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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



インターネット関連企業ライブドアの社長である堀江貴文がフジテレビの親会社ニッポン放送の株を買収し、世間の注目を集めている。
日本放送協会と朝日新聞という二つの巨大報道機関の争いで、世間がやんやと騒いでいる間に、こそこそと行った株取引が思わぬ波紋を喚んでいるのだ。
ホリエモンこと堀江社長が時間外取引という手段を行使して、フジサンケイグループの親会社ニッポン放送株を買い占めた。その数なんと40%。
この大胆な商取引に、世間はあっと驚いた。
慌てたのはフジテレビで、その後の大人げない社長や会長の会見は、多くの人たちの失笑を買っている。

ところで、世間一般にはライブドアの堀江社長を、現代経済界の英雄のようにもてはやす風潮がある。
プロ野球球団買収劇に端を発した堀江社長の活動には、旧態依然の経済界に、たった一人で立ち向かう若き改革者のごときイメージがつきまとっているのだろう。
ラフなファッションでテレビに登場する彼の姿は、そのライバルである楽天の三木谷社長とも対照的だ。
また、その三木谷社長と違って、新聞社の社長や経団連のお偉方とは「仲間ではない」という印象が、人々に好感を与えている要因の一つでもある。
しかし、このホリエモン。経団連や政治家先生は友達ではないらしいが、怪しげな投資ファンドやいかがわしい外国人は友達らしい。

今回のニッポン放送株の買収のためにライブドアに巨額の資金を融資したのはアメリカのリーマン・ブラザーズという証券会社。
年商たった百数十億の、連結決算でも三百億程度の売り上げしかないライブドア。その実態は売るべき商品さえ持ち合わせていない会社なのだ。米国企業がいつも話題だけが先行するこの中小企業に八百億円という巨額の融資をしたのだから、その魂胆は何なのか、と勘ぐりたくもなってくる。
一部週刊誌の報道によると、今回の融資を実施したリーマンブラザーズはたとえ借り主のライブドアが買収に失敗しても損をしない仕組みになっているという。いったいこれはどういうことか。

新生銀行にしろ山一証券にしろ、政府が大量の税金を投入して処理をした潰れた金融機関の美味しい部分を持ち去ったのは誰だろう。いずれも外資であることは周知の事実だ。
もしかすると、くだんの米国企業は金だけが興味の対象である堀江貴文という男に取り入って、日本という名の打ち出の小づちから金をむしり取ろうという算段をしているのではないだろうか。
堀江社長が時代の寵児であることは間違いない。しかし見ている限り、彼のやっていることは「世間知らず」で金持ちボンボンの我儘という感じも否めない。
なぜならプロ野球買収騒ぎを起こした時も、今回のニッポン放送株を買収したときも「根回し」を完全に無視しているからだ。むしろ根回ししないことが「かっこいい」と思っているふしさえ見られるのだ。
「根回しなんて、日本だけ文化じゃないか」と、いう意見もあるだろう。
しかし、事前の根回しなしでは、巨大取引などと成立しないのは世界中どこへ行っても同じなのだ。
例えば、周囲の根回しなしにいきなり大リーグの球団を買い取ったら、米国市民は世論の力で買収した企業や個人を叩き潰しにかかるだろう。
根回しなしで、いきなり他社を買収することを「取引」とは言わない。「乗っ取り」という。
飛行機でもバスでも会社でも、乗っ取りしたら歓迎されないのは同じである。

金と権力を無性に欲する彼の性格は、先日大阪寝屋川で殺人事件を起こした17歳少年が著した小学校の卒業文集の文章と対した違いはない。
商取引の礼儀を弁えないばかりか、ともすれば売国奴ともなりかねないホリエモン。
こんな男が果たして英雄と言えるのか。大いに疑問ではないだろうか。


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とりがら映画評

どういうわけか映画の中には劇場公開されることなくビデオ発売で本邦初公開という作品が時々現れる。
そういう映画のほとんどは、日本では受けないコメディや、特殊な文化を扱ったものが多いのだ。
実際「なんとか映画祭でグランプリ」などという宣伝文句がパッケージに書かれているビデオをうっかり借りてしまうと後悔することも少なくない。
「あんたんところの文化じゃ、面白いかもしれないけれど、わたしんとこのセンスじゃちっとも面白くないよ」というような、まるで大阪人が江戸落語を聞いたときの感想みたいなことになってしまうことも、ままあるものだ。
ところが「ファイティングガール」は、どうして劇場公開されることなくビデオでの発売になってしまったのかと首を傾げてしまうような、摩訶不思議な映画なのだ。
実在の人物ジャッキー・カレンの物語で、主演は人気女優のメグ・ライアンなのだから、劇場公開してもきっと客は入るだろうと、誰もが思う。。
それともメグ・ライアンはラブコメでないと観客に受け入れられないとでも思ったのだろうか。だいたいメグ・ライアンも、もうラブコメなんて言ってる年齢ではないはずだ。

ジャッキー・カレンはボクシングの女性プロモーターとして6階級すべてにチャンピオンを生み出しているすご腕の人物なのだ。
クリーブランドのスタジアムで秘書の仕事をしていたジャッキーが、ふとした勢いでプロモーターという仕事を始めてしまうが、その突拍子なところがアメリカ映画の本領だろう。
普通の女の子がボクシングという男の世界で成功していくプロセスはサクセスストーリーにはお馴染の物語。
もしかすると、このあたりの「ありふれたストーリー」と感じさせてしまうところが、劇場公開に踏み切れなかった理由なのかもしれない。
しかし、こんどのドラマはアップテンポでノリが良くても、決して一本調子のサクセスストーリーではなかったのだ。

最近のアメリカ映画からは昔ながらの完全無欠のハッピーストーリーはほとんど見かけられなくなった。
そういう意味で、本作品もかなり辛めの物語だった。
メグ・ライアンもドラマの初めのうちは、相変わらずの「いい女の子然」とした表情なのだが、やがて険しく、時には醜い表情さえ見せ始める。
ある程度成功を収め、マスコミが注目し、町の誰もが彼女の名前を知りはじめた頃に見せる、俄成功者としての表情が、いかにも醜く、これまでの映画でメグ・ライアン見せたことのなかった表情なのだ。
ここ数年、映画のキャラクターとは全く異なる私生活を暴露され、世間の視線の中で鍛え上げられた表情だと、いえないこともないかもしれない。
その険しい、厭らしい、または憎たらしい表情が、やがて訪れる挫折を迎えて、もとの「澄ました普通のいい女の子然」とした表情にもどるところに、この映画におけるメグ・ライアンの新しい魅力が潜んでいる。

ボクシングシーンも秀逸で、見ているものを本気にさせる。
スポーツドラマとしても十分に魅力的だった。
できれば劇場の大画面で、臨場感たっぷりに見てみたかった。


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春一番の声を聞いた途端、暖かい毎日が続くようになった。
一昨日の雨と、朝夕すこし冷え込むことを別にすれば、すっかり春の香りが街中に溢れるといえるだろう。
昨日JR京都線の新快速に乗って京都へ打ち合わせに向かう途中、ぽかぽか陽気と心地よい電車の揺れに誘われて、知らず知らずのうちに居眠りをしてしまった。
危うく下車予定の京都駅を乗り過ごすところであったが、幸いなことに桂川の鉄橋を渡る音で目覚めることができた。もしあのまま眠り続けていたりしたら、大津、草津、長浜までいってしまっていたかも知れない。
それだけ心地よい春の天気だった。

ところで、ぽかぽか陽気は睡眠を誘発するだけでなく、あらゆる人の営みに影響を及ぼすようだ。

会社の車に乗って大阪市南部の府道を走っていると、渋滞につかまった。
25日の昨日は大阪では五十払い(ゴトバライ、と読む)という集金日に当たる。このため日頃よりも交通量が増えて混雑する。
インターネットの時代に、集金のために混雑するなど、いたってアナログ、人海戦術の世界である。これだから大阪はダメなのだ。きっと一人一台のPC導入を果たしても、その半分以上のマシンがネットに繋がっていない大阪市役所を手本にしているためだろう。
ということで、容易に前へ進まない渋滞に巻き込まれたのだ。

しかし渋滞といえど、なぜかイライラすることはなかった。なぜなら春の陽射しが車内に差し込んで、暖房もいらないポカポカとした暖かさに私の気分はノホホーンとしていたからだった。
電車で京都へ行ったときのコンディションならきっと眠ってしまっていたことだろう。
交差点付近で停車していて、ふと反対車線の歩道の向こうに、こじんまりした、こじゃれた自転車屋が店を構えているのが目に留まった。。
店の前の歩道には色とリとりどりの自転車が並べられ、春の陽光に反射してピカピカのフレームがキラキラキラと輝いている。
「しつこい売り込みはいたしません」
との貼り紙に、店主のノンビリとした性格が伝わってくるようだった。
その自転車屋の入り口を見て見ると、案の定、想像どおりの風貌をした年若い男の店主がニコニコした表情で立っていた。彼は道行く自動車を眺めながらハサミで爪を切っていたのだった。
綺麗に洗濯された作業着を着て、きっと客への対応もいいのだろう。
「自転車のタイヤの空気は........」とウンチクをたれた貼り紙からは、自転車と客への小まめなサービスが感じられた。
「なかなか爽やかで良さそうな自転車屋じゃないの」と私は思った。
そんなホノボノした彼の前を、二人の大学生風の女の子が通り過ぎた。
一人は長い髪を春のそよ風になびかせて、赤い自転車を押して歩いていた。
そしてもう一人は明るい色のショルダーバックを持って歩いていた。二人は友達同士なのだろう。楽しそうになにやら笑いながら話している。なかなか美しい女の子たちだった。
すると途端に店主の表情に変化が走った。
店主の視線は赤い自転車を押す女の子の注がれて、爪を切りつつ、ニコニコ顔のまま、彼女たちが角を曲がって見えなくなるまで追いかけていたのだった。

キラキラ輝く陽光と、ほのぼの暖かいそよ風と、野郎の視線が印象的な「ああ、春がきた」と感じさせる一瞬だった。

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週刊新潮今週号のグラビアページに、昔のプラネタリウムの写真が掲載されていた。
「懐かしい!」
と思わず叫んでしまったのは、掲載されていたそのプラネタリウムの投影機が、かつて大阪市立電気科学館で活躍していたマシンだからだった。

子供のころ、大阪の四ツ橋にあった市立電気科学館には小規模だけれど夢の殿堂といった雰囲気があった。
静電気を起こす実験機で楽しく遊んだり、発電機のメカニズムを再現した模型で勉強したり、レトロな明治大正時代の電気製品で昔の先進生活を想像したりしたものだ。
大正期のものだと展示されていた黒色の扇風機が、岡山の祖父の家にあるものと同じだったことにも驚いたりした。
展示コーナーの人気コーナーの一つは電子計算機だった。
電子計算機、つまりコンピュータ。
そのコンピュータで何ができたかというならば、自分の誕生日を入力すると、その誕生日から電気科学館を訪れた日までの累計日数が表示されるようになっていた。今なら誰も感動しない、たったそれだけの機能にこれまた「スゴーイ!」と感動したものだった。

しかししかし、この市立電気科学館の目玉は、こんな未来を告げる電子計算機ではもちろんなくて、なんといっても最上階に鎮座する大型のプラネタリウムだった。
カールツアイス社製のプラネタリウムで当時「日本に二台しかない大型」の大阪市自慢のマシンだった。
昭和12年(1937年)に設置されたこのマシンは、客席中央に鎮座して、その外観はまるで1950年代のSF映画に登場するロボットか人工衛星といった趣だった。
子供心にこんないびつな形の機械が、どうして丸い天井に見事な星空を映し出すのだろうかと、大人になるまで不思議だった。
やがて光学器械の知識が身に付いてから、プラネタリウムは機器全体に取り付けられた昆虫の目のようなレンズから、星星が投影される映写機の集合体であることを知った。
「なんだ単純な機械じゃないか、でもすごい」と、あらためて感動したものだ。

最新のプラネタリウムからは由緒正しいドイツ製は姿を消し、日本製のコニカミノルタが世界市場の大部分を占めるという。
最新のマシンはとてもコンパクトで高性能。
星空だけでなく、CG映像や3D映像まで映し出す。
でもなにか、もの足りない気がしてならないのだ。
なぜなら最新マシンには、入場したときからドキマキさせる、あの異様な容姿を誇ったカールツアイスの大型プラネタリウムほどの神秘さは持ち合わせていないからだ。

プラネタリウムといえば、電気科学館。
星空の神秘さを映す前から教えてくれた、星の先生。


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とりがら書評

久しぶりに爽やかな少年物語に出会えた。
本書の帯に「こんな傑作をよんでこなかったのかと猛烈に反省」という北上次郎の寸評が載っていた。
なとなく川上健一の「翼はいつもでも」を思い出し、これは面白いのではないか、と予感したのだ。
ここのところ、どういうわけか面白い本に出会うことが出来なかったので、少し欲求不満になっていた。仕方がないので、何度も読んだことのある書籍を本棚からとり出して通勤途中などに読んでいたが、どうもすっきりしない。
たまたま家の近くの書店で平積みにされているのに、ぱっと目に留まったのが本書だった。

小学校を卒業し、中学校へ上がる春休みに主人公の少年は父の転勤のため岡山の山間にあるとある街に引っ越してくる。
少年は少年野球のエースだった。
リトルリーグでは県大会の準決勝まで勝ち進んだ経験も持っていて、とても自分の力に自信を持っていた。
だから引っ越した先の中学校でも野球を続けようと思っていたのだ。

新しい土地の新しい友人、病弱な弟、少年に無関心だなと思わせる母、そして真面目そうな父、かつて高校野球の監督をしていた祖父。多くの人に囲まれて少年は成長して行くのだ。
とりわけ少年の前に現れた新しい友人とのライバル心や、秘かに持ち続けている弟に対する嫉妬など、心理描写が優れていて、読者は知らず知らずのうちに物語の中に引き込まれて行く。
しかし、このドラマはよくある突拍子もない単なる少年の成長物語にとどまらず、私たちがかつて主人公と同い年ぐらいだった頃、自分は果たしてどういう少年だったのかな、と考えさせる奥深さを備えているのだ。

あさのあつこ、という作者の作品は読んだのは今回が初めてだったが、どうしてこうまでも少年の気持ちが理解できるのか、不思議な感覚にとらわれた。
女性である作者が少年という幼いが男の心を捉えているその触覚に少しく恐ろしいものさえ感じたのだ。
女流作家には、ときどきこういった感性の秀でた人が出現するようだ。
漫画家の高橋留美子もそういう作者のひとりだという感想を持ったことがある。
20年ほど前に漫画雑誌に連載されていた「めぞん一刻」というコミックもそれで、これを初めて読んだとき、どうして男の微妙な心理が読めるんだ、と不思議に感じたものだった。

暗さがなく、キラキラと輝くストーリーは先に述べた川上健一の作品と共通するが、それとはまた一味違った爽快感と緊張感が溢れていた。
また、作者が岡山の出身ということもあり、作中に使われている岡山弁が物語にリアリティを与えて、厚みを醸し出していたことも忘れ難い。
本書は児童書のジャンルに入るらしいが、なんのなんの、私のようないい大人でも十分以上に楽しめる逸品だった。

本作は「バッテリー2」「バッテリー3」と続くようで、物語のその後を知るのが楽しみではある。がしかし、しばらく時間を置いて、一作目を読んだ気分を熟成させてから、読み始めたいと思った。

「バッテリー」あさのあつこ著(角川文庫)


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中部国際空港が開港して大にぎわい。
どこが東京なんだい、と怒りたくなる都心からずーとずーとずーと離れた千葉県にある新東京国際空港や、出来はピカイチなのに空港ロビーは閑古鳥の関西空港は羨望の眼差で眺めていることだろう。
不便だ、高いよ、ちっこいよ、だとか言いながら狭い国土に国際空港がかくもたくさん誕生しているのはどうしてか。国土交通省に勤める役人の天下り先確保だけが理由ではないだろう。
やはり飛行機を利用して移動する人の人口が増加していることが上げられる。
たとえそれが国内旅行であったとしても近場は新幹線か在来線を使うかも知れないが、移動距離が五百キロを越えてしまうと「ん~、やっぱり楽な飛行機かな」となってしまう。
海外旅行ともなれば、なおさらだ。

法務省の統計によると海外旅行が解禁になった1964年の一年間の海外への渡航者はたったの13万人。
それが40年後の今日では、なんと百倍以上の1700万人。
いつの間にやら「クイズで全問正解、さあハワイ!」なんて言っても、誰も羨ましがらなくなってしまった。ホノルルまでなら大阪や東京から那覇へ行くより安価に行けてしまう。
国内旅行よりも安いのだ。

これだけの人々が、外国へ出かけて行く時代だから、きっとみんな世界地理は大丈夫、なんて思っていたら大間違い。
日本地理学会がびっくりすような調査結果を発表した。
昨日の読売新聞夕刊によると、なんと日本の大学生の44%が「イラクは何処」と、まったくその場所がわからない。イラクばかりかアメリカだって3%の学生がわからない。去年オリンピックをやったギリシャだって23%がわからない。
もしかすると日本がどこにあるのかも、自分の家がどこにあるのかも、自分がいったい誰なのかもわからないのかも知れない。
いったいどんな大学を対象に調査したのかを調査したくなる調査結果だ。
もしかして、私の卒業した大学ではないだろうか。
だったらなんとなくわかるような気もするが、名前を公表されたら、きっとその大学は困るだろう。
この問題、ゆとり教育の賜物なのかも知らないが、これほどさように地理音痴だと、貿易立国日本の将来がますます思いやられてしまうなと、またまた憂鬱になってきてしまう。

数年前から高校の社会科教育は個々の科目が選択制になっていて、世界史か地理かを生徒が選択するのだという。多くの学生はなぜか世界史を選択するので、地理はおざなり。だから世界が注目しているイラクの位置もわからない。
歴史と地理とはお互い関係しあっているのに、「どちらかを選択」なんて決めたのはいったい誰なんだろう。臨教審か、教育委員会か、それとも日本滅亡の陰謀を企む日教組か。
多くの人は、ツアーで旅行するから、どこにどんな国があるのかは関係ないのかも知れないが、新装開店のスーパーマーケットで「お醤油どこです?」と探すのとは、ちと違い過ぎやしませんか。

イラクは何処? アフガニスタンは何処? セルビアは? チベットは? 北朝鮮は?

あ、そういえばここらへ行ってる一般的なパック旅行は見かけない。
だから学校の先生は考えるのかも。
「そんな国は、どこにあろうが構わない。」と。

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私の担当する顧客に江戸時代から続く老舗がある。
名前も結構知られていて、社員数もそこそこの規模の会社だ。
私がここの担当になったのは、入社したときだから、かれこれ12年間この顧客とつきあっているということになる。この間に最高で年間2億6千万の売り上げを記録し、私の所属する部署の成績に大いに献身してくれた。
ところが5年ほど前から異変が起きており、売り上げが急激に下がってきてるのだ。
毎年、前年実績比15%程度ダウンしているので、気がついたら最盛期の半分ぐらいになってしまっていた。
これはなにも私が営業活動中に仕事をサボってカフェで読書をしたり、映画を見たり、美術館に入ったりしているのが、原因ではない。
最高の成績を作ったときも、カフェでくつろいだり、クイックマッサージで肩もみしてもらうことぐらいは習慣にしていたのだ。

こんな私でも販売実績が下がっているので、心配になり、この老舗における他社からの仕入れはどうなっているのか調査してみると、やはり下がっていた。
私の会社はまだマシな方で、一部協力企業はあまりに注文が少ないため、一時的に週休三日制に陥ったところもあった。
当然のことながら老舗自体の売り上げもぐんぐん下がり、今や社員数は最盛期の半分にまで減り、一部では「危ない情報」が流れ出している。

その原因は4年ほど前に就任した新社長による「米国式経営法」だ。
この新社長は今どき流行りの40代の若手経営者で、なかなかモノを言う人なのだ。
とりわけ就任前から「日本式の年功序列型給与体系はよくありませんね」とか「これからは成果主義の米国式です」とか「大阪に本社をおいているようではダメです。日本じゃ東京ですよ」とか、ハッキリと主張しているのだ。
そのくせ当人は米国留学の経験もなければ、バリバリの関西人であるし、大学を卒業してから東京に住んでいるだけに過ぎない。
しかも、大学卒業後は丁稚奉公の経験も積まず、すぐさま父親が社長を務める会社に就職し、課長、部長、役員ととんとん拍子で出世して「私は生まれながらの経営者です」と二人の兄の同席する役員会で言ったとか云わないとか。
先代社長の死去とともに市場環境の激変で悪戦苦闘する兄たちに業績不信の責任をおっかぶせ会社を辞めさせると、自分の時代が到来したとばかりに、わけのわからない自称「米国式経営法」によるリストラを断行した。
役立たない、という理由をもってバリバリ仕事をする50代社員の大半の首を切り、現金でしか取引しませんと中小販売店を見限って「これからはネットです」などと納まっている。
プロモートされたはずの30代社員。彼らは首を切られた50代社員を目の当たりにしただけに「明日は我が身」とできる奴ほど他を見つけて退社した。

気がついたら、側近という名の太鼓持ちに囲まれて、中年社員は社内の恐怖政治に戦々恐々、若手社員は不満の塊。これで業績のあがる筈はない。

こういうものが、中途半端な日本の経営者が信奉する「米国式経営法」の実態なのか。
米国の歴史より長い老舗の暖簾が泣いているぞ。
で、私の営業成績も泣いている。

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その昔、「省エネルック」などという情けないデザインのビジネススーツが政府から提案されたことがあった。
それは半袖半ズボンのビジネススーツで、見たところ「ごみ箱から拾ったジャケットやパンツの袖や裾の部分が擦り切れていたので、そこんところを千切って着ている乞食のオッサン」という雰囲気だった。
この誰も着ないスーツを提案したのは当時の環境庁のお役人。
お役人が提案したのだから、役所の皆さんが率先して着用したのかな、というとそんなことはまったくなく、ほとんど誰も着なかった。
ちなみに平気な顔をして市民の税金で自分のスーツを作っていた大阪市職員のみなさんも着なかった。

税金を使ってこの無意味なデザインのスーツを考案した環境省(2001年庁から格上げ)の役人たちは、今度は環境税を提案した。
スーツは個々の嗜好に関わり基本的人権侵害などと言われかねないから強制できないけれども、税金なら強制できる。と、でも考えたのだろうか。
ここ最近、彼らは「地球温暖化に対する京都議定書が発効しましたから」ということをきっかけに、是が非にでも国民に受け入れさせようと躍起の様相である。
産業界は「国際競争力に影響が出る」「どういう目的で徴収した税金を使うのか不明確だ」などを理由にし、容易に応じない構えだ。
皆は役人の言うことなど信じちゃいない。
環境省の役人が集めた金で省エネルックでないスーツを購入したり、自分の家や自分の職場に太陽電池パネルや風力発電装置をとりつけて自慢するために使うのではなかいか、と疑っているのだ。
「違いますよ、海外に植林して二酸化炭素ガスの穴埋めに使うんです」
と言っても、それはファーストクラスに乗って海外旅行したいだけなんかじゃないかな、とも思ってしまうのだ。

これも戦後の自虐史観教育の成果かも知れないが、新聞も役所もどういうわけか日本の良いところを一般国民に知らせたがらない風潮があって、日本が現在、世界に名だたる省エネ大国であるという事実が、あまり知られていない。
先日、サンケイビジネスアイで報道された2003年の国際機関の統計によると、日本の全世界のGDPに占める割合は16%で、国家としてはアメリカに次いで第2位。しかし二酸化炭素排出量の占める割合はわずか5%に過ぎないのだ。
これはGDPが4%の中国が13%の二酸化炭素を排出し、1%のインドが6%を排出しているのと比べると、雲泥の差がある。
なんだかアメリカが「発展途上国が参加しない京都議定書は無効だ」というのも頷ける。
先進国と対比しても日本の省エネ技術は群を抜いていて、同じGDPを生むために必要な二酸化炭素排出量を1とすれば米国は3.2、環境問題にうるさく、いつも日本の一部の知識人が誉めそやして止まないEUでさえ1.6なのだ。

ハイブリット車や燃料電池自動車を商品化しているのは日本企業だけ。世界の太陽電池の8割方は日本製品。鉄道の大部分は水力発電や原子力で走っている。
私の勤める年商170億程度の中小企業でも、工場にはコ・ジェネレーションシステムを導入している。
民間みんな苦しいながらも頑張っているのだ。

環境省は環境問題に当て込んで、省エネかざして環境税という名の「みかじめ料」を徴収しようという、まあ、○暴より性質の悪い連中である。

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私の家の近くには大学がある。
この大学は公立の大学なのだが、なかなかビジネスセンスに長けているというか、資格試験の会場として頻繁に民間や公共団体に講義室やホールなど大学施設を貸し出している。
尤も「資金がなくて貧乏な大学」という噂がつきまとっている学校だけに収入確保に必死にならなければならないという事情もあるのだろう。
この大学と国道をはんさんで反対側に大手ビデオレンタル店があり、ここもよく繁盛してる。
日曜日ともなれば、向かいの大学の学生はもちろん、国道沿いの地域に住む人たちがビデオを借りに来たり、レンタル店と併設されている書店に買い物や立ち読みに来たりと大はやりだ。
このビデオレンタル店と大学に挟まれた国道は、国道とはいえ片側一車線の対面通行。だから、繁盛期はビデオレンタル店に入ろうとする自動車で渋滞になってしまう。近所に住む私はとても迷惑しているのだ。

ところで、この大学は貧乏ではあるものの、敷地だけは異様に広い。ゴルフ場にできるくらい広い。
大阪郊外の一等地にありながら、これだけのスペースを確保するのは並大抵ではなかっただろう。きっと固定資産税なんか莫大な金額であるに違いない。貧乏大学にはかなりの負担のはずだ。
そこで、この大学とビデオレンタル店の間を通っている国道を歩いていて、私はふと思った。
どうして大学は学園の敷地を向かいのビデオレンタル店に「駐車場として」貸し出さないのだろうか、と。

どういうわけか一般に大学の駐車場は「ここは職員や先生がた、一部の認められた学生のものです」と言う具合に、とても閉鎖的な場所なのだ。
閉鎖的な理由もわからないではない。
平日に学内を歩いたり、ジョギングしたりしていると、自動車で一杯になっている光景を頻繁に目にする。だから不特定多数の学生の入場を規制するのも理解できないこともない。
しかし、休日となれば話はまったく違う。
学内は閑古鳥が鳴いて、ほとんどゴーストタウン状態。
この大学は理科系に強い大学だから、本当なら土日も祝日もあったものではない筈だが、受験会場の貸し出しには積極的でも研究活動にはあまり積極的ではないようで、自動車の姿もチラホラ。学内スペースの勿体ない状態が続いている。

そこで、もしビデオレンタル店向かいに大学用駐車スペースを造成し、来校車を一括駐車させると莫大な利益をもたらすのではないか、と考えたのだ。
平日は学生や職員の自動車を有料で駐車させ、大学の休みの土日、祝日、年末年始にはその駐車場を向かいのビデオレンタル店に貸し出せば、大学にとって定期的な現金収入になるし、ビデオレンタル店にとっては土日祝日の駐車場不足を解決し、売り上げ増進を図ることもできる、希望の星なのだ。
だいたいビデオレンタル店や最近とみに増えつつあるDIY、家電やユニクロに代表される量販店は平日の駐車場は閑散としていて、土日、休日は駐車スペースが足りなくなるほど混雑するのだ。
おおかたの大学は郊外に広大な敷地を持っていることが多いので、大学と大型小売店がコラボすれば、双方の悩みを即解決することができるのではないか。
二次的な効果として、これまで休日は客の入りが悪かった、大学周辺の飲食業や小売店も潤う可能性がある。

こう考えるうちに、次第に「なんて私は素晴らしいアイデアを思いついたんだ。」とエキサイトしてきた。
しかし、このアイデア。私にとって一銭の利益ももたらさないようなのが、とても悲しい。

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私はタイのバンコクを訪れると、帰りの前日に市内の市場をまわり乾物を買うことを習慣としている。
主に、スルメや乾燥海老を買い求めるのである。
変なものを買うんだね、と言われるかも知れないが、たとえばタイでスルメを買うと日本の10分の1以下で買い求めることができる。
乾燥ドリアンのお菓子や、妙な置物をお見上げにかってかえるよりも、結構喜ばれるし、スルメは自分の酒の肴にもなる。

ある日、バンコク市内の市場で質の良いスルメを見つけた。
「これ、いくらで売るの」
と拙いタイ語で訊いてみると、キロあたりいくらいくらと言ってきた。それじゃ二キロほど買おうかな、と財布を出すと、突然店の中年女性店主が「それ、0.5キロの値段だよ」と片言の英語で言ってきた。
たった今1キロあたりの価格と言ったじゃないか、と私が応酬すると、「いんや、0.5キロ」と譲らない。
なら要らないということで、強欲ババアの店を蹴って、さらに市場の奥へ入って行くと、もっと品質のいいスルメが売られていた。店先でタイ風丼飯を食っていた中年女性店主に値段を訊いてみると、さっきの店より安いかった。
「ほんとに、キロあたりの値段?」と訊くと、「そうだよ、チャイ・カップ」と言った。
この店でスルメを買い込んで、さっきの強欲ババアの店を横切ると看板に漢字が使われているのが目に留まった。
中国人の店だった。
タイ人は「コンチン」という。
タイで有名な偽物の宝石店や、ソープランドを中心にするフーゾク産業、違法賭博、などはだいたい中国系タイ人が牛耳っている。
だからタイ人は中国系と聞くと毛嫌いする人が多い。
現職のタクシン首相もコンチン。だからいつもタイ人とは違った強引な政策を実施して、しょっちゅう国王陛下に叱られている。

中国人が嫌われているのはなにもタイだけに限ったことではない。
お隣のベトナムやミャンマーも同じだ。
ミャンマーは英国植民地時代、その白人統治者の手足となってビルマ民族を経済政治両面で牛耳ったのが華僑と印僑だった。
昨年ミャンマーを訪問したとき、通訳のガイドさんが「私たちミャンマー人はインド人と中国人はあまり好きではありません。日本は大好きなんですけど」と言っていた。
1980年代、大勢のベトナム難民が発生して、世界的社会問題になっていた。
日本政府は彼らを「経済難民」だとして、一人も受け入れなかった。懸命な措置だった。
なぜなら、ベトナム難民のほとんどが、ベトナム人の着ぐるみを着た中国人だったからだ。

インドから東のアジアで中国と南北朝鮮だけが、ほかの国家とは宗教やアイデンティティーを異にすることはあまり真剣に考えられていない。
日本、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオス、スリランカは仏教国で、マレーシア、インドネシアはイスラム教国、フィリピンが少し難しいがキリスト教か。
中国とそれに阿る南北朝鮮は儒教の国だ。
この儒教というのがくせ者で、倫理があって、なきに等しく、とりわけ金銭感覚に関して独特のものを持っている。
金さえあれば、なんでもよろしい。金を手に入れるのはどんな方法でも結構。
という環境をはぐくむ特性を持っている。
だから気軽に犯罪は犯すし、借金の踏み倒しなどなんとも思わない。
自分さえよければそれでいい。貧富の差もどうでもいい。
だから、慈愛を重視する仏教徒やイスラム教徒などからは忌み嫌われるのだ。

ところが仏教徒であるはずの日本には、この忌み嫌われている儒教国家を愛して止まない人々がいる。
この儒教の宗主国が満足するのであれば、日本なんてどうなってもいいと考えている人たちがいるのだ。
自国民が拉致され何十年も監禁され、人権を蹂躙されても、儒教国家の悲しみにくらべればなんでもない、などという理屈にもならない屁理屈を述べ、核兵器を開発すれば、ブッシュや小泉が圧力をかけるから、かれらも生きるために開発しているのだ、などと叫び、その犯罪国家を糾弾しようとしている政治家や活動家を「はめてやろう」とする、ほとんどオウムのシンパか、なんとか学会の狂信者のような人々が存在する。

そういう問題ある人々の一人が筑紫哲也だ。

2月14日放送のTBS「News23」のゲストは自民党の安倍晋三代議士だった。
特別ゲストとして招かれた安倍晋三は、いまさら言うまでものない朝日新聞vsNHK事件の被害者だ。
氏が番組に招かれたのは司会者である筑紫哲也との対談で、現在の状況と事件の内容についてのコメントを話すものばかりだと視聴者は思っていた。
しかし、対談内容はまったく違った。
「要点は朝日新聞が事実でないことを記事にし報道したことが問題なんです。」
という安倍のコメントに、
「政治家と言論機関の関係はどうあるべきかというの問題にしているんですよ」と筑紫はのっけからテーマをすり替えた。
「朝日に法廷でなく紙面で証明されてはいかがでしょうか、と言っているんです。サンゴの時は36日に目に記事のねつ造を認めた。こんかいも30日が経過しているわけですが」と安倍が述べると、またまた筑紫は。
「あの時は朝日新聞の社長が辞任しました。今回も安倍さんは社長に辞任をしろと圧力をかけるわけですか」と言った。もう、こうなれば、ああ言えば上裕。カルトの首魁と一緒である。

約10分間にわたる対談は安倍晋三の正論と、筑紫哲也の論点すり替えに終始したのだった。

安倍晋三は久々に登場した「ものを言う政治家」だ。
とりたてて私は安倍晋三の支持者ではないけれど、北朝鮮や中国の不法行為にきっちりと意見を述べるところは、ながらく日本が政治の世界で忘れていた正論とその痛快さを国民に甦らせつつくれている希代の政治家と思われてならない。
いわば、中国や北朝鮮といった無法者の儒教国家にとっては好ましからぬ人物。安倍晋三。
その儒教国家公式ファンクラブ「朝日新聞」の社外構成員である筑紫哲也は大切な工作員。
そういえば、筑紫哲也はあることないことでっちあげ記事のオンパレードで有名な「週刊金曜日」の構成員でもある。金曜日の「金」は金正日の金なのか。

外国に媚びて、自国を売ってる筑紫哲也。
いったいあんた、どこの誰?

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