とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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野球選手の引退

2006年10月12日 21時37分55秒 | スポーツ
統計によると、日本で一番プレーヤーの多いスポーツは野球だという。
小学生のガキから、よいよいお爺ちゃんまで。
野球を愛して止まない人々がいかに多いかというのが、我が国のスポーツ事情だという。

本格的に野球をやっているアマチュアプレーヤーは中学校から高等学校が一番多く、また社会人の世界も少なくない。
個人的で恐縮だが、私が勤めている会社の部下のW君。
このW君の弟も関西大学リーグの注目株で、「プロになるかも」と、ともかく兄貴は期待に胸を膨らませている。

で、このアマチュアからプロになる選手も年間百数十人。
引退する選手も同人数ぐらいいるので、あまり気づかないが、かなり多いのは間違いない。
でも、その中から一軍に取り立てられるのはごく数人で、さらにレギュラーになれるのは、さらに少ない。
そして30歳を過ぎても現役でいられる選手となるとさらに少なくなり、またその中から「気持ちよく引退できる」選手はほとんどいないと言っても過言ではない。

阪神タイガースの片岡篤史選手はそういう「気持ちよく引退できた」数少ないプロ野球選手の一人となった。
日本ハムから縁あってタイガースにやって来た片岡選手は野球人として、これ以上ない現役引退のケジメを示すことが出来たのだ。

つまり、
日本の野球の聖地「甲子園」で、
日本一激情的な満場のタイガースファンに囲まれて、
ライバルチームの選手からも惜しまれて、
片岡選手はユニフォームを脱いだ。
と、いうことだ。

それにしても、プロ野球選手の涙というのは、胸を打つ。
常に最高を要求され、それを追求していく「真剣さ」の月日が、結果はともあれ涙となって現れるのだろう。
だから私たち一般人にはわかっていても日頃大きく欠けている、プロとしての、その真剣さの歴史に胸を突かれるのだ。

ワールドトレードセンター

2006年10月11日 21時08分14秒 | 映画評論
早川書房刊「9月11日の英雄たち」は、NYワールドトレードセンターの2つのタワーへ、人々を救助するために果敢にも飛び込んでいった消防士や警察官たちの物語だった。

このノンフィクションの一部にも引用されている港湾警察官の二人がタワー崩壊から救助されるまでをドキュメンタリータッチで描いたのが本作である。

ベトナム戦争従軍経験のある監督のオリバー・ストーンはその出世作「プラトーン」で見せたようにリアルで力強く、汗と地の匂いがする演出を得意とする。
つまり戦場を演出する力量に秀でているのだ。
そういう意味では映画「ワールドトレードセンター」は、戦場そのものだった。

9月12日の朝、私は布団からはいずり出しテレビを点けると、タワーが崩壊する映像が映し出され背筋に寒いものが走った感覚が今も残っている。
私は夜テレビを見ないことが多いので、朝テレビのスイッチを入れて初めて重大な事件を知ったのだった。
この瞬間「戦争になる」と思ったが、同時に「これは犯罪なのであるから、戦争にしてはいけない」とも思った。
どのチャンネルも同時多発テロ事件を伝えていて、アメリカの放送局の画面隅には「War of terror」の字幕が終始映し出されていた。
やがて本当に戦争が始まってしまった。

事件の数日後にニューヨーク証券取引所が再開される時、「平常な生活をすることがテロリストに対する最大の攻撃」とジュリアーニ市長か誰かが言っていたように思う。
この映画「ワールドトレードセンター」を観賞して一番強く感じたのは、前述の言葉通り、武力に訴えることではなく日常の生活を取り戻すことこそテロに屈しない最大の戦いであると意識したことだった。

二人の港湾警察官は軍人ではない。
二人には日常の生活があり、共に暮らす家族がいる。
その二人ががれきに埋もれ、仲間が死に往く中でなんとか生き残ろうと必死で意識を保とうとする。
それを支えるのは彼らの意識の中にある家族なのだ。
物語はがれきに埋もれた二人と二人の家族、彼らの救出に当たる仲間たち、そして事件に巻き込まれた人々の姿を点描し、救出というこの事件では非常に稀なハッピーエンドを迎えることになる。

事件の背景は政治的、宗教的、民族的な問題が絡み合って複雑を極めている。
しかし本作にしろ、先々月公開された「ユナイテッド93」に於てもアメリカの描く同時多発テロ事件は冷静で、感情を顕にすることがない。
これは激情を制御しつつ理性で怒りを抑え、平常を取り戻していく方が武力に訴えるよりも遥かに勝ということを多くのアメリカ人が意識している現れなのかもしれない。

~「ワールドトレードセンター」2006年パラマウント映画配給~

ミャンマー大冒険(99)

2006年10月10日 20時18分14秒 | 旅(海外・国内)
もしもここが日本であれば、石山さんと合流するのはわけもないことだったろう。
携帯電話を取り出して、ダイヤルをプッシュするだけで彼女の予定と私たちの予定をアレンジ。
どこかで待ち合わせするのは簡単なはず。
でも、ここはミャンマー。
そうは問屋が卸さない。

まず、携帯電話がない。
いや、正しくは携帯電話のサービスは、いくらミャンマーでもあるのだが私たちは持っていない。
バガンで携帯電話のサービスをやっているかどうか分らないし、第一、ミャンマーの携帯電話サービスは極めて高いのでTさんやタクシーの運転手が持っている、ということはまずない。
私の鞄の中には日本から持ってきた携帯電話が入っているが、東南アジアではどういうわけかここミャンマーだけがサービス圏外になっているので使えない。

「どうします?」
と私。
「とにかくニャウーへ行きましょう」
とTさん。
「まずはヤンゴンの事務所に電話しなければいけませんから」

石山さんが利用している旅行社はTさんの勤務する旅行社であることは先述のとおり。
まずは本社に連絡しなければならないのだろう。

タクシーは15分ほどで、ニャウーの街に到着した。
アスファルトで舗装された大通りが大きく弧を描き、デコボコの砂利道と交差している場所だ。
通りの両側には商店やホテルが建ち並んでいる。
タクシーは交差点の角地に建っている小さなホテルというかゲストハウスの前で停車した。

「ここで電話を借りてきます。ちょっと待っていてくださいね」

Tさんはタクシーの中に私を残しゲストハウスの中に入って行った。

タクシーの中でボンヤリと待つのも芸がないので、私はタクシーを降りてTさんがヤンゴンに電話をしている間にこの交差点周辺を探索することにした。

時間がちょうど通勤通学時間に当たるためか、学生の姿が多く見られる。
高校生ぐらいの年ごろの学生たちは自転車に乗って通学。
中学生ぐらいの年ごろの学生たちは馬車に乗って通学。
小学生の子供たちは手をつないで仲良く徒歩で通学。
という感じだ。
中学生ぐらいの年格好の男の子が手に下げている銀色に輝く筒状のステンレス製容器は重箱式の弁当箱。
初めてミャンマーへ来た時、ヤンゴンの市場で発見して「あれ欲しい」と思ったものの、「でも、荷物になるな」と買い求めずにいたものだ。

それにしても今日も天気がいい。
3日前に大雨に見舞われて列車で立ち往生したのが嘘のようだ。
ミャンマーは広い国なので場所によって天候がかなり異なるのだろう。

目の前を阪急バスの塗装が施された乗り合いバスが地面の砂を押しつぶしながらザザザザと通りすぎる。
そうかと思うと、農耕用トラクターの後ろに座席をつけたようなボロボロの乗り合い自動車が人の歩くようなスピードで通りすぎる。
目の前の万屋さんの前では、故障しているのかな、ボンネットのカバーを開けてトラクターを整備してる人がいる。
一階の店舗で日用品を売っている万屋さんも見くびってはいけないようで、二階の屋根には衛星放送のパラボラアンテナがついている。
交通量はかなりある。
ニャウーは大きな街のようだ。

Tさんはなかなかホテルから出てこない。
ヤンゴンと電話が通じにくいのかな。
ま、街の風景を眺めるだけでも結構楽しいので少々時間がかかろうが私はお構いなしだった。

やがてTさんがホテルから出てきた。

「は~.......」
「どうしたんですか?」
「大変でした。」
「何がです?」
「事務所にはすぐに連絡がついたんですが、石山さんのガイドとちょっと言いあいをしてしまって」
「言い合い......言い争いですか?」

Tさんの話を要約するとこうだ。
ヤンゴン事務所に電話を入れると、責任者はすぐにOKを出してくれたそうだ。
ところが、先ほどのホテルに電話を入れ、石山さんのガイドさんに連絡をとると、
「それは困る」
と言い出したというのだ。
「会社の指示ではるばるヤンゴンからバスに乗ってここバガンまでやってきた。私は契約のガイドだからお客さんを案内しなければ一日のチャージが貰えなくなる」
という理由らしい。
誠にごもっともではある。
しかし、
「お客さんの要望がビジネスでは一番大事でしょう。あのガイドはそれが分ってない」
とはTさんの弁。
石山さんもガイド料金を払っているのだから、石山さんのガイドさんは、私たちが一時的に彼女を連れ出したからといって日給を貰えないなどといった、そんな細かい話があるのだろうか、と思った。
ま、Tさんは契約ではなく正社員なので、そういう細かな心配をしなくてもいいのかも知れないが。

そこで、昨夜のレストランからの移動でも、わざわざ石山さんと私とTさんの乗るタクシーを近距離でありながら、きっちと分けた理由が合点いったのであった。

「で、どうなんです?」
と私。
「大丈夫です。後で合流することになりましたから。それまで市場を見学しましょう」
とTさんは気分を取り直し、私とタクシーへ乗り込んだのであった。

つづく

ミャンマー大冒険のバックナンバーはここで楽しもう!

フラガール

2006年10月09日 21時08分23秒 | 映画評論
えーと、のっけから顰蹙を買いそうなのであるが、
蒼井優のセーラー服姿はなかなか魅力的だ。

なに?オッサン?キショイ?

ほっといてんか!

昨年の「男たちの大和」の中でも蒼井優は我らが大和撫子的なセーラー服姿の少女を演じていたのであった。
「うち、○○の帰ってくるのを広島で待っとるけん」
というセリフは、たとえ主人公の名前は○○と忘失してしまったとしても、
「ああ、広島に行っちゃおえんで、そこにはやがて原爆が......(おえんで=中国地方の方言で「だめです」の意)」
と、見ていた観客(私)が思わずスクリーンに向かって叫びたくなるような可憐さが、蒼井優の演技に感じられたのであった。

一方、蒼井優は上野樹里と共演した映画「亀は意外と早く泳ぐ」の中では、先の戦艦大和で出生していった主人公の幼なじみとはまったく正反対のアバズレキャラクターを演じ、見る者を驚かせた。
蒼井優は高い演技力を持つ若手女優であったわけだ。
つまり彼女は上野樹里や宮崎あおい等と並ぶ、日本映画界の新星ヒロインであることは間違いない。

もちろん、この映画の魅力は主人公を演じる蒼井優だけではない。
物語は常磐ハワイアンセンターという娯楽施設の誕生秘話で、関西人の私にとってはどちらかというと馴染の無い場所の話ではある。
常磐ハワイアンセンターよりも紅葉パラダイスのジャングル温泉や大東洋のほうが親しみがあるくらいなのだ。
しかしながら昭和40年のあの頃(私は38年生まれなので、ちっともそのころのことを記憶していないが)は、きっと日本を取り巻く状況は、こんな感じだったんだろうなと思わせるノスタルジーがこの映画重要なエッセンスであり、魅力的なのだ。

閉山目前の炭鉱の町を舞台にした、どちらかというと暗い話が、とても陽気で明るく描かれているのは、常磐ハワイアンセンターのサクセスストーリーであると共に、先述の蒼井優をはじめとする若手俳優と若手スタッフたちの力のたまものであろう。

ただ、若手映画製作者による同じサクセスストーリーでも、矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」と比較して、そのパンチ力にいささか弱さがあるのは否めない。
脚本の捻りが弱い部分が見受けられることと、炭鉱の町の表現が少しばかし乏しすぎるのではないか、という疑問を抱かせるからだ。

とはいえ、見どころたっぷり。
泣いて笑ってワクワクして、結構楽しい映画だったのだ。

~「フラガール」2006年作 製作・配給 シネカノン~

子供の持つ「死」の概念

2006年10月08日 19時45分27秒 | 社会
今日はちょっと重い話題。

先週2つの大きな事件が報道された。

一方は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州で発生したアーミッシュの学校へ銃を持った男が乱入し、児童を殺傷した事件。
もう一方は、北海道滝川市で昨年9月に発生した女児の自殺の原因が学校内でのイジメにあったことを市の教育委員会が隠ぺいしていたという事件だ。

どちらも被害者が12、3歳の子供であるということに特徴があるが、新聞報道を比較すると、この日米の子供の死に対する考え方の違いが、不謹慎ながら私の興味を強くひいてやまないのだ。

アーミッシュはハリソン・フォード主演の映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」で一躍有名になったキリスト教の一派だ。
近代的な機器類を使わず、地味な黒、またはそれに近い色合いの独特の衣服を身に付け、基本的にはかなり質素な暮らしをしていることから、一般からは一種変わった人々と見られている。

このアーミッシュの子供たちが通う小学校に銃を持った男が数名の少女を人質にとり立てこもった。
ここまでなら、普通の人質事件で終ってしまうのだが、この事件の特異さは、この人質になった少女の一人が犯人に向かって懇願した内容なのだ。
その十三歳の女児は犯人に向かってこう言った。
「もし誰かを殺すのであれば私を撃ってください。その代わり、他のみんなを助けてあげて下さい」
と。
犯人は少女の望み通り、彼女を射殺した。
そしてさらに数名に向けて発砲した後、自殺を遂げている。
犯人の行動はコロンバイン高校を襲撃した男と変わるところはないかも知れない。
しかし自らを人身御供として指し出した少女の心は、いったいどいうものだったのだろうか。

「犯人を恨む気持ちはありません」
というのは被害に遭ったアーミッシュのコミュニティが発表した談話で、それに添えられた「私たちには怒りというものはありません」という言葉はキリスト教というよちも仏教を連想させる凄みすら感ぜられるのだ。
自己犠牲を伴う重い決断を、正しいか否かは別として、わずか十三歳の少女に下させる勇気を与えるアーミッシュ文化というのはいったい何なのだろうか。

それに対して「いじめ」という陰惨な体験から、たった十二歳の女児がどうして「自殺」というような選択を下してしまったのか。
私は教育委員会の事なかれ主義よりも、子供が物事の解決方法に自殺を思いつくような環境を生み出している、今現在の日本の文化を恐ろしく感じるのだ。
テレビは頻繁に「誰かが自殺しました」「子供が犯罪を犯しました」というような凄惨な事件の報道を垂れ流し、バラエティー番組ではコメディアンや「(似非)文化人」たちが「死」や「いじめ」などを茶化すような内容のものまで放送している。

昭和40年代後期、私自身もいじめられっ子の小学生だった。
しかし「死のう」などと思ったことは一度してなかった。
なかったというよりも思いつかなかった。
たった30年で、日本はどう変わってしまったのか。

二つの「死」に対する相違は、上辺の議論や謝罪に明け暮れる理念無き社会への警告以外の何ものでもないと思われてならない。

ミャンマー大冒険(98)

2006年10月07日 20時57分30秒 | 旅(海外・国内)
昨夜、夕食のレストランからホテルに戻り、それぞれの部屋に入る時に、
「朝食も一緒に食べましょうね」
と言って別れた。
そこで朝食をとりに約束の時間にレストランへやって来たというわけだ。

「私、石山さん、見てきましょうか」
とTさん。
「もうすぐ来るんじゃないですか」
と私。
トーストと卵焼きを注文し、紅茶を入れてもらって暫くポケーとしていると石山さんがやってきた。

「どうしたんです?」
「.........は~」
と石山さんはテーブルに着くなりへたり込んだ。

石山さんが昨夜、かなりハイテンションであったことは先に述べた。
で、かなり元気な食欲だったことも述べた。
元気一杯でホテルに帰ってきたのはいいが、昨夜半過ぎから彼女は大変なコンディションに陥っていたというのだ。
食べ過ぎが原因か、飲み過ぎが原因か分らないが、東京でもなく大阪でもなく、ヤンゴンでもバンコクでもないここバガンでバスルームに隠りきり............誠にもってご愁傷様である。

その災難な一夜が明けた石山さんは睡眠不足と体力消耗でヘトヘトの様相であった。
が、なんとか少しばかしの朝食を口にする元気はあるようで一安心。
外見以上にしっかりした人なのかも知れない、と思った。
ただ、石山さんが気力を振り絞って朝食に姿を現したのは他にも訳があったのだろう。
というのも、実はこの旅で私とTさんが石山さんと同席するのもこの朝食が最後の機会なのだった。

私とTさんは今日はバガンに近いニャンウーの市場を見学した後、車で1時間ほどの距離にあるホッパ山という観光スポットへ向かうことになっている。
石山さんは午前中バガンを見学した後、午後の飛行機でヤンゴンへ戻り、明日シンガポール経由で東京へ帰るのだ。

つまり今朝の朝食は最後の晩餐ならぬ最後あさげ(永谷園ではない)というわけだ。

「今日は何処行くんですか?」
と石山さん。
「今日はホッパ山へ行って、それからバガンへ戻って観光です」
と私。
「そうですか」
「そうです.......石山さんはホッパ山、行きました?」
「いいえ......今日はバガンを廻って帰ります」
「まだ、顔色悪いですね。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。」

なんてことを話していたが、どことなく寂しそうな表情だった。
いや、寂しそうというよりも、食べ過ぎ飲み過ぎでクタクタという表情だったのかも分らない。
でも紅茶やジュースなどの水分を補給して少しは元気になってきた感じだった。
石山さんは根から陽気な「江戸っ子」の女の子なのだろう。

朝食を済ませ部屋に帰り、時間がもったいないので私とTさんは直ちに観光へ出発することになった。
「私、玄関まで見送りに行きます」
と石山さんは私たちが出発するのを玄関で見送ってくれることになった。

荷物を持って玄関に来るとタクシーがすでに待機してくれていてTさんもやって来た。
「せっかくだから、ホテルの前で三人で記念写真を撮りましょう」
と私。
「賛成!」
ということで、想い出のルビー・トゥルー・ホテルの玄関で3人揃ってポーズ。
ホテルの女主人に私のデジカメのシャッターを押してもらった。
「ではでは、行って来ます!」
「行って来ます!」
「行ってらっしゃい!」

さ、いよいよ石山さんともお別れである。
タクシーに乗り込み私とTさんが手を振ると、彼女もホテルの人たちと一緒に手を振ってくれたが、顔が涙顔になっていることに気づいた。
そういえば、たった一週間の旅だったが、ヤンゴンからスタートした今回の旅は、あまりに多くのことがありすぎて、随分長い間一緒に旅をしていた感じがするのだった。
「さようなら、石山さん」
とTさん。
「さようなら、お元気で」
と私。

タクシーはホテルを離れ、凸凹道を走り出し石山さんの姿もすぐに見えなくなってしまった。

何か物足りない。
このままでいいのだろうか。
なんだかこのまま石山さんとそれっきりになるのは、旅の締めくくりとして中途半端な気がしてならない、と思った。

「ねえねえ、Tさん。」
「何ですか?」
「石山さん、ホッパ山へ行くのに誘いましょうか?」
と私。
「.....実は、私も同じことを考えていたんです。」

私とTさんはどうやら石山さんが共通の友人と思えるようになっていたようだ。
せっかくミャンマーのバガンまでやってきて、有名なホッパ山を見ずに帰る石山さんを私は是非とも私たちのホッパ山ツアーに同行したいと思ったのだ。
偶然にも、Tさんも私と同じことを考えていたのだが、私に遠慮をして口に出さなかった。
ところが私が石山さんの同行をオファーしたものだから、待ってましたとばかりに賛同してくれたというわけだ。

私とTさんの考えが一致し、早速、
「では、石山さんに連絡をつけましょう」
となったのであった。
ところが、この私のオファーが、事態を少しばかり、いや、かなりややこしくすることになるとは予想だにしなかったのである。

やれやれ。

つづく

とりがら旅サイト「東南アジア大作戦」

戦場カメラマンのブロンズ像

2006年10月06日 21時54分15秒 | 社会
「今度はちょっくらベトナムへ行って来ます」
と数年前、出かける直前に両親に話したら、
「.......そんな危ないところへ行って大丈夫?」
と心配顔で聞き返された。

私がガキだった頃。
ベトナムは戦場だった。
映画「地獄の黙示録」「プラトーン」「フルメタルジャケット」「ディア・ハンター」で見られるようにベトナム戦争は残酷だった。
私の両親の頭の中は、まだまだ30年以上も前のベトナムの映像が焼き付いていた、というわけだ。

その恐ろしいベトナム戦争で活躍した二人の日本人戦場カメラマンが、このほどサイゴン(ホーチミン市=役人以外の地元民が呼ばない総称)の中心でブロンズ像になって飾られることになった。

ブロンズ像にされる戦場カメラマンは沢田教一と一ノ瀬泰造の二人。
産経新聞の記事によると、上記2氏と共に戦場を駆け巡った元UPIカメラマンで骨董商を営むベトナム人が自分の店の前に二人のブロンズ像を建てるのだと云う。

沢田教一は子供を抱いた親子が爆撃から逃れるために必死で川を泳いで渡る場面を納めた「安全への逃避」と題された写真で知られているカメラマン。
それまで無名だった沢田はこの写真でピューリッツア賞を受賞。
一躍世界的な報道カメラマンの一人となった。

一ノ瀬泰造は「地雷を踏んだらサヨウナラ」で有名なカメラマン。
ベトナム戦争の取材に参加したのは戦争終結直前で、ベトナムを写した写真に特筆すべきものはあまりない。
むしろベトナム戦争後のカンボジアの風景の方が有名だ。

偶然に二人ともベトナムではなくカンボジアで命を落とした。
沢田教一はプノンペンから白人の同僚記者と取材に出かけ、その途中でクメール・ルージュと思われる賊に教われ合い方と共に射殺された。
一ノ瀬泰造はポルポト時代の朽ち果てたアンコールワットを撮影しようと試みて、彼もまたクメール・ルージュに命を奪われた。

「ベトナム戦争を世界に伝え、戦争を終結に導き平和をもたらしてくれた二人に感謝して」
というのが、ブロンズ像建立の理由らしい。
しかし、私には観光やビジネスでサイゴンを訪れる数が急上昇している日本人に当て込んだ「客寄せパンダ」ではないかと思われてならない。

「空港共生宣言」伊丹市のご都合主義

2006年10月05日 20時02分37秒 | 社会
その昔。
阪急電車「蛍が駅」を下車すると、見渡す限り田んぼばかりで、その田んぼの彼方に伊丹空港の滑走路が延びていたという。(確か城山三郎著「ゼロからの栄光」に書いてあった)
空港のまわりを遮るものはなにもなく、陸海軍の軍用機や誕生したばかりの日本航空のプロペラ機が離発着を行っていた。

それから30年ほどが経過して、「喧しいから空港はどこかへ行って欲しい」という運動が起こった。
ちなみにクレームをつけた人々のほとんどは、空港が出来た後に移り住んだ人たちだ。
飛行機はプロペラ機からジェット機の時代に代わって、大きさも10数人乗りから300人乗り以上もの巨大なものに代わっていた。

で、
「キーン」というジェット音が煩いさから。
大きな飛行機は落ちたら怖いから。
夜は眠れないし朝夕煩いし。
空港は要りませんと、地元自治体は宣言した。

「大阪空港撤去宣言都市」

飛行機は要りませんから空港はどこかよそへ言って下さいと正式に宣言した。
だから空港を運営していた国は国民の税金を注ぎ込んで周辺住宅の防音工事に、その他公共工事を次々発注。
それでも「喧しいからどっか行け!」の声は鳴り止まない。
仕方がないから、あれやこれや考えて海の上に空港を作った。
関西空港がそれである。

「関空できたら閉鎖で静かになるから良かったね」

と言ってた空港、大阪国際空港は今なお現役。
どうなっててるんだ?

空港の地元、伊丹の自治会、商工会が市議会に対して「空港共生宣言」の請願を提出した。

まったくもってご都合主義。
人間の身勝手さ、ここに極まれりといった感想だ。

国も伊丹市の宣言を認めて大阪空港を残すなら。
ジェット機の機種制限を撤廃し、
夜中も飛べる24時間空港にあらためて、
おまけに補助金はいっさい出さない条件で認めて欲しい。

大阪空港は地元の皆様の打出の小槌ではありません。

ミャンマー大冒険(97)

2006年10月04日 20時47分32秒 | 旅(海外・国内)
「おはようございます。」
「おはようございます。」

バガンの朝。
爽やかな気分で目が覚めた。
私は顔を洗って簡単に身支度を整え、レストランのある本館へ向かった。

レストランはフロントの奥にあり、天井が高くて結構広い。
そこには四角の4人掛けテーブルが並び、そのうちの一つには、すでにTさんが座って待ってくれていた。

「あれ?石山さんは?」
「まだですよ。まだ寝ているんじゃないですか」

昨夕、シェサンドーバゴダで夕日を眺めたのは先述の通り。
夕日スポットのシェサンドーパゴダは観光客で一杯であったこともすでに書いた。
その多くの観光客の中には、なんとデイビットさん夫妻の姿もあった。
偶然というか、旅行行程がとても似通っているので当たり前というか、これでヤンゴンからの列車の旅で同室になったメンバーが全員揃うことになった。

石山さん、デイビット夫妻、そしてTさんと私。

こんな機会はもう未来永劫巡ってくることはないだろう。
そこで私は、この素敵なバガンの地で、今夕、一緒にディナーをとらないかと提案したのだった。
「それ賛成~!」
と一番に手を上げてくれたのは石山さん。
カップルの旅なので、こんな提案は迷惑かも知れないと思ったデイビット夫妻も快く同意してくれた。
場所はニューバガンのエヤワディ川を臨めるレストラン。
もっとも夜だから景色は見えないが、時間を決めてそこで集合することになった。

デイビット夫妻と一旦別れてから私たちはブーパヤーパゴダを訪れた。
「私たち」の中に石山さんも含まれていたのは言うまでもない。

ここのパゴダはとても変っていて巨大な瓜の形をしている。
その瓜も黄金色で夕刻はライトアップされており、美しい。
境内のすぐ下はエヤワディ川が流れている。
きっとここから眺める夕景も素晴らしいものに違いない。
境内の河辺の欄干に捉まって川面を眺めていると、頬を撫でる川風が心地よい。
「日本へ帰りたくない。ずっと、ここにいたい。」
などという無理な感慨に耽っていたら相変わらずTさんは私のことなどお構いなし。石山さんと友達同士のようにおしゃべりを続けているのであった。

女同士が仲良く話しているところにはあまり近づかない方がよろしい。
君子危うきに近寄らず。

「ねえ、ねえ、すいません。Tさんと一緒に写真撮ってくれますか?」

油断をしていたら石山さんから瓜の形のパゴダをバックにTさんと写真を写して欲しいと頼まれた。

「ええ、いいですよ」

気軽に引き受けたものの、瓜型パゴダを背景にTさんと石山さんを上手に納められる構図をとるのはかなり難しかった。
じっくりと2秒間ほど考えてみたが、結局写した写真は月並みな写真であった。
もうちょっと格好良く決めたかったのだが、無理なのであった。

約束の時間が迫ってきたので、私たちはそれぞれチャーターしていたタクシーに乗り込みレストランへと向かった。
なにもわざわざ別々のタクシーに乗り込まなくてもいいものを、そこはミャンマー。個々の役割を果たさせてやらなければ彼らのドライバーやガイドさん諸氏の給与に影響するというものだ。

レストランへ到着するとデイビット夫妻もやってきていて、私たちはそれぞれのガイドさんも巻き込んで屋外ガーデン様式のテーブルに腰を落ち着けたのであった。
問題は料理のオーダーで、これはTさんにお願いし、Tさんは他のガイドさんたちと色々話をして私たちのために色んなミャンマー料理を注文してくれた。

まずは日本と同じようにビールで乾杯。
Tさんはジュース。
女性の飲酒はミャンマーではあまり歓迎されないのだ。
男性は若干緩いが、それでも飲酒はお釈迦様の教えとちょっと違うのであまり歓迎されない。
歓迎されないどころか、私など客であるにもかかわらず、Tさんに「まだ飲むんですか」と叱られることが度々だ。
まだ2本目や、ちゅうねん。
石山さんは日本人なので女性でも一杯やっても問題はない。
で、どういうわけか、私が「会長」に推奨され乾杯の音頭をとることになってしまった。
言い出しっぺ。だから「会長」だそうである。

「乾杯!」

それにしても、石山さんは陽気な女性だった。
よく話すし、よく食べる。
そして何といってもノリがいい。
とても東京の女の子とは思えないハイテンションなノリなのだ。
明日から大阪にやって来てもまったく違和感なく生活できることは間違いない。

料理が次々に運ばれてきて、中には私の口に合わないものもあったが石山さんは、どれもこれも興味深そうに、そして美味しそうに食べていた。
デイビットさんは話が面白い。
東京でフリーライターをしているデイビットさんはカルトビデオのマニアで、日本のオカルト系や特撮物の作品を記事にすることを生業にしているという。
もちろん英語で書いているのだろうが、こういうライターが生活できるところは、やはり東京だなと思ったりしたのであった。

宴はレストランの舞台の演じられる蹴鞠のパフォーマンスで最高潮を迎えた。
客は私たちを含めて他に二組ほどしかおらず、客より演者のほうが多いのではないかと思えるような雰囲気の中、私たちの盛り上がりは一種異様ですらあった。

ともかく記念の宴は成功裏に終了し、私たちはデイビット夫妻に別れを告げ、私とTさん、そして石山さんは同じホテルに帰るために、またまた別々のタクシーに乗り込んだのであった。

つづく

とりがら旅サイト「東南アジア大作戦」

DVD犬

2006年10月03日 20時47分22秒 | 社会

ハリウッドの映画産業にとって、最大の敵は海賊版製造業者である。
全世界に於ける海賊版による被害総額は約2兆1300億円にのぼると言われ、そのうちDVDやVCDなどの光ディスクによる被害は約13億円というのだから、半端ではない。(数字は産経ビジネスアイより引用)

そこでハリウッドはDVD犬の養成に取り組んだという。

DVD犬とはちょこんと座って蓄音機に耳を傾けている犬の親戚ではない。
そんな日本ビクターのHis master's voiceの犬ではなく、違法な手段によって製作されたDVDを麻薬犬のごとく嗅覚で摘発する任務を帯びた犬のことなのだ。

新聞記事によると8カ月に渡って訓練された2頭のゴールデン・リトリバーはDVDの主原料である樹脂が発する独特な匂いをかぎ分けることにより、空港の通関や製造工場などで違法DVDの探索に当たるのだという。
その訓練に要した費用は1頭あたり105万円というのだから、想像していたよりも安い。
2頭で210万円だから、DVD犬で海賊版ソフトの製造販売を少しでも抑止できるのであれば、これほど安いものはない。

ただし、いくらプロのDVD犬と言えども正規ソフトと海賊版ソフトの嗅ぎ分けはできないということがだから、中途半端というか、なんというか。
ともかくDVDやVCDの違法コピーを防止するための注意を呼びかける、本当のDVD犬ではなく、いわゆる「客寄せパンダ」の趣があることは否めない。

なお、麻薬犬があり、DVD犬があるのなら、そのうちエロ本犬なんかも養成されるかも分らない。
そういったエロ系目的で海外旅行するオヤジは注意しなければならない時代もやってくるかもわからない。