近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”時代 “第二尚氏王統”の成立

2007年12月16日 | 歴史
琉球王国の歴史の中で、一度だけ大きな政権交代があった。
統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島の農夫出身の“金丸”が、ゆるやかなクーデターにより新王朝を開いた。







写真は上から、沖縄諸島の地図の通り、“伊是名島”は沖縄本島の北西に位置、伊是名島の上空写真及び伊是名島で農民生まれの“金丸・尚円王”の碑。

伊是名島・諸見村で長男として生まれた“金丸”は、青年期父を助けて農業を手伝っていたが、再三にわたり旱魃に見舞われたり、20歳の時には両親を亡くすなど必ずしも幸福な島生活ではなかった。

27歳で那覇・首里へ向かい、幸運にも“第一尚氏王統”の第6代目・“尚泰久王”に才能を認められ、家来となった。

尚泰久王により、高官に抜擢された金丸は、直ちに頭角を現し、1454年に当内閣の領主に任命され、更に1459年には王朝府の“貿易長官”に就任するなど、順調に出世していったが、何故か54歳の若さで隠遁生活に入った。

貿易長官の要職は、尚泰久王への取次職でもあり、王への上申は、金丸を経由する必要があるほど、尚泰久王の絶大な信頼を得ていたと云う。

1460年尚泰久王が薨去すると、世子尚徳が即位したが、“琉球史書”では尚徳王の悪政が綴られている。
結局“第一尚氏王統”の7代目・“尚徳王”は、悪政を重ね次第に王朝重臣の信頼を損ねていったと云う。

尚徳王に見切りをつけた、第一尚王朝重臣は、王朝会議で“金丸”を次期琉球王に推すことを決定したため、“金丸”は急遽、隠遁先の沖縄本島・中部地方の内間村から首里に迎えられ、即位したという予想外のハプニングが起こった。

新王朝に就いた“金丸”は、前例に従い、中国皇帝との関係にも配慮して“尚王家”を継承し、“尚円王”を名乗ったため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を“第一尚氏王統”、“尚円王”以降を“第二尚氏王統”と呼んでいる。




写真は、“尚円王”の肖像及び尚円王一族が眠る伊是名島の玉陵殿。

クーデターにより“第二尚氏王統”が始まったが、この後“尚円王”には歴史に残るような功績は無く、第二王朝構築を目指そうとするが、62歳で薨去した。


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