日本は奇跡としか表現のしようがないいくつもの幸運に恵まれ、これまでその歴史上の危機をを乗り越えてきた。
とりわけ幕末維新のドタバタは、人材、経済、世界情勢に恵まれて、他のアジアの国々のように欧米列強の植民地になることから免れることができたのだ。
政治面では島津斉彬、松平春嶽のような開明的な指導者をはじめ若く高い教養を持つ多くの活動家が現われた。また封建制度を維持しながらも経済的には現在とほとんど変わらぬ高度な資本主義システムを確立していた。
そして、ヨーロッパでの普仏戦争やアメリカ大陸における南北戦争も日本にとって植民地化を免れる大きな要因になった。
吉村昭がその最新刊「暁の旅人」で描いた初代陸軍軍医長の松本良順は、幕末維新の難しい時代、オランダ軍医ポンペに師事し、日本の医療技術を近代的な西洋医学へ導いた科学の分野に於ける人物の一人だ。
吉村昭の描く歴史時代小説は、緻密に調査した取材をもとに書き進んでいくという一種のノンフィクション趣を持っている。
このノンフィクション的な醍醐味こそが魅力的な理由の第一要素だろう。
もともと、この吉村昭は半世紀近く以前に発表した戦史小説「戦艦武蔵」で注目を集め人気作家としての地位がスタートした。
その後、多くの戦史小説を発表されたが「戦後半世紀が経過し、戦争体験者の証言も年とともに正確さを失ったり、その証言ができる人そのものが故人となるなど、証言を得ることが難しくなってきた」という理由で、十数年前から主力を時代小説に置き換えるようになってきた。
かといって時代小説においても、ノンフィクションの香りがするスタイルを捨てることはしなかった。
今回の「暁の旅人」でも、そのリアルな人物および情景描写で私たち読者を魅了してくれているのだ。
この松本良順の姿を通じて、とりわけ強烈に感じたのは、当時の日本人のどん欲な知識吸収欲だ。
奥医師は漢方医で構成されていたが、その女性的な策謀で蘭方医が追放されたあと、良順は奥医師として幕府に仕える身となる。
しかし、ちょうど長崎出島に赴任してきたオランダ医ポンペに師事することを希望し、やがて許されるところから、良順だけではなく、その周囲の人々までが大きく時代を動かせていくことになる。
専門の通事でさえ苦心する専門用語が錯綜するオランダ語での講義。
タブーを破っても実行された死体解剖。
その解剖実習に献体した罪人たちの姿。
基礎科学から学習するという始めての経験。
などなど。
社会を幸福にするための技術習得がいかに難しく、そしてその難しい命題に対する日本人の気高いチャレンジャー精神が胸に迫って来るのだ。
一般に幕末の徳川政権には良き政治家官僚がいなかったように描かれることが少なくない。
しかし、この小説には多くの優秀な官僚や政治家が登場し、新政権を誕生させた人たちだけが今日の日本を形作ったのではない、ということがこの小説から伺えることもまた興味深い。
~「暁の旅人」吉村昭著 講談社~
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