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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



家電量販店を散策していたり、雑誌を手に取りペラペラとページをめくっているとデジタルカメラに「プロ向け」なんてポップが付けられて売られているのをよく目にする。

この「プロ向け」の定義って、いったい何なんだ。

その昔、家庭用ビデオデッキに「ベータプロ」なんて機種があって、私も学生時代にアルバイトで貯めたお金で1台購入した。
芸術学部で映像を専攻していたので、自分でビデオ編集するには2台のビデオデッキをつないでダビングを繰り返すしかなかった。
1980年代。
ノンリニア編集できるパソコンなど存在しなかったのだ。

「プロ」とは言いながら、その実、価格はプロダクションや放送局が使用するものとは随分と異なり、内容は当然ながらかなり劣っていた。
それでもプロというぐらいだから、コマごとの編集ができたり、他の家庭用機種よりは耐久性があったことは間違いない。
この耐久性あたりがプロを標榜した理由だろう。
ちなみにベータプロのデッキは20年以上経った今も元気に動いている。

で、デジカメの「プロ仕様」とはいったいなんぞや。
と考えてみると、私は正直分からない。
確かにレンズの歪みや明るさ、画素数や色再現性など、プロにとって大切な要素はあるに違いない。
でも、デジカメの性能は「プロ」「アマチュア」の差を訴えるほど大差はないような気がするのだ。
要はプロでもどういうジャンルで使用するのか、というのが重要で、「プロ仕様」を謳うのであれば例えば「ファンション系の撮影にはこのカメラ」「建築系の写真にはこのカメラ」「報道系にはこのカメラ」という風に、ちゃんと説明してくれたら価値があるというもの。

学生時代。
世界的にも有名なカメラマンの先生が、私たち学生が使うような安価なカメラでパシャリとやったら、びっくりするような写真を撮った。
ということがあった。
つまり写真にしろ動画にしろ映像はカメラの性能に頼るのではなくて、撮影者の腕に大きく左右されるのだ。

ということで、量販店や雑誌の表示「プロ仕様」。

「ワシはプロや」
と標榜しているカメラマニアのおじさん向けた「これ、よろしおまっせ。買うてや」というメッセージなのかも知れない。

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「日立が日立マクセルを完全子会社化」というニュースを読んで、久々に音楽や外国製のテレビ番組に目覚めた少年の頃だった自分を思い出した。

中学生の時、確か毎週日曜日に朝日放送で「地球は音楽だ!」という番組が放送されていたこ。
この番組のスポンサーが日立マクセル。
番組とコマーシャルで流れる独特のコーラスで始まる音楽に「お、めっちゃ感じええやん」と、それまで山口百恵や桜田淳子、西城秀樹、フォーリーブスなんていうアイドル歌謡にしか興味がなかった私に音楽センスに関する天気を与えてくれたのであった。

その曲は当時ほとんど無名だったゴダイゴが演奏する「シンフォニカ」。
全編英語で歌われるその曲が日本人の製作によるものとはとても思えず、なんとかしてドーナツ盤を手に入れたいとがんばってみたものの、そこは中学生。
見つけ方が分からない。
やがて高校に上がってすぐにCMソンググラフティなるアルバムを見つけて感激したのだが、ゴダイゴを知ることと日立マクセルが重なって、
「日立マクセルってセンスのええ会社やな」
とその後暫く親に買ってもらうカセットテープは日立マクセルを選ぶことになった。

その日立マクセルのテープを使って録音したのがサンテレビ放送されていた「世界の料理ショー」や「ザ・ゴングショー」といったアメリカのバラエティ番組。
まだまだビデオなんてなかった時代。
一般家庭の購入できるビデオデッキβマックスが発売されたのがこの2~3年後。
テレビはテープに「録音」するものだった。

このテープのうち今も残っているのが「世界の料理ショー」の1話。
ホスト役のグラハム・カーの声を浦野光がやっているシリーズで今となっては貴重品。
カセットテープの黄色い下地に「maxel」のロゴを見るたびに浦野光の、
「おーい、スティーブ。水が出ないぞ」
という声を思い出すのだ。

この日立マクセル。
長い間、私は日立だから東京の会社だと思っていた。
ところがある日、この会社が大阪の会社であることを知った。
多くの大阪の大手企業が本社を東京に移しているのに、今もこの会社は大阪の茨木市が本社。
地元贔屓も手伝って大阪人の私は今も時々、この会社の製品を買っている。

もちろん時代の流れで買うのはカセットテープではなくてDVD-RやCD-Rなんだけどね。

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昨夜、大阪岸和田市で開かれた花火大会に行ってきた。
「岸和田港まつり花火大会」
というのが正式名称だそうで、雑踏の苦手な私は行くつもりがまったくなかったのだが、家族に引っ張られて蒸し暑い中を会場に向ったのであった。

私はてっきり花火はベイサイドモールカンカンというショッピングモール前の湾を使ってやるものだとばかり思っていたのだが、違っていた。
花火大会はベイサイドモールの遥か南西。
埋め立て工業地で行われ、カンカンは単に「そこから見える便利な場所」ということで人だかりできていたのだった。

なお、カンカンという名称は懐かしの上野のパンダさんの名前からではなく地場の祭「岸和田だんじり祭」に由来しているので、念のため。

花火を見て思い出すのが、
「ミャンマー連邦タウンジー市の気球祭」
「ヒロヤマガタの版画」
「隅田川の花火大会」
「PL教団の大花火芸術」
の4つ。

このうち最もポジティブに思い出深いのはミャンマーのそれである。
このタウンジーの気球祭は現地の秋祭りなのだが、祭当日は数十万人が集うというビッグイベントで、打ち上げ花火ではなく気球に仕掛けられた花火が「どどどどどどどどっどど~~~~ん!」と炸裂し、美しい花びらを咲かせる姿はやけに印象的なのであった。

すっかり姿を消してしまったヒロヤマガタの花火の版画。
大学を卒業したばかりのころ、神戸JR元町駅近くのギャラリーで100万円以上もするヒロヤマガタの版画を売りつけられそうになり、かろうじてその場から脱出することに成功した、という記憶でその絵を覚えているのだ。

で、隅田川の花火は東京名物ということで一度見てみたいものがあるのだが、今年も残念ながら見落としてしまった。
なぜなら、今年の隅田川の花火大会は昨日の岸和田と同じ日だからであった。
なお、本当に見たいという理由は、
「たまや~~~~」
と叫んでいるオッサンが本当にいるのかどうか見てみたいだけなのが本心だ。

最後にPLの花火芸術。
私の生まれ育った大阪南部では同教団の高校野球と共に名物である。
実際、見たことは1度しかなく、それも引っ越したばかりの我がマンションの屋上からであった。
以後も以前も、毎年大阪の夜空にとどろく巨大な爆音と、見に行った人の「エライ混雑やった。帰ってきたら朝やった」という愚痴のみを聴くに留まっているのだ。

ということで花火大会。

見れば面白いこともないが、できれば冷房の効いた涼しい場所で見てみたいところだ。

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「民主党、自衛隊のインド洋でのミッションを支持」

民主党の方針が突然豹変したのは、
「おれは金なんて興味ないね」
なんて女の前ではキザなことを言っている格好付けのオッサンが、
「この取引に乗ってくれたら100万円個人的にバックします」
と業者に言われて、懐に札束をしまってほくそえむのに大変似ている。

これまで民主党のやってきたことは一体なんのか。
その党的人格を疑いたくなる発言変更だ。
きっと彼らの本当のマニュフェストは、

「他人の言動はすべて否定する」
「会議は混乱させる」
「自分対置以外の人々の利益はどうでもいい」
「でも、党個人の利益になるのなら、なんだって有り。正味、泥棒や詐欺師も正義だ。」

といったところなのかも知れない。

私自身、自衛隊の海外派遣は大賛成。
世界の平和維持に軍隊を平和裏に派遣できるのは、究極すれば日本の自衛隊だけだと考えている。
オーシャーンネービーという言葉が示すように世界の海へ展開できる海軍を持っているのは米国と英国と日本だけ。
でも米国と英国は彼らを嫌っている国が多く、つまりは敵が多い。
しかも紛争地帯に行くほど、これらの国は白い目で見られているので展開の仕方も口ほどではない。

そこへいくと日本は未だに百年前の日露戦争や破れはしたが第二次大戦の活躍がこれらの国の多くでは記憶に残っており、しかも、戦争に負けた後の伝説的な経済発展が効果を発揮し、紛争地域の国へ行くほど人気が高くなる傾向がある。

だからこそ日本が紛争地域へ踏み込んで平和維持活動に務めるべきなのだが、そこは旧日本社会党の伝統を引き継ぐ民主党。
なんでも反対の思想を貫いて、他国に拉致された自国民も無視するのに他国のことなどお構いなしは当たり前。

今回の発言変更をもってしても、結局「売上げ税」に牛歩戦術で抵抗し、「消費税」に賛成し、しかも税率を3%から5%にアップさせる功績も働いた人々が半数を占める政党ではあると感心するのだ。

かといって迫る総選挙にボンボン、スポポン、アホボンの揃う自民党に投票する器にはなれず、いっそのこと「幸福党」にでも投票しようかと、やけっぱちな気分にもなってくる自分が悲しい。

風見鶏・民主党。
党首鳩山のラリッタ雰囲気漂う「目」を見る限り日本の将来は明るくない。

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「JALの企業年金カット、1/3のOBが反対」

なんだか日本航空の報道を見ていると、昨年のアメリカ自動車業界のニュースを見ているようで気が沈む。
会社が危機状態にあるにも関わらず、組合が強いばかりに会社は財務改善にも取り組めず、そのままズルズル時間だけが経過する。
OBに危機意識はまったくなし。
ある危機意識は自分の年金が削られるというそのことだけ。

まったくもって、見ているこっちがアホらしくなってくる。

但し日本航空の場合、「こっちがアホらしい」とばかり言ってられないことがある。
それは、この企業には莫大な額の税金が投入されているということだ。

潰れかけの会社である日本航空は我々が払った税金でを下支えされているのだ。
だから日本航空に潰れてもらうと、投入している何千億円もの税金が泡とはじけて消えてしまうというわけだ。

そこで我々一般納税者には大きな疑問が浮かんでくる。
なぜ自分たちが汗水垂らして働いた払った税金を投入してまで、あいつらの年金を払ってやらねばならないか、ということだ。
もし日本航空が自分の会社の社員だけや、一部の政治家、役人だけの利用者で経営できるのなら結構だ。
でも、本来多くの一般人に利用してもらわなければならない民間会社。
もし、
「こんなけしからん会社は潰れてしまえば結構だ」
なんて人が多く出てきたら、どうするつもりなんだ。

数億円規模の追加支援要請も、もしかしたら
「潰れるぞ~。援助しなけりゃ潰れるぞ」
という国を脅したらもっと金をせしめられるという意図のものになされているんじゃないかと、勘ぐりたくなる。

ANAは民間からの全額の融資。
JALは公的資金。
でも、企業年金カットはしない。

だからJALは好きになれないのだ。

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アメリカのテレビネットワークCBSの元キャスター「ウォルター・クロンカイト」が亡くなった。
享年92歳。

クロンカイトというとケネディ大統領暗殺の報道が有名で、日本でもその名前はジャーナリズムに興味ある人には良く知られている。
テレビ(またはラジオ)と言うメディアを最大限に利用して、というか、これらのメディアに社会へ及ぼす強い影響力を持たせたのがクロンカイトのような人々だった。
1960年代から1970年代までは、まさにテレビにおけるジャーナリズムの最盛期で、この力強さはつい最近まで残っていた。

同時に、テレビジャーナリズムが最も力をもったのはアメリカと言う国が、国家間における国際権力を持ちえた時期と朝なっていて面白い。
クロンカイトがベテランジャーナリスト活躍したこの時期、アメリカはベトナムでの戦争に辟易とし始めていた。
何の為に戦い、そして誰のために若い命を捧げているのか。

「自由を守る為」

共産主義の浸透から自由主義を守る為なんどというお題目に、人々はまったく振り向かなくなり始めていた。
南ベトナム政府の要人は自分たちの権力と欲を満たす為に「自由」ということばを利用して湯水のごとくアメリカから金を引き出していた。
ベトナム国民には自分たち政府に抗議することさえ許さず、なんらかの反抗を見せれば「おまえはベトコンだ」と宣言し、処刑した時代だった。

そんなインドシナの現実を報道したのもクロンカイト等の報道陣だった。

先日、そのベトナム戦争を指揮したロバート・マクマナラが亡くなった。
マクマナラはジョンソン政権下、強硬な態度でベトナム戦争を泥沼化へと導いた張本人だった。
クライスラーで辣腕を震っていた実業家は、そのアグレッシブな思想で数多くの同胞をジャングルの地獄に放り込んだ。

そのマクマナラが亡くなり、それを批判し報道したクロンカイトが亡くなった。
アメリカ工業界の雄であった自動車産業の一郭、マクマナラのクライスラーも倒産した。

アメリカ時代の終わり思わせるのだ。

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ウィグルの暴動といえ昨年のチベットの暴動といえ、20年前の天安門事件といえ中国政府の対応はすべて同じ。

なんになんでも力で押さえつける方法だ。

これまで、
「どこどこの地方都市で暴動があった。」
「一揆が発生した。」
なんてことがインターネットを通じて「噂」として流されていた。
そういう比較的小さな規模の反政府的行動は、政府の力によって押さえつけることができていたのだろう。
なんといっても中国メディアはすべてが御用新聞。
情報操作なんか簡単だ。

が、ここにきて中国メディアでさえ隠し切れない国内の騒乱が相次いでいるようだ。

その騒乱の原因は思うに、経済危機。

日経や朝日新聞をはじめ、日本のメディアは分析能力がないからか、それとも中国に進出している企業、イコール己がクライアントに遠慮してか、本当の中国をなかなか伝えない。
伝えないどころか、最近の報道では、
「中国は経済危機を脱出し、世界経済の牽引を始めた」
とさえ言い始めている。

でも実際は、中国が経済を牽引というそれは事実ではない、という意見が欧米のメディアが伝え始めている。

その証拠の一つに電力消費量があるそうで、中国国内の消費電力はリーマンショック以前から下がり始めており、今もその傾向は変わらないのだという。

もし、経済が回復し、工場や都市が機能し始めているのであれば当然、電力消費量は上るはずだ。
それでも経済が回復しているというニュースを流し続けるのは、海外へ向けたメッセージではなく、きっと国内にむけたものに違いない。

「黙って共産党政府について来い!」

と言いたいのだろう。

考えてみれば中国の経済政策なんか建国以来すべて虚偽で固められている。
その建国の父、毛沢東は「大躍進」で中国経済を「発展」させ、それに続く「文化大革命」で文学や思想、伝統などの不要なものは駆逐して現在の国民性の「礎」を作った。
それぞれの時期は政府発表で国家経済が発展し、きらびやかな中国4000年の歴史に新しい年輪を刻み続けていた。
しかし、その背後では何千万人の国民が権力によって命を絶たれていたわけだから、なにが輝きなのかわからない。

で、よくよく考えてみるとこの国には次の公式が成り立つことに気がつく。

「中国の経済発展 イコール 無数の犠牲」

ウィグルで騒動が発生するのもわからないではないのだ。

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ミャンマーを時々旅をすると、その治安の良さについつい日本にいる時のような感覚に陥ってしまう。
つまり外国に居ながら気を抜いてしまうことがある。
ミャンマーはなにかしら、安心して旅をしたり滞在したりすることのできる不思議な国なのだ。

「そんな、あなた。それは悪名高い軍事政権が市民を力で押さえつけているからでしょう」

私のミャンマーでの感想や体験を話すると、たいていのひとはそう言うのだ。
でも、それって当たっているように思えるけれど、でも当たっていない、というのが私の説明になっていく。

ミャンマーは軍事政権の独裁が続いているので市民はかなりの抑圧を受けている。
それはある意味事実で、政治的な自由さは、多分日本ほどには無いだろう。
でも、中国以上にはあるかも知れない。

「海外からの情報は遮断され、人々は自国以外で何が起きているのかさえ知らない」

という意見、というか印象を耳にすることもあるが、これは完璧に間違い。
例えばヤンゴン市内の外国人向けホテルではもちろんタイやインド、果てはCNNやBBC、受信料も払っていないのにNHKさえ見ることができるは当然で、さらに、街のちょっと裕福な家の屋根には衛星放送を受信するパラボラアンテナがにょきにょきとそびえている。
だから、海外の情報は良く知っているし、あの3年前の僧侶のデモもCNNなどの海外メディアやインターネットを通じてリアルタイムに知っていたのだ。

ミャンマーの治安の良さは軍事政権の弾圧や抑圧ではなく、別の要素にあると、私は信じている。
それはなにかというと、
「仏教」。
ミャンマーはお釈迦様の教えを深く信じている文化で知られているが、この仏教による教育が温厚で柔和、それでいて一旦事が発すると情熱的に動き出す。
まるで昔の日本人のような感覚がここにはあるのだ。

仏教を信仰する国は温厚な国が多い。
ミャンマーもそのひとつだが、タイやカンボジア、ブータン、ベトナム、それに我が国など、重大犯罪が起きることも少なくない。

ミャンマーのヤンゴンから車で2時間ほど走ると「水中寺院」と地球の歩き方にも紹介されているイェレーパゴダという寺院がある。
この寺院の回廊の壁には「地獄絵図」が掲げられていて、それはそれは世にも恐ろしい地獄の様子が紙芝居のように示されているのだ。

「大人は駄目ですけどね。子供は、恐れます。」

というのがガイドのTさんの話だった。

宗教教育というのは「死」と「生」を教える。
地獄絵図は「死」。
子供だましの絵であっても、そこはお釈迦様の知恵が働いているありがたい教育図。
子供の頃に、「悪いことをして死んだら怖いぞ~」と教えられる環境は凶悪犯罪を産みにくいのかも知れない。

それと比べて「信仰の自由」を笠に着て、伝統的な文化であった仏教教育を捨て去った日本。
「死刑になるために人を殺そう」
などと考える殺人鬼が出てくる恐ろしい事件が起きても不思議はないと思えて仕方がないのだ。

写真:イェレーパゴダで撮影(撮影者は私)



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大阪市此花区のパチンコ店の放火事件と、大阪市浪速区の個室ビデオ店の放火事件、そして秋葉原の無差別殺人の根底は同じかもしれない。

社会に対するうっ屈した不満をぶちまけるために、相手を選ばず殺戮していしまうやり方は、まるで殺虫剤で虫を殺す感覚に似ている。
犯人はもはや相手が人間なのか、それとも虫けらなのか。
その判別がつかないほど社会に対する怒りを蓄積していたのだろう。

犯人の男は山口県で警察に出頭。
明らかに裁判での極刑を回避するための計算された行動だ。
こういう輩に人権派などと呼ばれる弁護士(例えば山口県光市の母子殺人事件の犯人を汚した「ドラえもん弁護士」のような存在)がことがややこしくなる。

根本的にこういう犯人だろうが人権は弁護士だろうが、が出てくるその根本的原因は教育にあるのだと思う。
労働組合を組織しする教師や、それらの活動をどうすることもできず、ただただ事なかれ主義で通してきた教育委員会など役所の体質が「残虐な犯罪」という姿になって社会に襲いかかってきているわけだ。

江戸時代。
火付けは死罪と決まっていた。
その処刑方法も「火あぶり」という耳にするだけで残酷な方法だった。
尤も、江戸時代の「残酷さ」は多くの場合、そのイメージだけである場合が多く、物の本によると火あぶりの刑があまりに囚人が苦しむため予め縊死させ、それをさも生きているように見せかけて大衆にさらし、「死罪」による犯罪防止を試みていたのだという。

此花の事件にしろ浪速区の事件にしろ、事態は深刻だ。
火付けは死罪。
少なくともそうしなければ、次の同様な事件が起こるかも知れない。

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ちょっと前に「中国臓器市場」(新潮社)というノンフィクションを読んだ。
中国を舞台に繰り広げられる移植用臓器売買の現実を扱った「おぞましい世界」が描かれていて、
「おっそろし~~~」
と、戦慄したことを覚えている。

「死刑が近いので移植ができます」
というブローカー。
「手術しましょう」と入院したら手術の最中に臓器を窃盗され、患者本人の知らないうちに転売されてどこへやら。

そんな恐ろしい実態が描かれていたのだ。
そのことは姉妹ブログ「宇宙エンタメ前哨基地」で報告済みだ。

翻って自分の国に目を向けたら今国会での最大の論議が「子供の臓器移植法案」。
これまでは自分で判断できないという理由で子供の臓器移植は見送られてきた。
そのために、先述した中国で臓器移植を受けるようなあまり好ましくない例が多数出て来たし、悲劇は防ぎたいという理由から、
「親族が許可すれば脳死の子供から臓器を取り出し、移植に使っても構わない」
という具合に法律を変えてしまおうというのが、今回の趣旨だ。

しかし、これって怖くないか?

というのも、親族の許可だけで子供の臓器移植が可能ならば、
ステップ1.身寄のない子供を養子にする。
ステップ2.養子にした子供を事故に遭わせる。
ステップ3.ぐるになってる医師に「この子は脳死です」と言わせる。
ステップ4.悲しみに暮れる親の演技をして、「臓器を取ってください」という。
ステップ5.臓器を売って金を得る。

というような例が現われるのではないかと、思えてならない。

今の法律では穴だらけで、そんなケースが起こらないという保証はどこにもなく、生前の意思決定ができない未熟な子供の臓器がオカルト映画そのままの姿で売買されることもあり得るのだ。

そもそも、脳死が死なのか、判断することが難しい。
人間の機能はひとつの機能が損なわれると別の部位がその機能を補う、あるいは取って代わるということがある。
脳については「唯一の機能」ということで、別に補う臓器はないという考え方が一般的だが、いくつかの書物に目を通すと、例えば脊髄の一部が代行する、というような説もあるようだ。

実際のところ脳死と判定された人が「意思を無くしているのか、持っているのか」誰も経験したことがないから分からない。
でも、もし、意思をもっていたとしたら。
臓器移植ほど恐ろしいものはない、ということになる。
そんなレベルの科学にも関わらず、子供の臓器移植を認めるというのは、かなり議論が必要だ。

なお、外国では臓器移植の際、臓器を取り出す前に脳死者に麻酔を施すのだという。

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