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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



まる2週間以上、劇場で映画を見ずにいると禁断症状が現れてくるくらい頻繁に映画を見に行くようになった。こんなことは大学受験を控えて受験勉強に勤しんでいた高校3年生の夏休みの時以来のことである。

きっと私は、日常の生活がシビアになればなるほど、その緊張を緩和するために映画鑑賞を欲するようになるに違いない。
桂枝雀の「緊張と緩和」理論は笑いだけでなく、私の映画鑑賞中毒症にも当てはまるようだ。

とうことで、2週間ぶっ続けで働いた私は、先週末やっとのことで話題作「チャーリーとチョコレート工場」を観てきたのだ。
この映画は、ジーン・ワイルダー主演で30年前に製作された「夢のチョコレート工場」のリメイクだ。

チョコレート工場と聞けば、私はいつも大学に通う途中にあった、某有名製菓会社のチョコレート工場を思い出す。
元来私はチョコレートが大好きで、物心がついたときからチョコレートさえあれば、他のお菓子はまったく必要がないというような子どもだった。
ところが、このチョコレート工場の前を毎日通っているうちに、チョコレートがあまり好きでなくなってしまう、という現象が発生した。
これは私が大学生という名前の酒のみになったからでは決してない。
今、私はそのチョコレートアレルギーも解消されて、酒を飲みながらでもチョコレートを食べることが出来るという、傍から見ると気分が悪くなるような組み合わせでも大丈夫な体質になっていることからも、それは否定したい。甘党でも辛党でもないのだ。
ではそのとき、どうしてチョコレート嫌いになったかというと、単に臭いに辟易したからだった。
つまりチョコレート工場はチョコレート臭いのである。
それも猛烈に。
工場の周囲数百メートルはチョコレートの匂いが立ちこめていたのだ。
「どうして、この人たちはこの状態に我慢できるのだろう?」
と、元気に工場で働く人を見かけるとそう思ったものである。

この「チャーリーとチョコレート工場」を観ていると、この工場の匂いがフラッシュバックして「自分が招待されたら甘ったるいカカオの匂いに包まれて、きっと気分が悪くなるだろな」という、映画とはまったく関係ない生理的感想にとらわれてしまったのだった。

ま、映画そのものはファンタジー100%のおとぎ話なので、「工場の建設費はどうしたんや」とか「営業部門はあるのか」とか「工場はモクモク煙を上げているが環境問題は大丈夫か」「ISO9001、ISO14001は取得しているのか」「チャーリーの爺さん婆さんの下の世話はどうしているのか」といった堅いことは考えないほうがいいだろう。
それに前回のワイルダー主演の作品とは違った面白さがあった。
とりわけ魅力的だったのが小人の集団「ウンパ・ルンパ」だった。
CG技術のたまものである、この濃いー同じ顔のキャラクターたちが繰り広げるミュージカルシーンは、極めて印象的で脳に焼き付いて消えそうになく、夢に出てきてうなされそうだ。
それと主演のウィリー・ワンカを演じたジョニー・デップの狂気ぶりもなかなか見事。前作のジーン・ワイルダーの演じたワンカは変人であったが、デップのそれは狂人であった。

ともかくカラフルな異次元ファンタジーが好きな人にはおすすめの映画だ。

~「チャーリーとチョコレート工場」2005年アメリカ映画 ワーナーブラザーズ~

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今を時めく小泉自民党が新憲法草案を発表した。
それによると、現行憲法第九条の一部を改正し「陸海空のその他の戦力を保持しない」という項目を削除するらしい。
ただし中途半端なことに「.....武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する」という妙竹林な条項はそのまま温存するというのだから、小泉首相の発言のように多分に玉虫色の草案だ。

それで現行九条の「武力を保持しない」項目に代わる新憲法草案の項目が「自衛軍」の創設である。

言うまでもなく、自衛軍は自衛隊の新名称案で、任務は大きくわけて3つある。

ひとーつ!
「国際社会の平和と安全の確保」(PKO対策かな?)
ふたーつ!
「緊急事態における公の秩序の維持」(テロや自然災害対策かな?)
みっつー!
「国民の生命と自由を守る」(おっ!やっと目覚めたか。横田めぐみさん等には遅すぎたけど)

桃太郎侍ではないが、そういうことである。
至極もっともなことが、1945年の8月以来、これらの国家主権を60年間も真当に主張できなかったことが異常であり、なんで今さら、というような字句なのだ。
しかし、先述したように「国際紛争の解決に武力を抛棄」しているのだから、もし悪の赤旗チームが沖縄と対馬と福岡ドームに襲いかかってきても、白旗(縁起悪いの)チームの日本は赤旗チームもとりあえず「国家」なので、国際紛争の解決に武力を使えないというルールがあり動けない。
したがって第2条に謳っている国際社会の平和と安全の確保もできなければ、公の秩序維持もできやしない。国民の生命と自由なんて、なおさら守れないのだ。

今の政治家さんは、現実に見えるものよりも言葉遊びのほうがお好きと見える。
国際紛争の解決に武力を抛棄して、どうして国民の生命と自由を守るつもりなのか。
言葉遊びが好きなら、どうして「笑点」に出演しないのか。
司会、三遊亭準一郎。回答者、桂晋三、林家太郎、桂信孝、三遊亭康夫。座布団はこびは、やっぱり杉村太蔵。
で、言葉遊びが好きだから、自衛隊に与えるつもりの新名称が「自衛軍」。
自衛隊とどこがちがうのか私はアホなのでよくわからない。
が、「隊」と「軍」ではもちろん意味が違うから文字の持つ「イメージ」が異なると思っているのだろう。
つまり例えは悪いが「乞食」を「ホームレス」と呼んで意味をぼかしているのと同じなんだ。
言い訳するための「言葉遊び」か、それとも中韓に対して単に中途半端に媚びているだけなのか、わからない。
わかっているのは、この草案を作成した自民党の皆さんが「かなりヘンな感覚の持ち主」ということだ。

我が国は主権国家なのだから遠慮などせず、どうして堂々と日本国陸海空軍としないのか。
言葉遊びがお好きなら、いっそのこと自衛隊の新名称は「地球防衛軍」とか「国際救助隊」にでもしては如何だろうか。
そうすれば、
「軍備を再編した日本には軍国主義と帝国主義が蔓延している」と赤旗チームにケチをつけられ時、
「いいえ、ゴジラの上陸に備えてるんです」と答えればそれで済む。

(おことわり:自民党を茶化してバカにしてますが、基本的に私はプチ自民党支持者です)

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「えー、今後タイムカードは廃止して、この勤務記録表を使用します」
「なんですか?それ」
「このA4サイズの用紙の両面に必要事項を記入する表が印刷されています。毎日出勤したら自分のハンコをついて、その日の勤務時間を始業時間から終業時間まで記入してください」
「この『残業許可時間』って、なんです?」
「毎月の合計残業時間がその時間を越えないように勤務してください」
「でも1ヶ月『24時間』なんて無理ですよ。毎日2、3時間は必ず残業するんですから。そんなこと総務部長もご存知でしょ」
「だから『記入は24時間以内にしてください』という意味なんです」
「なに?」
「たとえ1ヶ月間に100時間残業残業しても24時間にしてください。」
「もし、過労で死んだらどうするんです?公式の記録は24時間。でも実際は200時間。だとしたら、労災、降りないんじゃないですか」
「そこは、なんとします。会社は放っておきません。」
「(ウソだろ)」
「勤務超過を放置して従業員に何かあれば『役所の責任になるから』という理由での役所からの指導です」
「ほほ~、大泉大津労働基準監督署の指示ですか」
「...そうです。お役所は責任をとりたくないので、そういう指導が入っています」
「ということは厚生労働省大阪労働局大泉大津労働基準監督署は『ウソの勤務記録を残させて』万一、誰かが過労死しても『ウチの責任じゃないですから』と言いたいがために、こんな書類の運用を弱小の民間企業に指導しているわけですね」
「大きな声で言わないでください。平たく言えば、そうです。でも役所には逆らえません」
「そうですか、たとえ正義に反してでも『役人が困らないようにしなければいけない』というのが、会社の考えであり『大泉大津労働基準監督署』のポリシーなわけですね」
「何か、他に言いたいことは?」
「わかりました。大泉大津労働基準監督署の指示ならば、仕方ありませんね」

というのが、数年前、うちの会社で交わされた月初会議での一コマだ。

一連の大阪市役所の不正行為を言うまでもなく、とんでもない人たちが多いことで知られる役人の世界。
今の日本の巨額財政赤字の生まれている原因は、民間が汗水垂らし命を削って稼いだお金を役人が放蕩三昧に使いまくっているというところにある。
確かに立派な役人の方も多いのだが(少ないと国が本当に潰れる)、それらの人は力がないのか、上記のような妙な指導を平気でする人が存在する。
つまり「自分のミスの実績を残さない構図を作る」のに躍起なのだ。
役人は形にこだわり、自分の起こした些細なミスも記録に残ることを嫌うあまり、自衛本能が働いて応用がまったく利かなくなってしまう。
たとえば、役所で物品を購入する時は、価格調査など面倒だから自分でしない。そのかわり複数業者に見積もりを出させて、それを公式な書類として添付する。
その「複数業者」が裏でつるんでいることを知っていても知らんぷり。
書類の形さえ整っていれば彼らには良いのだ。

このような、困った役所の困った役人が民間企業に研修にだされると、果たして、いったい、どうなるだろう。
というのが本書「県庁の星」のストーリーだ。
帯の広告にあるとおり「本末転倒、怒り心頭、抱腹絶倒、ラストは感動」の言葉通り、スリリングでスピーディな「感動!コメディ」だった。
聞くところによると織田裕二主演で映画製作も進んでいるということなので物語の内容には触れないが、役所のお役人の姿が、マニュアル世代の若者に重なりあうことも面白いし、物語内で展開される、なかなか鋭いマーケティング手法も興味をそそる。

ちょっと漫画チック過ぎるところもあるにはあるが、ほんと、これも帯の言葉どおり「手に汗握る、役人エンターテイメント」だった。

~「県庁の星」桂望実著 小学館刊~

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「格好良く見せたいんですね」
とTさんは言った。

最近、ミャンマー政府は体裁を気にして市場や学校、それにスラムなどといった場所を外国人が許可なく撮影すること禁止にしてきているという。
明確な基準はないけれど、「貧しい」とか「整備されていない」「教育がない」というような印象を与える場所を恥じるらしい。外国人が写真に撮ってホームページなどに掲載されると「格好悪いから」という理由で規制を設けはじめたというのだ。
まったくもって、可笑しいとしか言いようがない。

きっとミャンマーもASEANの議長国にならなければならない、とか、観光産業を盛り上げてもっと外貨を獲得しなければならないとか、という事情があるのだろう。
しかし、勘違いしてもらっては困るのだ。
国は映画のセットじゃないんだから、いくら隠してもムダ。
確かに、昨年ミャンマーにやってきたときは、私もそれなりに気を使っていたのだ。
携帯電話は空港で没収されると聞いていたので、日本に置いてきた。
写真も公共施設に対しては極力遠慮したものだ。
ところが、今回はミャンマー旅行の後、タイで仕事をせねばならなかったので自前のボーダフォン3G携帯電話を持参していたし(ミャンマーはサービスエリア外なので使えない)、ノートブックパソコンまで持ち込んでいたのだが、な~んにも言われなかった。
かなり自由なのだ。
そういう自由さを与えておいて、一方では撮影を制限する。ちょっと無理なのじゃないかな。
第一やいやい言っている軍事施設も鉄橋も、いまやインターネットにアクセスすると衛星写真でばっちり見えるんだから。

ともかく市場のみんなは「撮っていいよ」と言ってくれたが、やっぱり何かあればガイドさんに迷惑をかけることになるので、カメラは極力止めておこう。と決断して横を見ると、Tさんが持参した会社のデジカメでこっそりと果物などを撮影していた。
ないじゃいそれ。

で、ここでは写真よりも買い食いすることに徹することにした。
なんといってもここは市場。食い物が溢れている。
私は毛むくじゃらのウニのようなランプータンが大好きなので、それを買い求めようと思ったが、季節じゃないので売っていない。
残念だな、と思っているとTさんが「これ食べます?」と言って持ってきてくれたのが釈迦頭だった。
「不謹慎なことを言うな!」
とお叱りを受けそうだが、そういう名前(日本名)の果物だから仕方がない。
この果物はソフトボールぐらいの大きさで、淡い黄緑をしているのだが、表面がデコボコしており、ちょうど仏像の頭のような感じになっている。
だから釈迦頭というらしい。間違っても「ベジエッド」と言わんように。
釈迦頭はとても熟していて、ポコッと割ると、クリーミーな果実が現れた。
一欠け二欠けと口に運ぶと、めちゃくちゃ甘い。こんな味は日本では体験できない。
「おいしいですか?」
とTさん。
「美味いですよ。でも種が多いですね」
一欠けごとに黒い種が入っていて、美味しいけれどなかなか面倒な果物でもあった。

二階に上がると、驚くなかれバナナの専門店があった。
バナナの専門店。
バナナの、である。
こんなの日本には、きっとない。
店中、バナナだらけ。
いろんなバナナが天井から床まで、そしてあらゆる陳列棚にびっしりと並べられているのだ。
日本ではバナナといえばエクアドルかフィリピンか、はたまたお馴染の台湾か、という具合に産地別になってしまうのだが、バナナの産地東南アジアに来ると品種別になる、
そのまま食するタイプのバナナ。揚物に使うバナナ。安物のバナナ。高級品種のバナナ。
日本でも見かける普通サイズのものや、親指ぐらいしかない小さなバナナ。
もともと茶色い、威厳に満ちたバナナ。
などなど。
猿でなくとも嬉しくなってしまうくらいのバナナオンパレードなのであった。
もう、バナナマニアには堪えられない雰囲気だ。
幼稚園、小学校の遠足の頃からおやつのバナナにこだわりのある人には是非訪れていただきたい場所だと思った。

3階にはどういうわけかゲームセンターとお化け屋敷があった。
「前にきたお客さんが『入ろうよ』言うから入ったんですよ。でも怖くて怖くて、全然目を開けてられなくて、逃げ回っていたんです」
とTさんは言った。
目を閉じたまま、どうやって逃げまわったのかはさておいて、ミャンマーまでやって来てわざわざお化け屋敷に入る日本人観光客も妙なヤツだが、ガイドの義務とばかりに一緒に入るTさんもTさんだ。
きっとお化け屋敷の中で、Tさんは悲鳴を上げっぱなしであったのだろう。
これは、面白そう。
「入りましょうか? お化け屋敷」
「....いりませんよ。なに言うんですか。」
と笑いながら逃げてしまった。

3階にはそれ以外の施設はなく閑散としていた。
道路と反対側のテラスへ出てみた。すると倉庫の屋根越しに黄土色をしたヤンゴン川が滔々とながれいる光景が視界に広がった。
天気もいい。
これは良い旅になりそうだ。
大きく背伸びをしたとき、スーと爽やかな風が吹き抜けて、Tさんの長い黒髪がさらさらとなびいた。

つづく

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東南アジア旅行で市場の中を歩くことは、私の最もお気に入りとするところだ。
サイゴンのベンタイン市場しかり、チョロン市場しかり。バンコクのプラートゥーナム市場しかり、チャトチャックしかりである。
当然ミャンマーでも市場を訪れることは市民生活の本当の部分をかいま見ることの出来る絶好の場所でもあるので、是非訪れてみたいと思っていたのだ。

厳かな参拝が縁日遊びになってしまったボウタタウンパゴダのほど近くにヤンゴンの青果卸売り市場があると聞いたのでそこを訪れることにした。
ボウタタウンパゴダから自動車で10分ほど西へ走った。
青果市場もヤンゴン川のほとりにあった。
3階建ての大きな建物で、道路側にはたくさんのトラックが駐車されていた。
そのほとんどが、なんと今や日本ではほとんど目にすることが不可能なマツダの小型オート三輪なのであった。
たとい走れる状態であったとしても現在の日本では排ガス規制などの法律のために車検が降りないのではいか、というような代物なのだ。
それがずら~~~と並んでいるので、壮観としか言いようのない光景なのであった。
マツダは何十年も大切に商品を使ってくれているミャンマーの人たちに感謝するように。

狭っ苦しい駐車場に車を止め、運転手に待つように伝え、私はTさんと一緒にマーケットの中を散策しはじめた。
マーケットの中は薄暗いが、各種果物や野菜が山積みにされ、あるいは大きなカゴに山盛りにされ、それら商品が溢れている。
狭い通路の中はネコ台車を押して通る人、カゴを頭に乗せ早足で歩く人、価格交渉をしている人、荷造りしている人、ボケーとしている人、なぜかカラオケに興じている人などなどでごった返していたのだ。
「ここは24時間開いているんです」
はじめてTさんがガイドらしいガイドをしてくれた。
このまま縁日遊びで終ってしまうのではないかと危惧してたのだが、これでやっと普通の観光旅行になった。
ここはともかく畑や田んぼで獲れるものなら、なんでも売っているというような場所だった。

で、事件は私がサトウキビを噛っている3歳ぐらいの可愛いガキをデジカメで写していた時に起こった。
シャッターを切り、Tさんに話しかけようと後ろを振り向くと、Tさんは少し緊張した表情で、
「写真撮るの、ちょっと待ってください」
と言った。
よく見ると、後ろから軍服を着た背の低い太っちょなアンパンマン似のオッサンが、白い巨塔の某教授が医局のスタッフをぞろぞろと連れて歩くように、取り巻きを大勢連れて歩いてきた。
「はは~ん、これが軍事政権の偉いさんか」
と心で思いつつ、写真、まずかったかな。Tさんに迷惑がかからなければ良いけれど。
などと少し心配した。
アンパンマンはガイドのTさんに、穏やかに、しかし強く何か話しかけている。
Tさんは「はいはい」と答えているようだ。
こころなし市場の人たちも緊張の眼差で私たちを見ているような気がする。
ミャンマーは写真撮影禁止の場所が多く、鉄橋や鉄道駅、軍事施設などを撮影すると罰せられる。
市場もいけないのだろうか。
観光ガイドは国家資格だ。難しい試験にパスして手に入れた免許だけに、私のために「あんた、外国人に写真撮らせたね」とか言われて免許を奪われてTさんがスーチー女史のような境遇におかれては、私はどうすれば良いのかわからない。
日本大使館のノホホ~ン外交官に「抗議してくれ」と言っても「アンタ誰?」と取りあってもらえるはずがない。
そういう心配をしているうちにアンパンマンは話終ると私に視線を向けてニッコリと微笑み頷いた。
「写真を撮っちゃいけないんだそうです」
Tさんが緊張した感覚も見せずに言ったので私は安心した。
ともかくアンパンマンに微笑みを返し心の中で舌を出しながら「イエス、サー!」と恭順の姿勢を見せたのであった。
そしてアンパンマンは去った。

しばらく写真は写さないほうが良いと判断した。
どこで、どんなやつが見張っているのかわかったものではない、と思い後ろを振りかえると、Tさんが市場の人と話しをしている。
「もう、偉いさんは行っちゃったから、写してもいいよ、って。」
Tさんの通訳によると市場の人たちがそう言ってくれているらしい。
みんな私の方をみてニコニコしてくれている。
なんだか嬉しくなってきた。
これだから私はミャンマーが、いやミャンマーの人たちが大好きなのだ。

ここへ来ると日本の新聞やテレビなどで伝えられているミャンマーとはまったく違った姿を目撃することになる。
もしかするとアンパンマンも、職務上仕方がないので注意したのかも知れなかった。
ここでは誰であろうと大ぴらに政治の話はできない。できないが、「ミャンマーは自由がない」という西側諸国の報道は、まったくもって事実に反するとしか言いようがない。
むしろ「未成年者だから」という理由で凶悪犯の実名も写真も報道しない、させない、という報道の自由の無いどこかの国よりもよっぽど自由なのだ。
と、思った。

つづく

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手塚治虫の晩年の傑作「陽だまりの樹」の主人公の一人、伊武谷万二郎は北辰一刀流の修業のため神田お玉が池の千葉道場の門をくぐった。
そのわずか数日後、千葉周作先生が亡くなられ、伊武谷は悲嘆に暮れて泣き崩れる。
「なんだ、あいつ。まだ入門して三日目じゃないか」
諸先輩の剣士に苦笑される伊武谷だった。
それほど短い期間でしかなく、なおかつ直接の指導を受けることもなかった伊武谷なのに、周作先生への敬慕の念は凄まじいものだったのだ。

映画カメラマン、宮川一夫先生は私にとっての千葉周作に他ならない。
もっとも、私は宮川先生にたった3日しか教えを受けなかったといことは決してないし、直接ご指導を頂戴したこともある。
しかし、あまたいらっしゃる先生のお弟子さんからすると、わたしなんぞは千葉道場の伊武谷万二郎に他ならず、つまりその他大勢の学生の一人であり、そういうところが私には寂しくもあり、哀しくもある。

宮川先生の名前は、映画ファンなら知らない人はいないだろう。
映画カメラマンとしての業績は計り知れない。
先生が撮影した主な作品名を少し挙げるだけでも日本を代表する映画の題名が飛び出してくるのだ。
「無法松の一生(坂東妻三郎主演)」「羅生門(黒澤明監督)」「東京オリンピック(市川崑監督)」「雨月物語(溝口健二監督)」「浮草(小津安二郎監督)」「用心棒(黒澤明監督)」「瀬戸内少年野球団(篠田正浩監督)」などなど。
亡くなられる前の最後の作品は篠田正浩監督の「梟の城」で、車いすに乗り、たったワンカットだけファインダーを見られた。

宮川一夫先生の凄いところは、いつも頭が柔らかで、新しい技術を次から次へと吸収していかれることだった。
私が教えを受けた1980年代前半は映画のカメラにビデオが装着され、撮影されている画面をモニターで確認できるようになった頃だった。
またデジタル処理が始まり、ネガからポジにフィルムを焼く際に画調の細かな制御が可能にもなってきた。
これらの最新技術を私たちヒヨッコにもならない「たまごっち」レベルの連中に、熱い口調で論評し、あるいは称賛し、これからの映像製作について語り聞かせてくれたのだった。
「あのね、君。キャメラはね。動かなくちゃいけない。止まってちゃダメ。」
「白黒の画面には色が付いているんだよ。あの水墨画の濃淡にはカラーを感じるでしょ」
「未知との遭遇は凄いね。コンピュータを使って、あれだけ人の心を打つ映画がつくれるんだよ」
小柄な先生が私たち若者(当時)に語りかける目は、鋭く、真剣で、そして優しかった。

本書は1985年に先生が書き下ろした大映入社から現代(85年)までを振り返った自伝的なエッセイだ。
多くの監督との交流や、俳優、女優さんとのエピソード、撮影テクニック秘話などがふんだんに盛り込まれている。
そしてなによりも、映像を作ろうとする多くの若きクリエーターたちへの暖かい愛情に満ちたメッセージが折り込まれているのだ。

~「私の映画人生60年 キャメラマン一代」宮川一夫著 PHP出版刊~

メモ:この本は現在絶版です。神田の古書街では7800円というような法外な価格を付けて売っている店がありますが、インターネットで検索すると定価に近い良心的な価格で買い求めることができます。

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午後3時までの6時間。限られた時間内でのヤンゴン観光なので効率的に廻らなければならない。
そこで、残念ながら昨年訪れた名刹シュエダグォンパゴダはこの日、訪問することを諦めた。
日本人である私の感覚からすると、本当は参拝して厄払いをお願いしたほうが良いのではと思ったが、ともかくまだ行っていない場所が数多くあり、そちらを優先したのだ。

まず訪れたのはヤンゴン川のほとりに建つボウタタウンパゴダだ。
このお寺も由緒あるお寺なのだ。
なんとここは2000年以上前にインドから持ち帰ったお釈迦様の遺髪や歯などをお納めするために建立したお寺だという。
2000年前というと日本は弥生時代。
古代の天皇がやっとこさ近畿圏を中心にした未開の人民を治めていた頃である。しかし、もうその頃のミャンマーには仏教が伝わり文明を形成していたということだ。
さすが大陸である。
文明の大先輩なのであった。

ところが聖なるお釈迦様の歯や髪を納めたこのパゴダを破壊したヤツがいたという。
恥ずかしながら我が日本と英国が、半世紀前このお寺の上でもドンパンやったものだから、仏塔に爆弾が命中して吹っ飛んでしまったらしい。
願わくば英国の爆弾が命中したと思いたい。
ただ幸か不幸か、爆弾で破壊されたおかげで、行方不明だった聖髪等が見つかったということで、それらは今、大切に保管されているのだ。

境内には蓮の花の咲いた大きな池があり、そこをスッポンによく似たデカイ亀が泳いでいた。
池とスッポンということで、遥か5000km彼方にある聖徳太子が開いた四天王寺さんの亀の池を思い出した。
「亀とか池とか、なんか仏教に関係あるんですかね」
という私の質問にガイドのTさんは、「またわけの分らないことを訊いてきたな」というようにニコッと笑って「さー、どうなんでしょうね~」と巧みにかわしたのであった。
流石だ。だてに私のガイドは務めていない。

このお寺には面白いお賽銭コーナーがあった。
幅10メートルぐらいの人形劇にでてくる極彩色のベニヤ板製の海のような舞台が設置されていて、その中央を仏様の像が右へ左にフラフラ動くカラクリなのだ。
その仏様へ向かってお賽銭を投げ、受け止めていただくことができると、なんだか縁起が良いというものだった。
なんとなく縁日の投げ輪に似ているが、この際硬いことを言うことは抜きにしたい。
で、さっそく私もお賽銭を投げてみたい、という欲求にかられた。
以心伝心と言えばよいのか、こういう欲求もTさんにはすぐに分ってしまうらしく、横を見ると彼女はすでにお賽銭を用意してくれていたのだ。
と、思ったが、どうやら彼女もお賽銭を投げたい、というのが真相のようだった。

ところで、ミャンマーでは硬貨が流通していない。理由は良く知らないが小さな額面であっても紙幣が発行されているのだ。
だから日本のように硬貨をとり出してお賽銭を投げるわけにはいかない。
銭形平次がミャンマーへ旅行に来ると捕物の仕事をするのにきっと困ることだろう。
そこで、賽銭には投げやすいように小さく三角に折りたたんだ小額紙幣を利用するのだ。
この小型の中国ちまきのように小さく折られた紙幣を投げるのはなかなか難しい。
仏様の手の平になかなか巧く乗らないのだ。
そこで、Tさんと私のどちらが巧く仏様に受取ってもらえるか競うことにした。
仏様は絶えず動いていらっしゃるので、なかなかタイミングが測れない。
それに時々波間から竜が飛び出してきたりして、こちらの集中力を阻害するのだ。
「野球なんて知りませんよ」とはいううもの、さすがにTさんはミャンマー式お賽銭投銭術に長けているらしく、かなり良い線をついてくる。
私も負けているわけには行かないので、狙いを付けて投げる。
Tさんが投げる。
私が投げる。
Tさんが投げる。
私が投げる。
双方合わせて20回以上投げてみたものの結局私が2つ、Tさんも2つしか乗らなかった。
引き分けだ。
残りのお金は、仏様の手からこぼれ落ち、ベニヤ板の海に沈んでしあまったのだった。
しかしこれではお寺に参拝しに来たのではなくて、まるで縁日に遊びに来たようなものだ。
それに、よくよく考えてみると仏様めがけてお金を投げつけるのも倫理上いかがなものかとも思うのであった。

ということで楽しいボウタタウンパゴダへの参拝を終了し、次は私の大好きなフルーツマーケットへ向かうことにしたのだった。

つづく

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ミャンマーの首都ヤンゴンには、未だ数多くの英国植民地時代の建物が残る。
中心部を歩くと、植民地時代のアパートを数多く目撃することができるが、建物の老朽化が進み「危険建物」に指定され、取り壊しを待つだけのものも少なくない。
旧英国総督府などを古い建物をあえて壊さず、保存し、使用し続けるミャンマー。
「植民地時代の苦い経験を忘れないため、壊さないのです」
とガイドさんは語った。
しかし、時の流れがそれを許さないこともあるようだ。

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毎年夏前後になると出版されるのが楽しみな本がある。
文藝春秋社が出版している○○年度ベストエッセイ集がそれだ。
「片手の音」は2005年度のベストエッセイ集。
表題のエッセイの他、数十点の作品が収められており、ベストというだけに、どれをとっても楽しめる作品ばかりなのだ。
作者の職業も多岐にわたっている。
プロの文筆業から会社役員、職人さん、主婦、学生などなど。
これだけの人々が、雑誌や同人、自己出版という形で作品を発表していると思うと、なんだか嬉しくなってくるのだ。
「日本の文学は死んでいる」などと真面目腐った顔で語る評論家然とした人たちの声が、新聞や雑誌などに掲載されることがすくなくない。
しかし、本当は多くの人々が日本語という千年以上にもわたり文字で言葉を表す技術を磨いてきた言語を用いて、キラキラと輝く文章を書いているのだ。
あるときは楽しく、またある時は哀しく、またあるときは可笑しく、書くことと読むことを楽しんでいる。

かくいう私も楽しんでいるのだ。

さて、今年の作品の中で最も印象に残ったのは「貸しふんどしの話」と「「ブルドック」の解散」だった。

「貸しふんどしの話」は友禅の職人をされている岩原俊産という人の作品だ。
なんでも江戸時代には江戸に貸しふんどし屋さんが存在し、重宝されていたという。
そのふんどしもリサイクルプロセスが整っていて、ある程度古くなってくるとふんどしは業者に買い取られ、藍染めされ野良着に仕立てられるというのだ。
しかも、野良着としての使命が全うされると、さらに別の使い道が存在し、ムダになるものはなにもなかったというのだから驚きだ。
幕末、江戸へやってきた外国人が「ゴミ一つ落ちていない清潔な街」として記録しているが、江戸時代の日本は完全なリサイクル機構が整っていたという一つの証拠と言えるだろう。
でも、貸しふんどしは今の感覚からすると、なんとなく汚いような気もしないではないが。

「「ブルドック」の解散」は第一生命相談役の櫻井孝頴さんの作品で、終戦直後に作者が友達らと結成していた「ブルドック」という野球チームにまつわる話だ。
旧制中学から新制高校にスライドした当時の高校生たちの爽やかな日常が描かれているとともに、野球チームでは補欠だった友達が、作者が骨折で自宅療養していたときに、真面目に、そして小まめに授業の内容を毎日持ち帰り、枕元で「授業」代行してくれた話が描かれている。
60年が経過して、チームのメンバーの中に鬼籍に入るものが出てきたので解散を考え集会を開いてみると、その友達に勉強を教えてもらった仲間が多いことがわかった。
そしてその友達が定年退職後、鬱病にかかっているとこを知るのだ。
果たして友達はどうなるのか、そして「ブルドック」はどうなるのか。
ちょっぴりしんみりと、そして嬉しくなる、年を重ねた人しか書けない魅力あるエッセイだった。

ということで、またまた来年が楽しみなエッセイ集なのだ。

~「'05年版ベスト・エッセイ集 片手の音」日本エッセイスト・クラブ編 文藝春秋社刊~

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「明日の朝は何時にしますか?」
と、昨夜、食事の後、ガイドのTさんが出発時間を訊いた。
旅行に出発する前の一週間は目一杯働いていたのでかなり疲れがたまっていた。
そこで、初日はゆっくりさせていただこうと思い、午前8時30分にロビーへ迎えに来てもらうことに決めた。
あまり遅い時間にするとヤンゴン市内を観光する時間が無くなってしまい勿体ないし、逆に早く起きて行動を開始するのは、疲れを残したまま旅行を進めることになるので、あまり好ましくない。
そう、私は体力を温存しておく必要を感じていたのだ。
今日、つまり旅行第2日目の夕方3時に私は列車の旅に出発する予定だったのだ。
列車は旧都マンダレーまでの700km弱の行程を14時間で走り抜ける長距離夜行列車だったのだ。

自慢にならないが、私は長距離列車というものは東海道・山陽新幹線にしか乗ったことがない。
とはいっても新幹線なら700kmぐらい3時間もあれば突っ走ってしまうので、長距離列車の感覚はまったくない。実に味気ない旅にもなってしまう。
「ただいま世界最速、時速300km走行をしております」
と姫路駅を通過中の500系のぞみ号に乗っているとそんなアナウンスがある。
しかし、007の忍者秘密訓練所があることや暴れん坊将軍の江戸城であることでも有名な、姫路のランドマーク姫路城は新幹線からわずか15秒ほどしか臨むことが出来ないのだ。
こんな車窓は大嫌いだ。

といことで、私はかねてから大阪発札幌行きのトワイライトエキスプレスや、上野発札幌行きのカシオペアなどの豪華寝台列車の旅を夢見ていたのだった。
それらほど豪華とは言えないだろうが、その長距離列車の旅を、ここミャンマーで実現できるのだ。
私はとても楽しみにしていたのだった.........過酷な運命が待ちかまえていることなどつゆとも知らずに。

朝、鳥たちのさえずる声で目が覚めた。
なんて健康的なんだ。
国道を走る暴走族のために目を覚まされる日本の都会とはえらい違いだ。
窓を開けると7階の私の部屋からは環状鉄道がゆっくりと走っているのが見える。
部屋ナンバーは709号室。奇しくも昨年と同じ部屋。
もしかすると再び訪れてくるかも知れない私のために一年間とっておいてくれたのかも知れない。
実際、昨年は最初711号室をあてがわれた。
711という数字を見た私は「セブンイレブン、いい気分」などと鼻歌を謡いながら部屋に入ったのだ。
クーラーのスイッチを入れて、ソファにどっかり腰を落ち着けてボンヤリとしていた。
そのうちボンヤリとしていたのが、さらに「ぼ~」となってきて、額から汗が滴り落ちてきた。
そう、クーラーが壊れていたために暑さのために「ぼ~」となってきていたのだった。
フロントに電話をして文句を言ったら、整備のオッチャンがやってきて修理を試みたが室外機のコンプレッサーは動く気配を見せない。
オッチャンは15分ほどクーラーと格闘したが結局修理を完了するとこは出来なかった。
この間、私は汗をたらたら流しながら、暑い部屋の中オッチャンと世間話をしながら作業を見守っていたのだが、よくよく考えてみると私は客である。
ゲストたる私がなんで汗を流しながら待たなければならないのか、あとで考えてみると非常に不条理であった。
で、結局直らないものだから709号室へ引っ越しということになったのだ。
引っ越しと決まると、いきなり数人のメイドさんやボーイが現れ、お祭りのごとく賑やかに、そんなに多くない私の荷物を運び出し、私を新しい部屋へ導いたのだった。
クーラーの故障という、ちょっとばかり珍しい体験で、ホテル内の「陽気な」引っ越しを体験することが出来たのだ。
ま、今回は昨年のように「引っ越し」というようなことはないだろうと思うのだった。

しばらくそんなことを思い出したりしていたが、午前7時になったので2階のレストランへ行って朝食をとり、そして部屋に戻ってから荷造りをしておいてロビーへ降りた。
ホテルの部屋はレイトチェックアウトになっており、列車に乗り込む前に一度ホテルへ戻り、シャワーなんぞを浴びたうえでリラックスした気分で、マンダレーへ出発しようと思っていたのだ。

ロビーへ降りると、ガイドのTさんはまだ来ていなかったので、籐のソファに座って待つことにした。
ロビー奥横にトイレが見えた。
「ははーん、あそこで爆弾が爆発したのか」
などと物騒なことを考えているところにTさんがやってきた。
彼女はすでに旅装を調えていた。
「おはようございます!」
明るく挨拶をしてくれるTさん。
「おはようございます」
と私。

さ、旅の小手調べ。いざヤンゴン市内への半日観光へ出発だ。

つづく

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