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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



昨日からの「ほぼ徹夜」忘年会でクタクタのため、今日のブログネタは昨年のパクリ。
では、さっそく今年見た映画のベストファイブ。
もちろん私の偏見と独断で決定すると以下の通りとなる。

1位 ザ・プロデューサーズ
2位 グッドナイト&グッバイ
3位 キンキーブーツ
4位 THE有頂天ホテル
5位 キングコング

驚いたことに、昨日テレビで放送されていた三谷幸喜監督のTHE有頂天ホテルは今年の作品だった。
一年が経つのは早いものだが、早いけれども、こうやって今年公開された映画をチェックしてみると意外に随分前に公開されたような錯覚にとらわれるのだ。
今年の映画で一番話題になったのは「ダ・ヴィンチ・コード」だったが、以上の5作品と比べると話題性の割に力量不足という感は否めない。
またアクション物ではキングコングが、ジョニー・デップのパイレーツ・オブ・カリビアンのどちらか、ということになるのだが、後者は完結せずに次回作に「続く」という終り方をしたのでランクから除外した。
なお今年は38本の新作映画を映画館またはビデオで鑑賞した。
ところで、今年の一月に見たスクールデイズという映画をまったく思い出すことが出来ないが、どんな映画であったのだろう?

で、続いて書籍のベストファイブ。

1位 レディGO!
2位 イグノーベル賞
3位 ビール15年戦争
4位 外科の夜明け
5位 ウルトラダラー

書籍は必ずしも全てが本年の刊行ではなかったベストファイブを挙げると上記のようになる。
レディGO!では主人公のキャバクラ嬢に元気とビジネスのなんたるかを学び、イグノーベル賞では世の中に溢れる本物の奇人変人を発見し、ビール15年戦争ではビール業界のプロジェクトXに感動した。
外科の夜明けでは麻酔術発明以前の外科治療に驚愕し、ウルトラダラーでは外交の闇部分を堪能した。
で、読みきった書籍は51冊。
10月に転勤したため冊数が落ちた。

来年はどんあ魅力的な映画や書籍に出会えるか。
ということで、
皆さんにも私にも良き年でありますように。

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サダム・フセイン元イラク大統領が処刑された。
罪状は「人道に反する罪」。
1982年、イスラムシーア派住民140人余りに対して出した処刑命令を理由にする判決だ。

サダムが処刑されたことに関しては様々な意見が溢れているが、私の意見は反対だった。
一人の日本の市井の人間が「反対」といったところでどうにもなるものではないが、今回のサダムの裁判はあまりにも正義に反していたと言われなければならない。
いや正義は確かに存在した。
しかしそれはイラクの正義でもなく、ましてアラブの正義でもなかった。
それはアメリカ合衆国の正義だった。

私は死刑反対論者でも当然ない。
重大な罪を犯したものに対しては死をもって償っていただくのが当然の論理であり、被害者にとっても犯罪者にとっても人間としての尊厳を一番尊重した懲罰方法だと難く信じている。

しかしながら、その懲罰を導き出すための手法に明らかな誤りがある場合、私はその死刑に反対する。

今回のサダムの例は明らかに論理的手法が欠如した政治的な懲罰であった。
ひとえにアメリカの国益が優先し、その国益のためにサダムは絞首刑に処せられた。
イラクには北朝鮮とは異なり大量の石油資源が眠っている。
この資源の主導権を握ることが21世紀におけるアメリカ合衆国の国益に叶う事柄で、そこにはイラク国民の利益は潜在しない。
むしろ逆で、イラク国内の民族問題に火をつけるべくクルド人を支援し、イランを巻き込み、たとえそれが圧制と言われようと唯一安定した統治をもたらしていたサダムを拘束。
死に追いやった。

「人道に反する罪」をサダムにかぶせるのであれば、アメリカ合衆国大統領はどうなのか。
イラクの開放を叫びながら多くのイラク人一般市民を殺害したばかりか自国の兵士の命も鑑みない。
狂気に走った米兵の一部はベトナム戦争時代のソンミ村事件を彷彿させる虐殺事件を引き起こした。
これは「人道に反する罪」ではないと言うのだろうか?
米軍の最高指揮官は大統領。
その米国大統領にとっては対日戦争での原爆投下も、ベトナム戦争のナパーム無差別爆撃も、枯葉剤のバラ蒔きも、イラクへの無差別攻撃も「人道に反する罪」にはならないらしい。

サダムももちろん残酷だった。
しかしアメリカの正義を持ち込んで裁いた判決はフェアじゃない。
アメリカには裁く権利など有りはしない。
なぜなら、サダム・フセインは合衆国大統領の鏡そのものだからだ。

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昨年の10月1日から書きはじめた旅行記「ミャンマー大冒険」は結局全117回をもって完結した。
もともと二三ヶ月で書き上げるつもりが、だんだんと膨れていき「GWまでには終らせよう」という心積もりが、「盆休み」までになり、それでも終らず「秋祭りまでには」が結果的にクリスマスの翌日になってしまった。

たった一週間の旅行を書いただけで、400字詰め原稿用紙にして800枚以上にも成ってしまったのにはわけがある。
2005年9月に旅したこのミャンマー旅行は私にとって忘れたくても忘れられない貴重な体験となったからであった。

もともとこの時の旅行はヤンゴンからの夜行列車に乗るというのが大きな目的であったのだが、その夜行列車を利用してしまったがために日本国内では体験できないトラブルに遭遇し、多くの経験へ多くの人との出会いにと繋がったわけだ。
マンダレーからバガンまでの9時間にもわたる川下りの船旅も初めての経験で、両岸に広がるミャンマーの田舎の景色は、地球の大きさを私に感じさせる初めての旅にもなった。

私が利用したダゴンマン列車はこの夏に廃止され、今は走っておらず、ヤンゴンからマンダレーまでの鉄路は現在は昼間の特急となっていること先月ミャンマーを訪問した時にTさんから聞き知った。
わずか一年少しで現地の状況も大きく変わって来ているというわけだ。

この旅の最終日。私はTさんと一緒にバガンから空路ヤンゴンへ戻った。
バガンまでの道のりがあまりに長かったので、バガンからたった1時間少しでヤンゴンへ帰ってしまったことにいささか拍子抜けしてしまったのも事実だった。

ヤンゴンへ戻ってからも、実のところビックリするような体験をいくつもしたのだった。
そのビックリするような体験は、迷惑のかかる人がでると困るのであまり詳しく書くことは控えるが、ヤンゴンを離れる最後の最後まで、何か特別な力が働いているのではないかと思えるほど、信じられない出来事の連続だった。

タイのバンコクで4日間ほど過ごした後、日本へ帰ってきた。
日本へ戻ってきてから一月後、ミャンマーのTさんから受取ったニュースは悲しいものだった。
それは彼女が故郷に残してきた病床の姉さんと、元気だったはずのお母さんを相次いで病気で失ったという知らせだった。
すでにお父さんを亡くしていた彼女は一家の大黒柱的な役割を果たしていたことを知っていた私は、彼女が家族全員を失ったことに胸を痛めた。
実際のところ、日本からでは何もしてあげられることはなく、私は自分の無力さをつくづく悔やんだのであった。

すぐにでもミャンマーへ出向いて元気づけてやりたい気持ちだったがそういうわけにも行かず、結局再度ミャンマーを訪れたのは今年の4月1日だった。
空港に姿を見せた彼女は心労からかなり痩せた感じだったが、
「今日はエイプリルフールだからガイド友達と図って別の人に私の振りをしてもらおうと思ったんですけどね、可哀想だから止めなさいって言われちゃって.......ハハハ」
と相変わらず陽気で元気一杯の姿を見せてくれた。

この時はミャンマーに8日間滞在し、ミャウーという秘境の町やインド洋に面したグウェーサンビーチという新しいビーチリゾートを訪れた。
この時の話は年明け後、追々書いて行こうと思っている。

で、先月の1日から、またまたミャンマーを訪れてシャン州の祭りを体験してきたわけだが、Tさんもすっかり元気になり、
「これからは自分のために働こうと思っています」
との言葉に私も安心したのであった。
そして、さらに私は、私を含め多くの日本人の友人が彼女を支えていることも知ったのであった。
「何度も日本から来てくれるお客さんは『私の家族』だと思っています。これ、いけませんか?」
というTさんの一言に私は嬉しくなった。
「大いに結構!」
私は自信たっぷりに太鼓判を押してあげた。

これからもミャンマーというTさんの国は、私に様々な想い出を刻み込んでくれることだろう。

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「正社員ではなくなった人たちが六百万人で、パートやアルバイトは逆に六百万人増えているんですね。これでは益々、社会の格差は広がります」

と伝えているのは常軌を逸した給与を得ていることで有名なマスコミだ。

したがってテレビやラジオで「格差社会」と聞くたびに、白けた気分になるのは私だけではないだろう。

日本は他の先進国に比べて格差の少ない社会としてつとに有名である。
例えば、大企業の経営者でも年間数十億円数百億円もの給与を受取っている人は、まずいない。
かといって、特別な労働者を除いて最低賃金で働いている人も、まずいない。

ところがアメリカなどは国民の平均年収が二万ドル台にも関わらず、企業の経営者は何億ドルもの給与を得ている。
たとえその会社が「赤字経営」でも、契約さえきちんとん為されていれば、頂くものだけは頂くのがかの国のシステムだ。

「大企業を保護して、中小企業をないがしろにするのが格差社会」
とおっしゃるのも、この格差社会危機論が大好きな高給マスコミの皆さんの謳い文句だ。
この「大企業云々」は共産党のお題目の1つで、彼らはいつも「自民政府の経済政策は『大企業中心で』」となって中小企業の味方をしている振りをしている。
とどのつまり、高給マスコミの皆さんは赤旗新聞と紙一重。
よくよく耳を澄ましていれば格差社会は「朝日」「毎日」「NHK」が叫んでいることが多いのにすぐ気がつくので合点が行く。

とは言うものの、我々中小企業に勤める、もしくは経営するもにとっては大企業との格差の存在は実感として持ちえているので、気持ちがビビビと反応しないこともないのが辛いところだ。

ところで、儲かってもいないし、むしろ大赤字経営にも関わらず高給を取り続けて、おまけに業務上横領を犯しても責任1つとらない人々。
つまり「大阪府職員」の皆さんに代表される公務員なんかは、いかがだろう。
悪いことをしても罪悪感1つなく、責任感のかけらもないのは、公務員という特権階級のなせる技。
一種の専制政治というわけか?

公務員と一般人の間には、明らかに格差がある。
こういうのを「格差社会」と言うのだと私は思う。

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15年ほど前になる。
当時習いはじめた英会話スクールで知りあった仲間数人とオーストラリア人の講師二人と一緒に授業が終ってから飲みに出かけた。
場所は大阪梅田、お初天神商店街。
天狗という大衆居酒屋でビールや焼酎、日本酒などを浴びるように飲みながら夕食をとり「さあ、カラオケや」と2次会に向かった先が、阪急東通り商店街奥にあった「タイムトリップ」というカラオケボックスだった。

総勢10人ぐらいの大所帯だったので、みんなで入れるカラオケボックスはそこぐらいしか空いていなかったように記憶する。

持ち歌の少ない私は、ここでアリスの「チャンピオン」を熱唱した。
チャンピオンは私の十八番。
この歌で外したことがないので、いつも歌わされる時はこの歌を歌うことにしている。
歌いやすいこともあるし、アリスの歌は気張って歌うとそれなりに聞えるようなので私にとっては気楽でもあるのだ。

歌った歌は大受けし、オーストラリア人の二人の講師も興奮した。

で、なぜかそこで彼らが私を呼んだ名前が、
「ジェームズ・ブラウン」。

アリスの歌を歌ってJBというのもなんだか変だが、もしかすると私はシャウトしていたのかもわからない。
以来、レッスン中の私の名前は「ジェームズ」となり、やがて飲みに行っても「ジェームズ」で、新しく入ってきた仲間は私の本名を知ることなく「ジェームズ」で覚えるようになってしまった。
時が経つと共に、私自身も「ジェームズ」という名前が気に入って、自ら使用するようになった。

外国人にとって私の本名を覚えるのは難しいらしいのだが、「ジェームズって呼んでいいよ」と言うと、簡単なのでそれが固定された名前になった。

ところで、ほんとかどうか知らないが噂によると、アリスとジェームズ・ブラウンは関係なくもない間柄だという。
アリスを結成する以前、まだ売れていなかった谷村新司やそのスタッフはジェームズ・ブラウンを招いて大阪でライブを開催するイベントを企画した。
すでに大物だったJBは、なんとその企画を承諾し、大阪のフェスティバルホールでライブを開催。
今だったら入手困難なプラチナチケットとなるところだが、なにが悪かったのかまったく売れず、ライブ当日集まった客はわずか50人程度。
後にアリスを大ヒットさせたメンバーは莫大な借金を抱えたという。

そんなこんなで、アリスの歌をカラオケで歌い「JB」の称号を貰った私は、今も通っている別の英会話スクールでも「じぇいむず」(ひらがなになりました)を使っている。
もちろん、このブログの管理者名も「じぇいむず」だ。

そのジェームズ・ブラウンが亡くなった。
享年73歳。

さらばJB。
いろんな伝説をありがとう。

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眼前に広がる夜明けのバガン。
そのパノラマ。

「Tさん....凄いよ......ありがとう」
「.....何がです?」
「夜明けを見に行こうって言ってくれて」

もしTさんが昨夜、朝日を見にいこうと誘ってくれなかったら、私はこの雄大で爽やかで素晴らしい景色を一生目にしなかったかも分らない。
だからこそ、私はTさんに本心から感謝の言葉を捧げたのだ。
しかし、彼女にとってはそんなに珍しい景色ではないらしく、私ほどには感動していない様子だ。
このダイナミックな景色は日常的な風景なのかもわからない。
もしそうだとすれば、それは凄いことではないか、と思えるのだった。

いったん太陽は低く垂れ込めた雲の中に隠れてしまったが、再び顔をのぞかせた時、その輝きは私たちの周辺に広がる無数の遺跡の仏塔を照らし出しバガン全体に黄金の塊が鏤められたような景観を浮かび上がらせたのであった。

「凄い.......」

とつぶやいたのは私ではなくTさんであった。
やはり彼女もこの景色に大きく感動していたのであった。

「凄い景色ですね」
と繰り返す。
「来て良かったです」
私と一緒やないかい、と思ったのは言うまでもない。

実際のところ、Tさんも色んなお客さんを案内し、ここバガンを訪れるのだが、朝日を眺めることはほとんどないのだという。
それはほとんどのお客さんは夕景なら是非とも見ておこうとするのだそうだが、朝日は拝まない。
なぜなら朝日を拝むためには早朝に目覚めなければならず、面倒だ。
それに、そんなに無理して起きるよりも、朝は居眠りを決め込むことにした方がいい、という考え方に原因があるようで、つられてきっとTさんも居眠りを決め込むのだろう。

「田舎はゆっくりとできるから良いですよね」

と以前彼女が言ってたのは、ゆっくり眠れるからかも分らない。

でも、本当はガイドさんだからといって、こんなに朝早く客の相手をする必要はないのだ。
ガイドさんでも勤務時間というものがあり、朝の5時にホテルからお客さんを案内し、朝日を見せなければならないという義務はない。
私はガイドさんというよりも友人として接してくれたTさんの好意を大切にしたいと思ったのだった。

太陽が高くなるにつれ周辺の風景もはっきりと見えるようになってきた。
陽の光が投じてできる周辺のパゴダの影は、だんだんと短くなってきている。

「反対側へ行ってみましょうか」

とTさんを誘って太陽の昇ってきている方向とは反対側。つまりパゴダの西側へ下へ落っこちないように仏塔の周りを歩いて廻った。
太陽に正面を照らされた西側の景色を見たかったのだ。
ところが、西側へ行ってまた新しい感動が私たちを待っていたのだ。
私の見た感動的な驚くべき景色とは、順光に照らされた美しいバガンとエヤワディ川の輝きではなかった。
その光景とは、今、私たちが登って立っているダーマヤジカ・パゴダの仏塔がバガンの大地に巨大なシルエットを投映し光と影のドラマを展開している景観だったの。

「Tさん、凄い。パゴダの形が地面にクッキリと浮き出てるよ」
「.......ホントですね.......全然気がつきませんでした.......凄いですよ」

とTさんもそのダイナミックな影の形に暫し呆然の趣だった。

パゴダから降りてきて自転車の所まで戻るとすっかり夜は明けきっていた。
子供たちも朝の掃除は終りのようだ。

「さあ、帰りましょうか」
とTさんは言った。
「いやですけど、帰りましょう」
「なんですか?それ」
「日本に帰るのがイヤなんです」
「ハハハ.......馬鹿なこと言わないで下さいね」
「ハイ」

自転車に跨がりパゴダの参道から表通りに出ると、通勤通学の多くの人々が自転車に跨がりバガンの朝の風を切って走っていた。
あるものは肩掛のシャンバックを下げて。
またあるものは2重や3重のステンレス製のお弁当箱を下げて走っていた。
私たちも走った。

「ホテルまで競争しましょうか」
とTさん。
「私に挑戦するとは10年早いですよ」
と私。
「え~、じゃあ、行きましょうか」
とTさん。
「行きましょう」

私は思いっきりペダルを漕いでTさんの前に出た。

「あ、私より先に行ってホテルへの道、わかるんですか」
「.....あ....わからない。」
「ほらほら!」

とTさんが笑いながら私を追い抜いて行った。

「あ、こら!待たんかい」

バガンの空は紫色から澄みきった紺碧の色に変わろうとしていた。
天気晴朗。
今日も暑くなりそうだ。

ミャンマー大冒険 ~完~

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はるか東の地平線にキラリと光る太陽の輝き。
「あ~、日本ではもうみんな出勤している時間だ」
と考えなくても良いことを、ついぞ考えてしまった私であった。

2005年9月24日に私が撮影。
バガンを照らす旭日はこの後数分間、素晴らしい芸術を見せてくれるのであった。


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日の出の時間まであと1時間少し。
まだまだ外は暗い。

日本でも田舎の夜道は街灯もなく真っ暗であることが普通だから、ここミャンマーのど田舎バガンに街灯などあろうはずはなく、懐中電灯がなければ、どの部分が道でどの部分が畑なのか区別もつかないような状態であった。

「Tさん。こんな暗い中で 道、ちゃんとわかるんですか?」
「なに言っているんですか。私はガイドですよ」
「はい、ガイドさんです。でもTさんですからね」
「.....ハハハ.....」

というようなことを言いながら、ダーマヤジカ・パゴダに向かってペダルを踏みはじめたのだった。

しばらく走り、目がなれてくると私は真っ暗ではないことに気がついた。
周囲のディテールがほんのりと浮かび上がっているのだ。

「星明かりですよ、Tさん」

満天に輝く星々が放つ淡い輝きが大地を照らし出していたのであった。

「田舎ですから」
とTさんは言った。

確かに田舎だ。
ミャンマーでも都会のヤンゴンで星を眺めることは難しいが、田舎のバガンでは星をくっきりと眺めることができるのだ。
よくよく考えてみると、星を眺めるなんてことは久しぶりだった。
子供の頃、好きで見ていたテレビのSFシリーズに魅かれて天体観測をするのが趣味であった時期が少しだけあった。
ただ子供のやる観測なので望遠鏡をのぞき込み、月や火星、シリウスなどの明るい天体を見ることだけという観測スタイルで、それを写真に写すだとか、スケッチするような「おりこうさん」のようなことはまったくしなかった。
だから正しくは観測ではなく、観賞と言えよう。
で、星をしみじみと眺めるのは、それ以来のことかもしれないのだった。

自転車はやがてロータリーにさしかかった。

「どっちに行くのか分ってるんでしょうね?」
「わかってますよ~」

とTさんは進路を右斜め方向に進路を取った。
私はその後を追いかけた。

バガンの朝。
自転車で走るというのがこれほど心地良いとは思わなかった。

「あそこですよ」

走り始めて20分ほどが経過した。
左手にライトアップされたレンガ色のパゴダが見える。
ダーマヤジカ・パゴダだった。

パゴダの看板の前で自転車を降りてサンダルを脱いだ。
土産物屋はさすがに店開きをしていないが、驚いたことに小学生ぐらいの子供が数人ほうきを持って境内の清掃をしているのだった。

朝日を見に来る人は本当に少ないのか、客というか参拝者は私たち以外に誰もいなかった。
暗い足元に注意しながらゆっくりとパゴダをよじ登っていく。

「気を付けて下さいね」
「大丈夫ですよ」

どうやらTさんは私が高所恐怖症であることを見破っているようだ。
なんとなく悔しい。

ダーマヤジカ・パゴダはかなり大きなお寺で、昼間ここに来なかったのは何故だろうと思うくらいメジャーな感じのする場所なのであった。
尤も、バガンには千以上の仏教遺跡が点在するので、大きなお寺だけでも総てを見て回るにはそれ相応の時間を要するのに違いない。

パゴダの中ほどに平に成った部分があり、ここでご来光を拝むことになった。
東の空の方は、もうかなり明るくなってきている。

「朝日、見れるかな」
とTさん。
「ちょっと雲がありますね」
「せっかくここまで来ていただいたんですから、朝日が見れないと」

パゴダのレンガ造りの欄干に腰を掛け、次第に明るくなってくる東の空を眺めていた。
小鳥の囀りが聞え、時折、鶏が「コケコッコ~!」と鳴き、犬がワンワンと吠える。
下からはほうきで掃く「サッサッ」という音が聞え、静かなようだが、結構賑やかなバガンの朝であった。
つまりバガンの朝は静かだが、同時に日常の生命が脈動しているのが活き活きと感ぜられる所でもあった。

「あ」

とTさんが小さく叫んだ時、遥か東の山の稜線から太陽がキラリと顔をのぞかせた。
太陽の宝石のような小さな点が眩しく輝いていたのであった。

つづく

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やしきたかじんと毎日放送に「個人の名誉を傷つけた罪」で賠償命令が出されたのは、昨日のこと。

たかじん、といえば関西では知らぬものがいないほどの芸人だ(本当は歌手)。
その一番の魅力がバラエティ番組で見せる毒舌だが、今回はその毒舌が災いし、対象となった「一般人の男性」に名誉既存で訴えられて敗訴したというわけだ。

このたかじんを打ち負かした「一般の男性」とは、元アイドル、現在は関西のオバハンタレントとして活躍する堀ちえみの元ダンナだそうだ。

実は、この堀ちえみの元旦那が結婚を前提(らしい)として付きあっていたと語っていた女性を偶然にも私は知っている。
もう十数年前の話になるし、本当かどうかは知らないが、
「結婚しようね」
といって男は彼女と交際していたらしいが、好きな女(堀ちえみ)が出来たので「サヨウナラ」といとも簡単に降られたそうだ。
「有名人の女の方が、見栄えが良い」
というのが見え見えで、そのドロドロとした男女の話を耳にした私は、もう二度と聞きたくないという気分になったのは言うまでもない。

このヘンテコリンな話を私に明かした女も変であれば、こんな女と付き合っていて、有名人だからと別の女に手を出した男も男だ。
確か、「彼、歯科医をやっているのよ」との言葉に「ほんまかいな」と疑問を持ったが、堀ちえみのダンナは歯科医、と当時耳にして「あれは本当の話やったんか」と悪夢を見ているような気分になったことを今も覚えている。

で、私は勝訴した男性に言いたい。
有名人を嫁さんにもらったのなら、あれぐらい(たかじんに言われたこと)のことは、覚悟しないでなんとする。
人はこれを有名税と言うんだよな、これが。

ということで、こんな変な男に訴えられ、アホ裁判官に敗訴を告げられたやしきたかんじんこそ気の毒だ。
これにめげず、胸のスカッとする関西ローカルバラエティの系譜を守っていただきたい、と思う私なのであった。

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2006年はデジタル一眼レフカメラの本格デビューの年となった。
ソニーがミノルタ製品を引き継いでアルファシリーズを発売したのを皮切りに、ライバル・パナソニックもライカレンズで勝負を挑んできた。

もちろんニコン、キャノンのカメラメーカーも黙っておらず、一般消費者に手が届く初めての一眼レフカメラを次々と市場に送り込んできた。

東南アジア旅行に現を抜かしている私なんぞは旅で金を使い果たし、「映像のプロです」なんて自称しながらも、デジタル一眼レフは買えずにいる。

カメラ雑誌を毎月立ち読みしているが、どの雑誌も各メーカーの写し比べに精を出し、
「ん~、他に企画はないんかい」
という悪態がいつも口をついて出てしまう。
もっとも読者としても、どのカメラの画質が優れているのかが一番気になるところなので、同じ企画が繰り返されるのも無理はない。

で、その比較でいつも気になっていたのがペンタックスとオリンパスの画質だった。
どう気になっていたかというと、「他社に比べて画質が良くない」という意味で気になっていたのだ。

印刷物の比較なのでなんとも言えないが、キャノンやニコン、ソニーなどは美しく印刷されているのに、この2社は「暗い」「色が不自然」「画層が甘い」などの欠点がうかがえた。

「ペンタックス。デジタル一眼、韓国のサムソン電子と共同開発」なんていうニュースが数ヶ月前に出された。
その後、発売されたのがK10とかいうペンタックスの主力機種。
サムソンはずいぶん前から日本のカメラメーカーの下請けをしていて「組み立てること」の実績はあるだろうが、韓国のメーカーとの「共同開発」に、名門ペンタックスの行方が心配された。

で、昨日のニュース。

「レンズがカメラを食う!」


新聞紙上にこんな見出しが載っていた。
なんとなく「怪! 怒りを食う」みたいなタイトルだが、ペンタックスとめがねレンズのHOYAが合併をするという。
事実上のHOYAによるペンタックスの吸収合併。

ヤシカが無くなり、コニカ・ミノルタが消滅し、次はなんとなくペンタックスか。
メガネのレンズ屋さんに高度で繊細なカメラ技術が継承できるのか、今後のニュースがちょいとばかし気になるところだ。

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