とりがら書評
沢木耕太郎のノンフィクション全集、その最終巻「祝杯を乾して」を読了した。
沢木作品のなかから主なスポーツ観戦記を厳選し収録しているのが本書である。
沢木作品のスポーツ観戦記には熱い心で試合を見つめる観客の視線で語られているという特徴がある。
それは著者が得意とするボクシングを観戦するときも、その他のスポーツを見るときも、小難しい技術的な解説をすることなく、私たち一般人の目の高さで語って聞かせてくれるという特徴だ。
私たち一般人が、ある競技に感動を覚えたとしても、その感情の高まりを言葉に表すことは、なかなかできるものではない。
「あー、面白かった」「良かったね」「素晴らしかった」
程度の言葉でしか表現することが出来ないのだ。
沢木耕太郎の巧みな文章は、難しい専門用語を使うことなく、それぞれのスポーツが与えてくれる、多くの人々が受けているであろう感動を、私たちに代わって表現してくれている。
さらに、作品の面白さには、深夜特急に似た紀行文の要素もからんでいることが少なくない。それは読む者にとって、スポーツ観戦をするために、自分自身も旅をしている気分を味わえるという楽しさなのだ。
本書の後半には2002年の日韓共催ワールドカップ・サッカーを題材にした「杯<カップ>」が収録されている。
実のところ、「杯」の単行本が発売されたとき、私は買おうか買うまいか悩んだ末、ついに買わなかった。同時に発売されたオリンピックを扱った「冠<コロナ>」は迷うことなく買い求め二三日で読み終えたのに、「杯」は買わなかったのだ。
なぜなら、もともと私はサッカーに対する興味が薄く、ワールドカップで国中が盛り上がっていたときでさえも、どことなく心が冷めていたからだ。
しかし、それにもまして「杯」を買わなかったのには、別の理由がある。それは「韓国」と共同開催したワールドカップを扱っていたからだという理由がある。
正直私は韓国という国にあまり良い印象を持っていない。
植民地時代の歴史を無理やりねじ曲げて、卑屈なまでに日本を口撃してくる韓国という国が大嫌いだったのだ。その結果として、興味のないサッカーというスポーツと、印象がとびきり悪い韓国との共同開催というワールドカップを扱った作品を、読んでみたいという気持ちには、なかなかなれなかったのだ。
今回、全集に収録されたことをきっかけに「杯」を読んで見ると、意外な事実に心を動かされることになった。
サッカーには相変わらず私の興味をかき立てるものは感じられかったが、著者、沢木耕太郎が各会場を移動するときに接することになる、多くの韓国人の暖かさと力強さに感動を覚えたのだった。
空港からホテルまでの道がわからず、料金を受取ろうとしない律義なタクシー運転手。光州の会場からソウル郊外の新村まで、見知らぬ著者を自分たちの自家用車で送ってくれた学生たち。駅までわざわざ案内についてきてくれた日本時代を知る老人。などなど。
もしかすると、日韓のテレビが報道する韓国は、実際の姿とはかなり違うのではないか、と思えてきたのだった。
飛行機にのれば僅か1時間。一度、韓国を訪れてもいいな、と私に思わせる機会をくれた一冊だった。
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