御廟山古墳は、北区百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳。
墳丘は、全長約186m・後円部径約96m・高さ約18.3m・前方部幅約119m・高さ約17.8mの規模で、日本最大の大山古墳・仁徳天皇陵の全長約486mを含む百舌鳥古墳群では4番目の大きさの前方後円墳。
墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/09/472b5a918d43ad928204cebac60c6f65.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/15/0334ad9636ee2b7e7acc4bccf04aaf04.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/2e/3c99594fbcabec9c19f73cd9f2c277fd.jpg)
写真は上から、御廟山古墳の正面姿、南側のお濠光景及び北側のマンションに囲まれた光景。
葺石と埴輪があるが、埋葬の主体部の構造や副葬品などは分かっていない。
同古墳は、応神天皇を最初に埋葬した墓とか、仁徳天皇の御妃の墓とする伝承があり、宮内庁が明治時代に陵墓参考地(被葬者を確定できないものの、皇族の墓所の可能性が考えられる場合)に指定。
墳丘は宮内庁、周濠は地元自治会が管理しているが、裾周りが濠水によって崩落、その護岸整備工事に向けて、同庁が平成20年10月から事前調査に入ったのに合わせ、堺市が濠を調べていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/94/87b04d4e82fea9f4d0adcc39ac7e74d3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/1c/66a4ffadca142068ccc9ab77d7315c63.jpg)
写真は、平成20年10月の発掘調査現場の遠景と近景。
発掘調査結果、円筒埴輪や家形埴輪などコンテナで20箱分出土したと云う。
皇族を埋葬したと伝えられている古墳などは、宮内庁は「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守る」として、“陵墓参考地”に指定し、宮内庁が管理をしているが、それらの古墳は、従来研究者に公開されることはあっても、一般公開はされてこなかった。
しかし今回本古墳の墳丘15ヶ所を発掘調査した中で、1ヶ所が初めて公開された。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
今回の調査結果、古墳の全長が、従来より約14m長い、約200mになることが判明。出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中頃に遡ったことで、仁徳天皇陵よりやや早いと見られる。
出土品は、全て宮内庁保存・管轄化にあり、今までのところ一般公開されていない。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_7.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/5c/3a69a1b13a3ecfd894d5df6dea27c284.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/59/98abf46cc9be31c8dc119103a07c6f7d.jpg)
写真は、出土した円筒埴輪などの埴輪列及び葺石。
墳丘のテラス部から円筒形や朝顔形・蓋形・家型などの埴輪列が確認された。
前方後円墳のくびれ部分に、通常は両側とも造り出しがあるが、ここは南側だけ。
出土物の99.9%が埴輪で、そのうち円筒埴輪が9割、残りが形象埴輪。
形象埴輪が造り出し部に集中して見つかったことから、弔いの儀式を行ったのではないかと考えられている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_8.gif)
と言うように、今回の発掘は、宮内庁と自治体との初の合同調査や一般公開、そして報道陣の立ち入りなど異例ずくめであったと云う。
今後は、限定された区域だけでなく、陵墓全体を調査できるきっかけになればと、考古研究者は期待を寄せていると共に、宮内庁の職員とも意見交換ができるよう、宮内庁の公開姿勢が更に軟化することを期待したい。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_2.gif)
墳丘は、全長約186m・後円部径約96m・高さ約18.3m・前方部幅約119m・高さ約17.8mの規模で、日本最大の大山古墳・仁徳天皇陵の全長約486mを含む百舌鳥古墳群では4番目の大きさの前方後円墳。
墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがある。
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写真は上から、御廟山古墳の正面姿、南側のお濠光景及び北側のマンションに囲まれた光景。
葺石と埴輪があるが、埋葬の主体部の構造や副葬品などは分かっていない。
同古墳は、応神天皇を最初に埋葬した墓とか、仁徳天皇の御妃の墓とする伝承があり、宮内庁が明治時代に陵墓参考地(被葬者を確定できないものの、皇族の墓所の可能性が考えられる場合)に指定。
墳丘は宮内庁、周濠は地元自治会が管理しているが、裾周りが濠水によって崩落、その護岸整備工事に向けて、同庁が平成20年10月から事前調査に入ったのに合わせ、堺市が濠を調べていた。
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写真は、平成20年10月の発掘調査現場の遠景と近景。
発掘調査結果、円筒埴輪や家形埴輪などコンテナで20箱分出土したと云う。
皇族を埋葬したと伝えられている古墳などは、宮内庁は「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守る」として、“陵墓参考地”に指定し、宮内庁が管理をしているが、それらの古墳は、従来研究者に公開されることはあっても、一般公開はされてこなかった。
しかし今回本古墳の墳丘15ヶ所を発掘調査した中で、1ヶ所が初めて公開された。
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今回の調査結果、古墳の全長が、従来より約14m長い、約200mになることが判明。出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中頃に遡ったことで、仁徳天皇陵よりやや早いと見られる。
出土品は、全て宮内庁保存・管轄化にあり、今までのところ一般公開されていない。
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写真は、出土した円筒埴輪などの埴輪列及び葺石。
墳丘のテラス部から円筒形や朝顔形・蓋形・家型などの埴輪列が確認された。
前方後円墳のくびれ部分に、通常は両側とも造り出しがあるが、ここは南側だけ。
出土物の99.9%が埴輪で、そのうち円筒埴輪が9割、残りが形象埴輪。
形象埴輪が造り出し部に集中して見つかったことから、弔いの儀式を行ったのではないかと考えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_8.gif)
と言うように、今回の発掘は、宮内庁と自治体との初の合同調査や一般公開、そして報道陣の立ち入りなど異例ずくめであったと云う。
今後は、限定された区域だけでなく、陵墓全体を調査できるきっかけになればと、考古研究者は期待を寄せていると共に、宮内庁の職員とも意見交換ができるよう、宮内庁の公開姿勢が更に軟化することを期待したい。
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