
その結果、犠牲者となられた方々は「あの世」で平和に暮らすことができるかも知れない。

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